ようやく菫青棟にたどり着いたクロードは、扉の前でこほんと咳払いをした。
クロード同様バイオレッタも薔薇が好きなようで、ここに立つとそのよい匂いがふわふわと鼻腔をくすぐってくる。
見れば、いつか贈った私邸の薔薇が盛りだった。ちゃんと世話をしてくれているのだと知って嬉しくなる。
「……ああ、また何か贈り物を持ってくればよかったでしょうか。何せ三日ぶりですし、お互い話題に困ってしまいそうですね」
花でも菓子でもいいから、何か一緒に愉しめるものを持参すべきだった。
バイオレッタは十七という年相応の可愛らしく無邪気な少女だ。
そのため、クロードが話題を提供するとすぐに食いついてくることが多い。
何か彼女の興味を引ける小道具でもあれば、もっと会話が弾んだかもしれないのに……。
そうしてクロードがあれこれと思考を巡らせていると。
「まあ、クロード様!」
「……姫!」
居住棟の庭先から、バイオレッタが微笑んでいた。
「これからお茶にしようと思っていたところなのです。よろしければ一緒にいかがですか?」
「ええ……、喜んでご一緒させていただきます」
とくとくと逸る胸をなだめ、クロードは彼女に近寄る。
と、そこで紅い髪の少女がすかさず身を乗り出した。
「あれー、あんた、また薔薇後宮に来てたの? 相変わらず暇人なんだから」
くすくすと笑って挑発してきたのは、バイオレッタの異母妹、第四王女のピヴォワンヌだ。
といっても、その性格はバイオレッタとは正反対である。快活といえば聞こえはいいが、ピヴォワンヌはとにかくうるさい。そして言動に全く品がない。
バイオレッタは可愛い可愛いと言ってしきりに褒めるが、クロードにはどうもその感覚がわからなかった。
大体、こんなに口が悪くてつっけんどんな姫を、一体どう誉めそやせばいいというのか。
ユリウス公子はバイオレッタを「可愛げのない女だ」と評したが、クロードに言わせればバイオレッタなどまだましな方だ。
真に可愛げがないのはむしろこのピヴォワンヌの方だろう。何せ彼女は、いつも男のことを馬鹿にしてばかりなのだから。
(私は忘れていませんよ、ピヴォワンヌ様。いつぞやかの舞踏会で貴女が私の頬を張り飛ばしたことを)
あれは衝撃だった。まさか女――それもこんな年下の少女に手を上げられるとは思ってもみなかった。
あの夜は甘んじて受け入れたが、平素であれば絶対に許さないところだ。
受けた屈辱は必ず倍にして返す。それがクロードのモットーなのである。
「たまには真面目に仕事したら? バイオレッタに愛想尽かされても知らないわよ」
そう言ってせせら笑われ、クロードは口角を上げてやり返す。
「おや、そういうピヴォワンヌ様こそ、随分姫にご執心のようで」
「そりゃそうよ。バイオレッタは素直で本当にいい子なの。あんたみたいな変質者に付け狙われちゃ可哀想だものね」
「その熱意をもう少しばかりご自分にも向けられてはいかがでしょうか。がさつで礼儀作法のなっていない姫など、みなに馬鹿にされるだけですよ」
「なんですってー!?」
「事実でしょう」
「ちょ、ちょっと……! こんなところで喧嘩しないでください……!」
おろおろと仲裁に入りながら、バイオレッタが言う。
彼女は根っからの平和主義者で、むやみに人を攻撃するのをよしとしないところがある。そんなおっとりとしたところも、クロードには好ましかった。
自分とは真逆な気質を持つバイオレッタは、誰に対してもとても優しい。腰も低いので、相手に余計な威圧感を与えることがない。
一部の人間には「お人好し」と一蹴されてしまうこともあるようだが、それにしてもいい性格をしている、と思う。
そこでバイオレッタは、二人を交互を見つめながら言った。
「そういうわけだから三人でお茶にしましょう。ピヴォワンヌ、手伝ってちょうだい」
「はーい」
二人は手際よくお茶会の支度を始めた。
庭にテーブルを設え、レースのクロスをかけて隅に寄った皺を直す。
そしてバーナーの上にケトルを据えると、あっという間にお茶を淹れる準備を整えてしまった。
「……あっ、あの、クロード様。よろしかったらこちらへ」
ぼそぼそと言われ、クロードは一瞬首を傾げる。
が、彼女が必死に自らの隣の席を勧めてくれていることに気づき、とうとうくすりと笑みをこぼしてしまった。
「ありがとうございます」
円卓なのでどこに座ってもさほどの距離はないのだが、それでも嬉しいと感じる。否、こんな風に直接隣に座ってくれとねだられて、嬉しくないはずがない。
(ふふ……。可愛いことをおっしゃる方だ)
クロードは顔をほころばせたまま椅子に腰を下ろした。
やがて、数名の侍女がワゴンを押しながらやってくる。
たっぷりと飴がかかったサン=トノーレ、焦がしたてのクレーム・ブリュレに旬の白桃を使ったトルテ。マカロンにルスキーユ、薔薇のジャムを乗せた小さなパイに、紫色が美しいすみれの花の砂糖漬け……。
侍女によって運び入れられる目もあやな菓子の数々に、二人の姫はほうっと感嘆の吐息を漏らした。
侍女はそのいくつかを銀製のティースタンドに恭しく載せた。同時に、菓子を取り分けるための小皿を数枚テーブルの上に置いてくれる。
かすかな音を立てて、バイオレッタは手ずから紅茶を注いだ。クロードが以前教えた通り、『ゴールデン・ドロップ』と呼ばれる最後の一滴までしっかりと注ぎきる。
人数分注ぎ終えると、バイオレッタは洗練された手つきでカップを二人の前に置いた。
「さあ、お茶にしましょう! どうぞお好きなように召し上がってくださいね」
「ありがと! いただきまーす!」
「ありがとうございます。いただきます、姫」
クロードは大ぶりの薔薇模様が描かれたブルーのカップを取り上げ、こくりとひとくち嚥下した。
力強くしっかりとした味わいなので、添えられたミルクをとぷとぷと注いでミルクティーにする。
「大変美味ですよ、姫」
「まあ、よかった! わたくし、少しは上達しましたか?」
「ええ。繊細な味わいがよく抽出されていますし、この香りもいいですね。適温のお湯で茶葉をしっかりジャンピングさせることが肝要なのですが、こちらは大変よいお味になっていますよ」
「よかったわ。お湯の温度って難しいですわよね。温度が低いのもいけないけれど、沸騰させすぎも駄目だとか。まだまだ勉強してみてもよさそうですわね」
クロードはにこりとした。
「チャイやアイスティーの淹れ方なども、ご興味があるようでしたら今度お教えしましょう。菫青棟で皆様とくつろぐ際にお召し上がりになられてもよいかと……」
「チャイって、あのスパイスを入れたミルクティーのことでしょう? まあ、嬉しい! ぜひ教えてくださいませ!」
そこでピヴォワンヌがショコラ・プラリネにフォークを差しながらぶつくさと言った。
「あーもう、嫌な奴が来ちゃった。いい気分が台無し」
「そうおっしゃらず、仲良くしましょう? 姫もそれをお望みのようですし」
そう言って微笑んでやると、ピヴォワンヌは白けた顔でクロードを見た。
「これだから陰険男は嫌いなのよ。バイオレッタもバイオレッタだわ、どうしてこんな男にいい顔するんだか」
「え? ピヴォワンヌ、どうしたの?」
姉姫の問いかけに、彼女はふるふると首を振る。
「なんでもない」
ふいと顔を背け、ピヴォワンヌはケーキにぱくりと食らいつく。
そして小さな顎をもごもごと動かしながら紅茶を啜った。
「こちらは城下で新しく売り出されたボンボンだそうです。この前専門店から取り寄せてみましたの。よろしければお召し上がりになってみてください」
「ええ。ありがとうございます」
クロードはバイオレッタの勧めを受けて、『愛の微睡み』という名のボンボンをつまんで口に運んだ。歯を立てるとさっくりと音がして、中から濃密なリキュールが溢れ出る。
そこでクロードはやおらティーカップを傾けた。口内に蕩けだすほろ苦いカシスリキュールを、まろやかな濃さのミルクティーでマリアージュさせる。
クロード自身、酒はさほど得意ではなかったが、こうして菓子に使われているものは好きだ。ほどほどの洋酒は菓子の風味を向上させるうえ、紅茶との相性もすこぶるよい。
私邸でくつろぐ際、クロードも紅茶の供にボンボンをつけてもらうことがあるが、この二つが合わさるとえもいわれぬ味わいになる。ふくよかで薫り高い味わいになるのだ。
紅茶にひとしずくリキュールを落とすのも悪くない。やはり酒と紅茶というのはそれなりに馴染みやすい組み合わせなのだと思う。
そこでふと悪戯を思いついて、クロードはボンボニールの中からボンボンを一つつまみ上げた。
「姫、お口を開けて。食べさせて差し上げます」
「ええ? そんな、いいですわ。ボンボンくらい一人で――」
「私がそうしたいのです。執務で疲れた男の心をどうか癒してください」
だが、バイオレッタは頑として応じない。
「そんな……、今はそんなことをなさらなくてもいいですから。ただでさえお忙しいのにかえって疲れてしまいますわ」
「せっかくお会いできたのに、貴女を可愛がってはいけないのですか? 貴女と触れ合える一瞬をずっと心待ちにしていたのですよ?」
「ゆ、誘惑しないでください……。こんな、日が高いうちから……」
「おや。では夜なら? いつかのように夜更けに誘惑すれば、貴女はそれに応えてくださるということですか?」
「……!」
クロードのささやきに、バイオレッタは返答に詰まってもじもじと横を向く。いつぞやかの夜のことを反芻しているのだ。
あの夜、彼女はネグリジェ一枚というなんともそそる格好で強く抱きついてきた。クロードの鉄壁の理性をやすやすと取り去るかのような、見るも艶やかな夜着姿で。
本当に惜しいことをしたものだと、折につけクロードは残念な心地になる。あのまま契りを結んでいればと、おかしな後悔に苛まれてしまうのだ。
そんなクロードの不埒な表情を悟ったのか、バイオレッタが声を上げる。
「あ、あの日のことは……忘れてください。その、わたくしも気が動転していたというか、正気ではなかったというか。とにかく、いつもとは違う心境だったのです! だからあんな、変なことを――」
「ああ……なんとお可愛らしい方なのでしょう。そんなお顔を見せられては、私とてその気になってしまいますよ」
「だから違……っ!」
顎に手をかけ、くいと持ち上げてささやいてやる。
「こんなに赤いお顔をなさっていらっしゃるくせに違うのですか? 貴女だって何か期待していらしたのでは? ふふ……」
もう嫌だとばかりに、バイオレッタがクロードの手から逃れる。
カヌレに手を伸ばしていたピヴォワンヌが訝しげに眉宇をひそめた。
「あんたたち、何の話してるの? あたし、全然ついていけないんだけど……」
「ななな、なんでもないのっ……! ちょっと内緒の話をしていて……」
クロードは小さく笑って、取り上げたボンボンを自らの口内に押し込んだ。
歯を立てればさくっと儚げな音を立てて糖衣が崩れる。カシスのリキュールはその華やいだ味わいでクロードの舌を悦ばせた。
彼はそこでいささか身を乗り出してバイオレッタに問いかけた。
「では、方法を変えましょうか。姫。貴女が私にしてほしいことを一つだけ挙げてみてください」
「してほしいこと……?」
クロードとて、たまにはそれくらいの奉仕精神も見せる。否、最愛のこの姫相手なら、いくらでも奉仕してやりたいとすら思ってしまう。彼女の喜ぶ顔を見るのが快感だからだ。
真面目なバイオレッタはすぐさまうーん、と考え込み、少し経ってからぱっと顔を上げた。
「そうだわ、魔術を見せていただけませんか?」
「魔術を……?」
「ええ。わたくしはまだじっくり拝見したことがないので、ぜひ見てみたいです」
恋人に願うにはあまりにも欲のない望みだと思ったが、クロードは低く笑ってそれに応えた。
「……それでは、お望みのままに」
クロードはすいと片手を上空に掲げた。
「集え、闇よ。ひとときの幻想と享楽をわが手に――」
彼はそう文言をささやき、魔力をたなうらに集中させた。
見る見るうちにその手中に紫色の影が凝ってゆく。適当な大きさになったところで、クロードはそれをバイオレッタの手にぽとりと落とした。
「これは……」
「闇で織り上げた薔薇の花です。姫の瞳のお色に合わせて紫にしています。どうぞお受け取りください」
花弁に金の輝きを纏った薔薇の花は、いかにも年頃の少女が好みそうな形をしていた。色は濃紫で、ブラックベリーによく似た色をしている。
花弁の縁にまぶされた金粉を指でつつきながら、バイオレッタは楽しそうに笑う。
「すごいわ……、綺麗です! なんておしゃれな魔術なの……!」
いささかの自信を得て、クロードは身を乗り出す。
「他にも様々なことができるのですよ。幻を見せたり、深い眠りにいざなったり……、媚薬のように人の心を酔わせることだって……ふふ」
「えっ……、そ、それは……。御冗談、ですわよね?」
「さあ、どうでしょう。確かめてごらんになりますか?」
愛しの姫の手を取って自らの胸元にあてがわせる。彼女は見ていて可哀想なほど赤くなった。
「あああ、あの……っ!?」
男の胸に触れているというのが恥ずかしくてたまらないらしく、バイオレッタはその手を振りほどこうと躍起になる。
が、クロードはさらに強く胸を押し付けた。
「触って、姫。ほら、私の胸が強く脈打っているのがわかるでしょう……?」
「やっ、は、放して……!」
「貴女を想うがゆえに、この胸はこんなにも熱く高鳴っているのです。そう、人を惑わす術など使わずとも、貴女こそが私を駆り立てる唯一の媚薬だ……、ほら、こんなに……」
「いやぁっ……、そんな、本当にやめてくださいっ……、こんな、恥ずかしい……!」
バイオレッタは慌てふためいた。
懸命に目をつぶり、半身をのけぞらせてクロードの誘惑から逃れようとする。
その様子を、クロードは嬉々として眺めた。
ああ、可愛らしい。なんといじめがいのある少女なのだろうか。こうも過剰に反応されると逆に愉快な気分になってしまう。もっとぎりぎりのところまで追いつめてやりたくなってしまう。
「そのように愛らしいことをなさってはいけませんよ、姫。もっと困らせたくなってしまうではありませんか……」
「手を、放してくださいっ……!! と、殿方の身体にこんな風に触るのは、わたくしは……!!」
「いいえ、どうぞ? 貴女は私の主も同然……。どこに触れようが自由なのですよ。どうぞ貴女の好きにして、姫……」
クロードがさらに勢いづいたとき、横から小さな影が割って入った。
「やめなさいよ、そんな痴漢みたいなことっ!!」
「何いやらしいことしてんの、この腹黒魔導士はっ!! ほら、とっとと手ぇ放して!!」
ピヴォワンヌは頬を紅潮させてうつむく姉に、ぴしゃりと言い放つ。
「あんたもあんたよ、男の胸なんか触って喜んでちゃ駄目でしょ!!」
「ご、ごめんなさい。喜んでいたつもりはないの。ただ、クロード様があんまりふざけるものだから……」
「そうやってこいつに流されるのはやめなさい! あたし、いっつも見ててはらはらするんだから! 大体、もっとそっけない態度で応戦しなきゃダメでしょ! そうやってきゃあきゃあ言ってるからつけ込まれるんじゃない!」
「ごめんなさいっ……!」
クロードは二人に悟られぬようにふふ、と低く笑んだ。
バイオレッタは先日、きちんとクロードの想いを受け入れてくれた。クロードだけのものになると誓ってくれた。
それを思えば、ピヴォワンヌにいくら罵倒されようが痛くも痒くもない。今をしのげば、あとはバイオレッタと思う存分じゃれあえるのだから。
(……今はこのまま、健全なお茶会を愉しむとしましょう。もう肝心の姫の心は手に入ったのです、ピヴォワンヌ様がどんなに牽制なさったところで無意味と言えるでしょう)
そんな思惑を知ってか知らずか、ピヴォワンヌがキッとクロードをねめつけた。
「何ニヤニヤしてんのよ! 女の子をこんな風に困らせるなんて、あんた一体どれだけ性格が悪いの!?」
クロードはただ笑って受け流す。
クロードとて、ただ性格が悪いから困らせているのではないのだ。愛しているからこそいじめたくなるし、からかいたくもなる。こっちを向けとばかりにちょっかいを出したくなる。
ただ慈しむばかりが愛情ではない。このいびつな感情も含めて『愛』なのだから……。
その時、金茶の髪を編み込んでまとめた妙齢の美女がやってきた。……ピヴォワンヌの筆頭侍女であるダフネだ。
「ピヴォワンヌ様。わたくしです。こちらにいらしたのですね」
呼びかけられ、ピヴォワンヌがさっとそちらを見る。
「ダフネ。どうしたの?」
「先日いらした教師が、ダンスの作法と身づくろいについて一言申し上げたいことがあるそうなのです。お愉しみのところ大変申し訳ないのですが、急ぎお越しいただいてもかまいませんか?」
「ええ? やだ……、またお小言かしら。行きたくなぁい……」
ピヴォワンヌはダンスが下手だ。躍動感とリズム感だけは素晴らしいものの、教師の足を踏みつけたり荒っぽいターンをしたりと何かと問題点が多い。
しかも、きちんと盛装させてもすぐに手袋を外したがるという悪癖があって、正直淑やかな姫君とは言いがたい。
彼女は渋々立ち上がり、二人に声をかけた。
「しょうがないからちょっと行ってくる。戻ってこなかったら、お菓子全部食べちゃっていいから」
「わかったわ。残念だけど頑張ってね、ピヴォワンヌ」
姉の言葉にうなずき、彼女はダフネに伴われて紅玉棟へ向かった。
「さて……これでようやく二人きりですね、姫?」
「うう……」
余裕たっぷりに微笑んでやると、バイオレッタは所在なさげにぎゅっと身をすくませた。
その怯えた目すら心地よくて、クロードの唇から満足げな吐息が漏れる。
「そんなに嫌そうなお顔をなさらずともよいではありませんか。せっかくのお茶会なのですから愉しみましょう?」
クロードはそう言って手袋を取り去った。
「早速ですが、貴女にボンボンを食べさせて差し上げても?」
「ええっ……?」
「先ほどはさせていただけませんでしたので」
「そんなことがしたいだなんて……、もう……」
バイオレッタは唇を尖らせていたが、すぐにその小さな口をおずおずと開けた。
「もう少し大きく開けていただけませんか。それでは入りません」
「……!」
バイオレッタは赤面し、渋々といった体で大きく口を開ける。
クロードはくつりと嗤ってボンボンをその口元に運んでやった。
糖衣で固められたそれを小さな口腔へ押し込み、ついでとばかりに自身の指先を軽くねじ込む。
「ふぁっ……!?」
「どうぞお召し上がりください」
「んん……っ」
バイオレッタはあまりのことに息を乱し、眉根を寄せて懸命に耐えている。
「甘いですか、姫?」
こくこくと何度かうなずき、彼女は涙目でクロードを見た。
桜桃の唇が、クロードの指に吸い付く。長い指先をちゅっとしゃぶる。
そのさまを、クロードは瞳を細めてうっとりと眺めた。指先に感じる口腔の熱さと快さに耽溺する。
そうしている間に、彼女の噛みしめたボンボンからカシスリキュールが溢れ出て口腔に広がってゆく。
赤紫色のリキュールにまみれた指先を引き抜くと、クロードはこれ見よがしにちろりと舐めてみせた。
「確かに美味ですね。貴女と同じで、人を酔わせる味がする……」
「いや! やめてください……、そんな……! だめです……!」
「まさかこの程度の戯れに抵抗があるのですか? 私は貴女を困らせるようなことは何もしていないのに」
「だって、ただキスをするよりも、その……」
言葉の先はすぐに想像がついたが、クロードは艶めいた笑みで受け流す。
「それなら黙って私とキスをするのですね。そうすればこんな羞恥に煩わされる心配もなくなります」
「もう……、酷いです……。最初に仕掛けてきたのはクロード様の方なのに……」
そう言いつつもバイオレッタは、魔術にでもかけられたかのようにのろのろと立ち上がった。
クロードのそばまで静かに歩いてくると、両肩に小さな手を添える。
座したままのクロードの顔を手でわずかに上向かせると、彼女はついばむような口づけを繰り返した。
「んっ……」
その必死な様子に、クロードの頬が緩む。
何度かキスを贈られたところで、彼はゆっくりと立ち上がった。
バイオレッタの柔らかな身体をぎゅっと抱きしめ、胸の中に閉じ込めてしまう。
逃げ場をなくしたバイオレッタは一瞬だけ抵抗するそぶりを見せたものの、すぐにクロードの肩に手を置いた。
控えめに、けれどもしっかりと言う。
「……ほ、本当はわたくしも、こうやってキスがしたかったのです……」
「ふふ、本当に?」
「ええ……。だって、寂しかったから」
普段は「誇り高くしっかり者の姫君」といった態度を崩さないバイオレッタが、自分の腕の中でだけ蕩けたような顔つきになる。クロードの仕掛けた戯れに興じ、夢見るような甘い瞳で愛を乞うてくる。
清純な乙女が自らに心を開いてゆく過程もまた楽しく、クロードの瞳はらしくもなく物欲しげに細められた。
(……まるで清らな女神を堕落させているかのようだ)
クロードの与える愛に、バイオレッタは同じくらいの熱量でもって懸命に応えてくる。
恋慕の情を呼び覚ましたのはあなただと言い、クロードの心に献身的に寄り添おうとする。
自分が今抱いているのはそんな女性なのだと思ったら、胸の裡が悦びにさざめいた。
たまらずクロードはそのおとがいに手を添えて上向かせる。
動揺に揺れるすみれ色の瞳を覗き込み、あやすように何度も愛の言葉をささやく。
髪を撫で、背をさすり、じゃれつくように額同士をこつりと触れ合わせる。
そうこうしているうちに、バイオレッタの身体からくたりと力が抜けた。
「クロード様……、好き……」
「いい子ですね、私の姫は……」
「あっ……」
クロードはバイオレッタの細い腰をしっかりと抱くと、その後頭部に手を添えた。そのままぐっと引き寄せる。
そしてちゅっ、と音をさせてその果実のごとき唇をついばんだ。
バイオレッタを怯えさせぬよう、最初は触れ合うだけの穏やかなキスを繰り返す。
「あ、クロードさま……」
どこか舌足らずな声音が愛らしく、ふっくらとした唇を食み、さらに深く舌を差し入れる。劇的に激しくなった口づけに、バイオレッタが身じろいだ。
「ふぁ……っ」
苦悶と愉悦が混じり合ったような甘い声に、クロードの枷はあっけなく外れた。
小さな口内を舌でまさぐると、バイオレッタの身体が柔らかく崩れるのがわかる。
「んん……!」
さらに執拗に口腔を貪ると、不慣れな彼女は瞬く間に胸を喘がせる。せわしなく上下する胸郭の上、真珠を連ねた首飾りがしゃらりと鳴った。
息苦しいのか、その眦はうっすらと湿っている。口づけが激しくなると、彼女はいやいやと首を振ってクロードから逃れようとした。
なんと愛らしい生き物だろうかと、クロードは一旦唇を解放してやりながら考える。
キスで蕩けてどこかぼんやりとしている瞳、濡れて半開きになった唇。
抱きすくめるとふるりと震える、丸みのあるふっくらとした身体。美しい曲線を描く、折れそうに細くなよやかな腰……。
そのどれもが、クロードを惹きつけてやまない。
バイオレッタの美点ならいくらでも思いつきそうで、ふと恐ろしくなる。
「クロード様……」
バイオレッタはクロードの瞳を見つめて、恍惚としたため息をつく。
そのうっすらと開いた唇に、クロードの目は釘付けになった。
普段は慎ましく閉じられているのに、バイオレッタの唇はひとたび口づけると艶(あで)やかに花開く。クロードの情熱を受け止めるばかりか、さらなる高みへといざなおうとする。
……本当に堕落させられているのは、もしかしたら彼女ではなく自分の方なのかもしれない。
再びゆっくりと唇を重ねながら、クロードはふとそんなことを考えた。
穢れのない無防備な顔つきのまま、バイオレッタはどこまでもクロードを惑わす。クロードがひた隠す素顔をあっけなく暴き出し、あまつさえ一人の女を本気で愛するという前代未聞の暴挙に及ばせる。
夜会の度に泡立つような嫉妬を彼に味わわせ、そのくせ「どうしてあなたがそんな風に怒っているのかわからない」などとのたまう。
悪戯で魅惑的で、おまけに自らの美しさにはまるで無頓着で。
……まさしく永遠の宿命の女だ。
彼女たちは最初こそ清純な乙女のふりをして男の前に現れるが、最終的には相手を堕落させ、身も心も徹底的に破滅させてしまうという。
バイオレッタの愛し方はまるで彼女たちのそれだった。
(ああ……なのに、そんな貴女が愛おしい。愛おしくてならない……!)
重ねる唇は、まるで質の悪い媚薬だった。
熱い衝動を滾らせたまま、彼はひたすらその唇を味わいつくした。
思う存分堪能したところでようやく唇を放すと、小柄な肢体がとさりとクロードの上にしなだれかかってきた。
あっけなく倒れ込んでくる華奢な身体を、クロードは抱き留めた。
バイオレッタはクロードの胸に手を添え、なんとか身体を支えている。
「クロード様……」
情熱的な口づけの余韻に浸るように、バイオレッタはうっとりと瞳を閉ざした。両腕をゆっくりと持ち上げ、クロードの首筋に巻きつけてくる。
荒く乱れた吐息が喉にかかり、白銀の髪がさらさらとクロードのおもてをくすぐってくる。
その背をそっと撫でてやりながら、クロードはつぶやいた。
「リキュール入りのボンボンなどより、貴女のお口の方がよほど美味だ……。こんな風に味わっていたらすぐに酔わされてしまいそうです……」
クロードとしてはほとんど本気の賛辞だったというのに、バイオレッタは呆れたように笑うばかりだ。
「も、もう。すぐにそんなことをおっしゃるのですから」
「私の手で貴女を骨抜きにしてしまえたらいいのに。私だけが愛しいと言わせることができたらいいのに……」
「……そんなことをなさらなくたって、もうとっくに骨抜きですわ」
恥ずかしそうにそう言い、バイオレッタはクロードの唇についた口紅を指で拭ってくれる。
(嘘つきな姫……。アベルにキスを許したくせに……)
ついそんな恨み言が口を衝いて出そうになる。バイオレッタが知れば思わず眉をひそめるであろう恨み言が。
クロードはなめらかなバイオレッタの頬を指で撫でさすった。
あんな飄々とした男がこの柔肌に唇をつけたのかと思うと苛立たしくなる。全く油断も隙もない男だと、クロードは一瞬だけ険しい表情になった。
清めるつもりで両頬に交互にキスをすると、バイオレッタが「クロード様?」と怪訝そうな声を出した。
その指先を取り、クロードは再度彼女にねだった。
「姫。もう一度貴女の唇を確かめさせて……。貴女の素晴らしいキスを、どうかもう一度私に与えて……」
バイオレッタは「もう……」と形ばかりの拒絶を示したものの、すぐにそうした。少しだけ背伸びをして唇を重ねてくる。
結局、二人の戯れはピヴォワンヌが戻ってくるまで延々と続けられることとなった。
***
「ふう……。今日もそれなりによい一日でしたね。なんとか姫ともお会いできましたし……」
湯浴みを終えたクロードは薄手のブラウス姿のまま寝台に腰を下ろした。
あれから王城に戻ってやり残した仕事を片付け、魔導士館で一日の報告を聞き、主であるリシャールに別れの挨拶を済ませてから城を出た。
やっとこの私邸に帰ってこられたのはちょうど夜に差し掛かった頃だった。
夕食を摂り、密かに「魂の浄化」と呼んでいる湯浴みの儀式を終え、素肌に愛用の香水をたっぷりと吹きつけたクロードは、ようやくのんびりと自分だけの時間を持とうとしていた。
今夜はこの後どうやって過ごそうかと、クロードは考える。
書斎で本を読むのもいいし、寝酒の代わりにリキュール入りのショコラを味わうのもいい。
薔薇園に出てみるのも、集めた芸術品を愛でるのも。……今この時だけは何をしても自由だ。
「ああ、その前に髪を乾かさなくては……」
未だ生乾きの髪を手で梳き、首にかけたタオルで挟み込んで水気を拭きとる。
そんな地道な作業を丹念に繰り返していると。
「旦那様」
「クレメンス。どうしました?」
立ちすくんだままの家令をうかがい見る。彼は包装紙のかかった小さな包みを手に近寄ってきた。
「第三王女殿下から贈り物が届いております」
「……姫、いえ……、バイオレッタ様からですか?」
クレメンスはこくりとうなずき、恭しく包みを差し出した。
昼間会った時には何も言っていなかったはずだが、と、クロードは十字にかけられたリボンをほどき、ペールヴァイオレットの包装紙を手で剥がしながら考える。
包装紙をすっかりめくってしまうと、小型の箱が現れる。
クロードはその蓋をゆっくりと開けた。
「……おや」
……そこには洒落たハンカチーフが収められていた。
ディムグレーの生地に細やかな純白のシャンティリーレースをふんだんにあしらったもので、隅には獅子のエンブレムが配置されている。
その下に入れられた「C・C」というイニシャルに、クロードは小さく笑ってしまった。
恐らくハンカチーフ専門店にオーダーしたのだろうが、出会ったばかりの頃と比べると随分積極的になったものだ。
あの頃は手にキスをしただけで可哀想なほど震えていたというのに……。
クロードは満足げなため息をつき、ハンカチーフを持ち上げる。
「ふふ……、これはまた随分と凝ったものをいただいてしまいました。私の姫は一体どのようなおつもりなのでしょうね」
その時、かさりと音を立てて紙切れが落ちた。
拾い上げて目を通す。
そこにはバイオレッタの字で何事か書き綴ってあった。
「先日は看病をしてくださりありがとうございました。
具合が悪くてなんだか心細い一日でしたが、大好きなクロード様のお顔が見られて嬉しかったです。最後まで面倒を見てくださったこと、本当に感謝しかありません。
こちらはあの時いただいたギフトのお返しです。よろしければお使いになってください。
またおしゃべりできる日を楽しみにしています。愛しています」
とてもあっさりとした書きぶりでそんな言葉が並んでいる。一見するとそっけない手紙だが、それはつまりは恋文なのだった。
彼女を看病した日のことやその後も連綿と続いた親密なやり取りなどから、クロードにはすぐにわかってしまった。最後の一文がほとんど本気の言葉だということが。
相変わらず紙面からは甘い花の匂いがして、クロードはそこで一日の疲労が一気に吹き飛んでしまったような気がした。
うっとりと瞳を細め、狂おしげに便箋の香りを嗅ぐクロードに、クレメンスが声をかける。
「旦那様」
「あっ、ああ……、クレメンスですか。どうしたのですか」
訊ねると、彼はぽつりと言った。
「……旦那様はその御方のことをお慕いしていらっしゃるのですね」
……慕うという言葉がはたしてこの想いにふさわしいのかどうか、それはクロード本人にもわからないことだった。
単なる愛情では片づけきれず、かといって友情でも親愛の情でもない、複雑な気持ち。
愛情とわずかな欲望が絡み合ったこの想いは、「恋慕の情」などという一言では到底表現できないものだった。
クロードはバイオレッタのことを「ただ」愛しているわけではない。
自らの深く強い感情を受け止めてくれる器として彼女を欲し、彼女を片時も放さず支配することを望んでいる。
それは依存であり束縛だ。確かに愛の一部ではあるのだろうが、自らの感情は「純粋な愛」などではないと彼は考えていた。
(……そう、依存とはすなわち支配。お互いを利用し合い、支配し合い、貪り合うことだ)
それを果たして「お慕いしている」などと呼べるのかどうかは彼にとっても甚だ疑問だった。
だが、彼がそうした不器用な愛し方しかできない人間であるということもまた事実だった。
「ひとまず旦那様の恋のお相手が国王陛下や同じ魔導士の殿方などではないようなので安心いたしました」
「……まだその話をしますか、クレメンス」
クレメンスは「少々心配しておりましたので」などと言い、わざとらしく何度か咳払いをした。
クロードの様子をうかがいながら、彼はおずおずと言う。
「旦那様。近頃の旦那様を拝見しておりますと、以前よりも笑顔でいらっしゃる時間が増えてきたように思えます。そして使用人たちにも前よりずっとお優しくなられました。これはよい傾向なのではないかと私は思います」
「……そう、ですか。ふふ……、私はけして根っからの善人などではないのですが」
「ですが、もしもその方が旦那様の御心に変化をもたらしたのだとすれば、それは大変喜ばしいことなのではないでしょうか」
「ええ……、そうですね……」
それも仕方のないことなのだ……、あんなに晴れやかで毒気のない笑顔を向けられてしまっては。
疑念も抱かず、おかしな駆け引きもせず、彼女はただただ自然にクロードを受け入れる。まるでそうすることが当たり前であるかのように。
そして、そうした人間が間近にいればクロードとて影響されてしまう。硬くささくれだった心を勝手に和らげられてしまうのだ。
かつて亡くした、最愛の恋人。
その面影をそっくりそのまま引き継いで彼女は生まれてきた。
これを運命と呼ばずして一体なんと呼んだらいいのか……。
まるで飢えた旅人が水を求めるように。そして蝶が蜜に吸い寄せられるように。
クロードは彼女に惹かれていた。
再び彼女と結ばれたいと望んでいた。
「……愛している。貴女を。貴女だけを……」
音を立ててハンカチーフに接吻するクロードを見つめ、クレメンスはまだ何か言いたげではあったが、家令らしく慎ましやかに唇を閉ざした。
闇の魔導士の一日は、こうして幕を閉じる。
……彼はまた、来るべき朝のために眠りに就く。
その日の出来事を反芻し、想い人の麗姿を眼裏に思い描きながら。