accarezzevole 風邪の看病(前編)

 
「ごほっごほっ……!!」
 バイオレッタは寝台の上で咳き込んだ。
 筆頭侍女のサラが、水銀体温計を見ながらつぶやく。
「……やっぱり、だいぶお熱があるようですわね」
「どうしましょう……、試験の最中にこんな……」
 言いかけて、バイオレッタはまた盛大に咳き込む。
 サラがおろおろしながら薄地のタオルケットを引き上げた。
「も、もう。今そのようなことをお考えになるのはおやめくださいませ。まずはお体を治しませんと」
 
 
 バイオレッタは風邪を引いていた。
 宮廷医の見立てによれば軽度の普通感冒で、数日おとなしくしていればすぐに治る類のものだという。
 薬を出され、今日は一日じっとしているようにとの指示が出た。
(確かに少し前からなんだかだるいような感じがしたけれど……まさかこんなことになるなんて)
 女王選抜試験が始まってから、バイオレッタも他の王女たち同様、月に数回領地と王都とを行き来する生活を送っている。長旅でいつも体力を消耗するから、その疲れがたたったのかもしれない。
 質の悪い病でなかったことだけは幸いだが、それにしても残念だった。
 ろくに動き回れず頭も働かないというのでは、女王候補失格だ。
 王女として、そして領主として、まだ学ばなければならないこともたくさんあるというのに――。
 
「早くよくならないと……。まだ土地の開拓の途中だわ」
 げほげほ咳をしながら領地からの報告書を手繰り寄せるバイオレッタに、サラが怒る。
「もうっ! こんな時までそんなことをなさるのはおやめください! ほ、ほら、早く横になって――」
 その時、侍女の一人がおずおずと声をかけてきた。
「あのぅ。サラ様……。シャヴァンヌ様がおいでになっておられるのですが……」
 サラがびっくりして声を上げる。
「ええ? こんな時に何を考えていらっしゃるのよ、あの方は。ひとまず、お帰りになっていただいて。バイオレッタ様はお風邪を召されているからと」
 確かに今会うのはよくないだろう。くしゃみや咳で風邪をうつしてしまう可能性が高い。寵臣のクロードをそんなつまらないことで煩わせたくない。
 
 だが、バイオレッタはなんだか申し訳なくなってきた。
 侍女の言葉から、ついお預けを食らわされている犬を連想してしまう。今もきっとドローイングルームでじっと待ち続けているに違いなかった。
 もしかしたらすぐに出てこないバイオレッタに心配しているかもしれないし、また何か機嫌を損ねたのではないかと不安になっているかもしれない。
 
 ……年上の恋人の麗姿を脳裏に思い描いて、バイオレッタはまた熱が上がってくるのを感じる。
(お会いしたい……)
 風邪など引いて心細いせいか、妙にクロードに会いたかった。
 また、彼の方も会いたいと思ったから私室にまで足を運んだのだろう。それを思えば、このまま帰ってもらうのはなんだか申し訳なかった。
 
「あの、サラ。入れてあげて」
「は……!?」
「少しお顔を見るだけだから。ね?」
 サラは渋々といった体でドローイングルームへ向かった。侍女を伴って扉の奥へ消える。
 しばらくして、大きな音を立ててドアが開いた。
「姫っ……!!」
 喜び勇んで部屋に駆け込んでくるクロードに、バイオレッタは咳をしつつも笑顔になった。
「クロード様!」
 彼は寝台の傍らに跪くと、バイオレッタの手を取る。
「ああ……姫。お可哀想に。熱は何度あるのですか? お食事は召し上がられましたか? 痛むところは?」
「わっ……!? あ、あの……!?」
 矢継ぎ早に訊かれ、バイオレッタは寝台の上でびくりとする。
 サラが慌てて止めに入った。
「もうっ! おやめください! 今さっき申し上げた通り、バイオレッタ様は病人なのですよ。そのように質問攻めにしてはいけません!」
「ああ……なんということでしょう。ただでさえお小さくてほっそりとしている貴女が、風邪ごときに苦しめられるなど……。私が代わって差し上げられたらどんなにいいか……」
 本気で言っているらしいクロードに、バイオレッタは苦笑した。
「そんな。いけませんわ。あなたが風邪なんか引いてしまったら、お父様が嘆かれます」
「……ええ、まあ。執務が滞るといってお怒りになられるのは必至ですね」
「クロード様のお顔を見たら、ちょっとだけほっとしました。すみませんが、今日はこのままお帰りになってください。うつると悪いですから」
 
 だが、そこでクロードは毅然と言い放った。
「いえ。私がお世話いたします」
「は……えっ!?」
 バイオレッタは思いがけない言葉に固まる。
 が、クロードは大真面目な口調で続けた。
「私は陛下がお風邪を召された折にはいつも看病をさせていただいております。多少はお役に立てるかと……」
 バイオレッタは絶句した。まさか、クロードがそんなことまでしていたなんて――。
「そ、それは初耳です……、やっぱりお父様とは仲がよろしいのですね」
「いえ……それが私の仕事ですので」
 仕事とはいえ、わざわざ面倒を見ようとするあたりがさすがである。
 きっと体を拭いたり着替えさせたりといった世話も嫌がらずにしてやるのだろう。
 二人は男同士で、しかも主従関係にあるのだから、余計な羞恥などあるはずもない。
 当然といえば当然だが……。
「もし姫がお嫌でなければ、今日は私がお世話をさせていただきます」
 恭しく頭を垂れ、クロードが言う。
 
 だが、バイオレッタはまたぶわっと熱がぶり返してくるのを感じていた。
 風邪を引いているとはいえ、リシャールにするように甲斐甲斐しく面倒を見てもらうなんてとても耐えられない。
 身体を拭き清めさせたり着替えを手伝わせたりといったことは断じてさせたくない。
 第一、繊細かつ優しげな風貌であるとはいえ相手は男性だ。そんなところをむやみに晒していいわけがない……。
 彼女はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「いえ! 結構です! そんな……、そんな恥ずかしいことまでしていただく必要はありません!」
 が、クロードはそこできょとんとした。整った眉を寄せて、怪訝そうに問いかける。
「は……、吸飲みで水を飲ませたり、冷菓シャーベットを食べさせて差し上げたりするのが恥ずかしいことなのですか……?」
「……!!」
 バイオレッタは今度こそ顔を真っ赤にし、頭からばふっと勢いよく布団をかぶった。
 
 
「少しだけですからね!? 何か妙な真似をなさったらただじゃおきませんわよ!?」
 そう念押しし、サラが退室する。クロードを軽くひと睨みするのも忘れない。
 筆頭侍女として一日ゆっくりバイオレッタの面倒を見られると思っていたのに、とんだ番狂わせだとでも思っているのだろう。
 クロードはくすりと笑みをこぼすと、枕にもたれるバイオレッタの頬に触れた。
「……筆頭侍女殿には申し訳なかったですが、とても嬉しいですよ。貴女のお世話ができるなど……」
「いえ。その、よろしくお願いします……」
「とんでもございません。至らぬ男ではございますが、私にできることがあれば何なりとお申し付けくださいね?」
 そう言って、クロードはベッドの脇に陣取った。椅子に腰かけ、主人の命令を待つ忠犬のようにバイオレッタの様子をうかがう。
「その……、いつも通りになさっていてかまいませんわ。あんまりじっと見られると、は、恥ずかしいですし……」
「ええ。わかりました」
 二人はしばらく無言で互いの様子をうかがい合う。
 バイオレッタはそこでぽつりとこぼした。
「……その。さっきはごめんなさい。変なことを口走ってしまって……」
「ああ、先ほどのことですか。一瞬理解に苦しみましたが、大して気にしておりませんよ。お気遣いなく」
「すみません……」
「失礼ですが、どういう意味だと思ったのです?」
「それは、その……。お父様のお体を拭いて差し上げたり、着替えを手伝ったりしているのだと思ったのです。だから、てっきりわたくしにも同じことをなさるのかと……」
 クロードはいかにもおかしそうにくすくすと笑った。
「そのようなことはいたしません。陛下には専属のお世話係というのがいらっしゃいます。彼らの仕事を取り上げてしまっては哀れでしょう」
「そう、ですわよね。わたくし、勘違いなんてして……恥ずかしいわ」
 羞恥からそろりと顔を覆い隠すバイオレッタの頭に、クロードが触れる。
 繊細な細工物を慈しむように、彼は何度もその白銀の髪を撫でた。
「ふふ。姫は案外妄想がお好きなのですね……? いつもそうやって私で愉しんでいらっしゃるのですか?」
 揶揄するような声音に、バイオレッタは思わず顔を上げる。
 すると、すかさずクロードの手が伸びてきて両頬を挟み込まれた。
 無理やり視線を合わされ、色気たっぷりに微笑まれて、バイオレッタはしどろもどろになる。
「な、わ、わたくしはそんなつもりじゃ……!」
「よろしいのですよ。貴女が元気になるというなら、いくらでも妄想させて差し上げます。貴女の想像の中で好きなように動いて差し上げましょう」
「もう……!」
「ふふふ……」
 いつになく楽しそうなクロードに、バイオレッタは呆れてしまった。
 またからかわれている。遊ばれている……。
「さあ。おしゃべりは布団の中でもできますよ。そろそろ横におなりなさい」
「あ、はい……」
 なんだか母親のような台詞でおかしくなったが、バイオレッタはおとなしく横たわってタオルケットにくるまった。身体を冷やすなという宮廷医の指示に従い、できるだけすっぽりとくるまる。
 そうしてしばらくじっとしていたが、だんだん肌が汗ばんできたことに気づいた。
 
(ああ、そうだった。あのお薬を飲んだせいで身体が温まりやすくなっているんだったわ)
 
 宮廷医の処方したものの中には、体を温める作用のある薬が含まれている。これを飲むと血の巡りがよくなって、病や悪いものがどんどん体外に出てゆくのだそうだ。
 だが、それにしても効きすぎだと、バイオレッタは手で額の汗をぬぐった。確かに悪寒はやんだし冷えも感じないが、どう考えても温まりすぎである。
 熱でふわふわした心地の中、肌を湿らせる汗がやけに不快で、バイオレッタは思わず大きくため息をつく。
 すると――。
「さて……。それでは、仕事をさせていただきます」
「えっ、ちょっ……仕事って」
 早速とばかりに、彼は冷水に浸した手巾でバイオレッタの顔をぬぐった。
 纏わりつく銀の髪を払いのけて首筋も拭く。冷たく濡れた薄地の手巾が、バイオレッタの素肌の上を心地よく滑った。
 クロードは肌に浮かんだ汗のしずくを優しく拭き取った。
 細かいところまで丁寧に拭き終えると、彼はもう一枚手巾を取り出した。水に浸したそれをよく絞り、バイオレッタの額にあてがう。
「お肌が冷たい方が気持ちがいいのではないかと思いまして」
「え、ええ……、ひんやりして気持ちいいです、けど……」
「温まったら新しいものとお取り替えします。いつでもおっしゃってくださいね」
 ここぞとばかりににっこりされ、バイオレッタは面食らう。
(こ、こんなに甘やかさなくていいのに……!)
 普段クールな印象が強いだけに、こうして付きっきりで世話をされると妙な感じがする。彼は本当にあのクロードなのだろうかと、バイオレッタはつい彼の顔を凝視してしまった。
 しかも……。
「喉は乾いていらっしゃいませんか」
「ええ」
「何かさっぱりしたものでも召し上がられますか」
「いえ……」
 かれこれ数十分はこの調子である。
 クロードをこき使うことへの申し訳なさから、バイオレッタはことごとく「いりません」と返答する。
 どこか残念そうに肩を落とすクロードを尻目に、バイオレッタは天蓋を見上げて息をついた。
 生まれてこの方、男性にここまでまめまめしく世話をされたことなどない。
 一方的に権力や支配欲を誇示されたことなら何度もあるが、こんな風に優しくあやされる関係は生まれて初めてだった。
 ……思えば、クロードは最初からそうだった。狼狽するバイオレッタの足元に跪き、手に口づけ、柔和な笑みで彼女の緊張を解きほぐした。
 そして、その後は面倒がらずに話し相手になってくれた。
(とはいっても、別にものすごく性格がいいとか、ものすごく素直とかいうことはないのよね……。今となっては真面目で爽やかなクロード様なんて逆に想像できないわ)
 そんなことを考えてしまうあたり、バイオレッタもかなり毒されている。
 彼女はそこでゆるゆると首を振った。
「……はあ」
 ぽふん、と枕に頭を沈み込ませると、バイオレッタは瞼を下ろした。
 コチ、コチ……という時計の針の音がやけに耳に響く。
 熱があるせいか、身体全体がふわふわと浮いているような感覚だ。しかも、全身が重くてうまく身体が動かせない。
(だるい……。頭が重くて、ぼうっとする……)
 クロードはそんな彼女の様子を察したのか、口をつぐんだ。眠りを妨げないよう配慮しているのだろう。
 
 ……それにしても、一体どうしてこんな時に風邪など引いてしまったのだろう。
 宮廷医は単なる風邪で、疫病などではないと言っていた。だが、好きに動けないのはやはり辛かった。
 どんどん憂鬱な気分になってきて、バイオレッタは半ば強引に目を閉じる。
 せっかくクロードが会いに来てくれたのに、いつものように喋ったり触れ合ったりといったことがまるでできない。それがなんとも残念でならなかった。
「病は気から」という言葉があるが、本当は「気は病から」なのではないかと思う。
 熱が高ければまともな考えなど思い浮かばないし、何より身体の方が一刻も早くやすめと警告してくるから、楽しいことを考えるのなんて土台無理だ。
 実際、身体の警告はそれだけ重要なものなのだろうと思う。体調に気を配るのも女王候補としては必要なことだったのかもしれない……。
 
「少しおやすみなさい、姫。随分と辛そうですよ」
「はい……」
 バイオレッタは胸郭を上下させてゆっくり深呼吸する。
 そうこうしているうちに緩やかな睡魔が訪れて、バイオレッタの思考を遠くさらっていった。
 
 
 目が覚めると、ちょうどクロードが額に触っているところだった。
「姫……」
「う……ん……」
 クロードは真剣な表情で、バイオレッタの顔をのぞきこんでいる。
 ひたひたと、彼は熱さを確かめるように肌に手を這わせた。頬や額、こめかみのあたりなどにも触れ、具合を確かめる。
「冷たくて気持ちいいです……」
 思わずふにゃりと笑み崩れるバイオレッタに、彼は微笑した。
 一旦手を放し、冷水に浸したタオルで顔や首筋の汗を拭いてくれる。
 そして、おもむろにナイトテーブルの上を指し示した。
「陛下から贈り物が届いております。どうぞご覧になってください」
 えっ、と小さく声を上げ、バイオレッタは起き上がって机上を見やる。
 そこには――。
「わあ……!」
 それは籠に収まったたくさんの林檎だった。ご丁寧に持ち手にシフォンのリボンまでかけられている。林檎はどれもつやつやと赤く、見るからにおいしそうだ。
「これ……お父様が?」
「ええ。筆頭侍女殿を通して言伝がされたようですね。やはりご自分の娘ともなれば心配なのでしょう。東の領地で取れた最高級の蜜林檎だそうですよ」
 林檎の一つを取り上げて、バイオレッタはまじまじと眺めた。ふわりと甘酸っぱい匂いが鼻腔をかすめる。
 父王が……リシャールが、まさかこんな贈り物をしてくれるなんて。
(わたくしのことなんて、もしかしたらそこまで大切ではないのかもしれないと思っていたわ。だけど……嬉しい……)
 そこでクロードが鞘からナイフを抜いた。
「剥いて差し上げましょうか」
「え?」
「お召し上がりになりたいでしょう?」
 見れば、硝子の器やカトラリーが準備されている。眠っている間に用意したのだろうか。
「……じゃあ、お願いします」
 うなずくなり、クロードは林檎を手に取って皮を剥き始めた。
 絶妙な角度でナイフを当て、赤い皮を薄く削ぐ。
「まあ……! まさかお出来になるなんて」
「ふふ……意外ですか?」
「ええ……」
 熱に浮かされたまま、バイオレッタはクロードの手元を見た。
 クロードの手に収まったナイフはするすると動き、なめらかに林檎の皮を削ぎ落としてゆく。
 器用さがよく伝わってくる手つきだった。
 クロードの手の動きはいかにも慣れているといった感じで無駄がない。刃を押し進める様子も、指先をずらすタイミングも、どちらも完璧だった。
 クロードは怪我一つせずに林檎を剥き終わった。
「すごい……、殿方が、林檎の皮剥きを……」
「できないと思いましたか?」
「い、いえ! そんなことは」
「ナイフを扱うのは男のたしなみですので」
 よくよく考えれば、彼はバイオレッタより遥かに年上なのだから、それくらいの経験を積んでいても別に不思議ではない。
 だが、こうもそつなくこなされるとバイオレッタとしてはやや複雑な気もした。
(うう……、なんだかわたくしよりうまいような……)
 ナイフとクロードという取り合わせは、意外にもよく馴染んでいた。この鋭さがよく似ている、とバイオレッタは思う。
 クロードの空気は、いつも刃のように鋭利に研ぎ澄まされているからだ。
 その後もクロードは、バイオレッタの見ている前で次々に林檎を剥いていった。
「さて。剥き終わりましたよ、姫」
「……あの。ウサギ林檎にする必要はあったのですか?」
 しかもその隣は豪華な飾り切りになっている。木の葉状のものや格子状のものに加え、なんと星型のものまであった。
 バイオレッタは思わず林檎とクロードを交互に見つめる。
 たとえ病人の看護という名目付きだとしても、ここまでする必要性は正直感じない。
 が、クロードは意気揚々と言った。
「女性は可愛いものが好きでしょう? このウサギなど、耳がぴんと立っていて愛らしいですよ」
 気遣いは嬉しいが、あまりにも可愛すぎる演出だ。
 バイオレッタが苦笑していると、クロードはフォークに林檎を刺して差し出してくる。
「どうぞ、姫。お口を開けてください」
「えっ」
「病人の役目とは甘やかされることです。今日くらいは私に甘えてください」
「できません、そんな恥ずかしいこと……!」
 クロードはそこでいきなりひょいとフォークを引っ込める。
「では、私が食べてしまいますがよろしいですか?」
「え、そ、そんな! わたくしの林檎なのに――むぐぐ!?」
 いきなりウサギ林檎を口に押し込まれ、バイオレッタは目を白黒させた。
 クロードは楽しそうに言う。
「こういう時くらい素直になった方がよろしいですよ、姫。貴女は風邪に罹患していて、隣には世話を焼いてくれる男がいる……。そんな時くらい弱音を吐かなくてどうするのですか」
「……」
 思わずしゃくしゃくと林檎を噛みしめる。
 舌に広がるのは、どこか締まりのない甘さだ。酸味がまるきりなく、ただひたすらに甘ったるいだけの果実……。
 口腔にあふれた果汁が、とろとろと喉の奥へ流れてゆく。ごくりと飲み干すと、濃厚な甘みが熱で疲弊した身体に沁みた。
「もう一つ召し上がられますか?」
「……はい」
 嬉しそうに差し出された林檎を、バイオレッタは無言で齧った。
 風邪だからしょうがないのだと言い訳をしつつ、口元にあてがわれる林檎に歯を立てる。
 熱のせいか、男性の手から林檎を食べさせてもらっているという事実がさほど恥ずかしくなかった。クロードの言葉通り、こんな日くらいは彼に甘えても罰は当たらないのかもしれない。
(風邪だから。いつもとは違うから……)
 懸命に自分自身に言い聞かせながら、バイオレッタは口を開けて林檎を頬張る。
 新しく差し出されたそれに齧りつくと、弾みでじゅわりと透明な蜜があふれた。
「あっ……」
 クロードはバイオレッタの唇を伝う果汁をすくいとって舐め、楽しげに口角を上げた。
「何やら雛鳥の餌付けをしている気分です」
 興味深げに視線を注がれ、バイオレッタはいたたまれなくなった。
「そ、そんなに見ないでください……」
「ふふ。美味ですか、姫?」
 バイオレッタは黙って一つうなずき、またしゃくりと林檎を頬張った。
 ぽつりとつぶやく。
「甘い……」
「確かに、林檎の甘みは独特ですね。柑橘類の甘みともまた違っていて、いかにも滋養のありそうなしっかりとした甘さです」
「……風邪を引くと、マリアがよく食べさせてくれましたわ」
「貴女のご養母様ですね」
「はい。他にも、オレンジを硝子の器で絞って飲ませてくれたり、ブランデーを入れた甘いエッグノッグを作ってくれたりして……」
 
 オレンジジュースの味、エッグノッグの味。そして食事と一緒に用意される林檎の味。
 そのすべてを、今でもはっきりと覚えている。
 風邪を引いた時だけはマリアが付きっきりで看病してくれるので、バイオレッタは嬉しかった。
 多忙な彼女とゆっくり向かい合って話せて、おまけにとても優しくしてもらえる。不謹慎ではあるが、風邪を引くとほんの少しばかり得をしたような気分になったものだ。
 
「わたくし、子供みたいなこと言って……ごめんなさい」
 思わずそう言うと、クロードは相好を崩す。
「いいえ。弱っている時に誰かにすがりたくなるのは当然のことですよ。きっと身体と心の両方が、ご養母様を求めていたのでしょうね」
「わたくしにとっては、そうやって面倒を見てもらえるのがなんだか嬉しくて。どんなに重くて苦しい風邪を引いていても、マリアがそばにいてくれるとほっとしたのです。甲斐甲斐しくお世話をしてもらっていると、だんだん、マリアのためにも早く治さなきゃって思えてきて……」
 クロードはそこでフォークを置き、バイオレッタの手を握りしめた。
「……私などではその方の代わりにはなれないでしょうが、どうか早く元気になってください、姫。無理をなさらないで、体調を回復させることだけをお考えになって……」
「ええ……」
 周囲のためにも早く元気になりたい。否、そうしなければいけない。
 サラ、クロード、リシャール。菫青棟の侍女たち。
 皆に迷惑をかけてしまった分、早く身体を治さねばならない……。
 林檎をすべて味わい終えると、クロードが横になるよう促してきた。
「どうぞ、私にかまわずおやすみください。御無理をなさってはお身体に障りますから」
「ええ……」
 おとなしく布団にもぐり込み、バイオレッタは瞳を閉じる。
「おやすみなさい、私の姫」
「おやすみなさい、クロード様……」
 むにゃむにゃと言い、バイオレッタは深い眠りの底へ落ちていった。
 
 
 
 
 

 

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