女官らの催促によって、二人は王城に足を踏み入れた。
「……光と白亜の宮殿、リュミエール宮にございます」
(ここが……、国王陛下のおわすところ……?)
このリュミエール宮は数多ある宮殿群の中でも本城に当たる場所だという。リュミエール宮という名称はそっくりそのまま『光の宮殿』を意味するらしい。
なるほど、と思う。先ほどベルタによって教えられた「四季宮」とは異なり、建物がどこもかしこも白い。
彫像や内装はいうまでもなく純白。天井部分からたっぷりと落ちかかるドレープもまた白。
絵画の装飾にはいやみにならない程度の黄金を用い、床のタイルはつややかな薔薇色の大理石だ。
ここでは全体の“白”を引き立たせるための工夫がなされている。控えめな色使いにされているのも、あくまで全体の白を際立たせるためだろう。そのため「四季宮」とはだいぶ印象が異なり、崇高で聖なる場所といった感じがした。
ところどころに置かれた巨大な黄金の燭台と女神像が大国の権威を暗に示しているようで、思わずこくりと喉を鳴らす。
「異国からの使者を迎え入れる場合、平素はこちらで謁見と会談を行います。別棟には使者の方がたのための貴賓室もございます。リュミエール宮はいわばリシャール城の“顔”。スフェーン大国の威厳を示す場所です」
「四季宮とは印象が全然違うのですね」
感心したバイオレッタが思わずそう言うと、ベルタはうなずいた。
「ええ。特にエテ宮は宴で使用されるため、こちらよりもかなり華やかな色使いになっていますね。名工に作らせたエテ宮の総クリスタルのシャンデリアなど、なかなかに見ごたえがあることでしょう。プランタン宮も国交に使用されることがございますので、内装はとても立派なものです。もっとも、王女様方は見る機会には恵まれないかもしれませんが……」
「えっ? どうしてですか?」
ベルタははあ、と息をつき、首をゆるりと横に振った。
「先だっても申し上げました通り、あちらは殿方が大勢いらっしゃる場所です。王女様が足を踏み入れるには適しません」
「ええ? でも女の官吏だっているでしょう。そういう人たちは入れないわけ?」
香緋の問いに、またしてもベルタはかぶりを振る。
「スフェーンに女性の官吏はおりません。女性がなれるのは騎士や官僚ではなく侍女や女官です」
「なるほど。文官も武官も駄目ってわけね。なんかちょっと差別的な気もするけど……」
「第四王女様のいらした劉の仕組みが特殊なのです。女性官吏など、わたくしは聞いたことがありません。西のエピドート、クラッセル、今は亡きアルマンディン。五大国の王侯貴族であれば、男が生まれれば騎士や官僚に、女なら侍女や女官にさせるのが一般的です」
ベルタはそこで一旦言葉を切り、二人に向き直る。
「そういえば、大事なことをまだお伝えしておりませんでした。王女様がたにも専属の侍女というものがつきます」
「侍女……?」
「ええ。姫君達の身づくろいやお食事のお世話、外出のお供などをする者たちです。中でも侍女頭のことを王城では『筆頭侍女』と呼びます。王女様につけられる複数の侍女たちの中でも最も高位な称号です。家柄、仕事ぶり、手際の良さなどから総合的に見て決定される特別職です」
ルイーゼは絶句する。
(す、すごい……。そんな特別職があるなんて)
ただでさえ王城のきらきらしい雰囲気に呑まれかけていたのに、そんな話を持ち出されてはめまいがしてしまう。やはりこの場所は非現実の世界だ――。
ベルタは冷酷な表情を崩さぬまま二人を一瞥すると、言った。
「記録室での用事が済み次第、彼女たちにも会わせて差し上げましょう。愛らしい王女様にお仕え出来るのを今か今かと待っているようですから」
肖像画のかけられたギャラリーを抜けると、正面階段があった。
宗教画や女神像に気を取られながらも、優美な金色の階を上がる。
(わあ。大きなシャンデリア……)
劇場のそれとはまるで比べ物にならない、とても豪華なシャンデリアに目を奪われる。高価な黄金でできているうえ、真珠やクリスタルがふんだんに連ねられていて美しい。
複雑な形に伸びる装飾はどこまでも繊細だ。
階段の手すりはしっかりと磨き抜かれてまばゆく光り輝いていた。
天井には天の御使いや精霊が舞っていた。聖典の一場面だ。色鮮やかな顔料で描かれ、ところどころ漆喰で立体的に盛り上げられている。
「……足元にお気を付けくださいませ」
カーブを描く手すりに掴まりながら、二人は階段をのぼった。
……すると、紅の絨毯が敷かれた大きな廊下に出る。そこは恐ろしいほど静かな場所で、王宮の前庭と比べると人もまばらでひっそりとしている。用事がなければ基本的には誰も立ち入らない区域であろうことが容易にうかがえた。
廊下から伸びる一つの通路に入り、ベルタはそのさらに奥へと二人を連れていった。これまでと比べると随分奥まった場所で、突き当りの場所にある楕円の出窓からは陽光が燦々と差し込んでいた。
紅の絨毯は毛足がたっぷりと長いもので、うっかりすると足が沈んでしまいそうになる。ルイーゼは慎重に歩を進めた。
「……こちらです」
ベルタが振り返る。通路の奥、まるで隠されるようにひっそりと一つの扉があった。
女官たちは観音開きの扉を引き、厳かに開けた。
そこは、寝台と姿見が並んだ部屋だった。一見すると寝室か化粧室のようだ。
寝台の周りにはドレープを描く深紅のカーテンが下げられている。
「王女様方がお着きです。支度をなさい」
ベルタの一喝で、控えていた女官たちが動き出す。
羊皮紙の束や鵞ペンを持つ者もいれば、純白のタオルを用意し始める者もいる。
「こちらへ」
促され、ルイーゼと香緋は部屋の中央の姿見の前に立つ。すると、かすかな音とともに背後でカーテンが閉められた。
「……あの、一体何をするのですか」
「御身体の特徴を調べさせていただきますわ。お二人がお生まれになった折にも一度すべてを記録させて頂いています。ほくろやあざの位置、髪や瞳の色など」
事もなげにベルタは言うが、ルイーゼは恥ずかしさから真っ赤になった。
劇場でだって、仲間たちに素肌を注視されたことなどない。
体の特徴を調べるとは聞かされていたが、まさか本当にそんなことをするとは思いもよらなかった。
「あの、ちょっと待ってください……、な、慣れていないので」
「まさか姿かたちを偽って王城に入り込もうとする輩がいるとは思えませんけれど、古来からのしきたりなのですわ。貴女方、早くお始めなさい」
「ちょっと! 待ってって言ってるじゃないの! いや! 放して!!」
香緋が女官たちの腕を振り払う。
ベルタはどこまでも冷ややかに言った。
「……わたくしにあまり手間を取らせないでくださいませ。貴女方は相応の覚悟をなさってこの王城にやってこられたのでしょう? ピヴォワンヌ様も、あまり抵抗なさるようでしたら陛下にご報告させて頂きますよ。そうなれば、何事もなく劉にお帰りになるのは不可能でしょうが……」
「……!」
香緋が狼狽したのを見逃さず、ベルタは周囲の女官に目配せした。
女官たちは香緋を取り押さえて隣の寝台に連れていった。
「何するのよ!!」
「……香緋っ!!」
分厚いカーテンが引かれ、薄紅の髪すら見えなくなる。
(……そんな……!!)
「貴女方はそちらでピヴォワンヌ様の御身体を調べるのです」
ベルタはそう告げると、ルイーゼに向き直った。
うろたえる彼女を寝台の方へと引っ張っていき、女官たちが素早くカーテンを閉める。
「あ、あの……!!」
ルイーゼは震えて後ずさったが、ベルタは冷淡に指示を出した。
「……始めなさい」
「……!!」
一切の抵抗を許さず、女官たちが服の紐をほどき始めた。
瞬く間に質素な衣服を剥ぎ取られ、肌着が露わになっていく。数人がかりなうえ、配慮などかけらも感じられない手つきだった。
(いや……! 恥ずかしい……!)
ルイーゼは泣きたくなった。
……同性が相手であるとはいえ、あまりに容赦がないと感じた。
自分がもし本当に姫なのだとしたら。
もし本当にそうなら、こんな酷い扱いをされるのは許せないとすら思うのに――。
「あっ」
年かさの女官がルイーゼの手を引いて、荒っぽく寝台にうつぶせにした。
衝撃を感じる間もなく、みすぼらしい肌着の裾をめくられる。ひやりとした外気が背に触れた。
このままでは調べられないと思ったのか、女官はもどかしげに舌打ちすると、前身頃に手を差し入れてボタンを荒っぽく外す。そしてルイーゼの肩からシュミーズを滑り落とそうとした。
「いや! や、やめてください……!」
だが、精一杯の拒絶の言葉は聞き流される。
女官たちは一斉に無視を決め込むと、ベルタの指示を仰いだ。
「……この方が第三王女様であらせられるなら、背にあざがあるはずです」
年かさの女官ががさがさした声で言う。ベルタは相変わらず人形めいた顔つきのままでうなずいた。
「調べなさい」
「はい、ベルタ様」
ルイーゼは唇を噛みしめたが、抵抗は意味をなさないと悟り、固く瞳を閉じる。
「……第四王女様はいかがかしら」
「記録通りです。背の中央部に二つのほくろ、大腿部に――」
ベルタと女官たちは二人の抵抗などものともせず、淡々と与えられた職務をこなしていく。
そうこうしている間に、断りもなくシュミーズが引きずり下ろされる。薄皮を剥ぐようにシュミーズが取り去られ、ルイーゼの雪のように真っ白な背中が露わになった。
無遠慮な手つきで素肌をまさぐられ、ルイーゼは敷布に顔を埋めた。
(やっぱりこんなところ、来るんじゃなかった……!!)
浮かれていた自分が馬鹿らしくなる。
こんな扱いは人間にするものではない。これではまるで家畜や奴隷と同じだ――。
「……ありましたわ。開いた花のような痣……、こちらは確かに十七年前の記録と一致します」
(……!)
静かな女官の声に、ルイーゼは埋めていた顔を上げた。
「やはりそうですか。確かにこの形……、過去の記録と全く同じのようね。白銀の髪と薄紫の瞳というだけでもスフェーンでは珍しいのに、この特徴的な痣……。もう決まったようなものね」
「ええ、ベルタ様」
花の形の痣は、確かにルイーゼの背にあるものだ。背の中心よりもやや低い位置にあるうえあまり大きくはないものだが、形が形なのでいやでも目立ってしまう。
(……嘘。確かにこれは小さい時からあるけれど、まさかこれが王女としての証になるなんて)
これでもう解放されるのかと思ったが、ベルタはぴしゃりと言い放つ。
「念のため、残りの特徴もすべて調べなさい。しきたりは守らねばなりません」
「……!!」
女官の手が伸びてきてルイーゼの身体を反転させた。
見知らぬ女官たちの目に、素肌をくまなく検分される。
彼女たちの顔を極力見ないように努め、ルイーゼはこの悪夢のような時間が終わるのをただ待った。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。
押さえつけられていた身体が痛い。
ルイーゼはぼんやりとした頭で寝台から起き上がった。
帳の向こうで女官たちのささやき声がする。紙をめくるような乾いた音も聞こえてきた。
ルイーゼは裸身のまま、広い寝台の上で膝を抱えてうずくまる。
「……いや……」
――同性相手とはいえ、年頃の少女として一番見られたくないところを全部見られてしまった。しかも、ろくに知りもしない人間たちに半ば無理やり衣服を剥かれた。
その事実がルイーゼを追いつめ、瞳から涙を溢れさせた。
(……もう、こんなところから出たい。私はお姫様なんかじゃない。強くもないし、気高くもない。それに、こんなに酷い人たちがいるところでなんて、絶対に生きていけないもの……)
矜持も尊厳もすべて踏みにじられた。
これでまだ自分を姫などとのたまうなら、本当にここにはいられない。
小さくしゃくり上げていると、隣から香緋の声が聞こえてきた。
「……ルイーゼ、大丈夫?」
寝台同士がカーテンで仕切られているために、顔が全く見えないのが悲しい。
気遣わしげな声に、ルイーゼはのろのろと起き上がって声を絞り出した。
「ごめんね……、あんまり」
「……最低な奴らだわ。あたしたちの気持ちなんて考えてもいないんだから」
「……もう、色々なことがいやになってきたわ。間違いならいいのに……」
「そうね……」
……だが、そんなささやかな願望はすぐに打ち砕かれることになった。
帳をかき分けてやって来た女官たちが、一斉にルイーゼにかしずいたのだ。
それと同時に、他の女官たちが閉ざされていたカーテンを大きく開いた。隣の寝台には香緋がおり、彼女の周囲にも大勢の女官が跪いていた。
ベルタがやはり慇懃に辞儀をする。
「……おめでとうございます、お二人とも。わたくしの女官たちがすべて照らし合わせました。貴女方はまぎれもなく陛下の……リシャール様の御子であらせられます」
「え――」
(嘘でしょう……)
思考が凍り付く。
それでは、クロードの説明がすべて真実だったということなのか。
(これが現実なら……。クロード様が言ったことは全部本当だったということ?)
彼は言った。
ルイーゼは「第三王女バイオレッタ」で、本当はマリアが拾ったみなしごではなく、王宮で生まれた「王女」なのだと。
(……「王女」。私が……? まさか。信じられない……)
王宮に来れば出生の謎が解けるような気がしていた。だが本当にクロードの言う通りになってしまうなんて――。
最初からアルバ座を立て直すためにここに来たようなものだから、もはやルイーゼに帰る場所はないといってよかった。
だが、喪失感や不安が一気に押し寄せてきて、ルイーゼは自らの身体をきつく抱いた。こんな無慈悲な女官たちを相手に、やっていける自信がない。帰れるものなら城下へ帰りたいとすら思う。
香緋が声を張り上げる。
「ちょっと待ってよ!! じゃああたしは劉に帰れないってこと!?」
「……そうなりますね。ですが、いくら貴女様でも少し考えればお分かりになるのでは? 劉にお帰りになるよりも、スフェーンで暮らす方がはるかに幸福なはずです。実の御父君のもとで、何不自由ない暮らしをさせていただけるのですよ。貴女様は姫君。望むものはなんでも与えられましょう」
「そういう問題じゃないわ!! あたしは父さんと暮らすのが好きだった。貧しくても楽しかった。友達だっていたし、周りの人たちも優しくて……。だから、いきなりスフェーンで暮らせなんて言われても納得いかないわよ!!」
「じき慣れるでしょう。本来スフェーン宮廷にいらっしゃるべき姫君二人の失踪。これは長年にわたる由々しき問題でございました。陛下もこれでやっと安心なさるでしょう」
ベルタの言葉には隙がない。流れるような口ぶりで香緋を言いくるめ、彼女は女官に目配せをした。
「……バイオレッタ様、菫青棟へご案内いたします」
「ピヴォワンヌ様は紅玉棟へ……」
かしずいていた女官たちに手を取られる。
ルイーゼを立ち上がらせると、女官たちは湯に浸したタオルで彼女の素肌を拭き清める。まるで、自分たちが触れた痕跡を拭い去るかのように。
そして剥ぎ取った衣服を再び着せ始めた。
「……冗談じゃないわ。こんなこと、あってたまるものですか」
「覚悟を御決めなさい、ピヴォワンヌ様。ここで生きてゆく覚悟を」
「……っ!!」
ベルタに指示され、女官たちは寝台に座り込む香緋を力ずくで立たせた。てきぱきと服を着せかける。
怒りでかたかたと震える香緋に近寄り、ルイーゼはなんとか言った。
「……香緋。これが事実なら、変えられないと思うの……。私もまだ覚悟なんかできない。でも、私ね、貴女が一緒ならなんとかなりそうな気がするのよ」
その言葉が引き金になってしまったかのように、香緋は顔を覆ってわっと声を上げた。
「どうしたらいいの……。あたし、こんなところでなんか……、やっていけない……。帰りたい……!! 今すぐあたしを帰してっ!!」
悲痛な声音に、ルイーゼは唇を噛みしめる。
香緋が慟哭するたび、結わえた芍薬の髪が揺れる。
……感情的になって取り乱す姿が痛ましくて、ルイーゼは香緋の細い背を抱き締め、あやすようにその身体を揺すり続けた。
案内された薄紫色の居住棟の前で、ルイーゼは革の鞄を下ろした。
ピヴォワンヌの暮らす棟まではまだ少々距離があるらしく、バイオレッタの方がこの棟――菫青棟へ一足先に案内されたようだった。
急いで鞄から紙の小箱を取り出し、憔悴しきっている香緋の手に握らせる。
「……香緋。これ、あげる」
「……なあに、これ?」
「私が作ったリボンなの。貴女は髪が綺麗だから、飾ったらきっと似合うわ。……あとでつけてみて」
それは女優たちの衣装の余り布でこしらえたリボンだった。下町にいたころ、彼女たちの華やかな髪飾りを一生懸命まねて作ったものだ。端切れを組み合わせて作ったものもあれば、少し贅沢をしてレースやガラス玉を縫い付けたものもある。
「……こんなもので慰めになるなんて思わないけれど……、元気を出して。私もここで頑張っていくから、一緒になんとかやっていきましょう」
いい方向になど行くはずもないことだというのに、さもどうにかなるような口ぶりになってしまい、ルイーゼは言いながらうろたえていた。
一方、香緋は小箱を見下ろして紅いまつげをぱちぱちさせていた。
「……」
怒ってしまっただろうかと不安になっていると、ふいに華奢な両腕が首に回される。長い紅の髪がルイーゼの体にまとわりつき、彼女の名と同じ花の香りが辺りに散った。
……抱きつかれたのだと理解するまでにしばしの時間を要したが、ルイーゼはほっそりとした背を抱きしめ返すと手のひらに力を込めた。
「よかったら使ってね。私の想いが、きっと貴女を守ってくれると思うから」
「……ありがと。ずっと、大事にするわ」
ルイーゼの肩口から顔を上げた香緋は、泣き笑いの表情を浮かべていた。
……スフェーン始まって以来、初の女帝とされたバイオレッタ女王。
その人生の軌跡はまさにこの日から始まった。
彼女はまだ、薔薇後宮という狭い鳥籠に押し込められたひとりの脆弱な虜でしかなかった。