第十六章 不可思議な痛み

 
 その日、リシャールは四人の姫を本城リュミエール宮に招いていた。
 
「皆の者、女王選抜試験のことは聞き及んでおるな」
「はい、お父様」
 頭を垂れる王女たちに、リシャールは満足げな笑みを刻む。
「……うむ。第一王女オルタンシア、第二王女ミュゲ、第三王女バイオレッタ、そして第四王女ピヴォワンヌ。そなたらに次期スフェーン王位を巡って競い合う権利を与えよう。これから一年、女王候補として己が才覚を信じて戦え。元老院の票をより多く集められた王女がスフェーンの次の王だ」
 
 現在≪星の間≫に集っているのは宮廷における重鎮たちだ。
 宰相、元老院の面々、魔導士館の長……。
 彼らは神妙な面持ちで国王の言葉に耳を傾けている。
 
 リシャールは高らかに告げた。
 
「そなたらには実際に四つの領地を治めてもらう。その土地を国に見立て、自分なりのやり方で一年間統治してみるがいい。王としての資質は必ずそこに現れる。民や土地が求めているものは何か。自分はその領地に対して何ができるのか。それぞれよく考えて導いてやるがよい」
 リシャールはそこでつとバイオレッタを見た。
「武力、美貌、信頼の三要素も怠るでないぞ。特にバイオレッタとピヴォワンヌ。そなたらは武芸に疎く、品格もまだじゅうぶんに備わっているとは言えぬ。今後しばらくは教師たちのふるまいを見て手本とせよ」
「しかと心得ました、お父様」
 バイオレッタが腰を折って辞儀をし、ピヴォワンヌもやっと身についてきた姫君らしさでそれに倣う。
 
 リシャールはうなずき、続けた。
「最後に、次期女王の伴侶に関してだが……。今回の女王選抜試験はスフェーン王家始まって以来異例の措置だ。よって、前例がない。そこで僕は女王となった王女に入り婿を選ぶ権利を授けようと思う」
 そこで第一王女オルタンシアが声を上げた。
「……なっ! それは……、スフェーンのあり方に反するのではありませんか? スフェーンはもともと後宮制度のある国です。つまり、殿方が女を囲い、女は力ある男性に守ってもらうという形が一般的なのですわ。そしてそれは今なお続いています。女王とはいえ突如として女が男性を下に見るような真似をすれば、影で何を言われるか……!」
 
 彼女の言い分は至極まともだった。
 スフェーンでは女性が男性に従うものとされており、またそれが当然であるかのような風潮がある。
 女性が王位に就くというだけでも批判の声が上がりそうなのに、まさか愛する相手も自分で選ばなくてはならないなんて。
 
 リシャールは顎を持ち上げ、不思議そうにオルタンシアを見やる。
「ふむ。そなたらしくもない意見だな」
「だって、あまりにも変わっています。これまでスフェーンに女の王が立ったことはないのですよ? そのことを思えば、元老院や臣下がきちんとついてくるかどうかも疑わしいところです。その上、女王が勝手に入り婿など選出しては力関係が崩れます」
「そうだな。貴族どもは躍起になって女王に男をあてがおうとするだろう。ともすれば自分を選んでくれとねだってくるやもしれぬ。そやつは王配として名誉ある身分を手にできるうえ、王家と姻戚関係を結ぶことができるのだからな」
「でしたら、そのような発言は撤回された方がよろしいのではありませんか?」
「……いや、撤回はせぬ。僕はかつて己の愛した女を大事にしてやることができなかった。そなたらには同じ轍を踏んでほしくない。安心して身を任せられるような男を選び、世継ぎをもうけよ。それは必ずやこの国の繁栄に繋がってゆくはずだ」
 
 バイオレッタは周囲に悟られぬよう、小さくため息を漏らす。
(……ああ。お父様は、本当にお母様のことを大切にしていらっしゃったのね)
 クララが教えてくれた通りなら、エリザベスは本当の意味でリシャールを支えてくれたただ一人の人物だったのだ。
 二人は単なる夫婦という枠を超え、“スフェーンの為政者”として互いに協力し合っていたのだろう。
 正妃であるシュザンヌを悪しざまに言うつもりはない。だが、エリザベスの方がよっぽど王妃にふさわしい人物だったのではないだろうか……。
 勝手な想像でしかないが、そう思えてならなかった。
 
 リシャールはなめらかに続ける。
「ただし、婿を選ぶときはよくよく吟味せよ。虎視眈々とそなたらを狙っておるような男やあまりにも能力のない男は避けることだ。女王の婿がどの派閥に属するかでも宮廷内の動きは変わってくる。少しでも過ぎた振る舞いをすれば婿とてただでは済むまい。けして出しゃばらず、女王を立て、王家に尽くす。できればそんな男が好ましいところだが……。とはいえ、よほど気骨のある男でなければ耐えられぬだろうな」
 恐らく女王の入り婿とは、男の矜持と尊厳をかなぐり捨てて女王に仕える種馬のような存在なのだろう。
 となれば、入り婿はあくまでも女王の付属品に過ぎず、王家の血を絶やさぬようにするための「道具」でしかないのだ……。
(そんな……。わたくしも女王になったら、殿方をそんな風に扱わなければいけないの?)
 それはあまりにも虚しいのではないかとバイオレッタは悲しくなる。
 リシャールの言葉を聞いていると、入り婿にはまっとうな愛など必要ないかのようだ。影のようにひっそりと女王に尽くすことしか要求されないとは……。
 四人の王女が考え深げに黙り込むと、リシャールは小さく息をついた。
「そなたらももうよい年頃だ。婿に関しては、女王になったときに己の目を信じて選ぶのだな。……近日中にそなたらの正式な披露目の儀を行う。式典用のドレスや宝飾品はあとで届けさせるゆえ、当日の身づくろいについて侍女たちとよく相談しておくがよい」
 真紅のマントを翻し、リシャールはいつものように踵を返した。
 
 
「なんだかすごい話になったわね」
「ええ……」
 ここは紅玉ルヴィ棟。ピヴォワンヌの暮らす居住棟だ。
 その名の通り赤を基調とした室内には、今バイオレッタがやって来ている。
 二人はサクランボとダークチョコレートの使われた濃厚なケーキを味わいつつ、浮かない顔で紅茶を飲んだ。
「王配、つまりお婿さんっていうことよね……?」
「そうね。女王のために王家に入ってくれる男ってことでしょ」
「なりたいっていう殿方はたくさんいるでしょうけど、お父様は吟味しろとおっしゃったわね。女王の位を脅かそうとする男性や、あまりにも女王を支える力のない男性は駄目だと……」
 ぱくりとケーキにかぶりつき、ピヴォワンヌは小さな顎を動かす。
 差し向かいのバイオレッタがはあ、とため息をついた。
「お父様がおっしゃるような殿方を見つけるのは難しいわ。目立たないことが苦痛じゃなくて、何よりも女王を優先し、王家の繁栄に尽くす。そんな欲のない殿方、わたくし見たことがないもの」
「まるで絵に描いた餅ね。スフェーン宮廷でそういう男を見つけるのは至難の業でしょうよ」
「……」
 
 スフェーン男は総じて思考が薄っぺらい。宮廷にたむろする男たちは快楽の追求のためだけに王宮へ顔を出しているようなもので、隙あらば魅力的な貴婦人とねんごろになろうと目論んでいる。つまりピヴォワンヌが最も嫌悪するタイプの男性ばかりなのだ。
 
「大体、女に尽くすのが楽しみだなんて、そんなご立派な男がいるわけないでしょ? 何か見返りを期待しているならともかく」
 噛みしめたサクランボから、じゅっと洋酒があふれ出す。それと絶妙に混ざりあうダークチョコレートのほろ苦さを堪能しつつ、ピヴォワンヌはちらりとバイオレッタをうかがい見た。
 姉は何やら難しい顔をして考え込んでいたが……。
「ああ、もう駄目! 頭がいっぱいで、混乱してしまいそう……」
 珍しく大きな声を上げ、バイオレッタはソファーに勢いよくもたれる。ぽすん、と音を立てて小さな頭が背の部分に沈んだ。
「そうだわ! この前、後宮書庫で本を借りてきたのだけど、面白かったの。ピヴォワンヌも読む?」
 ピヴォワンヌはぱちぱちと瞬きをした。
 
 後宮書庫。読んで字のごとく、薔薇後宮にある書庫のことである。
 正式名称は後宮付属図書室というらしいが、姫も侍女もその名称で呼ぶことはほとんどない。「後宮書庫」とだけ言えば大抵の場合通用してしまうからだ。
 隣には≪叡智えいちの間≫と呼ばれる喫茶室が設けられ、読書の合間にお茶や雑談を愉しむこともできる。いわば籠の鳥たちのための憩いの場なのである。
 
 ピヴォワンヌも時折書庫を活用させてもらうことがある。バイオレッタやクララと一緒に、作法や歴史などについて学ぶ。
 が、途中から少しずつ脱線してしまうことがあり、そんな時二人が決まって手に取るのが恋愛小説だった。
 バイオレッタやクララはどうやらそうした物語に共感を覚えるらしく、いつも表現や登場人物について楽しそうにおしゃべりなどしている。
 今バイオレッタが手にしているのも、まさにそうした類の甘い話だった。
 
「あんた、また恋愛小説なの? よく飽きないわね」
「だって、素敵じゃない。現実ではこんな殿方、滅多にお目にかかれないわ。せいぜい戯曲や本の中で愉しむだけ」
 ……わかっているならいいが、とピヴォワンヌは苦笑する。
 
 このバイオレッタという少女は夢見がちでロマンチストで、おまけにやや面食いの気があった。顔につられて悪い男にふらふらついていくのではないかと、ピヴォワンヌは時々なんだか心配になってしまう。
 ピヴォワンヌは小さく笑って釘を刺した。
「別にいいけど、あんまりのめり込みすぎないようにしなさいよね。どうせ作り話でしかないんだから」
 
 書庫にあるのは宮廷で大流行している作品ばかりだが、どれも空想世界の物語だ。
 スフェーンでは激しい色恋に身を焦がすのはもはや当たり前の行為となっており、その形は多岐にわたる。
 不貞だろうが冒涜的な行為だろうがおかまいなし、自分の欲求さえ満たせればそれで満足。そうした風潮なのだ。
 後宮にある恋愛小説というのはそういう風潮を正当化し、なおかつ大げさに表現したものが多いから、純真なバイオレッタが毒されないかはらはらしてしまう。
 
 バイオレッタはしょんぼりしながら「ええ……」とうなずいたが、しばらくのち、こちらを見つめておずおずと唇を開いた。
「ピヴォワンヌは恋をしたいと思ったことはない? その……、誰か男の方を愛してみたいと思ったことは?」
 ……訊ねるバイオレッタがあまりに無邪気で、一瞬息が止まりそうになる。
 ちりりとした焦燥感めいたものが、心の奥底を駆け抜けた。
(なんでそんなこと訊くの? バイオレッタ)
 ピヴォワンヌは別段恋物語を忌み嫌っているわけではない。年頃の娘らしい憧れはあるし、機会があれば相手を作りたいという気持ちもある。
 ただ、それが一種の衝動のように身体を突き動かすかといえばそうでもなかった。「身を焦がすような恋」などと容易に言われても、しっくりこないのである。
 
 ピヴォワンヌが好いているのは、それよりももっと別のものだ。
 ふわふわと頼りなく、けれども確かにすぐそばにあって、手が伸ばせるもの。
 一方的に庇護されたり、支配欲や所有欲を振りかざされるような間柄とは全く異なる関係。
 澄んだ水のように肌に馴染み、気づいたときにはもうすでに離れがたくなっているような――。
 
(男なんか、嫌い……)
 唇を噛み、ピヴォワンヌは心の裡で吐き捨てた。
 
 男性たちはみな勝手だ。ピヴォワンヌはそう思っている。
 父王リシャールは養父を殺した。
 寵臣のクロードは一見すると優しいけれど、実際は自分を貶すようなことばかり口にする。純粋にバイオレッタを慕う自分を、小ばかにする。
 身近に養父のようなたくましい男がいれば、人並みに恋もしただろう。
 だが、これまで散々傷つけられ擦り切れてしまったピヴォワンヌの心は、もう男性相手に純粋な好意を抱くことができなくなっていた。
(父さんみたいな男がいれば別よ。でも、どうせそんな人は見つからないもの)
 故郷に残してきた仕事仲間の顔を、一瞬だけ思い出す。
 しかし、「恋」という枠に収まるような相手ではないことを思い出し、彼女はやんわりと首を振った。
「あたしにはわからないわ。そういうのとは縁もないしね」
 答えながら、本当に恵まれているのはバイオレッタの方ではないかとピヴォワンヌは考えた。
 色恋に対してときめきや憧憬を抱けるというのは幸福なことだと思う。そういう意味では、バイオレッタは自分とは似ても似つかない少女なのだ。
 
「こういうのって、素敵だと思わない?」
 小説の挿絵を指さし、バイオレッタが面映ゆそうに問いかける。
 そこには、柳腰の貴婦人を胸に抱いて愛をささやきかける男の姿があった。手には一輪の真紅の薔薇をつまむように持ち、貴婦人に捧げている。
 何も感じないというのが正直な感想だ。
 自分がそうされることを考えると、ピヴォワンヌはつい顔をしかめたくなる。
 あまりに自分とかけ離れている状況だからなのか、単に男嫌いだからなのかははっきりしないのだが。
「あたしはそういうの、ピンとこない。まだこのまま……、あんたやクララやプリュンヌたちと遊んでいたいの。誰かに恋をすることなんて考えたくない」
「……そう、ね。確かに、それもわかるかも。わたくしたちはまだこんなことをするような年齢としではないものね。でも、いつかきっとこうして恋に身を焦がすのだと思うわ。それも、まるで事故のように、絶対に避けられない形で」
 
 ……「事故」。単なる小説の挿絵を指して言うには随分似つかわしくない響きだ。
 だが、一理あると思った。
 恋慕の情を抱くのは突然で、しかもそうなるまでさほどの時間はかからないものだ。事故と表現するのはある意味正しいように思えた。
 
 
***
 
 
「クロード。王都の状況はどうなっておる」
 バルコニーにたたずみ、アガスターシェの町を見下ろしながらリシャールが問うた。
 クロードは従順に頭を垂れ、淡々と答える。
「は……。未だ大多数の地区が焼けたままの状態で、王都自体以前のようには機能しておりません。死者も多く、完全な再建まではもうしばらく時間を要するかと」
「ふむ……、何者かの示威行為なのか……? 城下町を焼くとはふてぶてしい輩だ。それにしても、この惨状を一体どうすればよいのだろうな……」
 ふてぶてしい、という言葉に、クロードは嗤う。
(……一体どちらがですか、陛下)
 かつて自分が所有していたすべてのものを奪い、それでもまだ足りない、できないと言って駄々をこねているリシャール。
 領土の拡大を目的とした突然のアルマンディン侵攻や、周囲の人間を慮らない身勝手な態度からも察せられるが、彼は基本的にわがままが過ぎるのだ。与えられたものに満足できず、次々と行動を起こそうとする。リシャールの性格はまさに子供のそれだ。
(私ならばもっと的確な行動をするというのに、あなたは……。ですが、その無知さと幼さは都合がいい。せいぜい利用させていただきますよ、『陛下』)
「下手をすれば城下に活気がなくなり、商業や貿易といった面にも影響が及びます。住民の不安を取り除き、安心してやすめる場所を与えてやりましょう。今後のことについては、一旦町全体の士気を上げたうえで再度考え直せばよいかと……」
 事もなげにクロードは提案した。これくらいの案は容易に浮かぶ。そう、怯え切った民たちをうまくコントロールし、思い通りに動かせばいいのだ。クロードにとっては容易いことだ。
(……一度解体されたものを再構築し、先を見据えて形態を立て直す。それは君主が兼ね備えるべき力の一つだ)
 国というのはけして盤石なものではない。
 一国の王になるというのは、生きた人間を抱えること、そして彼らの生活をそっくりそのまま背負わされるということである。
 そういう意味では彼ら臣民は物のわからない赤子のようなものだ。君主がすべきことというのはその赤子をあやし、守り、こちらの都合に合わせて巧みに支配することなのである。
 一度突き崩されたくらいで音を上げていては、国など守れるはずがない。
「……お前は僕などよりよほど世界を知っているのだな、クロード。僕はお前といると、時々自分がとても小さく見えてしまう」
「いいえ。陛下はお小さくなどございませんよ。あなた様の御代はこれからです。陛下は偉大なる君主であらせられる。その身に神の恩寵さえ受けられましょう」
「……嘘だ……!」
 絞り出すようなか細い声に、クロードは彼を見る。
「お前は言ったではないか……、僕にはもう猶予がないと。この身体はもう、終焉を迎えようとしていると……!」
「……」
 リシャールに頼まれ、クロードはこれまで何度か彼の身体を見ている。術式の環の状態を確かめるためだ。
 人に術が施されると、その術式は環となってその人間の周囲を取り巻く。茨のように……、そして枷のように。
 人間には目視できないその環を実際に見ることができるのは、四大神よんだいしんのしもべと契約を交わして術者や魔導士になった者だけだ。
 クロードはリシャールの信頼も篤い寵臣で、魔導士としての能力も群を抜いて高かった。そのため、秘密裏にリシャールにその仕事を任せられることとなったのだ。
 ……すなわち、彼の呪いの進行具合を確認するという仕事を。
「……確かに申しました。ですが、打開策が何もないと言ったわけでは――」
「嘘だ!! お前は嘘をついておる!! その目を見ればわかる……!! お前の目は、僕を憐れんでいる目だ……!!」
「……」
 クロードは沈黙した。
 憐れみがないといえばそれこそ嘘になる。この少年には同情するだけの理由がありすぎるからだ。
 突然成長を止めた肉体、退行してゆく精神……。
 実母である王太后には欲望のはけ口として人形のような扱いをされ、自らの意思とはおかまいなしに花嫁をあてがわれた。
 その花嫁はといえば、あちこちで私生児をこしらえてくる始末。悪名高き彼女は、リシャールの国王としてのプライドを三度にわたってことごとく踏みにじってくれた。
 そして、愛娘の失踪と異国から迎えた側妃の出奔。
 哀れなことに、この少年王には心安らかな時というものがなかった。それこそ呪われているのではないかと思うほど、彼の生には苦難ばかりが付きまとう。
 挙句の果てには最愛の女性さえ喪い、今のリシャールにはもう運命と戦うだけの気力は残っていないのではないかと思われた。
「恐ろしい……! 僕は、恐ろしいんだ……! クロード……、僕はどうすれば……っ」
「そのように怯えられずともよろしいのですよ、陛下。いかな死神であろうとも、あなたの御命は奪えません」
「そんなはずはない……! 僕は死ぬのだ……、お前はそう言った! 明日か、明後日か……、それを考えただけで、僕はもう――!!」
 がたがた震えるリシャールを、クロードは漆黒のコートの胸に引き寄せた。細いおとがいに指をかけて持ち上げ、驚きと怯えで見開かれる瞳を見つめてささやいてやる。
「……震えが収まるまでこうして抱いております。どうぞこの魔導士にすべてを委ねてください」
「ふっ……、ううっ……!! クロード……っ!!」
 
 あっけない陥落に、クロードは口角をつり上げた。
(……人の心も国も似たようなもの。甘やかしてあやせば、相手はどうあってもから離れられなくなる。そもそも国とは人の集合体であり、人の生活そのものだからです。どうぞその身をもって覚えてくださいね、陛下。この私が直々に実践して差し上げているのですから……)
 クロードは嘲笑すると、華奢な少年王の身体をしっかりと抱きこんだ。
 
***
 
 
「今日もいいお天気ね」
「能天気なんだから、もう」
 父王リシャールへのご機嫌伺いが終わって数日が経った。
 今日は外で食事をしようということになり、二人は並んで緑廊パーゴラの中を歩いていた。
 肌を撫でる爽やかな初夏の風が気持ちいい。雲一つない空は美しいセルリアンブルーで、コマドリやエナガが楽しげに行き交っている。
 緑廊を伝う薔薇やクレマチスの色彩が目に楽しく、時折鼻腔をかすめる花々の芳香もまた快い。
 ピクニックをするにはもってこいの日和である。
 バイオレッタは手に厨房で作った料理を携えている。彼女自身がはりきって用意したもので、切り分けたキッシュ、オレンジ花水で風味をつけた平たいフガス、小ぶりのガトー・ド・サヴォワなどだった。
 形が崩れぬようにと、出がけにサラとダフネが丁寧に籐の籠に収めてくれた。
「どこに行く?」
「……うーん、そうねぇ。とりあえずこの先の四阿パビリオンまで歩いてみましょうか」
 バイオレッタの言葉に、ピヴォワンヌは笑顔でうなずいた。
 
 薔薇後宮には、いたるところに二人の好奇心をくすぐる場所がある。
『愛の神殿』と呼ばれるドーム、オランジュリー、小川。
 四阿に洞窟、婦人たちがサロンを開く建物や音楽室、劇場……。
 早くも後宮に興味を持ち始めているバイオレッタは、熱心にそれらを見たがった。彼女はそういった美しい光景や建造物などに目がないのである。
 
 そのほかにも、美しい絵画や花、音楽なども好きなようだ。
 それも、ピヴォワンヌとは異なり、どこか大人っぽいものを愛好する傾向があった。花なら薔薇やすみれ、音楽ならしっとりと落ち着いた小夜曲セレナーデ夜想曲ノクターンといった具合に。
 
「あっ、危ないわよ。中身が落ちちゃうわ」
 籐の籠を持ったまま伸びをするバイオレッタに、思わず忠告する。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと持っているもの。それに、落ちたら拾えばいいわ」
 あっけらかんと言われ、ピヴォワンヌは笑った。
 バイオレッタのこういうところが好きだ。のんびりしていて、大らかで。いつも余裕があって多少の困難はものともしないところが。
 それに、バイオレッタといるとピヴォワンヌはどんなものにもなれるような気がする。
 可愛らしいものを素直に褒め称えて愛でる乙女。己の信念のため必死に戦い続ける少女剣士。
 相反するどちらの気質も、バイオレッタは丸ごと受け入れてくれる。
 貴女はそのままでいいと言って、ピヴォワンヌをピヴォワンヌらしくいさせてくれる。だから好きなのだ。
 
「あんたって料理が上手よねぇ。あたしも教わりたいくらいだわ」
 ピヴォワンヌの何気ない一言に、バイオレッタは首を傾げた。
「もしかして、あんまりしたことない、とか……?」
「全然! あたし、体を動かすのは大好きだけど、家に籠ってこつこつ料理とかするのは苦手で」
「えっ? これまでどうしていたの、ご飯」
 何せ王宮に来るまで養父と二人暮らしだったのだ、バイオレッタが不思議に思うのも無理はない。
 恐らく誰が炊事をやっていたのか気になったのだろう。
 ピヴォワンヌは胸を張って答えた。
「うちは父さんが器用でね。昔旅をしてる時に覚えたんですって。それで色々作ってくれたわ。劉の郷土料理とか、蒸し物、炒め物……、お茶の時に食べる点心まで。ま、近所のおばあちゃんとかに言えばおかずくらい分けてくれたけどね」
「まあ、すごい……! お父様が生きていらしたらぜひ習いたかったわ」
 もし今も生きていたら、という表現にも、もうさほど傷つかずに済んだ。バイオレッタが一生懸命話を聞いてくれ、親身になって慰めてくれたからかもしれない。
「あんた相手なら『これはいい弟子になりそうだな』って言って喜んで教えたと思うわ。なんてったって、あたしの姉さんだもんね」
 そう言っておどけると、バイオレッタはくすくす笑った。
「うふふ……! ピヴォワンヌにお姉さんの扱いをされると、なんだかちょっと変な感じ。いつも『バイオレッタ』って呼び捨てにしてくれるから……」
「あら、自慢の姉さんだと思ってるわよ? 何ならプリュンヌみたいに『バイオレッタお姉様』って呼びましょうか?」
「ええっ……、どうしましょう、それはそれでなんだか恥ずかしいかも……」
 二人は他愛のない話を続けながら緑の中を歩いていたが。
「きゃっ……」
 後ろを歩いていたバイオレッタが声を上げる。せり出したタイルに足を取られたのだ。
「ちょっと、危な……!!」
「!」
 振り返ったピヴォワンヌの上に、バイオレッタはそのまま倒れ込んできた。
 どさっ……という派手な音ともに、二人して道の上に転がる。
「いったぁ……!」
 思い切りしりもちをついてしまい、ピヴォワンヌは顔をしかめた。
「あ、あの、ごめんなさいっ……!!」
 身を起こすと白銀の髪がふわふわと頬に落ちかかった。
 バイオレッタはピヴォワンヌにまたがる格好になっている。ふっくらとした少女らしい体の重みを感じながら、ピヴォワンヌはその顔を見上げた。
「……どこも怪我してないわね? バイオレッタ」
「あっ、ええ……、大丈夫みたい。……ごめんね、ピヴォワンヌ。貴女の方が小柄なのに、こんな風に敷いちゃって……」
「やだ、もう。敷くとか何言ってんのよ……。ふふっ……」
 思わず破願すると、バイオレッタがこちらに手を伸ばしてきた。芍薬色の髪をかき上げて頬に触れられる。
「ピヴォワンヌこそ、痛いところはない?」
「……ないわ」
「よかった……」
 
 しばらくの間、静寂が下りた。なんとも形容しがたい雰囲気に呑みこまれる。
「……」
 黙り込んでいると、何か熱くて柔らかいものが頬に押し付けられた。敏感な頬の皮膚を吐息が這う。
 しばらくしてゆっくりと離れていったそれは、まぎれもなくバイオレッタの唇だった。
「……ありがとう、ピヴォワンヌ。大好きよ」
 
 ……めまいがするかと思った。
 のどかな木漏れ日の下、それはあまりにも無邪気な接吻だった。
 ピヴォワンヌは硬直しきって動かない身体をどうにかしようとした。
 だが、痛みとも喜びともつかない感情があふれてきて、体がろくにいうことを聞かない。
(何、このせり上がるような感情は……)
 ……奇妙なデジャヴ。
 自分は前にも彼女に同じことをされなかったか。澄み渡る青空の下、こうして新緑がさざめく中で。
 
 気づけば、ピヴォワンヌはバイオレッタの腕をしっかりと掴んでいた。
「バイオレッタ、あたし――!」
「――バイオレッタ様?」
 ピヴォワンヌを遮ったのはなんとクロードだった。緑廊の向こうにたたずんでこちらを見つめている。
 彼は怪訝そうな面持ちで二人に歩み寄ってくる。
 クロードを振り仰ぎ、バイオレッタが慌てたように言った。
「クロード様! いやだ、わたくしったら……!」
 バイオレッタは何事もなかったかのようにピヴォワンヌの上から退いた。……何事もなかったかのように。
「いらしていたのですね、クロード様」
 ドレスの土埃を払い、バイオレッタは穏やかに話しかけた。
 クロードもまた優美な笑みでそれに応える。
「はい。いつものように用事で書庫へ参りました。普段と違った道を通ろうと思っただけなのですが、まさか貴女にお会いできるとは……」
 どこか嬉しそうな顔でクロードは言う。言葉通り、思いもよらない出来事に喜んでいるといった様子だ。
「それにしても……一体どうなさったのです、このような場所で」
「いえ。ちょっとだけ散策を。そうしたらタイルにつまずいてしまいましたの。ピヴォワンヌが抱き留めてくれたから大事には至りませんでしたけれど」
「それはいけません。お二人とも、念のため宮廷医に診てもらった方がよろしいでしょう。いらっしゃい、姫……」
「はい、今。……ピヴォワンヌ、大丈夫?」
 言って、かがみ込んでこちらに手を伸べる。
 いっそ残酷なほど朗らかな笑みを、バイオレッタは浮かべた。
 
(なんで――)
 
 取り残されたピヴォワンヌの悲しみには、彼女はまるで気づかない。
 本当はピヴォワンヌだってクロードのようになりたい。男性のように、バイオレッタを守れるくらい強くなって、誰よりも頼りにされたいのだ。
 けれど、同性であるという事実がいつもそれを阻む。異母姉妹きょうだいであるということもだ。
 よく解釈すれば誰よりもバイオレッタに近しい少女ということにはなるけれど、それだけだ。否、近しすぎるがゆえに意識してもらえていない節さえある。
(バイオレッタ……。あたしの声は、あんたには届かないのね)
 うなだれて、ピヴォワンヌはドレスのスカートを握りしめた。
 
 
 
 夜更けの紅玉棟。
 ダフネが夜着を用意してくれている間、ピヴォワンヌは昼間の出来事を反芻していた。
 数名の侍女が寝台を整え、枕を叩いて膨らませてくれている。
「……そう。事故。事故……、だったのね。ただの……」
 レースの夜着を携えたダフネが、訝しげに首を傾げる。
「……ピヴォワンヌ様?」
「ううん、なんでもない……」
 クロードとバイオレッタの作り出す絶対的な空間に、ピヴォワンヌはどうしても立ち入ることができないように思えた。
 あれは不可侵の領域であり、自分が入り込んではいけない場所だ。なぜだかそう感じてしまう。
 バイオレッタは折につけクロードを「懐かしい男性ひと」と表現する。
 初めて劇場で顔を合わせたとき、とても不思議な感じがしたのだそうだ。
 
『……おかしなことを言うけれど、あの方と前に一度どこかで会ったことがあるような気がして。それに、クロード様の体温や香りって、なんだかとても他人のもののように思えないの。……懐かしいの、すごく』
 
 そう言って面映ゆそうにおもてを伏せたバイオレッタ。
 だが、それを聞いたピヴォワンヌはやり場のない感情でいっぱいになった。……彼女本人にはとても言えなかったけれど。
(どうして……? あたしだって、あんたと出会ったときに懐かしいと思ったわ。昔からの知り合いに再会したみたいな、不思議な感じがあった。でも、あんたがそれを感じるのはあいつなのね。クロードなのね――)
 バイオレッタはいつも、どこか潤んだ目でクロードを見ている。それが単なる尊敬や憧れの念からくるものでないことは明白だった。
 クロードの方もわずかながらそれを察知しているようで、彼女に対してひときわ丁寧に、親切に接する。もちろんそれは彼女に好かれたいからだろう。
 
(誰がどう見ても、あの二人はお互いに惹きつけあってる。物欲しそうにお互いを見て、できることならその心が欲しいって必死で叫んでる……)
 
 彼にバイオレッタを盗られるのなんか絶対に嫌なのに、まるでそれが当たり前であるかのように思えてしまう自分もいて、それもまた悲しかった。
 この感情はまるで迷路だ。進むことも戻ることもできない――。
 
「バイオレッタ、あたし、あんたのこと……」
 その先はどうしても言葉にできなくて、ピヴォワンヌはきゅっと唇を噛みしめた。
 
 
 
 
 

 

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