第七章 侍女の語る「昔話」

 
 湯浴みを終えたバイオレッタは、サラに支えられてこわごわ黄金の姿見の前に立った。
 ここはバスルームから続いている一室で、大きな鏡がいたるところに置かれている場所だ。
 壁紙の色は他の部屋と同じ深緑で、シャンデリアを彩る玻璃のビーズが時折陽の光を受けてきらきらときらめいている。
 バイオレッタはうっとりと瞳を細めた。
 
 菫青アイオラ棟のバスルームは豪奢だった。パステルカラーの優しい色合いのタイルと猫脚のバスタブが可愛らしくて、つい見惚れてしまった。
 劇場でも湯浴みはしていたが、こんなに立派なバスルームでというわけではなかったので、ただただ驚かされてしまう。
 温かなお湯には質のいい甘い香りのバスミルクが溶かされ、入浴の際にサラの手によって薔薇の花びらがふりまかれた。なめらかなお湯の感触と華やかな香りに癒されて、とてもいい心地がした。
 
 湯でほぐされた身体は、サラが薔薇の花びらの入った珍しい固形石鹸で洗ってくれた。
 やっぱり少し恥ずかしかったのだが、相手は同い年の少女だ。昨日、記録係に素肌をくまなく検められたことと比較すればはるかにましだった。
 
 そうして湯浴みを終えて隣の部屋に移ってからも、頭はまだぼうっと霞んでいた。本当に夢のようで、未だに信じられない。
 
(駄目……、贅沢すぎてめまいがするわ……)
 
 と、鏡に映る自分と目が合った。素肌を晒した白銀の髪の少女が、どこか不安げにこちらを見つめ返す。
 しかし、自分の裸身が映り込んだ姿見はさすがに凝視することができず、バイオレッタはすぐにふらふらと視線をさまよわせた。
 
「お身体を拭かせて頂きます」
 侍女たちが集まってきて、むき出しになった湯上りの肌を拭いてくれる。
 年頃はさまざまだが、みな落ち着きがあり手際もよい。だがサラとは異なり、グレートーンの地味なお仕着せだ。
 
 バイオレッタはそこであることに気づく。
 彼女たちの灰色のそれに比べるとサラの格好が随分ときらびやかに見えるのは気のせいだろうか。
 無遠慮かと思ったのだが、バイオレッタは気にするあまり思わず訊ねてしまった。
「ねえ、サラのお仕着せはどうしてそんなに綺麗な紫色なの?」
「気づいてくださったのですね、バイオレッタ様。嬉しいですわ」
 サラはバイオレッタに着せるらしい、上質そうな下着を携えて近寄ってきた。軽やかに微笑む。
「本来であれば紫というのはここスフェーンでは禁色きんじきですわ。王族のみが着ることを許された、特別な色です。ですが、わたくしは今回陛下に許可を頂きましたの。バイオレッタ様の筆頭侍女に任じられて、バイオレッタ様のお名前と瞳の色にちなむ『紫』のお仕着せを身に纏うことを、特別に許可していただいたのですわ」
「そうだったの……。それは素敵なことね。じゃあ、貴女のお洋服とわたくしの瞳の色はお揃いというわけなのね」
 本心からそう言うと、サラは赤くなってしまった。
「まあ……、その喩え方の方がよほど素敵ですわ、バイオレッタ様。ご主人様にそんなふうにおっしゃっていただけるなんて、夢みたいです……」
 
(禁色……。王族にしか着ることを許されない色……)
 
 だが、「彼」は紫色のジレを着ていた。袖口の一部やタイピンの宝石、耳元を飾るピアスもまた紫だった。
 その美貌には、思わずぞくっとするほどの妖艶な色香が滲んでいた。
 思考のかけらさえ根こそぎ奪い取る黄金の双眸。そっとバイオレッタの手を取る優しい指先。愛おしげな声。手の甲に触れる柔らかな唇……。
「彼」は――クロードは、およそ人とも思えないほど美しい男性だった。
 
(……あ……。わたくしは……、一体何を思い出して……!)
 
 バイオレッタは思わず赤くなった。
 自分は一体、なんて不埒なことを考えているのだろう。今はこんなことを考えていてはいけないのに。
 そう思いながらも、なぜかクロードの美しい姿が頭から離れない。頬に手をやると、そこは熱をもっていた。
 一体どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。どうしてこんなに彼が気になってしまうのだろう……。
 
「……バイオレッタ様?」
「い、いいえ。なんでもないわ」
 バイオレッタは強く両目をつぶった。
「そうですか? では、早速ですけれどお着替えをお手伝いしますわね」
「……ええ。お願い」
 慣れないながらも、サラの用意した肌触りのいい下着を着る。薄くて軽い綿の肌着だ。素材といい手触りといい、素晴らしく高価そうな代物で、劇場にいた頃の下着とはまるで違う。
 次に用意されたのはコルセットとパニエだった。特にコルセットは形のよい胸を強調するように、少しふくらみを持ち上げるようにしてつけるのが今の流行なのだとサラが教えてくれる。
 どちらも繊細なレースやフリルがふんだんにあしらわれていて可愛らしかったが、コルセットに関しては意外と強敵なのだということにすぐに気がついた。一人では紐が締められないのだ。
 サラや数人の侍女に手伝ってもらったが、やっと一通り着終わったころには疲れてくたくただった。
 
 バイオレッタのそんな様子を察したのか、サラは侍女の一人に、飲み物を持ってくるように言いつけた。
 そして部屋の片隅に備え付けられた化粧台に向かうと、丸い銀製の器を手に取る。
「こちらが先ほど申し上げた真珠の粉ですわ。今つけて差し上げますね」
 お湯で温まった綺麗な素肌に、サラが真珠のパウダーをはたいてくれる。ガウンやドレスから露出するデコルテの部分と、腕や手の甲を中心に、彼女はそれを丁寧につけてくれた。
 粉からはほのかに薔薇の香りが漂ってくる。どうやら、先ほど使った薔薇石鹸の残り香に合わせているらしかった。
 これも宮廷人の――姫君のたしなみなのだろうか。だとしたらあまりにも優雅なたしなみだ。
「本当に白くて綺麗なお肌ですわね。わたくし、ほんのちょっと妬んじゃいます」
「え? そうかしら……、特に変わったお手入れはしていないけれど……。それにしてもこのお粉、上等そうね。正真正銘の真珠の粉に薔薇の香りづけなんて……」
「はい! 王室御用達の化粧品店の特製ですから。少しデコルテにもはたきますね」
 毛足の長いパフが首筋に触れてくすぐったいが、それ以上に馨しい薔薇の香りがして、つい顔が緩んでしまう。
「わたくし、この薔薇の香り、好きだわ」
「あら、それはようございましたわ。バイオレッタ様に気に入って頂けて、化粧品店のマダムも喜んでいることでしょう。香油やクリームも揃えておきましたので、夜の湯浴みのあとにおつけしますね」
 銀のきらめきを持つ粉を、サラは静かに肌に纏わせる。
 それから黄金の蓋のついた磨り硝子の小瓶を持ってくると、「失礼いたします」と言って、その中身をバイオレッタの首筋と手首に軽くはたいた。
 透き通ったさらさらの液体が肌に触れる。ひんやりした感触のあと、蕩けるような芳香が立ちのぼった。
「薔薇と麝香を調合したコロンですわ」
「わあ……、すごくいい香り!」
 手首から漂う甘い香りに、バイオレッタは思わず笑顔になった。サラもつられたように微笑んでいる。
「こうやってご主人様をドレスアップさせられる日を、ずっと楽しみに待っていましたの。ようやく夢が叶って嬉しいですわ」
「ありがとう、サラ。そんなことを言ってくれて」
「いいえ」
 
 サラは嬉しそうにころころと笑って長椅子を指し示す。
「お飲み物がくるまで少し休憩いたしましょう、バイオレッタ様。どうぞ、こちらの椅子にお座りになってください」
 サラに勧められるまま、肘掛のついた長椅子に腰を下ろす。
 せっかくなので、バイオレッタは気になっていたことをいくつか訊いてみることにした。
「サラ、後宮について教えてほしいのだけど、わたくしは今どのあたりにいるのかしら」
「そうですね……、まず薔薇後宮は大まかに、西棟と東棟に分けられます。こちらは西棟です。現在姫君たちの主な居住区となっていますの。さすがに今では空いている居住棟も多いのですが……」
 やはり、「今は“後宮”といっても名ばかり」なのか。クロードの言葉通りのようだ。
「昨日案内してくれた女官はこの場所を『菫青棟』と言っていたような気がするのだけれど」
「はい、こちらはそう呼ばれています。宝石の菫青石アイオライトにちなんで命名されていて、すべてバイオレッタ様のための居住空間となっておりますわ」
 菫青石など見たことはなかったが、きっと美しい貴石なのだろうと思われた。
 姫君の暮らす居住棟を宝石にちなんだ名前にしてしまうあたりがいかにも王宮らしい。
 
「ねえ、サラ。昔はやっぱりお妃さまが大勢いたの?」
 訊ねてみると、サラはこくりとうなずく。
「ええ。先の王の時代はとてもたくさんのお妃さまがいらっしゃったそうです。宴や舞踏会の場ではもめ事や争い事が絶えなくて大変だったとか。現在の王太后ヴィルヘルミーネ様はそんな数多いる愛妾のうちの一人でした。王太后様はスフェーンでは珍しい、垂簾の政を行われた女丈夫なのです」
 バイオレッタはサラの言葉に耳を傾けて小さく唸った。
(“垂簾のまつりごと”……。垂簾聴政すいれんちょうせいと呼ばれる摂政の一つね)
 イスキアでは東国である劉が一番最初に始めたものだ。幼い王に代わって王后や王太后が政を行うことを指す。
 ではヴィルヘルミーネは、愛妾の身分でありながら国王に代わって宮廷を取りまとめていたということなのだろう。
 垂簾聴政は本来は后妃が行うことはなく、王太后などの最長老の王族女性が行うものだと聞いているが、どうやら彼女の場合は違っていたらしい。
 
 ……それにしても、現在の国王とは一体どのような人物なのだろうか?
(スフェーン大国の統治者にして薔薇後宮の主……。未だ神秘のヴェールに包まれた不思議な御方。先の王の時代には愛妾がたくさんいたと言うけれど、今の国王陛下に愛妾は一人もいらっしゃらないのかしら?)
 先代国王の崩御については聞き及んでいたが、今の国王について知り及んでいる庶民は少ない。招待を受けて王城へ足を運んだ貴族や異国の使者たちは、みな堅く口を閉ざしてしまうのだという。
 “王城には秘密が眠っているに違いない”と城下の人間は言い、その噂話は口をつぐみ続ける貴族たちの態度と相まって信憑性を増していた。
 国王についてはアルバ座でも何度か話題には上った。だが、みな一様に語ろうとしないのである。城で見聞きしたものをけして外へ広めるわけにはいかないとでもいうように。
 
 話をもっと詳しく聞きたくて、バイオレッタは身を乗り出した。
「陛下のことをもう少し詳しく教えて。お会いする前に知っておきたいわ」
「そうですね、知っておいた方がよろしいですわね。陛下がまだお小さかった頃、先の王様は落馬事故が原因で帰らぬ人となってしまったのです。それを嘆かれた先の王太后様はその後しばらくして身罷られました。陛下は実の御父君と祖母君様をほとんど同時期に亡くされたのです」
 サラは滔々と続けた。
「また大変御気の毒なことに、陛下の大勢のご兄弟がたは不慮の事故で亡くなられていますの。王太子殿下も病没され、王位を継承できる男児は陛下だけでした。先の王の時代はヴィルヘルミーネ様は愛妾の一人にすぎなかったのですが、幼王の生母ということで今の地位を手に入れられたのです」
「待って……、先の王太后様が亡くなられたから……、だから垂簾の政はヴィルヘルミーネ様が? でも、当時の正妃様は何もおっしゃらなかったの?」
 先代国王の正妃について気になって、思わず訊ねる。
 
 生母ヴィルヘルミーネは愛妾だったとサラは言った。ということは、正妃よりも格下のはずである。確かに王の実の母ではあるが、簡単に王太后になれるような地位ではないだろう。
 普通はここで王后である正妃が介入してくるはずだ。仮に彼女に男児がいたなら当然その子を王位につけたいと思うだろうし、幼くして王を即位させるのなら王后として口出しをしてくるだろう。
 この国では格は何よりも重んじられる。国王の愛妾の子は庶子とされることが決まっているため、いくら幼王の母といってもヴィルヘルミーネの身分では正妃にはかなわないはずだが……。
 
 サラはふるふると首を横に振った。
「それが……正妃様は病没されているのです。ご兄弟はみな夭逝され、ただ一人残っておいでだったのがリシャール様です。先の王の血を引く唯一の男児ということで、御母君のヴィルヘルミーネ様を補佐に据える形ですぐに即位なさいました。国が荒れることも、王位継承争いが起こることもなく、実に穏やかな戴冠式だったといいます」
「そうなの……。なんだかすごいわ、陛下の運命って。強運でいらっしゃるのね。陛下にはご姉妹はいらっしゃらないの?」
「三人の異母姉妹がおられるのですが、皆様他国へ嫁がれていらっしゃいます。国同士の政略結婚です。王太后となられてから、ヴィルヘルミーネ様が縁談をまとめられたのですわ。ですが皆様、どちらかといえば正妃様とお親しかったようで……。最後まで、『愛妾ごときの指図は受けない』とおっしゃっていたそうなのですが」
 なるほど、と相槌を打つ。王族とは、男性も女性も大変なのだと痛感する。
 
 サラはなおも国王についての話を続ける。
「先代の国王陛下ほどではございませんが、現王のリシャール様も三人のお妃様をお迎えにならっておられますわね。バイオレッタ様を御産みになったエリザベス様に、ピヴォワンヌ様のご生母であらせられる清紗様。現在の第一王妃様は名門アウグスタス家の出身のシュザンヌ様です」
「アウグスタス家……?」
「ええ。都でも屈指の名家なのです。宮廷で活躍されている方のほとんどがこの家の方ですわ。王太后様もアウグスタス家の方で、シュザンヌ様とは伯母と姪の間柄です。はっきり言って、現在の宮廷ではアウグスタス家の方が幅を利かせているといっても過言ではありませんの。なんといっても外戚ですし……」
「ああ……、なるほど、そうね。そうやって権力者の実家が優遇されるのはわかる気がするわ」
 王太后と王妃は縁者同士だと噂で聞いていたのだが、本当だったのか。なんとか頭に叩き込む。
 
「そういえば、東棟についてはまだお話していませんよね。東棟には花園がたくさんあるのです。芍薬園に紫陽花園、鈴蘭園……。珍しいところでは蓮花れんか園などもありますわよ。東棟の庭園は、一日中いらしても見飽きることがないくらい素晴らしいですわ。わたくし、今日は午後まで後宮の中を案内して差し上げるつもりですから、もしご興味がおありでしたら遠慮なくおっしゃって下さいね!」
 バイオレッタは素直にうなずいた。
「明日は晩餐会にもご出席いただく予定ですので、お時間になりましたらまたこのようにしてお支度を整えさせていただきますわね」
「晩餐会……。そう。ええと、どなたがいらっしゃるのかしら」
「陛下に王妃様、王太后様、王女様がた。官僚、大臣たちと魔導士館の関係者で高い地位に就かれている方はあらかた……」
 人差し指を立ててサラが言うが、バイオレッタはある単語を聞き逃さなかった。
「……『魔導士館』?」
「ええ。面白いでしょう? 五大国の宮廷では魔導士たちが重用されています。国の行く末を占わせたり、星々の軌道を観測させたり。あとは魔道士に魔術を使わせて戦を有利に導いたりします」
 確かに面白い話だ。「やっぱりちょっとおとぎ話みたいだわ」とバイオレッタは思う。
「大臣たちと魔導士の方がたはともかく、王妃様と王太后様にはお気を付けください」
 サラの言葉に、バイオレッタはきょとんとする。
「どうして?」
 彼女はやや声を潜めるようにして言った。
「悪く言うつもりはございませんが、あの方々はその立場上、バイオレッタ様には辛く当たられると思いますの。王妃様は特に」
「わかったわ」
 バイオレッタはうなずいたが、そこでもう一つだけサラに訊いておきたいことがあったのを思い出した。
 そういえば……。
 
(『魔導士』……)
 
 ふいにクロードの顔が思い出され、バイオレッタは恐る恐るサラに訊ねる。
「クロードという魔導士を知っている? あの、わたくしをここに連れてきてくださった方なのだけど」
 サラはうなずいた。
「シャヴァンヌ様ですわね。もちろん存じ上げております。陛下の腹心とも呼べるお方ですもの。現在プランタン宮で権勢をふるっていらっしゃる魔導士のひとりですわ」
 プランタン宮は外廷にあたる場所だとベルタは言ったが、魔道士もそうした場所で働くことがあるのだろうか。
「魔導士がそんなところで何をするの? あっ……、さっき言っていたように、占いとか……?」
 問いかけると、少し沈んだ表情でサラはかぶりを振った。
「いいえ、シャヴァンヌ様がなさるのは執務ですわ。陛下のご公務をお手伝いされるほか、新しく出す御触れについて意見されることもございます。陛下に大変信頼されていらっしゃるのです。魔導士たちの中でも、陛下はことのほかシャヴァンヌ様を気に入っていらっしゃって、他国への遠征の際にも必ずシャヴァンヌ様を伴われます」
「さっきから思っていたのだけれど、“シャヴァンヌ”って……?」
「あの方の姓ですわ。もとは浮浪者でいらしたそうで、長いこと身寄りがなかったらしいのですが、数年前その功労を称えられてシャヴァンヌという姓を賜っていますの」
 なるほど、では彼の名は「クロード・シャヴァンヌ」というのか。
 
(ああ……、そういえば思い出したわ、プランタン宮の執務室にいることが多いって言っていたわね。執務室を与えられるなんて、きっとよほど力のある方なんだわ)
 
 バイオレッタが感心していると、サラは可愛らしい顔を曇らせた。
「でも、わたくしははっきり言ってあのお方は好きになれませんわ。わたくしの友人がアルマンディンの出身で、幼い頃、陛下に同行していたシャヴァンヌ様が戦場で魔術を使われるのを見たそうなのですが、そのやり方があまりにも非情だったと……」
 ……非情? あのクロードが?
「信じられないわ。あんなに穏やかな方なのに」
「確かにただのお話に過ぎないですけれども、宮廷の殿方はその……、耳障りのよい言葉を使われることが多いので、用心なさった方がよろしいかと……」
「ええ。ありがとう。気をつけるわ」
 口ではそう言いながらも彼のことが気にかかってしまうのはなぜなのだろう。
 
(そんなに怖い方には思えないわ。むしろ、あんなに優雅で落ち着いた物腰の男性は初めて)
 
 また、会えないだろうか。外廷の執務室に行けば会えるのかもしれないが、そもそもバイオレッタがこの後宮から出ることは可能なのだろうか?
 そんなことを気にするあまり、我慢できなくなったバイオレッタはとうとうサラに訊ねてしまった。
「あ、あの。サラ?」
「なんでしょう、バイオレッタ様?」
「わたくしは薔薇後宮から出られるのかしら? その、普段は何をして過ごせばいいの?」
「基本的には後宮で過ごしていただくことになると思います。今後しばらくは、五大国について学ぶことと教養を身につけることが優先されます。たまに後宮書庫でお勉強をなさるのも楽しいかもしれませんわ。質のいい本がたくさんありますの」
「書庫があるのね……」
「ええ。付属の礼拝堂もありますし、ほかにも、サロンを開く専用の部屋や、演劇を行う劇場もございます」
 バイオレッタは思わず笑顔になった。
「まあ、すごい……! 劇場もあるのね! 一体何を演じるのかしら、楽しそうだわ……!」
 城で過ごすことへの不安もあるが、それ以上に胸がときめいた。生来考え方がのんびりしているせいかもしれないが……。
「そういえば……第一王女様は時折プランタン宮へもおいでになられるようなのですが、陛下はあまりいいお顔をなさいませんの。プランタン宮には殿方が多いですから、未婚の王女様が出向かれるには適しませんわ。まかり間違えばふしだらだと言われてしまいますもの。後宮には大抵のものがそろっておりますし」
 確かにそれはそうかもしれない、と納得しつつも、バイオレッタは少しだけがっかりした。
(クロード様にはそう簡単には会えないのね……)
 
『お呼び出し頂ければ私はすぐに参ります……、貴女のためなら』
 
 頭の中でクロードの声がこだまする。だが、外廷に行けないというのに一体どう呼び出せばいいというのだろう。第一王女のように外廷に行く? いや、そんな大胆な真似はできそうにない。
 だが、あれだけ真面目な男なのだ、社交辞令という可能性だってある。
 
 あまりに考えすぎて深みに嵌まりそうになったバイオレッタは、ふるりと首を振って自らの思考を打ち払った。
 
(もうやめましょう……、あの方のことを考えるのは。たった一度お世話になっただけの方にここまでこだわるなんて、馬鹿みたいだもの)
 
「バイオレッタ様……?」
「なんでもないわ、サラ」
 バイオレッタは膝の上でぎゅっと手のひらを握りしめた。
 
 ……どうしてこんなに鼓動が高鳴るのかわからない。
 本当に、たった一度会っただけの相手だというのに。なのにどうしてだろう、なぜだか無性にクロードの声が聴きたい。昨日のようにまた肌に触れてほしい、とさえ思ってしまう。
 トマスに対してだって、こんなおかしな気持ちになることはなかったのに。
 
(どうしちゃったの……? わたくし、変……)
 
 バイオレッタはほんのりと紅潮した顔で、ふかふかの長椅子に身を沈めた。
 
 

 

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