第十二章 紫陽花と鈴蘭

 
 侍従たちにかしずかれながら、二人の美姫は享楽の間に入ってきた。
 父王に向けて優雅な辞儀をする。
 この二人が、第一王女のオルタンシア姫、そして第二王女のミュゲ姫だろう。城下で名前だけは聞いている。
 バイオレッタはしばし二人に見惚れてしまった。
(噂に聞いていた通りの見事な御髪だわ)
 オルタンシアの髪は瑠璃色、ミュゲの髪は翡翠色だ。ラピスラズリとエメラルドを連想させる色彩で、一般的なスフェーン人には滅多に見られない色調だった。
 姉オルタンシアは溌溂として元気のよさそうな雰囲気だが、妹のミュゲの方はやや陰りのある色香を放っている。印象はまるで正反対だ。
 また、体つきに関しても全く真逆といってよかった。姉姫が女らしく盛り上がったふくらみを持つのに対し、妹であるミュゲの方はいかにも華奢で、腰など今にも折れてしまいそうだ。
 
「遅れて申し訳ございません。晩餐会を御愉しみのようで何よりですわ、お父様」
 オルタンシアが強気に言った。強いまなざしと、結い上げた瑠璃色の巻き髪が美しい姫だ。「紫陽花」の名に合わせてか、光沢のあるサファイアブルーのドレスに身を包んでいる。結い髪に挿された無数の飾り櫛が目を引く。
「……まあ、お父様ったら。今宵はまた新しい花を愛でておいでですのね?」
 翡翠の双眸のミュゲがそう揶揄する。
 シュザンヌ妃によく似た面立ちをしているミュゲは、若葉色のドレスとオレンジの花で着飾っている。伏し目がちな姫で、どこか眠たげなとろりとした目つきが煽情的である。華奢な体つきのせいか、扇を手にする姿までなよやかで美しい。
 やがてオルタンシアがこちらに気づいてふんと鼻を鳴らした。
「あら、貴女達ですの? 新しく薔薇後宮で暮らす方って」
 ミュゲも黙ったままで追従笑いを浮かべる。
「わたくしを見て怯えているようね。わたくしは気骨のない姫は嫌いよ。早く城下にお帰りになったらいかが?」
「お姉様。そのようにはっきり申し上げてしまっては哀れですわ」
 くすくすと二人は笑いあった。
「でもそうでしょう? ミュゲ。騎士にも官僚にも意気地がなくて、わたくしについてこられる殿方などこの王宮には存在しないのだもの。今度は少しくらい楽しませてもらえるかと思ったのに」
 美酒を愉しんでいたリシャールはたちまち険しい顔つきになる。
「――オルタンシア。今の発言はどういう意味だ?」
「そのままの意味ですわ、お父様。プランタン宮に何度赴いても、男たちは本気でわたくしの相手をしないのです」
「馬鹿者!! 何のために後宮があると思っておるのだ、そなたは!! 未婚の姫を守るためであろう!? だのに、なぜわざわざ外廷になど足を運ぶ!?」
 オルタンシアは慣れている様子で、わずかに眉をひそめただけだ。
「……申し訳ございません。ですが、後宮には娯楽がないのですわ」
「ミュゲ。妹であるそなたもそう思うのか?」
「そのようなことは考えてもみませんでしたわ。わたくしは今の後宮での暮らしに十分満足しております」
「ふん……。それもそのはずだ。後宮にはすべてを揃えておる。そなたたちにかしずく女官と侍女。美しい庭園。甘い菓子に清潔な褥……。日々の飢えや乾きを満たすものはすべて与えているはず。後宮での暮らしが不満というのならば、それは僕に楯突いているのと同義であるぞ」
 オルタンシアは返答に詰まったようだったが、やがて「申し訳ありません、お父様」と小さく謝罪した。
「早く着席せよ」
「ありがとうございます、お父様」
 ミュゲ姫は意気消沈している姉姫の様子を横目で見て、くすりと笑った。次いで椅子を引き、ゆったりと腰かける。オルタンシアも渋々といった体で着席した。
 
「そなたたちも知っての通り、バイオレッタとピヴォワンヌが王宮に帰還した。この二人は薔薇後宮でそなたたちと共に暮らす姉妹でもある。仲良くしてやれ」
 リシャールが言い、二人は緩やかにバイオレッタたちを見た。
 こちらに向けられる二人のまなざしは、シュザンヌのそれに酷似している。
 一見親しみやすく思えるのに、その瞳の輝きはどこまでも冷ややかだ。こんな風に感情の全く読み取れない目つきで見られては委縮してしまう。
(どうしましょう。こんな方たちと仲良くなんてできるのかしら……)
 
 ……その時。
 
「――国王陛下。わが主君、クララ姫様をお連れいたしました」
 朗々と響き渡る青年の声に、バイオレッタははっと顔を上げた。
(……『クララ姫』?)
 開きかけた扉を見やり、バイオレッタは呆気にとられた。
 茶髪の青年に支えられながら、ことに美しい所作で一人の姫君が歩いてくる。
 すらりとした長身を薄紅のドレスに包み、左手には宝珠の飾りの下がった羽根扇を携えている。
 背を流れる長い髪は青年と同じ薄い茶色だ。強い意思の感じられる瞳は澄み渡る青色をしている。
 肌はきめ細かで、形のよい唇は淡い桜色の紅で彩られている。伏せたまつげは肌に影を落とすほど長い。
(お綺麗な方)
 オルタンシアやミュゲに勝るとも劣らない美貌の持ち主である。否、もしかすると彼女たち以上に美しいのではないか。
 バイオレッタはぽうっとなりながらも、彼女の名前を思い出す。
(この方が、クララ・リブロ・フォン・アルマンディン様――)
 ここに来る前にサラが教えてくれた、敗戦国アルマンディンの王女の名だ。クロードが馬車の中で話していた、南の大国の姫。薔薇後宮の虜となって久しい姫君……。
 
「陛下。支度に手間取りまして申し訳ございません。平にご容赦くださいませ」
 事もなげにそう言い、クララ姫はバイオレッタの方をちらと見てにっこりした。切れ長で涼やかな目元が笑みの形に細められる。
(この方が……アルマンディンの姫君であらせられるクララ様。わたくしのお母様がお世話をしていたという方……)
 幼少期、バイオレッタの母エリザベスの庇護下に置かれていたという姫。
 ……美しい。非の打ちどころもないほどに。
「クララ姫。何をぐずぐずしておる。さっさと着席せぬか」
「はい。申し訳ございません、陛下」
 意に介した様子も見せず、クララ姫は完璧な所作で椅子に腰を下ろした。先ほどの体格のいい茶髪の青年が傍らに控える。
 リシャールは眉間に皺を寄せ、きつく彼女をねめつけた。
「……まだその毒見役とやらを侍らせておるのか? 『従属の証』のくせに生意気なことだ」
「ですが陛下としても、大事な人質であるわたくしを毒などでみすみす死なせるのは不本意なのではございませんか?」
 そして、「アルマンディンの残党たちに言うことを聞かせるための手駒なのですから」とクララ姫は付け加える。花のように微笑みながら。
 リシャールは不機嫌そうに唇を捻じ曲げると、むっつりと黙り込んだ。
(なんて方なの……!)
 あのリシャールと互角にやり合っていることに、バイオレッタはひどく感動した。服従を強いられる身でありながら、クララ姫には矜持も教養もあるのだ。
 王をやり込めることさえためらわない姿勢は尊敬の一言に尽きる。
(わたくしもこの方のように自分の意見をきちんと言えたなら……)
 
 リシャールは舌打ちし、つっけんどんに言う。
「クロード。興が削がれた。何か気晴らしになるものを」
 リシャールの言葉にバイオレッタは我に返った。王は黒衣の魔導士に目配せをする。
 クロードは恭しく微笑んだ。
「……かしこまりました、陛下」
 相変わらずの優美な笑みに思わず目を奪われたが、意味が分からずバイオレッタは首を傾げる。
(何……? 余興ということ……?)
 クロードは白絹の手袋をゆっくりと外した。胸元に収めた後、長い指をぱちんと鳴らす。
 刹那、照明がふっと落ちた。
「えっ……!」
 バイオレッタは狼狽して声を上げた。きょろきょろと辺りを見渡す。
 燭台の炎は消え、≪享楽の間≫を濃密な暗闇が支配している。が、他の面々が落ち着き払っているのが暗がりの中うっすらと見えたので、バイオレッタはほっと胸をなでおろした。
 それにしても……。
(これが魔術?)
 初めて目にするが、なんだか不思議な光景だ。
 やがて、詩を吟ずるようにまろやかな声が聞こえてくる。
「……星々よ、瞬け。永久へと誘え。其はいざなうもの、包み込むもの。夜の幻燈よ、現れよ……」
 その言葉を合図とするかのように、小さな灯りが次々と点りだした。
≪享楽の間≫に瞬く間に色とりどりの炎が咲く。
 黄色、赤、薄紫。ゆらめく火は幻想的でありながらどこか楽しげな雰囲気だ。
 クロードは先ほどより幾分強い声でささやいた。
「汝の名は“闇”……!」
 炎が一斉に爆ぜた。
 次の瞬間バイオレッタの目に飛び込んできたのは、まるで夢のように蠱惑的な光景だった。
 テーブルについた面々の周囲を、妖しいほど美しい蝶がひらりひらりと飛び交う。金銀の粒子と宝玉のごとききらめきを振りまきながら、妖艶な翅を羽ばたかせて軽やかに飛ぶ。
 やがて≪享楽の間≫のいたるところに現れだしたのは、水浴びをする乙女たちだ。絵画に出てくるようなふくよかな肢体。跳ねるしずく。乙女たちは誘いかけるように甘い声で楽しげに歌った。
 景色は次々と移り変わる。
 黄金の竪琴を手に歌を披露する吟遊詩人。宗教画に描かれる『嘆きの人魚』。女神ヴァーテルを思わせる白銀の髪の乙女――。
 まるで聖典の一場面を演ずるように、闇の中で彼らは戯れる。吟遊詩人は高らかに歌い、乙女たちは身を寄せ合い、『嘆きの人魚』はそれを見守るように水際で微笑む。
 まるでかつての理想郷だ。
 暗闇の中に描かれる極彩色に、宮廷人たちは感嘆のため息を漏らしている。
 いななきにぱっと視線を上げると、光と影を思わせるような白馬と黒馬がいた。二頭は向かい合ったかと思うと、やおら互いに向けて疾走しだす。
(あっ)
 衝突のあと、二頭の体が飛散した。息をのんで見つめていると、その体から溢れ出した七色の光が緩やかに収束していく。
 クロードはもう一度ぱちんと指を鳴らした。
 乾いた音と共に、すべての大燭台に一斉に火が点る。≪享楽の間≫に宮廷人たちの歓声と拍手が響き渡った。
 
「さすがはクロードだな。ヴァーテル教の聖典をああして再現するとは……」
 リシャールの賛辞に、クロードはそっと頭を垂れる。リシャールは興奮に頬を上気させて彼を見つめた。
「あの蝶は何度見ても美しい。籠に入れて飼いたいものだ」
「陛下。そのようなお願いでしたらいつでもお聞きいたしますのに」
 言って、クロードは白い指の先に闇を凝らせる。次の瞬間、それは鮮やかな青い蝶に変化していた。
「闇の魔術で生み出した蝶です。何を与えずとも羽ばたき続け、翅を輝かせ続けます。寛大な陛下に献上いたします。……籠をお持ちなさい」
 柔らかな声でクロードが侍従に命じた。
 やがて侍従によって差し出された銀の籠に、クロードはその青い蝶をそっと閉じ込める。
「……どうぞ、陛下。あなた様のお好きなように」
「そなたはやはり気が利く男だ。しばらくはこやつで愉しむとしよう。無聊を慰めるにはちょうどよさそうだな」
「ええ……」
 言って、クロードはゆるゆるとバイオレッタを見た。
 けだるげでどこか色気のあるまなざしを注いでくる。
 逃れられないと悟ったときにはもう遅く、バイオレッタの視線は彼に絡めとられていた。
 
 こうして見つめられるのが恐ろしい。なのにクロードは、何を考えているのか全く読めない顔でバイオレッタを見る。
 ……否、本当はわかっていたのかもしれない。彼が向けてくる強すぎるほどの愛執を。
 
 
 
 

 

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