第十四章 軟禁された姫君

 
 女王候補たちが初めて顔を合わせた晩餐会から早くも数週間が経った。
 バイオレッタはその日、ピヴォワンヌとともに後宮内の散策を楽しんでいた。手には厨房でこしらえてもらった軽食を携えている。
 
「迎えに来てくれてありがと。あたしの居住棟も結構いいでしょ?」
「ええ。とっても可愛らしい内装で、正直うらやましいくらい。赤とピンクの壁紙にイエローのカーテンって、明るくていいわね」
「最初はこんな可愛すぎる部屋でなんて絶対生活できないだろうなーって思ってたんだけどね」
「わたくしの部屋は渋い色合いなの、深緑と薄紫で。わたくしもああいう女の子らしいお部屋がよかったわ」
 
 それぞれの名前にちなんだ内装になっているようで、バイオレッタの部屋はすみれ色が、ピヴォワンヌの部屋は芍薬色が基調となっている。
 すなわち、バイオレッタのほうはたおやかさ、思慮深さを思わせる深緑と薄紫の組み合わせ。ピヴォワンヌのほうは快活さや力強さを思わせる真紅と山吹の組み合わせである。
 
「あたしたちも色々あった割にはなんとか姫をやれてるわよね」
「本当にね……」
 
 最初こそ戸惑いや憎悪でいっぱいだった二人も、今ではそれなりにうまく「姫君」という役柄を演じていると思う。
 とはいえ、そういった感情が綺麗に消え去ってしまったわけではない。今でも互いに、この立場に対しては複雑な感情を抱いている。
 ピヴォワンヌは特にそうだろう。養父の死から容易に立ち直れるはずがないし、今も本当は少しだけ無理をしているのではないだろうか。
 
(育ての親が殺された場所で、何事もなかったようになんて振る舞えるわけがないわ)
 
 恐らく≪星の間≫に足を踏み入れるごとにあの惨事を思い出しているはずだ。
 だからこそ、バイオレッタは彼女を慰めてやりたかったし、元気づけてやりたかった。姉として……、そして何より、親友として。
 
「そういえば、もう少ししたら先生がつくのよね。どんな方かしら」
「あんまり怖い人じゃないといいけど」
 
 マナーやしきたり、ダンスなどを教えてくれる教師が数日後から本格的につけられる予定だという。
 わずか半月でここまで王宮に馴染んでしまえるのだから、人間の適応力には舌を巻いてしまう。
 
 今日は互いの筆頭侍女が気分転換を勧めてくれたので、示し合わせて西棟を出てきた。天気がいいから軽食でも持って散歩に行こうということになったのである。
 二人は何回か散策には行っているのだが、後宮といっても広大なので一日では回り切れず、いつも明日に持ち越しといった形になる。
 今日は少しでもたくさん見て回れたらいいのだが。
 
「さてと……、出てきたのはいいけれど、今日はどこに行ってみましょうか」
 優柔不断なバイオレッタがさりげなく意見を求めると、ピヴォワンヌは唸る。
「うーん。そうねぇ……」
 二人は顔を突き合わせて悩み始める。
 ろくに計画も立てずに私室を出てきてしまうのは二人の悪い癖だ。
 元々後宮のどこに何があるかもよくわからないので、仕方がないといえば仕方がないのだが。
 
 その時、さくりと芝生を踏む音がした。
「おはようございます。……わたくしもご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「クララ!」
 そこには、爽やかなミントグリーンのドレスに身を包んだクララ姫がいた。ぴたりと二の腕に纏わりつくのはドレスから伸びたしなやかなレース。胸元は透けるシフォン素材でできており、首筋には粒真珠を使った銀のネックレスが輝いていた。
 ふわりと広がった裾部分には一段濃いグリーンで精緻なポアン・ド・ローズが刺されている。
 癖の強い茶の髪は一部を編み込んでまとめ、キラリと輝くアメジストのカチューシャで飾っている。きめの細かい白い肌にはうっすらと化粧が施されていた。
 今日の彼女は象牙に純白のレースを用いた扇を携え、腕には籐の籠を下げていた。
「クララ、おはよう。ええ、ぜひ一緒にお散歩しましょう」
「おはよう。お姫様っていうわりには朝早いのね」
 ピヴォワンヌの発言に、クララは控えめに笑む。
「ええ。わたくし、朝は早いのです。あまり長く寝ていても時間が勿体ないですもの」
 なるほど、と二人は納得した。
「そうなのね。わたくし、お姫様って優雅な暮らしをしているイメージしかなかったわ」
「そうそう。お昼過ぎまでベッドで寝てて、ご飯もそこで食べちゃうみたいな怠惰なイメージがあったから、意外」
 苦笑しつつ、クララはかぶりを振った。
「わたくしは朝早くに従者二人と食事を取るのを楽しみにしていますし、手仕事や読書などもできるだけたくさんやりたいものですから」
 従者思いなのだわ、とバイオレッタは感心した。こんなに主人に想われていたのでは、あの二人が「クララ様」「わが君」などと呼んで懐くのも当然だろう。
 
「そういえばあんた、この薔薇後宮には詳しいわよね? どこか楽しそうな場所があったら連れていってほしいんだけど」
 ピヴォワンヌが話題を振ると、クララはにこりとした。上品な笑顔に再び目が釘付けになる。
「わたくし、実はこれからある方とお会いするつもりなのです」
「まあ、そうなの?」
「ええ。ちょうど約束の時間が近づいてきているのですけれど、たまたまお二人をお見かけしたものですから声をかけてみようかと思いまして」
「じゃあ、途中まで一緒に行きたいっていう意味だったの?」
 そこで彼女は急にもじもじしだした。
「いえ。その……。よろしければ、お二人にもその方と会って頂けたらと」
 クララはわずかに身を乗り出し、どこか必死な様子で切り出す。
「境遇が境遇でいらっしゃるせいか、お年のわりにお友達の少ない方で。お二人はとても和やかで楽しい御気性をしていらっしゃいますし、一緒に何かなさったらあの方も喜ぶのではないかと……」
「ああ……そういうことだったのね。ピヴォワンヌ、どうしましょう?」
「……そいつ、男? 女?」
 ピヴォワンヌの問いかけに、クララは苦笑する。
「後宮に殿方はおりません。ですからもちろん女性ですわ」
 ピヴォワンヌは「ふーん」とつぶやき、胸をそらして腰に手を当てた。その弾みで芍薬色の髪がさらりとなびく。
「じゃあ行く。ただ、あんたが望むような対応はできないかもしれないから、期待しないでよね」
 バイオレッタとクララは視線を合わせてくすくす笑った。
「決まりね。じゃあ、三人で行きましょう」
「ええ。きっとあの方も喜ばれます」
 
 
 と、その時、バイオレッタは背後に自分たち以外の人間の気配を感じて振り返った。
「あ……」
「……おや。おはようございます」
 思わず目を白黒させる。そこにいたのはクロードだったのだ。
 
(ど、どうして男性……しかもクロード様が薔薇後宮に!?)
 
 今まさに「後宮に男はいない」と言われたばかりだったのにと、バイオレッタはおろおろ慌てふためいてしまう。
 しかも少し前、≪星の間≫で彼に向かって手酷いことを言ってしまっただけに、なんとも気まずい。
 あれからろくに和解もできないままだ。対面してもどう謝ってよいのかわからなかったし、忙しい寵臣を捕まえて一方的に謝罪するのも気が引けて、結局ずるずると先延ばしにしたままだった。
 
「おはようございます、皆様方」
「え……? あっ、あんたは……!」
 いきり立つピヴォワンヌを尻目に、クララが務めて優雅に話しかける。
「まあ、シャヴァンヌ様ではありませんか。いつものように陛下の命でいらしたのですか?」
「ええ。クララ姫様のご推察通り、後宮書庫まで蔵書を借りに参りました。皆様お元気そうで何よりです」
 二人は楽しそうに他愛のない会話に興じた。……そうだった、クロードだけは薔薇後宮へ出入りができるのだった。
 バイオレッタはちらりと二人をうかがい、肩を落とす。とても和やかで親密そうな雰囲気だ。
 
(わたくしはとても間に入れそうにないわね……)
 
 酷いことを言って傷つけた手前、とてもクララのようには話せそうになかった。なのに、心の裡にはもやもやと何かがわだかまっていて苦しくなる。
 
「なるほど。散策……ですか?」
「はい。薔薇後宮はさすが、大国の権威と華やかさを示す場所だけあって規模が大きいですわよね。一日ですべて見て回れればよいのですが、何せ女の足ですから……」
「ふふ。女性の足では少々厳しいかもしれませんね。……姫?」
 うつむいて貝のように黙りこくっているバイオレッタを、クロードが呼んだ。
「姫」
「え? な、なんでしょうか、クロード様……」
 バイオレッタが首を傾げると、彼はいきなり結い髪に手を伸ばしてくる。
「きゃっ……!!」
「……失礼。髪がほつれておいでです。直して差し上げても?」
「え……」
 思わず手をやると、サラが結ってくれた髷が少し崩れているのがわかる。髪に挿しこんだピンもわずかに浮き、そこだけふわふわとほつれている。
「あ……、では、お願いしてもよろしいですか?」
「あちらの椅子におかけください。しばし時間がかかりますので」
 
 宣言通り、クロードは庭園の椅子の上でバイオレッタの髪を直してくれた。携帯しているらしい銀の櫛を取り出すと、手際よく整え始める。
 驚いたのは、髪をまとめるのがサラと同じくらい上手だったことだ。思わず口に出すと、彼はなんのことはないというように笑う。
「宮廷に出てくるとき、自分の髪をまとめていますから」
「あ……。そう、だったのですね」
 確かにクロードの髪の長さなら慣れているだろう。何せ、腰の中ほどまで長さがあるのだから。
 これ以上なんと言ってよいのかわからず、バイオレッタは黙りこくる。やがてクロードの手が離れていっても、彼女はじっと身を硬くしていた。
「……姫。先日のことなら気にしていませんので、どうぞ普段通りになさっていて下さい」
 まるで独り言のようにぽつりと言われ、思わず彼を振り仰ぐ。
「えっ……?」
 クロードは春風に黒髪を靡かせ、寂しげに笑った。
「私は蔑まれることには慣れているのです。あのような発言に、今さら傷つきはしません」
「……ですが、わたくしは酷いことを言いましたわ。クロード様が落ち込んでしまわれるようなことを」
「落ち込む? 私がですか? ふふ……、そのようなことは……」
 クロードがすべて言い終える前に、バイオレッタは素早く口を挟んだ。
「落ち込まない人間なんていませんわ。あなたはあの日、化け物に心は不要だとおっしゃいました。ですが、クロード様だって立派な人間の男の人です。傷つくこともあれば、悩む日もある。陛下の側近として、他人には打ち明けられないような苦悩だって抱えていらっしゃるかもしれない。……そうではありませんか?」
「……」
 バイオレッタはクロードの様子をうかがってから、続ける。
「……わたくしは、どうしてもあなたを嫌えません。初めてお会いした日にもとても優しくしていただきましたし、王城までの馬車の中でも親身になっていただきました。あなたはわたくしの恩人です。たとえどこか冷たい一面があるとしても、完璧に嫌うことなんてできませんわ」
「ですが、私は貴女を傷つけましたよ。なんともおかしな女性だ……。貴女はご自分が傷つくことよりも私の心の痛みの方を案じているように見えますよ。傷ついたのは貴女も同じでしょうに……。このような男を、貴女は一体なぜそれほどまでに簡単に許せてしまうのです……? 私には解せませんね……」
 つぶやき、クロードは眉間を押さえる仕草をする。相変わらずどこか理屈っぽい言い分だ。
 バイオレッタはふるふると首を横に振った。
「それはこの際問題ではないと思います。確かなのは、あの日わたくしがあなたを傷つけたということです。わたくしは、クロード様に謝らなければいけないとずっと思っていました。あの時、わたくしは何も考えず衝動的に酷いことばかり言ってしまったから。だから……お詫びします。ごめんなさい、クロード様」
 クロードは激務の合間を縫って城下まで迎えに来てくれた「恩人」なのだ。だから、これはバイオレッタ自身のけじめでもあった。
 また、そんな人物とも和解できなければ、ここから先はとてもやっていけないだろうという気持ちもあった。
 バイオレッタは白銀の後れ毛を揺らして、クロードに深く頭を下げた。
「なるほど。御自身を律するために私に頭を下げるということですか。その誇り高さ、まさに姫君にふさわしい……」
 クロードはバイオレッタに顔を上げさせると、初めて会った時のようにその手にキスをした。恭しく、けれどもしっかりと唇をつける。
「お優しいのですね、貴女は。では、その優しさに敬意を表して、姫のご好意はありがたく受け取ることにいたしましょう」
 クロードがにこりとしたので、バイオレッタはほっとした。
「クロード様……」
 薄紅の唇をほころばせ、バイオレッタはクロードに微笑みかけた。
「では、仲直りの挨拶をしましょう」
「……? そのようなものがあるのですか?」
 バイオレッタは解けた手のひらを、再びクロードに差し出した。
「仲直りの握手ですわ。クロード様、もう一度手を出してくださいませ」
「ふふ……、面白い方だ。このような簡単なことでよろしいのですか?」
 苦笑しつつも、クロードはバイオレッタの手をしっかりと握ってくれる。
「今は難しいでしょうが……、そのうちピヴォワンヌとも仲良くしてあげてください。悪い子ではありませんの」
 バイオレッタの言葉に、クロードは生真面目にうなずく。
「ええ。姫がそうおっしゃるなら、お言いつけに従います」
「い、いえ、言いつけているわけではなくて……」
「バイオレッタ! そろそろ行くわよ!」
 ピヴォワンヌの呼びかけに、バイオレッタははっとした。二人を待たせてしまっているのだ、急がなくては。
「あ、ええ、もう少しだけ待って!」
 振り向き、とっさにそう叫ぶ。
「クロード様、ええと……、またお話してくださいますか?」
「貴女がそうお望みになるなら」
「……では、また」
 はにかんで、バイオレッタは立ち上がる。
「気をつけてお行きなさい、私の姫……」
 クロードが微笑しながらそんな言葉を投げかけてくる。
 淡い笑みでそれに応えると、バイオレッタは今度こそ二人のところへ駆けだした。
 
 
「あんた、あいつに頭下げてたけどどうしたのよ。もしかして、何かひどいこと言われたんじゃ」
 合流するや否や、ピヴォワンヌが怪訝そうにそう案じてくる。
 バイオレッタはふるふるとかぶりを振った。
「いいえ。ちょっとした行き違いがあって、謝らなくてはと思っただけ」
「……そんな。あんな奴にあんたが謝るなんて変よ。何があったの?」
 バイオレッタはただ笑って、「なんでもないのよ」と返した。
 
 あの日、バイオレッタはピヴォワンヌのためにクロードを責めた。王の手前、さっさと日和見を決め込んだクロードが腹立たしかったからだ。
 だが、冷たそうに見えたことだけはやっぱりただの勘違いだったのかもしれない。だって、クロードは鷹揚に謝罪の言葉を受け入れてくれたではないか。
(そうよね。真の冷血漢だったら、あの場でわたくしを拒絶したかもしれないわ)
 あの言葉が真実なら、クロードは本当にただ王に従っただけだったのだろう。宮廷魔導士という身分を与えられているのだからそれは当然のことだ。
 それに、落ち着いて話してみれば最初の印象通り穏やかな男性だった。あの日は嫌なものをたくさん見たから、バイオレッタも気持ちが昂っていたのかもしれない。
 
 ……あんな心ない言葉を投げつけるべきではなかった。人の印象や評価はどうしたって変化していくものだし、だからこそ偏った見方をするのはよくないというのに。第一、相手の内面を即座に見抜けるほど自分は賢くはないではないか。
(わたくしの中に驕りがあったんだわ。わたくしはあの時、クロード様の真実を見ようとはしなかったから)
 これからはクロードの本質を見るように心がけようと、バイオレッタは意気込んだ。
(確かに巧妙に本心を隠している節はあるけれど、だからこそ一挙一動に惑わされては駄目よね。クロード様のこと、もっとちゃんと見ていかなくちゃ)
 今クロードが見せているのはただのうわべに過ぎない。本当にバイオレッタが見るべきは、恐らくもっと別のものだ。
 それが何なのかは未だわからないままだが、とにかくバイオレッタはクロードの言葉ではなく行動を見ようと決めたのだった。
 
 
 しばらく庭園を進み、木立を抜け、三人は先ほどよりもやや開けた場所へたどり着いた。
 エナメルの靴の踵がこつこつとタイルを打つ。パニエでふんわり膨らませたローブの裾をたくし上げ、バイオレッタは大理石の石段を下りた。
「わあ……!」
 そこにあったのは人工的に作られた池だった。水面を水鳥たちがすいすいと楽しげに行き交っている。
 周囲には巨大な石柱が並び、池の向こうには入り組んだ緑の迷路が広がっていた。迷路を抜けた場所には四阿も見受けられる。人工池の周囲には、造園家が配置したのか、花売りや香料売り、神話に出てくる軍神などをかたどった石像が行儀よく置かれていた。
 草は自然な形に刈り込まれており、イチイの木やモミの木、沈丁花などを植えてある。それを彩るかのように、ユリオプスデージー、パンジー、薔薇や鈴蘭やマーガレットなどがこんもりと茂る鉢植えが並んでいた。
 ほとりには池を見渡せる大理石のテーブルが設えられていて、ここに座って池を眺めたらさぞや絶景だろうと思われた。
「綺麗なところね」
 澄んだ空気を吸い込みながら言うと、クララはにこりとした。
「こちらで従者たちと待ち合わせているのです。彼らがその方を連れてきてくれるのですわ」
「そうなの。じゃあ、ユーグ様とアベル様がいらっしゃるのね」
 バイオレッタが言い終わるや否や、純白のコートに包まれた両腕がクララの首筋に巻き付いた。
「お待ちしてましたよー、わ・が・き・み!」
「ひゃああっ……!?」
 背後からがばりと抱きすくめられ、クララが素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「……アベル!」
「おはようございます、御婦人方~」
 クララの従者アベルは、ひらひらと手を振ってみせた。
 バイオレッタとよく似た白銀の髪の持ち主だが、こちらはやや水色がかった銀髪をしている。光の当たり具合によってはわずかにクリームがかって美しい。
「ちゃーんとお仕事してきましたよー。褒めてください、わが君~」
 なおもべたべたとクララにくっつこうとするアベルを、ユーグが引きはがした。
「やめないか。クララ様が困っていらっしゃるぞ」
「これはもう、僕とわが君の愛情確認みたいなものだからさー。ねー、わが君?」
 クララはこほん、と咳払いをした。
「そ、そのような愛情確認を許した覚えはないでしょう。早く離れて、アベル。お前がくっついていると動きづらいわ」
 そう言ってつっけんどんにアベルを押しやる。
 バイオレッタはうっとりと瞳を潤ませてクララを見た。
(普段はキリッとしている長身の姫君が、照れてる……!? 可愛い……!)
 普段はクールな表情が多いだけに、こうして従者に絡まれてガードを崩すクララというのはなんとも新鮮だ。珍しいものを見ることができたと、バイオレッタはすみれ色の瞳を輝かせた。
「ちぇー。少しくらいいいじゃないですかぁ。僕たちの仲なのに……」
 アベルはそう言って唇を尖らせるが、クララは澄ましたまま取り合わない。
 と、そこでピヴォワンヌがいきいきと身を乗り出した。
「あんたの従者たち、元気いいわね。体格もいいし、すっごい筋肉。わっ、これは鍛えてるんじゃない?」
 あろうことか、ピヴォワンヌはユーグとアベル、それぞれの腕や肩をぺたぺたと触れまわし始める。信じられないことに、彼女の手は彼らの胸板にまで及んだ。
「すごい……、がっちりしててたくましいわね」
「ピ、ピヴォワンヌ! はしたないわよ……、と、殿方をそんな風に触るなんて……!」
 だが、ユーグとアベルは爽やかに笑った。
「かまいませんよ。鍛えているのは事実ですから」
「そーそー、僕たちはわが君の護衛をしてますから、日頃の鍛錬は必須なんです。少しくらい触られたところで減るもんでもないですし?」
 ピヴォワンヌが好戦的に笑って身を乗り出す。
「ふーん。じゃあ今度あたしと手合わせしてよ。毎日退屈してるの」
「いいですよー。帯剣を禁じられてるとお伺いしましたし、練習用の剣でやりましょう」
「やった! 決まりね!」
 ピヴォワンヌは長い芍薬色の髪をふわりと翻し、心底嬉しそうに笑った。
(もう、ピヴォワンヌったら……。でも、楽しそうだからいいか……)
 異母妹のあまりに無邪気な様子に、バイオレッタはつい苦笑してしまった。
 
 だが、稽古の相手ができて嬉しいのはアベルも同じだったようだ。ふふふ、と笑う。
「あー、楽しいなぁ。わが君にお友達ができたばかりか、その方が剣術も嗜んでいるなんて。これはもう最っ高にツイてますねー!」
「アベルは前から手合わせの相手がもっと欲しいと言っていましたものね」
「ええ。ユーグにはもう何年も相手をしてもらってますからねー。もうそろそろ違う流派の人とも稽古をしてみたかったんです」
「あたしは劉の剣術を体得してるし、多少は愉しませてあげられると思うわ。あたしの方こそ、よかったら色々教えてほしいわね」
 意気揚々とピヴォワンヌは言う。
 クララが「至らぬ従者ではございますが、仲良くしてやってくださいませ」と微笑んだ。
 
 
「……ねえ。ここでさっき言っていた方と会うのよね?」
 バイオレッタが問いかけると、クララはうなずいた。薄い茶色の髪が揺れ、サファイアブルーの瞳が和やかに細められる。
「ええ。いつもここで待ち合わせをしていますの。もうそろそろいらっしゃる時間のはずですが――」
 ……そのとき、クララの胸元めがけて小さな何かが突進してきた。
 視界に映り込んだのは純白のヴェール、そしてキラリと輝く黄金の輪だ。
「クララお姉様……っ!!」
 ぼふん、と音をさせて、闖入者はクララの胸にしがみつく。
 抱きつかれたクララが相好を崩した。
「……プリュンヌ様!」
「お姉様っ! うう~、お会いしたかったです!」
 バイオレッタは薄紫の瞳をぱちくりさせる。
(だ、誰……?)
 透ける真っ白なヴェールを被った、とても背の低い少女だった。その小柄さたるや、じゅうぶんに栄養が行き届いていないのではと心配になるほどだ。
 が、クララを「お姉様」と呼ぶとは一体……。
 クララ本人がとても楽しげにしているし、何よりこの少女自身恐ろしい人物ではなさそうだが……。
 呆気にとられる二人に、クララが素早く解説する。
「お二人とも、驚かせてしまいましたわね。この方はプリュンヌ・フルニエ・フォン・スフェーン様。このスフェーンの第五王女様ですわ」
 ピヴォワンヌが怪訝そうに問い返す。
「えっ? 第五王女……って、ここの王が忌み子って呼んでた、あの……?」
 くるりとこちらを向いたプリュンヌ姫の姿に、バイオレッタは歓声を上げた。
「まあ……っ」
 思わずバイオレッタは、瞳をきらきらさせてプリュンヌを見た。
 なんと愛らしい少女だろう。体型は小柄だし、顔つきは純真な子供のように無垢であどけない。あまり陽に当たらないのか色白で、ヴェールからちらとのぞくふっくらした頬は薔薇色だ。
 そして何より目を引くのは、彼女のウェーブがかった紅く長い髪だった。純白のヴェールがかけられてはいるが、鮮烈な紅で美しい。
 ピヴォワンヌの芍薬色の髪にも似ているが、プリュンヌのそれはやや癖があって波打っていた。頭頂部では花飾りをあしらった黄金の輪が輝いている。
「ほら、プリュンヌ様。ご挨拶を」
「う……? お姉様、この方たち、だあれ?」
「プリュンヌ様のお姉様に当たる方たちですわ」
「お姉、様……?」
 プリュンヌ姫は紅い瞳をぱちぱちさせた。
「そうですわよ。ほら、エリザベス様を覚えていらっしゃる? こちらにいらっしゃるバイオレッタ様はあの方の王女様ですわ」
 エリザベスという言葉に、プリュンヌははっとして居住まいを正す。
「まあっ、エリザベス様の……? ではプリュンヌ、失礼のないようにしないと……!」
 プリュンヌはそう言ってヴェールをいそいそと下に引っ張るしぐさをする。どうやら紅の髪を恥じての行為らしかった。
 またしても母妃のすごさを見せつけられた気がして、バイオレッタは気まずくなる。
(な、なんなのかしら……。わたくしのお母様って、一体どんな方だったの……?)
 こんなに幼い姫までそそくさと態度を改めるくらいだ、よほど力のある王妃だったに違いない。
「突然お連れしてしまいましたが、仲良くできそうですか、プリュンヌ様?」
「はい、クララお姉様。お優しそうなお姉様たちで嬉しいです!」
「ええ。お二人ともちっとも恐ろしい方ではございませんわ。安心しておしゃべりなさいませ」
「はい!」
 クララはよしよしとプリュンヌの紅い髪を撫でる。ヴェール越しだったがじゅうぶん優しさが伝わったようで、プリュンヌの顔がふにゃふにゃと緩んだ。
 
「プリュンヌ様には忌み子という事情がおありですから、いつもこうして密会、という形をとらせていただいていますの」
 クララがそう説明してくれる。バイオレッタはなるほど、とつぶやいた。
「そうなのね……。それにしてもなんて綺麗な紅い髪なのかしら」
 忌み子が紅き神から民を守る救世主というのはあながち間違いではないのかもしれない。だって、この姫は一点の穢れもないほど澄み渡った表情をしているではないか。
「素敵な御髪ですわね、プリュンヌ様。瞳もまるで苺水みたい」
 バイオレッタの賛辞を受けて、プリュンヌはぽかんとした。
「ふえ? プリュンヌが……素敵?」
「ええ。とてもお可愛らしいです。わたくし、紅って大好き。元気がもらえる色だわ」
 プリュンヌはぱあっと顔を輝かせる。
 喜びをこらえるように口元を手で覆い隠していたかと思うと、くるくるとその場で回りだした。
「ぷ、プリュンヌ様?」
「嬉しい……っ! まさかプリュンヌのことをそんな風に言ってくれる人がいらっしゃるなんて……!」
 陽光に透けるヴェールが風をはらんでふわふわ揺れる。コーラルピンクのドレスがふっくらと膨らみ、春の風と楽しげに戯れる。
 ドレスにちりばめられた小粒の貴石はきらきらときらめき、白い指先は揺蕩って宙を遊ぶ。
 妖精のように可憐な舞に、姫たちはしばし呆気にとられていたが。
「まあっ……! うふふ!」
「プリュンヌ様ったら」
 バイオレッタはクララと顔を見合わせて笑い声を上げた。
 なんと無邪気な姫だろう。他の王族女性たちとのやり取りでずっと緊張しっぱなしだったが、その毒気が抜かれていくような気さえする。
(わたくしの言葉をこんなに素直に受け止めて……喜んでくださって。ああ、本当にほっとする方だわ……!)
 
 その時、ぶすっとした顔つきでピヴォワンヌがつぶやいた。
「……バイオレッタの人たらし」
「ええっ!? ど、どうしてそうなるの?」
 彼女はすっかりふてくされて言う。
「一番最初に会った日、あたしの髪のこともそうやって褒めたじゃない。可愛いとか素敵とか、一体どうしたらそんな風に気軽に人を褒められるのよ。わけわかんない」
 ピヴォワンヌは呆れたようにそう非難したが、バイオレッタは負けじとその手を取った。
「いいえ! 貴女だって綺麗よ、ピヴォワンヌ。わたくしはそもそも、本気でそう思わなければ褒めたりなんかしないわ」
「……! そ、そういうこと言うから人たらしだって言うのよ、あんたは!」
 たじろいだピヴォワンヌをすかさず抱きしめる。彼女はびっくりしたようにもがいた。
「なっ、何するのよ……!!」
「そんな風に言うなんてひどいわ。わたくしは貴女のことだってちゃんと素敵だと思っているのに。第一、貴女がいてくれなかったら、わたくし今頃どうなっていたか……」
 すん、と鼻を鳴らしてバイオレッタはつぶやく。
「……いい香り。ピヴォワンヌの髪って芍薬の香りがするわよね。涼しそうで、凛として……華やかな香り……」
「~~!! あーもう!! いいから早く離れなさいよッ!!」
 茹でだこのように耳まで真っ赤になったピヴォワンヌが、バイオレッタの腕の中で苦しげに暴れる。
 取り残されたクララとプリュンヌは、興味深げにその様子を眺めていた。
「まあまあ。うふふ……!」
「お二人とも、仲いいです……。お姉様、プリュンヌのこともぎゅってしてください~」
「あらあら……、プリュンヌ様ったら」
 クララは言われたとおりにプリュンヌを抱擁する。身を放そうとしたクララの頬に、プリュンヌはちゅっと小さな唇をつけた。
「ま、まあ……?」
 驚いて瞬きを繰り返すクララに、プリュンヌは耳打ちする。
「えへへ。お返しですっ」
「プリュンヌ様ったら……」
 
 
 その時。
「姫様ぁ~!」
 池にかけられた橋を渡ってどたどたと走ってきたのは老齢の女性だ。サラやダフネを彷彿とさせる臙脂のお仕着せを纏っている。
 人工池の向こう、緑の迷路からやってきたらしい彼女は、ぜえぜえ息を切らしながらプリュンヌに駆け寄った。
「マルグリート」
「このばばめを置いて行かれるとは、困った姫様でございますねぇ。いくらクララ様とのおしゃべりが楽しいからといって、年寄りをやきもきさせるようなことはなさらないでくださいまし」
 はあはあと肩で息をし、マルグリートと呼ばれた老女が言う。
「ごめんなさい、マルグリート。大丈夫ですか?」
「はあ、はあ……。うう、ばばの年老いた体には堪えます……」
 そこでアベルが軽やかに歩み出て、マルグリートの背をさすった。
「では、面子も揃ったところで早速お茶会を始めましょうか、ご老女? 走って喉が渇いたでしょう」
「まあまあ、アベル殿……。これはかたじけのうございます。あなた様は美男なうえお優しいのですねえ……」
 両手をすり合わせ、しみじみと言う。アベルは「いやぁ、そんな」などと言って嬉しげだ。
「では、決まりですわね」
「お茶会って……、どういうこと?」
 主従二人の会話に、バイオレッタとピヴォワンヌはきょとんとする。
 お茶も茶菓子も、カトラリーや茶器さえないのに、一体どうやってお茶会など開くというのか。
 そう言いかけた矢先、弾んだ声がバイオレッタを遮る。
「お待たせしました、クララ様ぁ!」
 ワゴンを押しながらやってきたのは、クララと同じような茶髪の少女だ。
 ブルーを基調としたエプロンドレスに身を包み、長い茶髪は高い位置で一つに結っている。
「まあ、アンナ。ありがとう」
 そう言って少女をねぎらうと、クララはバイオレッタたちに向き直る。
「紹介しますわ。わたくしの筆頭侍女のアンナです」
「お初にお目にかかります、アンナと申します」
 ワゴンから一旦手を放し、アンナはぺこりと頭を下げた。
 おしゃまな雰囲気のせいか、サラよりは年下に見える。小鳥のさえずりのようなおしゃべりや甘いお菓子が好きそうな、あどけなく可憐な少女だ。
 お仕着せの色はクララの瞳と同じ涼しげなサファイアブルーだ。わずかに緑がかった光沢があり、時折美しい玉虫色に輝く。
 スカートからのぞくほっそりした両脚は、艶のあるシルクの靴下で包まれていた。
「クララ……、その、お茶会って」
「驚かせてしまって申し訳ございません。わたくしはいつもここでプリュンヌ様とお茶をいただいていますの。手仕事の師として刺繍の出来栄えなど見てもらいながら」
 言って、クララは手にした籠から刺繍枠を取り出した。
「師って……、この子、そんなに刺繍がうまいの? 見たところあたしたちより年下みたいだけど」
 ピヴォワンヌの問いに、クララはしっかりとうなずいた。
「ええ、それはもう。まだ十三歳とお若いですけれど、裁縫、編み物、刺繍、タティングレース……、この方は何をされてもお上手ですわ」
 そんなに上手なのかと、バイオレッタはごくりと喉を鳴らす。
 
(わたくしも縫物は好きだけれど、きっとそこまでうまくはないし……、教えていただきたい……!)
 
 同い年の姫クララがこうして師と敬うくらいなのだ、きっとかなりの天才肌に違いない。
 瞳をきらきら光らせるバイオレッタに気づき、クララが提案する。
「では、せっかくですから皆でいたしましょうか」
「えっ……、ええと、いいの?」
「はい」
 当のプリュンヌはといえば、是非を問うまでもなくきゃっきゃっとはしゃぎ出した。
「わあっ、楽しそうです~! プリュンヌでよければ張り切ってお手伝いしますよ!」
「は、はい……、では、お願いします……!」
 年下の姫ではあるものの、丁寧に頭を下げて教えを乞う。
 その様子を見ていたアベルが軽く何度かうなずくしぐさをした。
「よし、じゃあ僕らはお茶の支度をしようか。手伝うよ、アンナ」
「は、はい……! よろしくお願いします、アベル様……!」
 アベルの言葉に、ぽうっと頬を赤らめたアンナがうなずく。
 
 ……かくして姫君たちのお茶会は始まったのだった。
 
 

 

error: Content is protected !!
inserted by FC2 system