……早朝の執務室。
湯浴みを終えたクロードは、手早く着替えを始めた。
書斎には王の腹心としてやらなければならない仕事が山積みである。書類に目を通し、サインをし、午後からは魔導士館に赴いて仕事をする。今日も忙しくなりそうだ。
だが、せわしない生活はもとから嫌いではない。主人である王の相手もさほど苦痛ではないので、今の暮らしに不満はなかった。
(いや、そう思いたいのだろう。「満たされている」と……)
この王宮で自由に振る舞えるだけの身分と権力。王の信頼。美しい貴婦人たちの心……。
欲していたものはすべて手に入れた。……否、そのはずだった。
しかしながら、彼が日頃得も言われぬ空虚感を持て余しているのはまぎれもない事実だった。
(私の心はもう、冷え切って凍えている。誰かのぬくもりによって温まることなどないのだろう。それでも……)
その続きを考えないように努め、慣れた手つきで純白のブラウスの襟元にレースのクラヴァットを結ぶ。次いで、クラヴァットの中央に王から下賜されたアメジストのタイピンを留めつける。
……と、羽織ろうとした漆黒の上着の上に見慣れた手蹟の紙切れを見つけ、しばし逡巡する。
黄金の縁取りのある一筆箋からは、微かに鈴蘭の香りがした。
それは、例の王女が連絡を寄越す際に使うものだった。
紙面に目を走らせ、わずかに息をつく。
「仕方ありませんね……」
クロードは身支度を済ませると、静かに執務室を出た。
「クロード! 来てくれたのね!」
鈴蘭園の四阿で本を読みながらクロードを待っていたミュゲはぱっと顔を上げた。翡翠色の波打つ髪が揺れる。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません、ミュゲ姫様」
漆黒の宮廷服に身を包んだクロードの姿を認め、ミュゲは頬を紅潮させる。
「いえ、……いいえ! お前はいつも時間通りよ」
四阿の椅子に本を置くと、ミュゲは居ても立っても居られなくなって、近づいてくるクロードに抱きついた。
彼の纏うコロンの香りがほのかに立ち上り、たちまち幸福な気分になる。
「……わかるわよね? わたくしがどれだけお前に会いたかったか……」
クロードは立ち止まると、そっとミュゲを抱きしめる。そして、白手袋をした右手でその髪を何度も撫でた。
「私もお会いしたかったですよ……。お身体は御変わりございませんか。体調を崩されたりしていらっしゃいませんね?」
「ええ。たまに発作が起こるけれど、慣れているから平気よ。体調も変わりないわ。わたくしのことはいつものようにミュゲと呼んで、クロード」
「貴女がそうお望みになるのでしたら」
かすれた声で、クロードはミュゲ、とつぶやく。
第二王女ミュゲはクロードの背に回した手に力を込めた。……少しでもこの想いが伝わればいいと。
(こんなに好きなのに……)
早朝の逢瀬はもう何度も繰り返している行為だ。父王にばれたら大変なのでこんな時間にしか会うことができないのだが、欲を言えば彼から離れたくなかった。
「それよりクロード……。お前、第三王女のところへ行っていたのでしょう?」
ミュゲは眉を引き絞った。
――父王が数日前にクロードに下した命令。それはアガスターシェの街にいるという第三王女を探し出せというものだった。
クロードは魔道士館の同僚たちに引き継ぎを済ませると、数名の騎士や女官と共にすぐさま城下町へ赴いていった。
その時ミュゲの胸の内に沸き起こったのは、たとえようのない嫉妬の感情であった。
女官の報告によれば、第三王女バイオレッタは自分と同じ年で、しかもこの国では類まれな白銀の髪を持っているという。
(その上、母親はあのエリザベス。お父様を誑かしたという女。そんな女の娘なら、クロードを誘惑するのもお手の物でしょう)
クロードに色目を使われたらたまったものではない。
ミュゲとしては行かないでほしかったというのに、クロードは簡単に了承した。彼はいつだって、父王の忠実な側近だから――。
昨日、クロードが第三王女を連れて王城へ戻ってきたというので、急いでいつも通り鈴蘭の香水を染み込ませた一筆箋を送った。「逢いたい」、と一言書き添えて。逢瀬の時に彼に送る、お決まりの合図である。
(クロードがわたくしを忘れたりしたら嫌だもの……!)
第三王女の姿は次の晩餐の席で嫌でも目にすることになる。
どんな姫なのだろう。正装した彼女の姿が、もし、自分より美しかったら。そうしたらきっと、クロードは去ってしまうのではないか。そんな不安が押し寄せてきて、ただただ「杞憂であってほしい」、と願った。
「……ミュゲ。もしや私は、貴女に寂しい思いをさせてしまいましたか?」
「そうじゃないわ。ただ、わたくし……嫌だったから」
「申し訳ございません……。陛下のご命令でしたので」
「お前はいつもそうね。わたくしの気持ちなんて、考えたこともないのだわ。わたくしがどれほどお前を想っているかなんて……」
皆まで言わせず、クロードはミュゲの頬にキスを落とす。ミュゲはゆるゆると瞳を閉じた。
自分でもおかしなくらいあっさりと、わだかまっていた感情がほどけていく。
まるで子供にするようなキスだ。けれどミュゲはそれだけで満ち足りた気分になる。
額に、頬に、髪に。淡い口づけがいくつも降ってくるのを感じながら、ミュゲはただクロードに身を委ねていた。
やがて、クロードが静かに訊ねた。
「……私の心はすでに貴女にお伝えしているはず……。それではご不満なのですか?」
「ええ。わたくしを愛していると、お前はあの日言ってくれたわね。でも、わたくしは欲張りなの……。お前のすべてを手に入れなくちゃ気が済まない。ふふ……おかしいでしょう? わたくし、お母様のようにだけは絶対になりたくなかったのに……。お前、一体どんな魔術を使ったの?」
クロードはミュゲの髪に顔を埋めると低く笑った。
「……魔術も何も。ただ私は、貴女のその虚ろな部分を埋めて差し上げたかっただけ。私の中にも貴女と同じような傷跡があるのです……。初めてお会いした時わかったのですよ。貴女は私にそっくりだ。私の心は貴女のその孤独に応えたに過ぎない……」
「では、これからも一緒にいてくれる……? わたくしが呼んだらすぐ、ここへ来てくれる?」
「貴女がそうお望みになるのでしたら、非才の身ではございますが、このクロード、いつでも貴女様のおそばに参りますよ」
ミュゲはその言葉を聞いてわずかに空しくなる。
(いつもそんな言葉しかくれないのね)
またふつふつと湧き上がってくる得も言われぬ感情に、ミュゲは唇を噛みしめたが、もう何も言わずに、与えられるぬくもりに身を任せた。
……ミュゲが去った後の鈴蘭園。
クロードは漆黒の髪を払ってから深いため息をついた。
「……さすがはあのシュザンヌ妃の姫ですね」
どれだけ愛しているとささやいても、素直にそれを認めないばかりか、さらに深い愛情を欲してくる娘だ。
(貴女のその貪欲さ、わからなくもありませんが、私にとっては貴女はただの手駒に過ぎませんよ、ミュゲ様……)
ミュゲにはこの地位に上り詰めるまでに何度も口添えをしてもらった。それはクロードの本意ではけしてなかったが、言ってしまえば彼女には借りがあるのだ。彼女に合わせるのは大層骨が折れるが、これも目的のためだと割り切っていた。
だが、彼女に言った言葉の半分は真実だ。あの姫と自分は似ている。心に空洞があるところや、貪欲なまでに愛情を欲するところ、その反面異性に対してどこか冷めているところなど。
だから余計嫌に思えて仕方ないのだ。……まるで自分を見ているようで。
(それにしても、バイオレッタ姫のあの瞳……)
アルバ座でバイオレッタにまみえたときには衝撃が走った。まさかあれほど美しい少女に成長していたとは。
彼女の穏やかな性格をそっくりそのまま映し出したかのような、緩やかに波打つ白銀の髪。雪をも欺く白い肌……。あどけないすみれ色の瞳は、まるで世界を疑うことを知らないかのように純粋だった。
ささくれだった手を必死に隠そうとするいじらしさ。手に口づければ真っ赤に頬を染める初々しさ。宮廷の貴婦人たちが決して持ち得ない無垢な魅力に、クロードは強く惹かれた。
しかしクロードの心を何より震わせたのは、触れれば今にも儚く崩れ落ちてしまいそうなバイオレッタのたたずまいだった。
……あまりにも脆くて、柔らかい殻。そして、その中に内包された穢れのない真白な心――。
あの姫を自分のものにできたならどんなにいいだろう。そして、彼女が自分を求めてくれたなら。
できることなら、あのすべてを自分だけのものにしたい。
「私なしでは生きていけないと言わせて差し上げますよ……、バイオレッタ……」
そして今度こそ目的を果たすのだ――。
そこでクロードはそっと右手の甲に唇を寄せた。
すでに「遊戯」は始まろうとしている。敗者には死、あるいは屈辱が待ち受けているとわかっていてなお、クロードは彼女に恋い焦がれていた。
……否、最初からこのために命を賭したのかもしれなかった。
唇を歪めて、クロードは低くつぶやいた。
「さあ、始めるといたしましょう。私と貴女の遊戯を……」
***
目が覚めると、最初に寝台を覆う紗の帳が見えた。
「う……ん……?」
ルイーゼは寝ぼけ眼のまま寝台の上部を見上げる。
(あれは、天蓋……? すごく立派な……)
天蓋の内側に描かれているのは、ヴァーテル教徒なら一度は目にしたことがあるであろう宗教画だ。
天蓋の中央、銀髪の女神と黒髪の女妖魔が対峙している。
水神ヴァーテルと火神ジンである。この二柱の神はうら若い娘の姿で描かれることが多い。
ルイーゼは瞬きをしながらその画に見入った。
争いを繰り広げる彼女たちの周囲には、花びらをまき散らす花神や、ヴァーテルのしもべである『嘆きの人魚』、ジンのしもべである『業火の騎士』もきちんと描かれている。
『嘆きの人魚』はその名の通りはらはらと涙をこぼす、銀の翼の生えた人魚のことである。ヴァーテル女神のしもべで、その清らかな涙で荒れた土地を癒すという。『業火の騎士』とは漆黒の荒馬にまたがって槍を振り下ろす、黒ずくめの甲冑姿の騎士のことだ。
この有名な宗教画が表すものはすなわち、神々の対立の様子と気性だ。ヴァーテルは人間をどこまでも思いやる女神とされているため、彼女の御使いは突然の騎士の侵入に怯える顔つきをしている。
また、黒馬にまたがる『業火の騎士』の姿は火の神ジンの凶暴さをそっくりそのまま表わしているのだともいわれる。強欲でふてぶてしい、イスキアにとっての敵というわけだ。
ルイーゼ――否、バイオレッタは、横たわったまま黙って宗教画を眺めていたが、しばらくしてぼんやりと昨日の出来事を思い出した。
(そうだった……、私、王宮に来たんだわ)
ここは昨日案内された第三王女としての居住棟だ。
昨晩はあまり余裕がなかったこともあって、あまり寝台の上部など気を留めてもいなかったが、こうして見ているととても手の込んだ造りをしていることがわかる。
再び寝台を彩る宗教画を見つめる。
朝に通っていた教会の聖堂にも同じ画がかけられていたが、さすが王宮を飾るものだけあって色彩がとても豊かである。高価な青い顔料も惜しげもなく使われ、街の教会の質素な宗教画とは比べるべくもない。
「なんて綺麗な色……」
いたるところに塗られた青い顔料を、まじまじと見る。
天空の青。海の青。ヴァーテル女神の瞳に塗られた、神秘の青。そのどれもが微妙に色合いを異にしており、絵画に不思議な抑揚と緊張感を与えていた。
こんなに美しい青を目の当たりにするのは生まれて初めてなのに、どこか懐かしい気さえする。
ひとしきり眺めた後、バイオレッタは静寂が充ち満ちた室内に急に不安を覚えた。
起き上がり、天蓋のライラック色のヴェールをさらさらとかきやる。
猫脚のオットマンにそろそろと足を乗せ、少しためらってから、用意されていた可愛らしいリボンとフリルのあしらわれた室内履きを履く。
まだこの場所にいる実感があまり湧かないが、昨日のことを思い出せばわかるとおり、これは現実なのだ。ピヴォワンヌとの出会いに、魔導士の青年が告げた真実。箱馬車に乗せられて連れてこられた王宮。昨日一日でひどく目まぐるしくいろいろなことが変わってしまった気がする。
(私、陛下にちゃんとお会いできるのかしら)
立ち上がりかけたもののなんだか所在ない。バイオレッタは仕方なく寝台に腰かけたまま部屋を見渡してみた。……随分と広い。
淡紅の絨毯の敷かれた床に、ペールライラックを基調とした調度品。甘い色使いだが、カーテンや壁紙が渋い深緑で統一されていて大人っぽい。
ゴールドの把手のついた薄紫の小さな抽斗や、まだ高価な代物である硝子を使った本棚など、調度品はどれも豪華だ。優雅かつ上品な印象の部屋だ、と思う。
ふと天蓋の紗をめくると、寝台を覆う厚いカーテンもまた深緑だった。触れてみるとずっしりと重く、丈夫でしっかりしている。
そういえば、昨夜は初春の寒さを感じることもなくぐっすり眠れた。このカーテンのおかげだったのだろう。
「私には勿体ないくらいのお部屋だわ……」
思わずそうつぶやいてしまう。
今までは、飢えや寒さに苦しむことは日常茶飯事だった。今までの自分は、他に行く当てがないからアルバ座に置いてもらっているだけの、ただのお荷物だったのだ。
確かに「見習い」といえば聞こえはよかったかもしれないが、みんなの足を引っ張っていたのは事実なのだから。
マリアが死んでからは特にひどかった。硬いパンに冷めたスープという食事が当たり前で、着る物にいたっては女優たちの御下がりを直して着ていた。
衣服に関しては本当に酷くて、寒くて夜中寝付けなかったほどだ。
けれどなんだか、ここまで現実離れした場所にいると、そちらの生活のほうが恋しくなる。こんなきらびやかな場所は自分にはふさわしくない気がしてしまうのだ。
身体を調べられ、幼いころの記録と照合されて、あっという間に決まった「第三王女」という身分。あまりにも信じがたくて、まだ震えそうになる。
思わずバイオレッタは身を縮こまらせた。
「……いや。帰りたい……」
……その時、控えめなノックの音がした。
慌ててネグリジェの幾分開いた胸元を掻き合わせる。
後宮なのだからまさか男性が入ってくることはないだろうが、それでも他者に見られると思うと気になるのだ。
「は、はい……!」
「お目覚めのようでしたのでお声をかけさせていただいたのですが、入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「では、失礼いたします」
几帳面にそう断って入ってきたのは、バイオレッタと同じくらいの年恰好の一人の少女だった。すみれ色と白を基調とした色使いの簡素なエプロンドレス姿である。
(まあ。なんて綺麗な子)
段をつけてカットされた輝く金の髪。瞳の色は澄んだ深い蒼をしている。天使かビスクドールかと思ってしまうほどの、可愛らしい顔立ちだ。
お仕着せの丈は膝よりやや上で、華奢な両脚は白いストッキングで覆われている。エプロンドレスの裾からは花びらのようなパニエがふわふわとのぞいていた。
目を凝らすと、エプロンドレスのいたるところには銀糸ですみれの花の刺繍も施されている。
少女の装いは華美というほどではなかったが、動きやすさと美しさが両立されており、工夫が凝らされていると感じた。
少女はバイオレッタの方を向いて深いお辞儀をした。
「はじめまして、バイオレッタ様。わたくし、バイオレッタ様付きの筆頭侍女を務めさせていただくことになりました、サラと申します」
「は、はじめまして」
サラは屈託ない笑顔を見せた。
「まずは道中お疲れ様でございました。いかがですか、薔薇後宮は。一晩お過ごしになってみて少しは慣れました?」
「は……」
思わず「はい」と敬語で返しそうになったが、昨日「格式を重んじてください」とたしなめられたのを思い出して少し冷静になる。
(ここは敬語を使っちゃいけないのよね)
バイオレッタは慌てて仕切り直した。
「あ、……ええ。夜、とってもよく眠れたわ。全然寒くなかったし……」
サラは、「それはよろしゅうございました」と微笑む。
「いきなりのことに戸惑っていらっしゃるかとは思いますが、わたくし、全力でバイオレッタ様をお助けしますから、一緒に頑張りましょうね!」
バイオレッタはきょとんとする。
(助ける? それに頑張るって……何をかしら?)
どういうわけだか言葉の端々からただならぬものを感じる。
首をひねりつつ、バイオレッタは「ええ」とうなずいた。
サラは両手の指先を組み合わせると、うきうきと言った。
「わたくし、実はバイオレッタ様がいらっしゃるのをすっごく楽しみにしていたんです。同じ十七歳だって聞いていましたし」
「そうなのね。わたし……、わたくしも嬉しいわ。あなたみたいな明るくて可愛い子がわたくしの侍女で」
一人称を指摘されたことを思い出してしまい、思わず「私」を「わたくし」と言い直したが、それにも気づかずに、サラは無邪気にはしゃいだ声を上げた。
「まあ! ありがとうございます! そうですわ、わたくし先ほど、女官長からお仕事を頼まれたのです」
(ベルタから?)
痩せぎすの女官長ベルタの厳めしい顔つきが思い起こされて、やや緊張しながらバイオレッタは訊ねる。
「……な、何かしら?」
すると、サラは浮かれた様子で人差し指を立てた。
「バイオレッタ様に後宮を案内して差し上げなさい、と! うふふ! わたくし、バイオレッタ様がお目覚めになられるのを今か今かと待っておりましたのよ」
そう言って花のようにサラは笑った。バイオレッタはとりあえずほっとする。
「そうなのね。あの、香、……ピヴォワンヌはどこかしら?」
「ピヴォワンヌ様でしたら紅玉棟におられますわ。あとでご案内いたしますね。迷われてはいけませんから」
なんといってもここは後宮である。歴代后妃とその女官たちのために造られた場所なのだ、部屋や宮殿がたくさんあっても何ら不思議はない。
わざわざ「迷うといけない」と言っていることから、ピヴォワンヌとバイオレッタの居住棟はそれなりに離れた場所にあるのだとわかる。
バイオレッタはがっかりした。確かに昨日別れてからというもの、彼女の入る居住棟からここまで、多少の距離があるのではないかという気はしていたのだが……。
そこでサラは、安堵させるようにふんわりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ここの隣の居住棟ですから」
「そうなの? よかった。あとで案内してほしいのだけれど」
「はい、もちろんですわ! でも、まずはお召し替えですわね。それが終わってからご案内いたします」
「ありがとう。お願いね」
「本当に綺麗なすみれ色の瞳をしていらっしゃいますのね。惚れ惚れする色ですわ。……ああ、あなたたち、トルソーは持ってきたわよね? じゃあ、化粧室に全部並べて、持ってきたドレスを着せて待っていてくれる?」
サラは中途半端に開きかけたドアに歩み寄り、部屋の外で待機していたらしい他の侍女たちを室内に招き入れる。
サラより格下らしい侍女たちが箱を携えて入室してきたかと思うと、しずしずとバイオレッタの前を横切る。
(え? どこへ……?)
思わず身を乗り出して目で追いかけると、部屋の隅に濃紫の扉があるのがわかった。侍女たちはその扉の奥に消えていった。
ひとくちに「私室」といってもかなり広いらしい。
さすがは王女にあてがわれた居住棟だ、とバイオレッタはしばし呆気にとられた。
「さて、と……!」
小さな籠を手にしたサラが微笑みかける。
「というわけでバイオレッタ様。まずは湯浴みをいたしましょうか。さっぱりしますわ」
バイオレッタは仰天する。
「えっ!? ゆ、湯浴み!?」
「はい。わたくしがお世話いたします。汗やほこりを洗い流せば気分がよくなりますわよ。都の空気はあまり綺麗とは言えませんし……」
貴重な水をそんな風に惜しげもなく使うとは。この私室の様子からもうかがえるが、やはり王宮はすべてにおいてやることが違う。
高貴な生まれの王族女性ともなれば入浴や洗髪などにふんだんに水を使っているのだろう。それはわかるような気がした。
しかし、初対面の少女に裸身を晒すような大胆な真似はどうしたってできそうになかった。
そんなことをすればこのサラという少女に隅々までじっくり見られてしまう。いや、もしかすると彼女の言う「お世話」の中には身体を洗うところまで含まれるかもしれない……。
出会ったばかりの少女にいきなり身体を洗われるというのはやはり躊躇してしまうし逃げ出したくなるものだ。
別にこのサラという少女が憎いわけではないのだが、バイオレッタは断ることに決めた。
いくら侍女相手でも恥ずかしいものは恥ずかしいのである。
バイオレッタは大慌てで言う。
「あ……、あの。わたくし、それくらいのことは一人でできるわ。他のお姫様たちとは違って城下で過ごした時間も長いんだし……」
そうやって申し出をやんわりと辞退しようとしたバイオレッタだったが、意外にもサラは食い下がる。
「そのようなつれないことをおっしゃらないで下さいませ。外はほこりも多かったでしょうし、ちょっとお嫌でも洗わせて頂きます。大体、これから長いお付き合いになるんですよ? どのみちわたくしたちには素肌を毎日見せることになりますわ」
「だって……。は、恥ずかしいもの、そんなことできないわ……」
赤面したバイオレッタはしゅん、と身を縮こまらせた。
サラは頬に手を当てて「まあまあ」と笑う。
「女の子同士じゃありませんか。恥ずかしがることないですわ。さあさあ、こちらです。今日はクラッセル公国から取り寄せたばかりの薔薇石鹸がありますの。とってもいい香りなんですよ」
湯上りには本物の真珠のパウダーをはたきましょう、と天使の笑顔でにっこりされて、バイオレッタは渋々赤い顔のままバスルームに引っ張られていった。