「……姫。貴女は女王選抜試験を降りるつもりはありませんか」
ふいに耳朶に落ちたクロードの言葉に、バイオレッタは瞠目した。
「……えっ?」
「私のところへ降嫁なさる気はありませんかとお訊きしているのです」
「え……」
一瞬、聞き間違いかと思った。
宮廷で「降嫁」といえば一つしかない。それはつまり……。
「それはまさか、わたくしに臣籍降嫁を勧めていらっしゃるのですか?」
クロードは無言でうなずく。
(降嫁……わたくしが?)
臣籍降嫁とは、王女が臣下のもとに嫁ぐことをいう。
王が王女を下賜することもあれば、王女自らが好いた臣下と一緒になりたいと願い出ることもある。
これは王の娘をもらい受けるということで、臣下の男にとってこの上ない名誉とされている。スフェーンでは戦で戦功を上げた者や、王家にまめまめしく仕えてくれている者などが選ばれやすい傾向にあった。
クロードは恐らく、降嫁を願い出て自分のところへ嫁がないかと言っているのだろう。
それはとても簡単なことで、バイオレッタがクロードとの仲を父王リシャールに打ち明け、どうしても彼の妻になりたいのだと言えばいい。たったそれだけだ。
リシャールが突っぱねない限りは、きちんと検討される可能性が高い。
だが、バイオレッタにはそんな真似はできそうもなかった。いくらクロードが好きだとはいえ、勝手な真似はしたくない。
バイオレッタはこれまで、王女としてずっとリシャールに庇護されてきたのだ。
そしてそれは、女王選抜試験に身を投じるということが絶対条件でもあった。となれば、その期待を裏切るようなことはできない。
バイオレッタは首を横に振った。
「いいえ、それはできません」
「姫……」
「お父様は例の予言に絶対の信頼を寄せています。予言に逆らうような真似をすれば、王女とて罰なしではすみませんわ。第一、オルタンシア様だって昏睡によって試験を降りることとなりました。あの方にしてみれば不本意極まりないでしょう。それを思えば、わたくしばっかりそんな勝手なことはできません」
だが、クロードは一向に意に介さない様子で言った。
「さあ、どうでしょうね……。私の交渉次第ではよい方向に話を持っていけるのではと思うのですが」
「えっ……? どういうことですの……?」
バイオレッタは首を傾げた。
次の瞬間、信じられない言葉が降ってくる。
「私は陛下に、貴女との婚姻を許可して頂けるように願い出るつもりです」
何のためらいもなくクロードはそう言ったが、バイオレッタは思わず声を上げる。
「嘘でしょう、クロード様? それは無理ですわ……! だって、あなたは魔導士で、わたくしは王女なのですよ!?」
クロードは数年前まで姓すら持たなかった、元浮浪者の宮廷魔導士だ。そんな男との婚姻を、父王が認めるはずがない。
いくらクロードが王に重用されているのだとしても、一国の王女をもらい受けるには元の身分が低すぎる。
むろん、王女であるバイオレッタが願えば話は別だが、それにしても降嫁というのは二人にとって極めて困難な話だった。
大事な手駒の一つであるバイオレッタを、リシャールが容易に手放すわけがないのだ。
女王候補、あるいは異国との結びつきを強める王女として、バイオレッタは彼に多大なる期待を寄せられている。次代のスフェーンを支えるという意味では、どちらも等しく重要な役割だ。
バイオレッタはふるふると首を振り、彼の提案を拒んだ。
「いけません。お父様がお認めになるはずがありません。何より、今は大事な試験の最中なのです。寵臣が国王の期待を裏切るようなことをしてはなりませんわ。そんなこと、絶対によくありません」
「ですが、私はもう耐えられないのです。貴女と常に離れて暮らして、会えるのはなんとか時間ができた時だけ……。こんな拷問は初めてです。姫だってそうなのではありませんか?」
低くささやくと、クロードはバイオレッタを抱き寄せる。
「で、ですが……」
「どこか静かなところで、二人だけで暮らしましょう。もちろん、貴女が私の邸をお気に召してくださっているというなら、それでもかまいません。ああ、ですが……薔薇園の薔薇はもっと増やした方がいいでしょうね。貴女が毎日退屈せずにいられるように……」
流れるような口調でクロードが言う。
バイオレッタは眉根を寄せた。
(わたくしだって、できることならこの方とずっと一緒にいたい……。でも)
そう。正直に言えば、そんな現実的なことは考えたことがなかったのだ。
別に中途半端な気持ちでクロードと付き合っていたわけではない。ただ、いつもふわふわと落ち着かない心地で、地に足がついていなかったのだと思う。
二人の未来にクロードが何を望んでいるのかということまではとても頭が回らなかったのだ。
(わたくしはクロード様が愛おしい。ずっとこうして一緒にいたい。……だけど)
降嫁すれば二度と王女とは名乗れなくなるし、女王になる資格も失ってしまう。
そんな生き方をして、自分は本当に満足なのだろうか? 赤子のようにクロードに守られるだけの人生で、本当にいいのだろうか?
自分だけ早々に王位継承争いから離脱するなど、王女として絶対に許されないことだ。そんなことをして、生涯クロードにもたれかかって生きて。そんな結末で本当にいいのだろうか……。
逡巡の末、バイオレッタはゆっくりと唇を開いた。
「……クロード様。わたくし、そこまで言っていただくだけの価値が自分にあるとはとても思えません。わたくしには何もありません。力もなければ知識もなく、おまけにスフェーンの王女としてもさほどの魅力はありません。そうまでしてあなたにもらい受けていただくほどの価値は、正直わたくしにはないと思うのです」
「価値……? ふふ……、そのような」
クロードは強いまなざしをバイオレッタに向けると、そっとその唇を指でなぞった。
「……っ」
なめらかな白い指が淡紅の唇を辿る。……その感覚に、抗えなくなる。
「貴女はもう何度もお許しになったでしょう……、この愛らしい唇を。ご自分の恋人として、抱きしめて口づける権利を私に与えたのです。そこまでされれば、男としてはもっと深いところまで欲しくなってしまうのは至極当然のことでは?」
「それ、は……」
「それに、婚姻を願い出るのは早い方がいいでしょう。陛下の許可が下りるまで、しばらく時間もかかるでしょうから」
その瞳の色か、どこか粘ついた口調になのか。
理由はわからないが、バイオレッタはクロードの言動に不穏な何かを感じ取る。ただの愛情とは異なった何かを。
「……どうして、そこまで言ってくださるのですか?」
困惑しながら訊くと、クロードはどこか切なそうに言う。
「貴女のその瞳に、出会った瞬間に射貫かれたのです。そのうち、少しずつ貴女に惹かれていく自分がいました。その優しさ……、繊細な心に秘められた気丈さ、全てを包み込むような笑顔。そして、私を優しく抱きしめてくださる腕の感触も……。眩しかったのです、今まで孤独と暗闇の中に身を置いていた私には……。初めてお会いした日から、私は貴女にどうしようもなく焦がれている。これほどまでにこの世界を……宮廷のしきたりを、恨めしく思ったことはありません」
「……本当に?」
「信じてください、愛しい方。そして、できることなら貴女のお返事をお聞きしたい」
「そ、それはもう、わかっているのではありませんか? わたくしは、軽々しく殿方とキスなんてしません。……まして、好きでもない方となんて」
「それは了承と受け取ってよろしいのでしょうか? 私の求婚に対して……」
頬の輪郭をなぞられて、バイオレッタは震えた。
最初に感じた違和感は、そこで有り余るほどの恋慕の情に取って代わられる。
クロードの熱を帯びた告白と愛おしげな手つきに、バイオレッタの心は例の本能的な恐怖を瞬く間に忘れてしまったのである。
余裕のあるさまを少しだけ憎らしく思いながらも、彼女はゆっくりと一つうなずく。
「……お父様が、お許しになったら」
「では、そのように。陛下のお許しを頂けたら、どうかその時は私の妻になってください、バイオレッタ。私の優しいナイチンゲール……」
クロードはバイオレッタのうなじに手を添えると、希うような口調とは裏腹の激しいキスを仕掛ける。慄きながらも、バイオレッタはそのぬくもりを受け止めた。
***
しばらくして、二人は薔薇後宮の中庭で別れた。
本当はちゃんと菫青棟まで送りたかったのだが、バイオレッタがここまででいいと言ってやんわり断ったのである。
彼女は居住棟へ向かって歩を進めながら、クロードに手を振った。
クロードは恋人の姿が見えなくなった後もその場に立ち尽くしていたが、やがて背後にうっすらとした気配を感じて振り返った。
「……!」
……そこには黒髪の美しい女がいた。宮廷の貴婦人たちが身に纏うような立派な仕立てのドレスを着ている。
彼女こそがクロードの主アインだった。
大陸では邪神ジンという名で呼ばれ、『人々の暮らしを脅かす好戦的な神』として忌み嫌われている火炎の女神だ。
切れ長の黄金の瞳に漆黒の髪という外見的特徴は、性別が違うことを除けばクロードとほとんど同じだ。
美しいが鋭利な顔つきも、人を挑発するような表情も。二人の印象はどこまでも酷似している。
だが、こちらは女だけあってその雰囲気は婀娜っぽく艶めかしかった。
ドレスからこぼれんばかりの豊かな胸。肉感的な紅い唇。長く伸ばした形のよい爪も。
そのすべてがどこか官能的で、人を酔わせる抗いがたい魅力に満ちている。
優雅で軽やかな身のこなしが、その麗しさにさらなる拍車をかけていた。
彼女はクロードを見つめてかすかに笑った。
「あれがお前の欲しがっていた娘か?」
「……見ていらっしゃったのですね」
アインは踊るような足取りで近づいてきた。波打つ黒髪をゆったりとかきあげ、言う。
「お前まさか、本気であの娘を篭絡しようなどと思っているのではあるまいな?」
沈黙するクロードに、アインは嘲笑する。
「お前とあの娘はけして相容れぬ存在だ。お前がわたくしに願ったのはかつての伴侶の蘇生であって、あの娘の心を得ることではない。あの娘はお前が悲願を果たすのと同時にこの世から消える。その存在を抹消される。お前ほどの男が、よもや忘れたわけではあるまい?」
……そうだ。バイオレッタは消える。最愛の女性が帰ってくるのと引き換えに、彼女はその生を奪われる。
ゆえに、彼女と結ばれることはできない。
クロードが伴侶の蘇生を目的に生きている以上、バイオレッタとの平穏な日々を手に入れることは不可能だ。その二つは類似こそしているものの、実際にはまるで真逆の望みなのだから。
「クロードよ。道を踏み外さないというなら、わたくしはお前に力を与えてやろう。だが忘れるな。お前がわたくしに真に望んだことを。そのために支払った対価を……。この警告は此度で三度目だ」
「忘れるなど、そのような……。貴女には感謝してもし足りませんよ、アイン様」
アインと呼ばれた女は艶然と笑む。
「ならばよいが……まずはわたくしにこのような警告をさせた罰を受けてもらおうか」
「……!」
アインがそっと手をかざすと、クロードの右手に業火で焼かれるような激痛が走った。
「ぐああああっ……!!」
クロードはあまりの痛みにくずおれた。
左手で、いつも白手袋で入念に隠している右手の甲を押さえつける。
そこは今、不可思議な炎を上げて燃えていた。アイン――邪神ジンの生み出す裁きの炎によって。
クロードは獣のように低く呻き、両肩をせわしなく上下させた。
「ぐっ、あ、ああああ……!」
「主の教えを守らぬしもべには相応の『罰』がいるものだ。……そうだな?」
「は、い……」
右手に襲い掛かる焼き切れそうな痛みと熱さに、白皙の額から汗がしたたり落ちる。
「依代クロード。お前は誰のものだ?」
「貴女の……、アイン様のものです……。忘れたことは……、ございません……」
「本心だな?」
「は……い……」
せせら笑ったアインは、静かに歩み寄ってくると靴の踵で容赦なくクロードの手を踏みにじった。
「ぐっ……!!」
クロードはくぐもった呻き声を上げる。
灼熱の炎で散々苛まれた右手をきつく踏みにじられ、もはやその激痛に神経を集中させることしかできない。
まるで焼けただれた肌に直接楔を打ち込まれているかのようだった。
人間としてはもう機能していない身体だが、痛覚は依然としてあるのだ。
それをわかっていて、アインは時々こうやってクロードを痛めつける。気に入らない玩具を放り投げるように……叩き壊すように。
クロードは顔を歪めると、黙って責め苦に耐えた。ひしゃげる右手を視界に映し、その時が終わるのをただ待った。
ひとしきりクロードを責め苛んでから、アインは冷たく言う。
「お前はもはやわたくしのもの。過去のお前の姿はとうに過ぎ去った『幻』だ。今は単なるわたくしの忠実なるしもべにすぎぬ。……約束を違えたらお前の目的は果たせないものと思え。よいか、クロード」
痛みにふっと意識が遠のきかける。
(……無駄だ。この方に逆らうのは。いくらあの方が恋しくとも、今は……従わなければ)
たとえ愚かな男だと笑われてもかまわない。目的を果たすためには、今はこの女に忠誠を誓うふりをしなければならない。
それは本当に馬鹿馬鹿しくて滑稽な行為だ。傍から見れば今の自分はきっと道化のように見えることだろう。
クロードは眼裏に浮かび上がってくるバイオレッタの残像を強引に振り払った。
そんな心中を読み取ったのか、黒髪の女はさもおかしそうに言う。
「そんなにあの娘が好きだと言うなら、いつものように自分のものにしてしまえばいいだろう。お前になら造作もないはずだ」
「それ、は――」
「お前はどうあってもあの娘からは逃げられぬ。あの娘が例の皇妃の魂を宿している限り、お前は絶対にあの娘を手放すことはできない……。なぜなら、お前はあの娘を探し出すためにわたくしにその身を捧げたのだから」
クロードはぐっと奥歯を噛みしめる。
「わかっている……。そのようなことは、私が一番よくわかっています……」
「ならば、わたくしとの契約通りこのまま皇妃アイリスを蘇生させるしかあるまい。あるいは、その前にあの姫の身体を一度味わっておくというのもよいかもしれぬな……?」
アインはそこでちろりと舌なめずりをした。赤い舌がいやらしく唇の上を這う。
「……お前の身を通じて得た精気と昂ぶり。それこそがわたくしの力の源だ。加えてあの娘、なかなかに強い魔力を有しているようだな。お前を介してあの魔力が手に入れられるというなら、先にその飢えを満たしてやってもかまわぬ」
「……!」
アインの誘いに、我知らずごくりと喉が鳴った。
(姫を……私のものにする?)
息をのむクロードに、アインはぞっとするほど蕩けた声で続ける。
「お前はあの娘に恋い焦がれているのだろう? その胸の裡から伝わってくるぞ。ふふ……、そのばかげた感情は目障りだが、もしお前が交合によってわたくしに力を与えてくれるというなら話は別だ。最愛の姫を抱くお前の身体からはこの上なく上質な精気が得られるだろう……」
クロードはその甘やかな誘いに自らの鼓動がどくどくと脈打つのを感じていた。
あのたおやかで穢れを知らない無垢な王女を、クロードが愛でる。
禁忌の領域を侵し、あの脆く柔らかな殻を突き破って彼女のすべてを暴き出す。
そして思うさま自分だけのものにする……。
アインへ魔力を捧げることになどほとんど興味はなかったが、その誘いはクロードにとって抗いがたいほどの魅惑に満ちていた。
何せ、バイオレッタは愛しい女性アイリスと瓜二つの容貌をしている。しかも彼女は、クロードと愛し合った記憶こそ忘れているが、その気質や魂はアイリスとほとんど同一の存在なのだ。
そう、アインの言いたいことは明白だった。
バイオレッタの身体からアイリスの魂を抜き去る前に、彼女を自分のものにしてしまえばいいと言っているのだ。
クロードのその一瞬の高揚こそが、アインにとってはこの上なく強大な糧となるからだ。
もとはと言えば、バイオレッタを愛するつもりなどなかった。
アイリスの魂を宿す『器』として大事にしていただけで、彼女を心の底から愛する気などさらさらなかったのだ。
何の因果か、バイオレッタの肉体には亡きアイリスの霊魂が宿っている。
一度転生を果たしたにもかかわらず、アイリスの魂は未だ現世に繋ぎ留められているのだ。
悠久の時を生きてきたクロードからしても、これはきわめて稀有な事例だった。
もともと一つの肉体に二つの精神は不要だ。こういった場合においては、とある拍子に片方が消滅し、もう片方が主導権を握るといったパターンが多くみられる。それをクロードは密かに危惧していた。
バイオレッタの魂が力を持てば、アイリスは消える。
そんなことになったら終わりだ。これまでの辛苦、これまでの努力。すべてが徒労に終わってしまう。せっかく用意した筋書きがすべて無駄になってしまう。
そして何より、クロードが愛しているのはバイオレッタではない。かつての伴侶アイリスだ。
だからこそバイオレッタに惹かれるわけにはいかなかった。
アイリスの魂を抜き出した後は、そのまま彼女の容れ物として利用すればいい。
それくらいにしか考えていなかった。
そう、最初からバイオレッタはクロードにとっては都合のいい器……容れ物でしかなかったのだ。
だが、それでもクロードは彼女を愛してしまった。身も心も自分のものにしたいと願ってしまった。
大陸を滅ぼし、最愛の皇妃をよみがえらせること。そして、今度こそ二人だけの完璧な楽園を作り上げること。
それがクロードの目的であり、この邪神の女に願ったことだった。
なのに、そんな当初の目的などどうでもよくなるくらいに、クロードは彼女を欲している。
あの王女とのささやかで平穏な暮らしを望むあまり、大陸の人間たちに復讐することを放棄しようとしている。
これはクロードにとってはほとんど脅威だった。
千年もの間、血の滲むような苦労を重ねて完成させた復讐劇の舞台。それがすべて打ち壊されようとしているのだから。
実際、今のクロードは悪鬼にも善人にもなりきれない生ける屍でしかなかった。
……アインの言う通り、最後に一度だけ彼女と情を交わすのも悪くないのかもしれない。
このまま行けば、どうせアイリスは帰ってくるのだ。あの姫の身体を思うさま貪ったところで何ら支障はない。
(……私が姫を……愛する? 口先だけでなく、本気で身も心も私のものにする……?)
アインの言う通り、クロードは「飢えて」いた。最初はアイリスの器としてしか見ていなかった存在が、彼の中で急速に別の意味を持ち始めたからだ。
これもなまじバイオレッタなどに心奪われてしまったせいだ。あの姫に触れたりしなければ、こんな情が湧くこともなかった。近づきさえしなければ――ただ利用するだけに留めておけば、こうも思い煩わされずに済んだのだ。
アインはそんな心中を見抜いたのだろう。だからこそクロードの愛着を断たせるべくこんな提案をしているのだ。
だが、この飢えが満たされるというなら今すぐにでもそうしたいと、クロードは口元を歪めた。
そんなクロードを見下ろし、アインは嘲笑する。
「……まあ、好きにしろ。どうせ大陸の滅亡までもうしばらく時間がかかる。わたくしもそれまでにじゅうぶんな魔力を蓄えておかねばならぬ」
彼女は横たわるクロードを一瞥すると、声高に命じた。
「来るべき日までその身に穢れを蓄えておくがよい。この腐敗した宮廷には享楽を求める人間があふれている。お前ほどの美しさなら、女どもは喜んでその身を捧げるだろう」
思わず瞠目すると、彼女はわざとらしく片眉をはねあげた。
「なんだ? よもやこの期に及んでできぬとは申すまい? お前は単なる国王のお気に入りなどではない……、大陸に仇なす罪人だ。姦淫と殺戮に手を染めてきた悪徳の申し子だ。よもやそれを忘れたとは言わせぬぞ?」
ぐっと手を握りしめ、クロードは顔を歪めた。
そうだ。この千年もの間そうして生きてきた。
女を抱き、人の命を奪い、悪行の限りを尽くして生き永らえてきた。その昂ぶりこそがこの女の……邪神ジンの糧となるからだ。
一瞬だけ、バイオレッタの楚々とした笑顔が脳裏に浮かぶ。
彼女のためにも、これ以上人の道にもとることはしたくない。だが、そうするしかない。
この黒髪の女の誘いに乗ったときから、クロードはもう普通の人間などではなくなっているのだから……。
「ええ……、忘れてなどいません、アイン様」
「ならばできるな? さもなくばわたくしは一切協力してやらん……。最愛の女の復活など、諦めるのだな」
「……わかりました」
アインはそこですっとかがみこみ、地面に倒れ伏すクロードの黒髪を手で梳いた。
「それでよい。ああ、お前はなんと愛い依代なのだろうな……。お前の瞳はいつも有り余るほどの憎悪に満ちていて、そのくせ貪欲で……たまらない……」
クロードはなすすべもなく手のひらを握りしめる。
……バイオレッタを、裏切っている。それはずっと変わらない事実だ。
この魔女に魅入られたときから、自分はすでに彼女には愛される資格などない魔物になっている。
人間の娘に純粋な想いを寄せることなどできない存在になってしまっている。
……それでも。
(それでも私は、今度こそ望みを叶えたい。あの姫を謀ってでも、かつての幸せをもう一度この手に取り戻す。そう決めたのだから……!)