一枚の絵画となったバイオレッタの姿を、黒衣の魔導士はうっとりと眺めていた。
辺りには魔術の残滓が未だ音もなく漂っている。
紅い閃光の名残は、まるでクロードの周囲を取り囲むようにちかちかと瞬いていた。
彼は眼前に浮遊する額縁から目が逸らせずにいた。
……アンティーク風の彫刻が施された、黄金の額縁。
その中にはまるで息をしているかのように生々しいバイオレッタの麗姿がある。
これは生者を生きたまま絵画に取り込む特別な魔術である。
人間を『絵画の世界』へ封じ込め、現実世界から隔絶してしまうというもので、クロードがこの「罠」のために練っておいた複雑な術式だった。
珍しい薔薇の形に織り上げればバイオレッタも興味を持つだろうと踏んでいたが、どうやらその読みは正しかったようだ。
青薔薇から噴き出た魔力は彼女を絡めとり、『絵画の世界』への扉を開いてしまった。
……愚かなバイオレッタ。もっと用心してさえいれば、こうして囚われることもなかったというのに――。
この内部に広がる『絵画の世界』というのはすべてがクロードの領域だ。彼の精神世界と繋がっている空間で、他者はめったなことでは侵入できない場所となっている。
そしてそれは、クロードが望みを果たすのには絶好の状況であるといえた。
アインの提案通りにバイオレッタを愛でてやるには、まず彼女を城から連れ出さねばならない。
監視の目が厳しい王城では、思うさまバイオレッタを愛することなど到底不可能だ。
リシャールに知られれば一大事となるし、その時点でバイオレッタとの関係が断ち切られる可能性が高い。
となれば、やはりこうするしかないのだ。
彼女をさらって、クロードの支配する領域に幽閉してしまうこと。
そうすれば、クロードの望みはことごとく叶えられる。
バイオレッタとの交情に、アイリスの魂を宿す器の入手、愛しい伴侶の蘇生まで。……すべての望みを叶えることができるのだ。
もっと早くこうすべきだったのだ。
バイオレッタと親しむより先に、クロードは彼女を捕らえてしまうべきだった。
情が移れば辛さが増すように、恋などすれば思うように動けなくなってしまう。恋情という鎖に捕らわれて、自由に目的を果たすことができなくなってしまうのだ。
(馬鹿なことをしたものだ。最初からこうするべきだった。下手に距離など縮めれば余計辛くなるだけだというのに)
クロードはそこで嘲るように笑った。
「貴女は本当に愚かしくていけない方だ。私の仕掛けた罠に、こうも易々とかかってくださるのですから……」
さながら蜘蛛の糸に絡めとられた蝶のようだと、クロードはくつくつと嗤った。
彼はその昂ぶりのままに肖像画に手を這わせる。
絵画となったバイオレッタの頬を、鎖骨のくぼみを、胸元を……、魔導士の執拗な指先がなぞり上げてゆく。
その高揚と愉悦に、クロードは口元に歪んだ笑みを刷いた。
「私と貴女の世界を何者にも邪魔されないように、とっておきの場所を用意して差し上げましたよ、バイオレッタ……。貴女の柔肌が他の男の視線に晒されるなど、あってはならないこと。そうでしょう? 姫」
クロードはそのまま肖像画へ唇を寄せる。額に、頬に、首筋に。愛しの王女の身体にくまなく唇を押し当てては狂おしげなため息をつく。
それはひどく倒錯的な光景だった。
絵画となった娘の雪肌を、男の熱い唇が辿ってゆく。
唇でしっとりと触れ、食み、濡れた音を立てながら軽く吸う。
それはまるで、直に触れられないもどかしさを絵姿に接吻することによって満たそうとしているかのようだった。
バイオレッタの心の臓の辺りへ恭しくキスを落とし、クロードはぞっとするほど冷たい声音でつぶやいた。
「……なのに貴女ときたら、毎晩のようにこの美しい肌を露わにしていらっしゃる。陛下のご命令とはいえ、許せません。私だけが、貴女を愛でて差し上げられる唯一の男だというのに……」
肖像画に目をやり、その美しい白い肌を舐めるように見る。
ふくよかに盛り上がった胸元、まろやかな肩のラインに細い腰。
どんなドレスにくるまれていても、バイオレッタの魅力は揺らがない。
その落ち着いた物腰やどこかしどけない表情は、どんな時でも男の欲を激しく煽り立てる。
ゆるゆると動く指先や、慎ましく伏せられた白銀のまつげ。時折うっすらと開かれる、まるでつぼみのような淡江の唇……。
もともと口数が少ないことも相まって、彼女に並々ならぬ関心を寄せる人間は多いようだった。
クロードはそこで端整な顔を歪めた。
バイオレッタを無遠慮に視姦する男どもを、一体何度憎らしく思ったかわからない。
夜会の席で彼女に触れようとする青年貴族、隙あらば懇意になろうとする男性官僚に、熱っぽい視線を注ぐ騎士や侍従。王配候補として目された異国の王子たち。
……挙句の果てには父王であるリシャールさえ。
クロードはバイオレッタに近づくすべての男を嫌悪していた。
彼らがバイオレッタの関心を引こうと躍起になるたび、クロードは歯噛みした。
近寄るな。薄汚い手で触るな。馴れ馴れしく話しかけるな。
何度もそう念じながら、その時間が過ぎるのをただ待った。
……彼女は自分のものだ。たとえどんな姿になっても、何度生まれ変わっても、それは絶対に変わらない事実だ。
なぜなら自分たちは見えない鎖で繋がれているのだから――。
「……本当にいけない姫だ。貴女はいつだってそうですね。いつも私の心中などおかまいなしで……私などよりもずっと、自由で。憎らしくて恨めしくて……それでもこんなにも、愛おしい……」
……皮肉なことだ。
ただの道具に過ぎない乙女を、こうも深く愛してしまった。
クロードは白い歯をこぼして浅慮な自らを呪う。
よもやこんな結末になるとは、出会ったばかりの頃には微塵も予想しなかった。
ぼうっとしたバイオレッタはいかにも御しやすそうで、自分が迫ればすぐに言いなりになるだろうと思っていたのだ。
適当に懐柔したところでその身体を奪えばいい。アインの復活と同時にアイリスの魂を抜き出し、空になった器に据えてしまえば。
そう思っていたのに――。
だが、彼女に惹かれる理由を追い求めるのはとうの昔にやめた。一度動き出した感情の前では、もうそんな行為は意味をなさない。ただただ虚しくなるばかりだからだ。
クロードはもう、行き場を失くした想いを持て余すしかない。日ごと夜ごと、バイオレッタへの想いに苛まれ灼かれるしかない。
いくら手を伸ばしても触れるのは禁忌であり、摘み取るのもまた禁忌なのだから。
(そのようなことは……私が一番よくわかっている)
バイオレッタが男たちの腕の中でダンスを踊る様子を思い出すだけで、胸の中がちりちりと音を立てて灼ける。
いかなリシャールの命とはいえ、恋い慕う姫君があられもない姿で他の男に微笑みかけるのを見ているのは限界だった。
豪奢なドレスを剥ぎ取ってその奥にある柔肌を貪りたいと、一体何度願ったことか。
(出会ったばかりの頃は貴女に対してこんな灼け付くような感情は抱きませんでしたよ……。ここまで私を変えてしまった貴女が悪い。なんと罪深い女性なのだ……)
いざ恋仲になってみると、バイオレッタはすぐに嫉妬する可愛らしい女性だということがわかった。
彼女はクロードが他の貴婦人と腕を組んだと言っては怒り、頬に口づけをしたと言っては拗ねる。
それは彼女の愛が深いからだろう。恋人に対して無関心な女は嫉妬などしない。相手に執着すればするほどに生まれてくるのが嫉妬だからだ。
バイオレッタのそんな一面が、クロードには好ましくてならなかった。クロードの愛というのもまた彼女に負けないくらい深くて激しいものだったからだ。
クロードにかつて恋の相手がたくさんいたという話を知り、彼女は夜のテラスで涙していた。関心を失ったクロードがいずれ自分を捨てるかもしれないと思ったのだ。
あの夜、バイオレッタは謝罪の言葉を繰り返した。クロードを独占したがる自分を必死に戒め、愛する男に嫌われまいと懸命に己の気持ちを抑え込んでいた。
だが、なんと無垢な少女なのかと、クロードは逆に感嘆のため息を漏らしてしまった。
それだけ彼女は自分に関心があるのだ。自分を愛しているのだ。
そう考えただけでたまらなかった。
……愚かで愛らしいバイオレッタ。この恋に啼き、苦しみ、それでもなおクロードを求めてやまない、囚われの小夜啼鳥。
ならば、自分も彼女を全身全霊で愛するよりほかないではないか。
かつて封じ込めた情熱のすべてでもって、彼女の深すぎる愛に応えてやればいい。そうすれば二人はもう離れようがなくなる。
ずっとバイオレッタを自分のところへ留めておける――。
「バイオレッタ。貴女は何もご存じない。貴女一人を手に入れられるなら、私は他の女性たちなど切り捨ててもいい……。貴女さえ目の前にいらっしゃるなら、もう彼女たちを求める理由はないのだから……」
バイオレッタはとうとうクロードの本質に気づかなかった。
すなわち、最愛の女性にだけこの上ないほどの執着心を見せ、がんじがらめにして何としてでも手元に縛りつけておこうとする陰湿な気性を。
「大方、私を優しくて虫も殺せぬようなやわな男だとでも思ったのでしょう? 勝手にそんな妄想を抱いたのは貴女の方ですよ、バイオレッタ。私は貴女を手に入れたなら、もう二度と放さない。貴女がどんなに許しを請うても、泣き叫んでも。絶対にこの腕の中から飛び立たせたりしない……」
クロードの中では、愛と狂気というのは表裏一体の関係だった。
それらはけして切り離して考えることのできない感情であり、また時として互いに作用しあう厄介な代物でもあった。
バイオレッタへの愛が深くなればなるほど、クロードは深みに嵌まってしまう。
互いに惹きつけ合えば惹きつけ合うほど、肌に食い込む棘の痛みに喘いでしまう。
……そしてこの渇望の果てに待っているのはどちらか一方の自滅なのだ。
「……この遊戯は貴女の負けですよ。おとなしく私のものにおなりなさい。そうして身も心も私に壊されるがいい……。すべて破壊しつくされてしまうがいい。貴女に最高の屈辱と死を与えられるのはこの私だけです……」
クロードは愉悦の笑みを浮かべて、宙に浮かんだ額縁を見やる。
(なんと美しい艶姿なのか)
亡くした恋人を追い、時の狭間を放浪する旅人となって千年余り。
二度と相まみえるはずのなかったかつての恋人が、今目の前にいる。
そうなればもう、ためらう理由はなかった。
……絶対に手に入らない小夜啼鳥。彼女がこの胸の中でだけ、その声を聴かせてくれたなら。
悲願を叶えるため、そして彼女を永遠に自分のものにするためにはどうすればいいか、クロードは策を巡らせていた。
そして苦悶の末に彼が仕掛けたのがこの罠だったのだ。
そうすれば、バイオレッタもアイリス、混在する二つの面影ごと彼女を愛せる。
前世の彼女も今世の彼女も、どちらも自分のものにしてしまえる。
「貴女を骨の髄まで愛して、大切にして差し上げる。だからもう、私のそばを離れてはいけません。もうあの時のように私を独りにしてはいけない……。貴女はずっと私の隣にいなければ。……ねえ、姫。私たちは千年前、確かにそう誓い合ったでしょう?」
……二人はあの日、神の御前で永遠の誓約を交わした。
天上に散らばる七大陸。その中央に浮かんだ帝都。天族の民たちが住まう、幻の国。
かつて「スフェーン帝国」と呼ばれた理想郷で――。
『アイリス・フォン・バルシュミーデ。汝はこの男、エヴラール・ルドヴィーク・フォン・スフェーンを生涯の伴侶とし、とこしえに愛することを誓うか』
『はい……』
司祭の言葉に恥ずかしげにうなずき、彼女は彼――エヴラールの手を取った。
純白のヴェールを取ってそっと口づけると、彼女は柔らかくそれに応えた。
……孤独な日々にふいに射した、一条の光。それが彼女だった。
アイリス・フォン・バルシュミーデ。
皇帝の花嫁である『七皇妃』の一人としてエヴラールのもとへ嫁いできた、バルシュミーデ家の娘。菖蒲色の髪と薄紫の瞳を持つ、おとなしくて華奢な姫。
一国を統治するという重大な責務を負わされた彼を、彼女は伴侶として支えてくれた。
皇帝の正妃としてアイリス・ツァールトハイト・フォン・スフェーンという名を授かり、その髪にサファイアの宝冠を載せられた彼女は、それまで以上に彼に尽くした。
そしてエヴラールもまた、今までとは異なる深い愛情を彼女に抱き始めていた。
『私とともにこの国を統治してゆけるのは彼女以外にいない』
そう思い始めたのだ。
エヴラールにとって、それは思いがけない変化でもあった。
何しろ、それまでアイリスはただの正妃候補の一人でしかなかったのだから。
アイリスは大らかで心優しい少女だった。
まだ十七であるにもかかわらず、エヴラールが泣いていれば寄り添ってくれ、困っていれば手を差し伸べてくれた。
そんなことをエヴラールにしてくれたのはアイリスだけだった。
肉親の情と縁遠かったエヴラールに、彼女は自ら無償の愛を与えた。そして彼の家族になることを望んだ。
幸福すぎるほど幸福な日々が続いた。恐ろしいほど安穏とした毎日が続き、しかし二人はそのことに少しの疑問も抱かなかった。
エヴラールはアイリスを慈しみ、アイリスもまた健気な愛でもって彼に応えた。
ずっとそんな日々が続いてゆくのだと信じていた。
……ある時、アイリスが地上の人間――地族の者に殺されるまでは。
彼女の無惨な死、そして帝国の落下をきっかけに、エヴラールは復讐を決意する。
皇妃を殺した地上の民を滅ぼし、一度喪われた彼女の生命を再び取り戻すこと。
それが彼の目指す目的であり、生きる意味だった。
そしてある夜、彼はエヴラールという名を捨てた。
召喚によって現れた火の邪神ジンの誘いに乗ったのである。
彼は過去の栄光を捨て、身分を捨て、自らが天族の出であるという事実さえ捨てて、地上で生きてゆくことを選んだ。
それからというもの、彼は自分と皇妃を苦しめた地族たちに復讐すべく立ち回った。姦淫と殺戮に手を染めながら、主である邪神の魔力が満ちるのをひたすらに待った。
かしずきたくもない少年王にかしずき、懸命に彼の機嫌を取ってやったのも。
好かれなくとも別段困らないような高飛車な女どもに媚びへつらい、真剣に愛をささやいてやったのも。
初心で世間知らずな王女を篭絡し、あたかも彼女の奴隷となっているかのような態度を取ってみせたのも。
それらはすべて最初から単なる根回しの一環でしかなかったのだ。
ばかばかしいと思いながらも、彼はすべてを巧妙にやり抜いてみせた。
感情を殺し、きらびやかな仮面で装い、虎視眈々と好機を待ち続けた。
――そして今。
ようやく機は熟そうとしている。
もうすぐエヴラール――否、クロードはアイリスに出会う。
彼は千年ぶりに愛する女性との邂逅を果たす。
そしてもうよみがえったアイリスを解放してやる気などなかった。
今度こそしっかりこの腕の中に閉じ込めておかなければ。どこにも行けないよう繋ぎとめておかなければ。
そうしなければまたアイリスはいなくなってしまう。クロードを残して消えてしまう。
それだけはどうしても許せなかった。
(そう……、貴女は私と同一の女性なのだから。運命を共にすると誓った仲なのだから――)
『――一時の恋情に振り回されて己を見失うとは、つくづく人とは愚かなものよ……』
甘い声とともに、クロードの影からするするともう一つの影が伸び広がる。やがてそれは美しい黒髪の女の姿を取った。
……クロードの主、邪神ジンことアインだった。
彼女は額縁にすっと右手をかざした。
『やはり強い力を持っているのだな、お前の皇妃は……。この波動はわたくしには少々毒のようだ』
いやみたらしく顔を歪めると、アインはつと絵画から離れた。
『……しかし、お前の執念は大したものだな。一体なぜそこまでその女に固執する? 確かにこの器に宿っているもう一つの魂はあの皇妃のものだが……解せぬな。過ぎ去った記憶は自ずと美しく塗り替えられてゆくものだが、お前の心に触れているとどうやらそればかりではないようだ』
クロードはせせら笑った。理解などできるものか。相手が誰であろうと、彼女との絆に関してだけはとやかく言われる筋合いはない。
(私は記憶の美化など一切していない……。なぜなら、彼女の輝きをずっと間近で見続けてきたのだから)
アインとともに大陸をさまよっていた頃、アイリスの生命の波動を感じることが度々あった。すぐ近くに彼女がいるような、不思議な感覚に囚われることが。
それはいつも唐突に起こり、クロードはいてもたってもいられない気持ちにさせられたものだ。
けれど、とうとう巡り合うことがないまま千年近い年月が経過し、肉体とは裏腹に、クロードの心はすでに干からびようとしていた。
自らの生に絶望すると同時に、どこかで終焉を望むようになっていたのだ。
だが、ある日のこと。
この王宮からまた例の波動を感じた。弱々しい、けれどもアイリスの気配を確実に宿す波動を。
今までの薄弱なものとは異なり、それは誘いかけるようにクロードの心に流れ込んできた。
……ああ、帰ってきたのだ。
気づけばクロードはその熱を追って王宮へ歩を進めていた。
冷たく凍えた心を温めてほしいと。あの笑顔を、再び自分に向けてほしいと。
(……そうして王の犬となって、あの王妃に出逢って。実に皮肉な筋書きだと思いましたよ、姫)
最愛の伴侶であったアイリスは、自分を嫌悪する王妃の愛娘として転生していた。
最初にその姿を見たとき、まず内包された魂の波動がクロードを惹きつけた。バイオレッタの姿を透かして、かつての恋人の笑顔がふっと浮かび上がったのだ。
そして次に目を留めたのがそのすみれ色の美しい瞳だ。
娘の双眸はかつて愛したアイリスと何ら変わらぬ綺麗なすみれ色をしていた。
無垢であどけなく、それでいて何かを見通すかのような強い輝きを宿した瞳。
クロードはその双眸に強烈に惹きつけられた。そしてその不可思議な引力こそが、アイリスの発する波動だとも感じたのだ。
幼子に熱っぽい視線を注ぐクロードを、王妃エリザベスは訝しんだ。
その理由が明白でない分、彼女は異端の魔導士を警戒していた。
なぜ自分の娘にこうもしつこく目を向けるのかと、母親らしい警戒心でもってクロードを遠ざけようとした。
そしてもう一人、クロードの正体に気づいた者がいた。
クララ姫の母妃レオノーラである。
かつて宮廷魔導士をしていた彼女は、クロードの虹彩を染め上げる真紅にいち早く気づいた。
クロードの瞳は、ふとした拍子に禍々しいほどの紅の色彩に変わることがある。
それはほんの一瞬のことで、よく注意して見ても凡人にはすぐにはわからないかもしれない。
だが、レオノーラにはもともと有り余るほどの魔術の才があった。だから気づけたのだ。
クロードと話すとき、彼女は彼の瞳ばかり見ていた。そして毎回、どこか恐ろしげに眉をひそめるのだった。
心労から重い病に倒れたレオノーラを、クロードは秘密裏に殺させた。彼女が余計な告げ口をしては困ると思ったのだ。
だが、クロードの行く手を阻むものはそれだけに止まらなかった。
『あら。あなた、随分奇妙な目をしているのね……?』
そんな風に声をかけてきたのは、王太后であり国王リシャールの実母であるヴィルヘルミーネだった。
大勢の黒魔術師を抱えている彼女は、クロードの虹彩の色にとうの昔に気づいていたのだ。
『まあ。邪神の依代を見るのは初めてよ。うふふ……、お目にかかれて嬉しいわ、依代さん?』
そう言って彼女はクロードにある取引を持ち掛けてきた。
それは実の息子であるリシャールにかけた呪いを強化するというもので、正体を明かされたくなければその『時知らずの奇術』を維持するようにと脅迫されたのだ。
ヴィルヘルミーネは当時、すでに二人目の術者を用いて奇術を強化させていた。
最初に術をかけた一人目の術者が急死したことで、リシャールの呪いは薄れかけていた。それを繋ぎ直したのが二人目の術者というわけだ。
魔術というのは数人がかりで重ねて術を施した方がより強力な術式となる場合が多い。それを思えば妥当な措置といえた。
だが、彼女はそれに拮抗するある魔力に恐れをなしてもいた。
『彼らによれば、何者かがリシャールの呪いを解こうとしているというのよ。あなたにならわかるかしら?』
皮肉なことに、依代として強大な魔力を秘めるクロードにはすぐにわかってしまった。エリザベスこそがその術者であると。
エリザベスは普段、そんなそぶりは微塵も見せなかった。自らが術者であることを吹聴して回ったりはしなかったし、魔術に関してはむしろ何も知らないといった体だった。
だが、クロードだけは気づいてしまった。彼女は自身が術者であることを巧妙に隠していたのだと。すべては宮廷でうまく立ち回るための芝居にすぎなかったのだと。
そしてあの夜。
クロードは二人目の術者を守るべく彼女と対峙した。
結果は相討ちとなった。
二人目の術者はエリザベスに倒され、そしてまたエリザベスも解呪のために命を落とした。術者を討ったとき、呪いに組み込まれていた彼の魔力がはね返ってきたのだ。
強力な魔術をかけるとき、術者は己の命の一部を術式に組み込まねばならない。術と自身の命を半ば繋げるような形になるのだ。
だから、術者の死はその魔術の効力が切れることを意味する。
しかし、リシャールにかけられていたのは命の理を捻じ曲げる類の邪悪な呪いである。これを魔導士たちは魔術とは呼ばない。人を害するための「呪術」として扱うのだ。
そしてそういった術に組み込まれるのは術者の命だけではなかった。
術が破られたときの備えとして、相手の術者を害するための特殊な魔力が封じられていることが多いのだ。
一度人間にかけられた呪いを解くには二通りの手段がある。
一つは術者の死、もう一つは他の優れた術者がかけられた呪いを打ち破ることだ。
エリザベスは相手の術者を探し出して倒すことを選んだ。
結局、エリザベスは愛するリシャールのために自らの命を差し出したのである。
「なんとも素晴らしい筋書きでしょう? 姫。肉親の仇敵だとは露ほども知らずに、貴女は私を愛してしまった。彼らよりも私の方が大切だと思ってしまった。ああ……、すべてを知ったとき、きっと貴女は私を憎むのでしょうね……。その美しいアメジストの瞳を激しい憎悪に滾らせながら……」
間接的であるとはいえ、バイオレッタの愛する父王に奇術をかけたのはまぎれもクロードだ。そして彼女の母妃を害したのも。
それを思えば、二人の間に横たわる身分差や彼女が女王候補であるという事実を除いても、まっすぐに想いをぶつけることなど到底できないと思った。これ以上馴れ合ってはいけないと。
――けれど、それでもクロードは彼女に惹かれている。
その内部に眠るもう一つの面影ごと、彼女を捕らえて愛したいと望んでいる。
彼はそこで陶然としたため息をついた。
「……私は貴女にとって害悪にしかならない男だ。なのに貴女は私を愛し、私もまた貴女に惹かれてしまった。愚かなバイオレッタ……。私に想いを寄せたりしなければ、貴女はこのような目に遭わずに済んだというのに……」
いたずらに声を掛けられ、距離を縮められるうち、クロードは彼女に対してけして許されざる感情を持つようになってしまった。
一つは彼女を愛したいという純粋な想い。そしてもう一つは、彼女を痛めつけて壊してしまいたいといういびつな衝動だ。
バイオレッタが出会った当初にクロードにぶつけた「酷い」という言葉は極めて正しい表現だ。
クロードはそもそも人の情を汲めるような優しい男ではない。人の情さえ利用して目的を果たそうとする冷血漢なのだ。
「貴女がいけないのです。私の本性を知っていながら、無邪気に微笑みかけたりなさるから。私を好きだなどとおっしゃるから。おかげでほら……もう後戻りできなくなってしまった」
翳された手の中に、クロードは額縁をゆっくりと収める。
もともとクロードの魔術の塊であったそれは、紅い閃光を帯びながら手中に吸い込まれていった。
手のひらを強く握りしめると、紅い残滓が弾け飛ぶ。
「……ふふ、これでいい。これで貴女は、私だけのものだ……!」
『どうするつもりだ』
アインの問いかけに、クロードはくつりと嗤った。
傲然と顎を上げて答える。
『この方を……穢します。純潔を散らし、精神を破壊し、そのすべてをわが物とする……。端からそのつもりでした』
白い褥の上で乙女としての生命を散らすバイオレッタはさぞや美しいだろう。
クロードの与えるすべてにのたうち、狼狽し、涙する。そんな彼女の姿を一体何度夢想したことか。
最初こそ泣きわめいて許しを請うかもしれない。城に返してくれと哀願するかもしれない。
けれどもうバイオレッタを放してやる気はなかった。
(貴女のそんなお声は、他の誰にも聞かせてはならない。貴女の……小夜啼鳥の啼き声は、この私だけが堪能すべきものだ――)
遥か昔からそう決まっているのだ……、クロードだけがバイオレッタを穢し、啼かせることのできる男だと。
彼女が一体どんな風にクロードを愉しませてくれるのか。それを考えただけで血が沸き立つようだった。
『なるほど。この娘の肉体と精神、すべてを思うさま支配しつくすというわけだな?』
「ええ……。わが身を通じて得た精力は、アイン様、どうぞ貴女様のお好きなようにお使いください」
すると、アインは箍が外れたようにけたたましく笑う。
『はははははははっ!! わかっておるではないか!! さすがはわたくしの……邪神の依代よなぁ!!』
アインはちろりと舌なめずりをすると、ゆるゆるとクロードの肩に触れた。
『お前のその狡猾さが好きだ……。わたくしに力を与えると言っておきながら、欲しいものだけはしっかりと手に入れる。王都を焼き、人を惑わし、目的のためならば女さえ犠牲にする。お前のような依代にはこれまで出会ったことがない……。邪神よりも邪神らしく、誰よりも魔性に近い――けだものだ』
アインは背後からクロードに抱きつき、その胸に手を這わせる。その指先は次第に身体を這い上って、喉元、そして肉厚の唇にまで及んだ。
『欲しいのだろう? この女の純潔が。――ならば奪え。清らな魂など散らせ。ことごとく踏みにじってしまえ』
アインの白い指先を咥えたクロードは、ただただその甘い言葉に身を委ねていた。