第二十九章 無限廻廊リビドゥー

 
 ……オトンヌ宮での晩餐を終え、みなが思い思いの道順で帰路に就き始めた頃。
 薔薇後宮へ駆け出したミュゲがアベルに慰められている間、クロードの頭は愛しの姫君にどう声をかけるかという邪な感情で沸き立っていた。
 
 先刻、クロードは自分でもほとんど無意識のうちに降嫁の話を持ち出していた。
 バイオレッタは以前、リシャールが認めるならクロードの妻になってもいいと言った。
 クロードに口づけと抱擁を許し、自らの名前を呼ぶのを許した。
 極めつけはあの鳥籠の世界での戯れだった。
 彼女を妻にすれば、あの刹那的な享楽を永続させることができる。少なくとも彼女を自分一人のものにしておける。
『絵画の世界』での出来事は甘い蜜のようにクロードを惑溺した。
 宮廷でバイオレッタと顔を合わせるたび、追いつめられているような気がしていた。
 どうしたって彼女を目で追ってしまう。その表情やしぐさを逐一確かめたくなってしまう。
 派閥の分裂にも不名誉な噂話にも端から関心はなかった。ただその心が思い通りにならないのが憎らしかった。
 だから降嫁の話をしたのだ。
 
 むろん、許諾されるとは最初から思ってもいなかった。
 彼女の愛を試したかったからというのが最も大きな理由だ。
 同時にクロードは、取り澄ました顔の彼女を一度ぎりぎりのところまで困らせてやりたいとも思っていた。
 
 クロードが婚姻の話を持ち出したことで、バイオレッタはさらに不利になった。
 臣下と醜聞になっただけでもじゅうぶん不利だというのに、クロードがそれをさらに煽るような発言をしたのだ。
 この話が広まればバイオレッタは「身持ちの悪い姫」として認識されるだろうし、嫁ぐ前に寵臣と恋仲だったと知られればまともな輿入れすら危うくなるかもしれない。
 けれど、これで彼女を自分と同じところまで引きずり下ろせる。同じ痛みを味わわせてやれる。
 それを考えれば、接触を禁じられたことなどクロードには些末事だった。
 
 宮廷での居場所を取り上げられた彼女の心も、よからぬ噂によって傷つけられた彼女の名誉も。
 そして、未だ行き場をなくしてさまよっているであろうその恋心さえ。
 すべてがクロードの手によるものであり、クロードが作り上げたものだ。
 となれば、その存在を丸ごと愛してやれるのはもはやクロード以外にないではないか。
 クロードの胸中にはそんな思いが逆巻いていた。
 
 結局はリシャールに諫められる形で話を切り上げさせられてしまったが、クロードはすっかり彼女を娶るつもりでいた。
 本気で降嫁の話が実現すればいいと願っていた。
 同時に、どこまでも娘を守ろうとするリシャールの姿が忌まわしかった。
 その命を握りつぶしてしまうことなど訳はない。彼をしいして強引にバイオレッタを自分のものにしてしまうのも。
 だが、今この宮廷には教皇ベンジャミンの代理人たちがやってきている。
 視察のさなかに国王が崩御したともなれば一大事になるだろうし、その死が不自然なものであればあるほど疑われる確率は高くなる。
 そしてバンパイアの娘のあの目つき。あれは絶対に自分の正体を知っている目だ。
 ここで感情のまま動いてしまえば、クロードはこの宮廷で築き上げた盤石な地位を完全に失ってしまう。
 邪神に加担する依代だと看破されてしまえば、この命すら危うくなってしまう。
 だからこそこれ以上要らぬ騒ぎを起こして目立つわけにはいかないのだ。
 
 
 クロードは庭園にたたずんだまま黒髪をかきやった。
(……バイオレッタ。貴女に恋などしなければよかった)
 こんなことになるなら、ただアイリスの蘇生だけを目的に生きればよかった。
 彼女と瓜二つの――けれども違う――少女になど心惹かれずに、ただ最愛の皇妃の笑顔だけを思い描いて生きていればよかった。
 そうすればこんな風にいっときの感情に振り回されずに済んだ。
 ……アインにそそのかされて触れたバイオレッタの肌。
 それはクロードの心を激しく脅かすものとなった。
 それは、温かかった。
 死に絶えた皇妃の肉体などより、ずっと。
 
 アインはバイオレッタを最後の供物――かてとするつもりでいる。
 まずはバイオレッタの内部から持てる魔力を根こそぎ奪いつくし、そこに残された彼女の精神をも壊す。
 そして空になったその器をアイリスの魂の容れ物とする。
 よみがえったアイリスは、クロード――否、かつての配偶者エヴラールとともに新しい世界を生きる。
 イスキアのあとに打ち建てられた、二人だけのまっさらな世界を……。
 それが、クロードの主・アインの用意した復讐劇の筋書きである。
 しかし、クロードはその提案に少なからず動揺してもいた。
 この復讐劇を完璧に演じきるためには、バイオレッタをにえとして邪神アインに捧げなければならない。……何の罪もない彼女を。
 彼女の愛したこの国を壊し、大陸を滅ぼし、そこにアイリスとの新たな楽園を作り上げる。
 そこにはすでにバイオレッタという少女の痕跡など影も形もないだろう。
 クロードが愛した姫の姿は消える。二人で過ごした日々、二人の愛、すべてが綺麗に「なかったこと」にされる。
 わかっていたはずなのに、どうしても迷いが生じてしまう。
 このままあの女神に付き従うのが正しいのか、それとも彼女との繋がりをすべて振り払ってしまうのが最良なのか、クロードにはにわかには判別できなかった。
 ……否、すぐに契約を解くことなどもはや不可能だ。
 千年もの間アインによって維持され続けてきたこの肉体は、今や彼女とほとんど一心同体になってしまっているのだから。
 クロードが『火の依代』からただの人間に戻るということは、老いもせず衰えもしない肉体を手放すということだ。
 それはつまり肉体の死を意味した。
 クロードがアインとの契約を解いてしまえば、それまで時を止められていた千年という時間がこの肉体へ一斉にのしかかってくることだろう。
(一度時を止められた肉体が再び『時間』という概念を取り戻せば、そこに待っているのは――)
 そう、そこにあるのは老いでも衰えでもなく「死」だ。
 しかし、そうして終わりを迎えるにはクロードはさまざまなものに執着を抱きすぎていた。
 
 ……そこでやおら顔を上げたクロードの目が捉えたもの。
 それは、オトンヌ宮を出て帰路に就こうとしているバイオレッタの姿だった。
 クロードははっと息をのみ、その周囲に筆頭侍女の姿がないことを確かめた。
 そしてバイオレッタが油断しきっているのをいいことに、彼女を石柱の裏へ引きずり込んだ。
「きゃっ……!?」
「姫……!」
 こみ上げる昂ぶりに任せ、クロードは長躯を屈めて彼女の肢体を覆い隠した。
 半ばのしかかるようにして石柱にその背を押し付け、両腕をついて逃げ道を塞ぐ。
 ……月明かりの下、二人の影が一体となって純白の石柱の上へ浮かび上がっている。
 ああ、本当にこうやってすべて同じものになってしまえたらいいのに。
 いっそ自分たち二人が全く同じ一つの闇と化してしまえたら……。
 そうこいねがいながら、クロードはそのおとがいに指をかけてぐっと持ち上げた。
 バイオレッタが瞠目する。
「――クロード様……っ!?」
 ……久しぶりに間近で見るすみれ色の瞳はなんとも美しかった。
 めいっぱい見開かれた彼女の双眸は、夜闇の中、あたかも二粒のアメジストのようにきらきらと潤んでいる。
 クロードはその瞳の中に怯えと嫌悪を同時に感じ取った。
 彼女は……バイオレッタは、こうしてクロードに引き留められることを望んでいない。むしろもう自分にかまわないでほしいとさえ思っている。
 噂によればエピドートの王子カーティスと二人きりで親しげに話すことが増えたというから、もうクロードのことなどどうでもいいと思っているのかもしれない。早く忘れてしまいたいと願っているのかもしれない。
 けれど、自分はまだ――。 
 
「……」
 クロードは話を切り出し損ねて唇を噛んだ。
 まるでバイオレッタの動揺が伝染してしまったかのように、彼の身体はらしくもなくすくんだ。
 
 ……ああ、これで完全に口火を切り損ねてしまった。
 言いたいことはいくらでもあるのに、肝心な時に限ってこの唇は役立たずになる。
 軽薄な愛の言葉ならいくらでもささやけるのに、いざ本音を口にしようとすると何も言葉にならなくなってしまう……。
 そう感じて、クロードがわずかに眉根を寄せた時。
 沈黙を破ったのはバイオレッタだった。
 彼女はクロードのコートを掴み、信じられないといった顔つきで彼を責め立てた。
「どうして、どうしてあんなことを……!? お父様の前で臣籍降嫁の話なんて、どうしてなさったのですか……!!」
 バイオレッタは困惑しきった顔で、すがるようにクロードを見ている。
 さもありなん、と彼はほくそ笑んだ。
『絵画の世界』に軟禁され、乙女の象徴たる純潔を奪われかけたのだ。警戒するのも無理はない。
 いや、むしろ極めて正しい反応であるといえる。
 
(ですが……今頃になって私の本性に気づいても無駄ですよ、姫)
 
 ……最初からバイオレッタはこんな男などと距離を詰めるべきではなかったのだ。
 クロードは、自分が一度愛すると決めた女性に対しては貪欲な質だった。ありうべからざる執着を見せつけ、泣いても嫌がっても地の果てまで追いかけたくなる。そんな質なのだ。
 生来淡泊なクロードが他人に興味や関心を持つというのはそういうことだ。
 彼の愛情にはそもそもほどよい熱量というものがない。
 全くの無関心か、あるいは相手が愛しくて愛しくてたまらないかのどちらかなのである。
 そして後者の場合、クロードは相手を片時も離したくないという激しい欲求に駆られる。
 相手と一つに融合してしまいたい、同じ存在になってしまいたいという強い感情に支配されてしまう。
 それは他人を愛することがそもそも稀だからこその衝動なのだった。
 
 批難の目つきで詰め寄ってくるバイオレッタを、クロードはたちまち愛おしく感じた。
 相変わらずお人好しな王女だ。大方まだクロードと和解できるとでも思っているのだろう。
 こんな風に自分に触れて、必死な目をして。
 本当に愚鈍で軽率で、後先のことなど何も考えていなくて。
 だからこそどうしようもなく惹かれてしまう。
 宵闇が黄昏時の陽光を跡形もなく呑み込んでしまうように、その輝きのすべてを取り込んでしまいたくなる――。
 
「酷い方!! あんなことをしてわたくしを困らせないで……!!」
 そう言ってこちらを見上げるバイオレッタの怯えた目が心地よい。もっと追いつめてやりたくなる目だ。
「私は自分にとって有利な手を打たせていただいたまでのこと。貴女だってあの日私の提案に賛同してくださったではありませんか。私の妻になるとお約束までしてくださいました。それを実行に移して何がいけないのですか?」
「だ、だって……、わたくしは、あなたに――」
 ……「辱められかけたのだから」。
 きっとそう言いたいのだろう。
 
 しかし、クロードは前言を撤回してやる気などさらさらなかった。
 彼女を妻にし、檻に入れて一生飼い馴らす。愛という名の水を与え、貴重な鳥や蝶を愛でるように入念に愛する。
 それはクロードの中に芽生え始めたもう一つの愛――『偏愛』の形だった。
 日ごと夜ごと彼女の世界を染め変えてやる。クロードという名の猛毒を注ぎ込んで、その心が漆黒に染まるまで穢しつくしてやる。
 長年の悲願も、邪神のしもべであるということも忘れ、ただ彼女との日々に溺れきっていたい。
 宮廷でのしきたりも、彼女とのしがらみも。すべてを忘れて――。
 
「貴女は何もわかっていない……。私がどれだけ貴女を愛しているかなど。この私が、愛する貴女をみすみす異国の男ごときにくれてやるとでも……?」
 そうささやきながら白磁の頬をするりと撫でてやれば、バイオレッタは必死で身をよじって逃れようとした。
「やめて……ください……!」
「いっそいつかのようにこの肌に覚え込ませて差し上げましょうか、貴女が私の愛を完璧に理解するまで……」
「っ……!」
 彼女の姿はまるで毒蛇から逃れようとする仔兎のようだった。
 クロードはその様をひどく小気味よく感じた。
 
 バイオレッタが拒めば拒むほど、クロードの牙はその心に食らいつく。絶対に逃すものかとばかりに深く食い込んでゆく。
 もがけばもがくだけ無意味なのだと、彼女は一向に気づかない。
 なぜ自分が痛みにのたうっているのかなど、まるで気づいていないのだ。
 ああ……、だが、この愛はもうすぐ完成するだろう。彼女がこの猛毒に侵しつくされるのは時間の問題だ。
 一度クロードに心を許したバイオレッタは、もうその腕に飛び込むことしかできなくなっている。
 それもそのはずだ。ここまで強い愛に縛られて、今更他の男など愛せるわけがない。クロードほど完璧にバイオレッタを愛せる男など、いるわけがないのだ。
 
(姫。いいえ、バイオレッタ。どんなに時間が経とうとも、いくら貴女の姿が変わってしまおうとも。私の心は永久に貴女のものだ――)
 
 そう思いついて、クロードの黄金の瞳は甘く緩んだ。
 クロードはこれまで幾度もバイオレッタの意思を尊重してきたし、その心をどろどろに甘やかして揺さぶることさえした。
 贈り物をし、体調を気遣い、その心にどこまでも寄り添ってみせた。
 戸惑いも怯えも、その愛らしい嫉妬の形さえ。バイオレッタのすべてはクロードのものだ。
 そしてまた、クロードがすべてを許すのも彼女だけだった。
 
 クロードは彼女だけに自らを服従させることを許し、愛情という鎖で繋ぐことを許した。
 作り物めいて可憐な王女の足元に跪くのはこの上ない快感だった。
 手綱を握られて好きなように振り回され、時にはつまらなさそうにやきもちを焼かれる。これはクロードにとっては耐えがたい悦楽だった。
 求められ、頼りにされ、他の女性を見るなど許さないとばかりに嫉妬される。
 クロードでなければ駄目なのだと言われているようで――必要とされているようで――愛しかった。
 だからこそ逃したくないのだ。
 このままともに同じ愛の夢の中に浸っていて何が悪いというのだろう。
 一体、何が不満でバイオレッタは自分を見捨てようとしているのだろうか……。
 
 クロードが指先での戯れをやすめたのをいいことに、バイオレッタは毅然と顔を上げて言い放った。
「……クロード様。このままではわたくしたちはよくない方向に進んでしまいます」
「……姫」
「あなたは、あんなことをするべきではなかった……! あんなのは愛じゃない……!」
「では、なんなのでしょうね。私が貴女に向けるこれが愛ではないというなら。ならば、この世に愛など最初から存在しないのでしょう」
 バイオレッタは聞き分けのない子供のように、何度も首を打ち振っている。
「そうじゃありませんわ……! そうじゃない……! 確かに、あなたはいつか愛など幻だとおっしゃいました。ですが、だからといって本能のままに相手を求めるというのは間違っています!」
「……貴女はいつだって物欲しげに私を見ていらっしゃいましたよ。私が欲しい、欲しくてたまらないのだという目で。それにお応えして何がいけないのですか?」
「……はぐらかさないで……!」
「いいえ、同じことですよ。愛するというのは依存であり束縛だ。そして、それは時に支配と同義です。相手を必要とするというのは、相手を従わせるのと全く同じ意味を持つのです」
 年若く無知な王女の瞳を覗き込み、クロードは一言一句に力を込めて説いて聞かせる。
「色恋、愛などといえば確かに聞こえはいいでしょう。そうした言葉にはどこか崇高な雰囲気さえある。しかし、蓋を開けてみればそれは単なるエゴのぶつけ合いでしかないのですよ。それを恋や愛といった言葉にすり替えることによって、強引に相手を自分の都合に合わせようとしているのです」
 クロードは歌うように続ける。
「愛の裏には必ず見返りを求める心がある。加えて人とはそもそもエゴの塊だ。貴女も私も、相手を愛するふりをしながら実際は互いの欲望を押し付け合っていたにすぎない」
「……わたくしがあなたに自分の欲望を押し付けていたとおっしゃるのですか?」
 薄く微笑み、とどめのようにクロードは告げてやる。
「貴女はご自分の深い愛を受け止めてくれる存在として私を欲した。そして私も、この執拗なまでの愛を注げる対象として貴女を求めた。それがたとえ互いのエゴであったとしても、私たちの愛はそこで一度成り立ったのです。それが本物であれ幻であれ、一度は愛としてきちんと成立していたのですよ」
「……!」
 その言葉に、バイオレッタの表情に初めて失望が浮かんだ。
 クロードの上着を掴んでいた手から力が抜け、だらりと身体の前に垂れ下がる。
「……クロード様は、そうやって御婦人方の好意を利用していらしたのですね」
「おやおや……やはり貴女は初心うぶなのですね。男女の関係とはそもそも性愛ありきのもの。性衝動リビドーだけが男と女を結び付け、繋ぎ、そして壊す……。それを理解していらっしゃらなかった貴女にも非があるのではありませんか?」
「……そんな」
 しおらしげなバイオレッタの態度に、クロードは口角を歪める。
「……いいのです、姫。たとえ欲求の押し付け合いだったとしてもかまわない、貴女は私のもとにいらっしゃればいい。どうせこの世にはびこる愛のほとんどがエゴだ。“無償の愛”などというものは初めから貴女にも私にも存在などしないのだから……」
「な……!」
 バイオレッタは驚愕の面持ちでクロードをねめつけたが、クロードはゆるゆるとかぶりを振ってそれを遮る。
「貴女はもう他の男など知る必要がない。このまま、この檻の中で互いを貪り合いながら生きていきましょう? 同化するように……、融け合うように……」
 
 一度罠にかかった獲物を、クロードは絶対に解放したりはしない。
 キスも抱擁も、彼女は最初からクロードなどに許すべきではなかったのだ。
 
 クロードは昂ぶりのままにバイオレッタに手を伸ばす。
 冴え冴えとしたブルーのドレスに身を包む彼女を抱き寄せると、有無を言わさぬ力強さですっぽりと自らの胸に抱き込んだ。
「……ですから姫。どうか、今まで通りに接してくださいませんか。私はこれまで以上に貴女を愛するつもりでいます。私がこの本性を明かしてもいいと思ったのは、姫、貴女だけなのです」
 胸に抱かれたバイオレッタが、そこでわずかに身じろぐ。
「……あんな本性を見せられて、まだあなたを慕えとおっしゃるの?」
「おや。貴女だってそうでしょう。自覚がないというなら教えて差し上げますが、貴女は私の前でだけひどく無防備になっておいでだ。そしてその烈しい物言いやしぐさといったものも、他の男の前ではけして見せたことのないもののはずですよ。そうしてお互いに心の裡を明かし合ったのです、私たちはむしろこれまで以上に愛を深められるのではないでしょうか」
 
 クロードはさも愛おしげにバイオレッタの髪を撫でてやる。
 銀糸のような白銀の髪は綺麗な螺旋を描きながらクロードの指先に絡みついた。
 
 か細い背を抱きしめ、頑是ない子供をあやすように幾度も幾度もその柔らかな肢体をさする。
 ……さあ、早く堕ちてこい。
 この腕の中に戻ってこい。
 このまま、私だけのものになってしまえ――。
 そう念じながら、バイオレッタのおとがいに手をかけてゆっくりと仰向かせる。
 
 ――だが次の瞬間、バイオレッタはクロードの胸を強く押しのけた。
 
「……わたくしは、愛する殿方は自分で決めます」
 クロードは息をのむ。
 愛する姫の瞳に、それまでとは違った強い輝きを見出したからだ。
「あなたに依存して生きてゆくのはとても楽でしょう。すべてをあなたに押し付けて、赤子のようにあなたを頼りながら生きていく。それはとても安穏として幸福な毎日だと思います。なんの心配事もなくて、わたくしはきっとあなたの隣で笑っていればよくて……。そしてあなたはきっとそんなわたくしを人形のように愛してくださるはずだわ。綺麗に飾られたアンティークドールにするように」
 バイオレッタはそこで形のよい眉を寄せた。
 何かを堪えるような顔つきで、言う。
「ですが、そこにわたくしの意思はあるのですか? あなたにすがって生きていくだけの人生に、わたくしの存在理由はあるのですか……?」
「姫……」
「わたくしは、誰かに必要とされなければ存在していられないわたくしなんていらないのです。誰かに自分の人生をすべてゆだねてしまうというのは、自分の存在価値を放棄するのと同じだわ。そしてきっとそこにわたくしの意思はない……。自由や喜びといったものもないでしょう。クロード様にすべて背負われる代わりに、わたくしはわたくし自身の力で未来を切り拓くことを諦めるしかなくなるの。……それを思えば、わたくしはあなたの手は取れません」
 クロードは彼女の顎をすくい上げていた指先を静かに下ろした。
「……それが、貴女の答えなのですね。どうあっても私に愛されるつもりはないと……」
 声を震わせるクロードに向けて、バイオレッタはきわめてきっぱりと言った。
「あなたは以前、自分の愛し方は依存と束縛だとおっしゃいました。そして、本当にわたくしをそうやって拘束しようとしたわ。狭い檻に閉じ込めて、自分の思い通りにわたくしを動かそうとした。わたくしは、そんな殿方を受け入れることはできません。……どうしても」
 呆然としているクロードを置き去りに、バイオレッタは軽やかに走り去っていく。
 クロードはその背中をなすすべもなく見守っていた。
 
 ……あとに残されたのは強烈な渇きだった。
 思わず喉を掻きむしりたくなるような、ざらざらとした嫌な乾きだ。
 この心に水を与えられるのはバイオレッタだけだったのだと、クロードは今更になって思い知らされた。
 
 彼女に水を与えてくれる者はいくらでもいるだろう。
 ピヴォワンヌ、クララといった友人たちに、父王リシャール、異母兄のアスターや姉妹のように親しくしているプリュンヌなど、彼女の飢えや渇きを満たしてくれる人間はいくらでもいる。
 そう、端的な話、彼女はクロードがいなくても生きてゆけるのだ。
 
 だが、対するクロードはどうだろう。
 バイオレッタという存在を渇望し、どうにかしてその心身を引き留めようとし、あまつさえその愛を得るためならいくらでも手を尽くす。
 つまりそれは、彼女なしでは生きてはゆけないということの証明だった。バイオレッタにこの渇きを癒してもらえなければ、クロードの心は死んでしまうのだ。
 
(……ああ、本当に愛という名の水を欲しがっていたのは私の方だったのか)
 
 自嘲し、クロードは二人が積み重ねてきたこれまでを思った。
 バイオレッタの楚々として美しい笑みが脳裏にいくつもいくつも浮かんでは消えてゆく。
 もうあの微笑みが自分に向けられることはない。
 どんなにしがみついてももう堪能することは叶わない。
 ……自分たちはもう、とっくの昔にすれ違ってしまっていたのだから。
 
 その瞬間、あんなに自分を好きだと言ってくれたバイオレッタの表情や声色や笑顔といったものが、全部偽りのものだったように思えてきた。
 自分たち男が女をうまくその気にさせてしまうように、女だっていくらでも男をたぶらかすことができる。
 愛を騙ることも、男の誘いに乗るふりをすることも。
 男にできて女にできないわけがないのだ。何しろ同じ『人間』なのだから――。
 
 クロードはそこで急速に屈折し始めた自らの感情に気づき出したが、自覚した時にはもうすでにバイオレッタを強く憎み始めていた。
 若干の口惜しさがこみ上げてくるものの、もはや乾いた笑いを漏らすことしかできない。
「あんなに自分を好きだと言ったくせに」。そんな女々しい恨み言だけが胸にわだかまってゆく。
 だが、ここで終わらせるつもりはなかった。
 バイオレッタはすでに新しい道を選び始めているが、クロードの激しい飢餓は未だ満たされてはいない。
 クロードだけが、未だこの本能という無限廻廊に取り残されたままだ。
 恋心というくだらない鎖に繋がれたまま、まるで去勢されたけだもののようにあの姫の前に跪いている。
 そこに雄としてのクロードはいない。年若く可憐な王女の機嫌を取ろうと躍起になる、滑稽で哀れな道化がいるだけだ。
 欲望を削がれた雄など、雄ではない。
 生を謳歌する衝動を取り除けられ、最愛の少女に愛されるという望みさえ断たれて。
 そしてこうしてバイオレッタに拒絶された以上、クロードの男としてのプライドはじゅうぶん傷つけられているといえる。
 彼女をひたすらに愛しながらも、彼は未だ何一つとして望むものを与えられてはいないのだから――。
 
「……ふ、ははははははっ……!!」
 クロードは月光の下、高らかな笑い声を上げた。
 空虚で悲愴で、それでいてどこか暗鬱とした笑い声を。
 それは一種の痛哭にも似ていた。
「はは……、これが私と貴女の末路というわけですか、姫……? 散々私に尽くさせておいて、いい気分になったのは結局貴女だけではありませんか……! なんと酷い姫だ、私をこのように惨めな気持ちにさせて……」
 ようやく最愛の王女のすべてをあますことなく味わえると思っていた矢先にこの仕打ちだ。
 許せない。許せるはずがない。
「ならば、私も次の手を打つしかないようですね。さて……今度こそ貴女を逃さないようにしなければ。きちんと檻に入れておかなければ、小鳥というものはすぐに逃げていってしまいますから……」
 
 あの小鳥を、クロードはもう完全に飼い馴らしたつもりでいた。もうとっくに自分の虜になっているに違いないと信じ込んでいた。
 だが、とんだ見当外れだった。
 小夜啼鳥はもう今の主人に見切りをつけたのだ。
 自らを繋いでいた足枷も外れた今、彼女はどこまでも高みへと飛んでゆく。
 クロードのことなど忘れて、新しい空へ飛んでいってしまう。
 また彼女はクロードを置いてゆこうとしている。
 クロードを置き去りに、新しい別の世界へ羽ばたいてゆこうとしている……。
 
(……また私を独りにするつもりですか。そうやってまた私との愛を『なかったこと』にしたいと……?)
 
 この身を巡る、有り余るほどの情欲と憎しみ。どこまでも続く愛と嫉妬の螺旋。
 クロードはすでにそれに囚われてしまっていた。
 手を伸ばしても届かない存在。かつて愛を注いだ半身、かつて生涯を共にした片割れ。
 彼女と同じ時を歩むことはできない。二人の歯車はどれだけ足掻いてももはや噛み合うことはない。
 進んでも進んでもけして終わることのない永遠の廻廊に、いつしかクロードは踏み込んでしまっていたのだ。
 
(貴女はいつもそうだ……。私がどんなに愛しても、いともたやすくこの手をすり抜けていってしまう。どんなに細やかに貴女に尽くしても、どれだけこちらを向いてくれと哀願しても。貴女は最後には私のもとを離れて遠いどこかへ行ってしまう)
 
 そして最後には、その愛の残骸にがむしゃらに縋りつくクロードだけが残される――。
 
 クロードはそこでようやく気付いた。
 愛や色恋が幻なのではない。彼女こそが幻なのだと。
 幻を追いかけようとするから苦痛に喘いでしまうのだと。
 
「だが……諦められない。貴女を手に入れたい……」
 
 そう思うだけでもう四肢がばらばらになりそうだった。
 同時に、必死で繋ぎとめていたものが粉々に砕け散る音を聞く。
 
「……もう許しませんよ、姫。貴女がどんなに泣き叫ぼうが嫌がろうが、力ずくでも貴女を私のものにします」
 
 クロードは口角を上げると、バイオレッタが去っていった方角を睨み据えて不敵な笑みを浮かべた。
 
 
 
 
 

 

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