少女は、夢を見ていた。
「――、……っ……!」
……ざあざあと降りしきる雨の中、誰かが泣いている。
蒼白のかんばせは、雨とも涙ともつかぬしずくで濡れている。
長躯に纏うのは純白のコートだ。薄い金の髪を背に流したその男は、ほっそりとした一人の娘を抱きかかえて嗚咽していた。
「行かないでください……!!」
……生命の息吹の感じられない白い肌。口元に滴る鮮血。固く閉ざされた目蓋。彼女が……腕の中のその娘がすでに絶命していることは明らかだった。
……そう。これはすでに何度も繰り返し見ている夢だ。
少女は灰色の空の下にたたずんで、黙って二人を見つめていた。
「貴女に置いていかれたら、私はまた『独り』になってしまいます……!!」
男の慟哭がこちらにまで伝わってくるようで、少女は眉を引き絞る。
(……そんな風に泣かないで)
少女は静かに彼に歩み寄った。その肩に、触れようとした。
けれど、その手は虚しく空を切った。
やはり、触れられない――。
彼を、抱きしめてあげたいのに。
胸に抱いた娘の白い頬を涙で埋め尽くしながら、男は悲痛な声音で叫んだ。
「……貴女がいない世界など、私は欲しくないのです……! 置いていかないで……、『 』……!!」
――刹那。
その言葉に、震えが走った。
「……!!」
少女は飛び起きた。
薄い上掛けをはねのけると、いやな汗をかいた首筋に触れる。
「……また、この夢」
額に手をやると、そこもまた湿っていた。
「……」
……金の髪の男と、その腕に抱かれる死んだ娘。しじまを切り裂くような悲哀の叫び……。
幼い時分から何度も見る夢だった。
思わず目を背けたくなるような、嫌な気持ちになる夢だ。
十にもなるというのに眠るのが恐ろしいというのも妙な話なのだが、実際、少女は夜の訪れを恐れていた。彼のあの叫びを聞くと、いてもたってもいられない気分になるからだ。
けれどその反面、何か大切なことを忘れているような気がしてしまう。
「あなたは、誰なの……」
つぶやくと、少女はかたかたと震えている身体をしっかりと腕で抱きしめた。
その時、隣の寝台で眠っていた養母マリアが、不思議そうに声をかけてきた。
「……ルイーゼ?」
「マリア……」
「どうしたの?」
彼女はすぐに少女の傍らにやってくる。
「怖い夢でも見たの?」
「……ううん。なんでもないの」
これは、誰かに話してはいけないものだ――。
なぜだかそんな風に思ってしまって、まだ少女は誰にもこの話を聞かせたことがなかった。
「もう夜更けよ。早く寝た方がいいわ」
「うん……」
ああ、温かい手だ。
マリアに白銀の髪を撫でられながら、少女は――ルイーゼはぼんやりとそう思った。
そこでふと、夢の中で慟哭していた男のことを思い出す。
……「彼」の手も、温かいのだろうか?
誰かを喪ったときや、悲しいことがあったとき、きっと人はぬくもりを失うのだろう。
「彼」にとって、「彼女」はとても大切な存在だったに違いない。「彼女」のいない世界などいらないと、言い切れるくらいに。
眠るのは恐ろしい。
だがその一方で、ルイーゼは夜毎祈るようになっていた。
(――あなたの悲しみが、癒えますように)
それが、まだ幼く何も知らないルイーゼの、たった一つの「願い」だった。
***
――時を同じくして、深更の薔薇後宮。
金の髪の王妃は夜陰の中を駆けていた。
(早く……、早くしなければ)
肩で息をし、目深にかぶったフードを引き寄せながら、彼女は――エリザベスは深い闇の中を懸命に走った。
あの術者を倒さなければ、王はずっとあの身体のままだ。そんなことは許さない。否、許せない。誰が何と言おうと。
「陛下……、リシャール様。待っていて下さい……。わたくしが、必ずすべてを元通りにいたします……!」
荒い呼気でエリザベスはつぶやく。
次の瞬間、強い夜風が吹き荒れて、年若い王妃の白いおもてがあらわになった。
……あどけなさを残した双眸は薄紫。ミルクのような肌には染みも皺もない。しかし、憔悴の色が濃い。
風にあおられて、まとめていた髪がほどけて散らばる。長い金の髪は月明かりの下で鮮烈な輝きを放った。
と、木の根に蹴躓いたエリザベスの膝が崩れる。草の上に手をつくと、エリザベスは整った顔に強い怒りの色を滲ませた。
(負けられない……。術者を追って、陛下の術式を解かせるまでは)
屈辱、劣等感、怒り。
エリザベスにとって、それらはいつも最大の原動力だった。
異国の地スフェーンの宮廷で肩身の狭い思いをすることがあっても、これまでずっとそういった感情によって自らを奮い立たせてきた。
愛娘と離れ離れになった時も、彼女はけして弱音を吐かなかった。いつか必ず親子で笑いあうのだと、決めていたから。
(待っていて……、リシャール様。あなたの呪いを、わたくしは絶対に解きます)
胸の裡で最愛の伴侶にささやきかけ、エリザベスは急いで起き上がろうとした。
すると――。
「……こんなところで一体何をしておられるのですか、エリザベス様」
「――!?」
……聞き慣れた声に思わず振り向く。
この声は。
「……あなたは……!」
……そこには、一人の男がたたずんでいた。身に纏うのは漆黒の衣服。うっすらと差し込む月明かりがなければ、今にも闇の中に溶け込んでしまいそうだ。
「……このような夜更けに、王妃様ともあろう御方が伴も付けずに外出とは……。一体いかがされたのでしょうね」
くつくつと嗤ってから、男はエリザベスを睥睨する。木陰から一人の魔導士がそろそろと出てきた。
(……そう。やっぱりあなただったのね)
負けじときつく睨み返し、エリザベスは手を握りしめた。
「……すべてわかっていたわ。あなたたちのこと。陛下に術式を施したのが本当は誰なのか。そして、あなたの瞳に浮かぶその『色』と、隠し通せない気配……」
闇よりもなお濃い、漆黒の立ち姿。その中に潜んで輝く、残酷な黄金の瞳。
レオノーラの言葉が真実なら、この男の瞳に宿る「色」の意味は――。
……探るようなエリザベスの視線に、男は眉根を寄せた。この男がこういう顔になるときは、大抵図星の時だ。
しかし、彼は優美な笑みでそれを覆い隠した。
「エリザベス様、言いがかりはほどほどになさって下さいませんか? いくら私が魔導士とはいえ、妄想が過ぎるのでは?」
「いいえ。わたくしにはわかるのよ。オルレーアの姫であるわたくしには……全部」
この男のせいで、自分たちはすべてを狂わされたのだ。
愛しい王も。
親友のレオノーラも。
そして……愛娘も。
(この男がバイオレッタを見る時の顔……。尋常ではなかった……)
だからエリザベスはただ失うことしかできなかったのだ。齢三つの愛娘を。
王宮からバイオレッタの姿は消え去り、夫であるリシャールは別離の悲しみに打ちひしがれた。あの時のことを思い出すだけで、エリザベスは憎悪に呑みこまれそうになる。
が、この好機を逃すほど彼女は弱くはなかった。……そう、これはある意味「好機」なのだ。
エリザベスは男の双眸をじっと見据えた。たおやかな笑みすら浮かべて言い放つ。
「……その瞳、一体どうなさったの? ただの術式ではそうはならないはずでしょう」
彼は剣呑な光をその目に宿す。先ほどまでの余裕ある態度はすっかり鳴りを潜めていた。
エリザベスは冷淡に続ける。
「わたくしの予想が正しければ、あなたは近いうちに王宮を追われることになるかもしれないわね」
男は紳士的な微笑みをおもてから消し去ると、忌々しげに吐き捨てた。
「……なんと小賢しい。さすがは『薔薇の王妃』だ。やはり可憐な容貌の裏には棘があるのですね」
彼がすっと手を翳すと、そのたなごころに燃え盛るような紅が渦巻いた。
辺り一面に熱風が吹き荒れて、長く豊かなエリザベスの髪を強く煽る。
たまらず彼女は自身の華奢な身体を庇った。
「……っ!!」
(やっぱり、この男――)
「今この場で貴女を一思いに殺して差し上げたら。そうしたら、私は今度こそ一番望むものを手にできる……」
「……それは、あの子のことなの?」
「お答えする義理はありません」
「あら、それではまるで肯定したようなものね」
エリザベスはゆっくりと起き上がった。フードを脱ぎ捨てると、腰に下げた香料入れにそっと触れる。
(……陛下。バイオレッタ。わたくしはあなたたちを……守りたい……)
瞳を一度きつく閉じてから、エリザベスは右手をすいとひらめかせた。
……白金に白銀。様々な色合いの光の粒子が、その手に集まっていく。
それはエリザベスの使う高位魔術の源だった。
彼女はゆっくりと詠唱を始める。
「謡え……。いざなえ。わが白き星のもとに……。光の神の御名を今――」
負けられない。……負けたくない。
すべてを元通りにするために、この男を絶対に負かしてみせる。
ただ一つだけ……、愛娘を守り通すことができそうにないのが、少しだけ悲しかった。
哄笑とともに、男もまたエリザベスを見据える。
「……どうやらよほど死にたいとみえる」
エリザベスは顔を歪めた。
「ええ。わたくしは……、『薔薇の王妃』は死など恐れないわ。だってあなたは陛下の敵。……許さない……!! ……わたくしは、あなただけは絶対に許さないわ!!」
エリザベスの叫びとともに、鮮光が、爆ぜた。