第三十九章 狂いだす愛

 
 
 次の日。
 彼との約束通り、バイオレッタはクロードとともに薔薇後宮の東棟へ足を運んだ。
 
 この東棟は様々な植物園を集めた場所だ。
 話によれば、リシャールは王女が生まれるたびにここの庭園を増設させたのだそうで、紫陽花園、鈴蘭園、李園といった王女たちの名にちなんだ庭がいくつもある。
 とりわけ有名なのは蓮花れんか園だが、そのほかにも色の名前を冠した庭園や硝子張りの温室となっている熱帯植物園などもあり、日々の無聊を慰めるには事欠かない。
 同じ棟には後宮書庫もあって、一日ゆったりと読書や庭園鑑賞を愉しめるようになっている。散策などで疲れた時には書庫にある≪叡智えいちの間≫で休憩することも可能だ。
 
 バイオレッタはクロードに手を引かれ、東棟の中でもやや奥まった場所にある一角に連れていかれた。
 そこは漆黒の柵で覆われた区域で、鎖が幾重にもかけられた門扉はいかにも禁じられた花園といった雰囲気だ。
 中央には厳重な造りの錠前がぶら下がっている。
 わずかに変色したそれに触れ、バイオレッタはぽつりと言った。
「……錠前が錆びてしまっているわ」
「ええ……、こちらの庭園は閉ざされてからかなりの時間が経過していますし、ある程度は致し方のないことかもしれませんね。今ではここを訪れる者はほとんどいないと聞いています。むろん庭師たちは合い鍵を持っているのですが、手入れに来るのは年に数回ほどです」
 バイオレッタはなるほど、と思う。
 本当にここは「禁じられた薔薇園」なのだ。父王リシャール寵姫エリザベスとの思い出を閉じ込めるために時を止めてしまった場所なのだ……。
 
 クロードはするすると鎖をほどき、中央にのぞく鍵穴にリシャールから受け取った鍵をぐっと差し込んだ。彼がゆっくり鍵を回すと、重たげな音を立てて錠が外れる。
 両開きの扉を、クロードはそっと押し開く。
 すると、きい……というかすかな音とともに、門扉が完全に開け放たれた。
「開いた……」
「さあ、入ってみましょう」
 クロードは穏やかに笑んで、バイオレッタの右手を取った。
 二人はそのままさくさくと芝生を踏みしめて中へと入る。
 その先に広がっていた光景に、バイオレッタは思わず息をのんだ。
 
(これは……!)
 
 それは夢のように幻想的な光景だった。
 赤、薄紅、純白にクリームイエロー。くすんだ深紅にこくのあるオレンジ、上品な印象を抱かせる薄紫……。
 咲き乱れる色とりどりの薔薇が目を奪う。
 「わあ……!」 
 バイオレッタがそうして声を上げるのも無理はなかった。
 何しろ年頃の娘が思わず瞳を輝かせずにはいられないほど素晴らしい庭園なのだ。
 
 こんもりと生い茂り、まるで見る者を誘うように花開く薔薇。
 行儀よく続いたトピアリー。随所に立ち並ぶイチイとツゲ、純白の花を咲かせる夾竹桃。
 花壇の周りはふくよかな肢体の女性が浮き彫りにされた芸術的な花鉢で彩られている。
 植え込みの花は言うまでもなくすべて薔薇だ。合間にはそれと調和するようにソリダスターや撫子、百合などが植えられている。
 やや奥まった箇所――庭園の中心部には立派な乳白色の女神像が置かれ、その周りには神話に登場する乙女や人魚の石像がぽつぽつと並べられている。周囲は小さな泉になっていて、色とりどりの羽根をもつ鳥たちが楽しげに水浴びをしていた。
 庭園の奥には石造りの瀟洒な館が建てられている。もしかすると土いじりに疲れたリシャールたちがそこでやすむこともあったのかもしれない。
 
 バイオレッタはそこで、ギャラリーにかけられている母妃の肖像画を思い出した。
 彼女は、まるでリシャールと揃いのような黄金色の髪、そしてバイオレッタと同じすみれ色の瞳を持っていた。
 大ぶりの紅薔薇を留めつけたドレスを纏い、手には扇を携えて、おっとりとした微笑を浮かべていた。
 優しそうな女性だと思った。
 淡く輝く金髪、見る者を案じるように細められた瞳。柔らかい笑みを湛えたおもて。
 表情はひどくたおやかで、見る者を威圧するような刺々しさがまるでなかった。それでいて高貴さや上品さといった要素も兼ね備えていて、顔立ちこそあどけないが芯の強そうな女性だと感じた。
 エリザベス・ソフィア・フォン・オルレーア。敗戦国オルレーアから献上され、宮廷人たちからは『薔薇の王妃』の愛称で親しまれたリシャールの名花はな
 彼女が今でもリシャールのそばにいてくれたなら。そうであったなら彼はどんなにか救われたことだろう。
 思わずそんなことを思ってしまうほど、その姿は母性と慈愛に満ちていた。
 
 運命の女神とはもしかしたらひどく無慈悲な存在なのかもしれない。
 愛する寵姫というたった一人の理解者をリシャールから奪い、それでもなお彼を苦しめようと画策しているのだから。
 
 バイオレッタは母妃の姿を脳裏に思い浮かべながら、再度庭を見渡した。
 そこには美しいけれどもどこかほっとする景色が広がっている。
 二人で一体どんな話をしたのだろう。
 どんなささやきを交わし合い、どんな笑い声を立てたのだろう。
 この薔薇園には確かにその当時の記憶が眠っている。二人の想いのかけらが、あちこちにちりばめられているのだ……。
 
「……ここが、お父様とお母様の慈しんだ場所……」
 感極まってつぶやくバイオレッタに、クロードはそっと言った。
「……美しい庭園ですね」
「ええ……」
 ここはリシャールとエリザベス、二人が作り上げた夢の楽園なのだ。
 今そんな場所に立ち入っているということが、バイオレッタにはなんだか信じられなかった。
 同時に、自分などがこの領域を侵してもいいのだろうかという不安が頭をもたげる。
 いくら娘であるとはいえ、バイオレッタが容易に足を踏み入れるにはこの薔薇園はあまりにも整いすぎていた。
 トピアリーは一部の乱れもなく剪定されているし、木々や花の手入れも完璧そのものだ。まるで少しの変化も許さないとでもいうように、隙なく整えられている。
 何せ今でも手入れをさせているほどなのだ、リシャールのこの場所への思い入れが並大抵のものではないことがうかがえる。
 
(……それだけお父様たちはここを完成させるのに一生懸命だったのね)
 
 リシャールはここでエリザベスと過ごす時間を大切にしていたに違いない。
 むしろ、この庭園の中でしか見せない顔というのもたくさんあったのではないだろうか?
 感極まったバイオレッタは思わずつぶやいた。
「お父様……」
 
 正妃としてシュザンヌを迎えた手前、彼はけしてエリザベスだけを贔屓するわけにはいかなかったのだろう。
 だが、実際に政治を手伝っていたのがエリザベスだとするなら、二人の絆は何よりも強固なものだったはずだ。
 リシャールの政務を補佐し、第二王妃として宮廷の派閥をまとめ、第一王妃や王太后の顔を立てながら巧みに立ち回る。
 それは並大抵の女性ができることではない。敗戦国から輿入れしてきた姫がそんな風に振舞うのはほとんど不可能に近い。
 ……スフェーン側の人間を立て、スフェーンの役に立つような政策を考えて王に提案するなどということは。
 
 恐らく彼女は、正妃という位に慢心していたシュザンヌとはまるで真逆の気質を持つ女性だったのだ。
 たとえ宮廷人に煙たがられることがあっても、エリザベスはめげずに精一杯リシャールに尽くしたのだろう。
 その心根を、バイオレッタは素晴らしいと感じた。
 たとえ母娘の繋がりがなかったとしてもそう思うだろう。
 今となっては、アスターやクララ、プリュンヌといった生前のエリザベスの様子を知る友人たちがひたすらに羨ましかった。
 
(あんな事件に巻き込まれてさえいなければ、わたくしはお母様に会えたのに。もっと一緒に色々なことができたはずなのに……)
 
 だが、そう思っているのはきっとリシャールも同じなのだろう。表立って口にはしないものの、彼はしばしばそうした態度をとる。
 エリザベスの名を引き合いに出し、懐かしげに昔話をし、バイオレッタに彼女の面影を見出そうとする。
 きっと彼は彼なりにそうやって過去に揺蕩っているのだ。突如として消え失せた幸福な未来を惜しんでいるのだ……。
 
 バイオレッタはそこできゅっと口をつぐんだ。
 ……今はここの空気を味わうことに専念しよう。悲観することなどいつでもできるではないか。
 
「すみません、クロード様。少しだけぼんやりしてしまって……」
「……よろしいのですよ。貴女にとってもこちらは大事な場所なのですから」
 その言葉になぜか泣きそうになって、バイオレッタは無理やり笑顔を作った。
「……ごめんなさい! めそめそするのはもうやめにします。……そろそろ行きましょうか、クロード様。薔薇園の中を観てきましょう」
 バイオレッタの表情をうかがっていた彼は、そこでふっと笑った。
 バイオレッタの手を素早く取ってキスを落とす。
「今は二人きりですよ。私のことはどうぞクロードとお呼びになってください」
「え……、でも」
 自分ばかり一方的にクロードを呼び捨てにするわけにはいかない。
 そう説明すると、彼はバイオレッタの手を取ったまま事もなげに提案した。
「では、私も今だけは貴女をお名前でお呼びします。それならばよいのでしょう?」
 そんなことを言われてはうなずくしかなかった。
「は、はい……。……クロード」
 やっぱり慣れない、とバイオレッタはそわそわした。
 アスターやクララのようにもともと友人同士というわけでもないし、いきなり親しげに名前を呼んだり呼ばれたりといったことがどうしても恥ずかしい。
 だが――。
「では行きましょう、バイオレッタ」
「!」
 何のことはないというように、クロードはさらりとバイオレッタを呼び捨てにする。
 そしてくい、と手を引っ張って薔薇園の奥へと連れて行くのだった。
 
 
 薔薇園を進んだバイオレッタは、その圧倒的な美しさに思わず口をぽっかりと開けた。
「まあ、奥にまでこんなにたくさんの薔薇が……! わあっ、つる薔薇がアーチになっているわ!」
 丁寧に誘引されたつる薔薇が形のよいアーチとなって庭園を魅惑的に演出している。
 思わず下をくぐり抜けてまじまじと眺める。
 薔薇は淡い薄紅色をしていて、透けるような花弁の連なりが見事だった。指で持ち上げて香りを確かめると、まるでムスクのような甘い匂いが漂う。
「……いい匂い」
 きょろきょろと辺りを見渡すと、ほかにも様々な演出がなされていて驚く。
 アイアン製の支柱や石垣に這わせているもの、クレマチスと調和させているもの、根元にラベンダーやマーガレットを添えたもの……。
 そのどれもが薔薇の花のよさを最大限に引き立てている。
 花壇に植えられたハマナスや野いばらなども目に楽しく、バイオレッタはしばし夢中で庭園を駆け回った。
「素敵なところ……」
 つぶやくと、近づいてきたクロードが微笑する。
「ええ、さすがに趣味がいい。王宮の庭ともなると、やはり庭園に対する情熱の度合いが違ってくるようですね。この国ならではの様式を取り入れながらも、どこか他の国の要素なども加えられていて……大変興味深いです」
「クロードのお邸も素敵でしたわ。お邸がそもそも城館のようだから、つる薔薇やアーチといったものがとっても映えますわよね」
「ふふ……、ありがとうございます。ですが、今日こちらにお邪魔してみてわかりました。私の庭など大したことはないのだと。いえ……そもそも一国の主たる国王陛下のお庭と比較すること自体が失礼なのですがね」
「……で、でも、わたくしは好きです。クロードのお庭……」
 控えめに主張すると、クロードがにこりとする。
「おや……、私の姫はお優しい方だ。私も貴女が大好きですよ……、慈悲深く温かい御気性でいらっしゃるから」
 バイオレッタはそこで苦笑いした。庭の話をしていたはずが、いつの間にか話の論点がずれてきている。
「い、いえ、その……別にそこまで言ってくださらなくても……」
「ふふ……遠慮することはありません。もっと素直にお受け取りください、バイオレッタ」
「は、はあ……」
 庭を褒めただけでどうしてそう話が飛躍するのだろうかと思いながらも、バイオレッタは彼と手と手を絡めあって庭園の中を歩き出した。
 
「これ、いい香りですわね」
 バイオレッタはそう言って、植え込みに咲いたモーヴの薔薇を持ち上げる。
 クロードは吸い寄せられるようにその花弁に鼻先を埋め、わずかに表情を和らげた。
「フルーツ香でしょうか……、確かに香水のようによい香りがします」
 甘く爽やかで、どこか心安らぐ香りだ。
 そこでバイオレッタはぽつりと言った。
「……クロード。この一瞬の香りをずっと留めておけたらいいのにと思われませんか?」
 クロードはすぐにその意味に気づいたようで、軽く何度かうなずいた。
「ええ……、確かに。いかに薔薇の香りを表現したものであるとはいえ、薔薇の香水やサシェの類は所詮まがいものでしかありません。生花の香りはそれらとは一線を画しているもの。やはり手に取って香りを確かめたその一瞬が大切なのでしょう」
「そう、そうですわよね……! 生花だと、本当に新鮮な生きた香りがする気がします。香水瓶に閉じ込められた薔薇の香りって、やっぱりどこか違うのですもの……」
 バイオレッタの必死な様子を微笑ましげに見つめ、クロードはくすりと笑った。
「花が手に触れた時の感触といい、目で堪能する花弁の美しさといい……やはり生花には生花ならではの魅力がありますね。真髄を愉しむにはやはり生きた薔薇の花が一番よいのでしょう」
「代わりのものでは駄目ですわよね。香りは留めておけなくても、やっぱり直にお花に触れて可愛がってあげるのが一番好きだわ」
 にっこりと笑うと、クロードが苦笑する。
「……おやおや、私の姫は相変わらずですね。貴女が可愛がりたいのは恋人わたしではなく花なのですか?」
「そ、そんなことは……!」
「ふふ……」
 
 その後も二人はたわいない会話をしながら庭園の散策を続けた。
 バイオレッタは茂みの奥に鮮やかなピンク色の薔薇を見つけてはしゃいだ声を上げた。
「あっ、クロード。見てくださいませ、ここにもこんなに可愛い一重の薔薇が――」
 興奮のあまり、クロードのコートの袖口をくいっと強く引っ張ってしまう。
「……」
 クロードは数回だけ静かな瞬きをした。
 そして事もなげに言う。
「……どうぞ、お取りください」
「えっ……」
 腕を絡ませてもよいとでもいうように、クロードが自身の腕を差し出す。
 バイオレッタはたっぷり数秒悩んだ末、彼の腕に自分のそれをそっと絡ませた。
「その……、この前もこうしましたから」
 つたなすぎてもはや言い訳にすらなっていないが、念のためぼそぼそと主張しておく。
「ふふ。もっと素直になってくださってもよろしいのに……」
「な……!? もう。クロード様! それはわたくしの台詞ですわ! 上着の裾を引っ張っただけで勘違いなさらないでください! 腕を組みたいならそうおっしゃってくださればいいのに……!」
 が、クロードは整った眉をくいと持ち上げて笑う。
「おや、バイオレッタ。もう呼び捨てはおしまいですか?」
「あっ……、こ、これはその……」
「約束とは守るべきものですよ、バイオレッタ。決まりを破った罰としてこちらをいただきましょうか」
 頬を寄せられ、素早く唇を奪われる。
 あまりの素早さに抵抗らしい抵抗もできず、バイオレッタは弱々しく彼を振り払った。
「も、もう……、いやです。そんな……、そんな意地悪ばっかり……」
「はははっ……!」
 クロードはそこで、彼にしては朗らかで軽快な笑い声を上げた。
 あまりに楽しそうな様子に、バイオレッタもつい顔が緩んでしまう。
 
(……やっぱりこうしたお顔をされている方がずっと素敵だわ)
 
 大人びた姿ももちろんさまになるけれど、こうして無邪気に笑っている姿も好きなのだ。
 今のクロードは、ただの年若い一人の青年に見えた。
 宮廷で策士のように立ち回っている時とは全く異なる、溌溂とした笑みを浮かべている。
 出会ったばかりの頃は、憂愁の色が濃い青年だと思った。終始何かに疲れているような顔つきだったし、気安く他人を寄せ付けないような鋭利な雰囲気さえあった。
 だが。
 
(今のクロード様、前よりずっと親しみやすい空気を纏っていらっしゃる。わたくしを突っぱねるようなことももうなさらないし、何より笑顔がとても自然だわ)
 
 嬉しくなったバイオレッタは身を乗り出してねだってみた。
「わたくし、もっとそのお顔が見たいです。……いいえ、見せてほしいわ。どうしたらいいかしら」
「キス一つでお目にかけましょう」
 悪戯っぽく笑って返され、バイオレッタは苦笑する。
「もう、おふざけにならないでください!」
 思わずぱしぱしと腕を叩くと、彼はまた楽しげに笑った。
 
***
 
(……やれやれ。私としたことが……随分調子を狂わされてしまいました)
 少しだけやすんでいるからと告げて、クロードは一人アイアン製のチェアに腰を下ろしていた。
 のどかな木漏れ日に、ついどこかへ押し流されそうになる。
 クロードは右眼にかかる黒髪を手でかきやって重苦しいため息をついた。
 
 バイオレッタは純粋すぎて、時折恐ろしくなる。
 それは若さゆえか、はたまた彼女の持つ生来の気質からくるものなのか……。
 だが、そうして無邪気に翻弄されるのも悪くないと思い始めている自分がいて、クロードはらしくもなく戸惑ってしまう。
 
 ……彼女は光。それも、かつて失ったはずの陽光だ。
 闇の中に身を置くだけでは生きてはゆけないのだと、クロードは彼女に巡り合って初めて思い知らされた。
 温かい、優しい光。
 この凍てついた心を溶かし、冷めきった感情さえ燃え上がらせる唯一の少女――。
 まばゆすぎていっそ毒にもなり得る光だ。
 けれど、それでもいいのかもしれない。太陽に焼かれて灰となるのも、もしかしたら幸福なのかもしれない。
 あるいは神話の青年のように真っ逆さまに失墜してしまうのも一種の幸せだろう。
 太陽を望みながら落下するのも悪くないのではないか。一瞬でもそのあたたかさに触れられるのなら――。
 
「バイオレッタ……」
 彼女はまだ気づかない。
 クロードが単なる恋心や庇護欲などとは遠くかけ離れたある欲望を抱いてしまっていることに。
「クロード様! もう少し奥まで行ってみてもいいですか?」
 ふいに投げかけられた問いに、クロードはゆるりと顔を上げる。
 遠く離れたところにバイオレッタがおり、うかがうようにこちらを見つめていた。
「ええ。ただし、怪我には気を付けるのですよ」
「はい!」
 そう言って彼女はドレスの裾をつまんで軽やかに駆け出した。
 
 クロードは静かに息をついた。
 ……一体どうして自分などにそこまで無邪気な笑みを向けられるのだろう。
 あんな風になんのてらいもなく微笑まれては、期待してしまう。彼女を自分だけのものにしてしまってもいいのかと。
 実際、もともと他人に無関心なクロードをここまで夢中にさせた女というのは他にいなかった。
 クロードはいつだって他人に心を見せないようにしている。相手に弱みや欠点を探られるのが嫌いだからだ。
 だから容易に相手に興味は持たないし、同時に相手からも要らぬ詮索をされないように気を付けている。個別の人間であるということを主張し、必要以上に親しくならないようにしているのだ。
 人というのは自分の痛みには敏感でも、相手の痛みには鈍感だ。しかも、相手によっては侵食せずともよい箇所にまで無遠慮に立ち入ってくる。
 そうした無神経な接触の仕方がクロードにはそもそも厭わしいのである。
 
 だが、バイオレッタに興味を持ってもらえるのは心地よかった。
 笑いかけられ、身体に触れられ、時折熱心に質問をされる。もっとあなたのことが知りたいのだとばかりに一生懸命に話を聞かれる。
 バイオレッタにそうして詮索や追及をされるのは嫌ではなかったし、むしろもっと彼女に自分の話を聞かせたくなった。
 
 クロードの心は今、彼女に向かって確実に開き始めていた。
 そればかりか、彼女をどこへもやりたくないといういびつな衝動に支配されてしまっている。
 第一、せっかく鳥籠に閉じ込めた鳥をみすみす飛び立たせる道化がどこにいるだろうか。
 しかも、今クロードが捕まえているのはこの上なく清らかで美しい希少な鳥だ。澄んだ声で啼き、潤んだ双眸で主を見上げる、愛らしくも愚かな鳥なのだ……。
 そんな生き物を空に放ってしまったらどうなるだろう。二度とこの籠の中に戻らないばかりか、きっと鳥は別の人間のもとへ行ってしまう。
 愚かな鳥は元の飼い主などすぐに忘れる。
 新しい鳥籠に何のためらいもなく収まり、次の主に愛でられることを喜んで受け入れる。
 そしてクロードを捨てるのだ。
 
(そんな愚行を、私が貴女に許すとお思いですか? 姫……)
 
 バイオレッタがこの心を欲しがっているとわかったとき、クロードはもう二度と彼女を手放すものかと思った。
 彼女はまだ気づいていない……、自分が懸命に慕っていた男の姿に。男が隠し持つ、昏く烈しい本来の気性に。
 いっそ気づかなければいいとクロードは思った。気づかなければ、ずっとこのまま夢を見ていられる。二人きりで、甘く切ない夢想の中に浸っていられる。
 ……このまま現実から目を背けてさえいれば。
 
 クロードはそこで仄暗い笑みを浮かべた。
 無邪気なバイオレッタはその澱んだ瞳に気づかないまま、夢中で薔薇園を駆け回っている。
 ……白絹の手袋をした手を、つと一輪の薔薇に添わせる。
 誰も来ない薔薇園。禁じられ閉ざされた場所。バイオレッタが愛おしむ、美しい花に彩られた世界。
 ああ、この場所は最も相応しいではないか……、彼女への愛の仕上げには。
 そう思いついて、クロードは嘲るように笑った。
 
***
 
 薔薇園を探索していたバイオレッタは、ふと珍しい薔薇に気づいて歩みを止めた。
 ……そこにあったのは真っ青な薔薇だった。植え込みの中から一輪だけ顔をのぞかせている。
 一般的に「青薔薇」に分類される薔薇というのは、れっきとした青ではなく薄紫やモーヴであることが多い。
 だが、その薔薇は違っていた。染料で染め上げたかのように鮮烈な青色をしている。
 天空を思わせる、美しい青だった。
 
(……まあ、可愛い青薔薇。一輪だけ欲しいわ)
 
 バイオレッタがそう思ってその薔薇に触れようとしたとき。
 
「痛……っ」
 突然指先に走った痺れに顔を歪める。
 棘があったのだろうかと思って目を凝らしてみても、そこには何もない。
 バイオレッタは少しばかり困惑した。
「変なの……」
 そう独りごちながら、彼女はクロードに借りた鋏を使って薔薇を切り取る。ぱちん、と小気味よい音がして、青薔薇はバイオレッタの手に収まった。
「素敵。甘くてすごくいい匂い……」
 鼻先をかすめるのは、まるで誘うような薔薇の香りだ。花弁は鮮やかに青く、中心にあるしべの黄色が程よいアクセントになっている。
「どこか大人っぽい匂いがする……。それに、もう午後だっていうのに随分香りが強いわ」
 香りを持つ薔薇というのは夕方に差し掛かると香りの弱まってくるものが大半だが、その薔薇は未だ馥郁たる香りを周囲にまき散らしていた。甘く華やかで、どこか成熟した匂いだ。
 その美しさと香りはバイオレッタの関心を引くにはじゅうぶんだった。
 彼女はそっと薔薇を握りしめると、ひどく幸福そうにおもてをほころばせた。
「お母様。申し訳ありませんが、一輪だけいただいていきますね」
 茂みに向かって軽く頭を下げる。
 
(お母様の愛した薔薇をいただくのだもの、感謝しなければいけないわ)
 
 ……と、そこで突然、かつてないほどの激しい風が吹き荒れた。
 烈風が薔薇を撫ぜ、枝葉ごとびゅうびゅうと勢いよく煽り立てる。庭園の薔薇ががさがさと騒々しく揺れ、まるでバイオレッタを急かすように上下する。
「……まあ。嫌だわ、何かしら……、夏の嵐? 花びらが全部散ってしまわないといいけれど……」
 つぶやいて、彼女は踵を返す。
 その小さな背を、薔薇の茂みだけがどこか案じるように見送っていた。
 
「クロード様! ご覧になってください、ここにこんなに珍しい青薔薇が……」
 バイオレッタは美しい青色の薔薇を握りしめながら、必死にクロードを呼んだ。返事がないということは、どこか離れたところにいるのかもしれない。
 だが、庭園をどこまで探索しても、愛しい男の姿は見当たらなかった。
 まるでこの世に一人ぼっちになってしまったかのような錯覚を覚え、バイオレッタは何度もクロードの名を呼んだ。
「クロード様! どこにいらっしゃるの……!?」
 まさか帰ってしまったのだろうかと、バイオレッタは一瞬だけ強い不安を覚える。
 いいや、そんなはずはない。彼はバイオレッタを置いて勝手に帰ってしまうような冷たい人間ではない――。
「……クロード様?」
 バイオレッタは不審に思ってもう一度声をかけてみる。
 ――刹那、誰かに後ろからぐいと引き寄せられた。背後から伸びてきた腕が、バイオレッタの腰に荒っぽく絡みつく。
「きゃっ……!?」
 狼狽してその顔を見上げようとした瞬間、大きく熱いたなうらがバイオレッタの瞼をそっと覆いつくした。
 ……何かを隠蔽するように。これ以上目の前の世界を見る必要はないとでもいうように。
 バイオレッタはそこで一気に恐慌をきたした。
「いやっ……!? なに……、誰なの……っ!?」
 もがくバイオレッタの視界をしっかりと塞ぎ、その肢体を片手で強引に抱きすくめながら、その人物は髪や首筋に懸命にキスをした。キスの合間に耳朶にも軽く歯を立てる。
 その感触に、バイオレッタは肩をすくめて小さな悲鳴を上げた。
 そんな抵抗さえ愉しむように、身体のいたるところに何度も何度も口づけをされる。誘うように。愛を乞うように。
 唇の熱さと腰を抱く腕の強さに、バイオレッタの肌がぞわぞわと総毛だってゆく。
「い、いや……! やめて、放して……!」
 顔の見えない相手にいいように扱われることの嫌悪感から、バイオレッタは両腕を振り回して逃れようとする。
 そこで夜露のようにしっとりと落ち着いた低音が響き渡った。
「――闇こそが、この世で最も美しき極彩色。真実を秘め、嘘を隠し、この世の薄汚い感情すべてを内包するもの。そしてどこまでも深く、暗く、天鵞絨ビロードのように美しく……甘美なものだ」
 青薔薇を携えたままの右手を、その人物は捕らえる。そしてそのままバイオレッタの指先ごと薔薇を握り込んだ。
 鋭い棘の食い込む感触に、バイオレッタは声を上げる。
「痛っ……!!」
 そこで彼はどこか陶然としたささやきを落とした。
「――貴女にも味わわせて差し上げる。私の闇を。罪を。愛を……」
 刹那、バイオレッタの周囲に、禍々しいほどの強烈な熱がほとばしった。それはゆっくりとバイオレッタを包み込む。
「あ……、や、何っ……!?」
 塞がれた視界の隅から、鮮やかな紅の光が細く射しこむ。
 魔術だ、と気づいたときには、バイオレッタの身体は灼熱の光に引きずり込まれていた。違和感と尋常でないほどの熱さが押し寄せてくる。
「や……!!」
 拘束されたバイオレッタはなすすべもなくその光に吸い込まれてゆくしかない。
「愛している……。貴女が欲しい……。貴女が、貴女だけが……!」
 身悶えるバイオレッタの耳元で、その人物はうわごとのように幾度もささやく。
「もう逃がしませんよ、私の――」
「いやああっ――!!」
 彼女を呑み込んだ紅い閃光は、徐々に、豪奢な装飾の施された紅の額縁へと変化してゆく。
 ろくに悲鳴も上げられないまま、バイオレッタは魔力の奔流に押し流されてゆく。
 
 ……後にはただ、豪奢な金の額縁だけが残された。
 
 

 

error: Content is protected !!
inserted by FC2 system