第六章 子羊と新たな出会い

 

「……それにしても、随分若いウェイトレスさんだね」
 運ばれてきたランチをあらかた片付けたところでアランが言う。
 エドワードは、薄めに淹れたアールグレイを口に運びながら答えた。
「マーガレットっていうんだ。うちでホール係をやってもらってる」
「へえ。いくつなの?」
「十二」
 エドワードの回答に、二人はぎくりとしたように動きを止める。
 ややあってからランドルフがこわごわと問うた。
「……エド。お前まさか、年端もいかない娘さんを誑かしたのでは――」
「はあ? 違うっての。うちで働きたいって言ってたから雇っただけだよ」
「だが、ウェイトレスにしては少々若すぎるんじゃないか? 学業の合間に小遣い稼ぎをするサタデーガールズだってせいぜい十七かそこらだぞ。それに、ここは夜間はバーになるんだろう? その時間帯はどうしてる?」
「ああ、その時間帯なら二階で寝――」
「“ね”?」

 エドワードは頭を抱えた。

(弱ったな……。いくら友達とはいえ、こいつらにマッジの正体を明かすのはまずい。とりあえず知り合いの娘ってことにしとくか……)

「ごほん! あー……、いや、あいつ実は俺の知り合いの娘さんなんだ。今両親がこっぴどい喧嘩をしててな。家に置いておけないってんで、俺がうちで面倒見ることになったんだ」
「……」
 二人は一瞬顔を見合わせた。
 一瞬なんともいえない表情を浮かべたのち、同情するように言う。
「ま、まあ、人の事情は色々あるものだよね。大変そうだね、エド」
「大体のところは理解した。もし何かあったら相談してこい。力になってやるから」
「サンキュ。とりあえず今のところは大丈夫そうだが、もし何かあったら頼む」
「もちろんだ。なんでも相談してくれ」
 ランドルフは辺りをきょろきょろと見まわしてから、そこでそっと声を潜めた。
「人助けをするのはいいが、お前……小児性愛ロリコンの道にだけは進むなよ?」
「ごほっ……!?」

 うっかり飲みかけのアールグレイを噴き出しそうになり、すんでのところで堪える。
 ランドルフは昔から不正や犯罪行為にはひどく手厳しいのだ。おまけに真顔で言うから質が悪い。
 しかし、彼はすぐに話題を変えた。

「居心地がいい店だな。さっきあのお嬢さんにも見せてもらったが、フロントガーデンからコンサヴァトリーにかけての外観が牧歌的でとてもいい。ごみごみした街中にもこうした正統派な庭園があるのだと思うと、なんだか癒されるな」
「そうだね。温かみのあるムードでとっても落ち着くよ。お料理もおいしいし、エド頑張ってるね」
「場所もいいし、この物件、かなり当たりだったんじゃないか?」
「は、はは……」
 まさか「幽霊の少女付きでした」とは名状できず、エドワードは頭を掻く。

(ま、普通は幽霊付きの物件は価格が高騰しやすいからな……そういう意味では確かに「当たり」だったんだろうな)

 口やかましいわ朝は追い剥ぎに来るわで散々な幽霊だが、彼女がいなければそれはそれで寂しいに違いない。仮に自分とネイサンの二人だけだったら、きっと子羊亭は火が消えたように寂々とした空間になっているはずだ。
 それを思えば今のこの騒々しさも悪くないのかもしれないと思った。

「そういやアラン、お前最近ベアトリクスとはどうなんだ?」
 彼の想い人の名を挙げ、エドワードは訊ねる。
 どうせあまりうまくいっていないんだろうな……と思いつつ彼の顔を窺うと、やはりそのおもてには煩悶の色が漂っていた。
「う……その、実はこの前街で偶然会ったんだけど、なんだかちょっと嫌われちゃったみたいで」
「……何? 何かしたのか」
「何かあったのか」ではなく「何をしたのか」と訊ねるところがいかにもランドルフらしく、エドワードは小さく噴き出してしまう。
「あっ……と、そのぅ……」
 もじもじと指先をいじくるアランに、痺れを切らしたらしいランドルフが鬼の形相で身を乗り出す。
「おい……俺の妹に何をしたんだお前。答えようによっては万死に値するぞ!!」

 ――そう、アランはランドルフの実の妹であるベアトリクスに恋をしている。それももう四年もの間ずっとだ。
 夏の休暇期間にリットン家の別荘で出会ってからというもの、彼の慕情はベアトリクスただ一人に集中しており、その熱量は未だ衰える気配がない。問題はアランがなかなか彼女に告白するだけの勇気を出せずにいる、というところだろう。そのため、エドワードはこの青年の恋を兄であるランドルフとともに温かく見守り続けているのだった。

「そ、それが……他の女の子と仲良くしているところを見られてからというもの、お互いちょっとぎくしゃくしてて……。別にその子をえこひいきしたつもりはないんだけど、うっかり話が盛り上がっちゃったんだよね。そしたらビー、なんだか悲しそうな顔で逃げて行っちゃって……」
「何!? お前、ビーが本命のくせに他の女と仲良くしてるのか!?」
「まあまあ、そう怒るなってランディ。こいつだって女と話す機会くらいあるだろうさ。そんなことくらいでいちいち落ち込まれてたらきりがないぜ」
 二人はちらりとアランを見た。

 ……男性にしてはなめらかで手入れの行き届いた肌に、すっきりと通った鼻梁と薄く形のよい唇。肩口で一つにくくられた、ヘーゼルブラウンの長い髪。髪と同じ色をした優しげな双眸はいかにも人の好さそうな表情を湛えており、垂れ気味の目元と相まって純朴そうな印象を与える。
 厳冬めいて冷ややかな美貌を持つランドルフとは異なり、アランの容姿には春の陽射しのような温かみと親しみやすさがあった。
 子供のようなあどけなさと大人の男性としての色気とが混在する、気さくで飾らないルックス。性格はおとなしく、気配り上手でややお人好し。
 つまりこのアラン・コールフィールドという青年は、誰に対しても優しく親切な――そして誰にでも容易に手の届きそうな――美形なのであった。

「どうでもいいけど、本命相手には『ただの女友達』と同じ扱いをしない方がいいぞ。なんだかんだ勝率下がるし」
「え? じゃあどうすればいいの?」
「俺が知るかよ。せっかくいい頭くっつけてんだから、それくらい自分で考えろ」
「そんなぁ! 意地悪しないで教えてよエド~~!」
 アランは涙目でエドワードのシャツを掴む。
 こういう他力本願なところは昔からさっぱり変わっていないな……とエドワードは情けなくなった。

「いや、だが……エドのアドバイスにも一理あるな」
「え?」と訊き返すアランに、ランドルフはびしりと指を突きつける。
「お前、俺の妹に対して『その他大勢』と全く同じ扱いをしているだろう。あれでは振り向いてもらえないのも道理だぞ」
「だ、だって……! 他の女の子たちと同じように接していないと恥ずかしいんだよ……! そうしないとどうしても意識してしまって、平静じゃいられなくなっちゃって……」
「そら見ろ。そういうところだろう、ビーが嫌がっているのは」
「うう……っ」
「考えてもみろ。『どうせ私は他の女の子と同じポジションなのね……』とか、『もしかしたら他に好きな子がいるのかも……』とか、ビーだって不安になるだろう」
「うわお前、声真似うまいな」
「真面目に聴けッ!!」

 激昂するランドルフに、アランはぼそぼそと弁解する。
「……でも、女の子の前でらしくもなく慌ててる姿なんて見られたくないんだよ……。ビーの前でそんな情けない姿を晒すのは嫌だ……」
「大丈夫だ、今のままでもじゅうぶん情けないぞ、お前は」
「えええええっ……!」
 こぶしでトントン椅子の背もたれを叩きながら、エドワードはさらりと提案する。
「ま、嫌われたんなら挽回しとけよ。手紙か贈り物が妥当な線だろうな。花でもチョコレートでも、なんでもいいだろ」
「え……!? 僕からビーに……!? 無理だよそんなの、ハードルが高すぎるよ!」
「はあ? ハードルが高いっていっても、このまま嫌われ続けるよかよっぽどマシだろ? 早めに手を打っとかないと、ビーだって次の男に行っちまうかもしれないぞ?」
「それは嫌だ!」

 その時、ランドルフが憮然として重いため息を漏らした。
「アランお前、本当に意気地のないやつだな。俺の妹に誠意を見せるのがそんなに嫌か?」
「ちちち違うよランディ! 僕は別にそんな――」
「はあ……なんだかお前みたいな腑抜けに妹を任せるのは愚策のような気がしてきた。ビーももう立派な淑女だ、お前以外にもふさわしい男はいくらでもいる。あまりに進展がないようなら俺は降りるぞ」
 わざと肩を怒らせて眉を吊り上げるランドルフに、しかしアランは反論するでもなくしょんぼりとうなだれる。しばしの沈黙ののち、彼は絞り出すように言った。
「……そう、だよね。僕なんか中産階級出身だし、端から相手にもされてないよね……。一人で一喜一憂して馬鹿みたいだな、ははっ……」
 アランは背を丸め、湿った顔つきでうつむく。今にもきのこが生えそうな落ち込みぶりだ。

 ……そう、このアラン・コールフィールドという青年、絶世の美男子ではあるがとにかく打たれ弱いのである。寄宿学校時代はその抜きんでた外見と知性のおかげで同級生たちからやっかまれており、教師のいないところで陰湿ないじめや嫌がらせを受けることもしょっちゅうだった。中産階級出身のくせに見目も成績もいいアランのことを、同級生たちは気に入らなかったのだ。
 そこを庇っていじめっ子たちから守ってやっていたのがエドワードとランドルフであり、アランはそれをきっかけに二人と交流を深めていき現在に至る。

「どうせ……どうせ僕なんか……何をやってもダメだし……うう」
 どんより落ち込むアランに、エドワードはこそこそとランドルフの肘をつつく。
「……おいこら、ランディ。いくらなんでも焚きつけすぎだ。これじゃ成就するものも成就しないだろうが」
「む……、そ、そうだな……、少し発破をかけすぎたようだ……」
「こいつは打たれ弱いんだから、発破をかけるにしてももう少しマイルドにいかないと折れちまうぞ」
「そう、だな……。そういえば、なんだかんだ鈍感な俺たちとは違って、学生時代も些細なことですぐにショックを受けていたな……」
「ま、こいつの中にはもともと自分が中産階級の出だっていう引け目があるわけだしな。そこを刺激するのはまずいだろ」
「とはいえ、コールフィールド家は男爵家だろう。いくら一代貴族とはいえ、かの家の業績は女王陛下にも認められた至極まっとうなものだ。アランたち二人の場合、身分差は尻込みする大きな理由にはならないはずだが……」
 頬杖をつくと、エドワードはあくまでやんわりとランドルフの主張を否定した。
「アランは真面目だからな。自分と付き合うことでベアトリクスまで悪く言われるんじゃないかと思うととても手が出せないんだろう」
「は……、くだらない。お前も常々言っている通り、今や古くからの常識や概念は崩れつつある。これからは皆貴族だ平民だと理屈をこねていないで、もっと自由に恋愛や結婚を愉しむべきだろう」
「まー、おひとり様歴の長いお前が言っても説得力ないけどな?」
「う、うるさい……! 俺はいいんだ。ビーが女性として幸せになってくれたら、それで!」
 紅茶をひとくち嚥下し、エドワードはにやりと笑う。
「お前もいい加減相手作れば? 妹の幸せばっかり願ってないでさ」
「俺はお前と違って不調法者だからな。そう簡単にはいかないんだ」
「何も不器用なのを言い訳にしなくたっていいだろ」
「そうは言ってもお前、口下手で気の利かない男なんか需要がないだろう? 器用でしっかり者のお前や美形でよく気のつくアランとは違って、俺にはあまり取り柄がないからな。誇れる部分といったら腕力くらいか」
「いやー……、そのガタイのよさはじゅうぶんアピールポイントになると思うけどなぁ。同じ男からしてもうらやましいくらいだぜ」
 むっつりと口を閉ざす旧友の腕を、エドワードはからかうように小突いた。

 日々軍事演習で鍛えているランドルフは、全身にしっかりと筋肉がついている。今はスーツ姿なので少々わかりづらいが、もろ肌脱ぎになればそれはもう羨ましくなるくらい筋骨隆々だ。そこをアピールポイントにしたらどうかと思っているのだが、どうも女性と一対一で話すのは抵抗があるらしく、一向に恋人を作りたがらない。
 もっとも、エドワードが彼の母親のような悩みを抱いても仕方がないのだが――。

 

***

 

(あらら……なんかテーブルがめちゃくちゃ暗くなってるわねぇ……)

 こっそり様子を窺っていたマーガレットは、赤いスカートの裾を翻して三人の席へ向かう。
 そして紅茶のポットを手に、努めて明るく呼びかけた。
「お客様っ、紅茶のお代わりはいかがですかぁ?」
「あ……、僕お代わり欲しいな。お願いします、ウェイトレスさん」
 おずおず手を挙げるアランに、マーガレットはにっこり笑ってポットを傾ける。
 温かい紅茶をなみなみと注いでやり、今度はランドルフに向けてジェスチャーで問いかける。
 彼は「ああ」とつぶやいてカップを取り上げた。
「いただこうか」
 こちらに空のカップを差し出しながら、ランドルフはぽつりと言った。
「……いやしかし、見事な金髪だな。エピドート人にはあまり見られない色彩だ」
「え、そ、そう?」
 マーガレットは思いもよらない賛辞にぽっと頬を染める。
「ほんとほんと。ブロンドの髪って珍しいよね。蜂蜜みたいな豊かな黄金色。うん、とっても綺麗だなぁ」
 ようやく「陰鬱モード」から持ち直したらしい、アランもまた瞳を輝かせてランドルフに同調する。
「そ、そういうあなただって茶髪じゃない」
 照れをごまかすように水を向けると、アランはくくった髪を軽く持ち上げて言った。
「あ、これ? これは母さんがアルマンディン人だからだよ」
「そうなの?」
「うん。僕の母さんはアルマンディンの名家の生まれでね。父さんとは旅先で出会って、そのまま意気投合して結婚したんだって。いわゆる国際結婚ってやつなんだけど、母さんも商家の娘だから馬が合ったらしくてね」
「ほえ~……」
「今は共同経営者として二人三脚で頑張ってるよ!」
 マーガレットの顔を見上げ、アランは誇らしげに言った。
「……あ、アルマンディンは知ってるよね?」
「ええ。大陸の南にある大きな国でしょ? それくらい勉強したから知ってるわ」
「ちゃんとお勉強してるなんて偉いね。まだ小さいのにすごいなあ」
 いささかむっとして、マーガレットは声を上げた。
「あたし、小さくないもん!」
 強く主張した刹那、テーブルがどっと沸く。
「ご、ごめ……! 笑うつもりは……!」
「いやー、お前は小さいだろ。少なくとも大きくはないよな?」
 否、これでも実年齢はゆうに百を越えているのだ、本来であればこの三人組よりもずっと大人であるはずなのだ。
 こんな風に小馬鹿にされるのは納得いかない、とマーガレットは声を張り上げる。
「ほんとなんだから! 小さくなんてないんだからっ! あたしの方があなたたちよりずっとずっと大人だし、人生経験も豊富なんだからねっ!」
「はは……! 必死なところがまた年頃の娘さんらしいな」
「僕たちからすればじゅうぶん小さいし子供だよ」
「むううう……!」
 どすどす地団太を踏むマーガレット。
 その様子を微笑ましげに眺めながら、ようやく笑いを収めたランドルフはやおらすっと片手を掲げた。
「……いや、君みたいな天真爛漫なお嬢さんは新鮮だ。君さえよかったら、俺の妹の話し相手になってはくれないだろうか?」
「へ?」
 ランドルフは長い脚をゆったりと組み換え、マーガレットの金緑色の瞳を見つめた。
「ちょうど俺の妹が行儀見習いから帰ってきたばかりなんだが、病弱なせいで友達がほとんどいなくてね。君さえよければ、週に数回うちに来て妹の話し相手をしてやってほしい。もちろん報酬はきちんと払うから安心してくれ」
 マーガレットはぶんぶんかぶりを振る。
「え!? む、無理よ無理! あたし庶民だし、そんなところ絶対行けないっ!」
「はは。大丈夫だ、わがリットン伯爵家はもともと客人には寛容だ。どんな身分のものであろうが受け入れ、守る……もともとそういう家柄だからな」
「そ、そういう問題じゃ――!」
「いや、いいんじゃないか?」
「エドぉー!?」
「保護者」たる人物に勧奨され、マーガレットは目を剥く。
「だってお前、よろずやのおかみくらいしか仲のいい友達がいないだろ。ここはありがたく招待されとけ。でないとずっとそのまんまだぞ」
「そ、そうだけど、もしまた幽霊の姿になっちゃったらどうするのよ!?」
 ひそひそ声で問い詰めると、エドワードはさらりと言う。
「いや、そこは心配ないだろ。“逢魔が時”って言葉があるくらいだ、きっとあの姿になるのは夜間限定なんだろう。実際ネイサンの時も深夜だったじゃないか」
「そ、そういえば……」
「俺は夜までに帰ってくれば問題はないだろうと思うが?」

 確かに、エドワードと初めて会った夜も、ネイサンの前で実体化が解けた時も、どちらも時間帯は夜中だった。一方で、百貨店やティールームに出掛けた時は昼間で――エド同伴ではあったが――実体化が解けることはなかった。
 案外、昼間ほんの少し遊びに行く程度なら大丈夫なのかもしれない。

(うまくいけば、あたしにもお友達ができるかもしれない、ってこと……?)

 マーガレットの瞳が好奇心できらりと光る。
 確かに今のままでは友達はできないままだ。ここはランドルフの誘いに乗ってみてもいいのではないか?

「あのぅ……」
 おずおずと問いかけるマーガレットに、ランドルフは「ん?」と首を傾げる。
「例えばその子をお出かけに誘ったりしたら、あなた怒る?」
「む……? どういう意味だ?」
「あのね、あたし、お友達とショッピングをするのが夢なの。お洋服の選びっこしたり、アイスクリーム食べたり……もしあたしがその子とそういうことをしたら、あなたは怒る?」
「……」
 一瞬きょとんとしたのち、ランドルフはふっと口元をほころばせた。
「いや、かまわない。むしろぜひ一緒に遊んでやってくれ。その方がビーは喜ぶだろう」
「やったぁっ!!」
 早くも「夢」が叶いそうで、マーガレットは飛び上がった。
 あまりの喜びように、ランドルフは「そんなに嬉しいのか」と苦笑いする。
「妹の名前はベアトリクス・リットン。年は十七、そうだな……君より少し年上といったところか。おとなしくて内気な性格だが、別に人付き合いが嫌いというわけではないから安心してくれたまえ」
 さらさらとペンを動かし、彼は小さなメモに邸の住所を書いてくれる。
「今週末は空いているかな?」
「ええ。今のところ予定はないわ」
「では早速週末に遊びに来てくれたまえ。使用人たちにはあらかじめ話をしておくから」
 メモを大事そうに受け取りながら、マーガレットはすでに踊り出したい気分でいっぱいだった。

 

 ややあってから、二人のやり取りを羨ましそうに静観していたアランがぽつりと言う。
「いいなぁ、ビーのおうちか。僕も行きたい……」
「あ、じゃあ一緒に行こうよ。知り合いのあなたが一緒に来てくれればあたしも心強いわ」
「いや、さすがに僕みたいな成人した男は駄目だろうね。そもそもリットン元帥がいい顔をしないだろう」
「げん、すい……?」
 聞き慣れない単語に首を傾げると、ランドルフが幾分気まずそうな面持ちで応える。
「ああ、俺の父親はエピドート陸軍の総司令官でね。その影響か、男には少々厳しいというかなんというか……」
 彼はもごもごと言いよどむ。
 なるほど。ご令嬢の家には鬼神のごとく恐ろしい父君がいらっしゃるわけだ。それではいかなアランであろうとも近づけまい。

「はあ……それにしても、ビーももうすぐ社交界デビューかぁ。早いものだなぁ。デビュタントボールが楽しみだね」
「ああ。デビューが済んだら次は婿探しだから忙しくなるな。ビーほどの器量ならば縁談も山ほど来るだろうし……」
 アランを一瞥し、どこか挑発するようにランドルフが言う。
 マーガレットは思わず訊き返した。
「デビュタントボール?」
「成人を迎えた良家の子女たちがオクタヴィア女王に謁見する日さ。謁見のあとには慣例としてボール舞踏会が催されることになっていてね。真っ白なオートクチュールのドレスを着て、リトゥアール城の『輪舞の間』でダンスを踊るんだ」
「わあ! ステキぃ! あたし、そういうのって絵本の中のお姫様しかやらないものだと思ってた!」
 マーガレットがよろずやで購入するワンコインの絵本には、よくそうしたお姫様が出てくるのだ。きらびやかなドレスを纏い、素敵な紳士に手を取られてワルツを踊る……そんなお姫様が。
 一番のお気に入りは「バイオレッタ女王の生涯」というスフェーン大国の伝記ものだ。
 が、まさかこんな身近なところにそうしたお姫様の世界が存在していたとは思いもよらず、胸がどきどきしてしまう。
「真っ白な
ドレス……、それもオートクチュールだなんて……。いいなぁいいなぁ、見てみたいなぁ」
「うんうん、盛装したビーは綺麗なんだろうなぁ……。ビーは色が白いから、デビュタントのドレスもきっと映えるだろうね。はあ……、一曲でいいから僕もおめかししたビーと踊りたいなぁ……」
 うっとりと夢想しているアランの背を、マーガレットはぽんぽんと叩いた。
「もしあなたもそのボール舞踏会とやらに参加できるなら、謝りついでに一曲誘ってみたら? 自分の晴れ姿を見に来てくれる男の人って素敵よ。女の子だって馬鹿じゃないんだし、きっと応えてくれるわよ」
「いや……、参加はできるけど、僕は駄目だよ。ビーとは身分が違いすぎるし、何より嫌われているからね」
 そう言ってまたしても背を丸め、ふてくされたような態度を取る。
 エドワードとランドルフは揃って肩を落とした。
「男のくせにえっらい被害妄想だな、お前……」
「ただつれなくされたというだけで、普通そこまで邪推するか……? いよいよ本格的に情けなくなってきたぞ、俺は……」
 またしても「陰鬱モード」に入ってしまったアランは、先ほどまでの好青年ぶりはどこへやら、打って変わって卑屈な口ぶりで言う。
「週末の訪問、僕の分まで楽しんできてね、マッジちゃん。あ、よければ僕が気にかけてたって伝えてくれる? それと、『またいつか君と楽しくおしゃべりがしたい』って僕の代わりに伝――」
 刹那、ランドルフの怒声が飛んだ。
「馬鹿かお前は! それはマーガレットではなく兄である俺に言うべきだろう! 全く関係ない第三者を巻き込むな!」
「あぅ……! そ、そうでした……」
「全く……ソフィア校一の秀才が聞いて呆れる……。あの頃のお前は一体どこへ行ってしまったんだ……!」
 ランドルフは荒っぽく吐き捨てると、柔らかな黒髪をかきやって嘆息した。

 

「……ああ、もう二時半か。そろそろお暇しなくてはな」
「あっ……そうだね、いつまでもこうして引き留めてちゃ悪いよね。エドもマッジちゃんも仕事に戻らなきゃ」
 言うなり、二人は立ち上がった。恐らくアフタヌーンティーの時間に向けて配慮してくれたのだろう。一人で奮闘しているネイサンのことも気にかかる。
「おいしかったよ、エド。また来るね」
「大変だろうが頑張れよ。困ったことがあればいつでも言ってこい、すぐに駆けつけてやるから」
 二人の言葉に、エドワードはくしゃりと破顔した。
「ああ。また来てくれよ、二人とも。いつでも歓迎するぜ」
「もっちろん! 次はちゃんと開店祝いを持ってくるね」
「いや、いいって。お前絶対高いもん持ってくるだろ」
「えへへ、バレた~?」
「お前とはこれからも対等に付き合っていきたいし、そういう気遣いはしなくていいんだっての」
 そう言って、エドワードはアランの額をこつんと小突く。


「――ではお嬢さん。週末にまた会おう」
「うん!」
 マーガレットはランドルフにうなずき返すと、手の中のメモをきゅっと握りしめた。

***

 マーガレットはキッチンに戻ったエドワードの代わりに、フロントガーデンのところまで二人を見送りに行った。

「ありがとうございましたぁ! また来てくださいね!」
 オリヴァー小路に消えてゆく二人の背に向けて、ぺこりと頭を下げる。
 と、その時、駆け足で戻ってきたアランがショーケースの中の菓子を指さしながら問うた。
「あ、あのさ! このサマープディングってテイクアウトはできるかな?」
「サマープディング? ええ、もちろんできます……けど?」

 カットした食パンにベリーソースを染み込ませたサマープディングは、エピドートの初夏を代表する一品だ。型に薄くスライスした食パンを貼り付け、そこに鍋でさっと煮たベリーのソースを流し込んで作る甘酸っぱいスイーツである。
 やや古くなった食パンのほうが適しているため、余ったパンの再利用法としても大人気のお菓子だ。

 子羊亭では小型のプラスチックカップに入れて販売しており、テイクアウトも可能となっている。最後にホイップした生クリームを乗せ、エディブルフラワー食用花と新鮮なラズベリーを添えて仕上げるのがエドワードのこだわりだ。
 あまり日持ちがしないデザートなのでほんの少しの量しか置かないことにしているが、それでも根強い人気のあるメニューで、あっという間に売り切れてしまうことも多い。

「……あっ、ちょうどよかった。まだ五つほど残ってます!」
「じゃあ、それを三つ包んでください、ウェイトレスさん」
 人のよさそうな笑みを浮かべ、アランはぺこりと頭を下げる。
 その人懐っこい大型犬のような雰囲気につい笑ってしまい、マーガレットはわざと彼に合わせておどけてみせる。
「承知いたしました、お客様」
 次の瞬間、二人は顔を見合わせてくすくす笑い合った。

「サマープディングが好きなの?」
 小ぶりのプラスチックカップを紙箱に収めながらマーガレットは訊ねる。
 案の定、アランはこっくりとうなずいた。
「うん、好き。昔大好きな人と食べた思い出のお菓子でね。また味わってみたくなって」
「ふーん。それって、さっき言ってたベアトリクスって人のこと?」
 マーガレットの問いかけに、アランはぽっと頬を赤らめる。わかりやすい反応に、マーガレットはにしし、と笑った。
「お貴族様のことはよくわかんないけど、ぼやぼやしてるのはまずいんじゃない? さっきランドルフが言ってたじゃない、デビュタントボールを過ぎたら続々と縁談が舞い込み始めるだろうって」
「うっ……!」
 アランは青い顔で胃の辺りを押さえた。
 サマープディングの箱を差し出しながら、マーガレットはやれやれと首を振った。
「もう、意気地がないわねぇ。それくらいお兄さんに頼めばいいじゃない。僕とベアトの仲を取り持ってって」
「それはだめだよ」
 思いがけずはっきりした口調で返され、マーガレットは瞳を瞬く。
「なんで?」
「こう見えて僕は不正が嫌いなんだ。確かにランディなら喜んで後押ししてくれるかもしれない。だけど、それじゃ自分の力でビーと結ばれたことにはならないでしょ? それに、ビーの気持ちを無視して自分の想いだけを優先させるような真似はしたくないんだ」
 サマープディングの紙箱を大事そうに抱えながら、アランはまっすぐな瞳で言い切る。
「それはそうだけど……別にバックアップくらい頼んだっていいのに」
「ごめんね、でもありがとう。まずは自力で頑張ってみることにするよ。見た目をビー好みにしたり、悪いところを直したり……もっと努力できることはいくらでもあるはずだから」
「あなた、ただの美人さんかと思ってたら意外とたくましいのね。ちょっと見直したかも」
「ふふ、ありがとう」

「それにしても綺麗な髪ねぇ」
 マーガレットの賛辞に、アランは自らの髪を一房つまんでみせる。
「ああ、これ? これはね、僕の願掛け。ビーと恋人同士になれたら切るつもりなんだ」
「え!? も、もったいない! 量も長さもたっぷりあってとってもつやつやなのに!」
「はは、ありがと。まあ、一種のおまじないだね。ビーと初めて会った季節からずっと伸ばしてるんだ。先生に怒られたこともあるけど、その分授業態度や成績でカバーしてたから大事にはならなかったんだよね」

 つまり、髪の長さが想いの長さなのだ。

(なんてロマンティックな人なんだろう。素敵)

 そして、こんなロマンチストな男性に想われているベアトリクス・リットンとは一体どんな人物なのだろう?
 そう思うと、週末のリットン家訪問が俄然楽しみになってくるのだった。

 

 

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