第三十六章 小夜啼鳥の恋歌

 
 ……四阿の椅子の上、二人は並んで腰かけて夏の風に身を委ねていた。
 時折水を求めて降りてくる小鳥たちを、バイオレッタは指先で呼び寄せる。
「ふふ、いらっしゃい」
 残念ながら呼びかけに応じる鳥は一羽もいなかったが、ピアノの周囲や噴水の縁で思い思いに水浴びに興じる鳥たちを見つめていると自然と頬が緩んだ。
 
「姫。貴女の声はとてもお優しいですね。まるで夜にしかその声を聴かせないという小夜啼鳥さよなきどりのようです」
 ふと、クロードはそんなことを言った。
「小夜啼鳥……?」
「ええ……。ナイチンゲールとも呼ばれる鳥です。透き通った大変愛らしい声で啼くのですよ……それも、夜の間だけ」
 主に夕暮れ時から夜明けにかけて啼くのだと聞かされたバイオレッタは、その白磁の頬をうっすらと染めた。
 
(愛らしい声……、夜にしか啼かない鳥……? えっ? な、なんの比喩なの……!?)
 
 しかも、とどめを刺すかのようにクロードが畳みかける。
「姫には歌などよりそういった艶のあるお声の方が似合うのではと思いますよ。私だけがそのお声を堪能できたなら、それ以上の幸福はないでしょうね」
「あ、あの……。待ってください。それは一体どういう意味なのですか。そういう表現をされると、わ、わたくし……!」
「おや。もしや何か期待なさっておいでなのですか? ……ふふ」
 バイオレッタは言葉を失った。次いで、赤い顔のまま息をつく。
 どうやらまた言葉遊びを仕掛けられたようだ。
 
(クロード様ったら……。一体何度わたくしをからかったら気が済むの?)
 
 そこでクロードの黄金の瞳が蠱惑的にきらめいた。
「冗談ですよ。姫は本当に素直な方だ。私の一言一句にこうもしっかりと応えてくださるとは」
「クロード様ってこういう冗談がお好きですわよね。あと、言葉遊びや駆け引きの類も」
「おや、姫。怒ったのですか? その割には澄んだソプラノのお声が震えていらっしゃいますよ」
 またしても楽しげに揶揄されて、バイオレッタは唇を捻じ曲げた。
「……なるほど、今のお言葉でよくわかりましたわ。あなたはわたくしを恥ずかしがらせるのが大好きな、とても意地悪な殿方なのだと」
 むすっとして言うと、クロードはくつりと笑った。
「よくわかっておいでのようだ。……ですが、貴女にはまだわかっていらっしゃらないことがあるようですね」
「えっ……」
 静かな声音に、思わずクロードを見上げる。
 すると彼はそこでやおら表情を引き締めた。
「私は、叶うことなら貴女を私だけのものにしたいのです。脆く弱い滑稽な部分、薄汚い本来の姿……。貴女には私のすべてを見ていただきたい。もしそれで貴女に落胆されてしまったとしてもかまいません。許されることなら、私は貴女を愛したい……。ずっと貴女のおそばにいたいのです」
 クロードは滔々と言葉を継いだ。
「以前、私がピヴォワンヌ姫に言った言葉はすべて私の本心です。依存と束縛。それが私の愛し方なのです。貴女がもうどこにも行けないように、私のもとに繋ぎとめてしまいたい。……けしてもう、離れることのないように」
 バイオレッタはそこでなぜかひどく泣きたくなった。
 ……木漏れ日がクロードの額にうっすらと影を落とす。その光景に、いつか見た何かが重なった。
「クロード、様……? あっ……」
 訝しむ間もなく、バイオレッタは腰から抱き寄せられた。
「姫……!」
「クロード様、苦しいです、放して……!」
 抱きしめる腕のあまりの力強さに、バイオレッタは眉根を寄せた。クロードを押しのけようと伸ばした手は、図らずもその胸に添えられるような格好になってしまう。
 バイオレッタは息がつまるような――実際のところ、身体が軋むほどの――抱擁にうろたえた。
「バイオレッタ様……」
 ささやく声はかすれており、普段のクロードからは想像もつかないほどに弱々しかった。
 バイオレッタは震える声で問いかける。
「何が……何がそんなに不安なのですか? わたくし、あなたから逃げたりしないってちゃんと言ったのに……」
「ええ……。わかっているのです、貴女のお気持ちは。貴女がひたむきに私を慕ってくださっているということも。……疑うことを知らないほど無垢な心で、私に向き合ってくださっていることも」
「疑うって、何を……? クロード様を疑う理由なんて、わたくしには――」
 そこでクロードはかすかに笑った。まるで自嘲するような薄い笑みに、バイオレッタはまたしても狼狽する。
 強引にその顎を上向かせ、クロードは真摯でありながらもどこか昏い瞳をバイオレッタに向けた。
「貴女は私に証を与えてくださいました。あの日以来、私は貴女に手綱を握られているも同然です。ですが、このままではあまりにも辛い。私はもっと貴女に触れたい。貴女のすべてが欲しい。貴女と一つになりたい……」
 
 どこかうわごとめいた愛の言葉。
 その声音に、なぜだかバイオレッタは震えてしまう。得体のしれない恐怖が、じわじわと肌を伝い上るのがわかる。
 
 何なのだろう、この圧倒的な熱量の違いは。
 クロードの態度は出会ったばかりの頃とは明らかに異なっていた。必死な様子でバイオレッタの愛を乞い、心身ともに屈服しようとしている。
 だが、逆境に打ちひしがれる奴隷のような態度を取りながらも、彼の言動は至って強引で容赦がない。
 その変わりように、バイオレッタは無性に恐ろしくなった。
 
 なんという力強い瞳だろうと、バイオレッタはその黄金の美しい双眸を見上げる。このままでは眼前の男に本当に身も心も取り込まれてしまいそうだ。
 ……クロードの視線が、ねっとりと素肌に絡みつく。それはバイオレッタのまろやかな肢体のラインを這い上り、頬を辿り、最後に薄紫色をした瞳に注がれた。
 
「クロード様、今日はなんだか怖いですわ。どうなさったというの……?」
 クロードはバイオレッタの問いには応えなかった。
 その沈黙が、今日に限ってどういうわけか耐えがたい。重苦しい静寂はどこまでもバイオレッタを責め苛み、クロードに抱かれる彼女の身体を萎縮させた。
 やがて、絞り出すようにクロードが言う。
「貴女が私を愛しているというなら……、私にも貴女を与えて……。貴女の唇で、私の心に消えない痕を刻み付けてください。このままずっと貴女を愛し続けていられるように……」
 その言葉に、口づけをねだられているのだとすぐにわかった。
 だが、先ほどキスを交わした時のような穏やかさがその顔にないことを悟り、バイオレッタは身体を捻る。
「や……!」
「逃げないで……。私にもっと貴女を与えて、愛しい人……」
 有無を言わさず顔を引き寄せられ、諦めきったバイオレッタはきつく瞳を閉ざした。
 たちまち荒っぽく唇を塞がれて、身体のいたるところにおかしな熱が籠り始める。
 顔をわずかに傾かされ、開きかけた唇から舌が割り込んでくる。
「ん……っ!」
 易々と侵入を果たした舌先が、バイオレッタの口腔をしつこく探る。口蓋をなぞり、真珠にも似た小さな歯の上を這いまわる。
 こぼれる甘い声を唇で塞ぎ込められ、指先を無理やり熱く絡ませられて、バイオレッタは総身を震わせた。
 こうしているだけで、狡猾な舌に心の奥まで探られてしまいそうだ。
 逃げ場がない。恥ずかしい。……熱い。
 身じろぐことも容易にできず、呼吸すらままならない。
 思わず背けようとした顔を引き戻され、巧みな舌使いで無理やり接吻に没頭させられる。
「んん……!」
 ふいに漏れた自分のものとも思えない声に、バイオレッタはかっと頬に朱を上らせた。
 クロードの舌が蠢くと、つい鼻にかかったような声が漏れてしまう。淑女のヴェールなど容易に剥がされて、ほころび始めた乙女の欲望をあっけなく剥き出しにされてしまう……。
(どうして……。わたくし、こうされることをどこかで望んでいたはずなのに……なんだか、怖い……!)
 クロードは何度もその行為を繰り返し、バイオレッタのすみれ色の瞳から涙をあふれさせた。
「……キスが恐ろしいですか、バイオレッタ?」
 口づけの合間にクロードが問うた。
 バイオレッタは息を乱したまま、必要以上に彼を傷つけぬよう慎重に言葉を選ぶ。
「怖く……ありませんわ、だけど……!」
 ……キスではない。クロードが恐ろしいのだ。
 そう口にすることも許されないまま、彼女はクロードの腕の中で激しい口づけを甘受し続けた。
 
 
 くたりと力の抜けたバイオレッタを抱きしめながら、クロードが独りごちる。
「――貴女が私だけの小夜啼鳥になってくださるなら、きっとそれ以上の高みはないだろうと思えるのに」
「クロード、さま……」
「姫、私は貴女をそんな風に愛でたい。温室で薔薇を育むように……、籠の中で鳥を守るように。誰にも触れさせず、愛するのは私一人だけ。そんな世界が欲しい……」
 夢うつつなバイオレッタはぼんやりと彼にしがみつくことしかできなかった。
 クロードが何をつぶやいているのかもよくわからないまま、荒れた吐息を懸命になだめる。
 そんな彼女の髪を撫でながら、クロードはくすりと笑った。
「……少々やりすぎてしまいましたね。貴女には深い口づけはまだ酷でしょう」
「いえ、あの……恥ずかしくて……。あと、上手に息が継げなくて……」
 深いキスは初めてではないものの、よく考えてみればひどく生々しいキスなのだとわかる。一体どうしてこんなことをするのだろうと不思議に思ってしまうような。
「息が整うまでこうしていましょう」
 そう言って、クロードが自身の胸板にバイオレッタの顔をやんわりと押し付ける。
 クロードの胸に抱き込まれていると思うとこの上なく恥ずかしくなったが、みっともなく紅潮した顔を見られずに済むのだけはありがたかった。
 大きく息をつく。
 息苦しいせいか、あのおかしな感覚のせいか、涙があふれて眦がうっすらと湿ってしまう。
 蕩けたような表情のまま、バイオレッタはなんとか己を奮い立たせようとした。
 
(どうしてかしら、ここにいてはいけないような気がしてしまう……)
 
 ……胸のどこかが警鐘を鳴らしている。早くこの男から離れろと叫んでいる。
 やっと想いを通わせあった男に口づけられ、抱きしめられている。希少な宝物を讃えるように。美しい人形を愛玩するように。彼はどこまでもバイオレッタを慈しみ、大切にしてくれる。
 だが、バイオレッタの心は奇妙な違和感で満ちていた。
 彼の執着や独占欲は、これまでに何度も目の当たりにしている。人に比べると少しばかり嫉妬深い性格であるということもだ。
 けれど、今日のクロードはいつもと様子が違っていた。もどかしげな――そしてどこか腹を据えたような態度が不安を煽った。
 ささやきにはかつてないほどの陰湿さが滲み、抱擁もまた身体が軋むほど激しいものだった。
 そしてどこか投げやりになっている、とも感じたのだ。
 そんな青年に抱きすくめられているということが、バイオレッタには少しだけ恐ろしかった。
 なのに、キスで疲弊しきった身体は全く言うことを聞いてはくれず、彼女はとうとうクロードの腕の中から逃れることはできなかった。
 
 
 ……バイオレッタの呼吸がようやく整った頃。
 クロードはつと身を放して彼女の顔を覗き込んだ。
「姫……。お願いがあるのですが。そろそろ私をただクロードと呼んでくださいませんか」
「え……」
 思いがけない願いに、バイオレッタは思わず目を見開いた。クロードの表情は真剣そのもので、いつものように揶揄しているような雰囲気はまるでない。
 つまりは本気でそう願っているのだろう。
 バイオレッタは葛藤の末、小さな声でぽつりと言う。
「でっ、できませんわ。クロード様は大事な方です。わたくし、大切な方は特に敬いたいのですもの」
「大事……ですか。……それは、男として? それとも、恩人として……?」
 バイオレッタは慌てふためき、慎重に言葉を選んだ。返答次第ではクロードはすぐに機嫌を悪くしてしまうからだ。
「……殿方として、です」
「ならば結構です。私は貴女に兄のような扱いをされたくはありませんからね。貴女にだけは男として見ていただきたいのに、まるで身内のような接し方をされたのでは興醒めというものです」
「兄……? まあ。ではその場合、『お兄様』とお呼びすればいいのかしら?」
 クロードはにやりとし、皮肉げな笑みを浮かべた。長いまつげの下から挑発するようにバイオレッタを見つめる。
「……ふふ。いい度胸ですね、姫。仮にも貴女の大事な男が一番嫌がる呼称を用いられるとは」
「でも、クロード様みたいなお兄様がいたら楽しそうですけれど。物知りでしっかりしていて……、頼りになりそうですわ」
「夢のない話はおやめなさい。第一、本当に兄妹同士ならこうして触れ合うことさえ罪になるでしょう」
 やれやれと肩をすくめ、クロードは再度ねだった。
「……姫。私をただクロードとお呼びになってください。口づけと抱擁はすでにお許しいただきました。ですが私は、貴女にこの名を呼んで頂きたいのです……恋人として」
「えっ……」
 バイオレッタはみっともなく慌てふためいてしまった。
「そんな。嫌ではないのですか? わたくしなんかに呼び捨てにされて……」
「愛しい方にきちんと自分の名前を呼んでほしいと思うのはごく自然なことではありませんか?」
「……」
 それはそうかもしれない。
 バイオレッタだって、いつも寂しい思いばかりしている。
 クロードが毎回、「姫」「バイオレッタ様」などといった格式ばった呼び方をするからだ。
 せっかく想いを確認し合ったというのにまだこんな状態で、正直物足りなさもある。全く進展していないような気がして残念に感じてしまう。
 
(名前を呼ぶくらい、別にいいわよね……?)
 
 思わずきょろきょろと辺りを見渡したが、もちろん誰もいない。
「そうおっしゃるなら少しだけ練習してみますけれど……」
「ええ。何度でも……」
 バイオレッタはクロードの手に自身の手のひらを重ねると、小声で呼び掛けた。
「……ク、クロード?」
 照れ隠しに、バイオレッタは小さく笑う。
「ま、まあ。なんだかわたくし、お父様になったみたい……。クロード様を呼び捨てなんて……、あ――」
「姫……、いいえ、バイオレッタ様。嬉しく存じます……」
 そんなことを言うクロードの表情は満足げで、しかもどこか誇らしげですらある。
「私は果報者だ……。貴女に想いを受け入れていただいたばかりか、ここまで親密な間柄になれるなど……」
「お、大袈裟ですわ……、クロード様ったら」
「クロードと……」
「クロード……」
「そうです、もっと呼んでください……」
 そうねだられたバイオレッタは赤い顔のまま何度も彼の名を呼んだ。
 が、しだいにいたたまれなくなってきて、小声で訴える。
「ず、ずるいです。わたくしばっかり呼び捨てにさせるのですか……?」
「……では、私もただバイオレッタとお呼びしてかまわないのですか?」
 クロードがどこか瞳を輝かせて言うので、バイオレッタはこくりとうなずく。
 わずかな沈黙ののち、彼はとうとうバイオレッタの名を口にした。
「……バイオレッタ」
 それはこれ以上ないほど甘く恍惚とした響きだった。
 彼の唇から自分の名前が紡がれるだけで、こうも幸福な気分になれるなんて――。
「夢みたいだわ……、こんな……」
 頬を紅潮させてバイオレッタがつぶやくと、クロードはその白い額に柔らかく口づける。
「愛しています、バイオレッタ……」
「ええ。わたくしも、クロードが愛おしい……」
 バイオレッタは夢うつつの気分でクロードにもたれかかる。
 
 先ほどのまでの得体のしれない恐怖は鳴りを潜め、今ではすっかり満ち足りていた。
 クロードを見上げると、その顔つきはもう普段の彼のそれに戻っていて、先ほどキスを交わした時のようなじっとりとした仄暗さはない。
 そのことに安堵したバイオレッタは、おとなしく彼のされるがままになった。
 腰を抱かれ、手をすくい取られ、耳朶に口づけられながら、バイオレッタはただ彼の動きに身をゆだねていた。
 
「……愛しています、バイオレッタ。私の……私だけの小夜啼鳥」
 バイオレッタの手をしっかりと絡めとり、クロードは熱の籠った口調で言った。
 
 
 
 

 

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