第十八章 遊戯の果てに

 
 クロードはスプリングの効いたベッドの上にバイオレッタを放り投げた。
 寝台がぎしりと撓み、バイオレッタのほっそりとした肢体がシーツの海の上で勢いよく弾む。
 その上にクロードが覆いかぶさってきた。
 ……明るかった視界にたちまち影が差す。
 同時に、身体の奥からぞわぞわと恐怖がせり上がってきた。
 ――抵抗しなければ、ここでこのまま彼のものにされる。
 愛する男に捧げるべき純潔の花が、手折られてしまう。
 バイオレッタはクロードの胸板を必死で押しやった。
「やめてっ……!! 放して、退いて……!!」
 クロードはくつくつと嗤い、自らの後頭部に手をやった。
 黒髪を束ねていたリボンを緩め、そのまま勢いよくしゅるりとほどく。
 硬質な長い髪はたちまち彼の肩を滑り落ち、漆黒の帳のようにバイオレッタの上に降り注いだ。
 彼はふるりと首を振り、長い黒髪を優雅に払った。
 そしてバイオレッタを悠々と組み敷きながら黄金の瞳を獰猛にきらめかせる。
 まるでしなやかな一匹の獣を見ているようで、バイオレッタはどうしていいかわからなくなってしまう。
 密着させられた身体が、燃えるように熱かった。
 ただ近づくだけで、彼の素肌が熱を放っているのがわかる。
 経験のないバイオレッタにもその理由はすぐにわかってしまった。……それが男の本能からくるものだと。
 柔らかな風貌とは裏腹に、クロードの身体はたくましかった。
 なめした革のように引き締まった力強い体躯をしている。
 腕や胸を押しのけようとしても全く歯が立たないことに、バイオレッタは戦慄する。
 どこにも逃げ場がないことに怯え、バイオレッタはデコルテに沈んだクロードの頭を必死で引きはがそうとした。
「……お願いです、クロード様。もう、もうやめてください……!」
「おやおや……愛し合う恋人たちが寝台の上でやることといえば一つしかないでしょう?」
「そんな……っ、いや!! 放して!! 退いてください!!」
 自らの発言をまたしても都合よく解釈されたことに、バイオレッタは奥歯を噛みしめた。
 どうしてこの男はそういう方向にしかものを考えられないのだろう。どうして自分を困らせることしか頭にないのだろう。
 バイオレッタの胸の奥でそんな苛立ちが燻り始める。
 なおものしかかってくるクロードをあらん限りの力ではねつけながら、バイオレッタはその蠱惑的な双眸を忌々しく睨みつけた。
「わたくしは、あなたの相手などできません!! 早くお退きになって!!」
「いいえ、退きません。私のバイオレッタ。そろそろ貴女のすべてを私にくださいませんか。貴女は私の妻になるとお約束してくださいました。ならば、今ここでその身を差し出してくださってもかまわないでしょう。本当に私を愛しているというのなら……」
「嫌です……、だって、そればかりが愛ではないもの!! それに、わたくしはあなたを愛してなんか――」
 しかし、クロードはいっそ傲慢とも呼べる態度で言い放つ。
「今更恥ずかしがらずともよろしいのでは? 大丈夫……、貴女のお気持ちはすべて理解しています。貴女の言葉がすべて単なる恥じらいからきているものだということも」
「何を……!」
「このままここで貴女を私の妻にしてしまいましょうか。一度傷物になった身体で他の男に嫁ぐのは難しいはずだ。花嫁の純潔や処女性というのは婚姻において何よりも尊ばれるもの。一度私のものになってしまえば、貴女はもうどこにも行けなくなる……」
「そん、な……! お願い、それだけは……!!」
 バイオレッタはクロードを見上げて必死で懇願した。
 
 クロードの言っていることはすべて真実だった。婚姻においては穢れのない乙女が何よりも喜ばれる。婚前に他の男と契りを交わしていないというのは花嫁にとって最大の切り札であり誇りだ。
 そして花婿にとっても娶る女性が無垢な身体であるというのは重要な条件だった。
 どの国においても花嫁の処女性というものは重んじられており、結婚前に貞淑でなかったのならば結婚してからもふしだらになる恐れがあると強く信じられている。
 王族同士の婚姻ともなればなおさらだ。
 万一そんなことをされてしまったら、バイオレッタはもうクロードのものになるしかなくなってしまう。
 一国の女王になるどころか、政略結婚の道具としての価値も失ってしまうのだ。
 否、もしかするとまともな結婚をすることすら難しくなってしまうかもしれない。
 
 がたがた震えるバイオレッタの耳元で、クロードは余裕たっぷりにささやいた。
「大丈夫……、貴女のお気に召すように、ゆっくりと愛して差し上げる。ですからもう淑女のふりなどなさらなくてよろしいのですよ、姫。今この時だけは、私に何もかもを差し出してください」
「や……、それは、だめ……! やめて……!」
 ぎゅっと瞳をつぶると、またしてもくすくすと笑われる。
「流されやすい貴女のことです、案外心など後からついてくるかもしれませんしね……?」
「……!」
 かっと頭に血が上る。……羞恥ではなく、怒りでだ。
「わたくしを弄ぶのはやめて!!」
 力いっぱい叫び、バイオレッタはとうとう彼を押しやった。
 ぐらりと傾いだクロードの下から這い出ると、中途半端に釦の外されたシュミーズドレスの前をきっちりと掻き合わせる。
「……馬鹿なことを言うのはやめてください。あなたと結ばれる気なんかありません」
 できるだけきっぱりと言ってやる。
 が、何がおかしいのかクロードは背を震わせて高らかな笑い声を上げた。
「……そうです。それくらい本気で拒絶してくださらなければつまりません。貴女はそうして怯えながら抵抗なさっている方がお可愛らしい。それでこそ私の嗜虐心も満たされるというものだ……」
「なっ……!」
「ふふ……。この国の男たちはこぞっておとなしい女性を愛好するようですが、それの一体何が楽しいのでしょうね? 私は貴女のような女性の方が遥かに好きだ……。ただおとなしく罠にかけられているだけの獲物などいたぶりようがありませんから……」
 底冷えのする笑みに、バイオレッタはぞっとした。
 一瞬の隙を衝いて手首を掴まれる。そのまま彼の方へ引き寄せられそうになって、バイオレッタはもがいた。
「やめてっ……、放して!! 退いて……!!」
「罠にかけられた貴女はもう私に捕食されるしかないのですよ。ああ、可哀想に、こんなに怯えて……。まるで獅子に食らいつかれる兎の目だ」
 口ではそう言いながらも、クロードはさも愉快そうにくすくす笑い声を立てている。
 バイオレッタは泣きたくなった。
(……違う、わたくしはこの方を喜ばせたくて抵抗しているんじゃない……! 本当に嫌なの……!)
 
 これではアルバ座にたむろしていた下卑た青年貴族たちと何ら変わりないではないか。
 いや、実際に事に及ぼうとしている時点で彼らよりも質が悪いといえるだろう。
 これまで着実に距離を縮めてきた経緯があるだけに、バイオレッタの絶望は深かった。
 クロードだけはこんなことはしないと思っていた。
 優しく城へ導いてくれた時のこと、バイオレッタの手を取って初めてのダンスに誘ってくれた夜のことなど、今でもはっきりとすべてを思い出すことができる。
 だが、それも所詮偽りの顔でしかなかったのだ。
 彼はこれまで、バイオレッタを手に入れるための手はずを着々と整えてきた。あの甘く優しい言動の数々も、目的を果たすためのただの演技でしかなかったのだろう。
 それを思うと、憤りでめまいがしそうだった。
 
 ぐっと唇を噛みしめたバイオレッタは、とうとうぴしゃりと彼に言い放った。
「……いい加減にしてください」
 ふるふると震えながらも必死で言葉を紡ぐ。
「わたくしを侮辱するのはあなたの勝手です。ですが、それ以上わたくしに触れることは許しません」
 それまでとは異なる毅然とした物言いに、クロードは興味を引かれたように片眉を持ち上げてみせた。
「ほう……」
 二人の視線が交錯し、見えない火花を静かに散らす。
 優しげなおもてを激しい怒りで歪めるバイオレッタに、クロードは皮肉げな冷笑で応じた。
「ですが、こうまでされて貴女は抗えるのですか? いっそ私にすべてをゆだねてしまった方が楽になれるのでは……?」
「っ……、そんなこと、あるわけが……!!」
 怯えた瞳で、それでもバイオレッタは懸命に彼を突き放す。
 二人はそのまま寝台の上で必死の攻防を繰り返した。
 顔を背けるバイオレッタの唇を、クロードが追いかける。
 自分の方を向かせようと躍起になるクロードの手を、バイオレッタは無理やりほどいた。
 そのまま身体を反転させて寝台を降りようとする。
 その時、クロードの片脚が荒っぽく彼女のそれに絡んだ。そのまま足払いをかけられる。
「あっ……!」
 絡んだ脚に阻まれて、バイオレッタはバランスを崩す。
 大きくよろめいた彼女の身体を、クロードは力ずくで敷布の上に引き戻した。
「やっ、待っ……!」
「ああ、姫……!」
 いつになく呼吸の荒いクロードの様子に、バイオレッタは戦慄した。
「やぁっ……!!」
 心臓がどくどくと音を立てる。同時に強い嫌悪と緊張から身体じゅうがきつく強張ったようになった。耳の奥、自分の血潮が巡る嫌な音がする。
 肌のいたるところにキスを仕掛けようとするクロードの顔を、バイオレッタは遮二無二引きはがした。
 刹那、その表情の鋭さにぎょっとする。
 ……なんて恐ろしい顔つきをしているのだろう。
 きらめく二粒の黄金は、まっすぐにバイオレッタに注がれている。
 その視線を受け止めた瞬間、身体がますます動かなくなった。
(だめ、怖い……!)
 安易に抵抗などすべきではなかったと、バイオレッタは唇を噛みしめる。
 バイオレッタが反抗すればするだけクロードは躍起になるのだと、今更ながらに思い知らされる。
 そこに重い身体がのしかかってきた。
 必死で寝台をずり上がろうとするバイオレッタを、クロードは長い腕で強引に抱きすくめた。
「あっ……」
 深く唇を重ねられ、嫌悪感から眉根を寄せる。
 勝手知ったる様子で口腔を深々とまさぐられ、バイオレッタは思わずその舌先に歯を立てて抗った。
っ……!」
 痛みに顔をしかめ、クロードはすぐさまバイオレッタの唇を解放した。
 指先で自らの舌を確かめると、彼らしくもなくちっと軽い舌打ちをしてみせる。
「……は、随分荒っぽいことをする姫だ」
「……あなたがこんなことをなさるからでしょう」
 震える声で反論するバイオレッタを、クロードは楽しそうに見つめる。
「これはじっくりしつけて差し上げなくてはいけませんね。キスのたびにこうして傷つけられていたのではたまらない」
「勘違いなさらないで……! わたくしはあなたのものになった覚えなんかありません!」
「好きなだけ罵っていればいい……。すぐに後悔させて差し上げますよ」
 ゆっくりと半身を起こしたクロードは、バイオレッタに傷つけられた舌をのぞかせて妖艶に笑った。
 次いで、これ見よがしに舌なめずりをする。
 クロードの赤い舌が、上唇をじっとりと這う。
 厚みのある唇を扇情的に舐める舌の動きに、気が遠くなりそうだった。
「ふふ……、私はもともと、気の強い貴女も好きでしたよ。貴女はこれまで私のされるがままになっていらして、あまりにもつまらなかった。唇を重ねても、抱きしめても。貴女は私に流されているだけ、いいようにされているだけで、あまりに手ごたえがないと感じていたのです」
 半ば陶酔したような目で、クロードは続けた。
「……ですが、今日からはそんな手加減も必要なさそうだ。どうぞ存分に抵抗なさってください、姫。力で私に敵うと思っていらっしゃるなら……」
「……!」
 バイオレッタはこちらを見下ろすクロードの瞳を静かに見つめ返した。
「クロード様はそうして生きてきたのですね……。あなたにとって、愛とは身体を繋げることそのものなのですね……」
 バイオレッタとて、色事の真理をすべて理解しているわけではない。
 だが、これだけは言っておかねばならないと、彼女は懸命に言葉を紡ぎ出した。
「お互いの身体に触れたり、頭を撫でたり、時に抱きしめ合ったり……。そして、同じ時間を共有して、感情を分かち合って……。わたくしは、そういう何気ない接し方のほうが大事だと思って生きてきました。だけど……!」
 バイオレッタは涙をこらえながら声を張り上げた。
「あなたのそれは、愛じゃないわ……! ただの所有欲です! あなたはわたくしを愛しているんじゃない、ただ物として欲しがっているだけよ!」
 息を乱しながらも、きっぱりと言い放つ。
 そこでクロードは、それまでとは明らかに違った態度を見せた。
「……ずっと貴女をお支えしてきた私の愛が愛ではないというなら。ならば、真実の愛とはどういったものなのでしょうね? 私は貴女のお力になれるならと、どんなことでもしてきました。宴の席で貴女に言い寄る男どもを牽制し、怯えている貴女を救い出すことさえした。泣いていらっしゃれば抱きしめて差し上げることもあったはず。それが愛ではないというなら……」
 噛みしめるように幾度もつぶやき、クロードはそこで厚みのある唇をニヒルに歪めた。
「それなら、貴女のおっしゃる愛とはなんなのです、姫。貴女は先ほど『普通の恋人同士』という言葉を用いられた。ですが、貴女が私に強要しているのはどうやらそんなものではないようですね」
「なにを……」
「きっと貴女は私に対して欲望を抱いたことがないのですよ、姫。だからそのように平然としていられるのでしょう。恋人同士であれば素肌を求めあうのは当然のことです。互いに欲望があるからですよ。そうしなければ片時もじっとしてなどいられない。それが恋というものだ」
 薄く開いた唇に、クロードの指が下りてくる。
 彼はバイオレッタの冷たい唇を指でなぞり、自身の熱をそこに移すようにゆるゆると動かした。
「なのに貴女はそんなことは許さないとおっしゃる……。では、貴女のお考えになる愛とはなんなのでしょう。ぜひご教授いただきたいものですね、姫」
「そん、な……!!」
 顔を背けるバイオレッタの頬を、クロードは長い指先で丁寧にたどった。
「ふふ……、貴女がピヴォワンヌ姫となさっているように、芝生の上でじゃれ合ったり、戯れにキスを交わしたり……。そういった役割を私に求めておいでなら、それは不可能というものだ。私はあの方とは違います。もちろん貴女とも。……私は男なのですよ、姫」
 その言葉には言い諭すような響きがあった。
 バイオレッタは軽く目を見開く。
 クロードの言葉に、全身から力が抜けていくのがわかった。
 本当は気づいていた。
 クロードがこの心だけではなく身体も欲しがっているということに。
 彼の過剰な愛情表現や口づけからは、どうしたらバイオレッタを手に入れられるかを必死で考えているのがよく伝わってきた。
 だから、「何も知らなかった」などとは口が裂けても言えないのだ。
「わかっていましたわ……、いつからかあなたの気持ちがわたくしのそれを遥かに上回り始めたこと……。わたくしがあなたを求める以上にあなたはわたくしを欲しがっていて、わたくしにはそれが恐ろしかった……」
『憧れの君』でしかなかった男に思いがけず強い思慕の念を向けられ、バイオレッタは戸惑っていたのだ。
 バイオレッタはただクロードを見つめているだけで満足で、それ以上のことはほとんど考えたことがなかった。
 だから求婚されたとき、とっさに返事ができなかったのだ。なぜならバイオレッタは、クロードとともに同じ時間を過ごせるだけでじゅうぶん満ち足りていたのだから。
 それは乙女らしい葛藤だったのかもしれない。クロードの言う通り妄想でしかなかったのかもしれない。
 だが、彼を愛していたのもまた事実だった。
 クロードがこうして強引にバイオレッタの身体を開こうとさえしなければ、彼女は近い未来、ごく自然な流れで彼にその身を差し出していただろう。
 クロードが焦れてこんな凶行に及んだりしなければ、二人はもっと優しく温かな交わりによって結ばれていたはずだ。
 少なくともバイオレッタがいつも夢想していたのはそうした未来だった。
 しかし、バイオレッタのそんな夢は無惨にも打ち砕かれてしまった。
 あとはもう、クロードを憎むか忘れるかのどちらかしか道は残されていないように思える。
(だけど、この方を憎むのは嫌。そんなことをするくらいなら……)
 もし本当にそうしなくてはいけないというなら、自分が痛みを負う方がましだ、とバイオレッタは思った。
 
 すっかり色をなくしたバイオレッタの唇から細い息が漏れる。
 彼女は脱力した身体を奮い立たせ、そろそろと起き上がった。
 
 もう、忘れてしまおう。
 クロードとのことをすべてなかったことにすればいい。
 どうしたってバイオレッタに彼を傷つけるような真似はできない。
 彼を憎むことも蔑むこともしたくはない。
 だったら、白紙に戻すしかないのだ。
 これまでの日々を忘却し、憎悪の感情を丸ごと捨て去ってしまえばいい。
 最初は傷口が疼くだろうが、それもすぐに終わる。
 クロードを責めるくらいなら、初めから何もかもなかったことにする道を選ぶ。
 
 未だこちらをうかがっているクロードの瞳をしっかりと見つめ返し、バイオレッタは意を決して口を開いた。
「わたくしがあなたを駆り立ててしまったのだとしたら、謝ります……。ごめんなさい、クロード様」
 眉を曇らせ、唇をわななかせながら、か細い声で懸命に訴える。
「だからもう、わたくしを城に帰して……。あなたとのことは、忘れます。ここに連れてこられた話も誰にも言いませんわ。あなたの悪いようになんて絶対にしませんから……。だから……っ」
 バイオレッタは両手で顔を覆った。
 痛いほどの沈黙に押しつぶされながら、クロードが口を開くのをただじっと待ち続ける。
 しかし、ようやく降ってきたのは思いがけない一言だった。
「――こんな時に謝ってはいけませんよ、姫。あなたは私のプライドに傷をつけたいのですか」
 怒りの炎を立ち上らせながら、クロードはバイオレッタを押し倒し、その細い手首を敷布の上に押さえつけた。
 あまりのことに息も発せずにいると、素早く唇が奪われる。
「んっ……!?」
(嫌……っ! 熱い……、苦しい……!)
「は……、忘れる? 私を? 冗談もほどほどになさってくださいませんか。そんなことは許さない。たとえ貴女でも許せるわけがない」
 低く唸り、クロードはもがくバイオレッタを組み敷いて執拗なキスを続けた。
 それはじゃれつくような軽いキスなどではなかった。どこか悲痛さが滲む、貪るような深いキスだ。
 熱く湿った舌先に唇をこじ開けられた刹那、バイオレッタの身体が痺れたように跳ねあがった。
 口腔で交わされる濃密な触れ合いに、頭のどこかがざわざわと音を立てて揺れる。
(なに……? この熱も、この吐息も……わたくしは、知っている……。この感覚は、前に、どこかで……)
 薄く瞳を開いたバイオレッタは、必死で自らの口内を味わうクロードの顔立ちに、妙な懐かしさを覚えた。
(違う……、クロード様じゃない……。あなたは……、あなたの名前は――)
 そこまで思考を巡らせた刹那、口づけがより激しいものとなった。
「んんっ……!」
 
 ……懐かしいだなんて、一体どうして思ったのだろう。
 だが、バイオレッタはクロードとの邂逅以来、ずっとこの奇妙な感覚に苛まれ続けていた。
 この唇にキスをしたのはクロードが初めてなのに、そっと唇を押し付けられるたび、バイオレッタの胸はせわしく震えてさんざめいた。
 身体の奥底に眠る何かが、クロードに向かって必死で激情を訴えかけている。そんな錯覚に陥った。
 そればかりではない。
 どこかほっとするぬくもり、匂い、声の調子まで。
 クロードに触れられると、バイオレッタの身体はまるで意思をなくしてしまう。
 どこに触れればよいのか、どう抱きしめれば喜ぶのか。
 彼はあたかもすべてを把握しているかのようだった。
 クロードは最初から、バイオレッタのことを何もかも知り尽くしていた。……いっそ恐ろしくなるほどに。
 
 そこで口内に忍び込んだ舌がゆるりと蠢いてバイオレッタの頭から余裕を奪い取った。
「ふ……!」
 小さな悲鳴を漏らすバイオレッタの頭を押さえ込み、クロードはなおもキスを続けた。
 舌を絡ませられるたびに、バイオレッタの思考そのものがぐらぐらと揺れ始める。
 ……身体のどこかが、強く記憶している「何か」がある。
 霞んでゆく意識の中、バイオレッタの肌はその「何か」を手繰り寄せようと大きくわなないた。
 頬に落ちかかる髪の感触。口内に挿しこまれる舌の熱さ。
 肌の匂いや、その低く艶めいた声までも。
 五感のすべてがはっきりと記憶している。
 なのに、思い出すことができない。
 胸に刺されたような痛みが走る。
 ……何かの断片が、心の柔らかい箇所に引っかかっている。
 引き抜いて中を覗き込みたいのに、今のバイオレッタには触れることもできない。その正体を知ることすら許されない。……そんな断片が。
 胸に重く冷たい悲しみが迫り上げる。
 バイオレッタの眦から、静かに涙があふれ出した。
 
 やがてクロードの唇が光るしずくを引いて離れていく。
 彼は瞳を三日月の形に細めてうっそりと笑った。 
「……抵抗はもうおしまいですか?」
「や、違……っ、ふ……!」
  再び深く唇が塞がれる。
 バイオレッタははらはらと涙をこぼしながらもそれを受け入れた。
 寝台の上でクロードの手のひらがゆるりと動き、もがくバイオレッタの手を強引に褥に縫い付ける。
 なんとか突き放そうとすると、指先を深く絡ませられて動きを封じられる。
 やすやすと捕らわれたバイオレッタの繊手は、男のたなごころに圧をかけられてびくんと震えた。
 口づけが激しさを増すと同時に、クロードの手の甲にバイオレッタの薄紅色の爪がきつく食い込む。
(こんな……、嫌……。だって、あなたはわたくしを愛してなんかいない……。わたくしのことなんか……あなたは……!)
 こんなところに閉じ込めて、無理やり手籠めにしようとして。
 それはどう考えても愛ではない。
 まさかこんなキス一つでごまかされるとでも思っているのだろうか。
 そんな子供だましのような手管を使われて平然としていられるくらいなら、最初からこんなに苦しんでなどいない。バイオレッタとてそこまで子供ではないのだ。
 
 思えばクロードはいつだってそうだった。
 色事に疎いバイオレッタを巧みに誘い、うまく丸め込んで自分のものにしようとした。
 そしてそうした誘惑に、これまでバイオレッタは何一つ逆らうことができなかった。
 クロードの言葉通りだ。いつも彼に流されているだけ、いいようにされているだけで、バイオレッタは彼の仕掛けてくるキスや抱擁を全く拒むことができなかった。
 それくらいクロードのそばにいるのは居心地がよかったのだ。
 ……だが、だからこそこんなことになってしまったのかもしれない。最後までクロードの本質を見抜くことができなかったから。
 
 それを自覚した時、バイオレッタの身体からくったりと力が抜けた。
 後悔とやりきれなさで胸が張り裂けそうだ。
(わたくしはいつもそう……。あなたに誘惑されるまま堕落していくしかない……。あなたの愛に呑まれて、そのままどこか遠くへ連れ去られるしかない……)
 こんな自分にはこの檻から救い出される資格など最初からなかったのかもしれないとバイオレッタは考えた。
 
 ようやく唇が離れていったとき、バイオレッタにはもう抵抗するだけの気力は残っていなかった。
 散々味わわれてじんと熱を持った唇。髪を伝って首筋まで流れ落ちた涙のしずく。滑稽なほど乱れた呼吸。
 それでもバイオレッタは両手が解放されたのをいいことにクロードの身体をぐいと突き放した。
「人は誰しも、誰か一人だけのものになることはできません……! 誰かの心を永遠にそこに留めておくことなんてできないの……! そんなことくらい、あなたにならわかっていると思っていたのに……!」
 クロードはこれまで幾度も貴婦人たちの相手を務めてきている。だから、そんな色恋のからくりくらい、彼にならわかると思っていた。
 彼はこれまで数多の貴婦人に別れを告げてきたはず。そして言い寄ってくる信奉者たちのこともすげなくあしらってきたはずだ。
 そんな風に他人に想いを寄せられることの多かったクロードが、まさかそんな理屈を知らないはずがない。
 彼は「誰か一人だけのもの」にならなかったから今こうしているのではないのだろうか。
 今バイオレッタが彼を拒もうとしている理由だって、彼にはちゃんとわかっているはずなのだ。
 なのにクロードは強引に身を滑り込ませてくる。こんな風に無理やり自分の下に組み敷いて、バイオレッタを意のままにしようとする。
 バイオレッタはそこでとうとう泣き声を上げた。
「あなたなんか、大嫌い……っ!! わたくしのことなんか、何も考えてくれなくて、自分勝手で……!! 大嫌い……!!」
 頭上のクロードがそこでやおら動きを止めた。
 瞬く間に気の緩んだバイオレッタの瞳から、とめどなく涙が溢れ出る。
 子供のように泣きじゃくるバイオレッタの頭に、クロードの大きな手が添えられる。彼はそのまま遠慮がちに白銀の髪を撫でていたが、やがて身をかがめてバイオレッタの涙を唇で受け止めた。
「や……っ!」
「……恋人同士なら涙を吸いとるくらいはするでしょう?」
 揶揄するようなささやきに、バイオレッタの中で何かがぷつりと切れた。
 右腕を振り上げて、クロードの左頬を大きく張る。
「っ……!」
「馬鹿にしないでっ……!!」
 にらみつけると、真夏の月のような瞳が楽しげに嗤う。
「どうやらご機嫌を損ねてしまったようだ」
「……当たり前でしょう。あなたは一体どこまでわたくしを貶せば気が済むのですか。もうあなたの顔なんか見たくありませんわ」
 クロードはそこでやっとバイオレッタから身を放した。
 おどけたように肩をすくめる。
「……では、しばらく一人にして差し上げましょう。その代わり、夜になったらまた私の相手をしてくださいね?」
「……閨のお相手でしたらいたしませんから」
「おや、つれない方だ……。貴女が御望みならいくらでも房事の味を教えて差し上げますのに……」
 おかしそうに笑って、クロードは温室を出てゆく。
 バイオレッタは彼の熱が消えた寝台の上でじっと身体を強張らせていた。
 
 
 一人取り残されたバイオレッタは、クリスタル製の寝台に横たわったまま枕に強く顔を押し付けた。
「っ……、っく……、ふ、うう……!!」
 硝子張りの温室に一人取り残された彼女は、燦燦と日差しの降り注ぐ中でさめざめと泣いた。
 天上を見上げれば硝子を透かして秋の空が見える。周囲の植え込みから届く薔薇の甘く豊かな香りも、絶えずふわふわと鼻腔をくすぐってくる。
 なのに、あふれ出す涙は一向に止まる気配がなかった。
 こんな豪奢な温室をあてがわれて、贅沢な代物をいくつも与えられて。
 それでも心にはぽっかりと空洞が空いている。しんしんと冷えて凍えている。
「どうして……! どうしてわかってくださらないの……!?」
 細い声でそれだけつぶやき、バイオレッタはまた泣くことに没頭した。
 嗚咽を繰り返した胸が苦しく、涙を流すと身体ごと小刻みに震えてしまう。
 バイオレッタは寝台の上でうずくまりながら冷え切った腕を何度もさすった。
「さむ、い……」
 そこで彼女はぼんやりと悟った。
 本当に傷ついた時には心ばかりでなく身体までもが熱を失ってしまうのだと。
 だが、今はそれでもいいとさえ思う。
 ――このままこの心が拍動を止めてしまえばいいのに。
 もうクロードへの恋心など跡形もなく忘れ去ってしまえればいいのに。
 そう念じながら、彼女はよろよろと身を起こした。
 いくつも置かれた衝立を抜け、最初に案内されたテーブルまで戻る。
 そこにはクロードが淹れてくれた紅茶が手付かずのまま残っていた。
 バイオレッタは何の気なしにそれをひとくち口に含んだ。
 すっかり冷めてはいるものの、味と香りにささくれだった神経がいくらか解きほぐされてゆく。
「おいしい……」
 
 するとその時、視界が大きく揺れるのがわかった。
「あ……っ」
 面白いように身体がぐらつく。タイルを踏みしめた両足がもつれ、身体中から面白いように力が抜けてゆく。
 薬だ、と気づいたときにはすでに遅く、バイオレッタの意識は深い泥濘ぬかるみの中へと引きずり込まれていた。
 彼女は必死で宙に手を伸ばす。
 だが、持ち上げた腕はやがて緩やかに下降し、力を失ってタイルの上に投げ出された。
(誰か……)
 テーブルの足元に倒れ込むバイオレッタを、青い翅を持つ蝶だけがただじっと見守っていた。
 
***
 
 眠りに落ちたバイオレッタをゆっくりと抱き起こし、クロードはその瞼が閉ざされていることを確かめた。
「ああ、姫……。貴女は本当に無防備でお可愛らしい方だ。こうもたやすく意識を手放してくださるなんて……。いっそ最初からこうして薬を使っておけばよかったでしょうか……、ふふ……」
 まるで眠り姫さながらの可憐であどけない顔つきに、クロードはうっとりと瞳を細める。
 
「……美しいお顔ですね、姫。貴女の寝顔ならいくらでも眺めていられそうだ」
 長い白銀のまつげを指でなぞり、ほのかに赤味の差した頬を撫でて唇へ向かう。
 柔らかく弾力のある素肌は明らかに男のそれとは異なっていて、我知らず胸が躍った。
 リシャールの目を盗んでの戯れは、図らずもクロードの心に火をつけた。
 昼間は何食わぬ顔で宮廷に出仕し、従順な寵臣を装ってリシャールに尽くす。
 必要とあらば彼の手足となって働き、押し付けられた無理難題も淡々とこなす。
 
 執務を終えて邸に帰ったクロードは、本格的な夜の訪れとともにバイオレッタの部屋の扉を叩く。
 そして、蔑むような目をする王女を抱き寄せ、その肌に思うがままに口づけを落としてゆく。
 そのひとときだけが、クロードがクロードでいられる一瞬だった。
 わがままな主人の容赦ない悪罵も、傲慢な官僚たちにぶつけられる侮辱の言葉も。
 バイオレッタとの秘密の逢瀬ですべてが帳消しになった。
 素肌に赤い証を刻み付けるたび、クロードはバイオレッタのすべてを所有しているかのような錯覚に捕らわれた。
 そして自らの支配欲と独占欲を満たしてくれる彼女のことを、さらに愛おしく感じた。
 ……彼女はどうして忘れてしまったのだろう。あの幸福な日々を。クロードと過ごした儚くも満ち足りた季節を。
 バイオレッタのあの罪深さを思えば、いくら隷属させてもさせ足りないくらいだ。
「そう……、私と貴女はもともと同一の存在だ。私たちの絆は心の深い部分でしっかりと結びつけられたもの。もはや誰にもほどくことなどできない……」
 クロードはバイオレッタの波打つ白銀の髪を幾度も幾度も手で梳いてやった。
(何も知らないお可哀想な姫。私に捕食されるしかない哀れな囚人めしうど……。私だけのバイオレッタ……)
 
 何も知らないバイオレッタがああしてうろたえるのも無理はない。こんな檻の中に監禁されて、獣性を露わにした男に迫られて。そんな状況下で彼女が発狂しないのが不思議なくらいだ。
 
 だが、狼狽しているのはクロードとて同じだった。
 こんなに厄介な愛の形には今まで巡り合ったことがない。
 どちらか片方だけを愛せれば楽なのに、クロードの心はなぜかそうできない。
 クロードはすでにバイオレッタを愛し始めている。魔導士クロードとして、彼女との新しい人生を切望している。
 なのに、エヴラールだった頃の記憶の名残は未だアイリスただ一人を求め続けている。幸福だったかつての二人の姿を、今世でもよみがえらせたいと願ってしまっている……。
(このままでは、私は壊れてしまうかもしれない。相反する二つの感情に灼かれて、自我を失ってしまうかもしれない――)
 自らも相当に切迫した心境でありながら、それでもクロードはバイオレッタにそれを告げられずにいた。
 クロード自身でさえよくわかっていない感情を、彼女に理解できるはずもない。
 彼自身でさえこれからどうすればいいのか全く見当がつかないでいるというのに。
「……そう。ただ『恋人』などという言葉で片づけるには、私と貴女の関係は複雑すぎる」
 二人の関係の根底には、愛情があり、欲望があり、そして怨嗟がある。
 クロードはかつて、大切な唯一の皇妃として彼女を愛した。彼女を求め、その生にどこまでも寄り添いたいと願った。
 だがその一方で、自分を置いてあっけなく死んだアイリスのことを、彼は密かに恨んでもいた。
 どうして自分を置いていってしまったのだと。どうして自分を一人きりにしたのだと。
 ……一生あなたと添い遂げたいというあの言葉は嘘だったのかと。
 だからこそ彼女のことが赦せないのだ。
 自分との日々をすっかり忘れ去り、今は「バイオレッタ」として新たな人生を歩み始めている彼女のことが。
「どうせいつかいなくなるなら、私が壊して差し上げる……。だから……ねえ、姫。私に黙って勝手に命を絶つのは許しませんよ……? 貴女を愛するのも、破壊するのも。どちらもこの私の役割なのですから……」
 破壊と偏愛。
 全く性質の異なる感情を混在させることで、クロードはかろうじて自らを保っているのだった。
 
 
 そこで彼は温室の中を何かが横切ったような気がしてじっと目を凝らした。
「……青い、蝶……?」
 それは青いきらめきを纏った一匹の蝶だった。
 こちらにはまるで気づいていない様子でひらひらと無邪気に小さな翅を動かしている。
 瑠璃色の蝶は温室の上空へと向かって軽やかに飛翔していった。
 そして天高く飛んだところでそれはおもむろに青白い閃光を放った。
 あまりの眩さに目を細めた刹那、クロードの腕の中にあったはずのバイオレッタの肢体がぱっと消え失せる。
「なっ……!?」
 クロードは信じられない思いで虚空を見つめた。
 いきなり現れた青い蝶に、突如として消え失せたバイオレッタの身体……。
 一体何が起こったというのだろう。
 しかし、辺りに散った金銀の粒子を視界に捉え、クロードはその正体が何であったかをようやく悟った。
 あれは、あの蝶は――
「なるほど……。どうあってもこの私に歯向かおうというのですね、アイリス……」
 彼はそこでぞっとするような嗜虐の笑みを浮かべた。
 
 
 

 

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