間章Ⅱ 蠢く影

 
 
 スピネルはリュミエール宮の貴賓室で大きな伸びをした。
「うーん、今日も絶好の仕事日和だわ!」
 一人行儀よくテーブルについたラズワルドが、「朝から元気だね」とつぶやいてあくびを噛み殺す。
 彼はスピネルに比べてやや遅めに起床し、今は身支度を済ませて食後のお茶をちびちびと味わっているところだった。
 ベッドの上では夢魔猫のキースがまだすうすうと寝息を立てている。キースは夢魔猫とはいえ本性は猫のそれに近く、こうして好きなだけ朝寝を愉しんでいることも多い。
 ここはラズワルドにあてがわれた貴賓室であるにもかかわらず、スピネルもキースも思い思いにのびのび振舞っている。
 それがラズワルドにはなんだかおかしくもあり、また嬉しくもあった。
 
 彼はくすりと笑いをこぼしてからスピネルに話しかけた。
「ピヴォワンヌ姫たちはもう薔薇後宮を出ていってしまったのかい?」
「ええ。朝のうちにとっくに出発しちゃったわ」
 王都北区へはすぐにたどり着ける。うまくいけばクロードの留守中に邸内の探索ができるかもしれない。そうなれば恐らくバイオレッタのさらわれている場所くらいは容易に掴めるだろう。
「なんだか今朝は随分と早起きしたみたいだなあと思ってたけど、まさか薔薇後宮に行っていたなんてね」
 ラズワルドの言葉通り、スピネルは今朝、ピヴォワンヌの出立に合わせて起床した。
 理由としては、単純にピヴォワンヌが後宮を出ていくところを見届けたかったのが半分、そしてアルマンディンの捕虜の姫クララと接触したかったからというのが半分だ。
 朝陽には依然として弱いし、昼間の行動にも何かと制限がかかってしまうことの多いスピネルだが、それでも今朝は目的を達成できたおかげで満足だった。
 部屋中を上機嫌でうろついていたスピネルは、そこでやおらラズワルドに近づいた。首筋に腕を絡めて盛大に甘える。
「うふふ~。今日はこれでもすっごく頑張ったのよ! ねえラズぅ、褒めて褒めて~」
「はいはい、偉い偉い」
「やだぁ、なんかぞんざいな撫で方~。嬉しいけどぉ~」
 ラズワルドは薫り高いレモンティーを啜って苦笑いする。
「……しかし、うまく焚きつけたね、スピネル。ピヴォワンヌ姫は別に僕らの仕事に直接関係してるわけじゃないのに、火の依代クロードの討伐に上手に加担させようとして」
「いいのよいいのよ。もし見込みがあれば彼女をあたしたち二人の味方につけちゃってもいいかなって思ってるくらいなんだもの」
「そうは言っても、ピヴォワンヌ姫はこのスフェーンの姫なんだ、ヴァーテル教の教義に生きる僕らとはわけが違うよ」
 スピネルはちっちっと人差し指を振ってみせる。
「まあまあ、いいじゃないの。だって、あそこであたしがヒントをあげなかったら、あの子多分ずっとあのまま悩み続けていたと思うわよ? ふふ、これも一種の人助けの形よねえ。あたしったら罪深いわぁ~」
 いや、人助けというよりは単に王宮側の人間をうまく操作して自らの任務を進めやすくしただけではないだろうか。
 ラズワルドは唸り、やれやれと首を振った。
「……それにしても、例のクロード・シャヴァンヌがまさか第三王女殿下の失踪に関わる人物だったとはね」
 ――火の依代クロードを討て。
 それがラズワルドとスピネルに課された教皇ベンジャミンからの命令だ。
 二人は宮廷入りするや否や真っ先に黒衣の魔導士クロードに近づき、その動向を密かにうかがっていたのだった。
 とはいえ、魔力を持たないラズワルドとは違い、スピネルとキースだけは最初から彼の纏う火の力を敏感に察知していた。
 キースはもともと王城全体に濃密に漂う澱んだ空気をいち早く嗅ぎ取っていたが、それは城の中へ入ってからも同じだった。
 スピネルとキースは魔物だけあって邪悪な力に弱い。
 これまで三人で幾度も討伐に赴いてきたが、生粋の魔族である彼らは相手の魔物の力に当てられてしまうことも度々あった。
 そして、このリシャール城に満ちる空気というのもまたそうした類のものだった。
 二人は暴れ出そうとする魔物の本性を抑制するのに必死になるあまり、視察の途中でしょっちゅう体調を崩した。
 この城に漂う火の妖気というのはそれほどまでに強大かつ濃厚な代物だったのである。
 こうした気配に対しては純粋なヒトである魔導士たちよりも魔族出身の彼らの方が数倍敏感なのだ。
 邪神の力はすべての魔物を狂わせる。二人が教会本部による魔力制御の術式を施されていなかったらと思うと、ラズワルドはぞっとした。
「それにしても、どうしてバイオレッタ王女殿下の失踪に彼が関わっていると気づいたの? 僕にはよくわからなかったんだけど、やっぱり魔族というのはそういうものなのかい?」
 その問いかけに、スピネルは静かにかぶりを振った。
「邪神の魔力を感じたっていうのももちろんあるけど、決め手は魔導士クロードのあの顔つきと発言よ。ラズ、覚えてる? ピヴォワンヌ姫が姉姫の捜索を願い出た時、あの魔導士さんはあまりにも落ち着き払っていたわ。そして、それまでの間にも彼に不審なところはいくつもあったのよ」
「たとえば?」
「普通、自分が想いを寄せていた王女がいなくなったっていうときにあんなに平然とした態度を取れるものかしら。普通は違うと思うわよ。むしろ自分が彼女を助けに行くって言い出すのが自然だわ。だけど、あの魔導士さんは違った。逆にピヴォワンヌ姫を挑発するような行動に出た。これはどう考えてもおかしいわよ」
 ラズワルドは紅茶のカップを置くと小さく唸る。
「なるほど……。魔力云々というよりも彼の心理状態としておかしいと思ったわけだね」
「ええ。あのやけに開き直ったような態度。あれはどう考えても奇妙だったわ」
「うーん。さすがに君の方が人を見る目はあるということか。よくわかったよ」
 緩やかに腕を組み、ラズワルドはふう、と息をついた。
「……それにしても、彼の動機は一体何だったんだろうね。彼にはお仕えする王女を思わずさらってしまうほどの何かがあったというわけだよね? それは一体何なんだろうな」
「動機ねえ……。確かに、それはあたしとしても気になるところだわ。火の依代が水神の血を引く王家の人間に楯突くっていうその構図自体は別に不思議じゃないけど……、それにしても随分とリスキーなことをしているわよね」
「そうだね……。いくらなんでも王女をかどわかすなんて随分と危ない橋を渡ったものだ。まかり間違えば己の正体が露見してしまう恐れもある。君の言う通り、これはかなりリスキーな行為だろう。そうするだけの理由があったということか、あるいは――」
 
 その時、スピネルが突如がくりと膝をついた。
「スピネル!?」
 ……荒い吐息、せわしなく上下する肩。
 柘榴のような赤い瞳は獣のように爛々ときらめいている。
 どう見ても様子がおかしい。
 
 ラズワルドはとっさにかがみこみ、彼女に手を伸ばす。
 が、スピネルはその手をさっと振り払い、小さな自嘲の笑みを浮かべた。
「……このお城には邪神の力が充ち満ちていて辛いのよ。あたしの身体にはいっそ毒だわ」
 もともと魔物というのは邪神とは異なる種族だが、邪神の持つ力はすべての魔物を活性化させてしまう。
 シエロ砂漠にはびこる魔物の力がやたらと強力なのは、かの地がジンの力によって生み出された場所だからだ。
 それに加えてあの砂漠の地下には未だジンを祀る神殿が眠っているという話もある。
 大妖であるスピネルなどはシエロ砂漠の近辺に討伐に赴くたび、明らかに様子が変わる。
 そのため、ラズワルドはあの地下にジン神殿が埋まっているというのはあながち間違いではないかもしれないと考えていた。
 スピネルはスカートのポケットを探ると、錠剤の詰まった小瓶を取り出して中身をざらざらと口に放り込んだ。
 慌てたように咀嚼し、ごくりと飲み下す。
 そして半ば無理やり立ち上がると、ラズワルドを振り仰いだ。
「よしっ、じゃあ今日もさくっと視察を進めちゃいましょうか」
「いいけど、本当に大丈夫? 無理しなくてもいいんだよ、スピネル。具合が悪いなら僕一人でも……」
「大丈夫だって言ってるでしょ。コランダム隊のリーダーは二人で一人。あたしだけ抜けるわけにはいかないわよ」
 強気な発言にラズワルドは一瞬呆気にとられる。次いで、はあ、とため息をついた。
 スピネルはもともと言い出したら聞かないところがあるのだ。
「……わかった。いいよ。その代わり、気分が悪くなったら休憩を挟むことにしよう。それでいいね?」
「ええ。ありがとね、ラズ!」
 スピネルが身を乗り出してラズワルドの頬に唇を落とすと、彼は突然のことに真っ赤になった。
 
***
 
 貴賓室を出た二人は、王城の敷地を確認して回った。
「視察」というのは単なる建前で、実際は黒幕も城の状況もきちんと把握している。だが、それでも火の依代に扇動された異教徒たちが城に隠れていないとも限らない。
 だからこそ入念に見てまわらなければならないのだ。
 二人は城の中でもやや閉鎖的な空間であるオトンヌ宮やイヴェール宮が怪しいと考えており、その中でもスピネルは国王のための居城であるイヴェール宮を見たがった。
 イヴェール宮は通称を「冬の宮殿」という。その名の通り青や水色が大胆に使われている建物で、外観やアプローチなどもどこか冷ややかな印象を受ける色使いになっている。
 王族の面々が集うオトンヌ宮とは違って、この城はリシャールただ一人が使用するものだという。
 リシャール本人から聞いたところによると、政務が溜まっている時には国王執務室で寝起きすることもあるというから、居城といっても別段いつもイヴェール宮でやすむというわけではないらしい。
 だが、そのイヴェール宮という宮殿が彼の生活の拠点となっていることは間違いないそうだ。
 リュミエール宮の二階からまっすぐに伸びる空中回廊。
 この先に件のイヴェール宮はある。
 もちろん外から王城の敷地を横切って向かうこともできるが、貴賓室から直接向かうにはこうして空中回廊を利用した方が手っ取り早いのだ。
 二人が貴石のちりばめられた乳白色の空中回廊の前に立つと、遥か前方にうっすらと青いシルエットが浮かび上がっているのがわかった。
「……わあ」
「すごい……」
 二人はごくりと喉を鳴らす。
 回廊の先にあまりにも立派な宮殿が待ち受けていたからだ。
  くっきりと青い宮殿は、いくつもの円塔や四角塔、螺旋階段といったものを抱(いだ)きながら天高くそびえ立っていた。てっぺんには頂塔がしつらえられ、王城の敷地全体を見渡せるようになっている。
 シルエットは華美でありながらもどこか硬質な感じがして、優雅というよりは高貴な印象だった。
「綺麗な青ねえ……」
「青い塗料は大陸じゃまだ高価だからねぇ……。さすがに国王陛下のお城だけあって豪奢な造りだ」
 二人はしばしイヴェール宮に見入った。
 冬の宮殿に導かれるように、まろやかな曲線を描く回廊に一歩足を踏み出す。
 
 ……その時。
「!」
 背後に気配を感じて、スピネルとラズワルドはさっと振り返る。
 そこには翡翠色の髪の女性二人が待ち構えていた。
 
「……まあ。誰かと思ったらあなたたちだったの。随分と熱心だこと」
 そこにたたずんでいたのは王太后ヴィルヘルミーネと王妃シュザンヌだった。
 シュザンヌはきっと目をつり上げると、人目もはばからずに甲高い声で喚きたてた。
「なんてことなの。この先はイヴェール宮ではありませんか。そんなところに貴女みたいな女が一体何の用があるというの?」
「……」
「ここにはあたしだけじゃなくてラズもいるんだけど」と反論したくなるのをぐっと堪え、スピネルは唇を引き結んでただじっとシュザンヌの顔を見つめ返す。
 すると、それに腹を立てたのか、シュザンヌは耳障りな金切り声を上げた。
「この……っ、なんとかおっしゃい! 陛下の居城に忍び込んで、一体何をするつもりだったの!? まさか陛下を誘惑しようというのではないでしょうね!?」
 何もしていないうちから加害者扱いか、とスピネルは途端に嫌な気分になってきた。
 ただイヴェール宮を見ていただけでそんな疑いをかけられるなんて不本意だ。というか、イヴェール宮に向かおうとしただけで目の敵にされるのは絶対におかしい気がする。
 前々から思っていたが、この王妃シュザンヌというのはなんとも余裕がない女性だ。
 王室の女性としての手腕を発揮することもなければ、国王の正妃としてどっしり構えていることもできない。
 興味があるのは放蕩と贅沢のみという困った妃なのだ。
「いかなヴァーテル教会の人間だからといって大目に見るようなことはしなくてよ!! さあ、早く理由をおっしゃい、この小娘!!」
 スピネルは未だきんきんとした声音で騒ぎ立てているシュザンヌをちらと一瞥し、深々とため息をついた。
「はあ……、別に何もしないわよ、面倒くさい」
「! なんですって!?」
「何を勘違いしてるんだか知らないけど、あたし、あの王様に興味がないの。だからわざわざ牽制しなくたっていいわよ。貴女と違ってあたしは仕事に来てるだけだし」
 相手が言葉を失ったのをいいことに、スピネルは矢継ぎ早にたたみかけた。
「そもそもあたし、本命がいるのに他の男にちょっかい出すようなあくどい趣味はないのよねー。だから貴女の気持ちもわかんない。まあ、姦通が趣味なら好きなだけやってればって感じだけど、それにしちゃ随分あの王様にご執心みたいだしねえ」
「お黙り!! スフェーン王妃であるこのわたくしに向かって何たる口の利き方……、信じられないわ!!」
 シュザンヌはそこでころりと態度を変えた。傍らのヴィルヘルミーネに懸命にすがりつく。
「王太后様! この宗教騎士とやら、どうやらわたくしを貶めようとしているようです。どうか王太后様のお力で立場をわきまえるようよくよく言い聞かせてやってくださいませ。よもやスフェーン王妃がこんなに惨めな思いをさせられるなんて、わたくしとても耐えられませんわ」
 あまりに見え透いた手口に、スピネルはついぷっと噴き出してしまった。
「へー。自分の立場が悪くなるとそうやって王太后に泣きつくのね。面白ーい! あは、そうしてるとまるで貴女自身にはなんの権力もないみたいに見えるわ。そうやって誰かに守ってもらわないと威張れないのね〜。可哀想〜」
「なんですって、この小娘!! ちょっと陛下に贔屓されていると思って生意気な……!!」
 そこでヴィルヘルミーネは薄く笑って痩せた肩をそびやかした。
「あらあら。これじゃまるで寵の奪い合いねえ。ふふふ……、まるで先代国王の愛妾たちを見ているようだわ」
 一体どちらの味方につく気なのかと、スピネルは冷ややかに彼女を観察する。
 やはり姪の王妃の肩を持つつもりなのだろうと踏んでいると、驚いたことにヴィルヘルミーネは彼女に向けて鋭い一声を発した。
「もうおやめなさい、シュザンヌ。正妃ともあろう者がみっともないでしょう」
「ですが、王太后様……っ」
「わたくしはそうやってすぐに声を荒げる女は好かないわ。このスフェーン王家に名を連ねる女でありながら、貴女はなんて品がないのかしら。言動や声色にはその人間の品格が現れる。選ぶ言葉も、ふとしたときの些細な口調も……人はそうしたところから貴女の本質を見定めるのよ。ねえ、シュザンヌ。貴女を見ていればわたくしにもすぐにわかるわ……、貴女の王妃としての程度の低さが」
「……っ!」
 興奮で赤らんでいたシュザンヌのおもては見る間に蒼白に変わった。
 彼女は打たれたように身体を硬直させる。
 追い打ちをかけるようにヴィルヘルミーネが嗤った。
「……ふふ。この際だから一度改めてみてはどう? 案外あの子も貴女のそんなところが厭わしいのかもしれなくてよ」
「……はい。肝に銘じます」
 それまでの威勢はどこへやら、シュザンヌはしおしおとヴィルヘルミーネに頭を垂れる。
 ……なんて貫禄だ、とスピネルは肌が粟立つのを感じた。
 この低い声を耳にしただけで、周囲の者たちが一斉にかしずいてしまいそうだ。なんて恐ろしい女なのだろう……。
「わたくしはこの子と少しだけお話があるから、先にサロンに戻っていなさい」
「ですが……!」
「いいから先に戻っていてちょうだい。すぐに行くわ」
 王太后の命令に、シュザンヌは下品にもちっ、と舌打ちをすると、ドレスの裾を翻してその場を立ち去った。
 ピンヒールの踵をカツカツと鳴らし、足早に元来た道を引き返してゆく。
「……ふふ。ごめんなさいね。あの子は昔からちょっとだけ頑固なところがあるのよ」
 ヴィルヘルミーネは取り繕うように言ったが、スピネルは端からそれを信じるつもりはなかった。
 シュザンヌは確かに頑固かもしれないが、そればかりではないだろう。
 彼女の根底にはまずリシャールへの恋慕と羨望が入り混じった複雑な想い、そして一種の執着めいたものがあるような気がする。
 そしてそれに加えて国王の正妃としての異様に高すぎるプライドが、彼女の言動をより一層居丈高で厚かましいものにしてしまっている。
 スピネルはこれまでの彼女の様子からそんな印象を受けた。
 それをこの王太后は一体どこまでわかっているのだろう。そうした複雑な心境を一体どこまで理解して彼女と接しているのだろうか。
 また、自らの姪をわざわざリシャールにあてがったことにもやや作為的なものを感じる。
 どういうわけだか、それは外戚であるアウグスタス家の名声を保つことだけが目的だったわけではないような気がしてならないのだ。
「全く……。不惑を迎えたというのにまだまだ子供のようで困ってしまうわ。貴女もそう思わなかった? 第一王妃としてリシャールを支える存在でありながら、あの子は未だに放蕩三昧の贅沢三昧。何もかしましく騒ぎ立てるだけが女の仕事ではないというのに……」
 そうしてヴィルヘルミーネは二人と対面した。いや、正確にはスピネルと、だ。
 ほとんど人気のない回廊で、二人はしばし視線を交わしあう。
 口火を切ったのはヴィルヘルミーネだった。
「さて……。イヴェール宮を見ていたの、宗教騎士のお嬢さん?」
「ええ。あんまり素敵な建物だったから」
 媚びへつらう素振りも見せずに淡々と返すと、ヴィルヘルミーネは化粧気のないおもてをほころばせてうっすらと笑った。
「美しいでしょう。あれはリシャールのための宮殿なのよ。代々スフェーン国王に受け継がれる名城の一つでね。あの子自身も即位してからは自分の好きなように使っているわ。狩りで獲ってきた獲物の剥製や皮を飾ったり、名工に作らせた先祖代々の品を飾ったりね。もとは先代国王の持ち物だったのだけれど、あの子が王位に就いたことによって継承される形となったの」
 ヴィルヘルミーネの言葉は平坦だがどこか誇らしげにも聞こえる。
 やはり王の生母としては息子の即位というのは嬉しいものなのだろうか。
 だが、リシャールの話をするとき、彼女の顔は一瞬だけ暗く翳る。
 切れ長の翡翠の瞳はあたかも追憶の向こうをさまよっているかのように空虚で、そこには息子への情や親しみといったものがまるでなかった。
 この王太后が実の息子をいいように操っていたという話は案外本当なのかもしれないとスピネルは思う。
 かつて摂政をしていたというだけあって、彼女とリシャールの絆は強固なものだ。
 折につけ彼女がリシャールを「わたくしのお人形さん」と呼びならわすのも、つまりはそういうことなのだろう。彼女はまだ息子を自身の傀儡とみなしているのだ。
 リシャールはこのヴィルヘルミーネの息子である以前に彼女の分身でもある。二人は血を分けた親子であり、ともにこのスフェーンを統治する為政者でもあったのだ。
 それはすなわち、二人の結びつきが何よりも強かったということ、そしてある意味同一の存在であったことを示している。
 この二人が実の親子以上に癒着しているのも当然といえば当然だ。
 ……だが、このどこか不穏な空気は一体何なのだろう。
 リシャールはこの王太后を見つめるとき、ほんの少しだけ怯えたような顔つきになる。
 まるで母后に逆らうわけにはいかないとでもいうように、普段の様子からは信じられないくらい従順でしおらしげな態度を取るのだ。
 その様子はあたかも母后ヴィルヘルミーネにいいように弄ばれる操り人形のようだった。
 そうして彼を思うさま従わせた後にヴィルヘルミーネが浮かべる愉悦の笑みが、そうした印象をさらに強める。
 まさか、先ほどシュザンヌをいなした時のように、まだ何も知らない幼少期のリシャールに対しても容赦なく鉄槌を下していたということだろうか?
 だが、これまでのヴィルヘルミーネの言動を見るにつけ、自分の思い通りに操るために息子の心を殺すような行いに出ていたとしても何らおかしくはないと思った。
 そしてもう一つ、王の身体からわずかに発せられる火の力の残滓も気にかかった。
 それは力としてはごく微弱なものだったが、どう考えても邪神の匂いがするものだった。
 火の依代クロードと直接関係があるのかどうかは不明だが、あの少年王に何かの厄災が降りかかろうとしているのは間違いない。
 リシャール、そしてこの宮廷の行く末を想像したスピネルは一瞬だけ険しい面持ちになった。
 だが、これでは誰と誰が結託しているかなどまるでわからない。
 有益な情報を得るためにももうしばらく城の視察を進めた方がよさそうだ、とスピネルは判断した。
 すると、小ばかにしたような薄ら笑いを浮かべてヴィルヘルミーネが口を開く。
「……お嬢さん。この城の秘密を何一つ暴こうとしないでちょうだい。貴女のような何も知らない人間に陰でこそこそと詮索されるのは迷惑よ」
 先ほどとは打って変わった傲慢な言いようにいささかむっとする。
 スピネルは声高にやり返した。
「お言葉ですけど王太后様。貴女よりもあたしたちの方が立場が上だってことをお忘れかしら。あたしやラズはれっきとした教皇ベンジャミン様のしもべよ。いいえ、いっそあの方の代理人と呼んで差し支えないわ。もし貴女方が視察の邪魔をするというなら、そうね……、あの王様からすべての権力と地位を奪ってしまってもかまわないわ。このあたしに楯突くっていうのはそういうことよ」
 すべては教皇ベンジャミンへの報告一つだ。
 ここでヴィルヘルミーネが出しゃばれば出しゃばるほどリシャールの立場が悪くなるのだということを、彼女にはしっかり教えてやらなくてはならない。
「貴女が躍起になればなるほど、貴女の王様は不利になるわよ。それに、あたしはもともとすっごく意地悪だからねえ……、貴女の出方によっては教皇様にあることないこと報告してしまうけど、それでもいい?」
 ヴィルヘルミーネは一瞬呆気にとられたが、次の瞬間箍が外れたように高らかな笑い声を上げた。
「ほほほ……! まあ、面白いわ。まるで対面でチェスを指しているかのようね。久方ぶりにとても楽しいわ。貴女はなかなかに知恵の回る娘さんなのねえ」
「あら、ありがと。残念ながら貴女の倍は生きてるけどね」
 挑発するヴィルヘルミーネにつられ、スピネルもまた犬歯ののぞく唇を持ち上げる。
 すると一拍置いてヴィルヘルミーネはふふ、と含み笑いをした。
「なるほど……教皇直属の宗教騎士相手では少々分が悪いようね。まあいいわ、好きになさい。どうせ貴女の欲している答えなんかここでは見つからない。舞台の秘密は幕が下りるときにこそ明かされるものよ。それまでせいぜい足掻くがいいわ」
 言い置いて、ヴィルヘルミーネは二人に背を向ける。
「……」
 スピネルはどうにも腑に落ちない気持ちでその痩せた後ろ姿を見つめた。
 
 
***
 
 ピヴォワンヌが出立した朝、ユーグは青玉サファイア棟のドローイングルームで考え込んでいた。
 女主人であるクララが用意してくれた書きもの机に陣取った彼は、卓上に置かれた銀の文鎮を意味もなく指先で弄んだ。
 鈍い輝きを放つこの文鎮はアルマンディンの銀細工師からの贈り物だ。アルマンディンには無数の銀鉱山があり、そこで採掘される銀鉱石は良質なことで有名だった。
 そうした資源を国家繁栄や軍事力拡大のために利用していたアルマンディン王家だったが、スフェーンの侵攻によって長年の平和にあっけなく終止符を打つこととなる。
 民は捕らわれ、兵士は労役を科せられ、歯向かう残党たちは刑罰を受け。
 そして、国王と兄王子は処刑された。
 そんな状況にあって主君であるクララの身に何も起こらなかったのは奇跡以外の何物でもない。
 だからこそ自分は今目の前にあるこの幸せを大切にしなければならないとユーグは思っていた。
 ピヴォワンヌは今朝方クロードの邸に向けて出発したばかりだ。
 クララは先王の宝剣を携え、薔薇後宮を出てゆく彼女を見送りに行った。
 帰ってくるときにはやや浮かない顔つきをしていたのが気にかかったが、ユーグはできたばかりの友人が二人もいなくなって恐らく寂しいのだろうという結論を出し、特に追及はしないでおいた。
 感傷的になったり塞ぎがちになったりというのは、あの年頃の少女にはよくあることだ。
 ここでユーグがしつこく詮索しても仕方ない。
 それにしても、と彼は唸る。
 クララを通してピヴォワンヌ姫に託されたあの宝剣が使われる時は果たして訪れるのだろうかと、一人ぼんやりと思索に耽る。
「……本当に、嫌なことばかり立て続けに起こっているな」
 第一王女オルタンシアの謎の昏睡と、第三王女バイオレッタの失踪。
 そして教皇付きの宗教騎士たちの突然の来訪。
 すべて異例の事態である。しかも、いずれも策謀の匂いを濃く孕んだものばかりだ。
 一体この城で今何が起こっているというのだろう。
 一体、どんなはかりごとが巡らされているというのだろうか……。
 その時、叩扉の音とともにアベルが入ってきた。
 いつものようにゆったりとした足取りでドローイングルームに入ってきた彼はきょろきょろと辺りを見渡した。
「クララ様ならお出かけ中だぞ」
「ああ、そうみたいだな」
 彼はそっけなく言い、ユーグの向かいに並べられた揃いの書きもの机にどさりと腰を下ろした。
 魔導士館から回ってきた書類に目を走らせ、インク壺に浸した鵞ペンでさらさらと筆記を始める。
 敵国出身の下級魔導士とはいえ、それなりに仕事はある。
 王城の巡回や警備、雑用といった下働きに加え、こうして魔導士として文書を作成させられることも多々あるのだ。
 ユーグはしばらく黙ってアベルとともに書類に目を通していたが、やがてぽつりと独り言ちた。
「……ピヴォワンヌ姫たちは無事に戻ってこられるのだろうか」
 クララが父王の形見を彼女に預けると言い出した時は驚かされた。
 あれは亡国の宝物ほうもつとも呼べる代物だ。
 そんなものを一介の友人風情に貸し出すなど、どう考えても正気の沙汰ではないと思った。
 とはいえ、一度この国の捕虜となった彼女が差し出せるものといえばもうあれしか残っていないこともまた確かだった。
 戦力として実戦に投入できるものといえばあの宝剣くらいだっただろうし、彼女のそうした行動を責めるつもりはない。
 よほどバイオレッタのことが大切なのだろうと思い、今回だけはユーグも目をつぶることにした。
(使われない剣に剣の意味などない。それを思えばこれでよかったのかもしれない)
 いかな国宝であるとはいえ、ただ飾られているだけ、しまわれているだけでは前の王としても不本意だろう。
 愛娘のクララが大事な友人を助けるために使うというのであれば、先王としては嬉しいのではないだろうか。
 むろん遺失や破損も困りものだが、あのピヴォワンヌにそんなことができるわけもない。
 そして何より、クララはあの姉妹たちのことをとても大切にしている。
 それを踏まえれば、あの剣はバイオレッタ救出のために使われるのが一番正しいことのような気もした。
「しかし……。お前の読み通りだったな、アベル」
「んー? 何のことかなー?」
 生返事のアベルに、ユーグはいささか声を尖らせた。
「とぼけるな。お前はこの薔薇後宮付きの宦官になってからずっとあの方を……シャヴァンヌ様を目の敵にしていただろう。長年の仇敵かもしれないといって」
 一瞬の沈黙の後、アベルは淡々と――まるで他人事のように言った。
「そりゃまあな。俺ら・・はどうしたって惹きつけ合うのさ。それこそ『同じ種類の生き物』だからな」
 ユーグは深々と嘆息し、書きもの机の上で両手の指を組み合わせた。
 長年のアベルの読みが正しければ、相手は恐らく人間からも魔導士からもかけ離れた存在――神の依代だろう。六柱の神――四大神並びに高位二大神――をその身に降ろし、その神のしもべとなって動く異端の存在のことを指す。
 遥か昔には神の意思を人々に伝える役割を担い、その特異性から王や民草に一目置かれていたという。
 神の依代というのは数代前に大陸で幅を利かせていた神官や巫女と同列の存在だが、彼らの伝承そのものはすでに廃れて久しい。
 魔導士たちの間ではもはや存在するかどうかすら疑わしいものとして認識されているし、実際にその姿を目の当たりにした者はいないという。
 だが、ユーグだけは違っていた。
 彼は「生きた」依代を少なくとも二人知っている。
 それが今のイスキアにおいてひどく珍しい出来事だということを、ユーグはよく承知していた。
「それにしても……。あの方相手にピヴォワンヌ様は勝てるのだろうか……」
 例の黒衣の魔導士のことをほのめかしながらつぶやくと、間髪入れずにアベルが答える。
「そりゃあもちろん。あの宝剣には仕掛けをしておいたからな」
 くく、といかにも策略家めいた笑みを浮かべるアベルに、ユーグは動きを止めた。
「……仕掛けだと?」
「ああ。あの剣には俺があらかじめ力を封じておいた。ま、ピヴォワンヌ姫があの剣を使えば間違いなくいい方向に進むだろうな。何せあいつの魔力と拮抗する力が封じられているんだから」
 なおもよどみなく文字を書き綴りながら、アベルは勝ち誇ったように言う。
「どうせこの戦いは俺らの勝ちだよ。あいつには勝てっこないんだ。まー、この俺にケンカふっかけてきた時点で詰んでるけどな」
 その言葉に、ユーグは勢いよく席を立つ。
 そして反対側の机に座る同僚につかつかと近づくと、その胸倉を昂ぶりに任せて強く掴み上げた。
「この馬鹿!! お前の場合、その力を使いすぎるのは身体に毒なんだ!! めったなことで力を使うなと何度言えばわかる!!」
 アベルはユーグの剣幕に一瞬だけきょとんとしたが、次いでふっと笑った。
「へえ……。火の依代様はあんなにバカスカ自分の力を乱用してるってのに?」
「真面目に聞け、アベル。お前はその力を得るために一体何年寿命を削った? 神の依代になるというのはつまり人ではなくなるということ、そして単なる魔導士などとも全く違う存在になってしまうということなんだぞ!?」
 アベルは無言でユーグの手を振り払った。
 静かに立ち上がると、まっすぐにユーグの瞳を見つめ返す。
「……この力はもともと人の手には負えないものだ。俺はもともとそれをわかってて契約したからいいんだよ」
「だが、なぜそんなに気軽に力を使う!? どうしてそこまで自分の命を軽んじられるんだ!!」
「口の利き方に気をつけろよ、ユーグ。俺は何も軽んじてなんかない。利用できるものを利用してるだけだ。それのどこが悪い」
 アベルのアイスブルーの双眸の奥で、何かがざわめき出す。
 虹彩の中、妖しいほど美しい水色の光がゆらゆらと揺れている。
 その力に思わず呑み込まれそうになって、ユーグは反射的に顔を背けた。
「すべてはクララのためだよ。わかってるんだろ? 俺の行動にそれ以外の理由なんかない。クララが落ち込んでる姿はもう見たくないし、何よりこれ以上城の中をあいつに引っ掻き回されるのも不愉快だ。だから宝剣に魔力を施した。それだけだ」
 アベルはそこで普段の彼からは想像もつかないほどの不遜な微笑を湛えた。
「はは、早くあいつを俺の前にひれ伏させてやりたいよ。夢にも思わないだろうな……、自分と対になる存在が、まさかこーんな身近に隠れてるなんてさ」
「……復讐などやめろ。このまま心穏やかに生きていけばいいだろう。このまま、魔導士アベルとして、クララ様のおそばでずっと――」
 だが、アベルはきわめてきっぱりと言い切った。
「いいや、許せないね。俺はもともとあいつを許す気なんかさらさらなかった。俺たちの祖国を滅茶苦茶にして、俺の大事な女まで好きなように誑かして……。許せるわけないだろ? なんで自分だけあんなに平然としてるんだよ? あんな卑怯なやつは一刻も早く裁きを受けるべきだ……、他の誰でもない俺のな」
「アベル……」
 アベルは胸に手をあてがうと、くすくすと楽しげに笑う。
「まー、こんな身体になったことに関しては、恨みが半分、感謝が半分かな。女の相手は二度とできなくなったけど、その代わりクララのそばにいられるし、あいつを守ってやることもできる。おかげでこの上ない魔力も手に入ったわけだし……」
 挑むようにユーグを見つめ、彼は余裕たっぷりに口角を上げた。
「なあ、俺が本気を出したら、あんな優男一発でのせるんだぜ。バカみたいだと思うだろ? けど、事実なんだよな」
「……っ」
 これまで何度言い聞かせてもアベルは聞こうとしなかった。
 だからこれから先もきっと止めるだけ無駄なのだろう。
 だが、自分には彼を止める権利があるはずだとユーグは思っていた。……アベルと誰よりも近い存在である自分には。
「あれはお前の手に負えるような相手じゃない!! 頼むからやめてくれ!! 俺はもう一度お前を失わなきゃならないのか!?」
 これはユーグにとっては必死の懇願だった。
 だが、アベルはにべもなくそれをはねつけた。
「失う? ……違うだろ、お前。お前の知る俺はもうとっくに失われてるんだよ。今お前の前にいるのはただの紛い物にすぎない。お前が一生の忠誠を誓った俺はもういない。……だからもう、俺には失うものなんか何もないんだ」
「……!」
 過去を振り切るように声を絞り出すアベルに、ユーグの胸はやりきれなさでいっぱいになる。
「……俺はあの日、確かに生まれ変わったんだ。三十年寿命を縮められるのと引き換えに、あの男を討つための決定的な力を手に入れたんだよ。だからもう立ち止まらない。いくらお前が止めたって無駄だ。俺の復讐は絶対だ」
 アベルはユーグの視線から逃れるようにゆっくりと背を向けた。
 そして悲痛なほど真摯な声音でつぶやく。
「クララ。この俺がいる限り、必ずお前を守り通す。そしていつか必ずお前をこの後宮おりから出してやる。……絶対に」
 まるで祈りのような小さなささやきは、静寂の中に溶け込むように消えていった。
 
 

 

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