「……なるほどね。そのバイオレッタ姫とやらを助けに行くために、彩月の力を借りたいと」
公主たちの部屋で話を切り出すと、玉蘭は真剣な面持ちでピヴォワンヌの言葉を反芻した。
「ええ。彩月の能力があれば、どんな敵相手でも切り抜けられるわ。だからお願い。こいつをあたしに貸して。バイオレッタを無事救い出すために」
玉蘭はしばらくの間黙り込んでいたが、やがてぽつりと言った。
「……せっかくまた会えたと思ったのに、貴女はまだどこか別のところに行っちゃうのね。わらわの知らない、どこか遠い所へ」
翠玉の瞳にうっすらと涙の膜が張る。
それは綺麗すぎるほど綺麗な涙だった。
あの気の強い玉蘭がまさかこんな風に泣いてくれるなんてと、ピヴォワンヌはたまらなくなる。
そして、親友にここまで大事に想われていることに感謝した。
眦にじわりと滲んだ涙を、玉蘭は襦裙の袖口で強くぬぐった。
「必ず無事で戻ってきて、香緋。そうじゃなきゃ許さない」
ピヴォワンヌはただしっかりとうなずき、玉蘭の瞳を見つめ返した。
「当たり前でしょ。ちゃんと帰ってくるから」
玉蘭はそこでほっそりとした腰のあたりに手を伸ばした。
帯の上から巻き付けていた赤い組み紐をするするとほどき、それをそっくりそのままピヴォワンヌの手に押し付ける。
「……これを持っていって」
ピヴォワンヌは目を見張った。
「玉蘭、これ……」
……それは玉蘭がいつも身につけている玉佩だった。つるりとした翡翠でできており、表面には劉の守り神である竜神の文様が彫り込まれている。
これは玉蘭が劉の次期王位継承者であるという証だ。万が一これをなくしてしまえば、玉蘭はその時点で次期女王となる資格を失ってしまう。
この装身具は彼女にとってそれほどまでに重要なものだった。
とっさの行動に言葉をなくすピヴォワンヌに向かって、玉蘭はたじろぐ素振りも見せずに言い放つ。
「そう。わらわの玉佩よ。これを貴女に預けるわ、香緋」
そう言って、玉蘭は翡翠の玉佩を組み紐ごとピヴォワンヌの掌にしっかりと握らせた。
狼狽のあまりピヴォワンヌは叫ぶ。
「駄目よ、こんなもの持っていけないわ!」
「いいの。持っていって」
「何言ってるのよ!? だって、もしあたしがこれをなくしちゃったらあんたは……!」
「いいのよ。だって、わらわがこれを貸せば、貴女はわらわのところに戻ってこざるを得なくなるわ。この玉佩を返すために、必ずまたわらわのところに帰ってくる。そうでしょ、香緋?」
ピヴォワンヌの手を玉佩ごと握りしめ、彼女は含めるように言った。
「わらわの言葉の意味、わかるでしょ。その姉姫とやらを救い出したら、必ず無事でここに戻ってきて。この玉佩はその時返してちょうだい……、他の誰でもない貴女自身の手で」
ピヴォワンヌは絶句した。
玉蘭はピヴォワンヌがまたここに戻ってくることを切望している。無事に自分のところへ帰ってくることを願っている。
(玉蘭)
ピヴォワンヌの胸にとてつもない罪悪感が沸き起こる。
こんなに健気な公主を置き去りに、自分はこの国までやってきてしまったのだ。
自他共に認める親友同士でありながら、自分は玉蘭に一言の断りもなしにあの国を出てきてしまった。
彼女が悲しむかもしれないということや、必死で自分を探し回るかもしれないということ。
剣術指南役として彼女の期待を裏切ってしまうということ。これまで築き上げてきた彼女との信頼関係。
……彼女とのすべてを放棄して。
実際、その事実を、ピヴォワンヌはこれまでずっと考えないようにしてきた。
ピヴォワンヌ自身も半ば奔流に呑まれるようにしてここまで来てしまったこともあり、とても玉蘭の気持ちまで慮る余裕がなかったのだ。
だが、玉蘭の方は違う。
彼女はあれからずっとピヴォワンヌを探し続けていたし、どうにかしてもう一度会いたいと思ったからこそこの国までやってきた。
きっとその心の中では絶えず不安や憤りが渦巻いていたに違いない。
何せ大事な親友が生きているのか死んでいるのかすらわからない状況になってしまったのだ、彼女の心中はけして穏やかなものではなかっただろう。
しかし、それでも彼女は諦めなかった。こうしてスフェーンにやってきたのも、ピヴォワンヌとの繋がりを何よりも大事にしてくれていたからだろう。
彼女の気持ちは本物だ。
玉蘭の一挙一動からは、ピヴォワンヌ自身を本当に親身に思ってくれているのがよく伝わってくる。
いや、もしかするとその思いはピヴォワンヌのそれをとっくに凌駕してしまっているのかもしれなかった。
改めて自分の弱さを自覚すると同時に、玉蘭の真摯な思いに胸を打たれる。
ピヴォワンヌは急速に熱を持ち始める心を持て余してしまい、もはやただ玉蘭の瞳を見つめることしかできなかった。
伝えたいのは「ごめん」と「ありがとう」だったが、これを今言葉にしてしまうのはためらわれた。
ただでさえ心配をかけてしまっているのに謝罪などできるはずもないし、安易に「ありがとう」などと言えば安くなってしまう。
今できることは、この玉佩を受け取ること、そして無事に戻ってきてこれを玉蘭の手にきちんと返すことだけだ。
ピヴォワンヌは玉蘭の繊手を両手で包み込む。
「……ありがと。あんたの気持ちは確かに受け取ったわ。バイオレッタを救い出したら、絶対またここに戻ってくる。だから、待っていて。絶対ちゃんとあんたのところに帰ってくるから」
「絶対無事で帰ってきてね、香緋……!」
間髪入れずに痛いくらいの抱擁をされ、ピヴォワンヌはそれでも必死にその身体を抱き返した。
やがて、宝蘭が自らもピヴォワンヌの方へ手を伸ばしながらゆったりと言う。
「玉蘭のためにも、必ずここに戻ってきてちょうだい。待っているわ」
「わかったわ」
公主二人と代わる代わる抱擁を交わし、ピヴォワンヌは静かに二人の部屋を後にした。
***
出立の日、ピヴォワンヌはダフネの手を借りて細部まで隙なく身支度を整えた。
どんな場所でも動きやすいよう、簡素な劉の衣服を選んで身につけ、腰にはダフネに出してもらった愛刀を佩く。
ほっそりとした腰には玉蘭から預かった玉佩を巻き付け、ほどけてこないようにきつく結んだ。
芍薬色の長い髪はダフネが一つにまとめてくれた。
彼女は普段よりもずっと丁寧に髪を梳き、入念すぎるほど入念に毛先まで櫛を通した後、頭の高いところでしっかりと一つに結わえた。
そして結び目にはいつもと同じようにバイオレッタ手製のなめらかなリボンを巻いてくれる。
ピヴォワンヌはその生地に指先を滑らせ、一瞬だけきつく瞳を閉ざした。
(……待ってて、バイオレッタ。あんたのこと、絶対ちゃんと助けに行くから)
身支度がすっかり整ったところで、ダフネがいつもと何ら変わらぬ笑みで淑やかに送り出してくれる。
「ピヴォワンヌ様。どうかお気をつけて」
「ええ。役目を果たしたらまたここに戻ってくるわ。だから、それまで元気でいてね、ダフネ」
「はい。侍女たちとともに無事のお帰りを心待ちにしております。いってらっしゃいませ」
玄関ホールに整列したダフネと侍女たちは一斉に頭を垂れる。
そしてその姿勢のまま紅玉棟を出てゆくピヴォワンヌの姿を見送ってくれた。
居住棟を出、クララと彩月が待つ後宮の中庭へ向かう。
ピヴォワンヌはそっと息をつくと、腰に佩いた愛刀の柄に手を添える。
「……いよいよだわ」
あとはクララに別れの挨拶をし、彩月とともに王都北区にあるというクロードの邸宅へ向かうだけだ。
父王には昨日すでに許しをもらってきた。
昨夜、ピヴォワンヌは彼のもとへ報告と出立の申し出をしに行ったのだ。
≪星の間≫で待っていたリシャールに人払いを頼み、ピヴォワンヌは事件の黒幕はクロードかもしれないと打ち明けた。
だが、案の定リシャールは頑として信じなかった。
『何を言っておるのだ!? あやつが……クロードが犯人かもしれないだと!?』
いきり立つ父王に、ピヴォワンヌは人差し指を唇にあてがって「しっ」、というしぐさをしてみせた。
『生憎まだ確定したわけじゃないわ。単なるあたしの憶測でしかないんだから、まだ大ごとにするわけにはいかない。けど、だからこそ余計にあいつの邸へ乗り込む必要があるのよ』
『何を……何を言っておる……! クロードがそんな真似をするわけが――』
『だから確かめに行くんじゃない。要は何もなければいいのよ。バイオレッタの失踪に関わるような重大な証拠がなければ。証拠がないとわかった時点で、あたしはあいつへの疑いは解くつもりよ。諦めて次の手を考えようと思う』
『……だが、だが……っ!』
髪を振り乱して苦悩するリシャールに、ピヴォワンヌは含めるように言った。
『あんたはそのままでいてちょうだい。今はあいつの前で下手に疑うような素振りを見せないで。それと、できるだけ今まで通りに振舞って』
『どういうことだ……?』
『今あんたが警戒する素振りを見せるのはまずいわ。何か勘付かれれば、この先捜索が厳しくなるかもしれないでしょ。あんたはそのまま、あいつを信頼している振りを続けてほしいの』
あのクロード・シャヴァンヌという男はなかなかの策士だ。
リシャールが自分を疑っていると知れば、また別の手を打ってくるかもしれない。バイオレッタをもっと違う場所へ隠してしまうかもしれないし、言い逃れのためにさらなる策を弄する可能性も出てくる。
だからこそ彼にこの疑心を悟られるわけにはいかなかった。
『あたしがあいつの邸へ乗り込むことはまだ誰にも言わないで。もちろんクロードにも』
『内密に……ということか。相分かった』
短く別れの挨拶を済ませて広間を出ようとしたピヴォワンヌの背に、ふいに物静かな声がかかった。
『……ピヴォワンヌ』
『何?』
思わず振り向いて彼の表情を確かめる。
すると、リシャールは一瞬だけ言い澱み、わずかにためらう素振りを見せた。
きゅっと口をつぐんだかと思うと、その数秒後、彼はおずおずと言った。
『……あやつを――バイオレッタを、よろしく頼む』
ピヴォワンヌが中庭に到着すると、そこにはすでに彩月とクララが待っていた。
ブルーグレーの落ち着いた色合いのドレスに身を包んだクララは、ピヴォワンヌの姿を認めて軽い会釈をした。
「おはようございます、ピヴォワンヌ様」
「おはよう、クララ。いよいよね」
「はい……」
どうやらピヴォワンヌ以上に緊張しているらしく、クララはそれきり口をつぐんでしまう。
表情は暗く、しぐさはどこまでも硬い。何をどう考えても彼女がこうした不測の事態に慣れていないのは明らかだった。
これではまるでピヴォワンヌの不安や動揺や緊張といったものをすべて彼女が背負い込んでしまっているかのようだ。
ピヴォワンヌはその様子を見つめながら小さく苦笑いした。
(あたし自身は戦いそのものは結構慣れてるし、実はそこまで心配はしてないんだけどね……。もともと勝算があるからこそ助けに行くわけだし……)
どうしたものかと思っていると、そこで彩月が唇を開く。
「よう、香緋ちゃん」
「あ……。おはよう、彩月」
声をかけられ、ピヴォワンヌはそこで彩月の方を見やった。
彩月は寛衣型の上衣と丈長のコート、ゆったりとした脚衣で武装し、腰には愛用の刀を佩いていた。
支度は万全のように見えたが、戦闘用の衣服としてはそれほど構えたものではない。
むしろ戦いに赴くにしては軽装であるともいえるが、ピヴォワンヌにはちゃんとわかっていた。彩月が公主の護衛官として非常に優秀な人物だということを。
もともと荒事を任されることの多かった彼は、宮中における乱闘騒ぎの際、率先して公主二人の身辺警備に当たった。
宴や式典、民への顔見せの場において、公主たちに危害を加えようとする悪漢たちをことごとく討伐してみせたのである。
二人がびっくりするほど彩月に懐いているのはいわばそのためで、彼女たちにとっては彼はもはや「第二の琅玕公」のような存在であるといっていい。
そんな彼だからこそ、たとえ軽装であっても戦力を発揮できるのだろう。
また、劉では宮廷魔導士を生業にしている彼の場合、武具がなくとも魔術で応戦することもできる。それを思えば妥当な服装かもしれなかった。
「じゃあ、よろしくね。彩月」
「おう。まあ、気楽にいこうぜ。ガチガチになってちゃ勝てるモンも勝てねェからな」
「そうね。そうする」
ピヴォワンヌは彼に向かってわずかに微笑んでみせ、次いで未だ身を硬くしているクララを見つめた。
「ピヴォワンヌ様……」
「クララ」
ピヴォワンヌはクララに向き直った。
クララはほっそりとした両手を胸の前で重ね合わせて悄然としている。
「……じゃあ、行ってくるから」
そう告げると、彼女は泣きそうな顔でピヴォワンヌにすがりついてきた。
「バイオレッタ様は、ちゃんと戻ってこられますわよね? またみんなでお茶をいただいたり遊んだりできるのですよね……?」
この姫はしっかりしているように見えて意外と気弱で脆いところがある。
やはり友人がいなくなるのは心細いのだろうと思い、ピヴォワンヌはそんな彼女の手を取って励ますように言った。
「できるに決まってるでしょ。このあたしがいる限り、あの魔導士に勝手な真似なんかさせないわ」
「……ピヴォワンヌ様」
「あの子はあんな性格でもあたしの姉さんなんだから。……だから、絶対に助け出す」
一言一句を噛みしめるように言い、ピヴォワンヌはゆっくりとクララから離れた。
そこでクララは薄絹にくるまれた立派な長剣をピヴォワンヌに差し出した。
「……なんなの、これ?」
「アルマンディン王家が滅びるとき、わたくしのお父様がユーグに託したという宝剣です。これまでずっと部屋に飾っておりましたが、ピヴォワンヌ様に使っていただきたいと思い、持ってまいりました」
「そ、そんなものは持っていけないわ! だって、これはあんたと祖国とを繋ぐ唯一の品でしょう? あたしには無理よ、使えない……!」
「だって、わたくしにはこんなことくらいしかできないのですもの……! わたくしはバイオレッタ様に何度も勇気づけられました。今度はわたくしも、あの方を御救いしたいのです。ですからどうか、こちらを持って行ってくださいませ。わたくしの代わりとして」
クララのサファイアブルーの双眸は不安に揺れていた。
いまにも涙の粒がこぼれ落ちそうな顔つきだ。
どうしたものかと考え込んでいると、ふいに彩月が長剣を包み込む絹に触れた。
「いいじゃねェの。持っていけばいいだろ」
「彩月!?」
「この姫さんはそれくらいお前の姉さんが大事なんだろ。だったら借りていかない理由なんかねえじゃねえか。この姫さんだって何かしら力になりたいって思ってるから貸すんだ。そーゆー健気な気持ちくらい汲んでやれよ、香緋」
ピヴォワンヌは手中の宝剣を見つめた。恐る恐る包みをほどいてみる。
……それは黄金の鞘に大粒のサファイアを嵌め込んだもので、柄の部分には同じサファイアを連ねた紐が巻き付けられている。
長剣はずしりと重たかった。
長剣の重さがそっくりそのまま前のアルマンディン王の命の重みであるかのように感じて、ピヴォワンヌは息を詰める。
「……いい剣だ。大層な代物だな、こりゃ」
彩月の言葉に、ただ無言でうなずく。
だが、本当に借りてしまってもいいのだろうか。これはクララの父王が大事な愛娘に託した唯一の遺品だ。
玉蘭に借りた玉佩といいこの長剣といい、人の念が籠っているような代物を安易に受け取るのは気が引けてしょうがない。
しかし、ピヴォワンヌはクララの気持ちもわかるような気がした。つまり彼女はそれくらいバイオレッタを大切に思っていたということだ。
自らの宝剣を妹のピヴォワンヌに預けてもかまわないと思うほどに、彼女はバイオレッタの帰還を願っている。一刻も早く友人が戻ってくることを祈っている。
きっとクララは何らかの形でバイオレッタの救出に助力したいのだ。
この薔薇後宮において、アルマンディン側の捕虜であるクララができることは限られている。
それでもどうにかして力になりたいと思ったからこそ、こんな申し出をしているのだろう。
ピヴォワンヌはすっとおもてを上げると、クララの双眸を正面から見据えて言った。
「……わかった。いいわ。持っていく。あんたを連れていくと思って」
「……!」
クララはほっとしたように表情を緩める。そしてほっそりと長い腕を伸ばすと、ピヴォワンヌにそっと抱きついた。
「はい、はい……! ありがとうございます、ピヴォワンヌ様」
二人はそのまま温かな抱擁を交わし合った。
「どうかご武運を……ピヴォワンヌ様。必ず戻ってきてくださいませ」
長い薄茶の髪から漂うフリージアの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ピヴォワンヌはクララの身体を強く抱きしめ返す。
「ええ。無事に帰ってくるわ。バイオレッタも連れてね。そしたらまたみんなでお茶会を開きましょう」
「はい……、はい……!」
言葉少なに言い、クララはピヴォワンヌを抱きしめながら嗚咽した。
ピヴォワンヌは長い芍薬色の髪を靡かせて彩月を振り仰ぐ。
「さあ、行きましょう。あいつの……クロードの邸へ」
「ああ。……大船に乗ったつもりで全部俺様に任しときな!」
***
クララはそのまま薔薇後宮を出てゆくピヴォワンヌを見送った。
結局後宮の入口までしか同行できなかったが、それでも彼女は懸命に友の後ろ姿を目で追いかけていた。
(ピヴォワンヌ様……)
ピヴォワンヌの姿が完全に遊歩道の先へと消えた頃、クララは西棟の方へとぼとぼと引き返した。
すると、前方から黒衣の人物が近づいてくるのがわかった。ショート丈のドレスの裾を翻し、まるで猫のようにするすると歩いてくる。
「うふふ。もう行っちゃったみたいね」
「……貴女は、ヴァーテル教会の女騎士様?」
その言葉に、彼女――スピネル・アントラクスはにっこりと笑った。
二人はそのまま西棟へ入り、敷地の隅に置かれたガーデンチェアに腰を下ろしてどうということはない世間話に興じた。
「うふふ。スフェーンっていいわよねー。大国だから物資も豊かだし、お洋服は可愛いし。確か、鉱山もいっぱいあるのよね。アクセサリーも最新流行のものがいっぱいだし、夢に溢れた国って感じがして好きだわあ」
「あ……ええ。最新のモードはスフェーンやクラッセルで生まれることが多いですわよね。スフェーンはドレスメーカーもよい働きをするようです」
「そうそう、そうなの! 城下は焼け焦げて酷かったけど、まだいくつかやってるお店があってね。いっぱいお買い物しちゃった」
「まあ。それは楽しそうですね。わたくしも行ってみたいですわ」
「そうよね。貴女、捕虜だからねぇ。けど、もしよかったらそう遠くないうちに貴女のことも連れて行ってあげる。だって貴女にはその権利があるんだから」
クララは苦笑いした。
「そう遠くないうちに」などといっても、それは無理だ。アルマンディンの第一王女だったクララの身分はすでに捕虜というところまで落とされている。この城から抜け出すのはもう不可能なのだ。
スピネルはそこで「ちょっとごめんねぇ」と言ってドレスの隠しをごそごそやりだした。
取り出したのは小さな小瓶だ。中には真っ白な錠剤のようなものが無数に詰まっている。
「……そちらは?」
「血の代わりになるタブレットー。これで吸血衝動を抑えられるのよ!」
「まあ、面白いわ。一体何でできているのでしょう……?」
錠剤をぽりぽりと噛み砕きながら、スピネルはうーんと唸る。
「何かしらねえ……、そういえばあんまり考えたことなかったわ。教会に入ってからはこれをおやつ代わりに生きてきたけど、特に不調を感じたこともないっていうか……」
「画期的な食べ物ですのね」
「そうねえ。まあ、どんなバンパイアもひとまずこれ与えとけばおとなしくなるしねー。その分自力で餌を探す能力は鈍っちゃうけど……」
スピネルは小瓶を傾けて中身をざらざらと手のひらに空ける。
錠剤を数粒まとめて口の中に放り込むと、がりがりという派手な音を立てて勢いよく噛み砕いた。
「ピヴォワンヌ姫たち、行っちゃったわねえ」
「ええ……」
「やっぱし寂しい?」
スピネルに問われ、クララは力なく笑った。
「それはもちろん寂しいですわ。ですが、アルマンディンの人間であるわたくしにできることなど最初から限られています。歯がゆいですけれど、わたくしには今はただ待つことしかできないのです」
「うーん。そうねえ。そうかもしれないわねえ……」
スピネルは曖昧な笑みを浮かべてタブレットを噛み砕く。
抜けるように白い頬をもごもごと動かして錠剤を咀嚼し、ごくりと飲み下す。
「ちゃんとバイオレッタ姫を連れて戻ってこられればいいけどねえ」
「ええ……、このままでは絶対にいけませんわ。こんな状況では女王選抜試験の決着もつけられません。国王陛下のお身体のことを考えても、世継ぎの王女は早めに選出した方がいいのではないかと思います」
ふいにスピネルがくすりと笑い、長いまつげを悪戯っぽく瞬いた。大きな紅い瞳でクララをじっと見つめる。
「ねーえ? もし貴女が女王になれたら面白いと思わない?」
「……えっ」
クララはぎくりとする。
この少女騎士は一体何を言い出すのだろう。「バイオレッタの失踪」という不測の事態が起こっている最中だというのに。
「女騎士様、お戯れはおよしになって下さいませ……、わたくしは女ですもの、王になどなれませんわ」
「あら、でも可能性としては捨てきれないわよね? クララ姫様?」
「クララ姫様」のところをやたら強調してスピネルが言った。すべてを見通すような、不思議なルビーレッドの瞳に射抜かれる。
「どういう、意味ですの……?」
「逆にお訊ねするけど、貴女が王位に就く可能性がないなんて、どうして言えるかしら。確かに今の五大国では女王を戴いている国は一つもないわね。エピドート、クラッセル、スフェーン。そして貴女のいたアルマンディンも、女を王として擁立したことはこれまでただの一度もなかったものね」
動揺に揺れるクララの視線を巧みに絡めとりながら、スピネルはうっすらと笑う。
「けど、劉はどう? 現に女王国として知れ渡っているじゃない。それにこの大陸ではね、過去に女性が帝冠や王冠を戴いた国だって数え切れないくらいあるのよ」
それは初めて知ることだった。幼少期から書物に親しんでいたおかげで、大陸の歴史はすべて諳んじられるほどにまでなっていたのに。
クララはスピネルの不穏な発言に激しくうろたえた。
まさか、自分に謀反を起こさせようとでもいうのだろうか。
確かにこの国から出て自由になれるのなら、それはどんなにか素晴らしいことだろう。
だが、仮に捕虜であるクララがリシャールに牙を剥くようなことがあれば、祖国の民たちは無事では済まされないのだ。
今でも一部の者は監獄に入れられているし、アルマンディン軍に属していた兵士たちはスフェーンの各地で過酷な労役を科されていると聞いている。
クララが謀反など起こせば、力のない残党や捕虜たちはみな刑罰を受けるに決まっている。
今度こそただでは済まない。
「……わ、わたくしに一体何をおっしゃりたいのです? 叛意など、わたくしにはけして――」
「ああ、違う違う。そういうことを言いたいんじゃないのよね」
スピネルは袖口のアンガジャントをゆらめかせながら、右手を軽くひらひらさせた。
「あたしは貴女に叛意があるかどうかはどうでもいいのよ。ただ、面白い未来が見えるの。聖なる御印を秘めた二人の女帝。混沌に陥った大陸を再生させ、とこしえの繁栄へと導く女王たち。どう? 素敵でしょ?」
「……」
悪戯っぽい瞳。
どこまで真実で、どこまで本心なのかがまったく読めない。
スピネルはそのまま淡々とまるで詩でも朗読するように言葉を紡いだ。
「闇に覆い隠されし聖なる御印の女王……。それを救い出すもう一人の女帝。本当にドラマティックな筋書だわ。駒も揃っているし、舞台だって細部までとっても上手に組んである。ここまで出来すぎているといっそ質のいい歌劇を観ているかのようね」
「な、何をおっしゃっているのかわかりませんわ……」
「貴女にだってまだ王位に就く可能性があるかもしれないってことよ。そーんな怖い顔しなくたって、言葉通りの意味だけどぉ?」
クララは狼狽のあまり腰を浮かせる。
(だけど……今この方はさらりと恐ろしいことを口にしたような気がする。恐らく王家の秘密に関わるような、重要な何かを)
クララはごくりとつばを飲み込んだ。視線をきょろきょろとさまよわせる。
闇。それに覆い隠される聖なる御印の女王。
そしてその窮地を救うもう一人の女王……。
これ以上踏み込んではいけないと思いながらも、生来好奇心の強いクララは思わず身を乗り出してしまう。
彼女は胸の昂ぶりのままスピネルに問うた。
「……ですが、貴女は先ほど、闇が御印を覆い隠すのだとおっしゃいましたわね」
「ええ。言ったわ」
「……それは、一体どの王女のことを示しているのです? まさか……」
スピネルはそこでにやりと笑った。鋭い牙がちらとこぼれる。
「勘のいいお姫様ね。その聡明さ、ぞくぞくしちゃう。……そう、闇に覆い隠される聖なる御印の女王。その王女の名は――」