……その日、ピヴォワンヌは自らを取り巻く異様な空気にすぐさま気づいた。
もぞもぞと寝台の上で身を丸くした彼女は、ドローイングルームの方から聞こえてくる侍女たちの密談に耳を傾ける。
『一体どうなっているのかしら。後宮にいながらにして忽然と姿を消されるなんて』
『ええ、信じられないわ。未婚の王女を守るための箱庭。それが薔薇後宮のはずよ』
『このままでは大ごとになるわ。皆様一体なんとおっしゃるか……』
どうせまた誰かの噂話でもしているのだろう。
自分には関係ない、と、ピヴォワンヌは再び夢の中へ潜り込もうとした。
が、そこでふいに「バイオレッタ様」という言葉が聞こえた気がして耳を澄ませる。
(何……? バイオレッタが何ですって?)
――次の瞬間、信じがたい言葉が聞こえた。
『……まさかあのバイオレッタ様が、いなくなってしまわれるなんて』
「……!!」
彼女の意識はそこで完全に覚醒した。
上掛けを勢いよくはねのけ、室内履きをつっかけて寝室の外へ出る。
「あんたたち、今なんて言ったの……!?」
ピヴォワンヌの問いかけに、侍女たちはぎくりと身を強張らせる。
……窓の外を見てみると、空は少しずつ白み始めていた。
陽光の滲み始めた勿忘草色の空と雲、静かで冷たい朝特有の空気。その様子からまだ明け方だということがわかる。
ドローイングルームにはまだごくわずかな数の侍女しかいない。早朝だから皆控えの間でやすんでいるのだ。
「ピ、ピヴォワンヌ様。その、これは……」
「いいから聞かせなさい!!」
怯える侍女を一喝し、ピヴォワンヌはじろりと彼女たちをひと睨みした。紅い瞳に凄絶なまでの輝きが宿る。
……リシャール譲りの鋭い双眸は、時として周囲を圧倒するほどの強い輝きを放つ。
母の清紗はどちらかといえば静かでおとなしい女性だったが、ピヴォワンヌは違う。
リシャールの血を受け継いでいるために生来負けん気が強く強情なところがあるのだ。
言い出したら聞かないピヴォワンヌを、それでも侍女たちは健気に支えてくれていた。
ピヴォワンヌとて、大好きな彼女たちをむやみに困らせたくはない。
だが、これだけはなんとしてでも聞いておかねばならなかった。
姉のバイオレッタが関わっていることなら、当然妹のピヴォワンヌには知る権利がある。
「それが……その。なんと申し上げたらよいのか……」
侍女は答えあぐねる様子でうつむいていたが、しばらくしてゆっくりと顔を上げた。
「……ピヴォワンヌ様。落ち着いて聞いてくださいませ。貴女様の姉君……バイオレッタ王女殿下が、昨日後宮にいながらにして突如姿を消されました」
ピヴォワンヌは思わず紅い瞳を見開いた。
「なんですって!? バイオレッタが……消えた……!?」
「……はい。筆頭侍女のサラ様がおっしゃるには、散策へ行くと言って菫青棟を出たきりお帰りになっていないのだそうです」
「な……、待ってよ。それ、どういうことなの? 後宮にいながらにして消えるって、そんなのは不可能だわ。後宮の入口には見張りの兵士がいるし、女官や侍女の目だってあるじゃない。そんなことができるなら、あたしはとっくにここを出ていってるわよ!!」
ピヴォワンヌだって最初の頃は何度か脱走を試みた。
薔薇後宮を覆う塀を飛び越えられないか試してみたり、見張りの兵士を騙してなんとか城の外へ抜け出せないか画策したりもした。
……けれど、どうしてもできなかったのだ。
何をしてもすぐに誰かに見つかってしまうし、それでなくとも怪我一つせずに王都の方へ抜け出すなどといったことはどう考えても不可能なのだ。
後宮の周囲に巡らせた塀は高く、運よくよじ登れたとして無傷のまま地上へ下りるのは至難の業だ。
最初の頃はそうした脱走騒ぎが原因で何度か女官長に説教をされる羽目になった。
おまけに後宮の裏手――北の方角には父王リシャールの狩場がある。
そこは大自然を生かして野生の獣を放してある場所だ。
要はリシャールが狩りの時に使う獣たちを放し飼いにしているわけだが、熊などの狂暴な大型獣に襲いかかられればやわな王女はただでは済まないだろう。
美しい肌に見るも無残な傷をつけて帰ってくるか、はたまた野生の獣たちの餌食になってしまうかのどちらかだ。
しかし、ピヴォワンヌには賢明なバイオレッタがそうまでして後宮を抜け出そうとするとはどうしても思えなかった。
ややぼうっとした面はあるものの、彼女は慎重な言動を好む少女だ。相手を慮るのをよしとする性格だし、行動する際にも浮ついたようなそぶりは一切見せない。
何より、王女が薔薇後宮を出ていけば、少なからず周囲に迷惑がかかってしまう。
彼女の世話をする侍女たちが厳刑を受けるのは必至だし、たった一人の王女が起こした軽率な行動のために身近にいる大勢の人間たちにまで要らぬ嫌疑がかかってしまうのだ。
ピヴォワンヌには彼女がそんな無茶をしてまで後宮を出ていきたがるような少女には見えないのだった。
「これはいわゆる失踪……ということになるかと思います。自ら薔薇後宮を出てゆかれたか、あるいは何者かにかどわかされたか……そのいずれかといったところでしょう」
侍女の言葉に、ピヴォワンヌは整えられた爪をきりきりと噛んだ。
「どういうことよ……! どうしてバイオレッタが……」
後宮での暮らしに不満があったようには見えなかった。
会えば必ず笑顔で相手をしてくれたし、喜んでお茶や焼き菓子を振舞ってくれた。あの態度が全部作り物であったとは考えにくい。
何せピヴォワンヌはこの後宮に閉じ込められた当初からずっと彼女と行動を共にしてきた。
悩みごとや心配事はあまさず共有してきたつもりだし、バイオレッタが困っている時にはできるだけ力になろうと努力してきた。
そうするだけの理由が、ピヴォワンヌにはあったからだ。
(あの日、バイオレッタは泣きわめくあたしを抱きしめてくれた……。父さんが殺された日も、ずっとそばにいてくれた)
彼女はいつもそうだ。いつもただ黙って隣にいてくれる。
何を口にするでもなく、じっとピヴォワンヌの傍らにいる。
その静けさを心地いいと感じ始めたのは一体いつからだっただろう?
言葉や問いかけなどなくとも、バイオレッタに隣にいてもらえると心強かった。
何も言わなくていいから、私は全部わかっているから。
そんな風に黙って慰められているようで、そういう時だけはピヴォワンヌも思い切り感情を吐き出すことができた。
今にして思えば、彼女の沈黙というのは相手に感情を吐露させるためのものだったのだろう。
余計な発言をしないことで、彼女は相手の気持ちを汲もうとしていたのだ。感情を整理する時間を与えようとしていたのだ。
ピヴォワンヌはそこでおさげに結び付けた卵色のリボンに手をやった。
これはバイオレッタがくれた小箱の中に入っていたものだ。柔らかい生地でできていて、眠る時も邪魔にならないので毎晩つけて寝ることにしていた。
(バイオレッタ)
『よかったら使ってね。私の想いが、きっと貴女を守ってくれると思うから』
あの日、彼女はそう言って手製のリボンを詰めた小箱をピヴォワンヌの手に握らせた。
自らも相当に困惑している状態でありながら、彼女はパニックに陥ったピヴォワンヌを心の底から案じてくれたのだ。
姉妹として……そして何より、互いに助け合う「親友」として。
二人は薔薇後宮での暮らしの中で何物にも代えがたい強固な絆を築き上げていった。
ピヴォワンヌが大事にしている、バイオレッタ手作りのリボン。ピヴォワンヌが着替えのたびに紅い髪に飾るそれは、まさしく彼女の真心の結晶だ。
リボンに触れるたび、ピヴォワンヌはバイオレッタの優しい声を思い出す。
頼りないのにどこか芯の強いバイオレッタは、ピヴォワンヌの憧れでもあった。
バイオレッタは剣など取らずとも戦える少女だ。それが時折無性に羨ましかった。
彼女の優しさは、強さだ。
他人を攻撃することを必要としないのは、そんなことをしなくとも己を保っていられるからだ。心の奥底の部分できちんと自分自身を大事にできているからだ。
そして何より、彼女は傷つけることよりも守ることの方に価値を見出せる少女なのだ――。
(嘘よね……? どうしてあんたがいなくならなくちゃいけないの?)
一緒にやりたいことも伝えたいことも、まだ山ほどあったのに――。
うつむき、ピヴォワンヌは深々と嘆息した。
詮無いことを考えている場合ではない。こういう時こそ建設的な考え方をしなければいけない。
「……失踪……、後宮にいながらにして、消えた……」
ピヴォワンヌは「失踪」という言葉に不穏な何かを感じ取る。
監視の目が細やかに行き届いた薔薇後宮で、誰にも知られずに消息を絶つのは不可能だ。
仮に彼女が後宮を抜け出したのだとしても、女官か侍女か、はたまた兵士か。必ず誰かがその様子を目撃していたはずである。そうした証言がまだ出てきていないということだろうか。
むろん、陽が高くなれば嫌でもはっきりすることだ。紅玉棟の侍女たちがここまで大っぴらに話しているのだから、すでに女官長の耳にだって届いているのだろう。
ピヴォワンヌはそこで表情を険しくした。
バイオレッタは幼子の頃にも一度姿をくらませている。
実際は下町の劇場で保護されていただけで、特に事件などに巻き込まれたわけではないのだが、それにしても彼女はよほどこうした失踪事件に縁があるらしい。
まさか第三王女としてのバイオレッタをよく思わない一派の仕業だろうか。
バイオレッタの母妃はなかなかに嫉妬を買いやすい性格だったようだし、仮にそうであったとしてもおかしくない。
だが、だからといってバイオレッタばかりをこうもしつこく狙うものだろうか……。
(……って、妙なことを考えてる場合じゃないわ。早く状況を確かめなくちゃ)
ピヴォワンヌはそこで愛らしい声を張り上げた。
「……ダフネ! ダフネはいる!?」
呼び掛けながら、彼女はテーブルの上に置かれた硝子の呼び鈴を数回鳴らす。
すると、控えの間から金茶の髪の美女が姿を現した。
「お呼びでございましょうか」
すでに朝の支度に取りかかっていたのか、ダフネは隙のない正装姿で現れた。
漆黒のブラウスの上に臙脂のコルセットを締め、ふわりと広がるマゼンタのスカートで華やかに装っている。
全身を彩る鮮やかな紅はピヴォワンヌの筆頭侍女をしているという証だ。
軽いウェーブのかかった金茶の髪に、聡明そうな印象を与えるアップルグリーンの瞳。
ふくよかではちきれんばかりの豊かな胸。それとは対照的に、蜂のようにくびれて魅惑的な曲線を描く、折れそうに細い腰。
そして二十五という年齢相応の匂い立つような色香――。
……このダフネ・ナルディエーロという女性こそ、第四王女ピヴォワンヌを支える筆頭侍女だった。
復権したばかりのピヴォワンヌを献身的に支え、時に暴走しがちな彼女をさりげなくたしなめることさえ厭わない、まるでもののわかる姉のような侍女である。
「おはようございます、ピヴォワンヌ様」
ダフネはそう言って、シニヨンにまとめた金茶の髪を軽く撫でつけた。
咲き初めの薔薇のように艶やかな吐息をこぼし、ピヴォワンヌの方へしずしずと歩み寄ってくる。
そこでようやくピヴォワンヌは問いかけた。
「話は聞いてるでしょう。もちろんバイオレッタの失踪についてよ」
「はい。侍女たちから話は聞いております。特にサラはひどく慌てているそうで」
バイオレッタの筆頭侍女サラはこのダフネの後輩にあたる少女だ。
まだ十七歳の彼女は、そそっかしい面もあるけれど基本的にはできた侍女だ。
そして女主人であるバイオレッタにとても懐いている。
同い年であるということ、そしてバイオレッタ自身がどこかぼんやりした少女であるということも手伝って、サラは女主人のことを放ってはおけないようだった。
時折ピンク色の唇を愛らしく捻じ曲げて女主人の不注意をフォローする姿も見受けられたが、ピヴォワンヌはいつもどこか微笑ましい気持ちになったものだ。
そしてそうした場面を目撃するたび、サラがしっかりした性格の侍女でよかったと、少しばかり安心してしまうのだった。
そんな彼女のことだ、ダフネの発言通り、今頃はひどく取り乱しているに違いなかった。
何せ絶対に帰ってくると思い込んでいた女主人が帰ってこなかったのだ、サラの心中は計り知れない。
「それにしても、一体どういうことなの? バイオレッタがいなくなるなんて」
「わたくしも詳しい話は聞いておりませんが、薔薇後宮ではもうすでに噂が広まっているようですわね。第三王女殿下の謎の失踪。わたくしとしてもこれは非常に困った事態だと思っております」
そう言って眉尻を下げてみせる。
ダフネはもともと根拠のない噂話は信用しない質だ。
が、そんな彼女がここまで言うということは、やはりのっぴきならない事態に陥っているということだろう。
「わけがわからないわよね。どうして後宮にいるはずの王女が消えたりなんかするの……? そんなことは不可能だわ。誰かがあの子をさらったり外へ手引きしたりしたならともかく」
そこでピヴォワンヌたちの様子をうかがっていた侍女の一人がおずおずと切り出した。
「ですけど、その……、別にさらわれたわけではないのかもしれませんわよね? ご自分の意思で薔薇後宮を出ていったのだとしても不思議じゃないでしょう?」
「……は?」
怪訝そうな顔をするピヴォワンヌ。
侍女仲間たちが慌てて止めに入ったが、かまわずその侍女は言葉を継いだ。
「いえ、その。第三王女殿下はあれでなかなか魅力的な御方ですもの、駆け落ちの話を持ち掛ける殿方がいらっしゃらないとも限りませんわよね?」
「貴女……! 口を慎んでちょうだい! 軽はずみな発言はするものじゃないわ!」
ダフネが一喝すると、侍女はしゅんとしょげて黙り込んだ。
「すみません……」
ピヴォワンヌは侍女の言葉をゆっくりと反芻した。
「……駆け落ち? バイオレッタが?」
「ピヴォワンヌ様。侍女の戯言ですわ、どうかお聞き流しくださいませ」
ダフネがやんわりと言うが、ピヴォワンヌは腕組みをして唸る。
「けど、あの子ならやりかねないかもしれないわよね……」
反射的に、脳裏に黒衣の宮廷魔導士の姿が浮かんだ。
……クロード・シャヴァンヌ。国王リシャールに仕える闇の魔導士にして、この宮廷における重鎮の一人。
バイオレッタの目下の想い人で、何かにつけて彼女を誘惑したがる魅惑的な求愛者だ。
あの男がそそのかせば、バイオレッタは言いなりになるに違いない。
クロードについていくと言ってはばからないだろうし、巧みな誘いに乗せられて、その要求通りに自らを差し出すことさえしてしまいそうだ。
あのクロードの頼みなら、バイオレッタは断れないはずだ。
彼のことを盲信するあまり、自らの愛を貫くためになりふり構わず行動してしまうこともあるかもしれない。
なぜなら彼女は――バイオレッタは、クロードに恋をしているからだ。
彼の愛を欲しているからこそ、命じられるままついふらふら考えなしに行動してしまったということだってじゅうぶん考えられるではないか。
そこまで考えて、自分が相当混乱しているのだと悟る。
(そうよ。証拠もないのにあいつを疑るような真似をしちゃ駄目。たとえいけ好かない男であったとしても、むやみやたらと相手に嫌疑をかけるわけにはいかないわ。もっと冷静にならないと……)
ピヴォワンヌはひとまず夜着から普段着のドレスに着替えることにした。
袖丈が長く動きやすいドレスに身を包み、芍薬色の長い髪もダフネに頼んでざっくりと編み込んでもらう。
まだ相当に早い時間帯ではあるが、一通り朝食も運ばせ、いつものようにしっかりと平らげてゆく。
こうした非常事態ほど普段通りに動かねばならない。不測の事態だからこそ身支度と体調管理は基本である。
あえてゆっくり食事を摂ることで、ピヴォワンヌは荒んだ心を落ち着けようとした。
温かなコンソメのスープを飲み干し、口直しの小さなデセールも味わってしまうと、彼女はナフキンで口元を拭いつつ思案する。
「……」
侍女たちは駆け落ちではないかと言う。だが、それを立証するだけの手掛かりは何もなく、ただ忽然と姿を消したとしか言いようがない状況だ。
(とにかく、情報を集めなきゃ……。あたしだけで思い悩んでいたって始まらないわ。あの子に近しい誰かに話を聞いてみないと……)
ピヴォワンヌは立ち上がると、控えていたダフネに「出かけるからついてきてちょうだい」と言った。
彼女は切れ長の瞳を瞬く。
「どちらへ行かれるおつもりですの?」
「菫青棟よ。あの子の筆頭侍女をしているサラに会いに行ってみるわ。一日の中でもあの子はサラといる時間が一番長い。あたしとしては、まずはそういう一緒に過ごす時間が長い人たちに話を聞いてみるのが一番いいと思うの」
ダフネは心得たとばかりにうなずいた。
「なるほど。お供いたしますわ。まだ少々早い時分ではありますが、あの子はきっと菫青棟で控えているでしょう。いいえ……、今朝なんて恐らくやすむどころではなかったはずですわ」
菫青棟を訪ねた二人は、取り乱して青ざめた顔のサラに出迎えられた。
「……ピヴォワンヌ様っ!! ダフネ先輩まで……!!」
バイオレッタの名に合わせた薄紫のお仕着せはぐしゃぐしゃで、天使のように愛らしいおもても今は涙ですっかり汚れてしまっている。
散々泣きわめいた後なのか、色素の薄い金の髪は乱れに乱れて頬の辺りに張り付いていた。
今回の事件で一番打撃を受けたのは何といってもこのサラだろう。
平素であれば夕刻にはきちんと居住棟に帰ってきているはずのバイオレッタが、いつになっても帰ってこない。
言伝の一つもなく、夜更けになってもその安否はわからない。おまけにそれを自分の口からあの女官長に伝えなければならなかったのだ。
もうすでに散々女官長たちに詰問された後なのか、サラはいつにもまして元気がなかった。
この様子ではよほどきつく注意を受けたのかもしれない。
いつも愛嬌たっぷりに微笑んでいる彼女がこんなに小さくなっているのを見るのは哀れだった。
「……サラ。その、大変だったわね」
なんとか声をかけると、サラはそこでわっと泣き出してしまった。
「っ……、うう……、バイオレッタ様……! バイオレッタ様が……!」
安易な発言をするべきではなかった、とピヴォワンヌは若干後悔する。
やはりバイオレッタのようにはいかない。彼女ならうまく言葉を選ぶのだろうが、生憎ピヴォワンヌは彼女ほどしっかり者ではないのだ。
そこでダフネがすっと歩み出た。
「そんな風に泣かないで、サラ。バイオレッタ様はただお帰りになっていないだけじゃないの。あの方が酷い目に遭っているかどうかなんて、わたくしたちにはわからないでしょう。そんなに悪い想像ばかり膨らませるべきではないわ」
「ダフネ、先輩……!」
サラはそのままダフネの腕の中で激しく嗚咽した。
よしよしと背を撫でるダフネに触発されたのか、やがて途切れ途切れに言葉を漏らし始める。
「わ、わたくし……、やっぱりダフネ先輩の言うように浮かれてばかりいたのかもしれませんわ……! わたくしがもっと気を付けて見ていれば、こんな、ことには……っ」
「馬鹿ね。貴女一人が全部背負わなくていいのよ。たまには誰かのせいにしなさい」
貴女は責任感が強すぎるのよ。
そう言ってダフネは呆れたように笑ってみせる。
サラはますます強くその胸にすがりついた。
そして身も世もなく派手に泣きじゃくったのだった。
「……大丈夫?」
「ええ……」
ダフネに案じられ、サラはこくこくと何度かうなずいた。
「ああ……お二人が来てくださってよかったわ、なんだかお顔を見たらほっとしてしまって……」
そう言いつつも、サラは未だぼろぼろ泣いていた。
それも当然のことだ。彼女は一日中バイオレッタの世話をし、身づくろいをし、話し相手をして生活してきた筆頭侍女。その女主人がいきなり姿を消したのだ、ピヴォワンヌ以上に気が動転しているに違いなかった。
「落ち着いて、サラ」
ピヴォワンヌがそう言ってなだめると、サラはしゃくりあげながらも何度かうなずいた。ダフネの差し出す手巾を受け取り、目元に当てて涙を吸い取らせる。
ようやく彼女の嗚咽が収まったところで、ダフネが落ち着いた声音でゆっくりと切り出した。
「……バイオレッタ様がご不在の時に申し訳ないのだけれど、少しだけドローイングルームにお邪魔してもいいかしら?」
「ええ、どうぞ。お二人を邪険にする理由など、わたくしにはありませんから」
不謹慎ではあるが、ピヴォワンヌはこの言葉に少しばかり嬉しくなってしまった。
今、ピヴォワンヌとダフネを邪険にする理由がないとサラは言った。
それはつまり、ピヴォワンヌがバイオレッタにとって大事な存在だと思われているからだろう。バイオレッタを傷つけたり害したりするような底意地の悪い人間ではないと信じてくれているからこその発言なのだ。
これがバイオレッタとはなんの関わりもない人間だったら、きっとサラはすげなく追い返しただろう。
話すことなど何もない、まだ何も明らかになっていないのだから帰ってほしい。そう言って訪問者を追い払ったに違いない。
だが、サラはピヴォワンヌたちに対してそうしなかった。自らも相当追い詰められている状況でありながら、こうして客間に入れてもてなそうとしてくれる。
(それはつまり、あたしをあの子の妹として信頼してくれているからなのね……)
そう考えたらじんと胸が熱くなった。
おかしな仲間意識のようなものが湧き上がってきて、彼女は微笑んでサラを見つめる。
すると、サラもまた濡れた瞳をわずかに細めてピヴォワンヌに微笑み返した。
三人は菫青棟のドローイングルームに足を踏み入れた。
辺りには意気消沈した様子の侍女たちがいる。
数えるほどの数しかいないが、女官長に厳しく叱られたのか、どの侍女も元気がない。
まだ早い時間だからと、サラはティースペースを利用して三人分の香草茶を淹れる。
熱いニワトコの香草茶だ。
「本来であれば、こちらはバイオレッタ様がお使いになるべき場所なのですが……」
ティースペースでお茶を淹れながらそう言うサラに、ダフネが苦笑する。
「厨房は今大忙しの時間帯ですものね」
薔薇後宮の厨房には女料理人がいる。彼女たちはここで火を熾し、湯を沸かし、姫君たちに供する食事の支度をする。
そして侍女たちは基本的にはこの厨房から姫君たちが飲むお茶を運んでくるのである。
厨房なら焼き立てのプティフールや新鮮なミルク、砂糖といったものも揃っている。茶菓を準備するにはうってつけというわけだ。
今がサラが利用しているティースペースは王女が手ずから客人をもてなすために設けられた場所であり、けして侍女が自分たちのお茶を淹れるためのものではなかった。
が、生憎今は早朝だ。料理人たちは下ごしらえや献立の確認などで大わらわしている頃だろう。お茶をもらうためだけにサラを厨房へ向かわせるのは忍びない。
先ほどピヴォワンヌは一足先に朝食を届けてもらったが、本来であればあの食膳は王女の起床の時刻になってから運ばれるべきものだ。
起床の時刻に合わせて運ばせるようにしないと厨房が混乱してしまうからである。
当然のことながら、薔薇後宮に住まう王女たちはみな生活のリズムが違う。
朝の鍛錬を日課にしているオルタンシアのような姫もいれば、ミュゲのように遅めの時間に起きてゆっくり支度をしたがるといった王女らしい王女もいる。
みな食事の速度も異なっているため、厨房の人間たちはそうした個々の事情をよく考慮したうえで食事作りをしなければならないのだ。
王女によっては体調不良に陥っている者や食の好みが偏っている者もいたりするので、厨房と筆頭侍女との間でのやり取りも重要になってくる。
この辺りはさすが後宮といったところだろうが、昔より今の方が食事の支度が楽になっていることは言うまでもない。
昔は愛妾や側妃が数え切れないほど大勢いたのだから、今よりずっと大がかりな作業だっただろう。
ピヴォワンヌは起床すると同時に少しずつ膳を運ばせ、身支度の時間までに食べ終えるようにしている。
これまでの様子から察するに、恐らくバイオレッタも似たようなものだろう。
彼女の場合は食事の量を少なめにしてもらうよう頼んでいるようだが、いつもたっぷりと運ばれてきてしまい、結局ほとんど残す羽目になるのだと言っていた。
彼女はそれを「もったいない」とも語った。
正反対の生活を送っていることで有名なのはやはり王妃シュザンヌと王太后ヴィルヘルミーネだろう。
伯母と姪という近しい間柄でありながら、この二人の生活習慣はまるで真逆だ。
放蕩好きのシュザンヌは朝も晩も遅めの時間に食べることが多いようだが、ヴィルヘルミーネは早いうちに済ませたがることで有名だった。
まだ年若く奔放なシュザンヌとは異なり、すでに老女の域に達しているヴィルヘルミーネは判で押したようにきっちりした生活を好んでいるようだ。
朝食を済ませたあとは先代国王の墓参に行くことにしているようで、居住棟を出て王宮付属大聖堂へ向かう姿をピヴォワンヌ自身もこれまで何度か目撃している。
女官を大勢引きつれて薔薇後宮を出てゆく様子は圧巻そのものだった。
しかし、ピヴォワンヌはなんだか不思議な感じがした。
かつて寵愛されていたとはいえ、死没した王が眠る場所へそう何度も足を運ぶものだろうか?
ピヴォワンヌにはその行為がどことなくわざとらしいものに思えて仕方なかった。
……ひやりとした大聖堂の中、跪いて先代国王の墓石に熱心に祈りを捧げているヴィルヘルミーネの姿が思い浮かぶ。
長いローブの裾を惜しげもなく床に広げ、指を組み、祈りの文言を唱える彼女の姿が。
だが、その表情にどんな色が浮かんでいるかというところまではどうしても想像できなかった。
あの臈たけたおもてに浮かぶ感情は、悔恨だろうか。それとも悲哀だろうか。
死した者に祈りを捧げる時、あの作り物めいて美しい顔は一体どんな風に歪むのだろう。
……否、そもそも先代国王の死を悼むことなどあるのだろうか。
王太后ヴィルヘルミーネ。都の名門であるアウグスタス家から宮廷入りした、先代国王の寵姫。
今でこそ後宮制度は廃れてしまっているものの、先代国王の時代にはお手つきにならぬまま惨めに一生を終える愛妾も多かったと聞いている。
夜ごと空閨をかこち、王の訪いがないことや女として愛されないことを嘆く愛妾たちがそれこそ掃いて捨てるほどいたのだ。
そこで、ピヴォワンヌは一瞬だけ嫌なことを考えてしまう。
あの王太后が先代国王の死をそれほど悼んでいないのだとすればどうだろう。
やっと自由な暮らしが手に入った、これで万事自分の思い通りに事を運べると、内心ほくそ笑んでいるのだとしたら?
「ピヴォワンヌ様?」
「……!」
ピヴォワンヌは慌ててサラを見た。彼女はピヴォワンヌの顔を心配そうにのぞき込んでいる。
「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしていたわ」
ピヴォワンヌは素直に謝り、頬にかかる後れ毛をかき上げた。
「サラ。よかったらバイオレッタ様のことについて貴女の知っていることを全部聞かせてほしいのだけれど」
ダフネに問われ、サラはぽつぽつと話し出した。
「……それが、普段と何も変わったところなんかなかったのです。いつも通り、朝は少し早めにご起床されて、お昼まで寝室で本を読まれたり、手仕事をなさったり……。午後からはお出かけになったのですけれど、それもいつものことでしたから、わたくしは特に気にも留めていなくて……」
「出かけたって……誰と?」
不思議に思ってピヴォワンヌが訊ねると、そこで思いもよらない一言が返ってきた。
「え? いえ……、シャヴァンヌ様とですが……」
「……え?」
呆然とするピヴォワンヌに、サラは飛燕草の瞳を軽く見開き、ぱちぱちと何度か瞬きをした。
白魚のような手を口元に添え、おずおずと切り出す。
「あら……、もしかして何もご存知なかったのですか? バイオレッタ様はしばらく前から頻繁にシャヴァンヌ様とお出かけするようになったのです。ある時を境に、毎朝薔薇や贈り物が届けられるようになって……。しばらくすると、今度はお手紙をやり取りされるようになりましたわ。それは薄紫色の封筒に金の封蝋が押してあって、すぐにあの方からの手紙だとわかるのです。あの方と文通や贈り物の交換をすることを、バイオレッタ様は心底愉しんでいらっしゃるようでした」
ピヴォワンヌはそこでやっと腑に落ちたような気がした。
……そうか。だから彼女はあんなに頻繁にここを留守にしていたのか。
最近ではこの菫青棟を訪ねても会えないことが多かったから、なんとなく不思議な感じはしていた。
それはつまり、大好きなクロードと過ごしていたからというわけだ。
ピヴォワンヌとのおしゃべりや散策を後回しにしたくなるくらい、彼女はクロードとの時間を大切にしていたということだろう。
彼女にとっては腹違いの妹と会うことよりも初恋の相手と逢瀬を重ねることの方が大事だったのだ。
それを責めるような真似はピヴォワンヌにはできない。……あんなに幸福そうなバイオレッタの姿を見てしまったあとでは。
バイオレッタがいきなり年相応の愛らしい衣服に身を包むようになったのも。
菫青棟の庭先に小さな薔薇の鉢植えが増えていったのも。
彼女が今まで以上にずっといきいきとした表情をしていたのも。
……すべてクロードの影響だったのだ。
十七の少女がようやく目覚めた初恋なのだから、ピヴォワンヌにそれを止める権利などない。
彼女はずっと男性を怖がっていた。
そんな彼女がやっと手にした恋の味を、真っ向から否定するような真似はしたくない。
もちろん、少しばかり胸苦しくはあるけれど――。
と、そこでピヴォワンヌはあることに気づいて視線を上げた。
「……待って。それで、クロードはどうしたの? 一緒にここに戻ってこなかったっていうこと?」
サラはうなずく。
「別にいつも菫青棟の前でお別れするわけではないと言っておいででしたわ。なので、わたくしは別におかしいとは思わなくて」
「……」
これは一体どういうことなのだろう。
一緒に帰ってこなかった二人は、一体どこで別れたのだろうか。
ピヴォワンヌは思案するように眉根を寄せた。
誰にも気づかれることなく姿を消した第三王女と、彼女の愛を欲する黒衣の魔導士。
果たしてこの二つは結び付いているのだろうか。
そしてこの一件とオルタンシアの昏睡は何か関わりがあるのだろうか。
なぜこうも立て続けに大きな事件ばかり起こってしまうのだろう。それも、王位継承権を持つ姫ばかりを狙うような形で。
事の真相ははっきりしないものの、ピヴォワンヌの周囲で何かよくないことが起こり始めているのは確かだった。
三人は無言でニワトコのお茶を啜った。
なんとか話をしようにも、何をどう言っていいのかわからない。
重苦しい沈黙に押しつぶされたまま、ピヴォワンヌは残りの香草茶をぐっと喉の奥へ流し込んだ。
立ち上がっておずおずと暇乞いをする。
「ご馳走様。そろそろ帰るわ。ちゃんと眠ってね、サラ」
女主人に倣うようにダフネも席を立ち、楚々とした所作でピヴォワンヌについてくる。
そこでサラは、ダフネのブラウスの生地をそっと掴んだ。
「……ダフネ先輩……、わたくし、これから一体どうしたら……」
サラの言葉には不安と恐怖が同時に滲んでいた。
それもそのはずだ、筆頭侍女というのは特別職なだけに責任も重い。サラが厳罰に処される可能性はじゅうぶん高いのである。
サラは蒼白の顔でつぶやく。
「わ、わたくしは……罰せられてしまうのでしょうか……? もし国王陛下に『無情の監獄』に入れられてしまったりしたら……」
罪人を罰するための監獄の名を、サラは口にした。
『無情の監獄』に入れられて出てきたものはいないといわれるほど、その監獄での刑罰は酷いものだといわれていた。
加えてバイオレッタの父王リシャールは癇癪持ちなことで有名だ。サラが怯えるのも無理はないだろうと思われた。
ダフネはサラを慰める。
「落ち着きなさい。陛下がそんなことをなさるはずがないでしょう」
「ですが、わたくしはバイオレッタ様を危険な目に遭わせてしまいましたわ……! わたくしのような者は、筆頭侍女として失格です! ダフネ先輩の言う通りです……、わたくしは浮ついてばかりで、周りのことなんて何も見えていなかった……。だからこんなことになってしまったんだわ……!」
再びわあっと泣き伏したサラを、ダフネは痛ましげな表情で抱き寄せる。
「……馬鹿なことを言わないで。今は状況を確認するのが先よ」
「ですが……っ」
なおも何事か言いかけたサラを、ダフネはあやすように何度か揺さぶった。
「控えの間に行って少しやすんでいなさい。あとはわたくしたちに任せて」
サラは泣き腫らした目のまま、こくりと一つうなずいた。そのまま控えの間へ消える。
二人はそれを確かめると、どちらからともなく顔を見合わせた。
「……困ったことになったわね」
「はい……。状況を確かめるにしても、これでは手掛かりが少なすぎますわね。とはいえ、陽が高くなるのと同時に≪星の間≫へ赴くことになるのは必至でしょう。国王陛下がなんとおっしゃるか、わたくしは少々恐ろしいですわ」
恐らくそこで王室の面々を集めての話し合いがなされるはずだ。
あのリシャールが愛娘の失踪を受けて何も行動を起こさないはずがない。後宮で暮らしている人間たちをすべて召し出して話を聞き出すことくらいはするはずである。
王妃や王太后はもちろん、王子王女も一人残らず駆り出されるに違いなかった。
「バイオレッタ……」
菫青棟の外に出たピヴォワンヌはうなだれ、かすれる声でつぶやいた。
……眼前に広がるのは黎明の空。
澄んだ薄水色をしていた空はすでに鮮烈な紅に染まっており、何かの始まりを想起させる色合いに変わっている。
紅く、激しく、まるで生命の灯火を思わせるような強い色に――。
ピヴォワンヌはそこで桜桃の唇からそっと息を吐いた。
バイオレッタは一体どうしてしまったというのだろう。
自分を置いてどこへ消えたのだろう。
彼女に取り残されて感じたのは、喩えようのない切なさだった。
いつも通りに始まるはずの朝も、今日ばかりは思うように始められそうにない。
いや、今日だけでなく明日からもずっとそうなのかもしれない。
それほどまでに異母姉バイオレッタは大切な存在だったのだ。
ピヴォワンヌは言葉にならないほど美しい暁の空を見つめながら静かにつぶやいた。
「あんたがいない夜明けが、こんなにも寂しいものだなんて……」
ピヴォワンヌは両腕でしっかりと自らの身体をかき抱き、ひしひしと迫りくる虚無感に総身を震わせたのだった。