リュミエール宮の回廊を歩いていたクロードは、異臭に気づいて表情を険しくした。
この鼻につく匂いは、恐らく煙草だ。
見やれば、宮殿の石柱にもたれて煙管を咥える若い男の姿があった。別段悪びれる様子もなく悠々と紫煙を吐き出している。
男は回廊に囲まれた庭園をぼうっとした顔で見つめながら、またゆっくりと吸い口を咥えた。
燃えるような紅い髪に、冴え冴えとした翠の瞳。道士めいた独特の服装。
……名は確か、喬彩月といったか。
確か、劉の公主たちの従者をしている青年だったはずだ。謁見の折に公主に付き従っていたから一応覚えている。劉では宮廷魔導士をしていると聞いた。
突然の公主の来訪に、宗教騎士たちの視察。
全くもって忌々しいことばかりだ、とクロードは冷笑した。
今回、劉の公主二人は献上品と女王からの書状を携えてスフェーン宮廷にやってきた。
彼女たちの目的は表向きは「来貢」ということになっているが、その本当の目的をクロードは知っている。ピヴォワンヌに会いに来たのだ。
(本当に小賢しい公主たちだ。よりによって魔導士を連れてくるとは)
この男がピヴォワンヌの側についたら厄介だ、とクロードはしばし歩みを止めて彩月を見つめた。
腕のほどはわからないものの、彼はれっきとした魔導士だ。万一敵に回したら面倒なことになるかもしれない。
むろん、それはピヴォワンヌがこの彩月という男に救いを求めればの話だ。だが、調べたところによれば二人はかつて同じ宮城で働いていた仕事仲間であるという。これは危うい状況だった。
ピヴォワンヌがクロードの姦計を看破してしまえば、バイオレッタとの一時の蜜月も終わりを迎える。彼女を城に帰さざるを得なくなるばかりか、クロード自身の立場も一気に揺らいでしまう。
「第三王女をかどわかした罪人」という烙印を捺されて宮廷での盤石な地位を失うのは目に見えている。それだけはなんとしても避けねばならなかった。
しかも彩月の主人は一国の公主だ。
あの二人は女王ほどの権力は持たないものの、公主という立場柄、大抵のことは実現させられてしまう少女たちなのである。ピヴォワンヌに従者である彩月を貸し出すことなど訳はないだろう。
仮にピヴォワンヌが公主たちを味方につけ、この彩月の能力を利用してバイオレッタの救出に踏み切るようなことがあれば。
もし本当にそうなったら終わりだ。
バイオレッタとの秘めやかな愛の世界は瞬く間に瓦解してしまうだろう。
クロードは若干の苛立ちと軽蔑を込めて彩月を睨んだ。
対する彩月はといえば、紫煙を吐き出しながらぼんやりと庭園の木々を眺めている。
煙と匂いを避けようと、クロードは懐のハンカチーフを指先で探り当てた。レースのあしらわれたそれでしっかりと口元を覆う。
やがて、クロードの視線を感じたのか、彩月がゆるゆるとこちらを見た。
男らしい輪郭と精悍な顔立ち。たくましい体躯に研ぎ澄まされた空気。
……自分にはないものを持った男だ、としばしクロードは無言で彼を見つめた。
彩月の容貌は男に力強さを求める女たちにとってとびきり魅惑的に映ることだろう。この鍛えられた腕で荒っぽく抱きしめられてみたいと思う女たちはごまんといるはずだ。
彼の人となりまでは把握していないものの、この野性的でいささか傲慢とも呼べる雰囲気が世の女性たちの本能に響くであろうことは容易に判断がつく。
女というのは基本的に征服されたがる生き物だ。そして相手が強ければ強いほど夢中になる。無意識のうちに生存競争に勝ち抜ける種を選び取っているような節さえある。
その点この男は有利だろう。クロードのようになよなよしたところもなければ、変に卑屈なところもない。やたら計算高くもなさそうだ。
気取らず、飾らず、ありのままを女の前にさらけ出せる男。
強靭な肉体と堅固な精神を何よりの武器とする、真の意味で男らしい男だ。
この彩月という男は、弱みを餌に狡賢く女の気を惹こうとしたりはしないだろう。きっと終始自信に満ちたからりとした口説き方をするに違いない。
そう考えたらクロードの心中は羨望と嫉妬で煮えたぎりそうになった。
……「違いすぎる」、と心の裡でつぶやく。
クロードは口元にあてがったハンカチーフをずらすと、思い切り顔をしかめて言ってやった。
「……宮殿内での喫煙は禁じられておりますよ」
クロードは、東国の習慣の産物であるこの煙草という嗜好品が大嫌いだった。劉の人間たちは「薬になる」といって日常的に吸うらしいが、こんな不快な香りの代物は廃絶されてしまえばいいとさえ思う。
だらしなく煙管を咥えていた彩月はにやりとした。癖のある紅の毛をかきやってから、携帯しているらしい小型の灰入れを取り出して灰を落とす。
「あー、悪ぃ悪ぃ。こっちのしきたりとかいうのにまだ慣れねェんだわ。今片づけるから、そう嫌がんなって」
「……」
クロードは眉をひそめた。言葉遣いといい所作といい、大嫌いな類の男である。
「しっかし、あんたさぁ。こないだ謁見の間でも見かけたけど、近くで見てもひでぇキレーな顔してやがんだな。まるで女みてぇにすべすべな肌してやがんじゃねェか」
彩月は愉快そうに笑って自身の頬をつるりと撫でてみせる。
「スフェーンの男ってのはみんなそう美形なわけ? あんたほどの美貌なら、芙蓉様の男妾も務まりそうだなーって思っちまうね。いやぁ、うらやましい限りだねぇ!」
言って、彩月は豪快に笑い飛ばす。
クロードはたちまち気分が悪くなった。
……一体何をのたまっているのだ、この男は。劉のようなおかしな風習を持つ国になど死んでも行くものか。
女王の男妾などという表現も気に入らなかった。愛するバイオレッタの婿ならいざ知らず、後宮に男を囲ってとっかえひっかえするような多情な女の情夫になるつもりなどさらさらない。
彩月は視線と言葉で容赦なくクロードを小ばかにした。
値踏みするように全身をじろじろと眺めまわしたかと思うと、クロードの顔のあたりで一瞬視線を止め、思わせぶりににやにやする。
そのしぐさに無性に腹が立ったが、クロードは努めて穏やかにやり返した。
「ご冗談でしょう? 私ごときにそのような大役はとても務まりませんよ。それに……私の心はただお一人にだけ捧げられたもの。この忠誠は絶対なのです」
「お一人……ねぇ。それって誰のこと言ってんの? 俺の勘が正しけりゃ、あんたの『一番』って絶対あの王じゃないだろ。参考までに教えてくんない?」
がさつな立ち居振る舞いをする割には意外とよく見ているものだ。ここまで観察眼が鋭いと逆に愉快な気持ちになる。
つまり彩月はそこまで執拗に――そして不躾に――クロードを見つめていたということだ。
クロードの表情を、視線を、そしてしぐさを。この男は遠方から逐一舐めるように見ていたに違いない。
だからこそ見抜いたのだろう。クロードがリシャールをそこまで敬愛してはいないということを。
クロードは歪み出す口角を必死で抑え込んだ。
こういう類の人間を目の前にすると、封印したはずの衝動が再び沸き起こってくる。
他人の領域に土足で立ち入ってくるこのふてぶてしさには我慢がならない。跪かせて許しを請わせたうえで、そのなけなしの矜持と理性を踏みにじってやりたくなる。
この男がもうやめてくれと懇願するまで、その心身を蹂躙することができたなら。
「うわー、なんかものすげぇ怖ェ顔してやがんなァ。けど、あんたの場合、案外そっちが素だったりする?」
「……!」
図星を指されそうになったクロードは、急いでおもてを引き締める。
そして貴族的な笑みでどす黒い微笑を押し殺した。
「喬彩月。一つだけ忠告いたしましょう。私の邪魔は許しませんよ。たとえあなたであろうとも」
彩月は意味ありげな笑みを浮かべた。
腰の帯の隙間に煙管を差し込むと、「降参」とでもいうようにひらひらと両手をひらめかせる。
「あんたの邪魔なんか俺ァしねぇよ。俺は姫さんたちについてきたただの従者だしよ。まァ、なんか面白いことがあったらいいよなぁとは思ってるけど、あんたの考えてるような真似をするつもりなんか全然ねェから」
「……ならばよいのです。では」
若干の苛立ちを覚えながらも、クロードは踵を返した。
***
「アベル、いつまでにやにやしている」
「だってさ、あの髪の色見たでしょ、ユーグ君? 綺麗だよね、東の国の女性たちって。赤紫の髪にエメラルドの瞳なんて、スフェーンじゃ一度も見たことないし。衣装といい見た目といい、東国の御婦人があんなにエキゾチックで魅力的だなんて思いもしなかったなぁ。あー、これはぜひともお近づきにならないと」
アベルは薔薇後宮の一角で劉の公主二人を見かけてからというものずっとこの調子で、ユーグがどれだけ注意しても聞く耳を持たない。
なんとかして彼女たちと接点を持とうと画策する同僚を、ユーグは持ち前の生真面目さで諫めた。
「……いい加減にしないか。相手は公主様だぞ。余計な事だけはしてくれるなよ」
「はいはい」
「はいは一回でじゅうぶんだ」
「ふえーい」
「真面目に聞け!!」
そうして従者二人はいつものように軽快なやり取りを繰り広げ始める。
背後から聞こえてくるその会話を何とはなしに聞きながら、クララは整った顔立ちに痛ましげな色を滲ませた。
(バイオレッタ様)
バイオレッタが消えてからもうだいぶ経つが、未だ有益な情報は何一つとして入ってきていない。
捜索のために北の狩猟場に走った騎士たちも、結局何の手掛かりも得られないまま城へと帰還してきている。
薔薇後宮では見張りの兵士の数が増やされ、今までと比べて段違いに物々しくなっていた。
見張りの兵士たちは「巡回」と称して日に数回後宮の見回りをさせられている。
女性たちの住まいが集中している西棟に入ってこないのは救いだが、それでもやはり嫌な感じがした。
また、女官や侍女たちの取り調べも徹底的に行われた。
疑いを解かれた数名の女官たちは後宮のあちこちに遣わされて異常がないかどうか確認させられたりしている。
クララは常に従者二人とともに生活しているからさほど恐ろしさは感じないが、それでもどことなく不安だった。
いざとなればユーグやアベルが守ってくれるだろうが、それでも自分の生活する場所に殺伐とした空気が満ちているというのははっきり言って耐えがたかった。
「……せめてピヴォワンヌ様がお元気だといいのだけれど」
つぶやき、クララは腕にかけた籐の籠を見下ろした。
クララは今、従者二人を従えてピヴォワンヌの私室へ向かっていた。久しぶりにゆっくり彼女の顔を見ようと思ったのだ。
東の大国からの使者に、ヴァーテル教会からの客人。
ここしばらくの間、スフェーン宮廷は思いがけない訪問者のおかげで随分と慌ただしくなっていた。
しかも、現在薔薇後宮では立て続けによからぬ事件が起こっている。
突如いなくなったバイオレッタのことが気がかりで仕方なく、せめて妹のピヴォワンヌの顔を見てほっとしたかったのだ。
携えた籠の中には料理人たちに頼んで作ってもらったタルト・タタンが入っている。
喜んでもらえるといいのだが、とクララは籐の籠を手で撫でさすった。
「それにしても、どこに行ってしまいましたの……。心配ですわ、バイオレッタ様……」
せっかく少しだけ打ち解けられたと思っていた。
二人で仲良く恋愛談議に興じたり、アスターやプリュンヌを交えたお茶会に誘ったりして、クララはクララなりにバイオレッタと親しくなろうと頑張っていたのだ。
なのに、その矢先にいなくなるなんて……。
「わが君ぃ。元気出してくださいよー。僕でよければ胸貸しますよ?」
「おい、ふざけるな!」
ユーグに首根っこをつかまれたアベルが不満そうな顔つきになったが、ぼんやりしていたクララは上の空だった。
「……本当に、どうすればいいのかしら、わたくし」
ユーグが心配そうな面持ちで女主人に声をかける。
「クララ様……」
と。
こちらに向かって廊下を歩いてくる二人の公主の姿に、クララは立ち止まった。
公主たちはピヴォワンヌの居住棟のすぐそばにある館をあてがわれたと聞いている。大方そこを出てきたのだろう。
アベルがにやりとする。
「おっ、噂をすればですね! これはご挨拶しなくちゃいけないなぁ」
「……そうですわね。劉の公主様でしたら、わたくしよりも上位でいらっしゃいますもの」
祖国アルマンディンは滅ぼされたのだから、現在栄華を極めている劉国の公主を敬うのは姫君として当然の行いだ。
クララは二人を怯えさせないようにゆっくりとした動作で道を開け、綺羅が汚れるのもかまわず足元に跪いた。従者二人もきびきびした動作でそれに倣う。
やがて姉である宝蘭がクララに気づき、翠の瞳をぱちぱちと瞬いた。
「あら。貴女はどなた……?」
劉人は自国の言語しか解さないものだと思い込んでいたが、宝蘭は綺麗な大陸語を話した。恐らく一般教養として大陸語を学んでいるのだろう。
クララは白鳥のように細い首筋を傾け、凛とした声音で滔々と名乗った。
「お初にお目にかかります、公主様。わたくしは敗戦国アルマンディンの第一王女、クララ・リブロ・フォン・アルマンディンと申します」
「ふうん……。貴女がアルマンディンの姫君……。素晴らしい御髪をしておいでですのね」
にこやかに宝蘭が返すが、クララはその声色からある種の棘を感じ取っていた。
否、棘というほどはっきりとしたものではない。が、彼女のたおやかな外見と何かが決定的に噛み合わないのだ。端的に言えば一筋縄ではいかないような雰囲気だった。
リシャールやシュザンヌと長年渡り合ってきたクララには、言葉に潜んだ毒がすぐにわかってしまう。
この公主は、おとなしそうに見えて意外としたたかなのかもしれなかった。
「……ありがとう存じます」
クララの返答を聞き、宝蘭の妹である玉蘭はふんと鼻を鳴らした。
「矜持の欠片もないのね、そんな風に簡単に跪くなんて。敗戦国といえども元は五大国。貴女だって誇り高い水の女神の血を引く人間であるはず。なのになんなの? その様は。その身に流れる女神の血は名ばかりというわけ?」
言って、仙女の描かれた絹団扇で口元を覆い隠す。
きつい物言いはピヴォワンヌのそれとよく似ていたが、高圧的な態度やしぐさには彼女のような愛くるしさはない。姉以上に堂々としていて貫禄もある。
そして、その言葉には姉以上にはっきりとした軽蔑が宿っていた。
玉蘭は絹団扇の先でクララの顎先をすくい上げた。傲然と言い放つ。
「悔しいと思うなら、何か言い返してごらんなさいな。それともわらわ相手には言葉など使う必要もないということかしら」
「わたくしは……」
思わず口を開きかけると、傍らのアベルが動いた。
「まあまあ、そんな手厳しいことをおっしゃらないでくださいよ。花のかんばせが台無しですよ、美しい方?」
素早い所作で玉蘭の手を取ってキスしたアベルに、クララは開いた口が塞がらなくなった。
「白魚のような手ですね」などと言って玉蘭の手を放そうとしないので、冷や汗をかく。
「ちょ、ちょっと、アベル……っ!?」
相手は劉という大国の公主で、対するアベルは捕虜クララに仕える一介の下級魔導士にすぎない。
従者風情が一国の姫の手に勝手に口づけるなど、はっきり言って不敬極まりない行為である。
案の定、アベルに手を取られたまま玉蘭は真っ赤になった。絹団扇を取り落とす。
「なっ……!!」
「おい、アベル! やめろ……!」
ユーグの懸命な制止も空しく、アベルは身を乗り出して玉蘭の衣に触れた。
彼はゆったりした襦裙の袖口をつまみながらにこにこと言った。
「そうしていらっしゃると本当にお可愛らしいですね。この装いも、天女と見まごうばかりの他に類を見ない麗しさだ」
「な、な……!」
「んー。けど、やっぱりこの表情には敵いませんね。そうやって怒っていらっしゃる姿なんか、いかにも気が強そうでたまらないです。もっと意地悪して困らせてみたくなります」
玉蘭はわなわなと震えた。白い肌が見る見るうちに真っ赤に紅潮してゆく。その様子さえ、アベルは「酔芙蓉みたいで魅力的だ」と揶揄した。
「ふふ、真っ白な頬がまるで美酒に酔い痴れたみたいな色になってる。じゃあこの綺麗なピンク色の唇はさしずめ咲き初めの蓮といったところかな。ここに口づけたら一体どんな味がするんだろう」
「なっ……!? ちょ、調子に乗らないでっ……!!」
おとがいに添えられたアベルの手を引きはがし、玉蘭が後ずさった。腕にかけられた薄桃色の被帛が風をはらんでふわりと揺れる。
「く、クララ姫といったかしら!? 貴女の従者は破廉恥極まりない男ね!! いきなり手に接吻するなんて、躾が行き届いていないのではなくて!?」
「玉蘭、おやめなさい」
「姉様!! わらわはこんな軽薄な男は我慢がなりませんわ!! 西国の男はきっとみんなこうなのです!! そうに決まっています」
心底汚らわしくて仕方ないというように、玉蘭はアベルからまたじりじりと距離を取る。極めつけに、帯の隙間から手巾を出して口づけられた手をごしごし拭いた。
アベルはといえば、クララの脇で必死で笑いをこらえている。
クララは軽いめまいを覚えた。ユーグをうかがい見れば、彼は片眼鏡の上から目元を押さえてやれやれと首を振っている。
(アベルの馬鹿……! なんて大それたことを……!)
クララは片手で顔を覆って絶句した。
ああ、この場は一体どう取り繕ったらいいのだろうか。
こんな軽はずみな出来事がきっかけでスフェーンと劉との間に亀裂が生じたりしたらまさしく悲劇だ。
「――ですが、この国では接吻は挨拶だと聞いているわ。……そうでしょう、クララ姫様?」
宝蘭の問いかけに、クララは我に返る。
「え!? ええ……、あ。いえ、あの、申し訳ございません! わたくしの従者が勝手な真似を……。お詫びいたしますわ」
「お詫びですって!? 詫びて済む話ではないわよ!! このわらわの手に口づけるなんて!!」
玉蘭は唇を噛みしめて震えている。
どうやらよほどの箱入りであるらしく、これまで手の甲にキスをされたことなどなかったようだ。
(そういえば、劉では接吻はめったにしないのだと聞いたことがある。他の五大国のように挨拶代わりにキスを交わすことなんてもってのほかなのだと……)
クララはがっくりと肩を落とした。
気まずい。一体この場はどうしたら。
と、そこに突如軽やかな声が割って入った。
「あれェ? 姫さんたちじゃねェの。そんなとこで何してンの?」
「彩月!」
燃え盛る紅の髪。翠玉のごとき双眸。
喬彩月。劉からやってきた使者の一人で公主たちの従者を務めている青年だ。
「彩月……、彩月!!」
公主たちは彼に駆け寄った。彩月は顔を緩める。
「あーもう。じゃれつくなよ。そんなに俺様に会いたかったわけ?」
公主たちの頭を順繰りに撫でさすりながら、彩月はにやりと笑った。
そこで玉蘭が身を乗り出す。
「ちょっと彩月。聞いてちょうだい。この銀髪の男がわらわに……!」
「ああン?」
群がる公主たちをなだめると、彩月はアベルに近寄った。すいと目を細める。
「うっわ。こいつもえらい美形だなァ。俺様マジで自信なくすわー……」
「えー、そうですかぁ?」
へらへらと笑うアベルに、彩月はにやりとする。何やら共感を覚えたらしい。
「あんたもそのお姫様の従者ってわけ? お互い苦労すんなぁ。……けど、あんたのご主人様は話がわかる人みたいでうらやましいぜ」
「いやぁ、僕の方こそあなたがうらやましいですよ。お綺麗なお姫様二人にお仕え出来るなんて。僕だったら毎日浮かれちゃいそうです」
「あぁ、わかる? 綺麗だよなァ、ウチの姫さん。あとはこのじゃじゃ馬な性格が直ればねェ……」
肩をすくめる彩月に、玉蘭が食ってかかった。絹団扇でその背をぺしりと叩く。
「母様から俸禄をもらっているくせに、わらわたちを侮辱しないで!!」
「おっと、それじゃア虎の威を借る狐じゃねェの? 芙蓉様の名前を出せばわがままがなんでも許されるとか思ってる時点でねェ……」
「なんですって!?」
いきり立つ玉蘭を姉の宝蘭がたしなめた。
「玉蘭、彩月の言う通りよ。みっともない真似はおやめなさい」
「お、さすが宝蘭サンだなぁ。いつもそうやってこいつの手綱握っててくれるとありがたいんだけどなぁ。こいつ、大好きな姉様の言う事しか聞かねェから」
「わらわはそうしているつもりなのだけれど……。けれど、玉蘭の意思も大切にしたいのだもの。この子はわらわにとって誰よりもかけがえのない子だから……」
含みのある物言いと顔つきに、クララは眉をひそめる。けれど、その瞳はすぐに見開かれた。
(この方、もしかして……)
その時、呆れたような声が一行に投げかけられた。
「何やってんの、あんたたち……。こんなところで道塞ぎながら騒がないでよ」
見れば、廊下の向こうからピヴォワンヌが腕組みをしながらクララたちの方へ歩いてくるところだった。
「ピヴォワンヌ様!」
「久しぶり、クララ。元気そうで安心したわ」
クララは思わず彼女に駆け寄った。
「ああ、お会いしたかったですわ。バイオレッタ様があのようなことになってしまってから、わたくしとても心配で……」
刹那、べりっと音がしそうな勢いで二人の身体が引き離される。玉蘭が二人の間に割り込んできたのだ。
「香緋っ! いやだもう、香緋もお出かけ? よかったらわらわのお部屋でお茶にしない? とっておきのお菓子があるんだけど」
「玉蘭、あんた……。あたしは今クララと話してるんだけど」
「まあっ。酷いわ。わらわと香緋の仲なのに、香緋ったらこんな敗戦国の王女の肩を持つの?」
「敗戦国の王女」という表現に、ピヴォワンヌの眉が不快そうにひそめられる。
「なんて言い方をするの、玉蘭」
「だってそうでしょ、戦で敗けたのだから」
つんと澄まして言い、玉蘭はピヴォワンヌの腕にしがみついた。
「そうそう、香緋の出自の話を聞いてびっくりしちゃったわ。まさか貴女が、わらわと同じ竜神の血を引く姫君だったなんて!」
玉蘭はいきいきとはしゃいだ。両手の指先を組み合わせてうっとりと言う。
「わらわね、それを聞いてとっても嬉しかったのよ。まさか香緋とわらわが同じ神様の血を受け継ぐ者同士だったなんて。正直、ちょっとだけ運命かもって思っちゃったわ。だからわらわたちはここまで親しくなれたんだわって」
熱っぽく語る玉蘭に、ピヴォワンヌは一度ふう、と大きなため息をついた。
「……あのね。それを言うならクララだって同じなのよ。この子だってれっきとした水の女神の血を引く王女様なの。あたしだけ特別扱いして他の子を目の敵にするのはやめて。これからもそういうことばっかりするんだったら、あたしもあんたとの付き合いはちょっと控えさせてもらうから」
「えっ……」
ピヴォワンヌの一言に、玉蘭は打たれたように全身を強張らせる。
そしてちらりとクララを一瞥してから言った。
「……わかった。貴女がそう言うなら、ちょっぴり嫌だけどそうするわ」
玉蘭は一度はしおらしくそう言ったものの、数秒後、クララに人差し指を突きつけて声高に宣言した。
「だけど、調子に乗らないでね、クララ姫! 香緋の一番は今でもこのわらわなんだからっ。わらわに黙って勝手に香緋と親交を深めたりしたら許さないわよ!」
「は……、はい。そのようなことは考えておりませんでしたが、肝に銘じます」
クララは殊勝に言って、そそくさとピヴォワンヌに籐の籠を押し付ける。
「ピヴォワンヌ様に元気になっていただきたくて、お菓子を持ってきましたの。よろしければ皆さまで召し上がってください」
そう言ってさっと踵を返そうとしたクララだったが。
「へえ、スフェーンのお菓子? じゃあせっかくだからみんなでお茶にしない? わらわも貴女とお話してみたいわ」
言うが早いか、玉蘭はクララの腕をぐいっと引っ張った。たたらを踏むクララを強引に引き寄せて自分の隣に立たせる。
今度はクララが衝撃を受ける番だった。
「ええっ、あの、わたくしはその……!」
クララはピヴォワンヌと公主の様子を交互にうかがった。信じられない申し出におろおろしていると、隣のアベルが陽気な声を上げる。
「うわ、いいんですかぁ? ぜひご一緒しますー。ねっ、わが君?」
「え……、あの、本当によろしいんですの?」
困惑するクララに、ピヴォワンヌが力なく笑って答えた。
「いいんじゃないかしら。そもそも言い出したら聞かないから、この子」