第一章 黄金の都、さだめの都

 
 ――春の風が吹き荒れる、三月の王城。
 バイオレッタ女王の戴冠式が、中庭のバルコニーで行われていた。
 記念すべき式典の日ということで、今日は王城の一部が民たちに一般開放されている。ピヴォワンヌは旅装のまま、人々の中に混じってバイオレッタの姿を見上げていた。
(……あんたはとうとう、ここまで来たのね)
 バルコニーに立つ異母姉は、まるで別人のように光り輝いている。
 瞳の色に合わせたすみれ色のドレス。淡い雪肌には繊細な金鎖のペンダント。
 バイオレッタの後ろに佇むのは二人の女王補佐官と司祭である。
 ……自分のことのように嬉しいのに、親しかったバイオレッタが急に遠のいたような、そんな錯覚を覚えた。
 
 
 バイオレッタがバルコニーの中央へ進み出ると、国民の声が静まり、沈黙が訪れた。
「皆さん。わたくしは、今日という幸いの日を迎えられたことを、何よりもまず、あなたたちに感謝いたします……」
 バイオレッタは薄紫のドレスの裾を優雅につまみ、深々と辞儀をした。
 胸元に手を添えて、穏やかに笑む。
「皆さんのお声なくして、わたくしの即位はありえませんでした。心からお礼を言います。ありがとう……」
 その言葉に、バルコニー下に集まった民たちがわっと歓声を上げた。
 
 バイオレッタは春風に白銀の髪をなびかせながら、ぎゅっと両目をつぶる。
(……どうか、見守っていて)
 ピヴォワンヌ。クララ。……二人の親友の姿を脳裏に思い浮かべる。
 後宮での生活の中で生まれたたくさんの友人たちのこと。
 再会することはかなわなかったが、ずっと自分を探し続けていたという母のこと。自分に遺志を託した父王のことも。
 そして。
(かつてあなたの愛したこの国を、守らせてください……)
 
 すっと瞳を開けると、バイオレッタは高らかに告げた。
「……わたくしバイオレッタ・エオストル・フォン・スフェーンは今日ここに、女王としてスフェーン王位を継承することを宣言いたします!」
 傍らに控えた補佐官オルタンシアとミュゲが、それぞれラピスラズリとエメラルドの色のガウンをきらめかせながら拝礼した。
 バルコニーが「女王陛下、万歳!」という大きな歓声に包まれた。
 
 
 イスキア歴三八〇九年、三月。
 スフェーン初の女王といわれたバイオレッタ女王は、この時まだわずか十八歳であった。
 紆余曲折を経て玉座に上ったこの女王を、国民はすみれ色の女王レーヌ・デ・ビオレッツの愛称で讃え、祝福した。
 ……まさに彼女は今、幸福の絶頂にいた。
 綺羅を纏う姿はたとえようもないほどに麗しく、白い肌はうっすらと紅潮している。
 しかしその反面、ただ一人の慕わしい存在を喪ってしまった悲しみもまた、その胸に満ちているのだった。
 バイオレッタは民たちに手を振りながら、わずかに瞳を眇めた。
(一年前……。……わたくしは、あの方と出会った……)
 
 
***
 
 事の起こりはバイオレッタ女王の即位から約一年前にさかのぼる。
 すべては当時のスフェーン国王、リシャール・リュカ・フォン・スフェーンがさる予言に傾倒したことから始まった。
 ――ヴァーテル女神の『水』の恩恵をあまねく受ける肥沃な大地、イスキア。ここは俗に「イスキア大陸」と呼ばれている。
 西のエピドート国、クラッセル公国。東の大国・りゅう
 かつて南に存在した魔術大国アルマンディン。そして、北のスフェーン大国。
 この五つの大国はしばしば「五大国ごたいこく」と称される。
 この五大国の王族たちにはいわれがあり、大陸の数多ある種族の中で最も女神に近い血族であるとされていた。
 
 
 ……三千年前のこと。
 火の邪神ジンは水の女神ヴァーテルとの諍いによって、大陸中で死闘を繰り広げていた。どちらの力が神としてより優れているのか決着をつけようとしたのである。
 邪神ジンの火の力によって、大陸中央部にはシエロと呼ばれる灼熱の砂漠が生まれ、大陸の水は一滴残らず蒸発した。
 草木は枯れ、海は干上がり、生まれたばかりの命は次々と散っていった。
 これが今なお大陸で語り継がれる創世期の神々の戦……、『火と水の拮抗』である。
 けれど死闘を征したのはヴァーテルだった。
 彼女は水の力によって再び大陸を潤し、生命を息吹かせた。そして随所に残された邪神の傷跡をすべて癒し、大陸を元通りに修復する。
 戦を終えて眠りにつく際、女神の身体は五つに分かたれて大陸中に飛散したといわれる。
 その「女神の亡骸」を受け継いでいるとされるのが、まさにこの「五大国」の王族たちであった。
 大陸に恩恵をもたらした女神の「亡骸」を所持する王たちを、人々は無条件に敬愛した。
「女神の亡骸」を所持する者、というのは、誇り高き女神の血を受け継ぐ者、と同義だからである。
 イスキアの民たちにとっては、五大国の王族というのは神にも等しい存在なのだ。
 モルフェやフルオラといった新興国もでき始めたが、五大国の繁栄には遠く及ばないだろうといわれていた。
 五大国の王への「信仰」はそれほどまでに揺るぎないものであり、民たちにとっては絶対のものでもあった。
 
 
 ……イスキアの北端に位置するスフェーン大国は、国王リシャールが治める強国として知れ渡っていた。
 彼は領土を拡大するために南の国アルマンディンに攻め入り、かの国の領土と数多ある鉱山のすべてを手に入れていた。
 アルマンディンは「敗戦国」となり、スフェーンに吸収された。
 生き残りのアルマンディン人たちは復讐、そして祖国の建て直しの機会を今か今かと待っていたが、スフェーン側はかの国の姫君を捕虜とすることでそれを鎮圧することに成功していた。
 歯向かうアルマンディン人たちは捕らえられ、焼き印を捺されたのち、スフェーンのいたるところで過酷な労役を強いられていた。
 五大国の一つであったアルマンディンはこうして滅び、スフェーンは今や大国の名にふさわしい列強となっていた。
 
 なんの因果か、王リシャールは第二王妃エリザベスとの婚礼の折、ヴァーテル教会の魔導士にある予言をされる。
 それは、「次代のスフェーンを統べる王は、ただひとりの少女、すなわち女王である」というもの。
 これまでに女が玉座にのぼったことのないスフェーン王家だったが、リシャールはそれを信じた。
 そしてこれまで貫いてきた制度を覆し、すでに生まれていた第一王子を王位継承者の欄から除外する。
 ……熱心なヴァーテルのしもべである彼はその予言に魅入られてしまったのである。
 そして今、十九年の歳月を経てかの予言が実現される日が訪れようとしている。
 歴史の古い「女王国」である東の国・劉になぞらえ、宮廷の人間たちは、スフェーン大国が「第二の劉国」になるのではとささやきあっていた。
 
 
 ……深更のリシャール城。
 リュミエール宮、≪星の間≫。
「……陛下、ご所望の赤葡萄酒をお持ちいたしました」
 黒衣の青年はそっと玉座に向かって声をかけた。
 玉座の置かれた≪星の間≫は薄暗く、赤い緞帳の向こうに仄かな燭台の灯りが点されている程度であった。
 だが、夜目のきく青年の瞳は王の姿をとらえていた。
 彼は赤葡萄酒の瓶を手に、王に近寄る。
「クラッセル公国の年代物です。ただいまお注ぎいたします……」
「――要らぬ。それより魔導士、例の件はどうなっておる?」
 王は凛とした声音で言い、苛立たし気に肘掛を指で叩いた。けぶるような金の髪が蝋燭の光を受けてきらきらと輝いている。
 激しやすい王の性格をよく理解している青年は、努めて穏やかに言った。
「万事滞りなく……。私の部下たちが、行方知れずとなっていた王女殿下を二人とも見つけ出しました」
「では早く連れてくるがよい。そなたも知っての通り、この身体はもうもたぬのだ。一刻も早く次代の王を……、『女王』を選び出さねばならぬ」
「第一王女のオルタンシア様や、第二王女のミュゲ様ではご不満なのですか?」
「……あれは不義の子だ、容易に王位を与えては廷臣たちに示しがつかぬ」
 青年はなるほど、と相槌を打った。
「第一王子殿下、第五王女殿下では容姿にいささか問題がございますしね」
「わかっているなら急がぬか。あやつは確かに僕の血を引く唯一の男児だが、僕は忌み子の王子を王にする気などない……。それに、予言は絶対だ。次代では男は王位に就くべきではないのだ」
 青年が黙り込むと、王はまっすぐに彼を見つめた。
「……命令だ、魔導士。一刻も早く王女たちを連れてくるのだ。……僕にはもう時間がない」
「御意……」
「僕はこれから、四人の王女たちをふるいにかける。その素質を競わせ、最も優れた王女を女王とする。たとえ我が国が第二の劉となってもかまわぬ……、予言は守るべきだ」
「エリザベスのためにも」、と王は呻くように言った。
 青年は如才なく微笑む。
「一年後が楽しみでございますね、陛下……」
「ふん。お前は僕の腹心なのだろう? その肩書は名ばかりか? わかったらせいぜい力を尽くせ」
「かしこまりました、私の陛下――」
 
 
 ――青年が王によって城下に遣わされた日。
 ……歯車は、すでに動き出そうとしていた。
 幾千もの夜を超えて緻密に織り上げられた復讐劇の「舞台」。
 その壇上に、「彼ら」は今まさに上がろうとしていた。
 
***
 
 
 
 王都アガスターシェの中央区教会。
 ひんやりとした空気に包まれた聖堂で、朝の祈りが捧げられていた。
 敬虔なヴァーテル教徒たちは朝の礼拝を欠かさない。
 一度枯れた大地に再び生命の『水』の恵みをもたらした女神を、人々は無条件に崇め、敬っているのだ。
 
 ……そんな中、礼拝用の椅子に浅く腰かけ、花顔を曇らせる一際美しい少女がいた。
 たおやかで優しげな顔立ち。抜けるように白い肌。憂いをたたえた双眸は、スフェーン国花であるにおいすみれと同じ薄紫。
 低い位置でひとつに括られた髪は、見る者が思わずはっと目を見張るような白銀で、教会の窓から差し込む朝陽に照らされて、きらきらと儚げに輝いている。
 簡素な薄水青の外出着、髪には共布のリボンという出で立ちだ。
 少女は名をルイーゼといった。
 中央区の繁華街にある劇場「アルバ座」で修業にいそしむ女優見習いである。
 
(……どうして死んじゃったの、マリア……)
 
 祈りの時間の間中、ルイーゼはぼんやりと養母マリアのことを考えていた。手にした祈祷書をめくる指先もおぼつかず、視線は虚ろに伏せたままだ。
 
 朝の祈りのために訪れた聖堂の中には、アルバ座の仲間たちがひしめいている。
 そこに大好きなマリアの姿はない。
 育ての親の女優マリアは、数か月前に病死したからだ。
 
 祈りの言葉が全く唱えられなくなってしまったので、ルイーゼは座長に断っていったん聖堂を出ることにした。
(馬鹿ね、私。こういう時こそ祈らなくちゃいけないのに……)
 席を立ち、座長に声をかける。
「すみません。気分が優れないので、少し庭に出てきます」
 嘲笑の声と好奇の視線が追いかけてくるのを背で感じつつ、彼女は一人中庭に出ていった。
 
 
 噴水が設えられた中庭にたたずむと、昔マリアとともに礼拝に来たことが思い出されて悲しくなった。
(あの時も一緒にすみれを見たわね……)
 
 あの日、教会に咲く青紫色のすみれを指して、マリアは微笑んでいた。
『ほらルイーゼ。すみれよ。あんたの瞳とそっくりな色で綺麗ねえ』
 あの頃のルイーゼはまだ花の種類もよくわかっていない年齢だったが、マリアに教わって、少しずつ花の名前や色を覚えたものだ。
『あ、あれは、アーモンドのお花でしょう? ひらひら、踊ってるみたい』
 まるで舞台の上で恋の踊りを踊るマリアのようだと、幼心に思った。
 マリアは女優たちの中でも舞踊も歌も抜きんでて上手だった。ルイーゼはマリアにねだって、よくダンスを教えてもらったものだ。
『そうよ。……あんた、頭いいわね。随分前に教えた花のことをまだ覚えてるなんて、あたしとは大違いだわ』
『マリア、教え方上手だもん』
『そう? あたしは昔から、勉強はからっきしダメなんだけどね。そうだ、あんたに今度花言葉の本買ってあげる。そうしたら色々覚えて、あたしにも教えて?』
『うん!』
 
 王都で二人で買い物をしたこともある。
『この街ではあたしの歌声が一番だって、そう言ってくれるお客さんも増えたわね』
 もぐもぐと焼き立ての白いパンをほおばる幼いルイーゼの頭を撫で、手を繋ぎながら、マリアはそう言った。
 当時の彼女は働きづめでほとんど食事を摂っていなかったが、ルイーゼの笑顔さえあれば幸せだと、くすんだ金の髪を揺らして笑った。
 そしてまだ育ち盛りのルイーゼに、客から与えられる金で、おやつにとパンや菓子を買い求めた。
 
 ルイーゼは親の顔を知らない。
 物心ついたときには一座の看板女優である彼女に拾われて、歌と芝居を仕込まれていた。
 歌の音程は必ずといっていいほど外したが、マリアは「少しずつやっていけばいいのよ」と励ましてくれた。
「お前は器量はいいが歌は散々だな」と座長にひどく叱られたとき。
「遊びでやってるんじゃないのよ。働く気がないなら出ていきなさい」と女優たちに責められたとき。
 いつも、慰めてくれたのはマリアだった。
『気にすることないわよ。あたしだって昔はよく音を外したわ。あんたはあんたでよく頑張ってる。……大丈夫よ! そんな顔しないの!』
 
 形ばかりの稽古が終わると、マリアはよく街に連れて行ってくれた。
 二人で行くのは大抵パンや菓子の店だった。
『あんたは痩せすぎよ』
 ルイーゼの食の細さを気にしていたマリアは、とにかく食事をさせたがった。そして、焼き立てのパンや宝石のような菓子をルイーゼに買い与えるのだった。
 一座ではふかふかのパンさえ贅沢とされていたし、甘いものはめったに食べられなかったから、単純にルイーゼは嬉しかった。
 不思議なことに、緊張すると全く食べられなくなる食事も、マリアが隣にいてくれると思うと食べることができた。驚くと同時に、それくらいマリアはかけがえのない存在なのだと思った。
 血の繋がりはなかった。けれどそれ以上の何かが、二人の間には確かにあったのだ。
『ありがとう、マリア! 大好き!』
 そう言ってマリアに抱きつくと、彼女はいつも満面の笑みを湛えてルイーゼを抱き返した。
 
 そうやって十数年を共にしてきた。
 なのに、病は容赦なく彼女の命を摘んだ。あっけない終焉だった。
 痩せ細ったマリアの亡骸を埋葬するとき、喪服のルイーゼはマリアの身体に取りすがって泣きじゃくった。
 周囲には「年甲斐のない子ね」と笑われたが、気にしなかった。マリアの一番近くにいた自分が泣かないで、誰が泣くというのだ。
『いや……! マリア……、マリアお願い、私を一人にしないで!』
 暗い色の雲が立ち込める日。
 冷たい雨粒は、容赦なくルイーゼの頬を打った……。
 
 
 はっと我に返り、頬を涙が濡らしているのに気づいたルイーゼは、その場にうずくまる。
「っ……!」
 ふるふると首を横に振る。
(どうして泣くの? 私、こんなに弱い人間じゃだめなのに)
 マリアの葬儀の時も、「あなたが泣いてばかりでは、彼女は安心して女神様の御許へ行けませんよ」と年かさの修道女にたしなめられた。
 だが、あふれてくるものは止められなかった。
 マリアは自分の恩人なのだ。そして、ルイーゼにこの上なく大切な温かさと居場所を与えてくれた人だった。
(本当のお母さんなんて関係ない、マリアが私のただ一人のお母さんよ……!)
 仲間にいじめられた時も、かばってくれたのはマリアだ。
 落ち込んでいれば励ましてくれ、風邪をひいたときには看病をしてくれた。
 だからこそ、自分がマリアを救えなかったことが悔やまれてならない。
「なんで……、マリア……。私、一人じゃ……っ!」
 
 その時、中庭の植え込みをかき分ける気配がした。
 がさがさという葉の擦れる音がする。
「だ、誰?」
 冷静になったルイーゼは思わず誰何した。音のした方を見やる。
 刹那、ルイーゼははっと息をのんだ。涙がはたと止まる。
(えっ)
 芍薬色の見事な髪の少女が、そこに佇んでいたからだ。
 髪を一つにまとめ、異国風の男物の服を着込んではいるが、大きくて愛らしいつぶらな瞳と丸みを帯びた体つきは少女特有のものだ。
(綺麗な女の子……)
 年の頃はルイーゼと同じか、少し下のようにも見受けられる。
 生成りのシャツの上にゆったりとした紅いチュニック風の衣を重ね、腰には立派な長剣を佩いている。
 腰には深緑の鮮やかな布を巻き付け、色とりどりの房飾りを垂らしていた。手首に光るのは翡翠の腕輪だ。
 不思議な男装の少女に、ルイーゼは一瞬目を奪われた。
「あ、あの。ごめんなさい、まさか、私のほかにも人がいるとは思わなくて」
 ルイーゼが涙をぬぐいながら声をかけると、彼女はきまり悪そうに言った。
「あたしこそ悪かったわ、いきなりごめんなさい。……泣いていたの?」
 鈴を振るような愛らしい声音だ。口調がどことなくマリアに似ていて懐かしい気持ちになった。
「あ、こ、これは。……ええ。実はそうなの」
 少女はくるりと背を向けた。革靴の踵が石畳に擦れて乾いた音を立てる。
 泣いているルイーゼのことを極力見ないように努めているらしかった。
「泣けるなら好きなだけ泣いた方がいいわ。その方が早く楽になるし。これは父さんの受け売りだけどね」
「あ、ありがとう……」
「じゃ」
 少女はぶっきらぼうに言うとそのまま立ち去ろうとする。
 なぜだか離れがたくて、ルイーゼは「待って」とつい声をかけてしまった。
 振り返った少女に、ルイーゼは言う。
「……あの……。少しの間でいいの、ここにいて」
 少女は訝しんだようだったが、風で乱れた前髪をかきやるとこちらに歩いてきた。
「……変な人ね。普通泣くときって一人で泣きたいものでしょうに」
「ごめんなさい」
「かまわないわ。それにしても、あんた綺麗な髪をしているのね。あたしの国にはこんな色の髪の人はいないわ」
 少女はルイーゼの傍らに腰を下ろすと、興味津々といった身体でその銀の髪を見つめた。
 こちらを見る紅い瞳はぱっちりと大きく、あどけなくて可愛らしい顔立ちをしている。
 その雰囲気に、緊張が解けてきたルイーゼはにっこりした。
「そう? 私はあなたの髪の方が綺麗だと思うわ。とっても鮮やかな紅で。大陸の東には紅い髪の人が多いって本で読んだことがあるのだけれど、あなたはもしかして東の国『劉』の人?」
 少女はこくりとうなずいた。
 ……やはり劉から来たのか。
 興味を覚えたルイーゼはさらに訊ねる。
「名前を聞いてもいいかしら」
香緋こうひよ。香る緋色、って書くの。劉では芍薬を意味するわ」
 芍薬の名を持つ少女。容姿にも雰囲気にも似つかわしく思えた。
 ルイーゼは涙をぬぐうと微笑んだ。
「素敵な名前ね。私はルイーゼっていうの。劇場で暮らしているの。まだ見習いだけど」
「あたしはちょっと用があってスフェーンに来たんだけど、立派な都でびっくりしているわ。黄金の煉瓦でできた聖堂なんて、劉にはないんだもの」
 肩をすくめて香緋は笑っている。
「あれはフェマール石っていうのよ。シエロ砂漠で採れる鉱石。磨くととっても綺麗な赤色になって、高値で売買されるの」
「ああ、シエロね。火の邪神ジンが生み出したっていう砂漠よね。熱くてだだっ広かったわ。山脈を抜けたら急に砂嵐が吹いてきてびっくりしたし……」
 香緋の言っている「山脈」というのは恐らく大陸の東部、広大なシエロ砂漠と劉との境目にあるジプサム山脈のことだろう。その険しい山には少数民族が暮らすという。
 
 ルイーゼは少しだけ彼女がうらやましくなった。
 マリアから文字を習ってから、戯曲の原作ばかり読むようになった。そのせいだろうか、ルイーゼは空想にふけるのが大好きだ。
(この子がヒロインなら、きっと馬に乗るわね。シエロの砂嵐の中を、異国の装いで駆けていく。盗賊に出くわしたら一網打尽にして……。ほの暗い洞穴で、カンテラの灯りを頼りに一夜を過ごして、朝になればオアシスの泉でその身体を清めるんだわ)
 何かを演じさせるならやはり女剣士のような役回りがよさそうだ。実は恋人がいるというのもいい設定になるかもしれない……。
(いいなあ……)
 
 ほうっと息をつくと、ルイーゼは何の気なしに言う。
「……あなたは、私の知らない世界を知っているのね。私はこの小さな都の、ほんの狭い世界しか知らないのに」
 だが、その言葉に香緋は複雑そうな顔をした。
「それはどうかしら……、意外と誰でもそんなものでしょう? 人間って。今生きている場所でもがくのが精いっぱいなはずよ。あたしの場合は……、知るべき時が来たから仕方なく扉を開けただけ」
 意味深な言葉に、ルイーゼは首を傾げた。香緋の整った顔はほんの少しだけ曇っている。
 これ以上追及するのはためらわれたが、香緋はぽつぽつと話し出した。
「……あたしね、母さんが死んでしまって、もういないの。実の父親とは九つまでこのスフェーンで一緒に暮らしていたけど、あたし自身はもうあんまり顔も覚えていなくて……。相手とあまりそりが合わなかったこともあって、母さんはあたしがまだ小さい頃に故郷の劉に戻ることにしたの。そのとき出会ったのが今の父さんで、あたしの育ての親なんだけど」
 香緋はそこで口をつぐんだ。この話題にはあまり触れたくないとでもいうように。
 実父がスフェーン人ということは、もしや香緋は彼に会いに来たのだろうか? 実父が恋しくなって?
 あるいは、一緒にスフェーンで暮らさないかと呼び戻されたのかもしれないが、「家柄」という言葉を持ち出してくるあたり、何やらやむにやまれぬ事情がありそうだ。
「……私は孤児だから少しうらやましいわ。お父さんもお母さんもわからないの。育ての親はいたけど、少し前に死んじゃったから」
 香緋はそこでわずかに顔を緩めた。
「ああ……。それで泣いてたのね?」
「あ……。ええ……」
「泣けるならたくさん泣いていいと思うわ。その方が死んだ人だって喜んでくれるわよ」
「どうして?」
 びっくりして、ルイーゼは思わず訊ねた。
 そんなことは今まで言われたことがなかった。周りの人間は「いい加減泣きやめ」とか「泣いていたって死んだ人間は帰ってこない」、「みっともない」などと並べ立てるばかりだったから。
 だが、香緋は「だってそうでしょ」、と力強い笑みを浮かべた。
「それだけあなたにとってかけがえのない、大事な存在だったということだもの。泣いたり思い出したりしてもらえないほうが可哀想よ」
 唐突にまた涙が溢れてきて、ルイーゼは慌てふためいた。
「や、やだ、私ったら」
「……いいわ。泣けるんでしょう? なら泣きなさいよ」
 香緋はそっとルイーゼの肩に手を回した。ぽんぽん、と背を軽く叩く。
 マリアが昔してくれたような優しい手つきに、図らずも涙腺が緩んだ。
「っ……!」
 香緋のチュニックに顔を埋め、ルイーゼは嗚咽した。
 初対面の子の前でこの世の終わりみたいに泣きわめくなんて、どうかしている。
 なのに、香緋の手のひらはひどく温かくて、マリアを救えなかった事実も、彼女を忘れることのできない自分も……何もかもを包んで赦してくれるような、そんな気さえしたのだった。
 
 
 ルイーゼが泣き止むと、香緋は足元のすみれを指さした。
「綺麗な花ね。これ、なんていうの? あたしの国にはないみたい」
 借りた手巾でもう一度目元をぬぐい、ルイーゼは丁寧に答える。
「これはすみれよ。春のお花。国花だから特に大切にされているの」
「へえ……。紫色で綺麗ね。まるであんたの瞳の色だわ」
「マリアも……育ての親もそう言ったわ」
 ルイーゼは微笑んだ。
「これから香緋はどうするつもりなの?」
「んー……、用事の前に少しだけ都を見て回りたいわ。約束まで、まだ時間もあるから……。この教会には女神像が見たくて来たのよ」
「ああ」、とルイーゼは聖堂に飾られている女神ヴァーテルの像を思い出した。なめらかな石膏でできた、うっとりするような美貌の女神像である。
 たおやかな笑みを湛えた顔。頬のなだらかなラインに、優美な腕や胸の曲線。同性からしても惚れ惚れする美しさなのだ。
「あれが女神ヴァーテルなのよね。綺麗な顔だわ」
「本当は人間の娘だったという説もあるのよ。火の神ジンからこのイスキアを救った、救世主のような女神様……」
 言ってルイーゼは、「そうだわ」、と手を合わせた。
「よかったら王都を案内しましょうか? 私、王都育ちだから得意よ」
 ルイーゼが言うと、香緋は「ううん」と首を横に振った。
「実はね、育ての親が……父さんが一緒で、今宿屋で待ってるの。父さんはすごいのよ、昔は凄腕の用心棒だったんだから」
「それじゃあ、お父様とこの都を見て回るのね。楽しそうだわ」
 香緋は少しだけ強張った顔つきになる。その理由が思い当たらず、ルイーゼは狼狽した。
「あの……」
「……うん、ありがと。あんたに案内してもらえなかったのはとっても残念だけど、今度もしまた会えたら、その時はぜひお願いしてもいいかしら?」
「ええ。もちろんよ」
 
 二人は立ち上がった。優しい春風がさらさらと髪を揺らして通り過ぎていく。
 ……と、聖堂に続くドアが開き、中から厳めしい顔つきの座長がぬっと顔をのぞかせた。
「……座長!」
「ルイーゼ、そろそろ行くぞ。礼拝の時間は終わった。劇場に戻る時間だ」
「はい、今行きます」
 座長にうなずき、ルイーゼは香緋を見た。
 なんだか名残惜しい気持ちになってしまって、つい彼女から目が逸らせなくなる。
「……ほら。時間だって。行きなさいよ」
「……あの、香緋」
 
『今度もしまた会えたら』
 
 次いつになるのかなんてわからない。ひょっとするともう会えないかもしれない。……でも。
(また、会えたらいいのに)
 そう思って、ルイーゼは右手を彼女に差し出した。
「今日はありがとう。あなたにとても、助けられたわ。……今度もし会えたら……、また」
 香緋はきょとんとしていたが、やがてゆっくりとルイーゼの手を握った。花開くような笑顔を浮かべて。
「ええ。きっとまた」
 
 ……少しだけ残念な気分になりながらも、ルイーゼは踵を返した。

 

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