その日の夜。
リュミエール宮の貴賓室でくつろいでいたラズワルドのもとへ、隣室のスピネルがやってきた。
「へえ、このお部屋も素敵ぃ」
薄手のネグリジェ姿でうきうきと部屋に入ってくるスピネルに、ラズワルドはうろたえた。
「ちょっと、スピネル。いくら隣だからっていきなり入ってこなくても」
「いいじゃない。あ、じゃああとであたしの部屋にも来てみる?」
「い、行くわけないだろ……っ!」
「残念」
言って、スピネルはちろりと舌を出してみせた。
ラズワルドはベッドに腰かけた姿勢のまま頭を抱えた。
れっきとした貴族の嫡男であるラズワルドに、彼女の神経はさっぱり理解できなかった。
男の部屋に勝手に入ってくるなと何度言ってもスピネルは聞かない。薄い夜着一枚で悪びれもせずやってきて、ラズワルドをいたずらに振り回すような真似をする。
が、翻弄されてばかりでもやっぱり好きなのだ。それは認めざるを得ない。
スピネルはいつもラズワルドを支えてくれ、時に軽やかな冗談で心地よく笑わせてくれる。ラズワルドの知らない世界をいきいきと語って聞かせてくれ、彼の持つ平凡な価値観をどんどん豊かなものへと変えていってしまう。
たまに気に入らないことをされたとしても、彼女が好きなのは変わらない。
ラズワルドにしてみれば、このスピネルという女性はひどく眩しい存在なのだ。
仕方なしに、ラズワルドはベッドに広げていた読み物を退けた。「座っていいよ」と言いながら、自らの隣をぽんぽんと手で叩く。
すると、すぐさまスピネルが嬉しそうに傍らに滑り込んできた。
「んふふ、ありがと」
どう答えればよいのかわからず、ラズワルドは無言でうつむく。
彼は恥ずかしさをごまかすように夜着の生地を手で弄んだ。
絹の夜着が生み出す皺を何の気なしに目で追いながら、自分の置かれた状況の気まずさに耐える。
やがてスピネルはすんなりした足を組み、まるで夢見るような瞳で言った。
「ふふ。いい夜だわ……」
どこか誘うような響きを持った声音に、ラズワルドは思わず隣のスピネルを見た。
燭台の灯りを受けて、スピネルの紅い瞳が艶やかに輝いている。
「ああ、活動時間になったのだ」、とラズワルドは思いつき、昼間に比べて桁違いに妖艶になったそのおもてから反射的に顔を背ける。
そもそもバンパイアたちがその本領を発揮できるのは夜だ。生き血を求めてさ迷い歩くのも夜なら、獲物を誘惑してその血を貪るのも夜なのだ。
夜が深まるにつれて、バンパイアたちはしだいに本性を見せ始める。
『魅惑の力』と呼ばれる潜在能力を解き放ち、自然と人間を虜にしてしまう。
そして相手の人間が酔い痴れているうちにその血と精気を吸い、自らの中へと取り込んでしまうのだ。
それが“大陸一美しい魔物”と呼ばれるバンパイアたちのやり方だ。
彼らが必要以上に整った容姿をしているのは吸血行為のための獲物を誘惑しなくてはならないからである。彼らの美しさというのは獲物をおびき寄せるための餌なのだ。
……もしかして、自分は今まさにスピネルに誘惑されてしまっているのだろうか。
そう思ったらどうしてもじっとしていられず、ラズワルドは人懐っこくすり寄ってくるスピネルから無意識のうちに距離を取っていた。
「あたしが怖い? ラズ……」
「え……」
「そうやって逃げようとするから、もしかして怖いのかしらって」
ふふ、と意味深に微笑み、スピネルはラズワルドのそばを離れて出窓へ向かった。
窓の外には黄金色の月が咲いている。
どこか冴え冴えとした月光に、月の周囲に散った無数の星。静かに凪いだ空気。
いかにも魔性のものたちが勢いづきそうな夜だった。
スピネルはそこで、窓を開けて夜風を入れた。
たちまち城の外から秋の風が吹き込んでくる。
「うーん。気持ちいい風! こんな夜なら久々に蝙蝠たちと空を飛んでみるのも悪くないかもぉ」
スピネルは数羽の蝙蝠を使い魔として使役している。
彼らを従えて夜空を飛翔するのは彼女の楽しみの一つなのだ。
……自分の感情を伝えるなら今しかないのかもしれないと、ラズワルドは唇を噛みしめる。だが、果たして自由気ままな彼女がおとなしく聞き入れてくれるかどうか。
ラズワルドは思い悩んだ末、ぼそぼそと訊いた。
「……スピネル。昼間のあれ、何?」
「何ってー?」
夜風を浴びながら、スピネルが訊き返す。
「魔導士クロードにあんな風に、その……」
「ああ。キスしたこと?」
あっけらかんと言い、スピネルはそこでようやくラズワルドに向き直る。
「……あんなのは酷いんじゃないか。だって、君は僕の――」
「やだ、怒ったの?」
「君が魔導士クロードにキスなんかするからだよ。どうして僕のいる前であんなこと……」
近づいてきたスピネルは、ラズワルドの頬をちょんとつついた。
「ただの挨拶よ」
「僕らの敵かもしれない男なのに?」
スピネルはそこであはは、と笑った。
「んもう、機嫌直しなさいよ。ちょっとくらいいいじゃない」
「……嫌だ」
きっぱりと言い切り、ラズワルドはスピネルの細い腰に両腕を回して抱きついた。
スピネルはラズワルドの黒髪を丹念に手で梳きながら、呆れたように言う。
「……もう。拗ねてるあなたも可愛いけど、そういうのは公衆の面前では抑えたほうがいいわよ。男の嫉妬ほど見苦しいものはないからねー」
「言わないよ、言うわけないだろ。わかってるくせに」
ラズワルドはそんな風に何もかもを吐き出せるような性分ではない。
だからあの場でも見て見ぬふりをするしかなかった。
謁見式で取り乱すわけにはいかなかったし、調子に乗っているスピネルをクロードから引きはがすこともできそうになかったからだ。
だが、やはりどうしても気に入らなくて、貴賓室に案内されるまでの間、ずっとスピネルにそっけない態度を取り続けてしまった。
「あなたは普段はしっかりしてるくせに、二人きりになるとまるで別人よねぇ。ま、そこがいいんだけど」
心底楽しそうにスピネルが笑う。
ラズワルドは照れて真っ赤になった頬を隠そうと、より強くスピネルを抱き込んだ。
「スピネルはこれまで色々な相手と知り合ってきたんだろうね」
「そりゃあ百五十年も生きてるんだもの、色々あったわよ。出会いも別れもね。まあ、当然別れの方が多かったけど」
「へえ……」
バンパイアは魔物の中でもかなり長命だ。
スピネルがどれだけ相手を愛しても、いつか必ず別れはやってくる。それは今彼女の腕の中にいるラズワルドも同じだった。
人間の命は瞬く間に消え失せる。バンパイアに比べれば遥かに短命で脆弱だ。
……どれだけ彼女と親しくなっても、どんなに彼女を愛しても。
ラズワルドはどうあってもスピネルよりも先に死ぬ。
それは変えようのない事実だった。
スピネルが抱きしめ返しながら揶揄してくる。
「なぁにぃ、ラズ。こーんな美少女バンパイアに愛されてるっていうのにまだ不安なの?」
「……不安だよ。君と釣り合わないんじゃないかとか、君より子供っぽくて嫌だな、とか、どうしようもないことばかり考えてしまうんだ。それと……君を置いていかなきゃいけないことがやっぱり何よりも辛い」
顔を歪めたラズワルドに、スピネルはぽつりと言った。
「……バンパイアと人の理は違うわ。それは仕方がないことよ。だけど、今こうしてあたしたちの歯車は噛み合っているわ。そうじゃない、ラズ?」
「歯車……?」
「そう。あたしたちの人生が交差しているとでも言えばいいかしら。つまり、今まさに交じり合っているのよ。たとえ一瞬でも、あたしはそういう瞬間を大事にしたいの。たとえいつか別れの時がやってくるとしても、今この瞬間の記憶は永遠よ。いつか未来のどこかで、宝物みたいに大切に思い出すの。きらきら光る、まるで想いのかけらのような断片を……」
スピネルはラズワルドの顔を上げさせると、彼の瞳を正面から覗き込んだ。
「だからね、ラズ。今から未来を先取りして悲観するのはやめて。それじゃ、まるであたしたちが無駄なことをしてるみたいだわ」
達観した物言いに、ラズワルドはたちまち自らを恥じた。
「……うん。わかったよ、スピネル」
ラズワルドはふっと微笑するとスピネルを見上げた。
「僕ももっと頑張らないといけないな。君をちゃんと補佐できるように」
「ふふ。騎士をしてない時でもそばにいてよね。あなたはあたしの仕事仲間であると同時にれっきとした恋人でもあるんだから」
あまりに素直すぎる言葉を受けて、ラズワルドはまたしても頬にさっと朱を上らせる。
彼は口ごもりながらもなんとか「わかったよ」と告げた。
「んふふ。物わかりのいい子は好きよ? ご褒美にキスしてあげる」
スピネルはそう言って素早くラズワルドの唇を奪った。
が、キスされたラズワルドはといえば、なんとも微妙な顔つきをしている。
「うう……。嬉しいんだけど、そういえばさっき魔導士クロードにもキスしてたよね……?」
「あっ、今それは考えない方がいいかもね。間接キスになっちゃいそう」
「ええええっ……!!」
蒼褪めて唇をごしごし擦るラズワルドに、スピネルがぷっと噴き出した。
「まあまあ、いいじゃないの! 結構美形だったし」
「うう……、改めて想像するとちょっと気持ち悪くなってきた……」
「あはは! あなたって面白い子よねえ。じゃあ上書きする?」
そう言ってラズワルドの顔を引き寄せようとするスピネルに、彼は熱に浮かされたように答えた。
「……する」
二人はそのままゆっくりと唇を重ねた。
覆いかぶさってくるスピネルを受け止めながら、ラズワルドはそのふっくらした唇をついばむ。
紅い唇はラズワルドの動きに応えるように柔軟に形を変えた。
休む暇も与えず、幾度も幾度も口づけを繰り返す。
すると、スピネルがわずかに身じろいだ。
「あ、ラズ……っ」
「スピネル、とっても綺麗だ……。紅い瞳がいつもよりきらきらして……潤んでいて……」
何事か言いかけた唇を、ラズワルドは深いキスで封じ込める。
尖った犬歯を避けて舌を潜り込ませ、刺激でびくつく肌を手のひらでゆっくりと撫でさすりながら、つかの間の甘い触れ合いを愉しむ。
しだいにスピネルのほっそりとした肢体から力が抜けてゆき、ラズワルドに深くもたれかかる格好になる。
そうして崩れる様子さえ可愛くて、ラズワルドは彼女を引き寄せるとさらにキスを続けた。
肌をくすぐる長い黒髪の感触に震えそうになる。その髪さえ慈しむように撫で、指を絡めるようにして弄びながら、彼はいっそ罪なほど熱い口腔を情熱のまま貪りつくした。
しばらくしてようやく唇を解放すると、スピネルの身体がぐらりとしなだれかかってきた。
呼吸を乱してこちらを見つめるスピネルは、可愛らしいのにどこかしどけない雰囲気を纏っている。
ラズワルドは自分から仕掛けておきながらどうしていいかわからなくなった。
「ラズ……」
「スピネル……」
「やだ、もう……。こういう時のあなたって、ほんとに大胆なんだから……」
「君だってそうじゃないか」
困ったような表情で寄りかかってくるスピネルは、まるで乙女のような初々しさだった。
そのくせ口づけに濡れた紅い唇がやけに扇情的だ。
こみ上げる愛しさに、思わずラズワルドはぎゅっと彼女を抱きしめた。
……その時、ベッドの隅で丸くなっていたキースがぱっちりと目を開けた。
『ふみゅうう。よく寝たぁ……、って、ああっ!? ラズが、ラズが性悪女に迫られてるっ!?』
どうやらスピネルが初心なラズワルドにちょっかいを出しているように見えたらしい。
キースはそのまま全身の毛を逆立て、猛然とスピネルに飛びかかった。
『僕のラズに何してるんだよぉっ!! この性悪バンパイアー!!』
勢いよく突進してくるキースを、スピネルは身体をひねって避ける。
キースはそのままベッド下に墜落した。
『うっうっ……。い、痛い~~。鼻打った~~』
「いやん。モテモテねぇ、ラズったら」
「いや……あの、キースは雄だから……」
勝ち誇ったように笑むスピネル、そして鼻を押さえるキースの姿に、彼は力なく笑った。