第十四章 開かれる道

 
 二人はそのまま北にある人工池のほとりまで歩いてみた。
 石段を下り、石柱や彫像に囲まれる巨大な人工池を見渡す。
「こりゃまた随分と広い池だなァ。お、もう秋の花が咲いてやがるぜ」
「そうね。もう秋に入りかけてるから。この分じゃそのうちあそこの秋桜や竜胆も満開になるわね。もううっすら金木犀の花もほころび始めてるし……」
 彩月は池の向こうに視線をやりながらぽつりとつぶやいた。
「あー、今度劉に戻ったら菊の炊き込み飯が食いてェな。ほら、あっただろ、宮城の料理にそーゆーヤツ」
「ああ、秋の薬膳でしょ。菊の花をご飯に混ぜて炊いたやつ。おいしいわよね、あれ。三つ葉の緑と菊の黄色の取り合わせがすっごく綺麗だし」
 ピヴォワンヌが答えると、彩月が楽しそうに口角を上げる。
「お前のやるべきことが全部キレーに片付いたら、一度食いに行こうぜ。来年でも再来年でもよ」
「そうね……、いいかも。考えておくわ」
 二人はたわいない話を続けながら人工池のそばまで歩を進めた。
 すると――。
 
「まあ、ピヴォワンヌ様。おはようございます」
「あっ、ピヴォワンヌお姉様っ!」
 元気のいい声につられてそちらを見ると、そこにはクララとプリュンヌ、アスターの三人がいた。白亜のテーブルに仲良く腰掛け、侍女の供する茶菓をゆったりと味わっている。
 ピヴォワンヌに気づき、プリュンヌがぶんぶん片手を振って出迎えてくれた。
「ピヴォワンヌお姉様! お久しぶりですっ」
「おはよう、プリュンヌ。そっちの二人も相変わらず仲がよさそうね」
 クララは照れてはにかみ、「アスター様にお話を聞いてもらっていたのです」と言った。
「バイオレッタ様のことがあってから、毎日どことなく不安で仕方なくて。そうしたら、アスター様が何か悩みがあるなら聞くとおっしゃってくださって」
 クララは恥ずかしそうに――けれども嬉しそうに微笑んだ。
 やっぱり漢気のある王子だ、とピヴォワンヌは好意的な微笑みを湛えてアスターを見つめた。
 すると、アスターに興味を引かれたらしい彩月が、つかつかと彼のかたわらに立つ。
「うわ、こりゃまたえらく背の高ェ兄ちゃんだな」
「……な、なんだ? この男は」
 もともと内向的なところのあるアスターは鼻白み、瞬く間に警戒の態勢に入った。
 そんな彼に向けてクララが丁寧な解説を始める。
「劉の公主様の護衛をなさっておられる殿方で、喬彩月様とおっしゃる方です。劉の宮廷では公主様の護衛役に加えて宮廷魔導士もなさっておられるとか」
 彩月はポンとアスターの肩に手を置いた。
「よろしくなー! はは、ガタイがいいわりにはおとなしいんだな、あんた」
「悪いか」
「いや? ちっとも悪かねェけど。あんたくらいの体格なら剣を持たせても様になりそうだなーって思っちまっただけだよ。ほら、ここの筋肉とか何気にすげェし」
 シャツに包まれた二の腕のあたりをふにふにと触られ、アスターが血相を変える。
「なっ……、なんなんだお前は!? 勝手に人の身体に触らないでくれ!」
「おおっと、こりゃ失敬。あんた、名前なんていうんだ? 確か謁見式じゃ見かけなかったよなァ?」
 アスターは咳払いをすると、すっと顔を上げた。
「……アスター・ミハイル・フォン・スフェーン。この国の第一王子だ。もっとも、王位継承権をはく奪されて久しいが」
「ふうん。劉じゃ女が玉座を継承するのが慣例だから、俺様としては別になんとも思わねえけど……なんとなくもったいねェ感じはするな。あんた結構イイ男だし」
「なっ……!? ど、どういう意味だ!! おかしな言い回しをするのはやめろ!!」
「いや? 別に大した意味はねえんだ。ただ、いい面構えしてるなーと思ってよ」
 にやにや笑いの彩月に、ピヴォワンヌもクララも呆気にとられてしまう。
「あんたみたいな男が王なら、周りの女どもは放っておかねえだろうな。雰囲気がお堅いところがまたそそるよなァ。難攻不落の高嶺の花って感じが強くて」
「き、貴殿はさっきから何を言っているんだ!? 気色が悪いことを言うな!!」
 クララがおたおたと仲裁に入る。
「さ、彩月様! アスター様はその、冗談があまりお好きではないのです。申し訳ありませんがその辺りで――」
「ん? そうなの? はは、若いねェ。俺様の言葉なんざにむきになっちゃってよぉ」
 けたけたと笑い、彩月は今度はプリュンヌに歩み寄る。
「お、こっちはまた随分とちっこい姫さんだなー」
 プリュンヌはいそいそと立ち上がった。小動物さながらの人懐っこさで彼に向き合い、そのままにっこりと笑う。
「プリュンヌ・フルニエ・フォン・スフェーンといいます。よろしくお願いします、彩月さん」
 プリュンヌはコーラルピンクのドレスをつまみ、ちょこんとお辞儀をしてみせた。
 彩月は相好を崩し、プリュンヌの波打つ紅い髪をよしよしと撫でる。
「なんだなんだァ、この小動物感は? くうう……、俺様いけねえ気分になっちまうじゃねえか」
「う? いけない気分?」
「いやいやいや、こっちの話。仲良くしてくれよ、プリュンヌちゃん」
「はいっ!」
 そこでふとアスターがごほん!と咳払いをした。
「……それで? 劉の宮廷魔導士がこんなところに何の用だ」
「んー、まあ、気晴らしに散歩ってところかねェ。この薔薇後宮とやらにはまだ慣れねえし、どうせならあちこち見てまわろうと思ってな」
 クララがにこやかに微笑みかける。
「公主様たちはお元気ですか?」
「おう、元気元気。いやー、あれでなかなかお転婆だから参るんだよなァ。やっぱりお子様のお守りは疲れるわー。俺様ももう三十路間近よ? 身体がもたねえのなんのって」
 そう言いながらも、彩月は疲弊した様子など微塵も見せない。緩慢な所作で首の後ろに手をあてがい、へらへらと笑う。
 そんな中、クララが努めて穏やかに提案した。
「お二人とも、よろしければこちらでご一緒しませんか? せっかくお会いできましたし、一緒に茶菓などいただければ嬉しいですわ」
 ピヴォワンヌはクララの言葉にぱあっと笑顔になった。
「え、いいの? じゃあ、ちょっとだけやすんでいきましょうか、彩月」
「おう、賛成賛成。このお三方と話もしてみてェし」
 彩月とピヴォワンヌは三人に勧められて椅子に腰を落ち着けた。
 テーブルの端に並んで腰かければ、クララの侍女たちが熱い紅茶をなみなみとサーブしてくれる。
 ふわふわと漂ってくる湯気をぼんやり見つめていたピヴォワンヌは、今更ながらあることに気づいて首を傾げた。
「……あれ? そういえば、どうして忌み子の二人が出てきてるの?」
 不思議に思って訊ねてみる。
 すると、クララが二人は今一時的に軟禁状態を解かれているのだと教えてくれた。
「なんでも、国王陛下のご命令なのだとか」
「なるほどね……」
 これは十中八九昨日の出来事がきっかけだろうとピヴォワンヌは思った。
 リシャール自身、スピネルに懇々と教え諭されて何か思うところがあったのかもしれない。
 だが、こうして庭に出てきている二人の顔つきは今までに比べるとずっと自然で明るい感じがした。いや、むしろこれがこの二人のあるべき姿なのだろう。
(そうよね。忌み子たちが迫害される存在であるとはいえ、これが正しい形なのよね。やっぱり今までが間違っていたんだわ……)
 当然のことながら、二人と縁の深いクララはいつも以上に嬉しそうだ。
 そして三人の間には相変わらずほのぼのとした温かい空気が流れていて、ピヴォワンヌは思わず和んでしまった。
「……そういえば、春先にもこうしてみんなでお茶会をいたしましたわね。あの時は本当に楽しかったですわ。バイオレッタ様がお戻りになったらぜひまたできるといいのですけれど」
 クララは独り言のようにごく小さくそう言って、ほんの少しだけ寂しそうに微笑む。
 そこでピヴォワンヌはバイオレッタを探しに行く役目を自分が引き受けたことを告げた。
「え……!? そんな……、ピヴォワンヌ様が……? よく国王陛下が――リシャール様がお許しになりましたわね」
 二人の不仲をよく知るクララの言葉に、ピヴォワンヌは苦笑した。
「そう、ね……。あたし、最初はあいつのことを恨んでばかりいたわ。なんて非道な王様だって。こんなやつに人の痛みなんかわかるはずないって。……だけど、違うのね。あいつは誰よりも弱くて脆いからこそあんな態度を取るしかないんだわ。それを思えば、あたしはとてもあいつを嫌えない。だって、あの弱さは確かにあたしの中にもあるものだから……」
 ……同じ状況に置かれたら、自分なら一体どうするだろう。思うように年も取れず、周囲から腫れ物に触るような扱いしか受けられないとなったら。
 仮にそうなってしまったとしたら、やはりああやって「玩具を寄せ集めた城」を作って生きていくしかないのではないだろうか。
 そういった儚く美しく従順なものだけを心の拠り所にして、めいっぱい虚勢を張りながら生きてゆくしかないのではないか。
(だけど、あたしの中にもその芽は眠っているのかもしれない……。いいえ、誰しもそうした弱い部分を持っているはずよ。そしてそれが心に芽吹いたとき、人はきっとリシャールのように驕慢に生きるしかなくなる……)
 ……丁寧に守り育てられたうえで、突如として捥ぎ取られた未来への翼。容赦なくぶつけられる数々の蔑称と、それに伴う心ない中傷の言葉たち。
 唯一の理解者エリザベスを失った苦しみと、またしても降りかかろうとしている愛娘バイオレッタへの災厄。
 恐らくリシャールはもうぎりぎりのところまで追い詰められているのだ。
 それを思えば、助力を申し出ないという道はピヴォワンヌには考えられなかった。
「もちろん、あたしがあの子を探しに行きたいからっていうのが一番の理由よ。けど、あいつ自身がこの城を離れられないのがなんだか可哀想な気がして……。だからこれは、バイオレッタのためでもあるしリシャールのためでもあるの。いいえ、二人のため、かしらね……」
「……お強いのですね、ピヴォワンヌ様は」
 ピヴォワンヌはそこでふるふると首を振る。
「強くないわよ。あたしはそんなに強い人間じゃないの。いつも誰かにすがりたいって思ってるし、たとえ平然としてるように見えても心の中では助けてほしいって叫んでる時だってたくさんあるわ。だから、あたしは別に強くなんかないのよ」
 きっぱりと言い切ると、ピヴォワンヌはそこでようやく強張っていた表情を緩める。
「それに……今回リシャールとちゃんと話すことができたのは、半分はプリュンヌのおかげなの。あたしに勇気をくれたのは、プリュンヌ、あんたなのよ」
「ふえ……?」
 ピヴォワンヌは手を伸ばしてきょとんとするプリュンヌの髪を撫でてやり、小さな声で「ありがとね」と言った。
 そのやり取りを聞いていたアスターが、落ち着いた声音でピヴォワンヌをいたわる。
「……事情はわかったが、くれぐれも無理はするな。今の僕になら少しは手伝えることもあるだろう。困ったことがあれば気兼ねなく言ってくれ」
「ありがと、アスター。……そうよね、あんただってれっきとしたバイオレッタの兄さんなんだもんね」
 アスターは虚を突かれたような顔をしたが、すぐに穏やかな笑みで応えてみせた。
 それはぎこちなくも誠実さの伝わる微笑だった。
 次に言葉を発したのは彩月だ。
 彼はいつものようにやや斜に構えた態度でピヴォワンヌを励ました。
「その心意気は評価するけど、まあ、あんまし考え込みすぎねェ方がいいぜ。なんかあったら力になってやるから言えよ、香緋ちゃん」
 言い終わるや否や、隣からたくましい腕が伸びてくる。
 身構えていると、あやすような手つきで何度か髪を撫でられた。
「……あ、あり、がと……」
 ピヴォワンヌは紅くなりながらもなんとか彩月にお礼を言った。
(やだ、なんでこんな恥ずかしいの……?)
 どういうわけか、こうして口にするのが精いっぱいだった。ただ「ありがとう」と言葉にするだけで、身体じゅうがぎゅっとすくみ上るような気がする。
 何も悪いことなどしていないはずなのに、妙に落ち着かなくてそわそわした。  
(駄目駄目、こいつは男っていうよりは仕事仲間……、同僚……! 別にそこまで意識するようなことじゃ――)
 目に見えてあたふたしだしたピヴォワンヌの姿に、テーブルがしん……、と静まり返る。
 アスターとクララは顔を見合わせてどこか気まずそうにしているし、プリュンヌは不思議そうに首を傾げている。
 ……まずい。この空気、完全に誤解されている。
 ピヴォワンヌは立ち上がると勢いよく主張した。
「ち、違うから!! そういうんじゃ、ないから……っ!!」
 彩月の方をちらりとうかがい見ると、彼は頬杖をついてこちらの様子をまじまじと観察している。
 上目遣いにピヴォワンヌを見、彩月は悪戯っぽく口角を上げた。
「あららー、さっきはやけに可愛い声で『ありがと』って言ってたくせに、こりゃまた随分と元気のねえありがとうだなァ。俺様相手じゃ素直になんかなれねえってかァ?」
「なっ……!」
 ピヴォワンヌはこぶしを握りしめながらわなわなと震える。
 苛立ちと羞恥のあまり、ティーカップの中身をそのまま彩月の緩みきった顔にぶちまけてやりたくなった。
「う、うるさいわね!! 黙ってお茶でも飲んでなさいよ、馬鹿ッ!!」
 
 
 一行はそうやってしばし朝のティータイムを愉しんだ。
 茶菓の補充のために侍女たちが下がり、ピヴォワンヌたちの会話する声もやや途切れかけた頃。
 後方から楽しそうに声をかけてくる者がある。
「ああら。こんなところで仲良くティータイムだなんていいわねえ。あたしも混ぜてほしいわ」
 ピヴォワンヌはその声に振り向く。
 ……漆黒のバテンレースを用いた上品な日傘に、同じ色の小ぶりのハット。ドレスのスカート部分からすんなりと伸びた形のよい両脚。
 尖った耳に、唇の隙間からこぼれる鋭い牙。頬に刻まれているのは真紅の『薔薇の刻印』だ。
 少女の姿を認めたピヴォワンヌは思わず声を上げた。
「あんたは……宗教騎士のスピネル?」
「はあーい! 『国守くにもりの姫』ことスピネル・アントラクスでーすっ。今日はこの薔薇後宮に視察にやってきましたー! うふふっ」
「って、あんた、なんなのよその格好……」
 ピヴォワンヌはスピネルの全身をしげしげと眺めまわす。
 今日のスピネルは丈の短いドレスに身を包んでいた。色は派手なルビーレッドで、いたるところに漆黒のフリルやレースが巡らされている。
 彼女が身じろぐたびに、袖口のアンガジャントが楽しげにひらひらゆらめく。
 ドレスのデザインといい丈の長さといい、騎士というよりはまるで舞台役者のようで、強烈な違和感がある。だが、愛らしい顔なだけに似合ってはいた。
「どうどう? 似合うー? これねえ、王様にもらったの。スカートの丈をうんと短くしてって言ったら、王様真っ赤になっちゃって。うふふ、まるでこのドレスの色みたいにねー」
 愛くるしい顔でなんとも残酷なことを言う。
 ピヴォワンヌは答えあぐねて「あはは……」と力ない愛想笑いをした。
 漆黒の日傘を閉じてこちらへ近づいてくるスピネルの姿に、彩月が興味津々といった体で身を乗り出す。
「お、あんた確か、今ヴァーテル教会から来てるっていう宗教騎士サマだよな? うわ、意外と若ェな」
「やだもう、『意外と』って何よー。っていうか、あたしこれでもあなたより年上なんだからね?」
「は……? あんた何言ってんの? どっからどう見てもプリュンヌちゃんと同じくらいの年にしか見えねえんだけど」
 スピネルがきゃっきゃとはしゃぎながら身体をくねらせる。
「いやん、もお。そんなこと言われると照れちゃうわ。これでも実年齢は百五十歳なのよー」
「ぐっ……!?」
 彩月はのけぞった。「嘘だろ……」などとつぶやきながらスピネルを凝視する。
「うふふ。ガチムチのイイ男にはぜひとも『お姉様』って呼ばせたいところなんだけどねえ。変化へんげを解くのは結構魔力を使うのよねー。あたしの本来の姿を見せられなくて残念だわ」
「はあ!? 本来の!? 婆さんの姿ってことか!?」
「違うわよ、失礼ねー。バンパイアはそもそも百五十年生きたくらいじゃ婆さんの姿になったりなんかしないんだからっ。変化を解いたってせいぜい二十歳そこそこの美女の姿になるくらいよ」
「そうかよ、それ聞いて安心したけど……。それにしてもあんたバンパイアだったのかよ……。いやぁ、魔物ってのはつくづくおっかねえ生き物だな……」
 スピネルは黒絹のような長い髪をかきやって艶然と笑った。
「ふふ。それを言うなら女なんてみんな魔物だけどねー」
 スピネルはそのまま興味深げに一行の様子を観察していたが、やがてテーブルの隅でもそもそとケーキをつつくプリュンヌに気づいて笑みを深くした。
「貴女、プリュンヌ姫……だっけ?」
「う? はい」
「今日は外に出ているのね。いいことだわ」
「お父様が特別に出してくれたのです。アスターお兄様も一緒ですよ!」
 スピネルは「おや」という表情になった。
 次いで、テーブルの隅に陣取るアスターに近寄る。そして顔を寄せてしげしげと彼の姿を眺めまわした。
「ふうん……、あなたが例の第一王子……?」
「な、なんだ。人の顔をじろじろ見て……」
 身を放したスピネルは瞳を細めてニッと笑った。
「二人とも意外と擦れてないのねえ。軟禁なんてされてたら普通性格もどこかしら歪んでしまうものだけど……あなたたちの目には卑屈さがないわ。いい生き方をしているのね」
 もちろんそれはクララという存在があったからこそだろう。
 彼女はこれまで、二人と外界とを繋ぐリンクのような役割を果たしてきた。温かなやり取りを交わし合ったり塔の外の世界を見せたりといった積極的な行動によって、彼らの心にことごとく寄り添ってきたのだ。
 二人が必要以上にひねくれずに済んだのはひとえにこのクララという王女のおかげなのだった。
「貴女は宗教騎士……なのか?」
 アスターの問いかけに、スピネルはにっこりした。
「ええ。そうよ。教皇ベンジャミン様にお仕えする宗教騎士よ。こんな姿をしててもちゃーんと教会に所属する騎士様なの。ま、元は教会に反抗する一介の野良バンパイアでしかなかったんだけどねー」
「う……? スピネルさん、バンパイアなのですか……? あの、本やおとぎ話に出てくる……?」
 首を傾げて問うプリュンヌに、スピネルはたまらないといった顔つきになる。
「いやん、なんなのこの子ー。食べちゃいたいくらい可愛いっ。そうよぉ、お姉さんはバンパイア。貴女みたいなちっちゃくて可愛い子の血が大好物なのー」
 魔物らしくおどけて両手をわきわきと動かすスピネルに、プリュンヌが「ひゃああっ」とはしゃいだ。
 ピヴォワンヌは三人のやり取りにくすりと笑みをこぼす。
 全く、何をやっているのだか……。
 
 ……と、彼女はスピネルの足元にあるものを見つけて首を傾げる。
「ねえ、スピネル。その猫、何……?」
 ピヴォワンヌはスピネルが鎖で繋いでいる一匹の黒猫を指す。
「あー、これ? ラズの飼い猫ー。今日はあたしが散歩させてあげてるんだけどね。言うこと聞かなくて参っちゃうわ。すぐ逃げ出そうとするしぃ」
「いや、別に猫は散歩させなくてもいいでしょ……。何考えてんの、あんたは……」
 スピネルはニヤリとし、「だって放し飼いにする方が失礼だものぉ」とのたまう。
 と、そこでプリュンヌがわあっと声を上げた。
「可愛いですっ! 猫さ~ん」
 コーラルピンクのドレスをたくし上げながら、彼女は猫に近づいた。
 黒猫の方もまんざらでもない様子でプリュンヌの手の甲に頭を擦りつけたりしている。
「えへへ。ふかふかですねぇ。今度はご飯を持ってきてあげますね」
「わ、わたくしも触ってもよいでしょうか?」
 おずおずとクララが問うと、スピネルは鷹揚にうなずいた。
「どうぞどうぞぉ」
 クララは白手袋に覆われた手のひらをそっと猫の背にあてがった。
 そのままゆっくりと往復させる。
 ややあってから、その唇からほうっとため息が漏れた。
「……猫に触るのなんて初めてですわ。なんて柔らかいの」
「ふふ、まるで動くぬいぐるみみたいでしょ?」
「まあ、それは言い得て妙ですわ。確かに黒猫のぬいぐるみが動いているみたいですわね」
「えへへ。ふかふかですねえ、お姉様」
「はい……、とってもふかふかですわ。はぁ……、猫……。なんて可愛い生き物なのでしょう……」
 クララとプリュンヌは仲良く並んで黒猫の背を撫でまわしている。
 そうして身を寄せ合う様子はまるで本物の姉妹同士のようだった。
 思う存分黒猫の毛並みを堪能した二人は、スピネルにお礼を言って満足げにそれぞれの席へ戻ってゆく。
 その様子をぼんやりと見守っていると、そこでふいにスピネルが言った。
「ねえねえ、貴女も触ってみるぅ?」
「えっ……」
 ピヴォワンヌは一瞬だけうろたえる。別段猫が怖いわけではない。ただ、これはどう考えても普通の猫ではなさそうだ。
(いわゆる魔物……なのよね、この見た目は……)
 クララやプリュンヌはまんまと騙されてしまったようだが、これはどこからどう見ても猫ではない。
 額と胸には紅い宝玉が瞬いているし、尻尾にも同じ石でできた紅い輪が巻き付いている。
 どう考えても単なる無害な飼い猫などではないだろう。
 が、ピヴォワンヌは少し考え込んだのち、ゆっくりと席を立った。
 そろそろと黒猫の背に手を伸ばす。
 手のひら全体で撫でるように背をさすってやると、猫はおどおどしつつもおとなしく触らせてくれた。
 上等な毛皮のような触り心地に、思わずうっとりする。
「うわぁ、ふさふさ……!」
「可愛いでしょー。この子は教会で保護してる夢魔猫ナイトメア・キャットでね」
「夢魔猫……?」
「そ。ざっくり言うと、人の悪夢を食べて生きる猫型の魔物ってところかしら。今は教会に使役されているし、どうせもう悪さはできないんだけどね」
 要するに劉でいうところのばくのようなものだろうかとピヴォワンヌは思った。
「あんた、あの二人に嘘教えたわね。全くもう」
「いやん、いいじゃないのぉちょっとくらい。嘘もつき通せば誠になーる、ってね!」
 おどけて言うスピネルに、ピヴォワンヌはやれやれと肩をすくめた。
(この調子じゃ、あたしが何言っても聞かないわね……)
 この少女騎士は人を煙に巻くのがとにかくうまい。さすがに長生きしているだけあって老獪なのだ。
 が、肝心の黒猫の方はつぶらな瞳でなんとも愛らしかった。毛量が多いのか、脚はボリュームがあってぽってりとしている。
 が、歩く姿はなんともしなやかな印象だった。爪先立ってしずしずと優雅に歩いている。
「今はラズがこの子のお世話をしてるの。おかげであたしにはあんまり懐いてくれないのよねー」
「ラズワルドが?」
「ええ。あの子は実家で猫を飼うのを禁止されていたそうでね。本当は大好きみたいだけど、親御さんが厳格な人で飼わせてくれなかったんですってー。だから今はすっごくいきいきお世話してるわよぉ」
 なんでも、「この猫といるときだけは、騎士団に入ってよかったなと思える」などと断言しているらしい。
「怒っちゃうわよねぇ」
「あはは、あんたの相棒って随分天然ボケなのね。なんていうか、お坊ちゃま感が強い感じだわ」
 スピネルは「わかる? そうでしょうそうでしょう」などと言いながら、猫を腕に抱きかかえた。
「それはそうとピヴォワンヌ姫。貴女に一つだけいいことを教えてあげる。魔術の痕跡ってね、同じ魔導士が調べれば簡単にわかっちゃうのよ」
「魔術の痕跡?」
「そう。この世界に六つの魔術属性があるのは知っていると思うけど、どの魔術もかなりはっきりした特徴のようなものを持っていてね。魔導士たちにはそれぞれの属性を識別する能力が備わっているの。神々のしもべと契約した時点で、どういった魔術が使われているかとか、属性がいくつ混ざり合っているかとかまで判断できるようになっているからね~」
 ピヴォワンヌは意味深な言葉に首を傾げる。
「……いきなりなんの話? もしかして、今のこの状況と何か関係があるわけ?」
「ふふん。さあねえ……、どうかしら。ただ、一つ教えておいてあげる。魔導士が起こした事件を解決するには、同じ魔導士を使った方が手っ取り早いわよ。同じ種類の生き物と呼んで差し支えないんだから」
 どういう意味だろう、と考えて、ピヴォワンヌはそこではっとした。思わず眼前にたたずむスピネルを見やる。
 ……スピネルはたった今「魔導士」という言葉を使った。
 ということはつまり、バイオレッタの失踪には魔術が絡んでいるかもしれないということだ。
 たった今このバンパイアは決定的な手がかりをピヴォワンヌに与えたのだ。
 スピネルはピヴォワンヌの胸をドレスの上からとん、と人差し指でつついた。
「貴女があたしの言葉をどう捉えるか。それは貴女次第よ。このヒントは生かすも殺すも貴女の自由ってわけ」
「……どういうつもりなのよ? なんであたしなんかにそんな大事なことを教えてくれるの?」
「あら、あの王様に教えてあげた方がよかった? そんなことをしたらかえって波乱が起きるんじゃないかと思うけど?」
「……」
 ピヴォワンヌはスピネルの言葉の端々から懸命に真意を探る。
 ……まるで事の真相をリシャール本人に知られては困るとでも言いたげな口調だ。
 ならば、それはつまり――。
(裏切っているのがあの男クロードだから、ってことよね……?)
 ピヴォワンヌはごくりとつばを飲み込んだ。
 宮廷魔導士と連れ立って出かけた第三王女。その逢瀬の帰り道に途絶えた王女かのじょの消息。
 それでもなお宮廷に出仕を続ける宮廷魔導士の、どこか不自然とも思える態度。依然として手がかりの掴めない第三王女の行方。
 ……そして、長きにわたって門外不出となっていたあの不吉な予言。『闇』という言葉と、それに覆い隠されるとされるこの国の次期女王……。
 頭の中で「何か」が繋がり始める。
 散らばっていた無数の断片が、一つ一つ音を立てて嵌まってゆくような、この小気味よい感覚。
 胸に秘めていた疑念が確信に変わる時の、はっきりした手ごたえとわずかな興奮。
 不思議な高揚に呑まれながら、ピヴォワンヌはスピネルの瞳を見つめ返す。
 視線を受け止めたスピネルは、鋭い牙をのぞかせて満足げな笑みを浮かべた。
「……ふふ。いい目をしてるわね。さすがに姉姫の捜索を買って出るだけあるわ」
「だって、あたしにはあの子が大事なんだもの。王城ここに来てから、あたしはあの子に一体何度救われたかしれないわ。それを思えば、とても見捨てることなんかできない」
「それよ。それこそがきっと、貴女が貴女である所以なのよね。こうして向き合っていると、貴女の闘志や情熱といったものをひしひしと感じるわ。まるで貴女にとって戦うこととは本能そのものであるかのよう……。素晴らしいわ、とても」
 そう言ってうっとりと息をつく。
 柘榴のような赤い瞳が悪戯っぽくピヴォワンヌを観察していた。魔性の妖しさを纏う二つの大きなルビーは爛々と輝いてピヴォワンヌを見つめている。
 負けじと強く視線を注げば、スピネルはそれを受け止めながらくすくすと笑い声をこぼした。
「ねえ、スピネル。その猫だけど……」
 猫はピヴォワンヌの視線を受けて、びくりと背を震わせる。
「あー、キースのこと?」
「ええ。あんた、その猫は夢魔猫だって言ったわよね? 夢を食べて生きる魔物の一種だって」
「ええ、言ったわ。そう、キースは夢魔猫よ。微弱ながら魔力も有しているわ」
 スピネルは「まっ、小物なんだけどね!」と笑い飛ばす。
 ピヴォワンヌは彼女に向けて頼んでみた。
「その子をしばらく貸してくれない? 魔物なら魔力を追うことだってできるわよね?」
 二人の紅い瞳が一瞬だけ強く交差した。
 だが、それもほんの一瞬のことで、スピネルは次の瞬間からりと笑う。
「そうね。いいわよ、貸してあげる。そんなに大したことはできないかもしれないけど、魔力の探索くらいは朝飯前でしょう。どうぞ好きなようにこき使ってやってー」
 刹那、キースがじたばたと暴れて抵抗した。
『みゃあああ!! スピネルずるいっ!! 僕だって自由時間欲しいのにぃぃ!!』
「えっ……ね、猫が喋った……!?」
 スピネルがきゃははっと楽しげな笑い声を上げた。
「言ったでしょ、夢魔猫だって。この手の生き物は人語も解するのよ。何せ四六時中人間にくっついて生活してるんだもの」
 確かに、夢魔猫というのは人の悪夢を食べて生きる魔物だとスピネルは言った。
 そうして人間に近づきすぎた分人語がわかるようになっていたとしても不思議はないが……。
 スピネルはキースに繋いでいた鎖をゆっくりと外す。
 そして未だ呆然としているピヴォワンヌにキースを抱かせた。
「はい。抱っこしてあげて」
「こ、こう……?」
「そうそう。あんまりぎゅってしないでね。魔物とはいえ一応猫だからね」
 美少女二人に挟まれながらも、キースは不満そうに泣き声を上げる。
『うえーん、猫質ねこじちにとられたぁ~~!!』
「いいじゃない、可愛い紅髪美少女とお散歩デート! 愉しんできてねぇ、キースちゃん」
 彼女はにんまり笑い、「じゃああたしはサロンでお茶でもいただいてこようっと」などと言って軽やかに去っていく。
「……」
 ピヴォワンヌはキースを抱いたまま眉宇をひそめる。
(……魔導士が起こした事件を解決するには、同じ魔導士を使った方が手っ取り早い。なるほどね……)
 これまで燻っていたクロードへの疑念とスピネルの言葉が、ピヴォワンヌの中で静かに結び付く。
 そして、スピネルもまたクロードを疑う人物の一人だと知り、おかしな仲間意識のようなものが芽生え始める。
 彼女の真意や目的といったものは不明だが、それでもピヴォワンヌに協力してくれていることは確かなのだ。
 そこで彼女は芍薬色の髪を払い、颯爽と顔を上げた。
 
 

 

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