ピヴォワンヌは急遽クララに従者二人を呼び出してくれるよう頼んだ。
「え? ユーグとアベルを……ですか?」
「ええ。あの二人にどうしてもお願いしたいことがあるんだけど、いい?」
「……それはもしかして、バイオレッタ様の捜索に関わることなのですか?」
落ち着き払った声音でクララが訊く。ピヴォワンヌは無言でこくりとうなずいた。
クララはアスターやプリュンヌの方をおずおずと見た。
黙って話を聞いていたアスターが心得たようにうなずく。
「なら、僕らは塔へ戻ることにしよう。行くぞ、プリュンヌ」
「また遊んでくださいね、お姉様!」
アスターはプリュンヌを連れて尖塔の方へと戻ってゆく。
それからまもなくして、クララの命を受けてユーグとアベルの二人が姿を現した。
アベルが冗談めかして敬礼する。
「ごきげんよう、わが君! お呼び出しを受けたので参上しましたー」
「わが主君クララ姫様。どうぞなんなりと御下命ください」
物静かなユーグと活発なアベル。
相変わらず印象の真逆な従者たちである。
ピヴォワンヌが事情を話すと、二人はやっと得心が行ったとでもいうように何度か軽くうなずいた。
「なるほどなるほど、それで僕らですかぁ」
「スピネル様の助言を受けて我ら魔導士を集められたというわけですね」
ユーグ、アベル、そして彩月。
今のところ頼りにできそうな魔導士はこの三人だけだ。
魔導士館にも魔導士はいるものの、本当に親身になってくれそうな人物がすぐには思いつかないのだ。
彩月も本来であれば薔薇後宮への出入りを禁じられるところだが、後宮の一室を借りている公主たちが彼を護衛として常駐させている以上、誰にも咎めることはできない。
ピヴォワンヌはそんな今の状況を無意識のうちに「救いだ」と思っていた。
「要するに、シャヴァンヌ様の魔術の痕を辿ればよいのでしょうか」
ユーグの言葉に、ピヴォワンヌは「ええ」と返した。
「スピネルが言うには、魔導士は同じ種類の生き物同士だからって……」
彼女は魔導士を使った方が手っ取り早いと断言していた。
確かにそれはそうかもしれないとピヴォワンヌは思う。
魔術に長けたあの男がわかりやすい証拠など残しているはずがないのだ。
何せ彼は、国王に重用される最高位の宮廷魔導士。そのような失敗を犯すことは考えにくい。
スピネルの言葉をできるだけ詳しく魔導士たちに伝えると、ユーグが軽く唸った。
「……随分と意味深な発言ですね。ヴァーテル教会の騎士がそのようなことを?」
「ええ……」
「どういうつもりだ……、あの騎士たちは今王城の視察に来ているだけだろう。わざわざ王宮の事件に首を突っ込む必要があるのか……?」
ユーグはそのまま口に手をあてがって考え込んでしまう。
「いや……だが、物理的に考えれば辻褄が合うかもしれないな……。無から有を生み出したり、あるいはそこにあったはずのものを消したり。そういったことは魔導士の世界では当たり前のように行われる。むしろ基礎中の基礎ともいえるな」
「まあ、それを人に使うかどうかはその魔導士の倫理観がものを言うわけだけどなー」
アベルの言葉にユーグがうなずく。
「それはそうだ。人を害する魔術もあるとはいえ、最終的には魔導士の考え方にすべてが委ねられるのだから」
「倫理観」、という言葉に、ピヴォワンヌの中でクロードへの疑念が一気に膨れ上がる。
もちろんここにいる三人も後宮への出入りを許可されている宮廷魔導士という意味ではクロードと同じだ。
しかし、この三人にはバイオレッタをさらうような決定的な動機がない。
ユーグやアベルがそんな凶行に及んだりすれば、真っ先に罰を受けるのは他の誰でもないクララ本人だ。ひいては罪のないアルマンディン側の人間たちまで罰せられる恐れがある。
女主人への忠義も篤いこの二人が、そんな無謀な行動に出るわけがない。
彩月に関しては宮廷入りしたのが例の出来事のあとなのだから、もはや嫌疑などかけようもなかった。何せ彼はこれまでバイオレッタの名前すらろくに知らなかったのだから。
「……そういう理由から、あたしは今クロードを疑ってるの。この薔薇後宮に出入りできて、しかも日頃からバイオレッタと関わりが深い魔導士っていえば、やっぱりあいつしかいないでしょう」
アベルは口元に手を当てて考え込み、「まあ、そういう考え方をしちゃうのは当然ですよね」と言って唸る。
「ピヴォワンヌ様の言ってることも一理あると思います」
「というより、あいつを疑わない方がおかしいと思わない? バイオレッタに危害を加えるなら、現時点ではあいつが一番有利だわ」
「うーん……。それはそうでしょうね。でも、普段通りに出仕してるってところがなんとも……。今朝も魔導士館で朝議があったけど、特に変わったところなんかなかったですし」
アベルの言葉に、ユーグがうなずく。
「ああ。いつも通りに執務を進めていたようだな。国王陛下とのやり取りにも取り立てて不審なところは見受けられない。疑う理由としてはじゅうぶんだが、決定打にするにはまだ弱いな……」
二人は顔を見合わせた。アベルが肩をすくめて言う。
「何せ相手は国王陛下に全幅の信頼を置かれている最高位の宮廷魔導士様ですからね。ちょっとやそっとのことじゃ太刀打ちできませんよ。あの方が絶対に言い逃れできないような証拠を見つけられればいいですけど、国王陛下の寵臣ともなればそう簡単には本性を見せたりしないでしょう。あっさり認めてしまったら自分が不利になるだけですし、仮に本当にこの事件に関わっているとしても、じゅうぶんに策を巡らせて臨んでいるはずです。自分が論破されない程度の備えはあるんじゃないですかね」
「……そう、ね」
「ともかく、今のままでは嫌疑をかけるには弱すぎるでしょう。もうちょっと証拠なり証言なりを揃えなくちゃ」
なんとも冷静なアベルの発言に、ピヴォワンヌは肩を落とす。
(そう、よね。だって、あの事件が起きるまで、この後宮に変わった様子なんてなかったものね……)
そこでふと、何をもって「変わった様子」というのだろうかとピヴォワンヌは考える。
男子禁制の後宮においては、男のクロードが立ち入り可能になってしまっている時点ですでにじゅうぶん規律が乱れているといえるのだ。女官長ベルタが青筋を立てるのも無理からぬことだ。
そして相手の男はしばしば「異能力者」とも称される宮廷魔導士。
その異能を用いて王女によからぬことをしようとしたとしても何ら不思議はないではないか。
悩み始めるピヴォワンヌの隣で、それまで会話を聴いていたクララが声を上げる。
「ですが、あのシャヴァンヌ様がそのようなことをなさるでしょうか……? バイオレッタ様を害したところで、あの方には何も利益などないのではありませんか? あの温厚なシャヴァンヌ様が、ご自分の恋人が嫌がるようなことをわざわざなさるかしら」
「……」
やはり二人はそうした仲だったのか、とピヴォワンヌは息をついた。
きっと、バイオレッタはピヴォワンヌの手前秘密にしていたのだろう。本人としてはそこまで悪気はなかったに違いない。
だが、クララには打ち明けていたのかと思うと少しばかり疎外感があった。
恋愛には興味も縁もないと豪語してしまったのだから仕方がないが、それにしても堪える、と思う。
自分だけ除け者にされたような気がして、正直あまりいい気分ではなかった。
(いいえ、今は落ち込んでちゃ駄目だわ。あたしが動かなきゃあの子はもう帰ってこないかもしれないんだから)
ピヴォワンヌは例の予言を思い出しながら、ふっくらした唇をきゅっと噛みしめた。
こう思うのは癪だが、すべて予言の通りになっている気がする。
……頭の中で、あの不吉な予言が幾度も幾度も繰り返される。
(“聖なる御印の女王。その姿は闇によって覆い隠されん。しかしもう一人の女王、これを憂いて闇を打ち払わんとす。黎明が広がり、二人の女王、君主として大陸を繁栄に導きたもう”……)
ある魔導士はこれは王女がさらわれることを示唆する言葉なのではないかと進言したそうだが、リシャール自身はもっと違うことを危惧してもいた。
王女が闇に覆い隠されるというのはつまり、「王女の純潔が失われる」ことを意味しているのではないか、と。
(もしこの予言がすべて真実なら、次に玉座に座るのはバイオレッタということになる。そして、今のこの状況と照らし合わせてみれば、予言のすべてに納得がいく……)
「もう一人の女王」というのがやや理解不能ではあるが、「闇」がクロードでそれに「覆い隠される」王女がバイオレッタだとするなら。
バイオレッタを愛するあまり、クロードがその純潔や未来まで欲してしまったとしたなら。
それはこの騒動を引き起こす動機としてはじゅうぶんではないかとピヴォワンヌは考えた。
「……そういえば」
「何? アベル」
クララの問いかけに、アベルが首を傾げながらぼそぼそとつぶやく。
「しばらく前に、後宮勤めの女官たちが変わった話をしてたっけな……。なんか、クロード様とバイオレッタ様を禁園になった薔薇園の方で見かけたとかなんとか」
「……禁園になった薔薇園?」
おうむ返しに問いかけると、彼はこくりとうなずいた。
「ええ。ご存知ないですか? 東棟の一番奥にあるんですよ、立ち入り禁止になってる閉ざされた薔薇園っていうのが」
その言葉を聞いたクララがはっと目を見開いた。
「……ちょっと待って、アベル。それはもしかして、昔エリザベス様がお世話をなさっていたあの薔薇園のこと?」
「さっすがわが君~、話早ーい! そうですよ、あの薔薇園です。国王陛下とエリザベス妃がひとときの逢瀬のために使っていたという、例の庭園です」
アベルたちの会話についていけず、ピヴォワンヌは眉を寄せる。
「何? いわくでもあるわけ?」
「いわくというほどではないんです。ただ、結構有名なところなんです。国王陛下って、エリザベス様が輿入れなさった時にはもうすでに正妃をお迎えになっていらっしゃったんですよね。それでまあ、側妃といちゃつく場所なんか城にはほとんどないわけですよ。夜中はイヴェール宮に召し上げて夜伽をしてもらったりできますけど、普段は公然とイチャイチャなんか絶対にできません。それで陛下がせめてもの娯楽にと造園させたのがあの薔薇園……というわけなんです」
シュザンヌの手前、側妃であるエリザベスばかりを贔屓するわけにはいかない。だが、彼女の心は引き留めておきたい。
その打開策として造られたのが件の薔薇園だという。
薔薇園は二人の逢瀬のために使われた。
とはいえ、最初から何もかも完成された庭園だったわけではない。二人が細々と手を入れて育て上げていったのだ。
エリザベスは祖国オルレーアでは薔薇の栽培を趣味としていたらしく、園芸や土いじりの類が大好きだったのだそうだ。
祖国から持ち込んだ薔薇の苗を、彼女はできたばかりの庭に次々と植えていった。
二人は秘密の薔薇園で庭いじりに精を出しながらひとときの逢瀬を愉しんだ。
薔薇園の完成を夢見ながら、ほんの束の間互いの身分や境遇といったものを忘れて庭づくりに没頭した。
傍から見れば、そうしている時の二人はただの仲のよい少年少女のように見えたという。
『薔薇園で過ごす』
当時、国王リシャールのこの言葉は一種の隠語のようなものとなっていたらしい。
これはつまり第二王妃エリザベスのところへ行くという意味で、第三者に邪魔を入れさせるなという命令でもあったようだ。
また、夜は夜で薔薇にちなんだ詩を読むことでエリザベスを呼び出していたらしい。彼が薔薇を題材にした詩を読んだ場合、それは「今宵は第二王妃に夜伽をさせよ」という命令に他ならなかったという。
それを耳にした侍従たちは大慌てで薔薇後宮へ走ったのだそうだ。
「エリザベス様の二つ名が『薔薇の王妃』でしたからねぇ。まあ、これは綺麗な見た目のわりに苛烈な性格をしてるってことでつけられちゃった名前みたいですけど。ほら、薔薇には棘があるでしょう?」
「なるほどねえ……。しかし、あたしの母さんを上手に味方に引き入れていることといいその一件といい……大した女傑ね」
「僕はお会いしたことないんですけど、お話を聞いている限りではなかなかすごい人だったみたいですね。こういう強い女性、僕は結構好きだったりしますよー」
「……別にあんたの好みは聞いてないんだけどね。まあいいわ。で? その薔薇園に行けば手掛かりが掴めるかもしれないのね?」
アベルは「うーん」と唸った。
「まあ、お二人ともそちらへ行かれたようですしねぇ。まずはそういうところを探ってみたほうがいいんじゃないですか?」
なるほど、と思う。
「んー、じゃあ早速この夢魔猫を使ってみようかしら。あんた……キースとか言ったっけ?」
『みゅー?』
可愛らしく鳴いて小首を傾げるキースに、ピヴォワンヌはぴしりと言う。
「猫のふりなんかもうしなくていいわよ。あんたの正体はとっくの昔にバレてるんだから」
『うう……、このお姫様、さっきから威圧感すごいんですけど……、ぶるぶる』
震えるキースを目の高さまで持ち上げると、ピヴォワンヌはその小さな顔を覗き込んだ。
「あんた、あたしの代わりに魔術の痕を拾ってくれる? その薔薇園とやらに行ってみるから、魔術の痕跡とやらが落ちていそうなところを教えてほしいの」
『うえっ!? それってつまり、ボクを犬みたいに扱おうってことぉ!?』
「いいじゃない。スピネルだって好きに使えって言ったわよ」
『嫌だあああーー!! ボク、人間に犬扱いなんかされたくないよぉーー!!』
「わっ……、ちょ、ちょっと……!」
じたばた暴れるキースに、ピヴォワンヌは慌てる。
すると、何を思ったのかそこでアベルが身を乗り出した。
「ふーん、随分強情な猫ちゃんですねえ。……ほら、キース君。怖いことなんか何もしないから、ここは一つよろしく頼むよ、ねっ?」
アベルにちっちっと舌を鳴らされ、蕩けるような声色で誘惑されて、キースは飛び上がった。毛を逆立ててシャーッと威嚇する。
『あ、あんたの声、鳥肌が立つ!! ぞわぞわってする!! あっち行ってーー!!』
「ええ? こんな美声なのになぁ」
『気持ち悪いんだもん!! 甘ったるくてわざとらしくてやだっ!!』
「しょうがないですねぇ……、よっと!」
アベルはピヴォワンヌの手からキースを取り上げると、自らの腕にすっぽりと抱き込んだ。
子供でもあやすようにゆるゆると揺さぶり、時折ピンクの肉球を親指で押しこみながら、巧妙にキースの機嫌を取る。
「ほーら、猫ちゃーん。怖くないよー」
そうやって猫と戯れるアベルは、どこからどう見てもただの爽やかな好青年にしか見えなかった。
キースが若干怯えていることを除けば、単なる飼い主と愛猫のようにしか見えない絵面だ。
ピヴォワンヌは噴き出しながらもキースの頭をよしよしと撫でてやった。
「そうね。あんたがそうやって連れていってくれた方がいいかも」
あまりに絵になる組み合わせに、クララとユーグも瞬く間に笑顔になった。
「まあ、アベル。いいアイデアね。お前と猫って意外とよく似合う組み合わせだわ」
「クララ様に同意します。……はは、そうしていると気まぐれな者同士お似合いだな、アベル」
『うっうっ……。なんでこいつらこんなにマイペースなんだよぅ……。どうせお仕えするならムサイ男なんかじゃなくて絶世の美女がいいよぉ~~』
抵抗するのを諦めたキースは、アベルの腕の中で身体をすくめてしょんぼりしている。
一行はかまわず薔薇園へ向かって歩を進めた。
東棟の奥を目指して進み、園路をいくつか曲がり、つきあたりの奥まった場所へ足を踏み入れる。
薔薇園の前に立ったピヴォワンヌとクララは、あまりの光景に感嘆のため息をついた。
「まあ、こちらがエリザベス様の……?」
「すごいわ……、禁園なんて嘘みたい」
薔薇園の周囲は厳重に柵で囲われていたが、入口に立つだけでじゅうぶんに中の素晴らしさが伝わってくるような場所だった。
漆黒の柵の向こうには未だ色褪せることのない極彩色の薔薇が咲き誇っている。
空へ向かって幾重にも梢を伸ばす、見るからにみずみずとした木々。
たっぷりと水を湛えた泉に、その周囲に点々と置かれた神話にちなむ石像の数々。
植え込みやトピアリーはきちんと剪定されているし、水やりを欠かさないのか枯れた植物は一本も見当たらない。
禁園などといっても本当に閉鎖された場所というわけではないようだ。
……そう、ここは見るからに「生きた」庭園だった。
人の気配もするし、何より植物から朽ちた匂いがしない。どの植物も見るも鮮やかに咲き揃っており、まるで早く扉を開けて中へ入ってくれと催促しているかのようだ。
思わずぼうっと見惚れる姫君たちを尻目に、従者二人が率先して門を調べてくれる。
すると――。
「……すみません、ピヴォワンヌ様。ここ、鍵がないと開かないみたいです」
「あ……」
なるほど、鍵がかかっているのか。
確かに禁じられた花園ともなれば当たり前だろう。
だが、これでは中に入れない。
ピヴォワンヌは眉を寄せた。
(……どうすればいいの。これじゃ探索なんて不可能よ。けど、このまま帰るわけには……)
その時、園路の向こうから低くかすれたしわがれ声が聞こえてきた。
「第四王女のピヴォワンヌ姫様とお見受けしましたが、もしやこの薔薇園をご覧になりたいのですかな?」
「あんたは……?」
声の主は老人だった。肥料や鋏、軍手といった園芸用品を山ほど積んだワゴンを押しながら、ピヴォワンヌたちの方に向かってのろのろと歩いてくる。
彼は帽子を取り、日に焼けた皺だらけの顔をのぞかせた。
「これは失敬。わしはこちらの植物の管理を任されている庭師です。今、年に一度の薔薇の手入れに来ているところでして」
老人は年に数回のみ、ここの薔薇園にやってくるのだそうだ。薔薇には剪定をしたり肥料をまいたりといった細やかな手入れが必要なのだという。
そのため、この薔薇園専属の庭師として春と秋の数日間だけ、この後宮への出入りを許されているのだそうだ。
まさに今手入れの仕事を終えて帰るところなのだと彼は言った。
「そうだったの。薔薇園に何か変わった様子はない?」
ピヴォワンヌが訊ねると、老人はちょっと考え込む素振りを見せる。
「ふむ……特になかったかと思うのですが……。その、何かあったのですか?」
「いいえ、なんでもないの。ちょっと聞いてみただけ。あたしたちここの庭を見たいんだけど、ほんの少しの間鍵を貸してもらってもいいかしら? 終わったらすぐに返すから」
「ええ、かまいません。いかな禁園とはいえ、何も見てもらえないというのでは花が可哀想です。王女様の頼みとあらば……」
老人は腰に括り付けていた鍵束をほどくと、ひときわ立派な鍵を探り当てて錠に挿しこんだ。カチャカチャと回して錠を外し、厳重にかけられていた鎖もあっという間に緩めてしまう。
彼は古びた合い鍵をピヴォワンヌの手のひらへぽとりと落とした。
「用事を済まされましたらお返しください。わしは時計塔でやすんでおりますゆえ」
「薔薇の手入れ、お疲れ様。鍵も開けてくれてありがとう」
「では、わしはこれで……」
会釈をし、庭師の老人はワゴンを押しながら去っていった。
薔薇園にキースを放してやり、不平不満をこぼす彼を無理やり探索に駆り出す。
「とりあえずこの区域からよろしくね」
『ふえ~~い……』
ぐるる、と軽く唸ってから、キースは姿勢を低くして芝生や植え込みの匂いを嗅ぎ始める。
そしてそのまま痕跡を探るように歩き出した。
『ふんふん……』
かさこそと葉擦れの音をさせながら、薔薇園の入口から中ほどまでをじっくりと探索していく。
だが、キースが目当ての魔術痕跡を探り当てる気配はまるでなかった。
『ううーん。見当たらない~~……』
そうやって薔薇園の中心部まで探索を続けてみたが、結局それらしい手がかりは何も得られなかった。
そこでピヴォワンヌは、休憩がてらクララとともに庭園を見て回ることにした。
「素敵なところですわね。まさかこんなに美しいお庭がこの薔薇後宮にあったなんて……」
「あ、こっちの薔薇も綺麗よ。あんたの薄茶の髪に似合いそう」
二人は目の前に広がる美しい光景に少しばかり元気を取り戻した。
辺りの植え込みを眺めまわし、咲き誇っている秋の薔薇に触れてはくすくすと笑い合う。
ピヴォワンヌはほんの少しの間、そうやってクララと一緒に禁園の薔薇や植物を愉しんだ。
その様子を見ていたキースがぱたぱたと尾を振る。
『のんきな姫様たちだよ、全く。猫をこーんなにこき使っといてさ~~』
ぶすっとしたキースの言葉に、ピヴォワンヌは「いいじゃない」と答える。
「庭師のおじいさんだって言ってたでしょ、見てもらえない花なんて可哀想だって。せっかく入れたんだから堪能できるところは堪能するわよ」
『だから、そういうとこがそもそものんきだって言っ……、!』
刹那、キースが身体をびくんと大きく痙攣させた。
『……この気配は……!』
「どうしたの?」
急に姿勢を低くした彼は、薔薇園の奥めがけて突き進んでいく。
急いでキースの後を追ったピヴォワンヌははっと目を見開いた。
……どこに隠れていたのだろう、見れば、薔薇の植え込みの真下に真っ青な花弁が一枚落ちている。
拾い上げようとすると、ユーグが手で素早く制した。
「……お待ちを。ここは私が確かめます」
「え、ええ……」
あまりの剣幕にたじろいでしまう。
花弁をつまみ上げたユーグは、片眼鏡の奥の瞳を険しくした。
「これは……」
「ん?」
やがて、花弁に触れた魔導士たちが口々に言い募る。
「これは……闇と、火……か?」
「そうだな、こりゃア明らかに火の術式だ。ごく微弱なモンだがな」
「ああ、これはごく弱い力のようだ。この程度の力なら、普通の魔導士たちは見逃してしまうかもしれない。だが、これは確かに火の性質を持ったものだ」
ユーグと彩月がいっそ恐ろしいほど真剣な顔つきをしているにもかかわらず、唯一アベルだけがからからと笑い飛ばしている。
「まっさか〜、二人とも冗談キツイって。火の術者なんてこの宮廷にいるわけないじゃん」
ユーグがわずかに眉をひそめる。
「……もちろん、この城にそんな人間がいるとは限らん。だが、この魔力は明らかに火の力だ。お前だって魔導士の端くれならわかるだろう。これはなんとも禍々しい力だぞ」
「降参」とでもいうようにアベルは両手を上げた。
「……わかってるわかってる。残念ながらこれは正真正銘黒だよなあ。はは……」
「あたしも触っていい?」
「どうぞ」
青い薔薇の花弁を、ピヴォワンヌは手に取って隅々まで眺める。
魔力を持たないピヴォワンヌにはこの花弁が放つ邪悪な力というのは察知できなかったが、それでもその奇妙さはよくわかった。
周囲の薔薇はみな平凡な色合いをしているのに、この場所にだけこんなに真っ青な薔薇の花びらが落ちている。
おかしい、と感じた。
(……薔薇のことはよくわからないけど、この薔薇の花はもとからここにあったものじゃないわね。周りの植え込みにはこんな色の薔薇はないわ。どこかから運ばれてきたか、あるいは作為的に用意されたものかのどちらかでしょう)
そして、その色。
まるで染料で染められたような鮮やかなブルーをしているのが引っ掛かった。
クララが横から不思議そうに花びらを覗き込む。
「……まあ、なんて濃い青色なのでしょう。こんな薔薇は見たことがありませんわ」
「ええ。ここまで青い薔薇っていうのはかえって妙ね。今の大陸では青紫やモーヴの薔薇を作るのがやっとだと聞いてるわ。なのに、ここまでくっきりした青色をしているなんて」
ピヴォワンヌは青い花弁を矯めつ眇めつし、ルビーレッドの双眸をすっと細める。
「この色合い……、多分この宮廷にはないものよ」
魔導士たちはみなこの薔薇から闇と火の気配を感じるという。
闇の高位魔術を扱う魔導士というのはそもそも数が少ないから、バイオレッタをさらった人物は十中八九クロードで間違いないような気がした。
ここの入り口の鍵が容易に開けられなくなっていることから考えても、ここで彼が何らかの凶行に及んだことは間違いなさそうだ。
だが、火の魔術というのはアベルの言葉通り大陸全土で禁忌とされた魔術だ。
四属性の中でも火の力はとりわけ狂暴なものとして扱われる。
火の魔術とは物質を成熟させる力。そして終焉へと導く力だ。
水、土、風といった他の魔術属性に比べれば攻撃性が高く、古の戦では火の術者はこぞって重用されたという。
そして何より、火は邪神ジンが司るもの。
堕ちた女神ジンの化身、あるいは使いとされ、今なお人を害する悪しき力として認識されているものだ。
(火と水の術者は稀有な存在とされている。水の術者はヴァーテル教会の聖職者たちに多いというけど、火の術者は違う。一般的に、これを習得しているのはヴァーテル教の教えに背く異教徒たちに限られる……)
三千年前、火の邪神ジンの凶行によって、このイスキア大陸には凶悪かつ酷烈な混沌の時代が訪れた。良き者も悪しき者も渾然一体となって大陸各所で大掛かりな戦を繰り広げ、イスキアの地を完全なる『神々の戦場』として踏み荒らしつくした。
そこにはもはや善も悪もなく、あるのはただ互いへの憎しみと惨禍だけだった。
やがて二柱の神々は水神ヴァーテルの勝利という形で長年の戦に決着をつけた。ジンは斃され、ヴァーテルはその神力を失ってとこしえの眠りに就く。
そして戦の末に飛散した女神ヴァーテルの身体。その亡骸から誕生した五大国の初代国王たち。
各地で生まれ始めた水の神ヴァーテルの宗徒たち、聖教であるヴァーテル教の興り……。
イスキアの地は新たな繁栄の時を迎えようとしていた。
枯れた大地には生命が息吹き、潤沢な水の恩恵がもたらされ、死闘が終結したことによって大陸各地で発展のための勢いや力といったものが徐々に取り戻されてゆく。
その急速な繁栄の陰で、火の邪神ジンを崇拝する者たちは「大陸の敵」とみなされ蔑まれていた。
水を涸らし、大陸から生命を根こそぎ奪い、イスキア全土に戦乱をもたらした火の邪神のしもべとして、聖教の教義を固く信じる者たちから非難されたのだ。
五大国の王族というのは水の神の末裔であるとされるが、その一方でジンにかしずく異教徒たちは激しく忌み嫌われる。
つまり、火の術者というのは「水神の末裔」である五大国の王たちに楯突く反逆者とみなされているのだ。
だから今でも火の術者は少ない。
ヴァーテル教会本部で厳重に管理されている一部の者を除き、あとはほとんどが邪神を崇拝する異教徒だという。
まさかそんな人間がずっとこの王城に息を潜めていたとでもいうのだろうか?
ピヴォワンヌは緊張と興奮で自身の背筋がすっと冷えていくのを感じとる。
誘うような薔薇の香りの向こう、クロードの仄昏い微笑が一瞬強く浮かんだような気がした。
(この術式を仕掛けたのが仮にクロードだとしたら、あいつはリシャールのことをずっと欺いていたことになる。火の術者だと周囲に知られれば、リシャールの近臣であり続けるのは難しいはずよ)
つまり彼は、巧妙に周囲の人間――国王や魔導士や官僚――を欺いていたということなのだろう。
ユーグと彩月は、火の波動はごく微弱なものだと言った。
恐らくクロードは、これまでそれを悟られぬよう細心の注意を払っていたのだろう。
王宮では魔術を披露する機会などいくらでもあるが、どこかで火炎の術者と気づかれるのは致命的だ。
そこでピヴォワンヌは、「年を取らない化け物」という彼の蔑称を思い出す。
この魔術痕跡と直接関係があるかどうかはわからないが、不穏な響きだ、と思った。
もし、本当に彼が火の魔導士だというなら、彼はずっと宮廷中を騙し続けていたということになる。
そしてもしあの不吉な予言がすべて真実なら。
リシャールが危ぶんでいた通り、闇が国王の信頼を勝ち得、絶対の地位を築き上げながら聖なる御印の女王を罠にかける機会をうかがっていたのだとしたら?
「……っ!! バイオレッタ……!!」
ピヴォワンヌは青薔薇の花弁をぐっと握りしめた。
クロードがその気になれば、バイオレッタの純潔を奪うことなど訳はないだろう。否、もしかしたらもっと酷い仕打ちだって受けているかもしれない。
そして、その時に深く傷つくのは他の誰でもないバイオレッタ自身だ。
ピヴォワンヌはそれだけは絶対に回避しなければと思った。
それは意思というよりはもはや一種の衝動のようなもので、なぜだかピヴォワンヌはバイオレッタを守ることこそが自らの使命であるかのように感じていた。
「ピヴォワンヌ様……?」
「早く助けに行かなきゃ……、そうしなきゃあの子は――!!」
クララが慌ててピヴォワンヌをなだめにかかる。
「そんな……、まだシャヴァンヌ様が犯人と決まったわけではありませんわ。あの方はバイオレッタ様のことを本当にお慕いしておられるようでした。それに、あんなにお優しくて落ち着きのある殿方に女性を傷つけるなんてできるわけが――」
「愛が狂気に変わるのなんてあっという間よ……! あいつがあの子を見るときの目、なんだかおかしかった。いいえ、今にして思えば、おかしいって思うところなんかいくらでもあったわ……!」
「私の愛は依存と束縛だ」と豪語した時のやけに落ち着き払った態度。
バイオレッタただ一人に固執しようとする、奇妙で偏った愛の形。
粘つくような視線に、バイオレッタの機嫌を取ろうとするときのやたら殊勝な態度まで。
(あいつ、最初から全部仕組んで……っ!!)
ピヴォワンヌはぎり、と形のよい爪を噛みしめる。
「……とにかく、あの子を助けに行かないと」
バイオレッタが連れていかれそうな場所を、ピヴォワンヌはいくつか考えてみた。
もし彼が王女を手籠めにするとしたらどんな場所を選ぶだろう。
誰もが放蕩の限りを尽くすこの宮廷では、もはやどんな場所でも色恋の舞台になり得る。庭園の隅で人目もはばからずに肌を重ねるなどむしろ日常茶飯事だ。
もし自分がクロードならどこを選ぶだろうかと、ピヴォワンヌはしばし考えを巡らせた。
ピヴォワンヌはそこである考えにたどり着く。
……クロードがもし自分の邸にバイオレッタを連れて行ったのだとしたら?
あれはいつだったか、バイオレッタがクロードの邸に招待されたのだとこっそり教えてくれたことがあった。
クロードが直々にリシャールの許可をもらってくれたのだそうで、そののちも彼女は何度かクロードの邸へ出かけていった。
リシャールを介しているのなら問題はないだろうと思い、ピヴォワンヌは特に気に留めずにいたのだが、もしその邸宅とやらにバイオレッタが閉じ込められているのだとしたら……。
「全部あいつの手の中だったってわけ。……すっかり踊らされたわ」
「……どうなさるのですか、ピヴォワンヌ様?」
クララの問いかけに、ピヴォワンヌは厳しい面持ちで言い切る。
「あいつの邸へ行ってみる。もうそれしか確かめるすべはないわ。たとえあたしの予想が外れていたとしても、何らかの手がかりは残されているはず。行ってみない手はないわ」
ピヴォワンヌの言葉に、アベルが声を上げる。
「そんな。あの方相手に一人で? 無茶ですよ。最高位の魔導士の称号は伊達じゃないんです、もっとよく考えてからの方が――」
「じゃあどうしろっていうのよ!? バイオレッタが酷い目に遭わされてるかもしれないっていう時に、ここで悠長にじっくり考え込んでろっていうの!?」
アベルはばつが悪そうに言いよどむ。
ピヴォワンヌははっとして口をつぐんだ。
「……ごめん」
「いえ……」
アベル相手に声を荒げる気などなかったのに、と、ピヴォワンヌは肩を落とす。
するとそこで、それまで傍観を決め込んでいた彩月が突如口を開いた。
「――俺様が一緒に行ってやろうか? 香緋ちゃん」
「……彩月!?」
ピヴォワンヌは彼を見て息をのんだ。
普段通りのへらりとした笑いをのぞかせ、彼は悠々と近寄ってきた。
赤いチュニックの裾をひらひらとひらめかせながら、彩月はピヴォワンヌの眼前に立った。
「な……、どうしてあんたがそんな……」
「別にお前がいらねえってんだったらついてなんかいかねェよ。けど、俺は戦ってる時のお前が好きなんだよ。だから力を貸してやろうかって言っただけだ。特に深い意味はねえよ」
思いもよらない言葉に、ピヴォワンヌはうろたえた。
「けど、そんな……。あんたはあの子のことなんか何も知らないんだし、スフェーン側の事情に首を突っ込むような真似をしなくたっていいじゃない。あんたを煩わせるわけには――」
「何言ってんだよ、お前。宮城で同じ釜の飯食ってた仲じゃねえか。おかしな遠慮なんかするんじゃねェ」
「だけど……」
確かに彩月が同行してくれるなら心強い。
彼は公主二人の護衛官としてこれまで幾度も剣を振るってきたし、魔導士としての腕前も劉の宮廷随一のものだった。
剣術と魔術の双方を極めているともなれば、申し出をはねつける理由など見当たらない。加えてこの鋭い洞察力と柔軟で臨機応変なものの考え方など、彩月はどう考えても戦闘向きの人物だ。
彼がいてくれれば、たとえあのクロード相手でも絶対に勝てるような気がした。
「……で、どうすんだよ。俺様の助けはいるのか? それともいらねえの?」
「……いるに決まってるでしょ! あんたが力になってくれれば、あたしはきっとどんな場所でも負けない気がする……。だから、あんたの申し出が今は少しだけ嬉しい」
「決まりだな」
「……とはいえ、まずは玉蘭たちに願い出てみなくちゃね。大事な護衛役を借りるんだもの」
「よし、んじゃ早速公主サマたちのとこに行くとすっかぁ。……よっと!」
「きゃああああっ……!?」
ピヴォワンヌは素っ頓狂な悲鳴を上げた。彩月がたくましい肩に彼女の身体を軽々と担ぎ上げたからだ。
つい甲高い声を上げてしまい、羞恥で顔がかっと熱くなる。彩月はそんなピヴォワンヌの様子すら「可愛い声出せんじゃねえか」とからかい、楽しげに笑った。
「やだっ、彩月の馬鹿ぁっ!! 下ろしてよ、一人で歩けるわ……!!」
「はは、相変わらず小枝みてぇに細っこい身体だなァ。ちゃんと食わねえと胸が育たねえぞ、香緋ちゃん」
「……! 彩月の馬鹿!! 最ッ低!!」
反撃のつもりでぽかぽかと背を叩いてみるも、彩月はくっくっ、と愉快そうに笑うばかりだ。
結局ピヴォワンヌはそのまま彼に担がれて運ばれる形となり、クララたち三人は困惑しながらその後ろをついてゆくこととなった。