第八章 トワレット

 
 ……装飾品やショール、扇などの箱を手にした侍女が壁際に控えている。
 バイオレッタは今、深緑に黄金の縁取りがされた大きな三面鏡の前に立っていた。
 
 一息ついてからこの化粧室に入ると、侍女たちはすでに六着のドレスを用意していた。高価な染料で色鮮やかに染め上げられ、デザインも細部までこだわりの感じられるものばかりである。
 
 サラに「散策用のドレスとして、この中からお好きなものをお選びくださいませ」と促され、散々迷った挙句バイオレッタが選んだのは、優しい淡いグリーンのドレスだった。
 生地には柔らかい光沢があり、スカート部分にはオーガンジーが重ねられている。ひらひら揺れる襞飾りフラウンスがとても可憐だ。裾にはあくまでも慎ましやかに、銀糸で花の刺繍が入れられている。
 サラに「最後に胸元に本物の薔薇の花を飾りましょう」、と提案され、バイオレッタはどんな仕上がりになるのか楽しみになった。
 
 サラが丁寧に着付けをしてくれる。リーダー格の侍女らしく、その手つきは真剣かつ正確だった。
 クリノリンを着けた上からドレスを着る。袖はゆったりとしていて、一段濃いグリーンのリボンの飾りが愛らしかった。
 フリルが三段重なったスカート部分の裾を完全に引き下ろし、サラはそれを手早く直していく。微調整のあと、侍女の一人から咲き初めの珊瑚色の薔薇を受け取ると、サラはバイオレッタの胸にそっと留めた。
 
「仮に……、このような感じでいかがでしょうか」
「わあ……! 素敵だわ、サラ」
 
 後ろも確認するように言われて、三面鏡の前で控えめに回る。
 すると、面白いほどふんわりとスカート部分が広がって胸が高鳴った。
 ……緩やかに身を翻すと、まるで示し合わせたようにドレスの裾もふわりと舞う。
 劇場では端役すらもらえなかったので、ドレスなどもちろん着たことがない。それに、普段着や外出着だってこんなに裾は広がらなかった。
 クリノリンは少々大仰で身動きもしづらいのだが、このフリルの連なりが翻る様を見るのは胸が躍る。身じろぎするだけで揺れる優美なシルエットはいかにも女性的だ。
 
(綺麗。蝶か妖精にでも生まれ変わった気分……)
 
 裾に留めつけられた粒真珠の光沢にもついうっとりしてしまった。この星屑のような数多の真珠が照明の光を受けたらさぞや美しいことだろう。
 
「そうだわ、こちらを」
 真珠に見入っているバイオレッタに気づいたらしく、サラは小箱から似たような真珠のネックレスを出す。
 彼女は落ち着いた所作で、そっとそれをバイオレッタの首にかけた。
「素敵ですわ!」
「ええ、よくお似合いです……!」
「本当に。お顔立ちがお優しくていらっしゃるから、冴え冴えとしたお色を纏われてもあまり冷たい雰囲気になりませんわね」
 侍女たちが誉めそやすので、恥ずかしくていたたまれなくなった。
 
「散策用と言っていたけれど……、豪華なのね」
「当然ですわ。負けてはいられませんから!」
 バイオレッタは首を傾げる。
(頑張るとか負けるとか、よくわからないのだけれど……。一体どういう話になっているの……?)
 
 歩み出てきた一人の侍女が、サラに声をかける。
「次はお化粧ですわね、サラ様」
「そうね。腕が鳴るわ」
 化粧台に連れていかれ、すぐさま化粧が始まった。どうやら化粧もサラの役割らしい。
 まず最初に下地らしき液体を肌に塗りこまれた。
 次いで、顔や首筋に白粉おしろいをはたかれる。やはりほのかに香料が香る白粉だった。
 目の下や額に真珠の粉を優しく叩きこんだあと、血色をよく見せるための頬紅を両頬にさす。薄い桜色の頬紅がさされると、顔色が瞬く間にいきいきとした。
 目元には、すみれ色の瞳を強調するやや落ち着いた色合いのグレーのシャドウ。そして液状の化粧料を使ってまつげを固め、道具で持ち上げて軽く上向かせる。
「では紅を……」
 丸い金属の器におさまった固形の紅を紅筆にとり、サラはそっとバイオレッタの唇を彩った。青みの強いローズピンクだ。
 そこで彼女は一旦器と紅筆を置き、鏡に映るバイオレッタに微笑みかける。
「お気に召しました?」
「ええ。あんまりちゃんとしたお化粧はしたことがなかったけど……、なんだかすごく変わるのね。わたくしじゃないみたい」
 正直に言うと、サラは「まあ、そんな」と言ってころころと笑った。
 
「……さて、次は御髪ですけれど」
 言うなり、白銀の髪をくしけずって結いやすいように手際よく整える。
「どのようにいたしましょうか?」
「え? えっと……」
「これだけ長さがあるのですから、鏝を当てて巻くのも素敵だと思いますが……」
「それもいいのだけれど……。多分落ち着かないから、普段していたような、一つ結びに近いものがいいわ」
「かしこまりました」
 サラは長い白銀の髪を頭頂部で一つにまとめていった。寝癖をおさえるために毛先に少しだけミルクをつける。いつもははねてまとまりにくい髪があっという間に綺麗にまとまったのでびっくりした。
 髪をざっくりと一つに束ね、香油で整えてリボンで結ぶ。白い額にそっと巻きつけられたのは、紅い雫型の額飾りフェロニエールだった。
 最後に左耳の上のあたりにガラス細工の花の飾りを挿し、サラは微笑む。
「……例えば、このような髪型はいかがですか?」
 銀の光沢を持った髪は頭の高い位置で一つにくくられていた。身じろぎするたびに毛先がわずかにふわふわと揺れる。
 花の髪飾りにはやはり小粒の真珠が垂れ下がっており、色味も胸元の薔薇と合わせてあるせいか、全くいやみな印象になっていない。
 
 サラに促されて先刻の三面鏡の前に立つと、思わずため息が出た。
 少女はコバルトグリーンのふんわりとしたドレスに身を包み、数々の宝飾品ときちんとした化粧で装っている。身じろぐたびに波のように揺れるフラウンス、シャンデリアの光を弾く真珠の粒とルビーのフェロニエール。
 まだ幼さを残したおもてには淑女らしく化粧を施し、その瞳は己の変化に戸惑いながらもきらきらとみずみずしく光り輝いている。
 
(これが、これからのわたくしの姿……?)
 
 信じられない、と思った。
 きらびやかな下着とドレス。初めての本格的な身づくろい。まるで生まれながらの姫君であるかのようだ。
 昨日までは城下にいたためもちろん違和感もあるのだが、なぜだか背筋が伸びる装いだった。
 
 バイオレッタが瞬きをしていると、部屋のドアがノックされた。
「バイオレッタ様。少々よろしいでしょうか」
「なにかしら?」
 問い返すと声の主が告げる。
「ピヴォワンヌ様がいらしていますわ」
 バイオレッタはその名前にはっとした。
(ピヴォワンヌ……、香緋!)
 サラはお仕着せの乱れを直しながら楽しそうに言う。
「ということは、ダフネ先輩も一緒かしら? ひとまず参りましょうか、バイオレッタ様」
「先……輩……?」
 サラはにこっと笑った。
「わたくしの先輩に当たる方なので親しみを込めてそう呼んでいますの。とても素敵なお人柄ですのよ」
 そこで彼女は首をかしげて悪戯っぽい顔つきになる。
「ピヴォワンヌ様とダフネ先輩。なんだか息が合いそうな組み合わせだとわたくしは勝手に思っているのですが」
 
 
 ドローイングルームへ行くと、華やかなピンクのドレスに身を包んだピヴォワンヌの姿があった。
「バイオレッタ!」
「……ピヴォワンヌ!」
 駆け寄ってくる彼女を抱きとめる。
 彼女は首筋に腕を回してぎゅう、と抱き着いてきた。
「……心細かったわ。どうして住む場所が別々なのよ。これじゃあんたに全然会えないじゃない」
「そんな風に思ってくれるの? 優しいのね……、ありがとう」
「だって」
 ひしと抱き合っていると、ピヴォワンヌの背後に控えていた金茶の髪の美女がふっと微笑んだ。
「まあ。仲がよろしくていらっしゃいますのね。初々しくてお可愛らしいこと」
 秘めやかな声でふふふ、と上品に笑ってみせる。
「……あ、貴女は……?」
「申し遅れました、わたくしはダフネと申します。ピヴォワンヌ様の筆頭侍女ですわ。以後お見知りおきくださいませ……」
 胸はふくよかで、腰は驚くほどくびれていた。伏し目がちな目元にも強い色香がある。見るからに大人の女性といったたたずまいだ。
 芍薬ピヴォワンヌの名に合わせているのか、服の色使いはサラとは異なって赤が基調だ。靴の上部には芍薬の絹花があしらわれている。
 サラがうっとりと言う。
「ダフネ先輩はかっこいい方なんですの。指示は的確だし着付けは上手だし、センスもいいし。後輩たちからは“お姉様”って呼ばれて慕われているんですよ」
「貴女はもう少し落ち着いた方がいいわよ、サラ。仕事は確かに丁寧だけれど、そそっかしくて見ていられないわ」
「すみません……」
 しょげるサラが可愛くて、バイオレッタは思わず笑みをこぼした。
「ふふ……」
 
 ……と、もじもじしているピヴォワンヌの髪に見慣れたものを見つけて、バイオレッタは瞬きをする。
「あ……、ねえ、つけてくれているのね、そのリボン……」
「あの……、似合わない?」
 ピヴォワンヌは少しだけしょんぼりと肩を落としたようだった。
「あたし、もともとこういうのが似合わないのよ……。それはわかってるの、柄じゃないって。でも、あんたにもらったものだから、どうしてもつけたくて……。それで仕上げにダフネに結んでもらったんだけど……、やっぱり変……?」
 ピヴォワンヌは上目遣いにこちらをうかがってくる。芍薬色のまつげが縁取る紅い瞳は潤んでいるし、何より頬が林檎のように赤い。
 バイオレッタは完全に彼女の愛らしさの虜になってしまった。
(……すごく可愛い。この子、こういう一面もあるのね……。それにしても、なんて愛くるしいの!)
 薄紅のドレス姿でどこか恥ずかしそうにこちらを見上げるピヴォワンヌには年相応のあどけなさがあった。
 らしくもなく慌てふためいている様子にも心を奪われてしまう。もともと可愛らしい顔立ちをしているだけに、こんな無防備な表情を晒されるとより一層庇護欲が掻き立てられてしまうのだ。
 バイオレッタは身を乗り出してぶんぶんと首を横に振った。
「な、何を言っているの……、ピヴォワンヌ! すっごく可愛いわ! もっと自信をもっていいと思うわ」
 バイオレッタが思わず彼女の小さな手を握ると、ピヴォワンヌはどうしたらいいのかわからないといった顔つきになった。
 が、ぽつりと言う。
「あ、……ありがと。じゃあ、毎日つけるわ……。あんたがそう言ってくれるなら、あ、安心だし……」
「ええ、ぜひそうして。ええと、確か、レースやビーズを縫い付けたものもあったでしょう? ピヴォワンヌは顔立ちが整っているから、きっとなんでも似合うわ。ドレスに合わせて日替わりでつけても楽しいかもしれないわね」
「あ、そうね。それは気分が変わってよさそうだわ。じゃあ、そうしようかしら」
 二人が微笑み合ったとき。
 
 
「ダフネ様!!」
 扉越しに大声でダフネの名を呼ぶものがある。
 その侍女は何度か必死にダフネの名を繰り返した。
(え……)
 悲鳴にも似た侍女の声音に、バイオレッタはぎくりと身を硬直させた。
「ダフネ様!! 大変です、どうかここを開けてくださいませ!!」
 扉のむこうから聞こえてきた荒々しい声に、ダフネが険しい顔になる。
「一体何事なの! 王女様の御前で無礼ですわよ!」
「申し訳ございません! ですが……、急ぎお越し下さい! 陛下が……!」
「……! 陛下がどうなさったの!?」
 ダフネの問いに、その侍女が震える声を絞り出した。
「――ピヴォワンヌ様の御養父様を、処刑すると仰せです……!」
 
 

 

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