第八章 ヴァーテル教会からの客人

  
 翌日、またしてもピヴォワンヌは突然の来客に叩き起こされる羽目になった。
「ピヴォワンヌ様、起きてくださいませ」
「うぅん……、なあに? ダフネ。まだ七時じゃないの……」
 月に数回、王室女性たちが合同で朝の礼拝を行う日というのもあるが、今日は生憎その日ではない。
 それでなくともただでさえ色々な出来事があって疲れているのだ、もう少しばかり寝かせてほしい。
 だが、ダフネはどこか急いた様子でピヴォワンヌを揺さぶった。
「それが……、大変なのです。ヴァーテル教会からお客様がいらしているようなのですわ」
「――ヴァーテル教会?」
 ピヴォワンヌは寝ぼけ眼をこすると、ゆっくりと身を起こす。
 ヴァーテル教会といえば、このイスキア大陸に浸透する“ヴァーテル教”の総本山である。
 教皇ベンジャミンを指導者として大陸各地で規制や検閲を行う宗教機関だ。
「……そんな人が、どうして今スフェーンに?」
「さあ……、わたくしは一介の侍女にすぎませんので、そこまでは存じ上げません。ただ、女官長からお達しがありましたの。すぐに貴女様を起こし、着飾らせて≪星の間≫にお連れするようにと」
 ピヴォワンヌは芍薬色のおさげをうるさそうに手で払い、のろりと起き上がる。
「わかった……、起きるわ。あのばあさんを怒らせると厄介だしね」
 ダフネは真顔で「ばあさんは失礼ですわよ」とのたまった。
 ……が、その口元がわずかに引きつれているのを見て取り、ピヴォワンヌは噴き出してしまう。
「あんただってそう思ってるくせに」
「そのようなこと、まかり間違っても淑女が口にしてはなりません」
 二人は顔を見合わせ、次いでくすくすと笑いだした。
 
 
 盛装を済ませたピヴォワンヌは、ダフネや侍女らを伴って遊歩道へ出た。
 正装姿のダフネは、金茶の波打つ髪をきっちり編み込んでまとめている。蘇芳色の上品なジゴ袖のドレスを着こみ、胸元は艶のあるシルクのタイで彩っていた。
 そんなダフネの麗姿を視界の端に捉えながら、ピヴォワンヌは昨日の出来事を反芻していた。
(何なのよ、彩月のわからずや。このあたしがおとなしく復権したとでも思ってるの?)
 養父の死や宮廷での新たな生活の始まりなど、ここ半年ほどの間、ピヴォワンヌはとてもせわしない日々を送りっぱなしだったのだ。
 なのに、ようやく本来の自分の姿を受け入れ、第四王女としての暮らしに慣れてきたと思った矢先、彩月はなんとも心ない言葉の数々でピヴォワンヌを責め立ててくる。
 そんなことをするくらいなら助けてくれればよかったのに、とピヴォワンヌはつい恨みがましい気持ちを彼に抱いた。
(いざというときには何も力を貸してくれないくせに、責める時だけは一丁前なのね)
 ……胸の奥、感情の水面に細かなさざ波が立ち始める。同時に、水底からこぽこぽと音を立てて無数のあぶくが浮かび上がってくるのを感じた。
 ピヴォワンヌの心は今、静かな怒りの感情で沸き立っていた。
 この憤りをどうしても彩月本人にぶつけてやりたくて、いてもたってもいられなくなる。
 が、謁見式の前にそんなことを考えていても仕方がないと思い、ピヴォワンヌは努めて冷静にダフネに話しかけた。
「……一体何が起こるのかしらね」
「さあ。それは行ってみないとわかりませんけれど……何やら色々なものが目まぐるしく動いているようですわね」
「そうね……」
 ピヴォワンヌはつぶやき、そこでぎゅっと手のひらを握りしめた。
 
 
≪星の間≫に着いたピヴォワンヌは、父王リシャールに頭を垂れた。
「わざわざご苦労だったな。ピヴォワンヌ」
「いえ……」
 リシャールは絢爛豪華な国王装束に身を包み、黄金の鋲が打たれた玉座にゆったりと鎮座ましましていた。
 その隣には正妃シュザンヌがおり、玉座の傍らにはリシャールの寵臣であるクロードがたたずんでいる。
 少し離れた箇所には王太后の席が設けられ、リシャールの生母ヴィルヘルミーネが堂々とした貫禄で腰を落ち着けていた。
 そして、ピヴォワンヌの傍らには第二王女ミュゲの姿がある。
 オルタンシアやバイオレッタがいないことを除けば普段と何ら変わりない顔ぶれだった。
 居並ぶ宰相や重鎮の顔を一度だけぐるりと見まわすと、リシャールは重々しく告げた。
「さて……、知っての通り、今日は客人が来ておる。ヴァーテル教の本拠地であるエピドート国からだ。よって、これより謁見式を執り行う」
 エピドートは北西にある小国だ。五大国唯一の島国として知れ渡っており、教皇ベンジャミンがおわす場所――すなわち「教皇のお膝元」としても有名だった。
 ちなみに、次期女王の婿として期待されているカーティスはこの国の王子である。
 そこで疲れた様子のミュゲがやおら声を上げた。
「ですがお父様、一体なぜ今なのです? お父様に拝謁するにはいささか急すぎますわ。平素であれば手順を踏んで謁見の儀を待つべきだというのに、いくらなんでも突然すぎます」
「詳しいことはわからぬ。だが、火急の用件だと聞いておる。なんでも、かの国の宗教騎士が僕に会いに来ているのだと」
「宗教騎士……?」
 リシャールは神妙な面持ちでうなずいてみせる。
「大陸の各所に赴いて規制や検閲を行うのが宗教騎士だ。聖地巡礼の際の守護役から異教徒の弾圧、異端思想をはらんだ文書の検閲まで、彼らはヴァーテル教の名のもとになんでもやる。教会の教義を絶対のものとし、異教や邪教を徹底的に排除するのが彼らの役割だ」
 なんでも、彼らが忠誠を誓っているのは教皇が掲げた教義ドグマであり、個々の王や君主ではないのだという。
 そして教皇には五大国の王族――すなわちヴァーテルの血族――を規制できるだけの能力があるのだそうだ。それは彼がヴァーテル教会の頂点トップに立つ人間だからであり、ヴァーテル女神の血族を統率する役割を持っているからだとリシャールは語った。
「少々強引なやり方だとは思うが、今回の引見を断るすべは僕にはない。グロッシュラー宗教騎士団というのは、いわば教皇のしもべであり分身だ。その彼らを宮廷に入れないようにするというのは不可能だ。五大国の王族ならば、むしろ喜んで彼らを受け入れねばならぬ」
「……そんな」
「これが劉であれば話は別なのだがな。かの国はすでに五大国の協定から離脱しておるし、女王自身が自らを竜神の血族であると公言してはばからぬのだから、いかな宗教騎士であろうとも規制することはできぬであろう。だが、スフェーンは……」
 リシャールはため息をつくと、背もたれに寄りかかって目を閉じた。
 ミュゲもまた憔悴した様子でうつむく。
 彼女は寄る辺なさげに立ちすくみ、白手袋に包まれた肘のあたりをやるせなさそうに幾度かさすった。
 バイオレッタの失踪のせいでみな疲れているのだ。
 
 そんな中、シュザンヌだけが赤い紅をこってりと塗った唇を不機嫌そうに突き出している。
 それもそのはずだ。彼女は修道士から「国を惑わす魔女」として大っぴらに糾弾された過去を持っているのだ。
 
 国王の心を揺さぶる不届き者。姦通を繰り返す悪女。
 このシュザンヌという王妃はそんな蔑称で呼ばれており、今でも修道士たちからは白い目で見られている。実際、リシャールに国外追放や厳罰を勧めた修道士もいたようだ。
 結局彼は応じなかったが、かといってこのシュザンヌの立場が必ずしも安泰であるとは言えない。
 姦通はヴァーテル教の教えに大きく反する行為だからだ。
 正妃のほかに二人の寵姫を迎えているリシャールが罰されず、ただ火遊びを愉しんだだけのシュザンヌだけが咎められるというのはどう考えても不公平だ。
 
 だが、この大陸では女性側の不貞は大罪だった。
 男たちは妻を持ってからも未婚の娘や娼館の女などに気軽に手を出せるが、妻が同じことをすればただではすまない場合が多い。言うなれば未だ男尊女卑の風潮がはびこっているのだ。
 女性側に主導権がある劉などは比較的新しい考え方を持った国だといえるが、ああした国は大陸ではまだ少数派だった。
 
「嫌だわ、またわたくしを責めに来るのかしら」
 シュザンヌは羽根をたっぷりとあしらった扇の影で仰々しく怯えてみせる。
「落ち着きなさい、シュザンヌ。正妃としてそのように取り乱してはならないわ」
「ですが、伯母様! ……いいえ、王太后様。きっとまたわたくしを非難しに来るのですわ。ああ、恐ろしい。修道士ならともかく、今回は宗教騎士。それも教皇様の配下の者が直々にやってくるというではありませんか。きっとわたくしを貶めに来たのです。わたくしを早く正妃の座から引きずりおろせと進言するつもりなのですわ」
 シュザンヌはそう言ってすがるようにヴィルヘルミーネを見た。
 扇の影で涙をこらえるふりをしながら、ちらちらとわざとらしくリシャールに視線を送る。
「わたくしは陛下をお慕いしております。陛下を裏切るような行いは何一つ致しておりません。王女を三人もうけたのも、すべては予言を一心に信じていらっしゃる陛下のためです。わたくしはすべて陛下のために――」
「――そこまでにせぬか。今更言い募ったところで見苦しいだけだぞ、シュザンヌ」
 リシャールはぴしゃりと言った。
「ですがっ……!」
 ピヴォワンヌはシュザンヌの悲壮感溢れる顔つきを見て思わず噴き出しそうになった。
 十中八九演技だろうが、よくもまあここまで必死になれるものだ。
(まあ、この妃の場合は立場を死守するのに必死なんだろうけど……滑稽すぎていっそばかばかしくなってくるわね)
 何せまだ到着してもいない騎士たちが必ず自分を話題にするはずだと信じ込んでいるのだ。思い込みも甚だしい。
 そして何より不義理だ。過去の過ちを償うどころか、リシャールへの愛を主張することですべてを帳消しにしようとしているのだから。
 
 隣のミュゲが母妃の醜態からふいと目を逸らし、扇で口元を覆い隠す。
 そして眉間にくっきりと深い皺を刻んだ。
 
 その時、侍従が声を張り上げた。
「国王陛下に申し上げます! 宗教騎士様がお着きになりました!」
 リシャールはうむ、と言って深くうなずいた。視線だけで彼らを入室させるよう促す。
 やがて騎士によって扉が開かれ、二人の男女が颯爽と広間に入ってきた。
 一人は黒髪の青年だ。
 腰には立派な長剣を佩き、藍色を基調とした立派なコートに身を包んでいる。
 やや下がり気味の優しげな目尻や頭にちょこんと乗せたベレー帽など、いかにも温和な好青年といった印象だ。
 彼はいやみのない爽やかな笑みを浮かべていた。落ち着いた所作や表情が育ちの良さを感じさせる。
 もう一人は小柄な少女だった。
 艶やかな黒髪を背に流し、びっくりするほど丈の短い漆黒のドレスに身を包んでいる。しかも、あろうことか太もも丈である。
 ほどよく肉のついた白い太ももはぴったりした黒い靴下で覆われていた。白と黒のコントラストがなんとも扇情的で、ピヴォワンヌはつい顔を赤らめてしまう。
 そして、上向きに尖った耳に、唇からのぞく鋭い牙。左頬に浮かんでいるのは紅い薔薇の形をした刻印だった。
 ピヴォワンヌは純粋に驚いた。
 宗教騎士といっても、まだ随分と若い。
 こんなに若い青年と少女を宗教騎士のまとめ役に据えてしまうなんて、ヴァーテル教会とは一体どのような宗教組織なのだろうか。
 そして、教皇ベンジャミンとは一体どのような人物なのだろうか……。
 
 二人は配下の騎士を引き連れて≪星の間≫の中央に歩み出る。
 と、そこで黒髪の少女が国王リシャールの許可を待たずに勢いよく片手を上げた。
「はぁーい。こんにちはー。ヴァーテル教会本部から来ました、『国守くにもりの姫』ことスピネルちゃんでーす! 仲良くしてねっ!」
 黒髪の少女は小躍りしながら言う。
 リシャールは彼女を見つめてぽかんと口を開けた。
 が、すぐさま我に返り、声高に注意する。
「ま、待て! 国王の発言を待たずに口を開くとは何事だ!」
 スピネルは悪びれた様子もなく小首を傾げた。
「ああら、ごめんなさい。ついいつものクセが出ちゃったわ」
 スピネルは悪戯っぽい笑みを浮かべ、ちょこんと両手を合わせて「ごめんねぇ」と謝罪した。
 と、そこで傍らの青年が彼女の腕を引いて小声でたしなめる。
「スピネル……、だから言ったじゃないか。ちゃんと礼儀作法は守らなきゃダメだよって」
「ええ? だって、今まで訪問した国はどこも大丈夫だったもの」
「そういう問題じゃないだろ。どうせ謝るんだったらもうちょっとしっかり、一言一句誠意を籠めて……」
 何やらそのまま延々と説教が続きそうな雰囲気である。
 リシャールは聞こえよがしに大きな咳払いをしてみせた。
「ごほん! ……仕切り直しだ。宗教騎士たちよ、拝礼と挨拶をやり直せ。話はそれからだ」
 二人はリシャールに向けてすっと膝をついた。騎士らしく跪いて服従の意を示す。
「国王陛下に拝謁いたします」
「うむ」
 リシャールは目を細めて満足げに二人を見つめる。
 そして携えた王笏を打ち鳴らすと高らかに命じた。
「おもてを上げよ」
 顔を上げた二人に、リシャールは朗々と響き渡る声音で言い放つ。
「僕の名はスフェーン国王リシャール・リュカ・フォン・スフェーン。このスフェーンを統べし者。遠路はるばるよくぞ参った。宗教騎士の到着、心より歓迎しよう」
 リシャールはそう言って二人に発言を許可する。
 二人はすっくと立ち上がった。
 先に口を開いたのは黒衣の少女騎士スピネルだった。
「お初にお目にかかるわね。あたしはエピドートの『国守の姫』こと、スピネル・アントラクス。ルヴィ隊の筆頭騎士をしているわ。あ、『国守の姫』っていうのは単なる愛称ね。女騎士でここまでの実力者は他にいないからですってー」
 言って、スピネルは金属の薄いプレートを掲げてみせた。
 小粒のルビーが輝くそれには、大陸語で彼女の名前が彫り込まれている。どうやら宗教騎士としての身分証明書のようなものらしかった。
 よく見ると、スピネルの腰には細身の短剣が固定されている。濃紫に塗られた装飾的な鞘に収められており、柄には大粒のアメジストが燦然と輝いていた。
 なるほど、あれが彼女の得物というわけだ。
 リシャールは信じられないといった顔でスピネルを眺めまわす。
「筆頭騎士……だと? だが、そなたは女であろう。しかも僕よりずっと小柄で若そうだぞ」
 スピネルは嬉しくてたまらないといった様子できゃはっ、と笑った。
「ああーん、そんなぁ。王様ったらお上手なんだからぁ! さすがお妃様三人も娶ってるだけあるぅー!」
 リシャールは呻き、やれやれと首を振る。
「くっ……。何なのだ、この小娘は。自由気まますぎてまるで話にならんではないか……!」
 あのリシャールがこうも簡単にペースを乱されていることに、ピヴォワンヌはつい笑ってしまった。
 尖った耳や犬歯からして、恐らく彼女は俗に言う「魔物」なのだろう。だが、元気いっぱいな姿は邪気がなくて愛らしかった。
 自然体な姿にもなんだか和んでしまう。
 
 スピネルが自己紹介を終えると同時に、もう一人の青年がすっと歩み出る。
「僕はサフィール隊の隊長をしています、ラズワルド・ヴェルーリヤです。スピネルのまとめるルヴィ隊とは違って、僕が率いるのは純粋なヒトだけでできた組織です。そして、二つの隊から選りすぐりの騎士だけを集めた特殊な部隊が精鋭コランダム隊。僕とスピネルがまとめる隊です」
 二人はくるりと振り返り、背後に並んだ騎士たちを示す。
≪星の間≫に整列する騎士たちは揃いの甲冑プレートアーマーを身に着け、肩口にアクアブルーのマントを留めつけている。
 水面を思わせる綺麗な青色は自分たちが水の女神の信徒であることを主張しているかのようだった。
 そこでラズワルドがあくまで謙虚な口ぶりで言う。
「彼らはみな教皇ベンジャミン様にお仕えする騎士たちです。今回の来訪のために同行させております。国王陛下、どうか我ら宗教騎士のしばしの滞在をお許しくださいませ」
 リシャールは腕組みをし、顎をわずかに持ち上げて二人を見下ろした。
「ふむ。宗教騎士か。面白いな。だが、いきなりスフェーンにやってきたのは何故だ? まさかこの期に及んで取り締まりに来たとでもいうのか」
「……」
 二人の奇妙な沈黙に、ピヴォワンヌは眉をひそめた。
 配下の騎士たちも心なしか緊張しているように思えるが、一体どうしたというのだろう。
 が、スピネルは至って朗らかに言った。
「いいえ。ただ国の視察に来ただけよ。あなたと第二王妃の華燭の典以来、この国には教会本部の人間が規制に来たことはないはず。それを思えば別におかしなことでもないでしょう」
 リシャールがエリザベスを側妃に迎えた日、ヴァーテル教会からは魔導士が訪れていたのだという。
 彼は華燭の典において、次代のスフェーンの行く末を「予言」として読み上げた。
 そこで登場したのが次代の王は女だとする説である。
 それ以来、純粋なリシャールはその予言を盲信しきってしまっている。
 だからこそピヴォワンヌたち四人の王女は戦いに身を投じることになったのだ。
「そうだな……、確かに、あの日以来そちらからの使者はやってきていないな。なるほど、視察か」
「そう、視察よ。まずはお城の様子を見せてもらうわ。王様は熱心なヴァーテル教徒と聞いているし、まさか異教の神を崇め奉るようなシロモノはさすがにないでしょうけどねー」
 リシャールが憤然と「当たり前だ!」と叫ぶ。
「僕は異教の神など信じてはおらぬ。邪神崇拝などもってのほかだぞ」
「んー、そうねえ。別に異教徒の存在が認められなければ問題はないんだけど、まあ、せっかくだから色々見させてもらうわ。王様にその傾向がなくても、臣下たちはどうだかわからないしねえ」
 スピネルのルビーレッドの瞳が不敵にきらめく。
 リシャールは心外だとでもいうように鼻を鳴らした。
「ならば隅々まで見るがよい。要らぬ嫌疑をかけられるのは不本意だ。第一、僕の城にやましいところなどあるはずもないからな」
「ありがと! じゃあ、謁見式が終わったら早速お城をうろうろさせてもらうわね!」
 スピネルはいやに上機嫌で言った。
 そのまま鼻歌でも歌い出しかねない雰囲気だ。時折興味深げな視線を広間のあちこちに注いでにこにこしている。
 そんな彼女を見てリシャールが問うた。
「異国の宮廷というのはそんなにも楽しいものか?」
「楽しいわよぉ。あたしもラズも、わりといつも戦ってばっかりだしね。こうやってゆっくり綺麗な建物を見てまわれる機会なんてなかなかないし」
 リシャールのおもてに一瞬だけかすかな同情の色が浮かんだ。
 恐らく年若い騎士たちを哀れに思ったのだろう。
 彼は小さく息をつくと、微笑を湛えてゆったりと言った。
「なるほど、相分かった。そなたらのために貴賓室を用意させよう。視察が終わったらゆっくり休むがよい」
「ありがと王様ー! もう船旅長くて疲れちゃって、体中バッキバキなのよねぇ。あたしこう見えても百五十歳なのよ。お肌のためにもベッドは早めに用意してほしいわね」
「ぐっ……!?」
 リシャールがうっと詰まった顔になる。
 彼は思わずといった様子で玉座を立ち、スピネルに人差し指を突きつけてみせた。
「ひゃ、百五十歳だと!? そなた、何を戯けたことを申しておる!? 見たところ、僕より明らかに年下ではないか!!」
 狼狽しきって血相を変えるリシャールに、スピネルは赤い舌をのぞかせて妖艶に笑ってみせる。
「あたしは大妖バンパイア。あなたたち人間より遥かに長生きなの。その気になれば外見年齢を若いまま保つ魔術だって使えちゃうからねー」
「な……っ!? そ、そういうことは早めに申せ!! 思い切り仰天させられたではないかっ!!」
「ふふっ。この左頬の刻印はその証なのよ、王様! バンパイアたちは体のどこかに必ずこういう『薔薇の刻印』を持ってるの。まあ、バンパイアが持つ目印みたいなものね。てっきり気づいてたかと思ったけど」
「薔薇の……刻印……? バンパイア……? そうなのか、なるほど……。世界にはまだ僕の知らないことがたくさんあるようだな……」
 リシャールはやれやれと首を振り、玉座にすとんと腰を下ろした。
 
 
 ……その時、リシャールの背後からクロードが音もなく歩み出た。
 きざはしを下り、緋色の絨毯を進み、スピネルの眼前に立つ。
「……これは興味深いこともあったものだ。まさか大妖バンパイアにお目にかかれるとは」
「……」
 スピネルはルビーレッドの瞳でじっとクロードを見つめ返す。
 しばらく視線を交錯させていたが、やがてあはっ、と笑った。
「いやーん、男前! 影のある美形でカッコいい~! なになにー? 王様、あなたの魔導士なのぉ?」
「あ、ああ……、こやつはクロードという。クロード・シャヴァンヌ。僕の魔導士だ」
 クロードはスピネルの足元に膝をつくと、そのほっそりとした手を取った。
 貴婦人たちにするように恭しく口づける。
「よろしくお見知りおきください」
「うん、よろしくぅー! ……あ、なんて呼べばいい? クロード? それとも……」
 スピネルの双眸に宿った探るような色を、クロードは見逃さなかった。
 なおももの言いたげな彼女を、強い視線でねじ伏せる。
「……あはっ。じゃあ、『魔導士さん』って呼ぶわ。そっちの方が、何かと都合がよさそうだし?」
「……ええ。よろしくお願いいたします、スピネル様」
 立ち上がったクロードの頬に、スピネルの白い手が伸びる。
「嬉しかったからあたしもキスしてあげる」
 宮廷人や王女が見ている前で、スピネルはためらうことなくクロードにキスをした。
 ちゅっ、と派手な音が鳴り響き、その大胆さに周囲の人間たちが小さく息をのむ。
「仲良くしてね、魔導士さん♪」
 耳元でささやかれたクロードは、不敵な笑みでスピネルに応えた。
「おや、これはこれは……。まさかヴァーテル教会の騎士様にキスを頂けるとは思ってもみませんでした。なんとも光栄ですね」
「やだぁ、キスくらい何度もしてもらってるでしょ? あなた女にモテそうだもんね?」
「そのような」
 ピヴォワンヌはそんな二人の様子を腑に落ちない思いで眺める。
(何? この二人。お互いを牽制し合っているみたいな、妙な感じが一瞬だけした……)
 ピヴォワンヌはさらに目を凝らして二人を観察しようとした。二人の間に漂う不穏な空気の正体を、どうにかして掴もうと試みた。
 が、二人はすぐにそれまでの顔つきに戻ってしまう。
 結局、謁見式はつつがなく終了し、ピヴォワンヌはダフネとともに一度居住棟へ帰ることになった。
 
***
 
 紅玉ルヴィ棟の私室でダフネの淹れてくれたお茶を啜りながら、ピヴォワンヌは盛大なため息をついた。
「バイオレッタがいなくなった矢先に、こうも色んなことが起こっちゃうなんて……」
「はい……。これが吉兆なのか凶兆なのか、判断するのは難しいですわね……」
「玉蘭たちが朝貢にやってきたかと思えば、今度は教会からの使い、かぁ……。目まぐるしいわ」
「ええ……」
 ピヴォワンヌはぼんやりとカップの絵柄を指でなぞった。
 白をベースに水彩風のタッチで大ぶりの薔薇と金木犀を描き出したもので、合間に点々とカラフルな小花模様が散らされている。
 ピヴォワンヌは華奢なカップを両手で包み込むようにしながら、ようやく冴えてきた頭をゆっくりと働かせ始めた。
 色々なことが同時に起こりすぎて未だ鋭敏さは欠けたままだが、ただ一つはっきりとわかることがあった。
「……ねえ。クロードは昨日今日と普通に出仕していたわよね。あたしにはあれがよくわからないのよ」
 傍らに控えたダフネが首を傾げる。
「よくわからないというのは」
「どうしてあいつだけ平然と宮廷に出てくるのかっていうことよ。バイオレッタが消えちゃったっていうのに、あいつはそんなのお構いなしに今まで通り出仕してきてる。これは変だと思うの」
 クロードはバイオレッタにしつこいくらい言い寄っていた。彼女の機嫌を取ろうとし、気を引こうとし、大げさなくらい褒めちぎってみせることさえした。
 彼がバイオレッタを自分のものにしたがっていたのは明白で、そこにははっきりと恋慕の情が見え隠れしていた。さらに言うなら愛欲まで。
 おまけにバイオレッタがいなくなったのはクロードと連れ立って居住棟を出てからだ。
 クロードの方は無事なのに、バイオレッタだけが見事消息を絶っているのである。
 そしてクロードはそのことについて大して動揺していないようなのだ。しかも、リシャールに当日の出来事を証言した風でもない。それはリシャールがこれまで通りクロードを頼りにしているのを見れば明らかだ。
 これはどう考えても変だろうとピヴォワンヌは思った。
(どういうことなの……?)
 ピヴォワンヌはカップをソーサーに置くと唸った。
「やっぱりクロードは何も知らないってこと? けど、それなら別に手引きした人間がいるかもしれないってことよね」
「確かに不自然でしたわね。やはり誰かがかどわかしたということかしら。わたくしにはサラが嘘をついているとは思えませんし……」
「はあ……、駄目だわ……、なんだかわからないことだらけで。だけど、あの子をこのまま見捨てておけないことは確かよ」
 
 耳の奥で彩月の言葉がよみがえる。
 
『お前、馬鹿かよ。戦う力をちゃんと持ってるくせにそれを生かそうともしねェで、こんな御殿みたいなとこに閉じ込められて、素直にはいはいって受け入れて。そんなのは俺の知ってる香緋じゃねェ。ただのお姫様だ。俺の知らねえどっかの国のな』
 
 彼はああ言ったが、そんなことがピヴォワンヌにできるわけがないのだ。
 バイオレッタの失踪を受けて、ピヴォワンヌは少なからず自分自身の無力さを恨んでいた。
 同じ薔薇後宮にいながらにして、彼女はものの見事にピヴォワンヌの傍らをすり抜けていった。ピヴォワンヌがけして見つけられないようなところへと消えてしまった。
 その事実が歯がゆくてならない。
 
 そこでピヴォワンヌはすっと顔を上げ、心の中で密かに誓った。
(あたしが守りたいのはあんただけよ、バイオレッタ。必ず助ける。だから、待っていて……!)
 
 

 

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