バイオレッタは、朝食を取りながらため息をついた。
(昨日の一件があってから、なんだか寝不足……)
口元に手を当てて大きなあくびをすると、バイオレッタは涙の滲んだ目元を擦る。
深更の一件は瞬く間に情報がもたらされ、「アガスターシェの大火」という呼び名がつくほどの大火事だったのだと知った。
アルバ座は全焼したらしく、元の原型を留めないほど盛大に燃え上がったという。それを聞いてトマスの安否が非常に気にかかったが、確認するすべを持たないバイオレッタには何もできなかった。
「せめて会いに行ければいいのに」
つぶやいてから、「会いに行ってどうするつもりなのだろう」と自嘲する。
トマスが仮に生きていたとして、一人だけ火事をまぬがれて贅沢をしていた自分の言葉など、素直に受け止めてくれるはずがないではないか。今後はもう生きる世界が違うのだと割り切るしかないのに……。
「バイオレッタ様。お手紙をお持ちしましたわ」
気遣わしげにこちらの様子をうかがっていたサラが、バイオレッタがカトラリーを動かす手を止めたのをいいことに声をかけてくる。
香の焚きしめられた手紙を、バイオレッタは広げた。
「すでに筆頭侍女から話を聞いておるだろうが、今宵はオトンヌ宮でそなたたち姉妹と晩餐を共にするつもりだ。夕刻までに身づくろいを終わらせておけ」
最後の署名には「リシャール・リュカ・フォン・スフェーン」とある。
「えっ……、お父様からお手紙?」
簡潔すぎて用件しか書かれていない手紙だ。
だが、終わりにはきちんと父王の名が綴られている。
それを聞いた隣のサラが仰天した。
「ま、まあ! もしや陛下の直筆ですか? あの方は手紙嫌いでも有名ですのに……」
「えっ? でも、きちんと印章も捺されているわよ」
「あら、本当ですか? やっぱり愛されておいでですわね、バイオレッタ様。あの御方はエリザベス様がご逝去あそばしてからは一切ペンをとらなくなったそうですのよ」
バイオレッタはもう一度羊皮紙を見下ろした。
「……」
綺麗な字だ。娘の名に合わせてか、薄紫のインクが使われている。
バイオレッタが見る限り代筆ではなさそうだが、王の臣下は大勢いるから、そのあたりは正直わからない。
案外、腹心のクロードが代筆しているのかもしれないが、彼の字を読んだことがないバイオレッタに確かめる術はなかった。
「バイオレッタ!」
ばたんと大きな音を立てて部屋に飛び込んできたのは、異母妹ピヴォワンヌだ。
「あら。おはよう、ピヴォワンヌ。そんなに血相を変えて、一体どうしたの?」
「もう! なんであんたはそんなに呑気なのよ! これ、見たでしょう?」
左手に握りしめた羊皮紙を、ピヴォワンヌは広げた。
「ああ、やっぱり貴女のところにも来ていたのね。お父様からの御手紙」
「どうしてそんなにのんびりしたこと言ってられんのよ、あんたは!!」
「ご、ごめんなさい」
とっさに謝り、バイオレッタはピヴォワンヌの剣幕に身をすくめる。
ピヴォワンヌは嘆息したあと、きまり悪そうに視線をさまよわせるバイオレッタを見下ろして言った。
「……あんたのいた劇場、燃えたんですってね」
「あ……、ええ……」
一度ピヴォワンヌの顔を見上げたはいいものの、バイオレッタは再び沈痛な面持ちでうつむいた。
そうか、この話はもうピヴォワンヌにも伝わっているのだ……。
「……わたくし、何もできなかった。一緒に長いこと暮らしてきた幼馴染も、座長も……、大事にしていたものはみんな燃えてしまったわ。本当にわたくしは駄目ね。お世話になったみんなに恩返しをするどころか、救いの手さえ差し伸べることができないなんて……」
自嘲するように笑うと、ピヴォワンヌが「馬鹿」と言った。
「あんたは何も悪くないわ。役者同士の小競り合いが原因だって言ったじゃない。あんたが気に病むことないでしょ」
「それは、そうだけど……」
「……どうしてそんなに全部自分に関連付けたがるのよ。昨日のことだってそう、あたしを助ける必要なんかなかったじゃない。あんた、下手をしたら殺されてたのよ?」
「……そうね。わたくし、なんの力もないくせに出しゃばって……。ごめんなさい」
「謝ってほしいわけでも、反省してほしいわけでもないわ。……ただ、あんたが全部背負うことないんじゃないかって思って」
ピヴォワンヌはばつが悪そうにつぶやいた。
「あんたが無力だからこうなっているわけじゃないって言いたかったのよ。あたしたち二人は、色々なことが目まぐるしく変わりすぎているわ。あたしたち二人の意思とは裏腹にね。だからこの先、たとえ何が起こってもあたしたちのせいじゃないのよ。王女として復権する以上無傷ではいられないし、誰かと衝突することだってたくさんあるでしょう。その度にいちいち自分のせいにしてたらきりがないわ」
「そう、ね……」
しかしバイオレッタには、傷つくのも対立するのも、どちらもとても恐ろしいことのように思えた。
誰かに責められるたび、バイオレッタはどうしたって深く傷ついてしまう。
無意識の悪意も、意図的な罵詈雑言も。どちらも棘のようにじわじわと心を責め苛む。だから、必要以上に他人と言葉を交わすのは避けるようになっていた。座長やマリア、トマスを除けば、特に親しい相手というのもいなかったくらいだ。
それに、堂々と自分の意見を通したこともない。発言すること自体がそもそも恐怖なのだから、主張や反論というのは考えたこともなかった。
(……このお城でも、きっと同じなのでしょう。いいえ、もっと酷いかもしれないわ)
恐らく宮廷の人間たちはバイオレッタのことを色眼鏡で見るだろう。下町育ちの野暮ったい姫だと。
一挙一動をしげしげと観察し、揚げ足を取ってくるに違いない。
そんなところに放り出されることを考えるだけでもぞっとする。
「今回の晩餐会だけど、あたし、行かないことにする」
「えっ?」
我に返って訊き返すと、ピヴォワンヌは身を縮こまらせてうつむいてしまう。
そして、絞り出すように言った。
「……昨日のことを思えば、あたし、とても行けないわ。あんなやつが父親だなんて、あたしは絶対に信じないし、認めない」
バイオレッタは口をつぐむ。
(……そうね。確かに、陽春さんを殺したのはまぎれもなくお父様で……。それも、かなり惨い殺され方をしたのだから……)
冷たい生みの親よりも、色々なことを分かち合える育ての親の方が彼女にとってはよほど大切だったはずだ。
そんな存在を惨たらしく殺されて、和やかに晩餐の席になど加われるわけがない。
ピヴォワンヌはくしゃくしゃに顔を歪めた。落ちかかる紅い髪を揺らして嗚咽する。
「あたし、もう全部どうでもいい……。王位に興味なんかないし、そんなものはなりたい人間が勝手になればいいのよ。あたしはもう、生きていたくない。父さんがいない世界でなんて、どうやったって生きてなんかいけないもの……!!」
(ピヴォワンヌ……)
そこでふと、あの青年の言葉が胸をよぎった。
――貴女のいない世界など、私は欲しくないのです。
夢で見る「彼」は絶望していた。世界のすべてに。
蒼褪めた顔は熱をなくしており、双眸には生命の輝きがうかがえなかった。
それだけ辛かったのだろうと思う。
自分だって、マリアが死んだときは目の前が真っ暗になった。もうあの手に髪を撫でてもらうことも、一緒に食事を摂ることもできないのだと思うと、なかなか立ち直ることができなかった。
ピヴォワンヌだって、そうなのではないだろうか。養父と過ごした劉での日々が、忘れられないのではないだろうか。
優しかった彼はもういないのだと、認めることすらできないのかもしれない。
(それなら、今わたくしにできることは……)
彼女のそばにいてあげること。そして、失われたぬくもりを思い出させることだ。
……初めて出会った日、彼女が自分にそうしてくれたように。
「あのね……。無理に前に進もうとしなくていいの。泣きたいなら泣かないとだめ。今は、立ち止まっていいのよ」
バイオレッタはぽんぽんとピヴォワンヌの細い肩を叩いた。
「貴女は今のままでいい。無理に変わろうとなんてしないで。強くなくていいし、落ち込むときはうんと落ち込んでいいのよ。その弱さだって貴女の一部なの。でも、覚えていてね。わたくしは、いつも貴女の隣にいるんだから」
「バイオ、レッタ……」
ピヴォワンヌの紅い髪がさらさらと揺れる。彼女はすがるような眼差しをバイオレッタに向けた。
「あたし、本当に強くなくてもいい……? もう、強い女の子を、やめてもいいかなぁ……」
「ええ。誰も貴女を責めないわ」
「っく……、ふ……、ううっ……! 父さん、父さん……!」
そのままピヴォワンヌはバイオレッタの胸で泣きじゃくった。
(貴女はずっと、心細かったのね)
いきなり異国へ連れてこられて、養父を無実の罪で惨殺された。
挙句の果てには強引に王女とされ、無慈悲な少年王を父と呼びながら生きていくことになったのだ。
「とうさ……、あたし、寂し……、……っ……!」
「ピヴォワンヌ……!」
しゃくりあげるピヴォワンヌの背を叩きながら、バイオレッタもまた涙で頬を濡らしていた。
……彼女を守っていた養父は、もういない。そして、自分にもまた帰る家はない。
この広すぎる王宮で、自分たちは同じように孤独で無力だ。
せめて血のつながったピヴォワンヌだけは、何があろうと自分が守ってやらなければならない――。
そう思い、バイオレッタはピヴォワンヌの細い背をきつく抱いたのだった。
***
「来たか」
身支度を終え、侍従と女官にかしずかれながらオトンヌ宮の入り口に着くと、そこにはリシャールがいた。
幾何学模様が描かれた朽葉色のタイルにステッキをつき、無遠慮にこちらを見ている。
その隣には当然のようにクロードがおり、影のごとくひっそりと寄り添っている。こうして見ると、二人はまるで光と影だった。
「……お父様」
事前に女官長に念押しされた通り、バイオレッタは彼を父王として敬った。王城ではどの王女もみなリシャールを「お父様」と呼んで慕うのだという。
奇妙な感じは否めなかったが、言葉にしてみるとその響きは意外にもすんなりと耳に馴染んだ。
リシャールはとん、とステッキを打ち付けなおすと、バイオレッタに訊ねる。
「ふん……。ここに来るのは初めてか?」
「え、ええ。まだ一度も案内されておりません」
王宮に来たばかりなのだから当たり前だが、バイオレッタの返事になぜだかリシャールは不機嫌そうな顔になってしまう。
「お父様……?」
「……この宮殿は好かぬ。もとは王族の憩いの場として建てられた場所だが、ここでは毎回愛妾たちの争い事が絶えなかったそうだぞ。どれもこれも、後宮制度などがあるから悪いのだ。だから妾たちがつまらない揉めごとを起こすはめになる」
隣のピヴォワンヌがむっとして言い返した。
「あんたが愛妾をたくさん作るからでしょ」
「僕とて好きで作っているわけではない。王の妃の役割とは、王家の血筋を絶やさぬようにし、子をもうけて『王の代替品』を作ること。そこでは王の意思などほとんど尊重されぬ。女同士が勝手に寵の奪い合いをし、次代の王の母親になるためにただただ躍起になっているだけ。その争いに、僕は一切介入できぬ。……結局、一番踊らされているのは王であるこの僕なのかもしれぬな」
「お父様……」
「ふん。何もかもくだらぬ。伴侶など、本当に愛しい女が一人だけおればそれでいいではないか……! だのに皆、僕にどうでもいい女をあてがおうとして……!」
「――いい夜ね、わたくしのリシャール」
刹那、隣のリシャールがびくりとした。
……思考を蕩かすような、甘い、甘い声だった。薄暗がりの中から聞こえてくる。
衣擦れの音とともに、一人の女性が姿を現した。
「は、母上……!」
深緑の古風なガウンを着こなしたその女性は、木立を抜けるとしずしずとこちらに歩み寄ってきた。
(母上? ということは、まさか)
この女性が、件の王太后? 過去、幼いリシャールに代わって宮廷を牛耳っていたという彼の実母なのか。
「あら、どうしたの? そんなに怯えて。あなたのお母様が来てあげたというのに」
リシャールはさっと血相を変えた。
粘つくような声で王太后が笑う。
「ふふ……。相変わらずなのねぇ、わたくしのお人形さんは。やはりシャヴァンヌがいなくては何もできないのかしら?」
「そ、のような、ことは……」
「王妃は支度に手間取っているそうなの。久しぶりにあなたとゆっくり話ができるのが、よほど嬉しくてたまらないのでしょうねえ……」
ねっとりとした視線を、彼女は息子に注いだ。
「意思を持つお人形さんというのも素敵だけれど……忘れてはだめよ、リシャール。無力なあなたを王位に就かせてあげたのは誰だったかしら?」
「……母上、です」
「大変だったのよ? わたくしはあなたが忌み嫌う『どうでもいい女』のうちの一人でしかなかったし、人を動かすのはこれほどまでに難しいのかと痛感させられたほどよ。でも、今は感謝してさえいるの。結果としてあなたとの間にこんなに強固な絆が生まれたのですからね」
王太后は息子に近づくと、その白い頬に指を滑らせる。
「……この絆だけは、誰にも断ち切らせないわ。血の繋がりは何よりも濃いのだもの……、決してむげに扱ってはいけない。自分があの王とわたくしの間に生まれた人間だということを、あなたは絶対に忘れてはいけないの」
含めるように言い、リシャールの顎を優しく掴む。
「母の愛を忘れず、どうかいい子でいてね? わたくしのリシャール。もちろん少しくらいのおいたは許してあげるけれど」
そう言ってふふふ、と笑ってみせる。
不気味な微笑に、バイオレッタは身がすくむのを感じる。
王太后の態度に陰湿な愛執のようなものを垣間見たからだ。
得体のしれない恐怖が全身に満ちてゆく。ただの「親子」という言葉では片づけられない何かが二人の間には確かにあった。
「貴女たちが例の王女様たちね」
挑発的な声にはっとし、王太后を見る。
怯える二人に気をよくしたのか、彼女は唇をわずかにほころばせた。
王太后は二人の背後に回ると、ゆっくりとその姿を眺めまわした。宝飾品の検品でもするように、楽しげに評価を下す。
「なるほど……、第三王女はエリザベス妃にそっくりね。とてもおっとりとしていて品があるわ。第四王女は清紗妃よりもリシャールに似ているかしら? 強い光を宿した目だわ……」
毒蛇に睨まれているかのように、バイオレッタは身体を硬直させた。
ややかすれた低い声といい含みのある言葉遣いといい、恐ろしいほどの気迫なのだ。
値踏みするように二人の様子を確かめたあと、王太后はすっと瞳を細める。
「そんなに硬くならなくても大丈夫よ。わたくしのリシャールも庶子だったけれど、最終的には王位に就いたんですからね」
やけに落ち着き払った声で言い、羽根があしらわれた扇を開いて口元を覆い隠す。
その台詞を聞いて、「何かが引っ掛かる」、とバイオレッタは思った。
まさかバイオレッタたちを愛妾の子だと揶揄しているのだろうか? だが、このヴィルヘルミーネも元は愛妾だったはずだ。同じ俎上に載せられるいわれはない。
(引っ掛かるって、何が……? でも、何かしら、あんまりよくない響きだわ……)
ぼんやりと王太后の言葉を反芻していると、遠方で響く鐘の音を合図に一人の侍従が歩み出た。
「陛下、お時間でございます」
「……ああ、そのようだな。そなたら、こちらだ。ついてまいれ」
侍従の言葉に、リシャールはバイオレッタたちに背を向けた。
そして逃げるようにさっさと一人で宮殿の中に入ってしまう。
「あらあら。昔から何にも変わらない子ね、せっかちで」
ほほ、と笑い、王太后が微笑する。
彼女はもう何も言わず、年かさの女官を引き連れて彼の後ろを行く。そのあまりに泰然とした様子に、バイオレッタは怯えつつも目が逸らせなかった。
余計な装飾品を一切身に着けず、落ち着いたやや古めかしいドレスとカシミアのショールだけを纏って、堂々と回廊を進んでゆく。
並々ならぬ貫禄だ。バイオレッタのように必要以上に怖気づいたりはせず、ピヴォワンヌのように無駄に元気が良すぎることもない。
ヴィルヘルミーネのそれは、まさに為政者としての貫禄なのだ。彼女は容易に揺るがない自信とこれまでの人生で培われた大らかさとを兼ね備えている。
まさに王族女性を束ねるにふさわしい存在だと思った。
バイオレッタたちは彼女の後姿を眺めながらオトンヌ宮に足を踏み入れた。筆頭侍女であるサラも、侍女としての正装姿で供をしてくれている。
オトンヌ宮の≪享楽の間≫へ案内されたバイオレッタたちは、立派なテーブルクロスがかけられた横長のテーブルにつく。
あまりに立派すぎて気後れしたが、隣にピヴォワンヌが座ってくれたので少しだけほっとした。右を見ればピヴォワンヌの顔が見られるし、手を伸ばせば触ることもできる。それだけでじゅうぶん安心してしまう。
上座にはリシャールが座し、そのそばにクロードが立つ。隣席はシュザンヌ王妃の、その傍らがヴィルヘルミーネの席となっていた。
未だ人数の揃わない≪享楽の間≫はがらんとしていた。
王室の人間のほかにテーブルに腰かけているのは、官僚数名、大臣数名、そして魔導士館で「長」と呼ばれるらしい初老の男だけである。このことはあらかじめサラに聞かされていたものの、この宮殿に入れるとはよほどの重鎮であるらしい。
(きっとこの晩餐の席はわたくしたち二人のお披露目も兼ねているのね……)
リシャールの隣やバイオレッタたち二人の向かいなどはまだ空席となっている。テーブルが巨大なだけに人の少なさが目立った。
筆頭侍女らは壁際に控えることを許されたものの、ほとんどの女官は退室させられてしまっている。もともとが王族のための憩いの場だというから、よほどのことがなければ同席は許可されないのかもしれなかった。
リシャールは懐中時計を開けたり閉めたりしながら王妃たちの到着を待っている。
「今宵は捕虜の姫も呼んであるのだが……、みな遅いな。まだ支度をしておるのか? 女はなんでも遅くてかなわぬ」
リシャールが独りごちると、彼の斜め前に座した王太后が平淡な声でそれに答える。
「何もあの姫まで呼ぶことはなかったのではないかしら。本当はオトンヌ宮での食事もさせたくないほどなのに」
「大国の権威を示すためには、定期的に捕虜を伴う必要があります。公の場で彼らの『服従の意』を明白にさせたほうがいいと、母上もおっしゃったでしょう」
「それはそうでしょうけど、わたくしはあの娘は好かないわ。成長とともにいらぬ知恵ばかり身に着けてしまって可愛げがないのだもの。何より蛮族の娘だもの、オトンヌ宮には足を踏み入れてほしくないわ」
ヴィルヘルミーネが至極つまらなさそうに言う。
そこでふと、リシャールは思いついたように顔を上げ、隣に立つクロードを指した。
「そういえば、まだこやつのことを何も教えておらぬな。今さらという気もするが、紹介しておく。こやつはクロード・シャヴァンヌ。僕の魔導士だ」
「よろしくお見知りおきを……」
紹介されたクロードは優雅な所作で腰を折った。彼が再度顔を上げたとき、図らずも目が合ってしまい、バイオレッタは気まずくなった。彼は特に咎めるような目つきはしていないが、それがかえって昨日のやり取りを思い出させる。
“王に加担する酷い男”。“ピヴォワンヌを傷つける冷血漢”。その印象は未だ拭いきれない。
サラの友人はクロードのことを「非情だ」と言っていたそうだが、確かにそうなのかもしれなかった。
リシャールはそんなバイオレッタの様子にも気づかず、紹介を続ける。
「クロードは禁色である紫の着用を認められているほか、高位魔術の使い手として魔導士の中でも一目置かれておる。そなたらとはもう何度か会っているだろうが、こやつは僕の片腕として実によく働いてくれる男でな。そなたらの捜索もこやつに一任しておったのだぞ」
「そうだったのですか」
なるほど、自分を探してくれていたのはクロードだったのだ。
それを思うと昨日勢いに任せて罵倒したことが悔やまれるが、不快なものは不快だったのだから仕方ない。
それに、この二人は奇妙なほど仲が良すぎる。クロードがリシャールにかしずいている形ではあるが、それとはまた違った関係であるようにも見受けられた。二人はあまりに馴染みすぎていて、他人の入り込む余地がなさそうに見えるのだ。
その時、≪享楽の間≫の扉が開かれた。
高らかな靴音とともに、一人の女性が姿を現す。
「陛下っ……!」
「……来たか、シュザンヌ」
バイオレッタは瞳を瞬いた。
(この女性がシュザンヌ妃……?)
支度に手間取っていたらしいシュザンヌ妃は、それでも隙のない装いで現れた。
深緑のウェーブがかった髪を結って編み込み、後れ毛は婀娜っぽく垂らしている。瞳も深いエメラルド色だ。
胸元は大きく露出させており、ドレスの深い切れ込みからは豊かなふくらみが覗いていた。身に着けている装飾品の数もこの場にいる女性たちの中では最も多いようで、王族女性というよりはまるで城下の娼婦のようだ。
「陛下にお会いできると思ったら、身支度につい時間をかけすぎてしまいました。至らぬ妃をどうかお許しくださいませ」
「よい。座れ」
リシャールの言葉に、彼女は息を乱したままで嬉しそうにうなずいた。
「はい。わたくしの王女たちもじきに着くはずですわ。装いの出来栄えにまだこだわっているようですの。薔薇後宮でもたまに身支度を手伝ってやるのですが、髪飾りはあれでなければ嫌だとか、ドレスの色が気に入らないとか、そのようなことばかり申しますのよ」
その笑顔は、王族としての威厳を感じさせつつも、どこか親しみのあるものとして映った。
もっと狡猾で意地の悪そうな女性を想像していたバイオレッタは瞳を瞬く。
(もしかして、そんなに悪い人じゃないのかしら)
だが油断はできない、と警戒する。何せ十四年前に自分をアルバ座に連れ去ったのはシュザンヌ妃の女官なのだから。
やがて、ゆっくりとした動作でシュザンヌ妃が席に着く。彼女の席は当然のようにリシャールの隣であった。
シュザンヌ妃が二人に緩やかな一瞥をくれる。そして、紅を刷いた唇を引き上げてにこりと笑った。
「うふふ、可愛らしいお嬢さんたちですわね、陛下。今日も素敵な一夜になりそうで、喜ばしいことですわ」
「……ふん……」
シュザンヌ妃の艶やかな声にも全く関心を示さずに、リシャールは頬杖をついた。
バイオレッタはそこで少しだけ冷静になった。刺すような視線を感じたからだ。
シュザンヌ妃が、扇の陰から険しい目つきでこちらを見ている。深緑のまつげの下、同じ色の瞳が探るように剣呑に輝く。
シュザンヌ。バイオレッタの母妃と昔から対立していたという、アウグスタス家出身の第一王妃。
ただ一人国王のもとに残った王妃として、彼女にはきっと高い矜持があるのだろう。過去にどんな陰謀があったにしろ、王宮に戻ってきた二人のことは内心面白くないと思っているに違いなかった。
何より、品定めするような棘のある視線、そして二人を姫君と認めず「お嬢さん」と呼ぶあたりに、そこはかとない敵意を感じてしまう。同じ宮殿で暮らした時期もあるのだから、バイオレッタたちのことはすでに知っているはずなのだ。
だが、王妃として――バイオレッタの失踪に関わった張本人として、やはり認めたくはないのかもしれない。
バイオレッタは次に彼女の隣席のリシャールを見る。
相変わらず不機嫌そうで、そのくせどこか感情の読み取れない顔だった。
大燭台に刺さった蝋燭の炎がちろちろと彼の金髪を舐め上げている。
どこまでも冷然として無表情な少年王の双眸、そして彼が座る黄金の玉座の輝き。どこか神々しいとさえ感じる光景だ。
……そのとき、リシャールの背後にあるマントルピースがふと目に留まった。次いで、その中――暖炉で燃え盛る炎に目をやる。
赤々と燃える炎の中で何かが蠢いている気がしたのだ。
耳奥に女の妖しい哄笑が響き渡り、思わずきょろきょろと辺りを見渡す。
そこかしこに満ちた薄暗がりから得も言われぬ妖しい気配が感じられ、バイオレッタは思わず身を縮こまらせた。
(今のは一体……?)
暖炉をもう一度見ると、そこには一つの影がゆらゆらと揺れていた。
炎の中心に、何かが見える。……黒く蠢く、人ならざる何かが。
バイオレッタはとっさに暖炉の火を凝視した。なんだろう、あの黒い影は?
「さて……」
父王の声に我に返る。
リシャールはそれまで黙って傍らに控えていたクロードに、空のグラスを差し出した。「受け取れ」という意味らしい。
「今宵の宴はバイオレッタとピヴォワンヌの無事の帰還を祝うものだ。クロード、そなたも杯を満たすがよい。そなたはこの一件に関しての一番の功労者だ、今日は酔うまで存分に飲むがいい」
「ありがたき幸せにございます、陛下」
殊勝に頭を下げ、クロードはグラスを受け取った。侍従が歩み出てきて彼の杯になみなみと葡萄酒を注ぐ。
「本当に良かったわね、リシャール。あなたは王女たちをずっと探していたのだものね。これを幸いと言わずして一体何を幸いと言ったらよいのかしら。わたくしは貴女たちを心の底から歓迎するわ。何せ血の繋がった孫娘たちですもの、大切にしてあげるわ」
王太后ヴィルヘルミーネは羽根扇をあおぎながら艶然と笑む。
先ほどはよくわからなかったが、こうして明るいところで見ると美しい女性だと思った。
もう初老の婦人と呼んで差し支えない年だろうが、染みも皺もあまりない、美しい白い肌をしている。
彼女はシュザンヌ妃と同じ深緑の髪を結い上げて、数多の黒真珠のピンで飾っていた。やはりとても貫禄のあるたたずまいだ。
シュザンヌの伯母と聞いているが、彼女のようなけばけばしさはまるでない。むしろ装いは質素ですっきりとしている。
「ありがとうございます、王太后様」
バイオレッタはびくびくしながらもやっとそれだけ口にした。
ピヴォワンヌは最初こそ嫌がるそぶりを見せたものの、ここでやりあっても分が悪いと悟ったのだろう、渋々それに倣う。
「ありがとう、ございます……」
「……ああ、わたくしのことはおばあ様とお呼びなさいね。他の王女たちにもそう呼ばせているのよ。孫娘たちが可愛らしくそう呼んで懐いてくれるなら嬉しいですもの」
……一見鷹揚だ。
だが、裏がありそうな雰囲気だ、とバイオレッタはヴィルヘルミーネをつぶさに観察した。
女丈夫だとサラは言った。摂政の位を勝ち得、息子のリシャールを傀儡としていたのだと。
視線に気づいたヴィルヘルミーネがちらりとこちらを見る。
「なあに? わたくしに何か言いたいのかしら?」
「……そのような」
「そう。……ではリシャール、そろそろシュザンヌの姫たちも呼んであげてちょうだい。侍従によると≪享楽の間≫の前で退屈しているようだから」
リシャールの意見も聞かず、どんどんヴィルヘルミーネは話を進めた。
「約束の時間に遅れてきたのだから、すぐに入室できないのは当然でしょう」
「でも、きっとこの二人に会えるのを楽しみにしていてよ。早く中へ入れてあげてちょうだい」
葡萄酒の味を愉しんでいたリシャールはグラスを置き、≪享楽の間≫の入り口に向かって声をかける。
「扉を開けよ」
侍従たちはうなずくと「享楽の間」の扉の把手に手をかけた。
……目を見開く。
二人の麗しい姫君がそこに立っていた。