……その夜。
バイオレッタはなかなか寝付けずにいた。
日中《星の間》で凄惨な場面を目の当たりにしたせいだろうか、やけに意識が冴え冴えとしている。燭台の炎をすべて消してあるにも関わらず、睡魔がなかなか訪れてくれない。
サラが用意しておいてくれた水差しを取り、背の高いグラスにとぷとぷと注ぐ。冷たい水を一気に喉に流し込むと、思わず安堵のため息が出た。
「……なんだか落ち着かない夜ね」
上掛けを完全にはねのけて室内履きを履く。
何をするでもなく暗闇に支配された寝室の中をぼんやりと眺めていると、ばたばたという大きな物音がした。
「バイオレッタ様! おやすみ中に申し訳ありません! サラですわ、どうかここを開けてください……!」
激しすぎるノックの音に、バイオレッタは急いで扉に駆け寄った。ただならぬものを感じ取り、かかっていた鍵を慌てて外す。
「ど、どうしたの、サラ?」
どうやら非常事態らしかった。
急いで走ってきたらしく、上半身を折り曲げたサラは苦しげに何度か喘ぐ。そして呼吸を整えると、バイオレッタの顔を見上げて言った。
「バイオレッタ様のいらしたアルバ座という劇場が火事になっているそうですの……! わ、わたくし急いでそれだけでもお伝えしなくてはと……」
(え……)
思いもよらない発言に、バイオレッタは一瞬何を言われているのか理解できなかった。
アルバ座が、燃えている?
「どういうことなの、サラ!? アルバ座が燃えているって、どうして……!?」
がくがくとサラの肩をつかんで揺さぶる。彼女は荒い呼気のまま、なだめるようにバイオレッタの腕を撫でさすりながら答えた。
「役者同士の小競り合いが原因だそうで、今中央区の住人たちが消火に追われております!」
「なんてことなの……!」
バイオレッタはサラの持つ手燭を奪い取ると、絹のネグリジェと室内履きという格好のまま私室の外へ飛び出した。
「あっ、バイオレッタ様――!?」
菫青棟の正面階段を勢いよく駆け下りる。そして息を切らせながら薄暗い庭園を思いきり走った。
(どうして……!? 一体何があったの!?)
深更の空気は冷たく、バイオレッタは手燭を持っていない方の手でネグリジェの前をかき合わせた。
ピヴォワンヌの養父の最期を見てしまったあとだからか、たまらなく嫌な予感がした。
早くアガスターシェへ戻らなくては。皆の安否を確かめなくては――。
懐かしい劇場の様子が、次々と脳裏をよぎる。マリアが踊りを披露した舞台。何度も足を運んだ座長の部屋。トマスと歩いた劇団員用の通路……。
……そうだ、トマス。トマスは無事なのだろうか。
『何かあったらいつでも言えよ、幼馴染殿! 俺がちゃんと守ってやるから』
幼馴染の優しい笑顔が思い起こされ、バイオレッタは胸を震わせた。
「早く行かなきゃ……!! トマスが……!!」
城門までかなりの距離があるとわかってはいたが、それでも走らずにはいられなかった。
バイオレッタは花々の生い茂った庭園を抜け、がむしゃらに外を目指した。
西棟を抜け、中庭を突っ切り、纏いついてくる木の葉や枝を払いのけて薔薇後宮と外界とを隔てる後宮の門へと急ぐ。
その時、背後からサラの声が飛んだ。
「――いけません、バイオレッタ様! 王城から出ることはできませんわ!」
彼女は懸命にバイオレッタを追いかけてきていた。女主人を引き留めようと、必死で声を張り上げる。
「貴女様はもう、王女としてこの城に迎えられた身! もはや城下にお出でになることは叶いません!」
その瞬間、バイオレッタははっと息をのんだ。
バイオレッタの身体がのろのろと動きを止める。
……そうだ。自分はもう、ここに囚われた虜囚なのだ。
姫として城に帰還することによって、彼らの生活を助けることはできた。けれど、今の彼らを助けに行くことはできない。
リシャールの娘として、これまでの過去はすべて捨てたのだ。もう劇場での暮らしに戻ることはない。姫として復権する、そのつもりでこの王宮に迎えられたのだから。
つまり自分は、もうトマスを救うことはできない人間なのだ――。
自覚した瞬間、膝ががくりと崩れ落ちた。
「うっ……!!」
身を縮こまらせて泣き崩れるバイオレッタの背を、サラが撫でる。
「バイオレッタ様……!」
感極まったように自らも涙を流し、サラはしっかりとバイオレッタを抱きしめる。
バイオレッタは彼女のお仕着せに顔を埋め、頑是ない子供のように泣いた。
***
逃げ惑う王都の民を眺めながら、クロードはくく、と低く嗤った。
次いで視線を投げかけたのは、燃え盛る業火の中ゆっくりと崩れてゆく劇場だ。
もうそこに、バイオレッタの愛するアルバ座はなかった。
すでに丸焼けになっているに等しいというのに、舞い上がる火の粉と非情な猛火が、なおも激しく建物を包み込んでゆく。辺りには割れた窓硝子の欠片が散乱し、物の焦げつく匂いと黒煙が立ち込めている。
アルバ座から伸びた炎の触手は近隣の建造物にまで及び、王都は阿鼻叫喚を極めていた。
クロードの生み出した焔が、すべてを跡形もなく奪い去ってしまう。そのさまは、まさに彼自身の嫉妬と憤怒の感情を表わしているかのようだった。
白手袋を外した手の甲で口元を覆い隠し、彼はこらえきれないというように哄笑した。
「……ああ、よく燃えている」
月光を映したその双眸に宿るのはまぎれもない愉悦の色だ。
「あなたがいけないのですよ……。私の姫に手などお出しになるから。べたべたと汚らしい手で触ったりなさるから……。あの方の御心を横から奪い去るような真似は……許しません」
やっと一矢報いることができたと、クロードは嗤う。
あの役者気取りの青年がずっと気に食わなかった。大体、なぜあんなに馴れ馴れしく彼女の名を呼ぶ? 彼女は自分のものなのに。
孤独な旅路の中、ようやく巡り合うことができたと欣喜した。
なのに彼女の――バイオレッタの隣に立っているのは、いつもクロードではない「誰か」だった。
エリザベスもそうだった。クロードがバイオレッタの「中」に「あるもの」を見出した時、エリザベスはクロードを警戒しだした。
(……邪魔な人間はすべて殺さなくては。たとえこの手が闇に染まろうと――)
そう、バイオレッタが自分だけを見ていてくれるように仕向けるのだ。
そうしなければ彼女は……誰にでも優しいバイオレッタは、こちらなど見向きもしないだろう。
だが、クロードは時々わからなくなる。自分はバイオレッタと「彼女」、一体どちらが大切なのかと。
愛する「彼女」との再会は長年の悲願だったが、バイオレッタと視線が交わるたびにおかしな不安に襲われる。
ただの御しやすい娘だと思っていた。
なのに、バイオレッタはいつもまっすぐにクロードを見る。一点の穢れもない瞳をクロードに向け、無邪気な信頼を寄せてくる。クロードが自分を裏切るかもしれないなどとは夢にも思っていないという顔で。
しかも、彼女は人の道にもとるクロードの行いを正そうとさえした。まるで「それはあなたの行くべき道ではない」と言われているようで、クロードは内心大いに動揺した。バイオレッタの姿が過去の「彼女」とのやり取りを彷彿とさせたからだ。
クロードにとって、それが喜ぶべきことなのかどうかはわからない。何故なら、バイオレッタは目的のための手駒の一つでしかないからだ。
「……」
事あるごとに脳裏に浮かぶ、二つの娘の顔。
一人はバイオレッタ。王女として敬愛すべき、リシャールの娘。
そしてもう一人は彼女そっくりの容姿をした娘だ。彼にとっては絶対に忘れることのできない、最愛の存在。
二つの面影は混じりあい、いつもクロードを困惑させる。自分が自分でいられなくなるような落ち着かなさを、彼は痛いほど実感していた。
「姫……。貴女は本当にいけない方だ……。私の心をこんなにもいたずらに掻き乱して……」
ただの盤上の駒に過ぎない姫になど、愛情を抱く必要はない。足元をすくわれるだけだ。
それなのに、この心は静かな確信を得てしまった。バイオレッタこそが、自分の――
『……これで満足か? 人間の男よ』
低く誘いかけるような女の声に、クロードは我に返った。
「ええ。お力を貸してくださり、ありがとうございます」
『依代クロード。わたくしの復活に助力せよ。その時が来たら、お前の悲願、今度こそ果たさせてやる』
クロードの瞳に、一瞬だけ痛ましげな色が走る。
けれどその整った顔にはすぐに優雅な笑みが浮かんだ。
「御意、アイン様」
月を背に、クロードは高らかに嗤った。
「さあ、廻れ、運命の輪よ。――忌々しき創造神よ、私は今こそあなたに牙を剥こう。この深き執念の前にひれ伏し、どうか許してくれと泣き叫ぶがいい。そして私に、あの方をもう一度与えるがいい……」
今度こそ、「彼女」と二人きりの楽園を創り上げてみせる。この現世では掴んだ手を絶対に放しはしない。
ようやく巡り合ったのだ、創造神にみすみすその命をくれてやることもない。あんなに清らかな女性を無慈悲な神々になど渡せるものか。
自分たちは見えない鎖で繋がっている。この絆は絶対だ。
「さあ、始めましょう。この遊戯を! 盤上の駒はすべて揃ったのですから……! 運命の女神よ、覚悟するがいい。行く手を阻むものは、たとえ貴女であろうとも容赦はしない――!」
――昏く重たい闇の中。
耳障りな哄笑は、止まない。