accarezzevole 風邪の看病(後編)

 
「うぅん……」
 バイオレッタはゆっくりと瞳を開けた。
 なんだかものすごくよく眠った気がする、と、彼女は白銀のまつげをぱちぱちさせた。
 まだ完全に起きる気がしないので、しばらく天蓋の宗教画を眺めてぼんやりする。
 身じろぐと、だいぶ体が楽になっていることに気づいた。あの宙に浮いているような耐えがたい不快感もなくなっており、関節の痛みもかなりましになっている。
 クロードはどうしただろうかと考えて、バイオレッタは落胆とも安堵ともつかぬため息を漏らした。
(さすがにもうお帰りになったわよね……)
 そうでなくては困る。クロードは魔導士でありながら寵臣として遇されている男だ。彼に期待している宮廷人は多いのだから。
 バイオレッタが起き上がると、タオルケットの上に未だひんやりとした手巾が落ちた。誰かがバイオレッタの額に載せてくれたもののようだ。
(え……? まだそんなに温かくなっていない……?)
 こうしたものは肌に載せられているうちに体温で自然と温もってしまうものだが、その手巾はまだ冷たく湿っていた。
 一体誰がこんなことをしてくれたのだろうと、彼女は首を傾げる。
 きょろきょろと周りを見渡してみて、バイオレッタはびっくりした。
 そこには愛用の眼鏡をかけて読書をしているクロードの姿があったのだ。
 彼は眠りに落ちる前と何ら変わらない姿で椅子に腰かけていた。長い足を組み、ゆったりと本の頁をめくっている。
 優雅な姿に一瞬だけ見とれてしまったものの、バイオレッタはおずおずと声をかけた。
「クロード様……?」
 彼はそこでようやくゆるりと顔を上げた。
 眼鏡のブリッジを指で押し上げ、きびきびと言う。
「……おや、姫。おはようございます。といってももう夕方なのですが」
「えっ!?」
 バイオレッタが仰天すると、クロードはやんわりとかぶりを振った。
「ああ……いえ、貴女を責めるつもりはないのです。今の貴女には休息が何より大事ですから、きちんと眠っていただかなくては困ります」
「でも……」
「ここはゆっくりやすめて得をしたと考えましょう。貴女はご自分で思っているより遥かにお疲れなのだと思いますよ。その証拠に、大変よく眠っていらっしゃいました」
「ええ。なんだか熱があるわりにはぐっすり眠れた気がします」
「それはよかった」
 珍しく屈託のない笑みを浮かべたクロードに、まさか、と思い、バイオレッタは身を乗り出して訊ねる。
「……わたくしが眠っている間、何か魔術をお使いになりましたの?」
 彼の操る闇の魔術は、人々に「眠り」や「安寧」、「沈黙」をもたらすもの。人の心を落ち着かせ、深い眠りへと誘うものだ。
 それは夜闇を思わせる性質をしており、クロードは余興と称して『夜の幻燈』なる幻を見せることもある。闇の力から生じた蝶や乙女がいきいきと動き出すさまは圧巻だ。
 リシャールもまたクロードの魔術を重用しており、寝付けない時や不安な時などに術を施してもらうらしい。
 そのため、彼が眠っている間にそうした術をかけたのかとバイオレッタは考えたわけだが、意外にもクロードはかぶりを振った。
「いいえ。むろん頼まれればいたしますが……今回は何もしておりませんよ」
 えっ、と声を上げると、彼は笑った。
「その代わり、額の手巾は何度か新しいものに交換させていただきました。軽くうなされておいででしたので」
「そうだったのですね。まあ……」
 バイオレッタはそこで素直に感激してしまった。
 よく眠れたのは闇の魔術のせいなどではない。クロードの看病のおかげなのだ。
(お忙しい方なのに、まさかそんなことまでしてくださるなんて)
 肌を拭いたり林檎を剥いたりするばかりでなく、手巾を取り替えながら何時間も付きっきりで様子を見ていてくれた。これは感謝せずにはいられない。
 感極まったバイオレッタは、瞳を潤ませながらお礼を言った。
「ありがとうございました。なんだかすごく嬉しいです」
「少しはお身体が楽になったでしょうか」
「はい。さっきより関節も痛みませんし、頭が少しすっきりしました」
「召し上がれるようでしたらお食事もきちんとお摂りになった方がよろしいでしょう。滋養がつけば回復も早くなります」
「ええ」
 
 
 ……その時、コンコンというノックの音がし、サラが入ってきた。
「バイオレッタ様。お薬のお時間ですわ」
「これはこれは、筆頭侍女殿。ありがとうございます」
 ちゃっかり恋人面をするクロードに、サラがむっとする。
「まあ、嫌だわ。別にあなたに言ったわけではありませんわよ。バイオレッタ様に申し上げたのですわ」
「これは手厳しい……」
 苦笑しつつも、クロードはサラの差し出すトレーから薬包を取り上げる。水差しとグラスも受け取ると、グラスになみなみと水を注いだ。
「姫。お薬を飲みましょう。楽になりますよ」
「……は、はい……、ごほっごほっ……!!」
「ああ……、先にお水を差し上げましょう。どうぞ」
 吸飲みを口元に差し出され、バイオレッタは渋々咥えた。またしても世話を焼かれてしまっている……。
(もう……。なんだか、恥ずかしいのか苦しいのか……)
 吸飲みの水をちゅっと吸い上げ、ふう、と息をつく。
 薬包の中身を顔をしかめながら飲み下し、サラに顔の汗を拭いてもらう。
「そういえば……よくよく考えたらなんだかひどい姿で……。すみません、クロード様」
「私は気にしておりませんよ」
「そうですか? ごめんなさい、お見苦しいところを……」
 普段、ドレスやローブで華々しく着飾った姿しか見せないだけに、今の状況はなんとも恥ずかしいものがある。
 ネグリジェと肌着しか身に着けていないのだから当たり前だが、汗の匂いや寝乱れた髪もかなり気になる。
 バイオレッタは手で軽く夜着の乱れを直し、湿った髪に手櫛を通した。
「……具合がよくなったらまずはお風呂ね」
 そう言って傍らのサラを仰ぎ見る。
 彼女はバイオレッタの汗ばんだ肌を拭きながらうなずいた。
「すぐによくなりますわ。そうしたら入りましょう」
 二人は顔を見合わせて苦笑いする。
 やがてクロードは席を立って丁寧に頭を下げた。
「それでは、私はこれで……」
「お世話になりました」
「いいえ……、とても楽しかったですよ」
 そう言ってクロードは笑ってくれたが、バイオレッタはなんだか申し訳なかった。
 本当は一緒に何か楽しいことをしようと思って訪ねてきたはずなのに、風邪のせいでこうして延々と看病をさせる羽目になってしまった。
 他人に何かを強要するというのはバイオレッタが最も嫌悪している行為の一つだ。
 クロードにはクロードの時間や都合があるとわかっているのに、今日は風邪を理由に疲れている彼をこき使ってしまった。申し訳なく思わずにはいられない。
「もし風邪がうつってしまったらすみません。今から謝っておきますわ」
 思わずそう言うと、クロードはきょとんとした。
 次いで、小さく笑う。
「そのような。本当に嫌だと思えば、お世話などいたしません。私とて、それくらいの分別はありますよ」
「でも……」
「ふふ。貴女は熱がある時の方がお可愛らしい。艶めいていて、そのくせ無邪気で、しかも普段よりもずっと素直で……。私の手から林檎を頬張っているときのあのあどけなさといったら……。不覚にもいけないことをしている気分になりましたよ」
「い、いけないことって……!」
 声を上げるバイオレッタに、クロードは軽やかに――けれどもどこか色っぽく微笑んだ。
「これくらいのおねだりでしたらいつでもなさってください、愛しい方。貴女の痛みや苦しみは、そもそも私の領分なのですから……」
 バイオレッタは真っ赤な顔のままでこくんとうなずいた。
(……わたくしの辛さを、少しでも分け持とうとしてくださっているのね)
 思い返せば、出会ったばかりの頃からクロードはそうだった。
 バイオレッタの気持ちを慮ろうとし、同じ視点でものを見ようとする。思わず拍子抜けするくらいバイオレッタに合わせてくれるのだ。
 どこか懐かしくて不思議な男性。そんな印象は今なおバイオレッタの中にある。触れられても嫌悪を感じないばかりか、むしろもっと彼とくっついていたくなってしまう。それはバイオレッタにとって、つい困惑してしまうほど強い衝動だった。
(こんな風に気遣ってもらえると、ますます気持ちが抑えられなくなってしまいそう……。少しだけ怖い……)
 クロードはやおらかがみこむと、バイオレッタと目を合わせた。
 風邪で火照った頬を、クロードが手のひらですっぽりと包み込む。手のひら全体で柔らかく頬を撫でられて、バイオレッタは恥じらいつつも顔を緩ませた。
「……早く元気におなりなさい、私の姫。具合の悪そうな貴女を見ているのは辛い」
「ええ……」
 クロードは脱いでいた上着を着こむと、しゃんと背筋を伸ばした。
「今宵はよい夢が見られるようお祈りしています。どうかしっかりとやすんで、一日も早くあの可愛らしい笑顔を見せてくださいね。……では、私はこれで失礼いたします」
 頭を垂れるクロードに、バイオレッタも深くお辞儀をした。
「はい。ありがとうございました、クロード様」
 クロードはほのかな笑みを残し、颯爽と寝室をあとにする。
 寝台の上から手を振り、バイオレッタは部屋を出ていくクロードの背を見送った。
 
 
 やがて寝室がひっそりと静まり返ってしまっても、彼女は幸せそうにおもてをほころばせたままだった。
 バイオレッタの身体は今、えもいわれぬ温かさで満ちていた。
 これは病からくる熱などではないと、バイオレッタはもう知っていた。胸の奥から、喜びと幸福感が同時にせり上がってくる。
 クロードに甲斐甲斐しくいたわられて嬉しかったのだ。
 しかも、口先だけでなく彼はきちんと面倒を見てくれた。これは男性不信の気があるバイオレッタには思いがけない出来事だった。
「まさかあんなに細やかにお世話をしてくださるなんて……」
 バイオレッタは笑み崩れたままごろんとベッドに横になった。
「早く治さなくちゃ……。治ったら、またクロード様とお出かけもしたいし、おしゃべりもしたいし……」
 タオルケットの中でふふふ、と幸せそうな笑みをこぼすバイオレッタに、サラが苦笑する。
「もう。本当にシャヴァンヌ様がお好きなのですね」
「あっ……、内緒だからね、サラ。まだ誰にも言ってはだめよ?」
 サラは呆れつつもしっかりとうなずく。
「言いませんわ。バイオレッタ様がお困りになるようなことは、わたくしにはできませんもの」
「……ありがとう」
 バイオレッタは胸に沸き起こるほのかなぬくもりを抱いて瞳を閉じた。
 
***
 
 数日後。
 私室に届けられた立派な包みに、全快したてのバイオレッタは歓喜の声を上げた。
「わあっ……、クロード様から贈り物だわ!」
 濃紺ネイビーをベースに金で馬車のシルエットを描いたパッケージは、王室御用達の紅茶専門店のものだ。
 わくわくしながら包みを開ける。
 バイオレッタは中身を順番に取り上げながら瞳を輝かせた。
「まあ……、期間限定のすみれのフレーバーティーだわ。隣に金平糖の小瓶も入っていて可愛い……。あっ、こっちはコーディアル・シロップ……? ピンク色の液体に透ける花びらが浮かんでてとっても綺麗!」
 なんとも洒落た組み合わせのギフトを、バイオレッタはうきうきと眺めまわした。
 同時に、クロードからの手紙も読む。
 そこには体調を気遣う言葉が並んでいた。具合はどうか、早くお会いしたいなどといった言葉の数々が、流麗な手蹟で綴られている。
 最後に、贈り物に関する一言があった。
 紅茶には身体の免疫力を上げる作用が、コーディアルには滋養強壮の働きがあるのだという。どちらにも身体に嬉しい成分ばかり含まれているから積極的に飲むようにとあった。
「コーディアルは水やソーダで割って飲めばいいのね……。ザクロと薔薇で味をつけてあるみたい。面白い飲み物だわ」
 サラが額に手を当ててやれやれと首を振る。
「もう。看病だけじゃなくてこんなところのフォローまで完璧とか、殿方のくせに一体どうなっているの……」
 バイオレッタは包みを抱えて笑顔になる。
「落ち着いたらお返しを考えましょう。何がいいかしら……、王室御用達の専門店のカタログも一通り見ておかないと」
「それより、まずはお手紙を出して差し上げてはいかがですか? 先に体調がよくなったことをお知らせした方が、シャヴァンヌ様も喜ばれると思いますわ」
「あ、そうだった。それが先よね」
 サラはにこりとする。
「きっと首を長くして待っていらっしゃいますわ」
 そう言ってサラが金の文箱を取り出そうとしたとき。
「姫……!」
「クロード様!?」
 いきなり寝室に入ってきたクロードに、バイオレッタは仰天してしまう。
 どうやら侍女たちに招じ入れてもらったようで、背後で彼女たちが楽しそうににやにやしている。一体いつ抱擁やキスをするのか待ちきれないといった様子だ。
「貴女たち! 勝手に殿方をお部屋に入れてはいけないといつも言っているでしょう!?」
 サラの一喝に侍女たちは形ばかりの謝罪をしたが、すぐさま密やかな笑い声を立て始める。
「だって、お可哀想じゃないの、ねえ?」
「そうよ。何日もの間ずーっと菫青棟の前をうろうろされていたんだから」
「そうまでされて、バイオレッタ様が嬉しくないはずないわ。誰がどう見たってシャヴァンヌ様とはお熱い仲でいらっしゃるんだし?」
 バイオレッタは思わず両手で顔を覆った。
(ああっ……、そんな……! わたくしたちが熱い仲だなんて……!)
 侍女たちにはクロードとの関係をとっくに知られているから仕方がないのだが、そんな風に評されるのはなんとも気恥ずかしいものがある。
 おまけにこんな風に好き放題冷やかされてしまうなんて――。
 そんな苦悩を知ってか知らずか、クロードは喜びを抑えきれないといった様子で近づいてきた。
 バイオレッタの表情をうかがいながら、その顔を覗き込む。
「姫。こちらを向いて。お顔をよく見せて……」
 誘うような声音とともに、クロードはバイオレッタの顔を手でそっと上向かせた。
「よかった……、すっかりお元気そうだ」
「そ、そんな。大げさですわ。単なる風邪なのですから治るに決まっています……」
 勢いよくぎゅっと抱きしめられて、バイオレッタは思わず彼の胸に手を添えた。
「おかげでここ数日の間にすっかりよくなりましたわ。看病してくださってありがとうございました」
「心配したのですよ? 風邪とはいえ、こじらせれば厄介なことになりますから」
「ありがとう、クロード様。ですが、わたくしはもともと丈夫なのです。大きな病気をしたことは一度もありません」
「そういうことではなく……。いえ……、なんでもありません」
 髪に埋めていた顔を上げ、クロードはバイオレッタをしっかりと抱きしめたまま問うた。
「私からの贈り物は喜んでいただけましたでしょうか」
「ええ! とっても可愛らしいギフトで嬉しかったです」
「もしよろしければ、快復祝いにそちらのお茶を淹れて差し上げましょう。すみれの甘くてかぐわしい香りがするのですよ」
「まあ、ぜひお願いします。今ティーセットの支度を……」
 さっと腕から抜け出そうとするバイオレッタを、クロードは強く引き寄せた。
「……その前に」
「ん……っ!?」
 突然ちゅっと音を立ててキスをされ、バイオレッタは身じろいだ。
 軽く食らいつくと、クロードはその唇をやんわりと吸った。
「ん……!」
 唇をクロードのそれに柔らかく挟み込まれて、バイオレッタは煩悶した。
 間近で感じる彼の体温と吐息が、さらに羞恥を高めてゆく。
 が、そうこうしているうちに片手でうなじをしっかりと押さえ込まれてしまい、バイオレッタは仕方なしにその胸に手を添え、情熱的なキスに応えた。
(甘い……。熱くて、柔らかくて……、めまいがしそう……)
 クロードの唇は弾力があってしっとりと柔らかかった。触れ合わせていると心地よく熱く、唇が離れていく度になんだか不安になってしまうほどだ。
 そんなことを考えていたせいか、無意識のうちにクロードの唇に吸い付いてしまう。
 つたなくも必死な愛情表現に触発されたのか、クロードはより勢いをつけて口腔を貪りだした。
 サラの呆れたようなため息も。侍女の歓声も。己の心音さえ。
 ……もう、何も聞こえない。
 かろうじて聞こえるのは互いのくぐもった愉悦の声、そして二つの唇のあわいで生まれる口づけの音だけだ。
 やがて、クロードの唇が静かに離れてゆく。
 彼は緩やかに身を放すと、濡れた唇のままでバイオレッタに微笑みかけた。
「先日は味わわせていただけませんでしたので。ですが、これで私もようやく満たされました」
 そううそぶくと、クロードは自らの唇をぺろりと舐める。
 妖艶でありながらもどこかおどけたようなしぐさに、バイオレッタは思わずくすくすと笑った。
「もう……、仕方のない方ですわね」
「ふふ。さしずめ、紅茶をいただく前にデセールデザートをいただいてしまったというところでしょうか」
「またそんなことをおっしゃって……」
「はは……!」
 軽やかに笑い、クロードはバイオレッタの手を引いた。
「さて、今度こそ本当にお茶にしましょう」
「はい!」
 
 革張りのソファーに並んで座り、二人は幸福な午後のひとときを謳歌する。
 その袖を軽く引き、バイオレッタはおずおずと彼の名を呼んだ。
「クロード様……」
「なんですか、私の姫……?」
「……好きです」
 悪魔じみて美しい黒衣の魔導士は、そこで満足げに微笑んだ。
 傍らの王女を抱き寄せ、しっとりと濡れた美声をその耳へと吹き込む。
「ええ、存じ上げています……」
 耳朶をくすぐる吐息と唇に、菫の王女は無邪気であどけない笑い声を立てた。
 
 
 
 
 
 

 

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