「バイオレッタ様、ピヴォワンヌ様」
晩餐会からの帰り道。
後宮の回廊で呼び止められて振り返ると、そこには茶色の髪の美姫がいた。
隣のピヴォワンヌが小首を傾げる。
「あんたは……クララ姫?」
「ええ、アルマンディンの元第一王女、クララ・リブロ・フォン・アルマンディンと申します。晩餐の席ではろくにお話ができませんでしたので、少しご挨拶できればと……」
ぜひ近しくなりたいと思っていたバイオレッタは嬉しくなった。
どこか大人っぽい姫だと思っていたが、こうして間近で見ると年頃も近そうだ。表情は姫君らしく洗練されているものの、どこか親しみやすい雰囲気でほっとする。
「あの、わたくしもクララ様のことが気になっていたのです。母のことをご存知なのですよね?」
バイオレッタの問いかけに、クララ姫は微笑んでうなずいた。
「ええ。わたくしの母は、貴女のお母様に大変お世話になりましたの。実はその件で、一言お礼を申し上げたかったのです」
「あ、いえ。そんな……」
「いいえ。エリザベス様がいらっしゃらなかったら、きっとわたくしたちは処刑されていたと思うのです。それに加え、スフェーンの後宮ではこのような何不自由ない生活をさせて頂き、本当に感謝しかございませんわ。そして、バイオレッタ様とピヴォワンヌ様の無事のご帰還を心よりお喜び申し上げます」
クララ姫は上品に微笑んで、二人に温かな視線を投げかける。そして、少し困ったように瞳を伏せた。
「バイオレッタ様が危機に瀕していらっしゃるとき、わたくしは一人のうのうと王宮で暮らしておりました。本当に力不足で……」
「……そ、そんなことおっしゃらないでください! なんだか恐縮してしまいますわ」
そこでピヴォワンヌがうーん、と唸った。
「そういえばあたし、あんたとは前に一度だけ会っている気がするんだけど。気のせい?」
「いいえ、お会いしていますわ、ピヴォワンヌ様。確か昔、エリザベス様がピヴォワンヌ様のお住まいになっている離宮に連れていってくださいましたから」
「ああ、やっぱりね」
ピヴォワンヌは九つまでを王宮で過ごしている。そして母親はエリザベスと親しかった舞姫の清紗だ。一方のクララはエリザベスに庇護されていた王女だから、接点のある二人がどこかで会っていても不思議ではない。
「お二人とも、よろしかったら今度わたくしの部屋に遊びにいらしてくださいませ。侍女も従者もアルマンディン人ですので、アルマンディン風のおもてなししかできませんけれど、歓迎いたしますわ」
「ありがとうございます、クララ様」
「あ、いけませんわ、バイオレッタ様。わたくしのことは呼び捨てで構いませんのよ」
「でも……。なんだか変な感じがして」
「わたくしはバイオレッタ様とは同い年なのです。もっと気さくに話して頂いて結構ですわ」
バイオレッタはびっくりした。
(えっ? 同い年……、って十七歳?)
長身のためかきちんとした口調のせいか、大人びている。てっきりもう少し上かと思っていたが。
(オルタンシア様も大人っぽい方だったけど……きちんとした姫君教育の賜物、なのかしら?)
と、クララ姫の背後に控えていた佳人が拗ねたように口を挟んでくる。
「わが君ー、僕たちも紹介してくださいよ。こんなに可愛らしい姫君にご挨拶も許されないなんてひどいですよ」
思わず瞳をぱちぱちと瞬く。
(まあ。なんて綺麗な方……!)
バイオレッタはその人物を見つめた。
艶のある声に、手入れの行き届いた長い銀の髪。体つきはしっかりしているが、容貌はクロードに負けず劣らず甘くて華やかだ。
黒いフリルのブラウスとクラヴァット。タイピンの石は不思議な光沢のある青緑。
身に纏うのは白い宮廷服に黒手袋。……ということは、サラに教わった通りなら「下級魔導士」だろう。
「えっと……。あの、あなたは」
「クララ様の従者のアベルと申します。以後お見知りおきを、可愛い人」
アベルは音もなく迫ってくると、バイオレッタの手を取ってキスをした。
「あ、あのっ……!?」
「……おい、やめないか」
茶色の髪の長身の青年が慌ててアベルを引きはがしてくれたのでほっとする。
彼は確か、クララ姫と一緒に≪享楽の間≫にいた気がする。間近で見てもアベルと同じくらい見目麗しい、と思った。
緩いウェーブのかかった茶髪を細いリボンでまとめ、洒落たモノクルをかけている。
「申し訳ございません、バイオレッタ様。私は下級魔導士のユーグと申します。アベル同様、クララ様にお仕えする宦官です。アベルが失礼を」
「いいえ。アベル様にユーグ様、ですわね。覚えましたわ」
「えー、呼び捨てでいいですよ。僕たちは一介の従者にすぎません。それに、わが君のお友達にはやっぱり敬意を払いたいですし」
そう言ってぱちんと軽快なウインクをされる。
「アベルに同意いたします。貴女方は私たちより上位の御方。敬語は不要です」
極めつけのようにユーグに言われ、バイオレッタはおろおろとクララを見上げた。
「く、クララ様、わたくしは一体どうしたら……」
やはりどこまでも上品に微笑み、クララは言った。
「従者たちがこう申しているのですもの、ぜひそのようになさってくださいな。わたくしのこともどうか呼び捨てにしてくださいませ」
「じゃあ、あたしはそうするわね。あんたのことも早速クララって呼ぶわ」
ピヴォワンヌが一足先にそう宣言する。
「……え、ピヴォワンヌったらずるいわ!」
「いいじゃない、その方が早く打ち解けられる気がするもの」
クララ姫は口元を手で隠して朗らかに笑った。
「無理でしたら少しずつでもかまいませんわ」
「ほら、バイオレッタ。せっかくだからクララって呼んでみたら?」
「ええっ!?」
ピヴォワンヌが肘で小突いて促してくる。
が、知り合ったばかりの王女を呼び捨てにするというのがどうしても難しく、バイオレッタは困り果ててしまった。
(だけど、わたくしもここで頑張らなきゃだめだわ……)
今度こそ変わるのだ。同じ城で生きるにしても、目の前の王女のように――捕虜の身でありながら気高さを失わないクララのように、堂々と生きていきたい。
(さっきのクララ姫を見て、誰かに意見することを恐れない姿勢がとても素敵だと思ったわ。その彼女がこう提案してくれているのだもの、やっぱりここは相手に倣うべきなのよ)
王女相手に呼び捨てなんて、やっぱりどうしたって気後れする。
だが、まずは一歩踏み出さなければ、何も変わらないのだから――。
バイオレッタはそう自分に言い聞かせると、二人の姫が見守る中、とうとう「く、クララ……」と小さく彼女の名前を呼んだ。
「こ、これでいいかしら……! その……、よろしくね」
気恥ずかしさから真っ赤になったバイオレッタ。
その様子を眺め、ピヴォワンヌとクララは顔を見合わせて朗らかに笑いあった。
クララはすっと手を差し伸べる。
「ええ。お帰りなさいませ、バイオレッタ様。これからどうぞよろしくお願いいたします」
「……ええ!」
笑顔でその手を握り返しながら、バイオレッタは「なんとかやっていけそうだわ」と思った。
***
「……」
石柱の陰から、ミュゲは冷ややかにバイオレッタを見つめていた。
オトンヌ宮からの帰り道。異母妹とともに居住棟の方へ歩いてゆく彼女の背を、つぶさに見つめる。
クララ姫は従者二人とともに早々に居住棟に入ってしまった。
あとは互いの居住棟が近いあの二人がそれぞれの私室に入るばかりなのだが、ミュゲはいてもたってもいられない気分で二人を追ってきたのだった。
(それにしても……)
ミュゲの嫌な予感は見事的中した。やはりバイオレッタは美しい少女だった。
まるで銀糸のような白銀の髪に、スフェーンでは「高貴な色」とされる薄紫の瞳。
野暮ったい雰囲気の中にも不思議な存在感を放っていて、周囲を惹きつける抗いがたい魅力があった。
オトンヌ宮でも、衛兵や侍従たちが彼女を興味深げに目で追っていた。食事の作法はなっていないし、給仕係にうっかり礼を言うほど抜けてもいたが、それを差し引いても異性の目を引く魅力的な娘であることは確かだ。
ただの田舎娘が来ると思っていたらまんまと騙されてしまった。さすがはリシャールの血を引く王女といったところか。
ミュゲはそこで、薄く形のよい唇を噛みしめる。
宴の最中、クロードとバイオレッタが視線を交わし合っていたのがどうしても気にかかってしょうがない。なんなのだ、あのやけに親しげな見つめ合いは。
(何なの……、あの子。クロードをあんな目で見るなんて。やっぱり母親のエリザベスに似てふしだらなのね)
母シュザンヌの妄言をすべて鵜呑みにするわけではないが、エリザベスが輿入れさえしなければある程度の平穏は保たれていたはずだとミュゲは思っている。シュザンヌは立派な正妃として君臨できていただろうし、火遊びに走って自分たちをもうけることもなかったはずである。
(まあ、お母様のあの性格ではどうせまともに正妃の役割なんか果たせないでしょうけれどね)
何せ愛娘が疫病に罹患していることにも気づけなかったような女性だ。そのことについては未だに母妃を恨まずにはおれない。
誇り高き世継ぎの姫たれといつも熱心に言い聞かされてはいるが、そもそもその世継ぎの身体に欠陥を残したのはほかでもない彼女なのだ。
ミュゲは一度強く胸元を押さえると、再びバイオレッタの後ろ姿を見つめた。
バイオレッタの目つきよりさらに気になったのは、クロードが彼女に向けた熱っぽいまなざしだ。いかにも愛おしそうな、そしてやけに長い見つめ合いだった。
あれではまるで、バイオレッタを――。
「あれー? ミュゲ様じゃありませんかー」
「……っ!?」
能天気な声に、ミュゲはさっと振り返る。
そこにいたのは――。
***
意中の姫を見つけたアベルはにやりと笑った。
「おやおやー。すごいですねぇ。第二王女ともあろう御方が覗き見なんて」
「なっ……。あなた、さっきクララ姫と一緒に帰ったんじゃ」
距離を詰め、うろたえて後ずさるミュゲに近づく。
「うーん。なんか不穏な雰囲気を感じちゃったので、引き返してきたりなんかして。わが君の御命を狙う刺客が、そのへんにうろうろしているかもしれませんからねぇ」
手を伸ばして彼女の細い肩に触れようとしたとき、白手袋に覆われたほっそりした右手がそれを拒んだ。
「触らないで! クララ姫の宦官なんかに用はないわ!」
甲高い声で威嚇され、アベルは仕方なく伸ばした手を引っ込める。本当は少しだけ、ミュゲに触れてみたかったのだが。
「……冷たいですねえ。それにしてもミュゲ様って、会うたびに僕のこと『宦官』って言ってる気がしますけど、貴女は僕がれっきとした男だったらいいんですか? 男であれば人として認められると?」
「馬鹿を言わないで。後宮に男がいたら騒ぎになるわよ」
なんとか会話が続いたことに、アベルは少しだけ満ち足りた気分になった。現金な性格だ、と自分でも思う。
「じゃあ問題ないでしょう。僕が近寄っても嫌な思いはなさらないですよね? ふしだらだと噂になる心配もありませんし」
「わたくしが言いたいのはそういうことじゃないわよ。どうしてあなたみたいな汚らわしい人間をお父様はお認めになるのかしら」
「ええっ、僕って汚らわしいんですか!? 知らなかったなぁ、すごいショックですー!」
傷ついたそぶりも見せずに飄々と返すと、ミュゲは本気で頭に来たようだった。思いっきり顔をしかめる。
ミュゲ・コンヴァラリア・フォン・スフェーン。
彼女は、アベルの目下の想い人であり標的である。夜会では積極的に隣に陣取るようにし、迷っていればすかさず道案内をしてやる(ミュゲは極度の方向音痴だ)。少しでも彼女に気に入られたいからだ。
何かにつけてそばに寄ろうとするアベルを、ミュゲはとにかく警戒している。ひどいときには毛を逆立てた猫のように威嚇をされる。
だが、それも当然といえば当然だ。何の接点もない男にいきなり距離を詰められて、まったく警戒しない方がおかしいというものだろう。
アベルとしては接点が全くないとは思っていない。
だが仕方がないのだ……、彼女は過去に自分たちが言葉を交わしたことを忘れてしまっている。かけがえのない美しい思い出を勝手に忘却されたことには怒りもしたし責めたくもなった。
が、皮肉なことにそれさえアベルの恋心をさらに強く燃え上がらせる一因となってしまった。すなわち、この強情で無慈悲な姫を何としても手に入れてみせようとアベルに決意させてしまったのである。
(そのためならなんだってするさ。困ってれば助けてやるし、道案内だってする。俺はこいつに助けられたんだからな)
「……何よ。人のことをじろじろ見て、嫌な人ね」
ミュゲはじろりとアベルをねめつける。長い翡翠色のまつげの下、同じ色の瞳を剣呑に――探るように――きらめかせながら。
やはり猫のようだ。癇性で潔癖で気まぐれな、高級な猫。触れることはおろか、救いの手を差し伸べることさえ誰にも許さない。
(やっぱりいいな、この性格)
気が強くて野心も矜持もある女性にはどうしてもそそられる。というより、勝手に親近感を覚えてしまうのだ。
ミュゲは表向きは立派な姫だ。王の前で見せる態度も姫君としての品格も、申し分ない。ただ控えめなだけではなく、しっかり「自分」というものを持っていて、必要とあらば機知に富んだ会話を展開することもできる。
向学心もあり、宮廷での作法も完璧で、まるで姫君の手本が歩いているような少女である。
しかしながら彼女は、玉座に就くために裏で廷臣たちを言いなりにしていると聞く。シュザンヌ妃譲りの美貌につられた男たちは、試験ではぜひともミュゲを女王に推すと宣言しているらしいのだ。
宴の席では常に信奉者たちに囲まれていることもあり、異性がらみの根も葉もない噂を流布されることも多いようだった。
そういったところはなんとなく自分自身を見ているようだった。アベルもまた美貌で主人クララを守っているような面があるからだ。
(結構俺とは似てる気がするんだよなー……)
ちらりと視線を投げかけると、ミュゲはきつくアベルを睨む。
「……何?」
「いーえ。それにしても、やっぱりミュゲ様ってお綺麗ですね。いつ見ても惚れ惚れしちゃいます。僕は貴女のその瞳が好きなんです」
何に喩えれば最適だろうかといつも悩んでしまう、綺麗な翠色の双眸。意志の強さを感じさせる、凛とした輝きを放つ瞳だ。
しかし、アベルとしてはかなり本気の褒め言葉だったのに、次の瞬間、つんと澄ましてミュゲはのたまった。
「宦官には男色家が多いと聞くけど、あなたも実はそうなんじゃないの? あなたはいつもあの背の高い宦官と一緒にいるじゃない。そんな人に褒められても嬉しくないわ」
思わず片眉を跳ね上げる。聞き捨てならない。
ユーグとは仕事仲間だから一緒にいるだけだ。友情はあるがそんなおかしな愛情はない。
というか、ユーグが相手だと思われていたとは。これだから深窓の姫は困る。
(これ、本当に意味わかって言ってんのかなぁ……)
アベルはいささか乱暴に髪をかきやった。唇をくいと歪める。
無意識のうちに自分を苦しめるミュゲが、どうしようもなく憎らしくて愛おしかった。
(全く……。本当に困るな……)
昔助けてもらったあの時から、アベルの目にはミュゲしか見えていなかった。
なのに、まさかこんな仕打ちをされるとは……。
だが、これはある意味好機だ。彼女にはもう少し自分のことを知ってもらいたい。いつもいつもうまくかわされてばかりなのだ、一矢報いたいと思う気持ちくらいはある。
アベルはミュゲに迫り、その細い手首を掴んだ。
「――心外ですね。そんな言い方」
「何するのよ、放して……っ!」
「……貴女はご存じない。男色家は女には欲情しないということを」
ミュゲの瞳に狼狽と羞恥の色が浮かんだ。
小柄な身体を石柱に押し付けて逃げ場を塞ぐ。
「やめて……! 誰か来たら――」
「人を呼んでもかまいませんよ。男女の戯れなど、この国ではよく見かけられる光景でしょう。それより、貴女にはじっくり教えて差し上げなくては。僕を男色家などと呼んだら、どういう報いを受けることになるか……」
瞳を伏せて、細い首筋に唇を寄せる。
吐息が肌に触れるか触れないかというところで、ミュゲが声を上げた。
「……いやっ!!」
ミュゲは強い力でアベルを押しやった。その鋭い目つきに思わずぞくりとする。
「……わたくしを侮辱したら許さないわ。お父様が黙っていないわよ」
「先に侮辱してきたのは貴女の方でしょう。宦官だ男色家だと、僕を挑発するようなことばかり言うからいけないんですよ」
「挑発じゃなくて事実じゃない! 指摘されたくらいで怒るなんて、器が小さいわ!」
ミュゲの表情に、アベルはやはりいい、と思った。
……強い女は好きだ。これくらい堂々と男を貶すくらいでなければつまらない。ろくに意見も言いあえないような手弱女に興味はないのだから。
「いい目つきですね、ミュゲ様。貴女に罵倒されるのは悪くない気分ですが……僕には生憎そういう趣味はありません。本音を言うなら、僕は貴女に優しくされたい」
ミュゲははっと息をつめたが、すぐに表情を険しくした。
「調子に乗らないで。今日のことは水に流してあげる。でも、これ以上つけあがったらお父様に言いつけるから」
「どうぞどうぞ。楽しみにしています」
ひらひらと手を振るアベルをきつく睨み据えてから、彼女はにべもなく去っていった。
「……おい」
「ん?」
声に振り向くと、怪訝そうな顔のユーグがいた。
「なんだ、今のは……」
「君のほうこそ立ち聞きはダメでしょ。何って、遊んであげてただけだよ」
「いい加減にしろ。お前のそのやり方、下心が透けて見えているぞ……」
ユーグは近寄ってくると、額に手を当てて深いため息をついた。
(御見通しか……)
なんだかんだで付き合いが長いのだから仕方ない。
アベルは瞳を細めて言った。
「わが君にはまだ言わないでね、ユーグ君。恥ずかしいからさ」
アベルが形のよい唇に人差し指を当てつつ片目をつぶってみせると、ユーグは顔を思いきりしかめた。腕を組み嘆息する。
「……よりによってスフェーンの王女か。それもあのシュザンヌ妃の姫とは……これはまた難しい相手を選んだな」
そう言われるのを覚悟していたアベルは、さほど衝撃を受けなかった。
「そうかな。俺らしくていいと思わない?」
「その根拠のない自信はどこから来るんだ……」
「お前もそこで見物してたならわかるだろ? あの目つきとか、たまんないよねぇ」
肩をすくめるユーグをよそに、アベルは余裕たっぷりに微笑んだ。
「俺、もともとお人形さんみたいな子には惹かれないんだよね。さーて、どう攻めようかなぁ……」
アベルがくすくす笑うと、ユーグが険しい表情になった。
「ほどほどにしておけ。問題を起こしたらクララ様に言いつけるからな」
「はいはい。やれるもんならやってみろよ。俺は問題なんか起こさないから大丈夫!」
アベルは上機嫌で同僚の肩に腕を回した。
***
(なんだったのよ……)
私室にたどり着いたミュゲは、そそくさと夜着に着替えると寝台の上に寝転がった。ばくばくする心臓を必死でなだめる。
「宦官アベル……、なんて男なの」
たとえ顔を合わせることがあっても毎回すげなく追い払ってやるのに、迂闊に会話などしてしまったのが運の尽きだった。おかげであんな暴挙を許す羽目になってしまったではないか。
まさか宦官に迫られるなんて思ってもみなかった。が、去勢された彼らにもそういった欲は残っているのだと聞いたことがある。しかもそれを堂々と発散させられない分、相手に噛みついたり痛めつけたりして欲求を満たそうとするのだという。
ただの通説にすぎないけれども、ミュゲは「歪んでいる」と感じた。とっさに「汚らわしい」と口走ったのはそのせいだ。
それに、あの宦官には色恋の噂が絶えないと女官たちが噂していた。その対象が男性であれ女性であれ、距離を詰められるのは色々と危険だ。
何よりあの蠱惑的なアイスブルーの瞳が曲者だ。ミュゲの本心まですべて暴こうとするかのような、どこか無遠慮な輝きを帯びている。ミュゲの内側まで全部覗いてやろうという悪戯っぽい魂胆を感じるのだ。
(男色家じゃないって言っていたし、あれ以上のことをされたらそれこそ困るわ)
王位継承者としての価値を下げられては困るのだ。そして姉オルタンシアのように「ふしだら」のレッテルを貼られるわけにはいかなかった。
「でも、なんだかどこかで見たことがある気がするわ、あの人……。でも、どこで……?」
その時。ノックの音がして、筆頭侍女のカサンドルが呼びかけてきた。
「姫様。姉君がお越しになっておられます」
「え……お姉様が?」
こんな夜更けに何の用だろう。
渋々起き上がってガウンを羽織ると、ミュゲはドローイングルームへ足を踏み入れる。
そこには同じく夜着姿のオルタンシアが待っていた。
***
――その夜。
シュザンヌは苛立っていた。
春先ということで、上等な毛皮で仕立てた化粧着を着込んでいる。だが、暖かな暖炉の火や高価なガウンなどなくとも、身体はすでに燃えるように熱い。焦燥と怒りで身が焼けそうだ。
杯に満たした美酒を口に運んで激情を和らげようとしていると、娘たちの声がした。ノックをしてから入ってくる。
「お母様、こんな夜更けにどうなさいましたの? わたくしたちをお呼びになるなんて」
「ああ、オルタンシア!!」
瑠璃色の巻き毛の愛娘の姿をとらえたシュザンヌは、興奮のあまり杯を取り落としそうになった。
「お願い、人払いをして」
「え、ええ。わかりましたわ。……ミュゲ、いらっしゃい」
オルタンシアは妹姫を呼び寄せると、連れてきた侍女をすべて下がらせた。
ミュゲが冷淡ともいえる口調で切り出す。
「……エリザベスと清紗。あの二人が生んだ娘たちのことでしょう、お母様」
「わたくしのミュゲ。お前はやはりとても賢い子ね。お前のその聡明さが、お母様はとても好きよ……」
シュザンヌは杯をテーブルに置いた。
「……あの娘達に王位を与えては駄目よ。第三王女でも第四王女でも、どちらでもいけないわ。お前たちのどちらかが必ず王に――女王になるのよ」
オルタンシアはわずかに眉根を寄せたが、ミュゲは落ち着き払って言う。
「お母様は第一王妃、すなわち正妃でいらっしゃるけれど、あの二人の母親は第二王妃と第三王妃。つまりは妾ですものね」
「そう……、そうよ……。愛妾の娘ごときにみすみす王位をくれてやるほど、このシュザンヌは落ちぶれてはいないわ。たとえ陛下に愛されていないとしても」
仮にあの第三王女か第四王女が女王になってしまったら、名門・アウグスタス家の評判は今度こそ地に落ちる。
たとえこの愛娘たちが不義の子――私生児だとしても、憎い妾の生んだ姫などに出しゃばられるわけにはいかないのだ。
(わたくしは確かに不義密通を働いた。けれど、それはひとえに陛下に振り向いて頂きたかったからよ……!)
十六の春に初めて会ったリシャール。『時知らずの奇術』の話は聞いていたが、そんなことも気にならなくなるほど彼は魅力的だった。
シュザンヌが惹かれたのはその権力でも王妃という身分でもなく、リシャールの人柄そのものだったのだ。
……なのに。
(オルレーアの姫エリザベス……! あの女が来なければ、あの方はずっとわたくしを見ていて下さったはずよ)
エリザベスはただ寵を受けるだけでは飽き足らず、自分の息のかかった踊り子をリシャールにあてがった。彼女もまた物珍しさからリシャールの興味を引き、二人は一時シュザンヌを差し置いて「寵妃」という扱いを受けた。
不義密通の罰を受けたのだと、シュザンヌは激しく悶絶した。これは火遊びをした自らへの罰だと。
おまけにシュザンヌの気が休まることはなかった。リシャールが以前にも増して自分に関心を持たなくなる、敗戦国の王妃が宮廷入りするなど、矜持を傷つけられるような耐え難い屈辱が幾度も与えられ、なんのために王妃になったのかと苦しむことが増えた。
だが、やっと好機が訪れた。女王選抜試験の開始を目前にした今、シュザンヌの心はこの上なく昂っていた。
他の姫二人を蹴落とさせ、自分の娘を王位に就けてしまえばいい。そうすればシュザンヌは、この先「女王を産んだ母」として君臨できる。
ゆくゆくは伯母――王太后ヴィルヘルミーネのように宮廷を取りまとめる立場にもなれるだろう。それはつまり、女王の生母として絶対的な権力を持つことを意味した。
シュザンヌは二人の娘に言い聞かせる。
「……必ず玉座にのぼりなさい。お母様はお前たちをここまで育ててあげたでしょう? 今度はお前たちが恩を返す番よ」
「で、ですが……、ミュゲと争えとおっしゃるの? お母様。ミュゲは父親違いとはいえわたくしの妹で……」
狼狽した様子でオルタンシアが言うが、したたかに酔っていたシュザンヌは彼女を甲高く怒鳴りつけた。
「この恥知らず!! わたくしの言うことが聞けないの!? お前を産んでやったのはこのわたくしよ!!」
「い、いえ……、そのようなつもりでは」
姉とは対照的に、ミュゲは表情一つ変えなかった。一歩進み出ると、静かに言う。
「……お任せになって、お母様。女王選抜試験では必ず勝ちますわ」
「ミュゲ!?」
オルタンシアが驚いた顔で妹を見やる。
だが感極まったシュザンヌは、強くミュゲの手を握りしめた。
「ええ……! ええ、絶対にそうして、ミュゲ。お前たちのどちらかが必ず女王となってちょうだい。そして国母になるのよ」
「はい。お任せ下さいませ」
ミュゲはおっとりと花のような微笑を湛えてそれに応えるのだった。
***
「ミュゲ!」
足早に歩いて居住棟へ戻ろうとするミュゲを、オルタンシアが呼び止めた。
「……本気なの? お前、本気でわたくしと争うつもりでいるの……!?」
(馬鹿なお姉様)
姉を冷たく見据えると、ミュゲは言い放つ。
「そうしなければわたくしたちはおしまいですわ。『アウグスタスの姫』『不義の子』。そんな呼び方をされる日々はもうたくさんよ。完璧な身分を手に入れられるなら、わたくしはお姉様と争うことさえ厭いませんわ」
……次期女王選抜の要素は三つ。『武力』、『美貌』、『信頼』だ。
すなわち、武力をもって国を治めるか、美貌を武器に他国と渡り合うか、はたまた廷臣たちの協力を得て国を導くかということである。
だが基本的にはどの要素も兼ね備えた姫が有利だろう。魔導士館ではこの三要素は等しく重要なものとして扱われるからだ。
(つまり、強く美しく、臣下から信頼される姫ということね)
オルタンシアは日々武術の鍛錬を欠かさない。豊満な肢体と長い手足はじゅうぶんに美しいといえるし、大臣や官僚たちとの意見交換も日頃から率先して行っている。
彼女なら戦をも恐れない勇猛果敢な女王になるだろう。
だがミュゲもまた、自らの「武器」について熟知していた。
(……わたくしにはこの美しさがある)
舞踏会や晩餐会で知り合う青年貴族たちは、みなミュゲを誉めそやした。「お綺麗だ」、「お若い頃のシュザンヌ様そっくりだ」、などと言って。
大嫌いな母親譲りの美貌が武器になるというのも皮肉な話だ。だが、ミュゲはこれを活かさない手はないと思っていた。
もちろん美貌ばかりでなく、これまで培ってきた知性だって立派な武器となり得るはずだ。この冷静さや読みの深さはオルタンシアにはないものと自負していた。
廷臣の信頼だって、懇意にしている青年貴族たちに根回しをすればすぐに手に入るだろう。
そうしたことを考えれば、ミュゲは自分がオルタンシアに比べて劣っているとはどうしても思えないのだった。
「……わたくしはお前と争うのなんか嫌よ。どうして大好きなお前とそんな」
「お姉様。貴女こそ本気で言っていらっしゃるの? わたくしには正気の沙汰とも思えませんわ」
「ミュゲ……!」
「誰かが王位に就かなければ、スフェーンはおしまいですわ。お父様はあのように呪われたお体の持ち主。魔導士たちがいくら手を尽くしても解呪には至らず、近年では肉体と精神、両方の退行が見られる。政ができなくなるのも時間の問題。ならば予言通り、王女のうちの誰かが王位を継承するしかない」
ミュゲは姉の顔を睨むように見据え、続ける。
「わたくしは予言などという占術じみたものは信じていません。ただ、この状況が今の自分にとって都合のいいものであることは確かよ。試験に勝ち抜けば、わたくしはもう不義の子などと呼ばれることはないのだから。……そう、勝ち抜きさえすればいいの。それだけのことよ、お姉様」
ミュゲは艶然と笑ってみせる。
生来負けず嫌いなところのある姉はぴくりと眉をつり上げたが、すぐに冷静な面持ちになった。
「本気なのね」
「わたくしに二言はありませんわ」
オルタンシアは途端に険しい顔つきになった。
「……ではわたくしも手加減しなくてよ。そこまで言うなら、いくらお前相手でも容赦しないわ」
面白い、とミュゲもまた唇を持ち上げる。
「どうせならお互い手心は加えず、正々堂々勝負いたしませんこと? その方が楽しいわ」
「……ええ。そうね。お前がそう言うならそうさせてもらうわ。ここまで言われてしまったのだもの、もう妹だからといって情けはかけないつもりよ」
二人は宵闇に包まれる回廊で静かに睨み合う。
仲睦まじかった姉妹たちは、この夜を機に決定的に袂を分かつこととなった。