「どうぞ、お入りください」
クロードが壮麗な造りのドアを開ける。
ここは後宮付属図書室……、『後宮書庫』だ。
もちろんここに来るのは初めてではなかったが、クロードが一緒だと思うとなんだか落ち着かなかった。
端麗な横顔を見上げるだけで、心臓が音を立てて鳴る。
(いつも来ているのに、普段と景色が違って見える気がするわ)
バイオレッタたち二人をテーブルに案内し、肘掛のついた上等な椅子に座らせると、彼は差し向かいに立った。
「お二人とも五大国に関してはどちらまで勉強されましたか?」
「それが、イスキアの成り立ちを少し学んだ程度で、国に関してはまだそこまで……」
「そうですか。では、模型がいりますね」
クロードは書庫の奥に向かって歩いていった。
バイオレッタはその背中に問いかける。
「え? どこに何があるか、わかっていらっしゃるのですか?」
「ええ。蔵書を読みにしょっちゅう来ておりますので……」
(あ、じゃあ、もしかして書庫で会える日もあるのかしら)
普段はプランタン宮の執務室にいるというクロード。今日のように書庫でも彼と会えたら、すごく嬉しい。
(……でもきっとベルタが黙っていないわね……)
女官長であるベルタは、風紀が乱れると言ってクロードを蛇蝎の如く嫌っているのだ。
自分は姫で、彼は臣下。この後宮に囚われているバイオレッタには、プランタン宮にいるクロードに簡単に会いに行く勇気はない。
オルタンシアのように堂々と出向くという手もあるにはあるが、バイオレッタには男性がたくさんいる場所というのはなんだか怖く感じられて行けそうになかった。
どうしてここまで障害が多いのだろう。ほんの少しだけもどかしい。
本当はもっと会いたい。些細なことでもいいから、彼の考えていることを知りたい。
静謐な黄金の瞳の奥に何が秘められているのか、解き明かしてみたい。
(だけど……、庶民のままだったら出会うこともなかったのよね……。そう考えると今の状況は贅沢だわ)
普段あまり会えなくとも式典や宴の席では会えるのだし、時々こうやって話をするだけでもじゅうぶん楽しい。だから、今はきっとこれでいいのだ。
(幸せだと思わなければ、罰が当たるわ)
そう思いつき、バイオレッタは少しだけ元気を取り戻した。
やがて、丸い模型を手にしてクロードが戻ってくる。
「……どうなさったのです? 何やら楽しそうになさって……」
「いえ。クロード様を待っていただけですわ」
「……私を待つのがそんなに楽しいのですか?」
「ええ」
ピヴォワンヌが隣でふんと鼻を鳴らす。
「どうにかしなさいよ、バイオレッタ。そのにやけた顔……」
「……!」
バイオレッタは慌てて緩みきった表情を引き締めた。
「……」
クロードは無言のまま、模型を磨き抜かれた飴色のテーブルの上に置いた。どこか剣呑な光がその瞳に宿ってどきりとする。
「それにしても……。少し目を離しただけで、まさか宦官風情に貴女を横取りされることになろうとは夢にも思いませんでしたよ」
やっと口を開いたかと思えば、飛び出してきたのは皮肉だった。
「……え? あの、そういう言い方はやめて下さい、クロード様。アベル様はそんな方じゃありませんわ」
クロードは嘆息する。
「アベルは確かにすでに男性ではありません。ですが、貴女の御心に入り込むことはできます」
「どういう意味ですか? あの方はそんな……」
ふっと意味深に笑ってから、クロードは横目でバイオレッタを見る。咎めるようなまなざしだ。
バイオレッタは思わずふいと目をそらした。
「……きちんと最後までお聞きなさい、姫。貴女は彼に口づけられていましたね。手に。貴女のことです、多少動揺はしたのでは?」
「だったら、何なのですか。い、意地悪ばかりおっしゃって……。今日は一体どうなさったのですか?」
「訊いているのは私です」
先ほどとは打って変わって険しい顔つきだ。
(もしかして……お、怒っていらっしゃるの?)
ぴしゃりとはねつけられたバイオレッタはおずおずと答える。
「え、……す、少しは……」
「……感情の揺れというのは時に恋におちたような錯覚を生み出すもの。貴女のあのうろたえよう……。見ていてはらはらいたしましたよ。しかも、よりによってアベルとは……」
どうしてそこまで目の敵にするのだろうか、と首を傾げていると、クロードは模型の表面に指を添わせながらなめらかに続けた。
「宦官といえども女性の恋のお相手に選ばれることは多いものです。特に彼は、貴婦人や女官と戯れるのを喜びとしているような男ですよ。そんな男が貴女の身近にいるなど、私には……耐えられません」
クロードは模型から手を放してまつげを伏せた。
ひどく回りくどい口調だが、要するにこれは……。
(まさか、やきもち……? でも、一体どうして……)
理解できない。こんなに美しい容貌の男がなぜバイオレッタのような至って普通の少女に固執する必要があるのだろう。
美男のクロードが望めば、どんな貴婦人だってきっと喜んで相手をするだろうに。
あくびをしつつ、ピヴォワンヌが呆れたように言った。
「あんたの頭の中が心配でしょうがないんだけど。覗いたらお花畑みたいになってるんじゃないの?」
「ですが事実です。プランタン宮に拘束されている私と、後宮の中を自由に出歩ける宦官のアベル。どちらに勝算があるかなど、考えるまでもないでしょう?」
「わたくしは……!」
反論しかけるバイオレッタに、クロードは言う。
「姫……。どうかお忘れなきよう。宦官といえども彼は男です。今後はたとえ手の甲であったとしても、安易に口づけなど許してはなりません。他の男の唇が貴女の柔肌に触れたのだと思うと吐き気がいたします」
(そんな……)
バイオレッタは沈痛な面持ちでうつむく。
その時、ピヴォワンヌが椅子からがたんと立ち上がった。
「――馬鹿言わないで! それじゃまるでバイオレッタが悪いみたいじゃない!」
(ピヴォワンヌ……!)
息をのむバイオレッタをよそに、彼女はクロードを激しい瞳でねめつける。
「復権したんだもの、男にキスされる機会くらい山ほどあるわよ! この国じゃ挨拶なんだから。大体、あんたにこの子を束縛する権利なんかないはずよ。そうやって鎖で繋ぐみたいにこの子を繋ぎとめようとするのはやめて!」
クロードは薄く笑った。
「束縛? 権利? ……は……、貴女は何もわかっていらっしゃらない。私に言わせれば、愛とは依存と束縛ですよ、ピヴォワンヌ様」
「だから何? 大体、あんたはこの子が本気で好きなの? それこそ退屈しのぎの、ただの遊びなんじゃないの?」
「……この私がそのようなつまらないことに貴重な時間を割くとでも?」
バイオレッタはうろたえた。
この会話を聞いていると、クロードの好意の解釈の仕方がだいぶ変わってくる気がした。
ただの臣下だと思っていた。だから自分にも優しいのだと。自分が王の娘だから、助けてくれたり気遣ってくれたりするのだろうと捉えていた。
(でも、これじゃまるで……)
愛は依存と束縛だと豪語する姿勢にも驚かされるが、そんな言葉を持ち出してくるあたり、かなり意味深だ。
抱きしめたり口づけたりといった行為にも彼なりの執着が感じられるような気はしていたが、これではまるで本当にバイオレッタを愛しているかのようだ。
不器用で攻撃的な形の嫉妬も。
周囲を牽制するような態度も。
圧倒的な熱量を感じる、どこか絡みつくような視線さえ。
(それがすべてわたくしのためだったとしたら……)
一心に愛情を注いでくれているからこそ、そうした行為に及ぶのだとしたら。
もしかしてクロードは本気で自分を好いているのだろうか。本気でこの心を得たいと望んでいるのだろうか。
……バイオレッタはそこまで考えてから、小さく笑った。
(ありえないわ……。クロード様は大人の方だもの、わたくしみたいな子供のお相手はきっとなさらない)
クロードは見た目にも性格的にも成熟していて、「老獪」という言葉が似合いそうだとしばしば感じる。
バイオレッタの反応を見て楽しんでいるあたり、ただ年若い姫にちょっかいを出して満足しているだけなのかもしれない。
(やっぱり子供扱いとか、そういう感じなのかも……)
抱擁もキスも、家族や妹相手にしているような、そんな感覚なのだろうか。
そう考えると少しだけがっかりしてしまうが、気を取り直したバイオレッタはクロードに微笑みかけた。
「あの、そのくらいでおやめになって下さい、クロード様。わたくしが悪かったですわ。これからは気をつけますから、もう怒らないで下さいませ」
「……姫」
クロードは虚を突かれたような顔になった。
彼と向かい合っていたピヴォワンヌが信じられないといった様子で振り返る。彼女はバイオレッタを見やると、「はあ……」と大仰なため息をついた。
「……あんたねぇ。ああやって小ばかにされて腹が立たないの? こいつ、ただの優しい紳士と見せかけて、相当性格歪んでるわよ!」
「え……? 歪んでるって……どこが?」
本当に意味がわからなくて訊ねただけなのに、ピヴォワンヌは肩をすくめただけで答えない。
彼女はどさっと椅子に腰かけると、顎をそらしてクロードに命令した。
「もういいわ。……さっさと始めなさいよ、魔導士。時間が惜しいでしょ」
「ええ……、それでは」
クロードは怒ったそぶりも見せず、淡々と講義を始める。
ゆったりとした低音に耳を傾けながら、バイオレッタは彼といるとどこか落ち着かない気持ちになるのを自覚していた。
クララは無言で尖塔を見上げた。
「……」
黄金の煉瓦を積んで造った尖塔は、陽光を浴びると時折儚げなきらめきを放つ。臙脂色の屋根は忌み子が住まう塔の証だ。
これまで一体何人の忌み子たちがこの塔に閉じ込められてきたのだろう。一体、何人の忌み子がやるせない思いに身を焦がしてきたのだろう。
後宮内にはいくつかこうした塔の残骸がある。中には朽ち果てて廃墟のようになっているものもあった。
それらを見るたび、クララは痛ましくなる。誰かが声を上げなければ、この「闇の歴史」はけして塗り替えられないものなのだ……。
「……アベル。何をしていた」
二人よりやや遅れて尖塔に着いたアベルが、ユーグに問われて肩をすくめる。
「んー、なんか、バイオレッタ姫とピヴォワンヌ姫がこの塔に気づいたみたいでさ」
「何……?」
従者たちの会話に、クララははっとした。
尖塔に、気づいた? あの二人が?
「まさか。そんなこと、あり得ないわ。だって、目くらましの術を解いたのはたった今ですもの」
アベルはなおも何か言いたげだったが、ふう、と息をつくとうんうんといった風にうなずいた。
「そうですよねぇ。ただこっちの方角を見ていただけだったのかな……?」
「ええ。そうだと思うわ。ただの人間にこの尖塔は感知できないようになっているのだから」
「でも……わが君。バイオレッタ様って、ほんのちょっとだけ魔術の才がある気がしません?」
クララは怪訝そうに首を傾げる。
「……わからないわ。お前はなぜそう思うの?」
「カンですよ、カン。魔導士としての。オルレーアには力の強い術者が多かったと聞いていますし、あの方がエリザベス様の血を引く姫君と考えれば、ある意味当たってるんじゃないかと僕は思ってます」
「……確かにエリザベス様はオルレーアの出身でしたわね」
神聖王国オルレーア。
それが彼女の母妃の故郷である。古い文献によれば、強力な魔術の才を秘めた魔導士や神官を多く育んだ土地だという。
「エリザベス様……」
クララが十歳の時に突然病死したエリザベス。亡骸の顔つきは穏やかで、死んでいるというよりは眠っているという表現の方が正しいのではとクララは思ったものだ。
あの日以来、クララの立場は目まぐるしく変わった。それまでエリザベスによって守られていた絶対の地位が脅かされ出し、瞬く間に「捕虜」という扱いにされてしまった。故国の残党を言いなりにするためにだけ無為に生かされる「虜囚」になってしまったのだ。
「……」
クララはもう一度、黄金の尖塔を仰ぎ見た。
エリザベスが幼いクララに与えてくれたもの。
それは、居場所や衣服や温かな食事といったもののみにとどまらなかった。
もちろんそれらだけでも寒さはしのげたし、飢えや乾きも満たせただろう。
だが、もう一つ大事なものがあるといって、エリザベスは幼いクララを「彼」と引き合わせた。ひとりぼっちのクララに「友達」を作ってくれたのだ。
クララは浮かない顔でうつむく。
(やっぱり、隠し通せないかしら。お二人には……)
……クララがひた隠している秘密。それは、この尖塔に軟禁されている第一王子アスターと逢瀬を重ねているということだ。
彼はイスキアでは迫害の対象となる忌み子である。紅の色彩を持ち異教徒たちに付け狙われる、邪神への供物だ。
忌み子はいつの世も邪神崇拝者の餌食となってきた。
瞳を抉られたり髪を切り取られるだけならまだしも、酷い時には生きたまま炎で焼かれる。邪神の象徴が炎だからだ。
そういった事情から、忌み子たちは隔離され、けして異教徒の手に渡らぬように管理される。ヴァーテル教徒にしてみればジンを崇める異教徒たちは大敵であり、一部の者らは未だにジンの復活を恐れているからだ。
――「異教徒たちが忌み子を利用してジンを復活させようとしているかもしれない」。そういった心配が常に聖職者たちを駆り立てていた。
……「王位に就けないごくつぶしの王子」。それが彼だった。
アスターは異教徒たちに祀り上げられることを恐れたリシャールによって、もうずっとこの塔に軟禁されている。
命を狙われる危険もあれば、異教徒たちの王として神格化される恐れもある。忌み子の王子や姫には常にそういった問題が付きまとうのだ。
加えて彼はクララにとっては敵国の王子に当たる。彼と親しくしていることを後宮の誰かに知られれば、互いにただでは済まない。それはわかっている。
(でも、それでもわたくしは……)
たとえバイオレッタやピヴォワンヌを欺いてでも、この恋を貫きたいのだ。
これまでアスターと育んできた想いは、それだけかけがえのないものなのだから。
「どうなさいますか、クララ様。完全な口止めは難しいでしょうが、うまく味方につければあるいは……」
「一体どう説明するっていうの……? お二人はおしゃべりな方ではなさそうだけれど、すべてを理解していただくのは……」
ユーグにそう答えかけて、クララはうつむいた。
(……ごめんなさい、バイオレッタ様、ピヴォワンヌ様。わたくしは、貴女たちを騙していますのね)
一時の恋情に溺れて我を忘れる自分が後ろめたくて、クララは唇を噛みしめた。
本当は友人を騙すような真似はしたくない。あの二人にだってこの気持ちをわかってもらいたいし、できることなら応援してもらいたい。
けれど――。
その時、ドアの軋む音がした。
「……クララ?」
観音開きのドアから顔をのぞかせた「彼」の姿に、クララは逸る想いを抑えきれなくなった。
柔らかくうねる金の髪に、澄んだエメラルドの双眸。……だが、向かって右側の瞳はわずかに紅い色が透けていた。
純白のブラウスに紺青のジレを重ね、襟元はモスリンのクラヴァットを簡単に結んでいる程度だ。両脚は落ち着いた茶のトラウザースが包んでいる。
王子らしからぬ質素な身なりの青年。彼こそがクララの想い人だった。
「アスター様……!!」
駆け寄ってしがみつくと、第一王子アスターはうろたえつつも優しくクララを抱き返した。
「……久しぶりだな、クララ」
「ええ……。最近は宴の席でもあまりお会いできませんものね。塔の周りには魔導士たちの術もかけられていますから、やはり従者を伴わなければこうしてお会いするのは難しいですわね」
今日もユーグに魔術で術を解かせた。
彼の魔術属性は「風」だ。空気や風に関わるすべての現象に、その術は有効である。そのため、塔の空間にかけられた目くらましの術式程度であれば、ユーグの魔術によって破るのは容易い。
「……少し痩せたか?」
クララの細い腕をやんわりと掴んで、アスターが問うた。
クララは彼を見上げて首を傾げる。
「あ……、夏に入った影響か、少し食が細くなりましたの。……そのせいかしら」
「身体を大事にしてくれ。大切な貴女に何かあってはいけない」
そう言ってふっと微笑むアスターに、クララは胸が締め付けられるのを感じた。
「あなたの方こそ、お食事はきちんとお摂りになって下さいませ。こちらを……。まだ温かいはずですわ」
おずおずと籠を差し出すと、アスターはすまなそうな顔になった。
けれどすぐさま愛おしげな手付きでくしゃりとクララの髪を撫でる。
しぐさに親密さが感じられて、クララは相好を崩した。それまできりりとしていたクララの顔つきが、瞬く間に幸福そうにほころぶ。
「……ありがとう、クララ」
「いいえ……」
今日は、厨房の料理人に作らせた去勢雄鶏のチーズタルトと、日持ちのするファー・ブルトンやクロッカンなどを持ってきた。
軟禁されてからというもの、アスターは豪華な宮廷料理というものはほとんど食べられなくなっていた。
忌み子であることと、シュザンヌの子であるためにリシャールの関心が薄いことなどが原因だ。そのため、式典や宴にもほとんど呼ばれることはない。
(せめて少しでもおいしいものをと思っているのだけれど)
尖塔には茶菓はおろか、砂糖や蜂蜜すらない。
確かに砂糖も蜂蜜もまだスフェーンでは高価な代物だが、クララはある程度の自由が許されているため、お茶のたびにいつもそれらを口にしていた。
けれど、アスターはそういったものは禁じられる立場にあった。
紅の色彩はただでさえ邪神を連想させるとして忌み嫌われる。不吉な存在だと主張する廷臣たちの諫言もあって、彼は高価な衣服や食事からは遠ざけられていた。
暮らしに必要なものを最低限与えられる程度だ。
このことについて、クララはかなりの罪悪感を覚えていた。幼い頃から甘いものが好物のアスターには、この塔での暮らしは堪えているはずだ。
こうして食事を届けるのはせめてもの償いのつもりだった。
いくら廷臣の諫言があったとしても、クララが彼よりも優遇されていることはまぎれもない事実なのだ。
「……あ、あの。もう帰りますわ。お食事をお届けしたかっただけですので」
「待ってくれ」
くいと腕を引かれ、クララは再びアスターの腕の中に収まった。
「あの……」
狼狽するクララに、アスターは狂おしげにささやいた。
「……本当は、毎日でも貴女に会いたい。貴女の声を聴くだけで……そのぬくもりを感じるだけで。僕はこの生にも意味があったと思えるから」
彼はぼそぼそと――けれども懸命に言う。
アスターらしい言葉だ、とクララは切なくなった。どこかつたないささやき方に、彼の素朴で実直な人柄がうかがえる。
しっかりとその背に手を回す。彼の熱い体温にほっとさせられながら、クララはゆっくりと言葉を紡いだ。
「わたくしもですわ……。夜毎あなたのことを考えています。……夜の帳が下りて、城の灯りがぽつぽつと消え始める頃。わたくしはいつもあなたのことを想って、泣きたいような、満たされているような、不思議な気持ちになるのです」
「……では、今夜からは僕も貴女を想おう。眠りに就くころには、きっと貴女の優しい手が僕を導いてくれるだろう。貴女が許してくれるなら、僕は貴女の気持ちにいつだって寄り添いたいんだ。だから、一人で泣くようなことだけはしないでくれ」
アスターはそう言ってクララの豊かな髪を撫でる。
涙腺が緩んでしまって、クララはアスターのジレに顔を埋めた。
(どうして……、どうしてこんなにお優しいの? わたくしはあなたの国の民を殺したアルマンディンの姫……。しかも、あなたが悩んでいることを一つも解決して差し上げられない無力な人間なのに)
アスターはどこまでもクララを気遣ってくれる。宴の席では王妃の罵倒や酔客の暴行などから幾度となく助けてもらったし、困っているときには手を差し伸べてもらった。
(今度は……わたくしがあなたを助けたい)
アスターはクララの心に寄り添いたいと言ってくれた。だが、愛しい相手の心に寄り添いたいのはクララも同じなのだ。
このまま無為に老いて死んでゆくだけの命になど、させたくはない。
いつか、この苦境からアスターを救い出してみせる。絶対に。
瞳を一度だけきつく閉ざしてから、クララはすっと顔を上げた。
「……アスター様。また来ますわ。今日はもう、帰ります」
少しだけ背伸びをすると、クララはアスターの頬にキスを贈った。
アスターは軽く目を見開いたが、微笑んでキスを返してきた。頬に下りた柔らかな感触に、クララは満ち足りた気分になる。
「ああ。また来てほしい。貴女の笑顔が、僕には何よりも眩しい」
「……ええ、またお会いしましょう」
……一抹の切なさが胸を襲ったけれど。
それを覆い隠し、クララは努めてにこやかにアスターと別れた。
さくさくと芝生を踏みながら、クララは私室への帰り道を急ぐ。
「わ、わたくし、少しはしたなかったかしら……」
アスターが男性だということを時々忘れてしまうのが、クララの悪い癖だ。幼馴染という意識が強いせいか、触れ合うことやキスすることにもさほどの抵抗がないのである。
(……でも、アスター様はお嫌かしら)
真っ赤になったクララの背を、勢いよくアベルが叩いた。
「もう、浮かない顔しないでくださいよ、わが君。僕ならわが君みたいな大胆な姫君は大歓迎ですよ。素晴らしい容貌に加え、教養も行動力もあるんだから、もう言うことなしです!」
背を叩かれて思わず顔をしかめると、ユーグがアベルを引きはがしてくれた。
「……おい、妙な太鼓判を押すな。というか、クララ様の背をそんなに何度も叩くんじゃない」
ユーグの生真面目な口調にほっとしつつ、クララは先ほどより幾分冴えた頭でアベルを見やった。
……アベル。
彼は一体何者なのだろう。
クララが十のときにいきなり「お仕えしたい」と言い出してきた稀有な従者。
出身地や生い立ちは何度か訊ねているが、毎回はぐらかされている。
研究棟の魔導士カーネルの弟子で、彼の推挙もあって十四という史上最年少の若さで魔導士になった青年――……。
(……お前は一体、何者なの?)
とても人懐こくて仕事熱心なうえ、クララを裏切ったことは一度もない。
これ以上の追及は野暮だろうか。だが、何かが引っ掛かる……。
と、
「僕は僕なりにわが君をお慕いしているんだよ。ねっ、そうでしょう、クララ様?」
「あ、えっ!?」
「もー、僕の話聞いてました?」
「……ごめんなさい、アベル。何でしたかしら」
上の空で答えながら、クララはある夢を思い出していた。……もう何度も繰り返し見ている夢を。
茶色の髪の幼子。……じゅわり、という何かが焦げるような音。
その白い背にくっきりと捺された印。
それは、『服従の意』を示す焼き印だった。