第五章 新たな風

 
 

 ピヴォワンヌはとぼとぼと歩くプリュンヌの手を手繰り寄せると、離れることのないようにしっかりとつないだ。

 小声でたしなめる。
「もう。駄目じゃない、プリュンヌ。錯乱した人間相手に話しかけるなんて自殺行為だわ」
「う……。ごめんなさい……、ピヴォワンヌお姉様……」
 プリュンヌは申し訳なさそうに頭を下げる。
 彼女はそのまましばらく口ごもっていたが、やがてピヴォワンヌをまっすぐに見つめて言った。
「……お姉様。プリュンヌ、嬉しかったのです。今日こうしてお城に呼んでもらえて、ああ、プリュンヌはまだお父様に忘れられてないんだって思ったら……すごくすごく、嬉しくて」
 無邪気で健気な言葉に、ピヴォワンヌはふっと笑う。
 そしてその小さな頭をヴェールごとよしよしと撫でてやった。
「あの王様もあんたみたいな性格だったら苦労しないのにね」
 プリュンヌはきゅっと唇を噛み、つないだ手に力を籠める。
「お父様……、昔見た時よりなんだか小さくなってました。寂しそうで、辛そうで……。それで、もしかしたらお父様はプリュンヌとおんなじなのかもしれないって思ったのです」
「そうね……」
 
 常に天真爛漫で、後ろ向きで弱々しいそぶりなど一切見せないプリュンヌだが、実際は彼女の言う通り寂しくて辛いのだろうと思われた。
 面倒を見てくれる侍女たちがいるとはいえ、プリュンヌはいつも尖塔に一人ぼっちなのだ。
 そんな状況に置かれて十三の少女が心細さを感じないわけがない。
 
(この子は一体、いつもどれだけの孤独を抱えているのかしら……)
 
 薔薇後宮という『箱庭』で育てられた王女たちとて、仲間や友人を全く作らないわけではない。
 オルタンシアには「ご学友」などと呼ばれる存在がいるようだし、ミュゲだって貴族の令嬢や少女たちと親しい付き合いをしているようだ。
 親しさの種類はさまざまだろうが、王女が私的な友人を作ってはいけないなどという法はない。
 むしろ同じ年代の娘たちとおしゃれや流行についてのおしゃべりをし、だんだんと異性や社交に関しての興味を持ち始めるというのがごく自然な流れではないだろうか。
 
 ……けれど。
 
(この子はそういうのを一切経験したことがないんだわ)
 
 だからこそリシャールの心が理解できるのかもしれない。
 たった独りきりで日々を生きてゆかねばならない人間の気持ちというのが、手に取るようにわかるのかもしれない。
 ピヴォワンヌは思わずそのか細い両肩を自らの腕で包んでやりたくなった。
 そして、少しばかりリシャールに対しての認識を改めた。
 わがままで傍若無人で、勝手なことばかりする無慈悲な少年王だとずっと思ってきた。
 だが、それはもしかしたら大きな勘違いだったのかもしれない。
 ……彼はただ、寂しかっただけなのかもしれない。
 
(あの王は、きっとそれをどう伝えればいいかわからないだけなんだわ)
 
 最初に≪星の間≫で相まみえた時のリシャールの言葉を思い出す。
 
『今さら信じろとは言わぬ。親として慕えとも言えぬ。ただし、もう二度とそなたらを手放す気はない』
 
 あれはつまり、自分を親として頼ってほしいという意味だったのではないだろうか。
 そして、「二度と離す気はない」というのは、恐らく「もう二度と自分のそばを離れないでくれ」という意味だろう。
 養父を殺したことは未だに許せない。
 だが、リシャールの気持ちもわかるのだ。きっと立て続けに愛娘がいなくなって辛かったのだろうと思う。
 だからこそ彼を強く責めることはできない。
 もちろん養父の死は忘れられないし、許そうとも思っていない。この心の傷が容易に癒えるはずもない。
 しかし、今日の一件で少しばかりリシャールに親近感を抱いたのも確かだ。
 彼はピヴォワンヌが想像していたよりずっと人間らしい人間なのかもしれないと思ってしまったのだ。
 
 ピヴォワンヌはそこで思わずくすっと笑ってしまった。
「わかりづらいのよ、馬鹿……!」
 すると、ピヴォワンヌの少し先を歩いていたミュゲやアスターが驚いたように振り返る。
 ピヴォワンヌは思わず「なんでもない!」と言って、慌てて表情を引き締めた。
 
 一行はしばらく並んで廊下を進んでいたが、やがて他の面々に先駆けてミュゲが消え、プリュンヌが消え、最後に取り残されたのはピヴォワンヌとアスターの二人だけだった。
 王妃や王太后はとっくの昔に薔薇後宮に帰ってしまっている。
 王妃はこれからやることがたくさんあるのだろうし――主にサロンか逢引きかといったところだろうが――、王太后は王太后で日課にしている趣味がいくつかあるらしい。早々に女官を連れて後宮へ戻ってしまった。
 
 後に残されたピヴォワンヌとアスターは、無言でリュミエール宮の廊下を進んだ。
 リュミエール宮は左右対称の造りをしている本城だ。
 城の中央部に伸びる廊下を抜け、大ギャラリーを抜け、いくつか並んだ広間を通り過ぎると、そこには城の外へ抜けられる扉がある。
 この外からは薔薇後宮に繋がるプラタナスの遊歩道になっていて、二人は今まさにそこを目指して歩を進めているさなかだった。
 
 二人は互いの侍女や従僕を引き連れてリュミエール宮の大ギャラリーに入った。
 緋色の椅子が点々と置かれ、合間には彫像や燭台、貴重品を展示するためのキャビネットなどが並べられている。
 両側の壁全体に宮廷画家の描いた絵画が隙間なく飾られており、天井にも夢見るように美しい聖典の一場面がきらびやかに描き出されていた。
 全面に鏡が使われた大ギャラリーを行きながら、アスターは興味深げに周囲の絵画や美術品を鑑賞していた。
「……しばらく見ないうちにまた増えたようだな」
「え? あ、そ、そうなの? あたし、そういうのはあんまり詳しくなくて」
「見てみろ。あの彫像はこの前までなかったぞ」
「え……」
 ピヴォワンヌは彼の指さす方を見た。
 
 ……なるほど、聖典をモチーフにした彫像がいくつか増えているようだ。
 そればかりではない。
 色とりどりの宝石でできた宝飾品やパステルカラーの妖精を描いた絵皿やティーポット、儚く精巧な作りの玻璃のペガサスといったものが所狭しとキャビネットの中に収められている。
 みっしりとキャビネットの一角を埋め尽くすそれらは、どれも初めて目にするものばかりだった。
 が、リシャールには相当な思い入れがあるらしく、一つ一つが美しく整然と並べられている。
 
 ピヴォワンヌはほうっと息をついた。
「……綺麗な細工物ね。またあの王がどこかから買い集めてきたのかしら」
「さあな。だが、どれも細部までこだわりの感じられるものばかりだ。父上のお気に入りのようだな」
 ピヴォワンヌは思わず小さなキャビネットの中を覗き込む。
 眩く磨き抜かれたアクセサリーの数々。真っ白な陶器に浮かぶ、繊細な羽根をした妖精のシルエット。
 小さな硝子のペガサスは今にも空へ向けて飛び立っていきそうだ。
 堅苦しく重厚な芸術品が多い中、そこだけがひどく甘やかで優美な雰囲気だった。
「ふうん……。こういう可愛いものも好きなのね……」
「意外な趣味がおありだったんだな」
 アスターも感心したようにつぶやいているから、彼もこうした品を目にするのは初めてなのだろう。
 ということは、これは実の息子でさえ知らない一面というわけだ。そう思うとなんだか不思議な感じがした。
 
 細長い大ギャラリーを二人して見てまわりながら、ピヴォワンヌは強い語気で言った。
「ねえ、アスター。さっきみたいなことはもうしないでよね。見てる方も心臓に悪いし、何よりあんたがいなくなったらクララが悲しむわ」
 その言葉に、アスターはゆるりと顎を持ち上げる。
 しばらく無言でピヴォワンヌを見下ろしていたが、やがて目を閉じて大きなため息をついてみせた。
「……だが、あの場はああするしかなかった。王室の中で男は僕一人だ。僕には父上の暴挙を止める義務がある」
 ピヴォワンヌはその言葉に思わず感心してしまう。
 男だからこそ弱者を守ってやらなければならないというのは随分しっかりした考え方だ。
 あんな風に丸腰で立ち向かっていこうとするのは無謀だとも思ったが、それでもその心意気はじゅうぶん素晴らしい。
 少なくとも自分一人だけ傍観者のままでいようとはしないその姿勢には好感が持てる。
 なるほど、クララは彼のこの漢気が気に入っているのかもしれないと、ピヴォワンヌはついまじまじアスターを観察してしまう。
 これまでじっくり眺めたことなどなかったが、よく見ればアスターはきりりとした精悍な面立ちをしていた。
 澱みのないエメラルド色の瞳、すっと通った鼻梁、男らしく引き締まった口元。
 先ほどの発言といいこの面立ちといい、まさしく質実剛健を体現したような青年だ。
 
(ふーん。結構かっこいいじゃないの)
 
 ピヴォワンヌはしばし好意的な目でアスターを見つめた。
 これではクララが惹かれるのも無理はない、とさえ思う。
 そしてもう一つ、アスターのような青年を選んだクララという姫もなかなかに見る目がある少女なのだと痛感する。
 彼女はどんな状況にあっても自分をしっかり守ってくれるような責任感の強い男を選んだのだ。
 
「……なんだ」
「ううん、別に。……あんたも大変ね、アスター」
 そうねぎらってやると、彼はけぶるような金の髪をくしゃりとかきやった。
「いや? 慣れているからな。昔から父上と母上の仲裁役はいつも僕の役目だった。これでも一生懸命オルタンシアたちを庇ったものだが、結局彼女たちと相容れることはなかったな」
 
 アスターとオルタンシアたちはそもそもの気質がまるで異なっている。
 蝶よ花よと愛でられてきた彼女たちとは違って、アスターは目立たず控えめに生きるのを運命づけられてきた王子だ。
 衣服も質素なものを好むし、振る舞いだって一国の王子のそれとは到底思えないほど密やかなものだ。
 クラッセルの公子はひどく傲慢な男だったが、アスターにそうした面は一切ない。
 出自や血統を鼻にかけるどころか、彼の場合は自身の呪われた境遇を疎んじてすらいる。
 まるで不遜な態度を取るのは罪だとでもいうように、いつもどこかひっそりと生きているのだ。
 
 だが、ピヴォワンヌにはその謙虚さはひどく好ましかった。
 バイオレッタが兄として敬いたがるのもよくわかる、と思う。
 
「怪我はないか、ピヴォワンヌ姫」
「えっ」
 ピヴォワンヌはことのほか温和なアスターの声音にびっくりした。
 先ほどの騒動で思いがけない傷を作ったのではないかと、アスターは細やかに案じてくれた。
 腕に触れ、顔を覗き込み、ピヴォワンヌが無理をしているのではないかと気にかけてくれる。
「や、やめてよ……! あんたにそんなことされるの、なんか変な感じ」
 無口な王子だと思っていただけに、こんな風に親身に接されるとかえってくすぐったい。
 だが――
「僕らは血が繋がった兄妹だぞ。あに貴女いもうとを心配したって別に不思議じゃないだろう」
 途端にピヴォワンヌは足の裏がむずむずしてくるのを感じる。
(……何よ。バイオレッタといいこいつといい、あたしを妹扱いしてばっかりじゃない)
 なのに不思議とそこまで嫌な感じがしないので、かえってどうしていいかわからなくなる。
 バイオレッタとアスターはどことなく似ている。
 控えめなところ、動きが穏やかで相手に余計な威圧感を感じさせないところ。お人好しとも思えるくらい優しいところ。
 ……そして、不器用な愛し方しかできないくせに、それでも他人に無関心ではいられないようなところなどが。
 結局、甘えればいいのか突っぱねればいいのか思い悩んだ末、ピヴォワンヌは控えめに言った。
「あ、あたしは大丈夫だから……」
「何かあったら言うんだぞ。今は不可解な事件ばかり起きている。あの用心深いバイオレッタ姫でさえ巻き込まれたんだ、次は妹の貴女の身に何かが起こっても不思議じゃない」
「ええ……」
 ピヴォワンヌがうなずくと、アスターは従僕に伴われながら一足先に薔薇後宮の方へ消えていった。
 
 
 ダフネとともに遊歩道プロムナードを行きながら、ピヴォワンヌは腕組みをした。
「それにしてもどうなってるの。いっぺんに色々なことが起こりすぎだわ」
「はい……。オルタンシア姫の昏睡事件といい、現在王城では何かが起きているに違いありません。すべて同じ人間の仕業とは限りませんけれど、次期女王候補二人が害されていることと城の中全体に嫌な空気が漂っていることは事実です」
 ダフネは息をつき、「まさか予言に反対する一派の仕業なのかしら」などとつぶやく。
 
(予言に反対する一派。つまり、予言の通りに事が運ぶことを嫌がる人物……ってこと?)
 
 リシャールは熱心なヴァーテル教徒で、長いこと例の予言を実現させるべく立ち回ってきたようだ。
 イスキア大陸では「異能力者」である魔導士たちを宮廷内でのさばらせるのを嫌がる官僚も多く、当時は国王がそうした予言に振り回されるなど言語道断だと進言した者も多かったらしい。
 それをリシャールはことごとくはねつけた。
 気に入らない官僚は遠ざけ、件の予言が無事実現されるよう細部まで手はずを整えるといった具合に。
 
 しかしながら、予言というのは一種の占いのようなもので、少しばかり先の未来を前もって伝えているだけにすぎない。
 つまり、誰かがその通りに行動しなければいけないという決まりはないのだ。この辺りは占術師たちが行う占いの類と全く同じである。
 
 だが、リシャールはその予言を盲信している。それはヴァーテル教会の魔導士が予言したことだからというのもあるが、何より最愛のエリザベスを娶った日に告げられたものだからという偏った思い込みからきているもののようでもあった。
 そして彼の乱暴とも呼べる行動に己の行く末を大きく変えられてしまった人間というのがいた。
 ……第一王子アスターだ。
 次代では女の王を擁立すべしというのが予言の主旨だ。
 そのためにアスターは王位継承権を奪われたようなもので、今の彼には王位継承争いに加われるだけの力はもう残っていない。妹姫たちが戦うのを黙って見ているしかないのだ。
 彼が野心家であれば、なんとかして玉座を勝ち取ろうと行動を起こしただろう。臣下を味方につけて大規模な謀反を起こすようなこともあったかもしれない。
 
 だが、どうやらアスターにそこまでの目論見はないようだった。
 大切な者たちと心穏やかに生活することが今の自分にとっての幸福なのだと彼は教えてくれた。そしてその瞳に嘘はなかった。
 忌み子であるとはいえ、アスターが例の予言によって大きく運命を狂わされたのは確かだろう。
 だが、彼は反対派の一味などではない。それだけは断言できる。
 もし彼が王女たちを憎んでいるとするなら、あんな風に和やかに茶会などしていられるはずがないのだ。
 
 凝り固まった肩を、ピヴォワンヌは手のひらで揉み解した。
「はあ……。あれこれ考えすぎて疲れちゃったわ。一旦紅玉ルヴィ棟に戻ってやすみたい」
「ええ。ぜひそうなさってくださいませ。失礼ですが、だいぶお顔の色がお悪うございますわ」
 ピヴォワンヌはうなずき、補正下着で締め付けられた腰のあたりをしきりにさすった。
「あーもう、早くこの鎧みたいな格好から解放されたいわ。紅玉棟に入ったら、まずはこの重たくてごわごわしたドレスを脱いで、そんで窮屈極まりないコルセットと下着を取っ払って……」
 
 ……その時、軽快な足音とともに小柄な何かがピヴォワンヌに抱きついた。
「――ッ!?」
 どしんと音がして、背に強い衝撃を感じる。同時に、旅装の裾から伸びた両腕が腰に絡みついた。
香緋こうひ……っ!!」
 この声は……。
 ピヴォワンヌは自らに強くぶつかってきた少女の姿に、はっと目を見張った。
 蝶の翅の形に結われた赤紫色の髪。猫を思わせる翠玉の双眸。
「……玉蘭ぎょくらん!?」

 
 
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