「どういうことなのっ……!? さっきのあれは何!?」
オトンヌ宮での晩餐会を終えた後、ミュゲはクロードを秘密裏に庭園へ呼びつけ、声高に詰問した。
「何、とは……?」
「嘘つき!! お前は言ったわ……、わたくしを愛していると。女王になりさえすれば、わたくしのそばにいてくれると。ねえ、あれは嘘だったの……っ!?」
ミュゲは愛しい男に触れようとした。どうにかしてもう一度彼から愛の言葉を引き出そうと試みた。
だが――。
「触らないでいただけませんか」
クロードは冷たい声でミュゲを拒んだ。
「私たちは所詮、お互いを利用しあっていただけの間柄だったはず。貴女は私を道具としか見ていなかったでしょう」
「そんなこと……!」
「いいえ、そうなのですよ。貴女はそれを恋情と錯覚したのです」
「違う」、と言いたかった。
なのに、声にならない。
クロードといるといつもこうだ。ミュゲの唇はまるで動かなくなってしまう。言葉を紡ぐのを放棄してしまう。
伝えたい言葉など山ほどあるのに、それでもなぜか伝えることができない。
嫌われるのを恐れるあまり、何も言えなくなってしまうのだ。
「どうして……、どうしてわたくしじゃだめなの? どうしてあんな子を選ぶの? だって、これまでずっとお前と一緒にいたのはわたくしの方なのに。どうして……!」
「たったそれだけの理由で貴女を選べとおっしゃるのですか」
「酷い……。たったそれだけ、って、じゅうぶん理由になるじゃない……! わたくしはお前のことならなんでも理解しようとしてきたわ。お前が何に苦しんできたか、何と戦ってきたかもよくわかっているつもりだし、お前の向上心や野心といったものだってじゅうぶん評価してきたつもりよ。なのに、どうしてわたくしを選んでくれないの!?」
クロードはそこで薄く笑った。
「貴女に私の何がわかるというのです」
「……!」
ミュゲは咎めるようなクロードの表情に慄き、そこで完全に言葉をなくした。
「貴女が見ていたのは、私ではなく私の肩書でしょう? 貴女が褒めるのはいつも表面的な事柄ばかりでしたね。宮廷における活躍ぶりや、執務のこなし方、陛下の補佐をする時の態度。こうしたものばかりを褒められて、私が本当に嬉しかったとでも?」
「だ、だってお前は嬉しそうにしてくれたじゃない。宮廷における功績以外に一体お前のどこを褒めろというのよ……、他にどこを見てどこを評価しろというの……!?」
すると、クロードは長嘆した。
「……ええ。だから私は貴女を選べないと申し上げているのですよ」
夜風がイブニングドレスから露出した肩口を容赦なく冷やしてゆく。
分厚い雲が完全に月を覆い隠してしまうと、辺りには怖いくらい重たい静寂が下りた。
「貴女は頑張っている私のことしか好きではないのでしょう? 貴女は私が自分にとって誇らしい人間だと勝手に盲信している。そして自分を都合よく甘やかしてくれる存在としてすがりついている。それを愛と解釈しているだけでは?」
「そんなこと……! 頑張っていようがいまいが、わたくしはお前が――!」
「いいえ、違います。私は貴女が思っているような人間ではない……、決して。私は貴女といるとひどく疲れてしまうのです。貴女は私をさも素晴らしい人間であるかのようにおっしゃる。ですが、私は貴女の期待にお応えできるような優れた男などではありません。貴女の清らかで一途な愛は、私にとっては眩すぎる……」
クロードはそこですっと顔を上げて言い募る。
「貴女は私のうわべだけしか見てくださいませんでしたね。私の弱さや醜く狡猾な面などは何一つとして見てくださらなかった。見ようともしなかった。そんな女性のことを、この私が愛せるとでも?」
「……あの子は違うの? あの子には、見せたの? お前のそういう、弱い部分を」
問い詰めると、クロードは押し黙った。
……この沈黙はすなわち肯定だ。
なぜだかそんな気がしてしまい、ミュゲはとうとう泣き叫んだ。
「いや……!! わたくしを選んで……、クロード……!! お前が好きなの……!! あの子よりお前を大事にできる自信があるし、わたくしなら他の男に目移りなんて絶対にしないわ!! だから……っ」
どうにかしてそれだけ告げる。
しかし、クロードはそれを強く拒絶した。
「それはできません。私の心にいたのはずっとあの方でした」
「嘘よ……ならなぜわたくしを好きだと言ったの!?」
「戯れや慰めといったものも時には必要でしょう? 真に得たいものを得るためには。貴女は宮廷で暮らした時間が長いのですから、ここまで申し上げればもうおわかりになってもよさそうなものですが……」
「……!」
それはつまり、宮廷での恋愛ごっこに利用されただけということか。
彼のいっときの寂寞を埋める道具としていいように扱われただけということなのか――。
(そう。バイオレッタが得られたから、わたくしはもう用済みということ……)
そう考えたらかっとなった。
右手を振り上げて彼の頬を強く張る。
クロードは一瞬だけ美しい顔をしかめたが、今のミュゲにはもうそんなことすらどうでもよくなっていた。
「裏切り者!! お前なんか大嫌いよ!!」
ミュゲはそう吐き捨てて、月光に照らされるオトンヌ宮の庭園を飛び出した。
***
クロードはかすかに痛む頬に手を添え、大きく息をついた。
頬にはまだちりちりとした微熱が残っている。
「ミュゲ様。私は貴女を愛せない。……どうしても」
つぶやき、クロードは庭園の大樹にもたれかかった。
ミュゲに寄りかかられるたび、クロードの心はその窮屈さに窒息しそうになった。
彼女の疑るような視線と態度は、いつもクロードを追い詰めた。
ミュゲの気持ちはいつも閉じている。そして心の外へ向けられることがほとんどない。
感情が向かうのは常に自分の領域に迎え入れたものたちだけに限られていて、そこにはどこか鬱屈した空気が停滞している。
彼女はそれを厭うクロードの様子にも気づかず、さらに愛をねだる。クロードをいい気分にしてやった見返りを求め、今度は自分の虚ろも埋めてくれと哀願するのだ。
ある意味それはまっとうな愛の形なのだろう。クロードが彼女に同情してやれば――そして親身になってやれば――満たされる類のものなのかもしれない。
だが、それはクロードが彼女に本音を打ち明けてもいいと思っていればの話だ。クロードが本心を明かしてもいいと思い、自分も彼女を愛そうと思えた場合に限られる。
しかし、そうでない場合、ミュゲの押しつけがましい愛情はただ煩わしいだけで何の意味も持たなくなる。
……クロードを戒めるだけの単なる拘束具になり果てる。
バイオレッタという少女を知ってからというもの、クロードはミュゲとのそうした関係に嫌気がさしてきていた。
綺麗に着飾ったうわべの部分だけを評価されているようでたまらなく嫌だと感じるようになったのだ。
バイオレッタがいつも本音で相手をしてくれるからというのももちろんあるのだろう。
少なくとも彼女はクロードの“闇”を知っている。
クロード自身、別に見せようとして見せたわけではない。だが、彼女はクロードのそうした“闇”の側面にわずかながらも触れているのだ。
そして、クロードもどういうわけか彼女の前では自らの本性を晒すことができた。
すなわち、依存したがりで甘えたがりな、ただの一人の男としての本性を。
綺麗に取り繕った顔ばかりを愛するのではなく、その奥に隠された素顔までも愛してくれる。
そんなことをしてくれる女性はバイオレッタただ一人だけだった。
彼女だけは最初からクロードに本音をぶつけてきた。
最初に彼女に罵られたとき、痛みを覚えながらもひどく嬉しかったことを覚えている。
まっすぐで正直な娘だと思った。
そして、ピヴォワンヌを守るために自分に意見するその姿に一種の羨望のようなものを感じた。
彼女はクロードにおもねらなかった。
日和見を決め込んだクロードを責めることはあっても、それに賛同したりはしなかった。
それどころか、クロードのよくない部分を正そうとさえした。
ちくちくとした嫌な痛みを胸に感じつつも、クロードはバイオレッタのそうした面を目の当たりにするたびに心のどこかで安らぎを覚えていた。
卑怯なところを先に知られてしまったせいか、欲深なところや弱ったところまでをも見せようという気になれたのだ。
その反面、ミュゲは最初からクロードのよいところしか見ようとはしなかった。
長所や肩書ばかりを重視し、クロードの内面には触れてはくれなかった。
人間というのはプラスの感情や長所、美点といったもので惹きつけ合う方がうまくいくと思われがちだが、クロードはそれは違うのではないかと思っている。
そうした輝かしい面だけで結び付いた二人は壊れるのも早いというのがクロードの持論だ。
容姿、働きぶり、態度。そうしたすぐに目に付く部分を褒めるのは簡単だ。
その素晴らしさを言葉で語り、「あなた以上の存在はいない」といった態度を前面に出して誉めそやせばいいのだから。
そうすれば大抵の人間はいい気持ちになるし、少しは相手に優しくしてやろうかという気にもなるものだ。
だが、人間の心の中にあるのは何もそうした優れた部分ばかりではない。
正の感情の傍らにひっそりと置かれている負の感情。これを見過ごしている者は案外多い。
それもそのはずだ。負の感情から目を背けたくなることは多々あっても、そこをわざわざ汲み取って慰撫してやろうなどという酔狂な輩はほとんどいないからである。
万一それができたとして、下心なしで相手をいたわるのは難しい。そこには必ず見返りを求める心があり、相手を下に見る驕慢さがある。
他人の長所がよく見えるのは当然だ。
だが、クロードは自分の欠点さえ愛してくれる女性の方が好きなのだ。
長所だけで結びつくのはたやすい。
しかし、互いに輝かしいと思っていた部分や素晴らしいと信じ込んでいた部分が少しでも崩れれば、二人の終焉はあっという間に訪れる。
それはひとえに互いの弱みや脆さを把握しようとしていないからだろう。
相手を理想化して、自分の都合のいいように見てしまっているからそうなるのだ。
つまり、取り澄ましたところや飾り物めいて美しい部分しか見たくないのだろう。
他のところを直視すれば幻滅するとわかっているから、あえてそうしたところだけを見たがるのだ。
そうした意味ではミュゲはあまりにもクロードを神聖視しすぎていた。
彼女はクロードのことをあたかもひどく立派な男性であるかのように扱う。
けれどもクロードは、彼女のそうした賛辞を受ければ受けるほど居心地が悪くなった。
誰も自分の本性になど気づきやしない。気づこうとも思っていない。
「仮面」の表面に描かれた顔が美しければみなそれで満足なのだ。その奥に隠された瞳の色まで確かめてみたいなどとは誰も思っていないのだと。
彼女との触れ合いでクロードが垣間見るもの。
それは己への憐憫と嫌悪だった。
ミュゲに抱きしめられるたび、その腕が忌まわしく感じられてしょうがなかった。
称賛と依存心を押し付けられ、もっとこちらを向けとばかりに何度もしつこく求められて、クロードはすでに辟易していたのだ。
クロードの心は今、バイオレッタに向けてひたすらに手を伸ばしている。
根雪を融かしてくれる熱源を求めて、ただまっすぐに彼女一人へと向かっている。
――もう、逃がさない。
どんなに厭われようがかまわない。絶対にあの姫を手に入れてみせる。
自らのおもてに濃い悲痛の色が広がっているのにも気づけぬまま、クロードは静かに踵を返した。
***
ミュゲはプラタナスに挟まれた広大な遊歩道をなりふりかまわず滅茶苦茶に走った。
はあはあと肩で息をすると、胸に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
胸を押さえると、ミュゲはその場にくずおれた。
いつもの発作だ。
一体どうしてこんな時に――。
やり場のない感情が一斉に胸を埋め尽くし、はらはらと涙があふれた。
「馬鹿ね……。どうして泣くのよ……」
ミュゲは芝生の上にへたり込んだまま、もののわからない子供のようにむせび泣いた。
真っ白な手の甲で懸命に目元をぬぐうが、涙は一向に止まらなかった。
……結局のところ、クロードは自分を利用したのだ。
それを自分は愛情だと思っていた……、ずっと。
たとえ今はよそ見をしていても、待ってさえいれば自分のところに戻ってくると思っていた。今までのようにまた自分に応えてくれるだろうと。
罪を共有することによって彼を繋ぎとめられると信じていた。
一度共犯者になってしまえば、またここに戻ってこざるを得なくなるだろうと思っていた。
だが、とんだ勘違いだった。
クロードはもうミュゲを見捨てたのだ。彼はミュゲではなくバイオレッタのことを選ぼうとしているのだ。
クロードはああして婚姻を願い出てしまうほどバイオレッタのことを愛しているのだ。
ああして思わず我を忘れてしまうくらい、彼はバイオレッタにのめり込んでいる。
少なくともミュゲにはそう見えた。
同時に、件の一件がバイオレッタの打った芝居や狂言などではなかったことを理解した。
(わたくしだって薄々は気づいていた……、あの人の気持ちがここにはないことくらい)
彼は自分を愛してなどいない。
彼はただミュゲの恋愛ごっこじみた振る舞いに合わせていただけだ。
子供の相手をするように。少女のわがままに付き合うように。
そんな理屈も知らずに彼に必死ですがりついてきたことをミュゲは今になって初めて後悔した。
「うう……っ!」
胸を押さえ、必死で呼吸を落ち着かせる。
だが、あまりのショックにうまく息をすることができない。
ミュゲは喘鳴と嗚咽を同時に漏らしながら静かに涙を流した。
(わたくしは、ただ誰かに自分のことを認めてほしかった。誰でもよかった。ただわたくしを必要だと言ってくれる誰かが欲しかったの……)
昔から母妃シュザンヌはオルタンシアばかりを溺愛していて、ミュゲには見向きもしなかった。
病気がちなミュゲを嫌厭し、じゅうぶんな治療すら受けさせてはくれなかった。
そのせいで病魔は完全に胸に巣食ってしまい、今でもこうして時折発作に襲われる。
ミュゲはそんな母を恨んでいたが、同時にその愛を欲してもいた。
どうすれば自分を見てくれるのかを常に考えてきた。
だが、シュザンヌの愛は常にオルタンシアのみに向けられるのだと知って悲しくなった。
しだいに、誰かに自分の存在を認めてほしいと切望するようになった。
こんな自分にも誰かを愛せるのだと、どうしても信じたかった。
不完全な愛で育まれた命でもたった一人の誰かを愛せるのだという証明がしたかったのだ。
(わたくしは、誰かにわたくし自身を見てほしかった。色んな人にちやほやされるんじゃなくて、たった一人に一途に愛してほしかっただけなの)
そんなときだ……、クロードに思いを寄せるようになったのは。
ミュゲが惹かれていたのはどちらかといえばクロードの容貌や貫禄といった部分ではなかった。
むしろ時折見せる寂しげな横顔や、憂いを湛えた表情のほうが気にかかっていた。
自分にも彼を守れるだろうか。ふと、そんなことを考えるようになった。
自分と同じ弱さを持つクロードを支え、守り、助けてやれるような、そんな存在になりたい。
クロードに必要とされ、頼りにされたい。
いつしか不遜にもそんなことを考えてしまっていた。
けれど……。
「わたくしは、重荷だったのね……。わたくしが手を貸せば貸すほど、クロードは逃げ場がなくなる。借りができてしまったから優しくしてくれていただけなのね。今にして思えば窮屈な思いをさせてしまっていたんだわ……」
ミュゲはつぶやき、どんどんせわしくなる胸の拍動をなだめながら立ち上がった。
ふらふらと薔薇後宮の中庭にたどり着き、清らかな飛沫を上げる噴水を見やると、そこには女神ヴァーテルが微笑んでいた。
優美な曲線を描くふくよかな肢体。
手にした水甕からは絶えず水流があふれている。
水の女神の名にふさわしい、美しい石像だった。
ミュゲは胸を押さえながら彼女の麗姿を見上げる。
……こんなわたくしを、女神様は御赦しになるだろうか。
いいや、きっとわたくしは楽園へは入れない。
わたくしのすぐ前でその扉は閉ざされてしまうだろうから。
そう考えたら暗い気持ちになった。
「……そう、ね。わたくしはもう、女神様に迎えられるような人間ではなくなった。お姉様をあんな風にして、大好きなクロードのことも罵ってしまって……。もう、どうしていいか……、わからない……!」
ミュゲがしゃがみ込んで顔を手で覆った刹那……。
「……ミュゲ様?」
背後から静かな声がかけられて、ミュゲはゆっくりと振り返った。
そこにいたのは――
「あなた……」
白銀の髪を風に嬲らせながら、青年は虚を突かれたような顔をしていた。
クララ姫付きの従者であるアベルだ。
だが、一体なぜこんなところに……。
「……ああ、すみません。覗き見するつもりじゃなかったんですけど」
ミュゲは急いで涙をぬぐった。
(……この男にこんなところを見られるなんて)
だが、今夜は不思議とその視線が嫌ではなかった。
いつもは楽しげに細められている悪戯っぽい瞳は、今日はひどく澄んでいる。……まるですべてを包み込んで赦すかのように。
彼の瞳を見上げながら、ミュゲは静かにしゃくり上げた。
(ああ……、まるで水面だわ)
アベルの瞳を見つめていると、どういうわけか涙が止まらなくなる。
穏やかに揺れる水面のような、アイスブルーの瞳。
清らかな水の色を映した虹彩と、案じるように細められる目元……。
(なんて綺麗で静謐な瞳……)
……いけない、このままでは彼の前でみっともない姿を晒してしまう。
そう思ったミュゲは必死で嗚咽を堪えた。
純白のコートの裾を払い、アベルは彼女の傍らに静かにしゃがみ込んだ。
「……一体どうなさったんですか? いくら後宮の庭園とはいえ、御婦人がこんなところに一人でいちゃいけませんよ」
「……」
何か答えたかったが、喉のあたりで言葉がつかえてしまって一言も発せない。
「夜風も気持ちいいですけど、そろそろお部屋に戻らないとダメですよ。変な風邪を引いてもつまらないですし」
強く批判することもせずに、アベルはそう言ってからりと笑った。
次の瞬間、ミュゲはそのコートの袖を掴んでいた。
「……お願い! もう少しここに……、わたくしのそばにいて……!」
「えっ……」
視線を合わせたくなくて、ミュゲはさっとそっぽを向く。
(わたくしったら、なんて浅ましい……。これじゃお母様とちっとも変わらないのに……)
クロードの次はアベルに安らぎを求めようというのだろうか。だとしたら母であるシュザンヌとほとんどやっていることは同じだ。
自分はなんて浅はかな女なのだろう。
散々小ばかにして突っぱねてきた青年にすがりつき、いっときの慰めとして利用しようとしている。こんな時ばかり都合よく甘い言葉をかけてもらおうとしている……。
だが、アベルはミュゲの手を振り払わなかった。
頼りなく震えるミュゲの手を、黒絹の手袋をした掌にそっと包む。
「僕でいいなら、いつでもここに……、貴女の隣にいますよ」
「ありがとう……、ごめんなさい」
いたたまれなさにうつむくミュゲに、アベルは「いいんですよ」と笑い飛ばした。
「大丈夫ですか? 立てます?」
「ええ……」
アベルに支えられながら、噴水の縁に腰を下ろす。
彼は案じるようにミュゲの顔を覗き込んできた。
「お怪我はしてませんね?」
「大丈夫……」
いつも飄々としている男だと思っていたが、ミュゲを気遣っているのか声音は優しくて落ち着いている。
心の底からほっとしてしまって、ついいつまでもアベルの声を聴いていたくなった。