第三十一章 舞踏への誘い

 
「どうしよう、心臓がばくばくする……」
 そう言ってバイオレッタが身をすくめると、傍らのピヴォワンヌが苦笑した。
「大丈夫よ。相手だって男とはいえただの人間でしょ。そんなに硬くなることないわよ」
 
 
 ……今日はエピドートとクラッセルから女王の王配候補たちがやってきている。
 一人はエピドート国のカーティス王子。
 もう一人はクラッセル公国のユリウス公子である。
 二人はスフェーン女王の配偶者として現在最も有力な青年たちだ。今日の宴のためにそれぞれの国からやってきている。
 
(そういえば、どちらも大陸の西側にある国なのよね)
 
 エピドートは五大国の中でも唯一の島国で、文化は伝統的で風流なものが多い。バイオレッタが知る限りでは穏やかでのんびりした国といった印象である。
 一方、クラッセルは近年軍事国家として急速な成長を遂げている強国だ。海産物や毛皮などでも有名で、「洒落者の住まう国」として名高い。スフェーンと並んで流行をリードする国だ。
 
 リシャールは「好きに選べ」とは言ったものの、やはり臣下たちの中にはこの二国との結びつきを強固なものにしたいと考える派閥があるらしい。
 最初は首を傾げたものの、しかるべき出自の者をと考えるのは至極まともであろう。
 入り婿とは女王を支えて国を繁栄させるためのもの。ひいては大陸そのものを発展させるための存在なのだから。
 そのため、同じ五大国の王子や公子というのはその最有力候補といってよかった。
 今夜対面する王配候補たちに関してもそうだ。
 彼らはもともとの王位継承順位が低く、将来玉座にのぼる予定のない王族男性たちなのだそうだ。つまり、こうした政略結婚にはとても向いているのである。
 女王の婿に貴賤はあまり関係ないそうだが、それにしたって家柄というのは大切だ。
 そういう意味では彼らは申し分ない。血統といい身分といい、文句のつけようもないほど素晴らしい相手だ。廷臣たちの人選は至極秀逸だった。
 
 
(うう……。こんな派手な色にしないでって言ったのに)
 異母妹と並んで≪舞踏の間≫へ向かいつつ、バイオレッタは唇にそっと指先を持っていった。
 そこは薔薇色の紅で彩られている。王室御用達化粧品店特製、薔薇の香りつきの植物性の紅である。
 サラが気合を入れるあまりつけてくれたものだが、色が濃すぎるのではないかとだんだん心配になってきた。
 薔薇のほのかな香りだけは快いものの、こんなにきつい色の口紅など今までつけたことがなくて、なんだか気恥ずかしくもある。
 想い人のクロードが見たら一体どんな顔をするだろうかと、バイオレッタは心配になってきた。
 身づくろいが終わると、素肌の香りを引き立たせる柔和でパウダリーなオードトワレを全身に吹きつけられた。
 ふわりと柔らかくて郷愁的な香りのそれは、匂い菖蒲とすみれの香料が主となっている。
 これならバイオレッタの優しい性格をさらに際立たせてくれるに違いないと言い切り、サラはその香水をたっぷりとバイオレッタの肌に纏わせた。
 確かに上品でとてもいい香りだったが、目的が目的なだけに複雑だ。
 何故なら、こうしてめかし込んで向かう広間には、顔も名前もろくに知らない未来の夫候補が待っているのだから。
 
 ≪舞踏の間≫へ続く廊下を進みながら、ピヴォワンヌがぽんと肩を叩いてくる。
「まあ、お互いあんまり肩ひじ張らずにいきましょ」
「うう……、胃が痛い……」
 思わずお腹のあたりをさすると、腰を締め上げるコルセットの感触がまたしても緊張を加速させた。
 
 
***
 
 
 ≪舞踏の間≫に到着したバイオレッタたちは、まず父王リシャールに挨拶をした。
 上座には国王夫妻が鎮座ましまし、一段低い箇所に設けられた席には王太后ヴィルヘルミーネがゆったりと腰かけている。
 宰相や重鎮たちもすでに控えており、国王であるリシャールの発言を今か今かと待ちわびていた。
(……あ、クロード様)
 リシャールの傍らには、いつものようにクロードの姿があった。相変わらず影のように寄り添っている。
 彼はこちらに気づくとにこりとした。周囲に悟られぬよう、そっとバイオレッタを見つめる。
 
 想いを通わせあってからというもの、バイオレッタは今まで以上にクロードを目で追うようになっていた。
 それは彼の方も同じらしく、城や後宮などですれ違うとその都度こっそりと視線を送ってくる。たとえ言葉を交わしたり直に触れたりといったことができなくとも、バイオレッタはその視線だけで満足だった。
 彼はいつも、その視線だけで雄弁にバイオレッタへの想いを語る。いつか打ち明けてくれた通り、彼は本当にバイオレッタを目で追いかけているらしかった。
 
 彼に見つめられると、視線だけでそっと愛でられているような気分になってくる。饒舌なささやきなどなくとも、その瞳の色だけで全身に甘美な痺れが走る。
 バイオレッタは陶然としたため息をついた。
 
(ああ、なんだかもどかしい……。でも、お会いできて幸せだわ……)
 
 今すぐ駆け寄って話ができないのは残念でならないが、こうして元気そうな様子が見られただけでも満足だ。
 
 バイオレッタは気を取り直して、リシャールに夜の挨拶をした。淑やかに腰を折る。
「……お父様におかれましては、よい夜をお過ごしのようで何よりでございます」
「よい。おもてを上げよ」
 リシャールはいつものようにどこかぶっきらぼうに言った。
 やがてオルタンシアとミュゲが到着し、この夜のために招待された有力貴族たちが次々に広間を埋め尽くしてゆく。
 そこでリシャールは声高に宣言した。
「――それでは、宴を始めるとしよう」
 鷹揚に言い、リシャールは王女たちをさしまねき、広間の上段に集わせた。
 オルタンシア、ミュゲ、バイオレッタ、ピヴォワンヌ。
 四人の王女たちは、各々の美貌を引き立てる綺羅に身を包み、数々の宝飾品と選り抜きの香水で装っている。
 瑠璃色、翡翠色、薄紫色に蘇芳色。
 王女たちがリシャールのそばに立つと、玉座の周囲に色とりどりのあでやかなドレスの花が咲いた。
 居並ぶ宮廷の男たちは、ごくりと喉を鳴らして個性的な花々を見つめる。
「……なんとお美しいのだろう。あのような姫たちと一夜を共にできるなら、僕はすべてを犠牲にしたって悔いはない」
「ああ、私もだ。濡れたように艶やかな紫陽花姫、しっとりと憂いに沈む鈴蘭の姫。菫の姫はまだ貞淑な乙女といった風情だし、芍薬の姫は溌溂としてお可愛らしい。……あの中から一人選べと言われたって、私には到底できそうにない」
 視線に気づき、オルタンシアがこれ見よがしにふくよかな胸を反らしてみせる。身をくねらせることでより曲線の強調されたウエストに、貴族の青年たちの視線が一斉に集中した。
「……ふふっ。なんて素直な殿方たちなのかしら。あんなに正直だといっそお可愛らしいわね」
「あーあー、また始まったわ、オルタンシアの自画自賛が」
「自画自賛ですって? 事実でしょう。可哀想にね。貴女には色香というものがまるでないから」
 ピヴォワンヌの胸のあたりをちらと見やって、オルタンシアが嘲笑する。
 ピヴォワンヌは目を剥いた。
「なんですってー!?」
 ピヴォワンヌが低い声で憤る。彼女は本人が悩みの種にするほど胸が控えめなのである。
 バイオレッタは小声でフォローに回った。
「だ、大丈夫よ、ピヴォワンヌ! 十六歳ならまだいくらでも大きくなるわ」
「……ああもう、悔しいっ。オルタンシアなんかに馬鹿にされちゃうなんて」
 
 ミュゲはといえば、黙って広間の入口を見つめていた。
 バイオレッタはそこで先日の一件を思い出し、極力彼女を刺激しないよう務めた。
 
(……こうしている時、ミュゲ様って何を考えているのかよくわからないお顔をなさっている)
 
 単純に退屈を感じているのか、あるいは王配候補たちとの対面にあたって緊張しているのか。
 その白いおもてからは何も読み取れない。
 否、読み取らせないようにしているのだろうか。感情を他人に知られることに、恐怖を感じているのかもしれない。
 
(この方とオルタンシア様は『アウグスタスの姫』という蔑称で長年蔑まれてきている。簡単に他人を信用しない性格になっていても全然不思議じゃないけれど)
 
 むしろ人間の心理としてはそちらの方が正しい反応と言えるだろう。このポーカーフェイスは、きっと彼女なりの処世術なのだ。
 だが、一体自分の何が彼女を傷つけたというのだろう。ミュゲを傷つけたことなんて、これまでただの一度もないはずなのに。
 
 
「――王配候補の皆様が御着きになりました!」
 侍従の声に、バイオレッタはすぐさま居住まいを正した。
 開いた扉の向こうから、数人の従者を従えて二人の貴公子が歩いてくる。
 一人は黒髪にエメラルドの瞳の青年、もう一人はトリコルヌを頭に乗せた金髪碧眼の青年だ。
 前者はエピドート国の王子、後者はクラッセル公国の公子だそうで、いずれも現時点では女王の王配候補として最も有力な男性たちである。
 二人は悠々とした足取りで≪舞踏の間≫に入ってきた。
 緋色の絨毯を静かに踏み、玉座の前までやってくる。
 彼らはリシャールの足元に跪いた。
「国王陛下、お会いできて光栄です」
「クラッセルからの献上品です。どうぞお受け取りください」
 口々に言って、二人はリシャールに書状や貢物を献上する。
「ほう、これはエピドートの絹織物か。繊細な光沢がなんとも美しいな。こっちは砂糖、そして茶葉だな。クラッセルからは真珠に毛皮、ガラス細工か。おお……これは……年代物の赤葡萄酒ではないか! クラッセルのものは特に味がよいから気に入っておるのだ。ありがたくもらい受けよう」
 リシャールはそうやってざっと貢物に目を通すと、二人に向き直る。
「それにしても……しばし見ぬうちになかなかに立派になったものだ。二人とも父王や母妃は息災か?」
「はい。おかげさまで」
「僕のところも元気にしています」
 二人は口々に言って、親しげにリシャールに微笑みかける。
 リシャールもうなずき返し、そこで隣席のシュザンヌをうかがい見た。
「オルタンシアやミュゲはもう何度も会っているのだったな」
 リシャールの言葉に、シュザンヌがにこやかに答える。
「ええ。五大国同士で国交もありますから、子供の頃から何度か一緒に遊んでますわ」
「では、バイオレッタとピヴォワンヌは積極的に会話をしておけ。そなたらはまだ王配候補たちについて疎いであろう。こやつらの人となりをよく理解しておくのだな」
「はい」
 バイオレッタとピヴォワンヌはおとなしく頭を垂れた。
 
 
 
 バイオレッタは踊る宮廷人たちを横目に、≪舞踏の間≫をあてどなくさまよい歩いていた。
 壁に使われた鏡に手を滑らせ、自身の盛装姿を映す。
「はあ……。なんだか場違いなほど派手な恰好だわ。わたくしらしくもない……」
 と、鏡の奥――広間の反対側の方に、自分をじっと見据える青年がたたずんでいることに気づく。
 エピドートの王子だ、と悟った瞬間、鏡の中で視線がかち合う。
「わっ……」
 目が合ってしまったと慌てていると、彼はまっすぐにこちらを目指して歩いてくる。
 バイオレッタは覚悟を決めると、くるりと振り返る。そして、居住まいを正して彼を待ち受けた。
 彼は優雅なお辞儀をすると、微笑んでバイオレッタを見つめた。
「こんばんは、スフェーンの姫。僕はカーティス・ロードリック・フォン・エピドート。エピドートの第三王子です」
「は、はじめまして、カーティス様。お会いできて光栄です」
 ややどもってしまったが、なんとか挨拶できた。
 黒髪にエメラルドの瞳をした彼は、朗らかに笑み崩れた。
「おや……緊張していますね? まあ、こうした場ではどうしてもそうなってしまいますよね。僕も初めて夜会に出た日は今の貴女のようでした」
「まあ、殿下もですか?」
「はい。僕はもともとそこまでしっかりした人間ではないもので。あ……。こんなことを言ってしまっては、王女様の手前、不利になるのでしょうか……」
 恥じ入ったようにカーティスは言う。
 が、バイオレッタはその素朴さをとても好ましく思った。
 
(気取ったところがなくて素直な方。このゆったりした話し方も好きだわ、なんだかほっとする……)
 
 人によっては覇気のないしゃべり方だと批判するかもしれないが、バイオレッタにはそれがかえって余裕あるものとして映った。
 きっと人間的に成熟していてせかせかしたところのない青年なのだろう。それだけでもスフェーンの青年たちとはかなり違う。
 
 カーティスは漆黒の燕尾服に身を包んでいた。エピドートではどうやらトラウザーズが好まれるようで、スフェーン宮廷の男性たちのようにキュロットなどは履いていない。
 首元にはモスリンのクラヴァットを粋に結び、ルビーをあしらった金のタイピンで留めている。カフリンクスにも揃いの細工のルビーが使われていた。
 
 カーティスは、侍従の差し出すトレーから薔薇のリキュールのソーダ割りを受け取ると、バイオレッタに勧めた。
「バイオレッタ姫も一杯いかがですか」
「あ……、いただきます」
 特に断る理由もないので、グラスを受け取って口をつける。甘酸っぱく爽やかなロゾリオの風味が口腔に広がった。
「面白いですよね、今回の試験は。女王になれなかった姫君は五大国をはじめとした異国に輿入れさせられるのだとうかがっています。僕の国にはこのような王位継承争いの方法というのはありませんから、ただひたすら興味深いです」
 正面を向いたまま、カーティスが言う。バイオレッタはロゾリオのグラスを握りしめながらうなずいた。
「ええ。お父様も前例がないのだとおっしゃっていましたわ。りゅうの制度を導入されたのだとうかがっています」
「なるほど。では、スフェーンを最初の例として、だんだんとこうした方法も広まってゆくかもしれませんね」
 カーティスはにこにこしながらそう言った。
「わたくしも復権したてではありますけれど、こんな珍しい瞬間に立ち会えて嬉しいと思う時もありますの。これを機に、大陸や五大国のあり方も変わってゆくかもしれないでしょう?」
「わかります。とても楽しみですよね。イスキア大陸はどんどん発展を遂げ、現在急速に変わりつつある。こうした奇跡的な場面を目の当たりにできるというのは、五大国の人間としては嬉しいですよね」
 二人はのんびりと笑い合った。
 
「……それにしても、敗北した場合は政略結婚をさせられるというのは不安ではありませんか?」
 カーティスの問いかけに、バイオレッタは素直にうなずく。
「ええ。それはもちろん、不安でないといえば嘘になってしまいます。ですが、もともと王女というのはそういうものですし、復権した以上仕方がないことかもしれませんわ。もしかしたらわたくし、女王になれなかった場合はそちらに嫁ぐことになるかもしれません」
 
 エピドートとクラッセルの二国は、古くからスフェーン王家と婚姻関係を結んできた列強である。
 となれば、バイオレッタが女王選抜試験で敗け、異国に嫁ぐことになった場合、夫となるのはこのカーティスかもしれないのだ。
 実際、今夜の舞踏会というのはそうした顔合わせの意味もあった。
 オルタンシアやミュゲはともかく、バイオレッタたち二人は五大国の王族の顔などほとんど知らないからである。
 
「僕が言うとただの自慢に聞こえてしまうかもしれませんが、エピドートはよい国ですよ。人も文化も穏やかで、風光明媚ないいところです。食事はやや素朴ですが、その代わり人々の気質が温かい国だと僕は思っています」
「まあ、そうなのですか。きっとカーティス様みたいなお優しい方がたくさんいらっしゃるのでしょうね」
「ひ、姫君……、そのようなことを言われると、なんだか照れてしまいます……」
 おっとりとカーティスははにかむ。
 
 仮にエピドートに輿入れすることになった場合、恐らく嫁ぎ先は彼か彼の兄弟のいずれかになるのだろう。
 この度の使者であるカーティスも、とても朗らかな気性の持ち主だ。それを思えば、エピドートの王族に輿入れするというのもそれはそれで悪くないのかもしれない。
 
(だけど、そうなったらクロード様とはお別れすることになってしまうわね……)
 
 もしそんなことになってしまったら、自分はどうするだろう。
 これも経験と思って割り切るのだろうか。失恋の痛みさえ、前を向いて生きていくための糧にしてしまうのだろうか……。
 そんなことを考えていると。
 
「……姫君が僕のところに来てくださったらいいのにと、今一瞬だけ思ってしまいました」
「ええっ!?」
「すみません……。だって、なんだか僕と気が合いそうだから。それに、とても淑やかでお優しそうです……」
 バイオレッタより少しばかり年上のカーティスは、そう言ってほんのりと頬を紅潮させる。
 なんと腰が低く謙虚な青年だろうか。年下のバイオレッタ相手でも驕ることがない。それどころか、バイオレッタの一挙一動に懸命に向き合ってくれる。
 控えめなところも好印象だった。かえって話しやすいと、親しみを覚えたバイオレッタはいささか身を乗り出した。
 
 その時。
「――おいおい、カーティス王子。僕にも自己紹介の機会をくれたっていいだろう?」
「あ」
 割り込むようにして間に入ってきたのは、豪奢なトリコルヌを被った青年だ。
 ……件のクラッセルの公子である。
 カーティスとは顔見知りらしく、公子はやや馴れ馴れしい調子で彼の肩を叩く。
「麗しい花を独り占めなんていけないな。エピドート紳士ともあろう君が」
「……いや、ユリウス。僕はそういうつもりじゃ」
「全く、君の国には恐れ入るよ。紅茶に砂糖、綿織物に絹織物。素知らぬ顔してどれもちゃっかり利益を増やしてるんだからね」
 青年は鼻先で笑うと、カーティスを押しのけてバイオレッタの前に出る。
「ごきげんよう、姫君。僕の名はユリウス・ガルデンツィオ・フォン・クラッセル。クラッセル公国から参りました」
 彼――ユリウスは、トリコルヌを取って優雅な一礼をした。
 豪奢な金髪は、軽く鏝を当てたのか緩いカールがかかっている。瞳の色はダークブルーで、どこか冬の夜空を彷彿とさせた。
「はじめまして、ユリウス様。遠路はるばるようこそお越しくださいました」
 慌ててドレスをつまんでお辞儀をする。
 ……気のせいだろうか、ユリウスが冷笑したような気がしたのは。
「早速ですが、僕と踊っていただけませんか」
 ユリウスは尊大に言って、ずいとバイオレッタの前に歩み出た。
 傍らのカーティスが息をのみ、一瞬だけ切なそうな顔になる。
 それを申し訳なく思いながらも、バイオレッタはユリウスの差し出した手を取った。
「……はい、喜んで」
 
 
***
 
 
 クロードは忌々しげに舌打ちをした。視線の先には、身を寄せ合ってダンスに興じるユリウスとバイオレッタの姿がある。
 かれこれ数十分はこの調子で、例のクラッセルの公子はバイオレッタの手を片時も放そうとしない。
 
(同じ男性と立て続けに四回以上踊るのは禁じられている。よほど親密な仲ならいざ知らず、未婚の男女はまずしない行為だ……)
 
 社交界では同じ男性と何度ダンスをしたかで娘の本命が決まってしまう。つまり、娘と踊った回数が最も多い男が本命に近いとみなされるわけだ。
 それを思えば、ユリウス公子は乱暴極まりなかった。バイオレッタがいくら狼狽したそぶりを見せようが、おかまいなしに踊り続ける。
 バイオレッタは遠目にもはっきりそれとわかるほどぎくしゃくしていて、見ている方が哀れになった。
 
(リードは粗暴、会話する暇さえ与えない。これではまるで、パートナーの意向を完全に無視した自分本位なダンスですね。公子ともあろう者が、あのようにがっついてみっともない……)
 
 クロードは深々と嘆息した。
 ……晴れて恋人同士となって初めての舞踏会だというのに、相も変わらず彼はバイオレッタと距離を保ったままだった。
 恋人という権限を利用して王女とダンスを踊ろうなどという気もさらさらなく、彼女のことはただ遠目に見守るくらいでちょうどいいと考えている。想いを通わせあったとはいえ、クロードは恋人面をして必要以上に出しゃばるつもりはなかった。
 第一、何事も「秘すれば花」だ。こうした甘やかな関係まで公にしてしまっては興醒めというものだろう。
 もちろん、彼女に触れたい、言葉を交わしたいといった願望はある。
 だが、軽率な行動で今の関係を壊したくなかった。
 
「それにしてもおいたわしい。踊る速度が違いすぎますし、姫の脚も何度ももつれていらっしゃる。公子のくせにそんなことにも気づけないとは嘆かわしいことですね」
 そこでクロードは表情を険しくした。
(もしや姫に迫る気なのだろうか?)
 端的な思考回路かもしれないが、クロードにはそう思えてならないのだ。
 女王候補はオルタンシア、ミュゲ、バイオレッタ、ピヴォワンヌの四人である。中でも優柔不断でお人好しなバイオレッタが「御しやすい姫」に見えてしまうのは仕方ないだろう。
 婿の座を狙うとまではいかなくとも、一夜限りの相手として弄ぶのは容易い……バイオレッタはそんな娘なのだ。
 
「は……。痴れ者が……」
 口角を歪めて吐き捨てると、クロードは腕を組み直す。
「私の姫はあなたごときに靡くような方ではありませんよ、公子様。この私がいる限り、狼藉は働かせません。……断じて」
 
 
***
 
 
 バイオレッタは楽曲がやんだのをいいことに、大きな息をついた。
(こんなに何度も踊るなんて。しかも、リードが一方的だったから身体ががくがくしてる……)
 もしやクラッセル式の踊り方なのかと、バイオレッタは妙なことを考える。
 いや、そんなはずはない。舞踏の方法はスフェーンとそこまで大差ないはずだ――。
 
 その時。
「おやおや、どうやらお疲れのようだ。バルコニーで風に当たりましょうか、姫君」
 そこまで親しいわけでもないのに、ユリウスはぐいぐい手を引っ張ってくる。
「えっ、あ……!」
 脚がもつれて、バイオレッタは転びかける。大理石のタイルの上、繊細な作りのエナメルの靴がつるりと滑った。
 それでもユリウスが手を握る力を弱めないので、正直に白状する。
「お、お待ちになって、公子様……! その、先ほどから手が痛くて……」
「――ああ」
 公子はそこでぱっと手を放した。手のひらを返したような冷たい態度に、バイオレッタは深く傷つく。
「ご、ごめんなさい……。生意気でしたかしら」
 慌てて謝罪すると、ユリウスはせせら笑う。
「いいえ? 意外だっただけですよ。貴女にも意思なんてものがあるのですね」
「……!」
 バイオレッタはかあっと頬が熱くなるのを感じた。
「ただのお人形のような姫だと思ったら……。この僕に反抗するとはね」
「だって……女官長が言っていました。バルコニーやテラスには、本当に信頼できる殿方とだけ行くようにした方がいいと」
 
 愛を語らうために最も適した場所だから、というのもあるが、一番の理由としては薄暗くて何をされるかわからないからだという。
 ああした場所は人目につかないため、男女が隠れて何をしていても――さらに言うなら男性側に嫌がらせをされていても――気づかれにくいのだそうだ。
 
 ユリウスは不満げに鼻を鳴らした。
「……ふうん。じゃあ、僕は貴女にとって信頼できない男ってこと?」
「そ、そういう意味では――」
 バイオレッタが声を上げると、ユリウスの態度が一変した。
「いちいちめんどくさい女だな。いいから来いよ。こんなところでもったいをつけるんじゃない」
 ぐいぐい腕を引っ張られる。あまりの強さに、骨が軋んでしまいそうだ。
 
(いや……!! こんな怖い殿方の相手なんか、できない……!!)
 
 バイオレッタはとうとう涙目になった。クロードなら絶対にこんな暴挙に及んだりはしないのに……。
 だが、ここで王配候補を突っぱねてしまっていいのだろうか。クラッセル公国からの使者を拒絶などして本当に大丈夫なのだろうか。
 ここで彼の矜持をへし折るような真似をしたら、自分は罰されてしまうのではないか。
 ……そんな不安が頭をもたげ、バイオレッタが半ば諦めかけた時。
 
 
「――ユリウス殿下。そこまでにしていただけませんか」
「……!」
 
 いつかのように聞き慣れた声が降る。
「クロード様!!」
 バイオレッタは呆然とするユリウスの手を振り払い、クロードの方へと駆けた。
 彼はバイオレッタの身体を受け止めると、前髪をさらりとかきやってため息をつく。
「姫……。一体何度申し上げればわかってくださるのです。貴女はお人形ではありません。一国の王女なのです。嫌なことは嫌だときちんとおっしゃってください」
「ごめんなさい……! だけど、よかった……、クロード様……!」
 安堵からほろりとこぼれた涙を、クロードが指ですくう。
「やれやれ。私の姫は随分と手間のかかる女性のようだ。もちろん、そんなところもお可愛らしいのですが」
 小さく笑って、バイオレッタは彼の胸に顔を埋めた。
「もう大丈夫ですよ。私が来たからには勝手な真似はさせません」
「はい……、はい……!」
 
 そこでバイオレッタは、鋭い視線を感じて我に返る。
 ユリウスがものすごい形相でこちらをねめつけている。
 彼は顎を反らすと、値踏みするようにクロードを見た。
「……アメジストをあしらったピアスにタイピン。そしてそのやけに立派な仕立ての宮廷服。……お前、さっき陛下のおそばにいた宮廷魔導士だな」
「はい。スフェーン国王リシャール様にお仕えする宮廷魔導士、クロード・シャヴァンヌと申します」
「ふうん。クロード・シャヴァンヌ、ねえ。名前はひとまず覚えておいてやろうか」
 居丈高に言って、ユリウスはクロードを一瞥する。
 クロードもまた彼の瞳を探るように見据えた。出来の悪い子供を見るような目つきに、ユリウスが声を荒げる。
「な、なんだ!! 無礼な男め!! 魔導士ごときが僕の顔をそんな風に見るんじゃない!!」
「……失礼ですが、先ほど第三王女殿下と一体何回ダンスを踊られましたか」
 クロードの問いに、ユリウスは一瞬だけたじろぐ。
「何回だっていいだろう! 気に入った女と踊って何が悪いんだ!」
「……気に入った、女……?」
 クロードは眉宇をひそめ、何度か口の中でその言葉を反芻する。
 
 と。
 
「――何事だ」
 朗々とした声音が響き渡る。
 思わずそちらを見やれば、国王リシャールが酒杯を手にたたずんでいた。
「陛下」
「どうしたのだ、クロードよ」
「は、それが……」
 殊勝に頭を下げるクロードに、リシャールは報告を促す。
「よい、申してみよ」
 主君の許可を得て、クロードは発言した。
「クラッセルの公子殿下が、第三王女バイオレッタ様と立て続けに複数回ダンスをされました」
「なっ……! ユリウス公子、それはまことなのか?」
「……」
 沈黙を貫くユリウスに、リシャールが激昂する。
「そなた……、恥を知れ! 公子ともあろうそなたが、よもや舞踏会の流儀を知らぬとは申すまい!」
「は……、はい。ですが、そちらの王女様が僕をことのほか気に入ってくださったようで、無理やり僕を――」
 でたらめを言うユリウスを、クロードはぴしゃりと制した。
「陛下、僭越ながらこの方は偽りを申しておられます。バイオレッタ様はそのようなそぶりは一度たりともお見せになっておられません。それどころか、公子殿下のリードで転倒しかける様子を何度かお見掛けしております。……私が証人です」
「……!!」
 ユリウスは屈辱で顔を真っ赤に染め、ぶるぶる震えだした。端整なおもては傍で見ていて小気味よいくらい赤くなっている。
 そこでクロードは冷静にとどめを刺す。
「王配候補たちの集う場において、こうした行動はまぎれもないルール違反です。自分一人が宴の主賓であるかのような顔をし、王女様のお気持ちも考えないで踊り続ける。これは大変傍若無人な行いかと存じます。バイオレッタ様はもちろん、エピドート側の使者であらせられるカーティス王子に対しても失礼です。王配候補だからといって好き勝手な振る舞いをしてもよいということにはなりません」
 窮地に追いやられたユリウスは、豪奢な金の髪を振り乱して嗤った。
「はっ……、傍若無人だと!? ふざけるのもたいがいにしろ!! 大体、誰がこんな王女を選ぶものか!! 特に見どころもなければ美しくもない、普通の女じゃないか!!」
 罵声に、周囲がざわざわとざわめき出す。
 ユリウスはそこで声高に叫んだ。
「下賤な城下育ちの姫なんて、たとえいくら大金を積まれたって娶るものか!! たとえ入り婿に選んでやると言われても、僕はごめんだ!! こんな可愛げのない女!!」
 バイオレッタは心臓を鷲掴みにされたような気がした。「下賤な姫」「可愛げのない女」という言葉に、胸が痛くなる。
 だが――。
「待て」
 そう言って身を乗り出したのはなんとリシャールだった。
 彼は酒杯をクロードに預けると、ユリウスに詰め寄る。
「そなた、今、なんと申した」
「は……、だから、僕はこんな下賤な王女を選ぶつもりはないと――」
 そこでリシャールの拳が飛んだ。ユリウスの身体がぐらっと傾ぐ。
 ユリウスの頬を思い切り殴りつけたリシャールは、未だよろめいたままの彼に甲高く言い放った。
「戯けが!! 僕の王女を愚弄するような真似は許さぬ!! 衛兵、こやつをつまみ出せ!! 僕は気分が悪い!!」
「なっ、へ、陛下、お待ちくださ――」
「聞かぬわ、この愚か者めが!! 顔合わせの場でぬけぬけと何を申すか!! 出直してくるがよい!!」
 衛兵に取り囲まれたユリウスが、すごすごと≪舞踏の間≫を退場させられてゆく。
 バイオレッタは慄きながらも感動せずにはいられなかった。リシャールはちゃんと自分を大事にしてくれているのだとわかり、胸が震えてしまう。
 
「なんと粗野な公子だ。礼儀というものを知らぬらしいな」
 リシャールは汚いものに触れてしまったとでもいうように、ぱんぱんと何度か両手を打ち合わせた。
 そして励ますようにバイオレッタに言う。
「……バイオレッタ、そなたは何も悪くない。胸を張れ。たとえ城下育ちであろうとも、そなたが僕の愛しい王女であることに変わりはないのだから」
「はい……、はい、お父様……!」
 思わずバイオレッタは、父王の手を取ってちゅっ、とキスをした。
 嬉しがってもらえるかと思いきや……。
「……! よ、よい! 放せ……」
 しゅうう、と音を立てんばかりの勢いで、リシャールが小さくなる。……照れているのだ。
「お父様ったら……!」
「うるさい……! あとはそなたらのいいようにしろ……!」
 そう言って、何度か咳払いをする。
 ころころと楽しげに笑うバイオレッタの顔を見やって、満足したらしいリシャールはくるりと踵を返した。
 グラスを傾けながら、上機嫌で官僚たちのもとへ行ってしまう。
 
 
 
 バイオレッタはその後ろ姿をうっとりと見つめていた。
 クロードは嬉しそうに頬を緩ませているバイオレッタに近づき、苦笑いをしてみせた。
「やれやれ……。またおいしいところを陛下に持って行かれてしまいましたね。せっかくお助けしたというのに残念でなりませんよ」
「お父様、かっこよかったですわね。さすがは国王陛下と呼ばれるだけあるわ」
 ぽうっとしながらため息をついたバイオレッタに、クロードは気に入らない、と感じた。
 バイオレッタを助けたのはほかでもない自分だというのに、彼女はリシャールの後ろ姿ばかり見つめている。
 自分も最愛の姫にキスを贈られたかったと、クロードは密かにがっかりした。
 バイオレッタはまた舞踏に戻ってしまうのだろうか。もしかしたら今度はエピドートの王子が彼女の相手をするのかもしれない。
 だが、せっかくこうして一緒にいるのに、敬愛する姫君から何も褒美をもらえないとは極めて遺憾である。
 さすがにこんなところでキスをねだるつもりはないが、何か互いの記憶に留めておけるようなものが欲しいとクロードは思った。
 緩く腕を組んで、クロードはしばらく考え込む。広間では、ちょうど次の舞曲が始まろうとしていた。
 そこで彼は、思い切ってバイオレッタの腕を引いた。
「……姫」
「はい……?」
 クロードは居住まいを正し、自らの胸に手をあてがって懇願する。
「……私と一曲踊っていただけませんか」
「ええっ……? で、ですが、こんなところで……?」
 彼女が狼狽するのも無理はない。ここはエテ宮の大広間……≪舞踏の間≫だ。
 ここには宮廷人の目もあれば父王の目もある。つまり、観衆の視線だらけの場所なのだ。
「この前は庭園の隅だったからよかったけれど……ここは大広間ですわ。わたくし、絶対にお見苦しいところをお目にかけてしまうと思います。足を踏んだり、さっきみたいに転んだり……」
 慌てふためいて言い訳をしようとする姿が愛らしく、クロードは下からすくい上げるようにしてバイオレッタの手を包み込んだ。
「大丈夫……、先日のお手並みを拝見するに、貴女なら最後まで踊り切れるでしょう。どうか一曲だけお相手願えませんか、姫。お嫌になったらすぐにやめていただいてかまいませんから」
 バイオレッタはクロードを見上げてなおも何事か弁明しようとしていたが――。
「……はい。それでは、よろしくお願いします」
 バイオレッタはクロードに向き直ると、彼の手を取ったまま優雅なお辞儀をした。ドレスをつまみ、深く深く腰を折る。
 楽師の奏でる音とともに、二人は緩やかに踊り始めた。
 
 

 

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