終わりの見えないラブ・ゲーム

第二部「第二十九章 無限廻廊リビドゥー」の後日譚になります。
夜のオトンヌ宮でクロードがバイオレッタに拒絶されたその翌日のお話です。
(本編を先にお読みいただくとよりわかりやすいかと思われます)
 

 
「ああ、姫……」
 クロードは執務机の上で苦悶の声を上げた。そのまま机上に突っ伏してしまいたくなるのをなんとか堪える。
 ……ここは魔導士館。本城であるリュミエール宮に隣接する、宮廷魔導士たちが働くための建物だ。
 クロードは今その一室で仕事を片付けていた。
 国王リシャールから山のように手渡された文書を前に、彼はもくもくと鵞ペンを動かした。
 
 民からの嘆願書に、王都アガスターシェの再興に関する計画書。王領地への視察計画書……。
 その他にも国の魔術防護壁を強化するための段取りが書かれたもの、次の式典における魔導士たちの余興について記されたもの、大陸変動の記録を書き連ねた報告書など、目を通すべき書類はとにかくたくさんある。
 むろん私邸へ持ち帰って着手してもよいのだが、生憎邸では自分のためだけに時間を使うことに決めている。こんな余計な雑音ノイズごときに大切な時間を無駄にされたくない。
 
 クロードはペン先をインク壺に浸しながら黙って仕事をこなした。
 中にはリシャールが丸投げした古い文書なども混じっていて、そうしたものがちらほら見えるたびにクロードは下品にも舌打ちをしたくなった。
 
「おー、朝っぱらからバリバリやってますねえ。感心感心ー」
 そう言って横から顔を除き込んできたのは、クロードの部下にあたる青年・アベルだ。
 手入れの行き届いた白銀の髪をさらさらと揺らし、懐からは甘い香水の香りを漂わせながら楽しげに微笑している。
「……そういうあなたは随分肌の色つやがいいですね。何かいいことでもあったのですか?」
「いやーん、クロード様! それってセクハラじゃないですかー? やだな、もしかして僕にロックオンしてます?」
「……!」
 危うく鵞ペンの先を折りそうになり、クロードは慌てて紙面から指先を逸らした。
 
 そうだった。この男相手にまともな会話など成り立つわけがないのだった。
 それにしても、なんというふざけた青年だろうか。男同士でセクハラも何もあったものではないというのに、なんともしゃあしゃあと言ってくれる。
 馬鹿もここまでくるといっそ天晴れだ。
 そして自分が「ロックオン」されるに足る存在だと思い込んでいる辺り、本当にふてぶてしい男だと思う。
 こういう傷心の時、この能天気さは本気で頭にきてしょうがない。
 
「どうせまたどこかの御婦人に相手でもしていただいたのでしょう。いい御身分ですね」
 棘を刺すようにわざとちくちく言ってやると、彼はあろうことかにっこりと笑った。
「ええ。それがもうどうしようもないくらい魅惑的な女性なんですよ」
「……ああ、そうですか」
「長年の片恋だったから、もー嬉しくなっちゃって。七年くらいずーっと憧れてた女性だったので、嬉しくて嬉しくて今にも昇天しそうっていうか」
「……はあ」
 面倒くさいので適当に聞き流す。いっそそのまま昇天してしまえと心の裡で毒づき、クロードは乾ききった鵞ペンの先にたっぷりとインクをつけた。
 
 アベルは一度話し始めると長い。
 普段ならば同僚のユーグが間に入ってやめさせてくれるところだが、今は生憎その彼がいない。
 人の不幸は蜜の味というが、その逆もまたしかり。他人の成功話など、聞いていたって面白くもなんともない。
 クロードはふるりとかぶりを振って書類に目を落とす。なおも筆記を続けながら、彼は胸の裡でつぶやいた。
 
(結局、どんなに憎たらしかろうが先に惚れた方が負けということですか……)
 
 恋愛というのはどんなに美しく見えようが所詮は男女のパワーゲームである。少なくとも今のクロードの場合はそうだ。
 綺麗な言葉を並べて、紳士的に振舞って。
 けれどもその水面下で渦巻くのはどちらが先に色恋の主導権を握るかという品のない力比べでしかない。
 そして今、クロードは劣勢だった。
 
 ……否、最初はクロードの方が優勢だったはずなのだ。
 まだ恋を知らない初心な少女だったバイオレッタにその味を教え込み、男らしくゆとりを持って彼女をリードし、まるで淑女の典型のようなそのかんばせから巧みに女の顔を引き出す。
 男女の関係を意識させる艶めいたジョークに、年頃の少女が好みそうな強引なスキンシップ。
 いかにもバイオレッタが好みそうな甘い手管や技巧を用い、クロードは無垢な彼女を篭絡させるべく日々奮闘してきた。
 
 男を知らない彼女が少しずつ女の顔を目覚めさせてゆくのを見るのはこの上なく楽しい遊戯だった。
 しぐさには女性らしいしなと気品が宿り始め、声は日増しに艶を帯びてしっとりと濡れそぼってゆく。
 自分好みの女に育ってゆく彼女を見るのは、クロードにとっては一つの悦楽でもあった。
 
 極めつけは数々の贈り物だ。
 バイオレッタのために、クロードは惜しげもなく贈り物をした。
 紅茶に香水、ポプリに薔薇……。
 数えきれないほど多くの贈り物をし、その心が片時も揺らがぬよう気を配ってきたのである。
 
 我ながら完璧だと思っていた。
 なのに、一体いつの間に逆転されてしまったのか。
 一体いつの間に彼女はあんな強さを手に入れてしまったのだろうか……。
 
 強い女はさほど好きではない。どちらかと言えば苦手である。
 なのに、「あなたの愛はいらない」と言って自分を突き放したバイオレッタの毅然とした表情が忘れられない。
 女にそんなことをされれば、普通は腹が立つものだ。
 しかしクロードの胸は今、それとは全く異なる感情で泡立っていた。
 このパワーゲームを制したい。できることならどこかで立場を逆転させてしまいたいし、一刻も早く彼女を自分の支配のもとに平伏させてやりたいとさえ思う。
 なのに、お預けを喰らわされた今のこの状況をどこか痛快だとさえ感じてしまい、クロードはつい笑ってしまう。
 
「ふふ……、私も相当入れ込んでしまっているようですね……」
 
 どういうわけなのか、バイオレッタにまるで相手にされていない今の自分の姿が、不思議と嫌ではなかった。
 それどころか、このまま耐え忍んだあとに与えられる一瞬の恍惚が待ち遠しいとさえ感じる。
 再三にわたって拒絶され続けている自分に、もはや勝算などあるわけもない。
 だが、どうしても夢見てしまうのだ……、バイオレッタがまたこちらに手を伸べてくれるのではないかと。やっぱりあなたが一番好きだと言ってくれるのではないかと。
 ならば、このまま突き進むしかないではないか――。
 
 クロードの脳裏に、いつぞやかの夜の光景がまざまざと浮かび上がってくる。
 クロードの心は、あの蜜月の日々で確かに奪われた。
 バイオレッタはそんなクロードを嘲笑うかのようにこの手をすり抜けていった。白すぎるほど白い素肌を月光のもとに晒し、まるでこちらへ手を伸ばせと言わんばかりので彼を誘いながらも、結局は身体も心も与えずにクロードのもとを去っていった。
 共寝まであと一歩というところでクロードの手をすり抜けていったのである。
 クロードは自らを襲う猛烈な飢餓感と乾きはすべてあの時の失敗のせいだと思っていた。
 
「……この私を敵に回そうとは。バイオレッタ……、貴女は全くもって不埒な姫君だ」
 
 ――どちらにせよ、勝つのは自分だ。
 クロードは眼鏡の奥の瞳を光らせると、不敵に口角を持ち上げた。
 
 
***
 
 一方、その頃薔薇後宮では……。
「……うう」
 化粧台の上に突っ伏し、バイオレッタは呻いた。髪が乱れるのもかまわず組んだ腕の上に顔を埋め、小声でぼやく。
昨夜ゆうべのあれ、すっごく怖かった……っ!」
 オトンヌ宮での一件を思い出し、バイオレッタはいやいやと首を横に振った。
 
 妖しく瞳をきらめかせたクロードも恐ろしかったが、そんな彼を拒絶する際にも多大なる勇気を要した。
 夜陰の中立ちふさがる彼は、まるで獲物を前にした大型の獣のようだった。
 もしかすると、あのまま彼に食べられて・・・・・いてもおかしくなかったのかもしれない。
 ついそんなことを考えてしまうほど、彼の迫り方は切羽詰まったものだった。
 
 バイオレッタはそんな彼をなんとか拒み、半ば彼を置き去りにするような形で夜のオトンヌ宮を飛び出した。
 バイオレッタが「あなたの手は取れない」と言い捨てて走り去ろうとしたとき、彼はなんともいえない顔をした。
 唐突に与えられた衝撃に頭が追い付かなかったのか、彼は大きく目を見張っていた。
 まるでそんなことを言われるとは思ってもみなかったとでも言いたげな、得も言われぬ顔つきだった。
 実際、クロードの方には確かな勝算があったのだろう。
 だからこそバイオレッタを秘密裏に呼び止めてあんなことをしたのだ。
 よっぽど自信がなければああして関係の修復を迫ったりはしないだろう。父王の前でとんでもない要求をしてきたことからもうかがえるが、彼はまだ自分にも望みがあると思い込んでいるらしかった。
 
 生まれつき平和主義者なバイオレッタには、ああして彼を突き放すことも、彼の悲しげな顔を目の当たりにするのも、どちらも同じくらい辛いことだった。
 同時に、こうやって自分を翻弄してばかりの彼のことをほんの少しばかり恨めしく思った。
 
「もう嫌……。どうしてあの方はいつもああなの? なんでわたくしを悩ませるようなことばっかり……」
「――バイオレッタ様?」
 筆頭侍女であるサラの声に、バイオレッタははっと顔を上げた。
 近寄ってきたサラは、顔に張り付いた髪を手でぱっぱっと払ってくれながらにっこりした。
「まあ、駄目ですわ。バイオレッタ様はとびきりお可愛らしい方なのですから、いつでも綺麗にしていませんと」
「ね、ねえ、サラ……? もしも、もしもよ?」
「はい?」
 サラの手をしっかと握りしめ、バイオレッタは藁にもすがる思いで問いかけた。
「一度振った殿方に何度もしつこく迫られたら、貴女はどう思う?」
「えっ……」
「貴女だったらどうする? しょうがないからよりを戻そうって思う? それとも……」
「わ、わたくしもそこまで恋愛経験豊富ではありませんので、なんとも……」
「お願い、ちょっとでいいの。貴女の考えを聞かせて」
 サラはうーん、と唸ったものの、ややあってからきっぱりと言った。
「……それは、端的に言って『気持ち悪い』、ですよね」
「……っ!?」
「殿方の本能から言えば、振られたらすぐ次の女性に向かおうとするのが普通でしょう。でもそうしないということは……よほど未練があるのか、あるいはなりふり構っていられないくらい相手の女性が魅力的なのか……」
「“未練”……」
 自分に大した魅力があるとも思えないから、この場合恐らく前者だろう。
 
(そんな、まさか……。あのクロード様が、わたくしに未練なんかあるはずが――)
 
 何しろ相手は百戦錬磨のあのクロードなのだ。
 彼は基本、女を振ることはあっても振られることはない色男だ。そして洗練されたアプローチの仕方を知っている恋の上級者でもある。
 そんな彼がバイオレッタごときにいつまでも執着しているのはどう考えたって不自然だ。
 
(……ああ、でも)
 
 クロードが驚愕の表情になったときは少しだけ気持ちよかった。いつも「貴女は初心でお可愛らしい」と揶揄されているせいだろうか、余裕綽々の彼にやっと一泡吹かせられたような気がして胸がすっとしたのだ。
 
(い、いやだ、わたくしったら変なことを考えて……)
 
 バイオレッタは白磁の頬を赤らめ、もじもじと身を捩らせた。
 クロードのせいだ。クロードがあんな弱々しい顔をするから。
 まさか自分に加虐嗜好があったなんてと、バイオレッタは慌てる。
 件のクロードならいざ知らず、人と対立するのが何よりも苦手な自分が、こんなにサディスティックなことを考えてしまっている。
 これはどう考えても異常事態だ。
 
「クロード様の馬鹿……。ひどい……、わたくしのことをこんなにふしだらに変えてしまうなんて……」
「なっ、く、クロード様、ですって!?」
 我に返ったバイオレッタは、目の前でふるふると震えているサラの存在にようやく気づいた。
「あああ、違うの、違うのサラ……! これは、その――」
「いけません! 昨夜陛下にも散々釘を刺されたではありませんか! これ以上あの方と距離を詰められてはいけません!」
「ごごご、ごめんなさい~~!!」
「本当に反省しておられるのですか!? 陛下とのお約束を守れないというなら、明日からおやつ抜きにしますわよ!!」
「それだけはいやあああっ!!」
 
 
 
(ああ……姫)
(クロード様……)
 
 一度きっぱりと袂を分かった二人は、それでもなお互いの姿を脳裏に思い描いてはその幻影に恋い焦がれていた。
 ……クロードとバイオレッタの恋路がこの先どうなってゆくのか。
 それは、神のみぞ知る未来である。
 
 
 

 
「この私を敵に回すとは……」と密かに仕返しを試みるクロードですが、この時点ではすでにバイオレッタがイニシアチブを握りつつあります。
まあ、姫としての立場を危うくされたりあらぬ悪評を流されたりと、別に優位に立ってばかりじゃないんですけどね。裏切りが何より嫌いなクロードにしてみれば小気味よく思う部分もあるだろうし、「他人を愛するという行為の代償は払って当然だろう」とも思っています。
 
残念ながらバイオレッタって、一度誰かにはっきり指摘されないとダメ男に引っ掛かってるって自覚できないんですよね。
サラが「それは気持ち悪い」ってちゃんと教えてくれなかったら、第三部第一章でも結局拒絶できずにずるずると流されてしまっていたのでは?とも思います(笑)。
 
さて、二人だけの甘ーい世界に揺蕩っていたかと思えば、父王や宮廷人をも巻き込んでのとんだ騒動になってしまいました。
この複雑に絡まり合った恋愛遊戯、クロードは無事挽回できるのでしょうか。詳しくは本編にて……。
 
 
 
 

 

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