第三章 子羊と夜のティータイム

 ……開かずの間で二人が出会ったその日の夜。

「じゃあ……仕方がないから、今日は俺の部屋を貸す。妙な下心はない。ただベッドが俺の部屋にしかないってだけで。俺は別の部屋で寝るから気にするなよ」
「わかったわ、ありがと。気を遣わせてしまってなんだかごめんなさい」

 ランプを掲げながら廊下を歩くと、マーガレットはとことこと自分の後ろをついてくる。背に垂らした長い金の髪が、暗闇の中で燈火のようにゆらゆらと揺れた。
「……ねえ、エドワードって、普段は何をしている人なの?」
 訊ねられ、ゆっくりと振り向く。
 興味津々と言った体だ。ペリドットの瞳がまるで子猫の瞳のようにキラキラと輝いている。
「ん……、今は何も。一応これから喫茶店の店主になるつもりだけど」
「そういえばさっきもそう言ってたわね! すごいわよね。いいなあ、喫茶店の店主っていうくらいだし、お茶とか淹れるの上手そうね!」
 マーガレットは言い、人懐っこい笑みを浮かべてエドワードを見上げた。
 そこまで言われれば悪い気はしない。
 そこでふと、部屋のトランクの中にいくつかいい茶葉があることを思い出した。母がアルマンディンから取り寄せて持たせてくれた、芳醇な香りのフレーバーティーだ。
 エドワードはしばし考え込んだのち、背後の少女に向かって問いかける。
「ちょうど今の季節にぴったりな桜の香りの紅茶があるんだが、お前さえよかったら一杯飲んでみるか?」
「え!? いいの!?」
「ああ」
「わぁ、嬉しい! 娼館で働いてた頃はお酒の注ぎ方もろくに覚えられないくらい不器用で、よく姉さんに怒られてたのよ。まさか実際に紅茶をサーブするところが見られるなんて……!」
 エドワードはふと口元に意地の悪い笑みを刷いた。
 ……この娘、なかなかにわかりやすい。そしてどこかからかってみたくなる雰囲気だ。
 生来の悪戯心が刺激されたエドワードは、そこでこれ見よがしに肩をすくめて言ってやった。
「おいおい、お前、ウェイトレス志望なんだろ? 茶くらい満足に淹れられなくてどうするんだ」
 揶揄すると、マーガレットは笑みを凍りつかせてぴしりと固まる。
「そっ、そうだったわね……! なな、なんとかしなくちゃ……!」
 目に見えてあたふたする様がおかしくて、エドワードは小さく噴き出した。
「ふっ……!」
「あっ、ひどい! 笑っているんでしょ!? いいわよ、これからきっちり教えてもらうんだからっ!」
「お前にできるのか? うまく淹れられなかったらこの店のこれからに関わるんだからな」
「で、できるもの!」
「は、どうだかねぇ……。まかり間違っても客の膝に注いだりするなよ、弁償だぞ」
 すると、マーガレットはさーっと青くなった。
「くく……、お前、結構わかりやすいやつだな」
「かっ、からかったのね!? もうっ!! 若い女の子をいじめて愉しむなんて、男の風上にも置けないのね、エドは!!」
「悪かった。ただの冗談だって。ウェイトレスの教育も立派な仕事のうちだからな、ちゃんと上手に淹れられるように教えてやるよ」
「ぜひ、お願いしたいわね……、ふんっ!」
 腕組みをするなり、今度はつんとそっぽを向いてしまった。
(やれやれ……)
 これでは本当に子猫のようだ。
 
 
***
 
 
「さ、着いたぞ」
『子羊亭』のキッチンにたどり着いたエドワードは、扉を開けてマーガレットを中へ案内した。
 キッチンの隣には小さな倉庫、そして家族が食事をするためのダイニングが設けられている。
 
 エドワードはランプを台の上に置くと、そのまま上から垂れ下がった金属のチェーンを引く。すると、ガラスでできたすずらん型のフロアランプにぽっと灯りが点り、たちどころに室内が明るくなった。
 マーガレットがぱちくりと瞳を瞬かせる。
「こ、これ何……? 一瞬で明かりが点いたけど……」
「電気。まあ、蝋燭の簡易版だな」
「す、すごい! まるで魔法ね!」
 まさか電気を魔法呼ばわりされるとは思ってもみなかった。エドワードはくすりと笑みをこぼし、彼女の手を引いて部屋の奥へと足を踏み入れる。
 足元に置かれたストーブに火を点けると、未だ呆然としているマーガレットに声をかけた。
「ここがうちのキッチン。今度ここで働いてくれる料理人を雇い入れるつもりなんだ」
「広々として大きなキッチンね……。同じ家にいたのに、こんな部屋があるなんて全然知らなかったわ」
「そりゃ、あんな風に何年も開かずの間に閉じ込められてればな。ちょっと待っててくれ、今二階の部屋から茶葉を取ってくるから」
 言いながら、業務用の大きな冷蔵庫をがさごそと漁り、ミルクのパックを一つ取り出す。
 マーガレットはしみじみと言った。
「わ、すごく久々にミルクを見た気がするわ! 今は面白い入れ物に入っているのね」
「今は大陸中を鉄道という乗り物が走ってるんだが、わざわざ他国から買いに来る人もいるくらい人気なんだよな、これ」
「テツドウ……、乗ってみたいかも」
「街中でも走ってるぞ。路面電車トラムっていうんだけどな。今度街の案内がてら乗せてやろうか?」
「うんっ!」
 そう言ってうなずくマーガレットのあまりの屈託のなさに、エドワードは小さく苦笑した。
「あたし、ちゃんとした紅茶飲むのなんて初めて。嬉しいわ」
「そうなのか?」
「うん。あたしが生きていた頃は紅茶はとっても高価でね。淹れたてを一人でじっくり味わうなんてことはなくて、薄くなったやつをみんなで交互に回し飲みしていたの。だからあたし、ほんとは紅茶らしい紅茶って実は一度も飲んだことなくって」
 舌を出して苦笑いするマーガレットに、エドワードはふっと笑った。
「じゃあ、今夜は俺がとっておきのを飲ませてやるよ」
「ふふ。楽しみにしてるわね」
 
 
 水をたっぷりと淹れたやかんをコンロにかけると、エドワードは火元を見ていてくれるようマーガレットに頼んでから二階へ上がった。
「確かこの辺に……」
 つぶやきながら部屋いっぱいに散乱した私物の山をがさごそと漁る。
 ……トランクの仕切りいっぱいに詰まった茶葉の中から選び出したのは、母に持たせてもらったアルマンディン産のフレーバーティーだ。今の季節にもよく合う、爽やかながらほんのり甘みの感じられる茶葉だ。
 桜の香料が入っているので、本物のさくらんぼのような瑞々しい香りがする。
(カフェイン抜きのデカフェ紅茶なら、今の時間帯でも影響はなさそうだしな)
 味わいも香りもとてもフルーティなので、濃いめのミルクティーにしたらきっとおいしいはずだ。
 それをマーガレットに出してやるところを想像したエドワードは、知らず知らずのうちに小さく微笑んでいた。
 
 
 茶葉の入った缶を手に、エドワードは急いで階段を下りる。
 ダイニングに戻ると、マーガレットは椅子の上で子供のように足をぶらぶらさせていた。
「悪い、待たせた」
「ぜーんぜん待ってないわ。エドは足が速いのね」
「そりゃ、レディを長々と待たせるのは紳士の流儀に反するからな」
 そんな軽口を叩きながら、すみれの模様が描かれた陶器のティーポットを棚から出す。そして、ポットと揃いの柄のカップとソーサーを並べる。
 エドワードが支度をするところを、マーガレットはまるで手品でも眺めるようにまじまじ凝視していた。
 せっかくなので少し講釈でもしてやろうかと、エドワードはジェスチャーを交えつつ唇を開いた。
「いいか? まずはポットとカップを温めるところからだ。紅茶の茶葉っていうのはできるだけ高温のお湯で淹れた方がよく香りが出てうまいんだが、ポットが冷たいままだとすぐに温度が下がってしまう。だから、できればポットやカップは事前に温めておくんだ」
「ふむふむ」
「湯の中で茶葉が舞い踊るのを専門用語ではジャンピングっていう。うまみや成分を抽出する大事な時間だ。味や香りを最大限まで引き出すために、ここでは適温の湯で茶葉をよく上下運動させるんだ。そうすると茶葉が開いてよりうまくなる」
 説明しながら人差し指を上げ下げする。
「熱すぎると空気が失われて下に沈むし、低すぎると葉が開ききらずに上に浮いてしまう。できれば適温は守った方がいい」
 そこでエドワードはテーブルの上に置いた茶葉の缶を指し示す。
「茶葉は一人ひとさじで、そこにポットの分をひとさじ余分に入れておく。ちなみに、抽出時間は細かい茶葉なら三分、大きめの茶葉なら四分ほどだな」
「ほえー……」
「茶葉の種類にもよるけど、細かい茶葉の時にあんまり時間を置きすぎるとどうしても味が濃くなりがちなんだよ。まあ、難しく考えなくてもいいさ。やってみれば大体のコツは掴めると思うしな」
「はーい」
 
 (さて……ミルクはどうするかな)
 紅茶に入れるミルクについては、人肌に温めるか冷たいまま使うかで意見がはっきり分かれるところだ。
 温めると牛乳特有の癖のある匂いが気になるという人もいて、エドワードは一瞬だけ迷ってしまう。
 が、結局ただの深夜のティータイムでしかないのだからと、温めないで使うことに決めた。
 
 
 まだ湯が沸騰する気配がないので、エドワードはマーガレットをダイニングテーブルにいざなった。
 横長のテーブルにマーガレットと差し向かいで腰かけた彼は、互いの間に重たく気づまりな静寂が下りていることに気づく。こほんと咳払いをすると、彼は紳士として努めて穏やかに提案した。
「なんていうか……その、暇だな。お湯が沸くまで、何か話でもするか?」
「えーっと。じゃあ、自己紹介をやり直さない?」
「それはいいな」
 マーガレットの提案に、エドワードは二つ返事で了承する。
 なるほど、空いた時間を利用して親睦を深めるというのは悪くない。
 エドワードが賛成したのを見届けると、マーガレットはにっこりと笑って自らの胸を叩いた。
「じゃあ、言い出しっぺのあたしからやるわね! 名前はマーガレットで、愛称はマッジ。娼館の友達がつけてくれたニックネームなのよ。で、出身はエーデルシュタイン」
「‟エーデルシュタイン”?」
「そ。もうすんごく貧しいところなの! 年頃の子はみんな売られたり、奉公に出されたりするわ」
 マーガレットの解説に、生真面目なエドワードはつい腕組みをして考え込んでしまう。
(エーデルシュタイン? 聞いたことがないな……いつの時代の人間なんだ?)
「ねえねえ、エドのことも聞かせてよ!」
 テーブルに身を乗り出してくるマーガレットに、エドワードは我に返った。
「……あ、ああ。エドワード・アディンセル。ニックネームはエドかエディだ。政治家の長男で、弟と妹がいる」
「弟さん、いるの? あたしも! 名前はヒースっていうんだ。こっちに来るとき離れ離れになっちゃったけどね。病弱で気が小さいの。村の山羊にも触れないのよ」
「へえ。道理でしっかりしてるな、お前」
「う、うん! えへへ……」
 褒めてやるとわかりやすく赤面するのが面白く、エドワードのおもてはついつい緩んだ。
 まるで実家に残してきた妹のようだ――と考えてから、そういえばこの少女の年齢を知らないことに気づく。
「お前、年はいくつなんだ?」
「確か、最後の年は十二才だったような気がするのよね。もっともあれから何百年も経っているみたいだから、正確にはもっと上かしら?」
「奇遇だな。俺の妹も十二だ。けど、残念ながらお前ほど快活な性格じゃなくてな。引っ込み思案だから先が思いやられるよ」
「エドの妹さんって絶対可愛いわよね。なんか、そんな感じするわ」
「そうか? うーん、俺よりは母さんに似てるかな。十七歳になったら社交界デビューだけど、内気すぎて大変そうだな」
「案外モテモテなレディになったりしてね!」
「うーん……、それはそれで兄貴としては複雑なんだがなぁ……」
 
 
 そんな他愛もないやり取りを交わしているうちにしゅんしゅんと音を立ててお湯が沸き、エドワードはようやくお茶を淹れる準備に取りかかった。
 まずはポットとカップに湯を入れて温める。そして、湯を捨てたポットの中にティースプーン三杯分の茶葉を入れる。先ほどマーガレットに説明した通り、そのうちのひとさじはポットのためのひとさじである。
 次に沸騰したやかんの湯を、こぼさぬよう慎重にポットに注ぐ。できるだけ口をポットに近づけて、茶葉をまんべんなく熱湯で湿らせるようなつもりで。
 最後に、蓋をしたポットにティーコゼーをかぶせ、傍らに置いた小ぶりな砂時計をくるりとひっくり返す。
 隣でエドワードの手つきを観察しながら、マーガレットは小さな笑い声を立てた。
「ふふっ。やっぱり魔法みたいね」
「そうか?」
 マーガレットはこくんとうなずいた。
「あなたのやることはあたしにはみんな魔法に見えるわ」
 フロアランプのもとうっすらと微笑む彼女の横顔を見つめ、エドワードは瞳を細めた。次いで、大きく息を吐く。
 
 柔らかくおぼろげなランプの灯りと、しんと静まり返った空気。窓の外さんさんと降りしきる牡丹雪に、ストーブの火が爆ぜるぱちぱちという音。傍らで微笑む幽霊の少女……。
 本当に不思議な夜だった。まるでこの部屋だけ時間が止まってしまったかのように、穏やかに凪いだ空気が流れている。
 夜の波が、寄り添い合う二人を緩やかにさらう。深更のかいながしっとりと二人を包み込み、束の間の休息の時へと連れてゆく。
 それは、とても優しい時間だった。
 
 肩を並べて待っているうちに、砂時計の砂はすべて綺麗に下に落ちた。
 そこでエドワードはおもむろにポットを取り上げる。
 手に持ったティーポットをくるりくるりとゆっくり何度か回してから、こぼさぬよう丁重にカップに注ぐ。たっぷりと、カップの縁からこぼれるくらいなみなみと。
「で、ミルクを入れて、かき混ぜて……と」
 スプーンでくるくるとかき混ぜると、注いだミルクがまるで雲のようにふうわりと広がり、たちまち水色すいしょくが茜色から柔らかなベージュに変化する。
「わあ……っ!」
「……ってなわけで、お待ちどおさん」
 ティーカップを差し出すなり、マーガレットが嬉しそうにぱちぱちと拍手をする。
(やれやれ)
 子供の相手には慣れているが、こうも素直だと拍子抜けだ。まるでもののわからない幼子を相手にしているかのようで、もともと皮肉屋なところのあるエドワードは面食らってしまう。同時に、素直さとは立派な美徳の一つなのだと気づかされた。
「えっと、これ、あたしが飲んでもいいのね……!?」
「何言ってんだか。お前のために淹れたんだ、お前が飲まなくてどうするんだよ」
「えと、えと……じゃあ、いただきまーす!」
 宣言するなり、マーガレットはこくこくと喉を鳴らして紅茶を飲んだ。
 次の瞬間、大きなペリドットの瞳をキラキラと輝かせる。
「ふわあああっ……!」
「……うまいか?」
「おいしい! まろやかで優しい味がする!」
 冷たいミルクを加えたことによってほどよい温度になったそれを、マーガレットはおいしそうにごくごく嚥下した。
「桜の紅茶って聞いてたけど、ほんとに桜の香りがするのね。ミルクが入ってるせいか、まったりしてて落ち着く味だわ」
「これはデカフェ紅茶っていって、カフェインが全く含まれてない茶葉なんだ。だから夜に飲んでも眠れなくなるなんていうことはない」
「そ、そんな紅茶があるなんて……!」
 
 上機嫌なマーガレットは、カップを軽く掲げてにこりと笑う。
「こうしてると、なんだか二人きりのパーティみたいね!」
「はは。じゃあ、二人が出会った記念に乾杯といくか」
「うん!」
 どちらからともなくティーカップを打ち付け合うと、カチン、と澄んだ音がダイニングに響き渡った。
「マッジ、砂糖は?」
「使った方がおいしいの?」
「まあ、通に言わせれば邪道らしいが、もし渋くて飲みにくいなら入れてもいいと俺は思う」
「うーん。じゃあ一個だけ使ってみようかな」
 マーガレットはシュガーポットから取り上げた角砂糖をぽとりと落とし、くるくるかき混ぜてからひとくち嚥下する。その瞳は瞬く間にうっとりと潤んだ。
「甘ーい。おいしい~。もう一個~」
「あんまり使いすぎると甘ったるくなるぞ」
 そう忠告してみたが、マーガレットはさして気にするでもなくぽいぽいと角砂糖を放り込んでゆく。
「だって、こんなに甘くておいしい飲み物を飲むのは初めてなんだもん」
「別にいいけど、あとでちゃんと歯を磨いておけよ。虫歯になるぞ」
「はーい」
 自らもカップを傾けつつ、エドワードは彼女に言った。
「明日、お前が店で着る洋服を見に行こうと思う。身体が温まったら今夜は早めに横になれ」
「はーい!」
 元気いっぱいに答え、マーガレットは幾分行儀悪くミルクティーをずずずっと啜った。
 
 
***
 
 
 翌日。
 マーガレットは、エドワードに借りたパジャマをからげて起き上がった。
「ふあー……」
 時計を確認すると朝の九時を少し過ぎたところだった。娼館で下働きをしていた頃であれば、主であるマダムに「このごくつぶし!」とこってり絞られているであろう時刻だ。
 頬に落ちかかるウェーブがかった金の髪を手で払いのけ、マーガレットはもう一度大きなあくびをした。
「ううーん……。急場しのぎだからしょうがないとはいえ、やっぱり大きいなぁ、コレ」
 紳士もののパジャマはぶかぶかで、小柄なマーガレットが着ると裾も袖もたっぷりと余る。
 苦笑しつつ、彼女はパジャマの袖口を大きくまくり上げた。
 
 ここはエドワードの私室だ。マーガレットは昨夜エドワードにこの部屋を貸してもらい、今まで使ったこともないような豪奢な造りのベッドで大の字で眠った。
 清潔なシーツが敷かれたセミダブルのベッドの上、うーんと伸びをする。
「柔らかくてすっごくいいベッド……。あたしったらこんないいの借りちゃったんだぁ……」
 ベッドの縁に腰かけて身体を揺らすと、スプリングの効いたマットレスが勢いよくマーガレットの身体を跳ね返す。手で軽く叩いてみると、ぽふぽふと小気味よい音がした。娼館であてがわれていた寝具とは何もかもが違っており、マーガレットはほうっとため息をつく。
「さすがは上流階級の人よね、あたしなんかとは次元が違うわ……」
 一人で感心していると、コンコン、という控えめなノック音がした。
「――マッジ。起きてるか?」
「うん、起きてるわ」
 ……否、正確には今起きたのだが。
 ベッドから飛び降り、慌てて部屋のドアを開ける。
 するとそこにはどこか眠たげな顔をしたエドワードが立っていた。
 彼はマッジの姿を認めて、ぱちぱちと幾度か瞬きをした。次いで、ふああ……と大きなあくびをする。その顔つきは、どこか不機嫌そうに――そしてけだるそうに見えた。
 いかにも覇気のない様子だが、もしや朝が弱いのだろうか?
 マーガレットが首をかしげていると、彼はあくびを噛み殺しながらおもむろに訊ねた。
「あれからずっとその姿か?」
「あ、うん。前みたいに身体がふわふわしないし、浮いたりもできない」
「さっき妹のお古を持ってきてもらったから、お前さえ良ければ着てみてくれ」
「あっ、例の妹さん? あたしと同い年っていう」
「そうだ。ただし俺が戻ると父さんがいい顔しないんで、昔の従僕に頼んで運ばせた」
 促されるまま部屋に戻り、姿見の前で借りた洋服に袖を通す。
「わっ、可愛い……!」
 それは、純白のシャンテリーレースをたっぷりとあしらった膝丈のワンピースだった。
 色は落ち着きのあるサックスブルーで、レースの白をよく引き立たせる優しげな色合いだ。
 襟、胸元、袖口……。ワンピースにはこれでもかというほどふんだんにレースが施されており、マーガレットはうろたえる。
(うわぁ……。さすがはエドの妹さん、生まれついてのお嬢様なのね……)
 そろそろと部屋の外に出ていくと、エドワードが先ほどと同じどこかぼんやりした眼差しでこちらを見つめ返す。
「サイズはどうだ?」
「ぴったりよ。ありがと、エド」
 エドワードはおとがいに手をあてがい、「うーん」と唸る。
「お前専用のベッドや家具もちゃんと揃えないとな……。いつまでも俺の部屋で生活させるわけにはいかないし……」
 部屋の中をちらりと見やると、彼はなんでもないことのように言った。
「けどまあ、しばらくここで寝起きしてくれていいぞ。あとで隣にお前の部屋を作るけど、それまでベッドもクローゼットも好きに使ってくれていい」
「あ、あたしの部屋っ!?」
「……なんだよ、でかい声出して」
「あたし、自分の部屋なんてもらったことない……」
「ああ、そういえば、開かずの間でずっと生活してたって言ってたな。けど、今までとは事情が違うだろ。今のお前は娼館の下働きなんかじゃない、れっきとしたこの『子羊亭』の一員なんだ。うちで働く以上、お前は俺の家族だろ? 家族が部屋をもらうのなんかごく当たり前のことじゃないのか」
「それはそうだけど……」
 そこで彼はマーガレットの恐縮を吹き飛ばすように一際大きなあくびをした。
「ふあぁ……。軽い朝飯作ったんだ、降りて来いよ。それ食べたら服を見に行くぞ」
「……あ。そうだったわね」
「忘れてたのかよ? しょうがないな……。ほら、行くぞ」
 言うなり、エドワードは柔らかくマーガレットの手を引いた。
 
 
 彼に導かれるまま廊下を進み、一階へ通じる階段をとんとんとリズミカルに降りていく。
 ダイニングに案内された途端、いい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
 ダイニングテーブルの上に所狭しと並べられたものを見て、マーガレットは目を見開く。
「うわぁ……!」
 テーブルの上には、様々な総菜を盛りつけたフル・ブレックファストを始めとし、ポテトパンケーキのサーモン添え、レタスとトマトを使ったグリーンサラダ、真っ白な湯気を上げる琥珀色のコンソメスープといったいかにもおいしそうな料理の数々が並んでいる。脇にあるのはママレードジャムの小瓶だ。
 驚いているマーガレットを尻目に、エドワードはぶっきらぼうに薄切りパンの袋を差し出した。
「ほら。そこにトースターがあるから、自分で好きな焼き加減に焼いてくれ。バターケースはそこ」
「……えっと、もしかして、この朝ご飯全部用意してくれたの?」
「はあ? 同居人のために朝飯を作るのなんか別におかしくもなんともないだろ」
「そ、それはそうかもしれないけど……!」
「トーストが焼けたら一緒に食おう。腹が減って死にそうだ」
 マーガレットは思わず瞳を潤ませた。
 ただの居候でしかない自分に食事を作ってくれて、あまつさえ一緒に食べようと言ってくれる。彼の「同居人」だと認めてくれる。
 そのことが単純に嬉しかったのだ。
(もう、エドったら。あたしがもし本当に疫病神だったらどうするつもりよ……)
 今まで、マーガレットのことをこんな風にもてなしてくれる人間などいなかった。
 両親には売り飛ばされ、娼館の主には商売道具として扱われ――。
 マーガレットには人間らしい温かなひとときなどというものはほとんど存在しなかったのだ。
 気を抜くと胸の裡に広がる感動に押し流されてしまいそうで、マーガレットはぎゅっと手のひらを握りしめる。
 せめて、自分を「家族」と呼んでくれた彼の信頼と誠意だけは裏切らないようにしよう。そしてまた自分も彼の「家族」として、できることは何でもしよう。
 それが、今の自分にできる精一杯の恩返しなのだから……。
 
「……マッジ? どうしたんだよ」
「えへへ、ありがとエド! おいしそう」
 食パンを受け取り、エドワードの言葉に甘えて先にトーストさせてもらう。
「ふわぁ、あつっ……!」
「っと、気をつけろよ」
 エドワードは焦げる一歩直前の焼き具合が好きらしく、薄いトーストがカリカリになるまで火を通している。
 そこにバターケースから取り出したかちかちのバターをひと切れ乗せ、上からママレードジャムをたっぷりと塗りつける。とろとろに蕩けたバターが半透明のママレードと一体になってゆくさまを満足げに眺めてから、エドワードはおもむろに「食べようぜ」と言った。
 彼に勧められるままカトラリーを取ると、エドワードがポットを取り上げてすがすがしい香りのするレモンイエローのお茶を淹れてくれる。この香りは……。
「あれ、これ……もしかしてミントティー?」
「ご名答」
 くすりと笑うと、エドワードは自らのカップにもミントティーを注いだ。
「朝食のお供にはちょうどいいだろ。……じゃ、いただきます」
「うん! いただきます!」
 よくソテーされたベーコンエッグをぱくりと口に運んで目を見開く。
(……お、おいしい~!)
 エドワードお手製のフル・ブレックファストはとても美味で、マーガレットは久方ぶりに人間の世界の食事を心から堪能したのだった。
 
 
***
 
 
「わああっ! 随分大きな街ね!」
 路面電車に乗ってセナーテ地区の中心部まで出てきた二人は、マグノリアの花が咲き誇る並木道に颯爽と降り立った。
「ここがこのエピドート国の王都、『ピスタサイト』だ。俺たちが今いるのはセナーテ地区にある大通りの一つで、クリストファー通りっていう。百貨店や老舗の専門店が軒を連ねる目抜き通りだ」
「すごいすごい……、今はこんな風になってるんだぁ……」
 春風に揺れるベレー帽を手で押さえながら、マーガレットは広大な大通りをぐるりと見渡した。
 大聖堂や教会、時計台といった建物がずらりと立ち並ぶ、どこか古めかしい街並み。歴史を感じさせる重厚なレンガ造りの建造物に、その合間にたたずむこじゃれた専門店やブティックの数々。浅霧にしっとりと濡れるライトグレーの石畳……。
 厳かでありながらも王都らしく活気にあふれた街だ。
「この地区では一等広い通りになってるからな、くれぐれもはぐれないでくれよ」
「うん、わかった」
 無邪気に言い、マーガレットは楽しそうに大通りの景色に見入る。行き交う人々の様子を興味深げに観察し、彼らの服装や持ち物を食い入るように見つめる。
 目に飛び込んでくる何もかもが珍しく映るようで、はしゃいだり驚いたりしながら楽しげな声を上げている。
 
 その姿を眺めながら、エドワードは一人ぼんやりと思案する。
(……あれで満足してくれた、のか?)
 料理の腕にはそこそこ自信があるものの、彼女が今朝のメニューを気に入ってくれたかどうか少々不安だ。
 おいしそうに食べていたからまずくはなかったのだろうが、次からは味付けの好みや食べ物の好き嫌いなどもよくリサーチしておかなければならない。どうせなら同居人には居心地よくいてもらいたいからだ。
(あとで何が好きなのか聞いてみるか……?)
 自分より十も年下の少女相手に食べ物の好みを訊ねるのはなんだかこそばゆい。だが、よくよく考えれば彼女は妹と同い年なのだ。恐らく、扱い方も妹のそれとほとんど同じでいいのだろう。
(まあ、あんまり小難しく考えすぎないようにするか……)
 
 エドワードはグレンチェックのチェスターコートの裾を翻し、すたすたと歩き出す。
 すると、背後から慌てたようなマーガレットの声が聞こえた。
「ま、待ってよエド〜!」
 小柄なマーガレットは歩く速度が遅い。こちらが意識して歩幅を合わせてやらないと、どうしてもすぐ置いてけぼりになってしまう。
 エドワードは苦笑し、歩みを止めて彼女が追いつくのをゆったりと待った。
 
 
***
 
 
 純白のマグノリアの花に彩られた並木道をまっすぐ歩いてゆくと、路面電車や辻馬車が行き交うクリストファー通りの交差点に差し掛かる。
 そこでエドワードは交差点の角にたたずむ老舗百貨店へとマーガレットをいざなった。
 表玄関は一対の獅子の石像が守っており、入口では黒いお仕着せを着込んだ従業員が恭しく客たちを出迎えている。
「ここだ。入ろう」
 エドワード行きつけのこの百貨店は、一階が婦人服のコーナーで、二階が紳士服のコーナーである。三階からはランジェリーショップ、家庭用品売り場、ベビー用品売り場、筆記具売り場と続き、最上階にはギフトコーナーとレストラン街があった。
 
『国一番のデパート』と称されるだけあり、フロアは妙齢の女性客で溢れ返っていた。
 一階にはブティックのほかに化粧品カウンターや女性向けの雑貨屋、靴屋なども併設されているため、男のエドワードは少々浮いてしまっている。
「ロリコン」などと呼ばれるのだけは絶対に避けたいが、適切な距離を保ちさえすれば、傍目には仲の良い兄妹に見えなくもないはずだ。そう自分自身に言い聞かせながら、エドワードは少女向け衣類のフロアを遠慮がちに探索した。
(帰りに上で自分の服も少し見るか。実家から持ってきた服は普段着にするにはちょっと仰々しいからな)
 
「う、うわぁ……! す、すごい! これ、素敵……、あ! あれも」
 まるで花を物色する蝶々のようにフロア中を行ったり来たりするマーガレットに、苦笑しながらも「好きな色で選んでみては」と提案する。
「マッジは何色が好きなんだ?」
「赤!」
「赤ねえ……」
 ただでさえ子供っぽいというのに、赤い服なんて着たら余計幼く見えそうだ、という本音は隠し、エドワードは彼女とともにマネキンの着るチェリーレッドのワンピースを眺めた。
「すごいわ、今の時代は可愛いお洋服がたくさんあるのね~!」
「お前はこういうの着たことないか? その、下働きの頃……」
 それとなく訊ねてみると、マーガレットはふるふるとかぶりを振る。
「ないわ。開かずの間であなたと会った時の、あのごわついたドレスとか、あとは姉さんたちのお古ばっかよ」
 よりによって娼婦のお下がりか、とエドワードはため息をついた。
 
 現代にも娼婦と呼ばれる職業はある。
 彼女たちは街頭や娼館で女に飢えた男を引っかける。金と引き換えに男たちに一夜の夢と快楽を提供するのが彼女たちの生業だ。そんな彼女たちは‟レディ・バード淫らな女”と揶揄され、貞淑な上流階級の女たちからはひどく煙たがられていた。
 が、マーガレットの言うところの「娼婦」とエドワードが知っている「娼婦」ではその意味合いが大きく異なるような気がした。
 マーガレットは好きで娼婦になったわけではない、そうならざるをえなかったのだ。
(おまけにこいつを売り飛ばしたのは実の家族っていうんだもんな……)
 マーガレットの言動に卑屈さや悲壮感は一切ない。けれど、その心中は男の自分には計り知れない。
 貴族の嫡男である自分がいかにぬくぬく育てられてきたかを再認識させられてしまい、エドワードは気まずくなった。
 
 と、その時、マーガレットが興奮したようにエドワードの袖をぐいぐい引っぱった。
「見て見てエド! このお洋服、すっごく可愛い!」
「どれどれ」、と、エドワードはマッジの指さすマネキンを見やった。
 
 それはブラウスとベスト、そしてミディスカートのセットだった。
 パフスリーブが愛らしいブラウスは楚々とした印象のオフホワイトで、襟元にはピンクのストライプの走る可憐なリボンタイが結ばれている。
 ベストの色は温かみのあるスカーレットで、金ボタンで留めて着用するデザインになっている。
 下半身を包むのは、ペールブルーのフレアスカートだ。スカート丈を確かめると膝がぎりぎり隠れる程度の長さだった。シルエットは全体的にふんわりしていて女性らしく、薄い水色の生地もとても上品な感じがした。年頃のマーガレットが着るにはちょうどいいデザインに思える。
(ブラウスが白っていうのはいいな。清潔感がある。それに、この丈のスカートなら動きやすい。膝も出すぎなくてほどよい丈だしな)
 色合いがシンプルかつ品よくまとまっているので、客からの印象もいいだろう。少女らしい色とデザインだからマーガレットの愛らしさも際立つはずだ。
 
「……か、可愛いわ! あたし、これがいい……!」
「色はこれだけか……。本当は同じデザインで違う色もあれば見てみたいんだがな……」
 おとがいに指先をあてがって思案顔になっていると、脇から店員が恭しく口を挟んでくる。
「こちら、お嬢様にはとてもよくお似合いになると思いますわ。やや細身のデザインですけれど、お嬢様ならウエストも細くていらっしゃいますし、ピッタリ着こなせること間違いなしでしょう。当店専属のデザイナーが揃いのブーツも作っておりますの」
「こちらです」、と付属品の編み上げブーツを差し出される。
 ヒールは低く、靴の中央にクリップで飾り付けられた薄紅色の薔薇のコサージュがなんとも可憐だ。
「ふわぁ……!」
「ヒールが低めなのはいいな」
「これ!! これがいいっ!!」
「早まるなって」
「だって! 赤だし、可愛いし!」
「まずは試着だろ! ……すみません、このセットとブーツ、試着で」
 エドワードは試着室にマーガレットを押し込んだ。自分は待合室のソファーにややうつむきがちに腰を下ろす。
(女性向けのフロアで連れを待つのって結構キツイな……)
 中のマーガレットがちゃんと試着できたか心配になってきたが、先ほどの店員も一緒だから問題ないはずだ。
 そうこうしているうちに試着室のカーテンが開き、中から恥ずかしそうな顔のマーガレットが顔を出した。
「ど、どぉ……?」
 もじもじとカーテンを握りしめ、マーガレットは窺うようにエドワードを見上げた。
 少し離れた場所に立つと、エドワードはセットアップを纏った彼女の全身をざっと眺める。
「うん。長さもちょうどよさそうだな」
「うん、ちょうど膝丈だから、足さばきがよくって動きやすいわ!」
 エドワードは軽くうなずいて試着室の中にいる彼女の姿を眺める。
 
 くっきりしたスカーレットレッドのベストは、溌溂としたマーガレットによく似合っていた。一見するととても派手な色だが、ブラウスやスカートの色が控えめなのでそこまでどぎつくはならない。
 襟に結ばれたリボンタイも粋な感じがして、こんなスタイリッシュな服装でウェイトレスをやってくれるのだと思うといささか気分が高揚してくる。
 ふと思いついて目に留まった一対の付けカフスを手首に巻いてみると、まるで高級店のウェイターのような洗練された仕上がりになった。
 
「ブーツも履いてみるか?」
「うんっ」
 ブーツを差し出し、靴ひもと格闘する彼女をフォローしようとするも、なかなかうまくいかない。
 見かねた店員が手伝ってくれて、なんとか履かせることができた。
「きゃあ、可愛い~! 薔薇のコサージュがお洒落だわ!」
 よほど気に入ったらしく、マーガレットはその場でくるくる何度か回る。その度に裾の広がったペールブルーのミディスカートがひらひらと軽快に翻って、エドワードは微笑ましい気分になった。
「……うん。いいな。自分で好きな色っていうだけあって、赤はいかにもお前らしい感じがする」
「そ、そう? えへへ……」
 言って、マーガレットは照れくさそうに頬を掻いた。
 
 
 思えば、マーガレットというのは不思議な少女だ。一緒にいるとこちらまで気持ちが明るくなってくる。彼女と一緒に、何か新しいものに生まれ変われそうな気がするのだ。
 彼女には見ている人間の気持ちを鼓舞するような活発さがあり、それはこれまで封建的な貴族社会にあったエドワードにしてみれば新鮮で快いものだった。
(こいつみたいに生きられれば、俺も苦労しないんだろうな……)
 羨望と憧憬が混じり合った複雑な想いを抱きつつ、エドワードは親しみに満ちた眼差しではしゃぐマーガレットを見つめた。
 
 

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