andante 私邸でのひととき(前編)

 
 バイオレッタは、三面鏡に映る自身の姿をまじまじと見つめた。
『次の休日、私の邸に招待させて頂いても?』
 数日前、クロードにそう問いかけられたバイオレッタは迷わずうなずいていた。
『ええ。喜んで、クロード様。楽しみにしています』
 クロードの普段の暮らしぶりがわかるかもしれないという期待もあり、また「私的な空間に招待してもらえた」という喜びもありで、バイオレッタはしばらく浮かれていた。
 ……のだが。
 サラによってシンプルなパステルブルーのドレスを着つけられたバイオレッタは、幾分緊張気味に鏡を見た。
 淡い水色のドレスには、同色のエンブロイダリーレースがあしらわれている。
 首周りには清楚なエクリュのレースカラーをつけ、隠しのところに香水で香りづけしたコットンを忍ばせた。
 ドレスの袖の部分にはアメジストを連ねたブローチが光っている。袖の長さは普段より幾分長めで、肘から下にはたっぷりと大きなシャーリングが入っていた。
(大丈夫かしら……)
 バイオレッタは何度かくるくると三面鏡の前で回ってみた。
 可愛いけれど、若干色気が足りないような気がしてしまう。ウエストはきゅっと絞られているし、胸元にボリュームが足りないわけでもないのだが、やはり色合いとレースカラーの影響だろう。女性というよりは少女といった雰囲気が強い装いだ。
 もっとも、私邸でくつろぐだけなのに、夜会のような派手な服装で行ったのでは場にそぐわない。これはこれで正解なのだとは思う。
 それにしても、まさかこんなに着る服で悩む羽目になるとは思いもよらなかった。
 お洒落が大好きなサラと二人がかりで、一番自分らしい色とデザインのものを選んだつもりだが、少々自信がない。
(せめて、クロード様のお好きな色をお聞きしておくんだったわ)
 バイオレッタは唸りながら三面鏡の前を行ったり来たりした。
「やっぱり薄紅色のドレスの方がよかったかしら……? でも、可愛い感じのピンクなんて着慣れていないから、きっと落ち着かないわ。じゃあ一番初めのライラック色のドレス? だけどあれはちょっと胸の空き具合が気になるし……、ううん……」
 装身具とレティキュールを携えて近づいてくるサラに、バイオレッタは思わず訊ねてしまう。
「へ……、変じゃない?」
「何をおっしゃいますの? とてもお綺麗ですわ」
「……本当に?」
「ええ!」
 彼が珍しい茶菓子を振る舞ってくれるということで、私邸へは午後に行くことになっている。
 紅茶はまだイスキア大陸では高価な飲み物で、バイオレッタは王宮に来るまで口にしたことすらなかった。だが、彼に教えてもらううちに詳しくなってきて、今では微細な味の違いもなんとなくわかるようになってきた。
 乳製品を使ったデザートに合うものや、気分転換に向いている華やいだ香りのものなど、クロードは本当に色々教えてくれる。
 以前、茶葉を売る商人が後宮にやって来たときも、嫌な顔をせずに丁寧に助言してくれて嬉しかった。その時贈ってもらったカモミールのハーブティーが、現在バイオレッタの密かな宝物になっている。
(好きなもののことをもう少し教えてくださいってお願いしたら、教えてくださるかしら?)
 バイオレッタは鏡の前で思案顔になった。
 好きな相手のことをさらによく知りたいと思うのは当然のことだと思う。
 だが、彼に何か訊ねようとするたびに、バイオレッタは気おくれしてしまっている。あの凛とした雰囲気のせいか、安易にくだらないことを訊いてはいけないような気がしてしまうのだ。
(……クロード様は見るからにかなり大人びた方なのよね。お年も考え方も、わたくしとは全然違う。だからきっと女性のあしらいも慣れていらっしゃるのでしょうけど……)
 余計なことを訊ねて彼を困らせてしまうのではないか。子供じみたわがままを言ってはいないか。
 いつもそんなことばかり考えてしまって、会話にあまり集中できない。まさに心ここにあらずといった具合だ。
(本当はもう少し色々教えてくださったら嬉しいのだけれど……。だってわたくし、クロード様についてあまりにも何も知らないのだもの)
 わかっていることはまだ少ない。
 プランタン宮にあるという彼の執務室に行けば、もう少し普段のクロードについて理解できるのだろうか?
「でも……」
 バイオレッタはうつむいた。
 いくらクロードがいる場所とはいえ、かなりの勇気がいりそうだ。
(クロード様は「いつでもいらしてください」と言っていたけれど……。殿方の多いところに出ていくのはやっぱり無理よね……。お申し出はすごく嬉しいのだけれど)
 ぐずぐずと考え込んでいると、化粧台の前で鏝や化粧筆の準備をしていたサラが慌てた様子で近寄ってきた。
「バイオレッタ様。もうあまりお時間がありませんわ。髪を結ってお化粧をいたしませんと」
「あ……、そうね。サラ、お願いできる?」
「ええ! お任せ下さい」
 繊細な細工の化粧台に腰を下ろすと、髪を整えるために背後に回り込んだサラがにっこりした。
「シャヴァンヌ様はセンスも抜群な御方ですから、負けないくらいお綺麗にしなくてはいけませんね」
 鏡の中のサラに向かって、思わずバイオレッタは問いかける。
「……わたくし、子供っぽく見えないかしら」
「そのようなことはございませんわ。わたくしに言わせれば、あのような方のお相手をさせるには惜しいくらいですわよ」
「……」
 バイオレッタはそこでまた考え込んでしまう。
(惜しいくらい、ね……。とても嬉しいけれど、なんだか腑に落ちないわ。あの方なら、わたくしよりずっと大人っぽい女性のお相手をなさっても、きっと違和感なんてないでしょうし。いいえ、むしろそっちの方が絵になるのではないかしら……)
 肉感的で婀娜っぽい美女の手を取るクロードの姿を想像してしまって、バイオレッタは慌てて打ち消した。
 はあ……とため息がこぼれる。色男であることは確かだが、勝手にここまで妄想するのはかえって失礼というものだろう。
(もう。わたくし、クロード様を一体なんだと思っているのかしら……)
 女官や侍女たちの中に大勢の信奉者がいるのは事実だし、実際クロード本人もひどく艶やかな容貌の持ち主だ。視線一つで女性を虜にしてしまうほどの色香もある。
 だが、ひとまず今現在自分に向けられているクロードの好意や優しさだけは疑わないことにしようと、バイオレッタは決めた。
 サラが髪をくしけずり始めたので、深く考えるのはやめにして鏡を見る。
 元々軽い癖のあるシルバーの髪は、一旦熱した鏝を当てて緩く巻いたあと、頭の上の方でハーフアップにまとめられた。
 さらに部分的に何度か巻かれる。身じろぎするたびにふわふわと揺れる毛先が、いかにも女性的で素敵だと感じた。
「バイオレッタ様の御髪でしたら直毛でない分巻きやすいですから、こういった髪型にもすぐできますね」
 カールした毛先はとても軽やかだ。風に靡いたら可愛らしいかもしれない。
 最後にサラが真珠のコームで後頭部を彩ってくれる。
「さあ、できましたわ! いつもより気合いを入れて結わせて頂きました」
「普段とちょっと違って落ち着かないけれど、こういう髪型もあるのね」
 素直に感心していると、サラが力説する。
「何をおっしゃいますの、バイオレッタ様! こういうときこそ普段と違う格好をして行かなくては駄目ですわ!」
「え? あ、そうね。休日なのだし、確かに……」
「もう、違いますでしょう? 休日以前の問題ですわ。男女が外で二人きりで逢うといえば、デート以外にありませんでしょう」
「えっ!?」
 がたんと椅子の上でのけぞり、バイオレッタは火照ってくる顔を必死で押さえた。
(い、いやだ……。そういう意味……だったの?)
 だから私邸で過ごそうと言い出したのだろうか。まさかそんな。
「さ、サラ……、デートって言ったの、今?」
「はい。申しましたわ」
「わ、わたくしは、ただいつも薔薇後宮にいらっしゃっているのと同じように、場所を私邸に変えるだけだと……」
 サラは一瞬怪訝そうな顔になったが、やれやれといった様子で肩をすくめた。
「バイオレッタ様……。天然にもほどがありますわよ……」
「だ、だって、あんな紛らわしい言い方をされたら……!」
「シャヴァンヌ様にしてみれば大して紛らわしい言い方ではなかったのではと思いますけれど……。休日にお邸にご招待……、でしょう? これほどきちんと気持ちを主張なさっている殿方は今時珍しいと思いますわ。よく知りもしないうちから私邸にお招きされたのでしたら下心もありそうですけれど……、お二人はこれまで何度も段階を踏んでいますし、問題ないのではないかしら」
「段階」という言葉に、バイオレッタははっとする。
「……そう、ね。そういえば……」
 彼は勧められるまで私室の中に入ってきたりしなかったし、無理強いはしない、からかいすぎないなど、バイオレッタの意向を汲んだ愛情表現をしてくれている。
 思えばクロードは、最初からべたべたしてくるような男性ではなかった。宮廷にたむろする男性たちのように、「なんとかこの御婦人と一線を越えよう」などという目論みはあまりなさそうである。
 その悠々とした態度がかえって好感を持たれるのだろうが、あれで案外辛抱強い性格なのかもしれない。
「ああもう、シャヴァンヌ様ったら……、またおいしいところを持っていってしまわれるのね……。もう……」
 サラが片手を頬に添えて残念そうにため息をついた。
 そして「わたくしだっておめかししたバイオレッタ様とデートしたいのに……」などとぶつぶつ言い出す。二人の仲を応援しているようでいて、その心中はなかなかに複雑らしい。
「実はわたくし、単にお父様の娘だからお招きくださったのだと思っていて。その……そこまで大した意味はないかと思っていたの。王女と臣下として、普通に親睦を深めるだけなのかと……」
 ぽつりとそうこぼすと、サラは首をふるふると振ってその意見を否定した。
「わたくしが仮にシャヴァンヌ様なら、バイオレッタ様が王女様だからという理由だけで邸に招いたりはしないと思います。だって、そんなことをせずとも王宮で毎日会えるではありませんか」
「あ、それは……」
「そんな方をわざわざ休みの日に邸に呼んだりするかしら。わざわざそんな提案をなさるということは、やっぱり少しでも多くの時間をバイオレッタ様と共有したいと思われているのではないでしょうか?」
 つまり、彼は「女性」としてのバイオレッタが見たいのだ。城で「王女」として立ち回っている彼女ではなく。
 ますます頭が沸騰してきて、バイオレッタは口元を手で覆った。
(……そんな……! 急に緊張がひどく……!)
叩扉こうひの音に、バイオレッタは我に返った。
「噂をすれば、でしょうか。それにしても……シャヴァンヌ様、さすが宮廷人の鑑ですわね。予定より早すぎず遅すぎずですわ」
「サラ……、あの、わたくしっ……!」
「シャヴァンヌ様がいらっしゃいましたわ」
 侍女の一人に告げられ、バイオレッタはうろたえた。サラは励ますように微笑んでいる。
 バイオレッタは観念した。
「えっと……、あの、……お、お通しして」
 ドローイングルームに通すように言うと、慌てて身なりの最終確認をする。待たせるわけにはいかない。
 恐る恐るドローイングルームへ向かうと、たたずんでいるクロードの横顔が目に入った。
(まあ……!)
 彼はいつもの宮廷服姿ではなかった。
 ゆったりとした白いシャツの上に、深みのある濃い緑のジレ。長い両脚を包むのは、漆黒のトラウザーズ。
 ……そして手には、純白の薔薇の花束。
 普段はまとめている黒髪は、今日は背に流されていた。背の中ほどまである髪は、手入れがじゅうぶんに行き届いているらしく艶やかだ。
 優艶な色香が滲む瞳が、ふいにバイオレッタを捉えた。
(……!)
 固まって立ちすくむバイオレッタに優しく微笑みかけると、クロードは近寄ってきた。
「お迎えに上がりました、私の姫……」
 クロードは黄金の瞳を細め、手にした花束を恭しくバイオレッタに差し出した。誘うような香りがふわりと舞い上がる。
「……出がけに買い求めました。お部屋に飾って頂ければと思い……。もしお気に召したらの話ですが」
 少し驚いたが、花束を受け取って胸に抱くと、バイオレッタはそっと微笑み返した。
「男の方にお花をもらうのは初めてです。ありがとうございます、クロード様……」
 香りを吸い込む。爽やかなのに甘い芳香だ。
「いい香り……」
「私は薔薇を見ると貴女を思い出してしまうのです。貴女が大好きな花ですから」
「覚えていてくださったのですね」
「ええ……。忘れるはずがありません」
 いつも通りのやり取りにたちまち緊張がほぐれ、代わりに温かな感情が胸の裡を満たしていく。気遣いがとても嬉しいとバイオレッタは思った。
「本当に綺麗な薔薇……」
 白い花びらは一枚一枚がしっかりしていて、花の中心の部分はほんのりとした淡いピンクだった。
(可愛い品種だわ)
 想い人にこうして花束を贈るなんて、なんとロマンティックな男なのだろうか。
 花は恋愛において強い効力を発揮するというが、こんな風に実際に贈られるとそれも納得だ。
 ……ティアラでもドレスでも、ショールや装身具などでもない、たった一束の薔薇の花。たったそれだけで、バイオレッタの心は解きほぐされてゆく。これから何か素晴らしい時間が始まるのではないかと、無性にわくわくしてしまう。
 高価な贈り物などよりよほど夢があると、バイオレッタはうっとりした。
 ビロードのように厚みのある花びらに触れていると、クロードがいきなり大仰に嘆息した。
「姫は罪な御方だ。この私が目の前にいるというのに、薔薇の花に目移りなさるとは……」
「え? え……、だって、綺麗なのですもの」
「貴女の胸に抱かれるその花が私は恨めしいですよ……。自分で贈ったものだというのに……」
「これは……その……。あ、あなたにいただいたものだから、大事なのです……」
「そう、ですか。その花に触れるように私に触れてはくださらないのですね……。お出迎えと同時に熱い抱擁をしていただけるのではと、実は少々期待していたのですが……」
「……!」
 気恥ずかしさからうつむくと、クロードはいきなり距離を詰めてきた。
「喜んで頂けたのなら光栄ですが……あまりよそ見をなさると、私は何をするかわかりませんよ?」
 そう言うと、意味深に唇の端をつり上げる。
 バイオレッタはきょとんとしたが、次の瞬間思わず小さく笑みをこぼした。
「そんな……、ふふっ……!」
「……なぜ笑っていらっしゃるのです?」
「だって。あなたがそんなことをなさるはずがありませんもの」
「そうでしょうか。貴女を失わない為なら、私はどんな卑劣なこともやってのけるでしょう」
「もう……。またそんなことをおっしゃって……」
 バイオレッタは近寄ってきたサラに花束を渡すと、寝室に飾るように言いつける。
 クロードは片眉を跳ね上げた。
「……おや、飾る場所は寝室なのですか?」
「ええ。せっかく香りがいい薔薇なので、この香りを寝る前にも愉しめたらと思って」
「ますます妬けてしまいますね。私も薔薇に生まれていたら、貴女に寝室で愛でて頂けたのでしょうか……」
 はあ……と物憂げなため息をつくクロードに、バイオレッタは慌てた。背後で侍女たちが「きゃああっ!」と黄色い声を上げたからだ。
「あ、あのっ……!! その言い方はちょっと、語弊が……!!」
 前から思っていたことだが、クロードの言葉遣いは詩的かつ大胆だ。こうやって時々表現に赤面させられることもあるほどで、バイオレッタとしてはもう少し控えめにしてもらいたいと思っているくらいだ。
 何より、今ここにはバイオレッタ付きの侍女たちがぞろぞろいる。あまり大胆な発言をされると、今後彼女たちと気まずくなってしまうのだ。
 が、クロードはかまわず続けた。
「いいえ、姫。語弊などでは……。私はまだ貴女と夜を過ごすことすらままならないというのに、一体なぜ薔薇風情に先を越されなければならないのかと、少々気に食わず……」
「も、もう……」
 うろたえながらも、バイオレッタは彼のシャツの袖を握って言った。
「そんな心配をなさらなくても、だ、大丈夫です……。わたくしは、薔薇の花より人間の殿方のほうが好きですもの……」
 クロードは一瞬虚を突かれたような顔になったが、ふっと微笑んだ。
「ああ……! そのお言葉を聞いてやっと安心いたしましたよ。なんとお可愛らしい愛情表現なのでしょう。貴女らしくてとても胸打たれます。では、これからのひとときをどうか私めにエスコートさせてください、姫……」
 恭しく言い、シャツにかかっていたバイオレッタの右手を優しく取り上げると、いつものように口づけを落とす。
「よろしくお願いします、クロード様」
 バイオレッタはどぎまぎしつつも笑って言った。
***
 薔薇後宮を出たバイオレッタは、クロードに導かれて城門へ向かった。馬車を待たせてあるという。
 あれこれとたわいない会話をしながら、遊歩道プロムナードをのんびりと行き、いくつも廊下を抜け、ようやくリュミエール宮の中心部へと出る。
「今日もとてもお美しくていらっしゃいますね」
 クロードの賛辞に、バイオレッタは頬を染めた。
「……あ、ありがとうございます。クロード様こそ、今日のお姿もよくお似合いですわ」
 言って、そっと彼をうかがい見る。
 レースのあしらわれたオフホワイトのシャツ。襟元には揺れる純白のクラヴァット。ややグレーがかったグリーンのジレが、知性溢れる美を最高に引き立てている。非の打ちどころのない完璧な私服姿だった。
 高価な装飾品である華やいだフリルやレースに、クロードは全く負けていない。それどころか彼が纏うとそこはかとない色っぽさが感じられるほどだ。下品な印象を与えない着こなしはさすがクロードというべきだろう。
「普段とはまた違ったお召し物ですのね」
「ええ。宮廷服にも愛着はあるのですが、やはりどうしても仕事のことを考えてしまっていけません。それに、貴女には休日の私の姿もよく知っていただきたかったのです」
 サラの言っていた通りだ、とバイオレッタは思わず目を逸らした。
(……共有したい、ということなのかしら)
「姫の今日の御髪はとても可憐ですね」
「え? あ……」
 列柱回廊を進みながら、クロードはそっとバイオレッタの巻き髪に触れた。
 毛先を崩さないよう配慮しているのか、慎重な手つきで一房指に絡める。カールした毛先はクロードの手中におとなしく収まった。
「姫は顔立ちと雰囲気が柔らかいですから、こうした髪型がしっくりきますね。ドレスも今日は明るい水色で……。清楚で本当によい色です」
「き、今日は特別なので……。その、大事な日ですから」
 髪はサラに任せたが、ドレスに関していえばそうだ。一番綺麗に見えるのはどれだろうと、散々悩んだ。
 だから、こうしてクロードが気づいてくれたことに少しばかり浮かれてしまう。
(褒めて頂けて嬉しいわ)
 クロードがいきなりぴたりと立ち止まったので、バイオレッタは彼を振り仰いだ。彼の手からこぼれた巻き髪が、風を孕んで揺れる。
「クロード様……? どうなさって――」
「もしや、私のため……、なのですか? 私を、喜ばせようと……?」
「えっ……、あっ……!?」
 いたく感動した様子で、クロードは長い腕を伸ばしてバイオレッタを抱きすくめる。もがいてみるものの、さすがに力の差がありすぎて腕の中から抜け出せない。
「え……、や、やだ。やめて下さい、クロード様……!!」
「貴女がそのようないじらしいことをお考えになるとは。やはりお招きした甲斐がありました……」
「放して……っ!」
 髪に頬ずりをされ、音を立ててキスされて、バイオレッタは蚊の鳴くような声で抵抗した。
 クロードとしてはじゃれているような感覚なのかもしれないが、これでは完全に彼のペースだ。
 回廊で抱きつかれているということ。行き交う女官たちの目があるということ。思いがけず抱擁の力が強いということ。すべてがバイオレッタを翻弄し、戸惑わせる。
「こ、こんなところでいきなり抱きつくなんて、卑怯ですわ……!」
「卑怯? 何を今更。貴女はそんな卑怯な男が好きなのだとばかり」
「と、とにかく! 離れてください! 回廊で抱き合っていたなんて知られたら、一体何を言われるか……!」
 父王リシャールにはクロードから話を通してもらっているし、女官長であるベルタにも外出する旨は伝えてある。
 だが、だからといって大っぴらにこんなことをしていいということにはならない。
 バイオレッタは青ざめた。
(お父様は烈火のごとく怒り狂うでしょうし、女官長に一時間みっちりお説教されるのは必至……!)
 バイオレッタの脳裏で、二人がガミガミ説教をしだす。リシャールは「見損なったぞ、バイオレッタ!!」とがなり、ベルタは「王女様にはモラルというものが欠けていらっしゃるようですわね」といやみを言う。
 バイオレッタはクロードにすり寄られながら苦悶の表情を浮かべた。
 なんとか彼を引きはがそうと躍起になる。が、どういうわけか、胸板を押しても肩を押してもびくともしない。
 バイオレッタはとうとう、その胸をぽかぽかと叩いて抵抗を示した。
「……も、もう! 離れてくださいと言っているではありませんか!」
 しかし、どうやら恥じらいから形ばかりの抵抗をしているのだと捉えられたらしい。クロードが不敵に笑って言う。
「ふふ……、そのように恥ずかしがらずともよいではありませんか。私としてはもう少し大胆になって頂いても一向にかまわないと思っているのですよ? 時には貴女の方から愛らしく誘って頂いても、それはそれで男冥利に尽きるというものですから」
 意味深な言葉遣いにぎょっとする。
(さっ、誘うって何!?)
 どう考えても、それはただの「誘う」ではないような気がする。
 まさか、娼婦か何かのようにクロードを誘惑しろとでも言うのだろうか。
「そんな……! や……! む、無理です!」
「ふふ……、ではそちらは追々ということにいたしましょうか。初心うぶな貴女を手取り足取り教え導く愉しみも残しておかねばなりませんしね……?」
 じたばたと暴れると、クロードはそんなバイオレッタの耳朶を指で捕らえた。
 低く笑って、猛毒じみて艶めいた言の葉を注ぎ込む。
「誘惑の技巧テクニックを覚えた暁には、どうぞこの私に実践してください。喜んで貴女の下僕になりましょう」
 バイオレッタはぞわりとしつつも真っ青になった。
 こんなにぞろぞろ女官が行き交う回廊で、恥ずかしげもなく口にすることではない。
「ちょ、ちょっと……! そ、そんな過激な台詞ばっかり並べないでくださいっ……! ここはリュミエール宮の回廊なのですよ!?」
「かまわないでしょう。愛をささやくための場所は一つではない……。どんな場所でもそのための舞台になり得ます」
「そういうことではなくて……っ!!」
 バイオレッタは身じろいだが、クロードはかまわず髪に鼻先を埋めた。楽しくて仕方ないというようにふふ、と笑い声を立てる。
「こんなに暴れて、頬を火照らせて……可愛い姫。私のすることにそうやっていちいち反応なさってはいけません。もっと困らせたくなってしまうではありませんか」
「ちょっ……、もう、暴れているってわかっているなら放して下さい……! もし誰かに見られたらどうなさるのですか……!」
 シャツから漂ってくるのはいつものコロンの香りだ。わずかに麝香が混じったその香りに、ますます眩暈がする。
 赤くなったバイオレッタの耳元で、クロードは楽しげにささやいた。
「ふふ……。では、続きは私の邸で……」
「!」
 濃密な触れ合いを予想させる言葉に思わず身構える。
 そこでクロードは「冗談ですよ」と言って、やっと腕の力を緩めてくれた。
 はっとしたバイオレッタは急いでその腕から抜け出した。
(どこまで冗談なのかわからないから、本当に質が悪いわ。クロード様って)
「……全く」
 挑発するような目つきに、バイオレッタは思わず数歩後ずさる。が、一向に意に介さない様子でクロードは笑った。
「そのように赤くなられて……。なんとお可愛らしい……。いつも私のことは恐ろしくないとおっしゃってくださるのに、あれは嘘なのですか?」
「……だって、今日のクロード様はなんだか意地悪です。心臓に悪いですわ」
「そういうところがお可愛らしいと申し上げているのですよ。本当に初心ですね、私の姫は……」
 初心などと言われて、バイオレッタはいささかむっとする。
 そんなことを言われると、子供だ、自分とは釣り合わない、中身がないと軽んじられているような気がしてくる。
 相手にならないと、最初から決めつけられているような気がするのだ。
 思わず彼を弱々しく睨む。
「わたくしを、馬鹿になさらないで」
「おや、馬鹿になどできるはずがありませんよ。お慕いする大切な姫君に、そのような無礼は働けません」
 肩をそびやかされ、バイオレッタはその余裕綽々な態度に苛立つ。
「確かにわたくしはクロード様より年下です。ですが、そうやって未熟な部分をからかうのはおやめになって。そんなの、ずるいですわ。わたくしよりちょっと長生きしているだけでそんなことをおっしゃるなんて」
 生憎、さほどの経験もなければ男性に対する免疫もないのだ。第一、そうやって経験を武器にして年頃の姫を弄ぶのはいかがなものか。
 クロードはくすりと笑い、たった数歩で二人の間の距離をつぶしてきた。顎をすくわれ、バイオレッタは赤い顔のままで瞳を伏せる。
「……からかってなどいませんよ。貴女がそんな風にそそるような発言をなさるのが悪い」
「おっしゃっている意味が、わかりませんわ……」
「ならば、今はそういうことにしておきましょうか。ふふ……」
「あ……」
 クロードが手を引くので、足が自然と動き出す。
 バイオレッタはおとなしくその後ろをついていった。あまりにも優しく手を握られて、つい抗うことも忘れてしまう。
 しっかりと繋がれた手のぬくもりに、バイオレッタはぼうっとした。
(意地悪なのに。ずるいことばっかりなさるのに。なのに、こんな風に手を握られたら、もう怒れない……)
 頼りないとは思っていないが、女性的で美しい容姿の男性だと感じていた。なのに、大きな手のひらはやはり自分のものとは違っている。骨ばっていてたくましい。
 さりげなく歩幅を合わせてくれるのも嬉しくて、バイオレッタの顔が瞬く間に緩んだ。
 やがて、ギャラリーを抜けたあたりでクロードがつぶやいた。
「……ああ。城門が見えてまいりました。囚われの身の貴女にとってはしばしの自由な世界ですね、姫……?」
「あ……本当だわ、門が……」
 開いた巨大な扉の向こうに、豪奢な門が見える。
 ――黄金の城門。王宮にやって来た日、バイオレッタはこの門をくぐった。
 あの日も隣にはクロードがいて、バイオレッタの気を紛らわせるために様々な話を聞かせてくれた。
「……なんだか懐かしいですわ。ですが、あなたとそれだけたくさんの時間を過ごしたということなのですね」
「ええ、そうですね。そうなるのでしょう……。あれから色々なことがありましたが、姫といる時の時間の流れ方が、私はとても好きですよ。貴女はけして私を急かしたりなさらない。姫といると、沈黙すら苦になりません」
 繋いだ手のひらに力を込められ、バイオレッタはクロードを見上げた。彼の穏やかな瞳がそっとバイオレッタを見つめ返す。
「……私は、姫との時間を大事にしたい。貴女はいつも私に、私の知らないものを教えてくださる……」
「わたくしもそうですわ。クロード様にはいつも本当にたくさんのことを教えて頂いています。きっと今日もそうだと思います」
 そうやってまた一つクロードとの思い出が増えるのなら嬉しいと、バイオレッタは思った。
「行きましょう、クロード様。案内してくださいませ!」
 バイオレッタがにっこりすると、クロードはつられたようにふっと笑った。
「……ええ」

 

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