無慈悲な少年王が、拘束されて身動きの取れなくなった養父の頭髪をぐいと掴む。
彼は手にした得物を、抵抗できない養父の肌にあてがった。
――見せしめに、こやつの首を斬り落としてやろう。
(……いや、やめて)
――そなたが強情ゆえ、僕とてこうするほかないのだ。父を恨むでない。
(嘘! あんたはあたしの父親なんかじゃない)
――そなたが従わぬというのなら、言うことを聞くよう仕向けるまでだ、ピヴォワンヌ・パイエオン・フォン・スフェーン。
(うるさい、うるさい、うるさい……!!)
養父が殺されたなんて、嘘に決まっている。
異国の後宮に王女として閉じ込められたことも、もう味方してくれる人間が誰一人いないのだということも、すべて悪い夢に違いない。
全部、信じない――……。
「――ッ!!」
ピヴォワンヌはがばりと飛び起きた。肩で息をしながら上掛けをはねのける。
自分でも面白いくらい呼吸が乱れており、額や頬には汗が伝っていた。
「……だ、誰か……。ダフネ……!」
筆頭侍女の名を呼んでみたが、返答はない。控えの間まで足を運ばねばならないだろうかとのろのろと思案し、ピヴォワンヌは室内履きをつっかけて立ち上がった。
……と。
「ピヴォワンヌ」
聞き慣れた異母姉の声に、はっと顔を上げる。その声は隣のドローイングルームから聞こえてきた。
「……バイオレッタ? あんたなの?」
もう一度、バイオレッタが自分の名を呼んだ。気遣わしげに、どこか遠慮がちに。
ピヴォワンヌは急いで扉に駆け寄ると、勢いよく開けた。
案の定、そこには夜着姿のバイオレッタがたたずんでいる。手には手燭を携えて、所在なさそうに立ちすくんでいた。
「……どうしたのよ、こんな夜更けに」
「ダフネに呼ばれたの。貴女がひどくうなされているから、様子を見に来てほしいって」
「呼ばれたって……。菫青棟からここまで、だいぶ距離があるでしょうに」
薔薇後宮の西棟は一つの町のようなもので、王室女性たちの居住棟が集まってできている。
菫青棟から紅玉棟なら隣同士だから、距離的にはリュミエール宮などの王宮中心部に行くよりも近いが、それでも多少の距離はある。バイオレッタの薄い夜着では夜風もさぞ冷たかっただろう。
だが、バイオレッタは微笑して言った。
「貴女のためなら、それくらい苦じゃないもの」
「あんた……」
この姉は馬鹿なのだろうか。
こんな夜更けに、侍女に呼ばれたからといって着の身着のままで妹の様子を見に来るなんて。
(なんなの、この子……。調子狂うわ)
ピヴォワンヌは乱れた前髪を手櫛で整えると、彼女を寝室の中へ招き入れた。
「とにかく、入りなさいよ。夜はまだ冷えるわ」
「ええ。ありがとう」
バイオレッタの後ろに寄り添っていたダフネをさしまねくと、ピヴォワンヌは熱い香草茶を二つ持ってくるように命じた。ダフネはにこりとし、すぐにお仕着せの裾を翻す。
ピヴォワンヌはバイオレッタにソファーを勧め、自身もその隣にとさりと腰を下ろした。
「ピヴォワンヌのお部屋、初めて入った……。可愛い内装ね」
感じ入ったようにバイオレッタがつぶやく。
寒いのか、ネグリジェにくるまれた腕のあたりをしきりにさすっている。
ピヴォワンヌは一旦立ち上がり、厚手のショールを取ってくると、姉の華奢な身体にそっとかけてやった。
「まあ。ありがとう」
「……あたしの面倒見たせいで風邪なんか引かれちゃたまんないからね」
就寝時にダフネがおさげにしてくれた紅い髪を、ピヴォワンヌはさっと背に払った。
見れば、バイオレッタも長い白銀の髪を緩く編んで垂らしている。まるで示し合わせて揃いにしたかのようで、少しだけピヴォワンヌは落ち着かなくなった。
「うなされていたけれど、大丈夫? まだ怖い?」
「別に、大したことじゃ……」
言いかけて、ピヴォワンヌはきゅっと口をつぐんだ。
本当はまだ恐ろしかった。
斬り落とされる首の生々しさ。養父の断末魔の叫び。少年王の高らかな笑い声。
すべてがまざまざと思い出されるようで、悪夢を断ち切るようにかぶりを振る。
「怖いのだったら無理なんかしてはだめ。なんでも話して?」
「……」
バイオレッタに促され、ピヴォワンヌは重たい唇を開いた。
「……父さんがね、今でもまだ夢に出てくるのよ」
ぽつぽつとピヴォワンヌは内心を吐露する。
「父さん、あたしを恨んでるんだわ。ちゃんと助けてくれればよかったのにって。お前が間に合っていれば、俺は死なずに済んだのにって」
「そんなこと……!」
バイオレッタはほっそりした腕を伸ばしてピヴォワンヌの両手を包み込む。
「……貴女の大好きなお父様が本当にそんなことを考えると思うの?」
「ううん……、思わない……。思ってない。……だけどっ……!!」
そんなはずはないと、一番よくわかっている。養父はそんな風に自分を責めたりしないと、誰よりも一番理解している。
だが、悔しいのだ。
助けてさえいれば、きっともっと長く一緒にいられた。苦しい死に方をさせることもなかった。
なのに――
「あんまり自分を責めてはだめよ。貴女のお父様は、きっとそんなピヴォワンヌの姿を見たくないと思うの」
ピヴォワンヌはそこで絞り出すように言った。
「だって、なんだかやるせないの……! あの時の父さんの顔、あまりにも安らかだったんだもの……!」
バイオレッタに促されるまま、亡骸となった養父を残して≪星の間≫を後にしたあの日。
ピヴォワンヌはとうとう彼の埋葬には立ち会えなかった。
憔悴しきった頭はろくに言うことを聞かず、ただ本能的な恐怖だけが身体を支配していた。
ここにいたら自分も殺されるかもしれない。もっと酷い目に遭わされるかもしれない。
そう思うがゆえに、養父の弔いもせず逃げ帰ってきてしまったのだ。
ダフネに連れられて逃げるように薔薇後宮に帰ったとき、ピヴォワンヌはただただ後悔した。
がくがく震える身体で、彼女はひたすら泣き続けた。
こうして逃亡してきたことが剣を取る者としてとにかく情けなく、何より養父を裏切ってしまったような気がして、涙があふれた。
王はもちろん、養父を救えなかった自分が許せなかった。
そんなピヴォワンヌのところに、バイオレッタがやってきた。
単身薔薇後宮へ戻ってきた彼女は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしているピヴォワンヌに一つの腕輪を差し出した。
形見として養父の嵌めていた翡翠の腕輪を届けてくれたのだ。
『ごめんなさい。時間がなくて、これだけしか持ってこられなかったの』
それは、ピヴォワンヌと揃いの腕輪だった。
まだ「香緋」であったときに、彼女が腕に嵌めていたのと同じ意匠のものだ。
あれは、宮城勤めが決まったとき、養父が記念に買ってくれた品だった。大ぶりのものと小ぶりのものとが揃いになっており、香緋は小さい方を選んで身に着けた。
同じ石から作られた大ぶりの腕輪を、彼は自身の左手に嵌めた。
そして、「こうすればいつでもお前のことを思い出せるな」、と言って笑った。
……それだけ愛してくれていたのだ、血の繋がらない自分のことを。
バイオレッタは、養父の亡骸はリシャールの恩情で王宮付属の墓地へ埋葬されるのだと教えてくれた。
それを聞いてわっと泣き伏してしまいたくなったが、ピヴォワンヌはなんとか堪えてバイオレッタに礼を言った。
『……ありがと』
『……落ち着いたら墓参に行きましょうね』
――だが、ピヴォワンヌはまだ一度も墓参に行けずにいた。
彼が冷たい石の下で眠っているなんて、とても信じたくなかった。
バイオレッタは決心がつくまでいつまででも待つと言ってくれたが、未だに墓地に足を踏み入れることすらできずにいる。
「……もしかして、ずっと思いつめていたの?」
ピヴォワンヌはこくりとうなずいた。
無理やり明るく振舞おうとしても、どうしてもできなかった。
どこかぎこちない態度になってしまって、不自然になるのだ。
その日あった出来事を養父に逐一報告するといったかつての習慣も仇になった。振り向けばすぐ近くに彼がいるような気がしてしまう。
――今日は何があったんだ? 香緋。
そんな声が聞こえてくるような気さえする……。
「あの時の父さんね、『お前のことなんか責める気はない、俺は俺の役割を果たした』……、そんなことを言いたげな顔つきだったの。決して恨むような顔じゃなかった。でも……でも、だからこそ悔しいの……! あたし、なんでこんなに力がないんだろうって」
ピヴォワンヌはきつく唇を噛みしめる。
「父さんと、もっと色んなことをしたかった。綺麗な景色を見て、おいしいものを一緒に食べて、笑い合って。父さんがしわくちゃのお爺さんになっちゃっても、これまで育ててもらった分あたしが面倒見てあげるんだって……ずっと思ってた。なのに……あたし……」
こんなに悲しい別れ方なんかしたくなかった。
彼自身の血でどす黒く染まった絨毯の上でなんて、死なせたくなかった。もっと穏やかな死を選ばせてやりたかったのだ。
たとえば劉の屋敷で、年老いた養父を自分が看取る。
いつものように彼の部屋で、眠るように安らかな死に顔で天に召されてゆく養父。苦痛も後悔もなく、そこにはただ安堵だけがある。
清紗の連れ子を立派に成長させられたこと、その彼女に見守られながら終焉を迎えられること。そんな安心感で満ちている……。
それが無意識に二人が望んでいた終わりだったと思う。
なのに二人は、その道を選べなかった。こうして死に別れることしかできなかった。
それが悔しくて仕方なかった。
「父さんは……もしかして最初から全部わかってたのかもしれない。いつかあたしを手放さなきゃいけないことも、自分がああやって罰を受けなきゃいけないことも」
抽斗の奥、隠されるようにしてしまい込まれていた、清紗の腕輪。彼女本人もけして取り出そうとはしなかった、豪奢な装飾品。リシャールの寵愛を受けた証であり、彼女とその娘の本来の身分を決定づけるもの――。
それが手元にある限り、養父は自身が謀反人であることを意識せざるを得なかったはずだ。
それでも彼が腕輪を捨てなかった理由。それは――。
「……あたしのため、だったんだ。あたしの生い立ちも、母さんの孤独も……全部受け入れてくれてた。自分が傷つくのなんか、きっとちっとも怖くなかった。あたしたち母娘のために犠牲になるのなんか、きっと最初から見越して……! だから父さんはあんなに強かったのね……!」
しゃくり上げるピヴォワンヌの肩を、バイオレッタは引き寄せた。ピヴォワンヌを、柔らかな胸にしっかりと抱く。
「ううっ……!」
「悲しい気持ちが消えるまで、ずっとこうしているから……」
どこか母親を連想させるぬくもりに、ピヴォワンヌは恥じらいつつも身を寄せた。
女神が人の姿をしていたら、きっとこんな風に優しい少女なのだろう。
人の弱さを赦し、受け入れ、光射す方へと導く。
バイオレッタは確かにそんな才能を芽吹かせようとしている。ある意味自分などよりもよっぽど強いのではないかと、ピヴォワンヌは泣き濡れた顔でぼんやりと考えた。
「……あんたは、あったかいわね」
思わずそんなことを口にすると、かすかに笑ってバイオレッタが言った。
「……貴女だって、温かいわ」
***
「……わたくしも時々、恐ろしい夢を見るわ」
熱い香草茶をちびちびと飲みながら、バイオレッタは切り出した。
やっと涙が止まり、今はダフネの出してくれたお茶と小さな菓子を口に運びながら談笑している。
「そうなの? どんな夢?」
興味を引かれてピヴォワンヌが訊ねると、バイオレッタは指先を祈るように組み合わせながら、伏し目がちに切り出した。
「男の人の腕の中で、女の子が息絶えているの。男の人はそれをとても悲しんで、たくさん涙を流していて……。いつも最後には空気がひび割れるような声で叫ぶのだけど……、それがすごく切ない叫びなの。この世の終わりみたいな」
「ふうん……」
ピヴォワンヌはクッションを抱きしめると、小首を傾げてバイオレッタに問うた。
「それって、あんたの大事な人なの? 昔の知り合いが夢に出てくるとか、そういう……?」
「いいえ。違うわ。会ったこともないのだから、大事に思うはずもない人よ。でも……、いつかその苦しみが癒えればいいのにって、いつも願っている……」
「面白いわね。会ったこともないのに、そこまではっきりとした夢を見られるなんて。……少し、悲しい夢みたいだけど」
「……ええ」
うなずくバイオレッタの顔はほんの少し曇っていて、ピヴォワンヌは妙な胸騒ぎに駆られる。
死んだ娘を抱きしめて慟哭する男。
それは一体何の暗示なのだろうかと、おかしな不安が胸をよぎった。
それも度々そんな夢を見るなんて、バイオレッタこそ何か思いつめているのではないだろうか。
「……じゃあ、今度その夢を見ることがあったら、あたしに教えて。あたしが怖い気持ちを全部取っ払ってあげる。だって……あたしはあんたに救われたようなものなんだもの」
バイオレッタはぱちぱちと瞬きをした。
次いで、ふふっと笑う。
「ええ。じゃあ、またあの夢を見たら、真っ先に貴女に教えるわね」
「約束してよね」
「もちろん」
バイオレッタは微笑し、食べかけのショコラを口に入れた。
胸郭を上下させて、満足げにゆっくりと味わう。
そして、壁際で二人の様子をうかがっていたダフネに訊ねた。
「ダフネ……、今日わたくしがここで寝たらお父様に怒られるかしら」
「いいえ。何ら問題はございません」
「では、ピヴォワンヌと一緒に寝かせて。落ち着くまで一緒にいてあげたいの」
「ちょっと、あんた……」
「いいでしょう?」
じっと瞳を見つめられて控えめに問われれば、うなずくよりほかない。
「……しょうがないわね」
ピヴォワンヌは上気した頬で小さな笑みをこぼした。
立ち上がったピヴォワンヌはテーブルを離れ、早速彼女のためにベッドを整えた。
純白のシーツの皺を手で丁寧に伸ばし、ダフネに頼んで新しい掛布も用意する。
「お友達がいらっしゃると賑やかでいいですわね」
ダフネはそんなことを言ってくすくすと笑ったが、ピヴォワンヌは気恥ずかしさでいっぱいになる。
「もう。あんまり変なこと言わないでよ」
「あら、これは失礼を」
ほほほ、と軽やかに笑うと、ダフネは安堵したようにピヴォワンヌを見る。
「では、わたくしはそろそろ下がらせていただきますわね。いつものように控えの間におりますから、御用があればお呼びになってください」
「ええ。……今夜は色々心配をかけちゃったわね」
「いいえ、そのような。……灯りは残しておきますわ。不要になったらスヌーファーでお消しくださいませ」
「ええ」
ダフネはナイトテーブルに小ぶりの燭台を置くと、慎ましく腰を折って退室した。
「バイオレッタ。あんたはここで寝て。あたしはそっちのソファーを使うから」
そう言って、立ち尽くすバイオレッタをベッドに案内してやると、彼女は遠慮がちに言う。
「わたくしがソファーで寝たっていいのに……」
「だーめ。あんたは仮にもお客様なんだから、ベッドを使って」
「……いや。そんなことをするくらいなら、わたくしは貴女と一緒にベッドで寝たいわ」
バイオレッタはそんなわがままを言い、つんと唇を突き出した。
まるで駄々っ子のような表情に、ピヴォワンヌは噴き出す。
「ひどい顔してるわね。子供みたい」
「そういうピヴォワンヌは、やっといつもの顔に戻ったわね」
「……!」
ふふ、と小さく微笑まれ、頬がかっと火照った。
「……全部あんたの思惑通りってわけ。そういうの、気に入らないわ」
「まあ、照れてるの?」
「照れてないわよ!」
「うふふ……!」
バイオレッタはさも楽しそうにころころと笑った。
「そろそろベッドに入りましょう? こんなに広いんだもの、くっついて寝たって大丈夫なはずよ」
「……うん」
結局、根負けしたピヴォワンヌは彼女に倣った。バイオレッタには言いだしたら聞かない頑固さがある。ここで反論したってどうせ敵わないのだ。
ナイトテーブルに香草茶のトレーを載せ、手を繋いで寝台に入る。
ピヴォワンヌと並んで横になると、バイオレッタはその顔をじっと見つめた。
「ねえ……、劉ってどんなところだった?」
どこか夢うつつの表情で訊ねられ、ピヴォワンヌは彼女が眠気をこらえているのだと気づく。
「……そうねぇ。温かい国、かなぁ。あたしにとってはね」
「ふうん……」
「父さんには昔の仲間がいっぱいいて、皆あたしのことも娘のように可愛がってくれた。宮城では女王陛下やその旦那様、二人の公主様のお相手をしたりしていたわ。朱塗りの殿舎や、公主様たちが武芸の特訓をするためのお庭もあって……。ああ、そうそう、いい加減でどうしようもない仕事仲間なんていうのもいたっけ……」
「まあ、そうなのね……。なんだか楽しそう……」
バイオレッタはすみれ色の瞳を数回ゆっくりと瞬き、とうとうまぶたを下ろした。
「……眠いの?」
「ごめんなさい……。実はさっきまでぐっすり寝ていたものだから、ちょっと眠たいの……」
「気にしないで眠っていいわよ」
「うん……。そういうピヴォワンヌもちゃんと眠らなくちゃ駄目よ……」
ピヴォワンヌは小さく笑って繋いだ手に力を込めた。
「……来てくれてありがと、バイオレッタ。嬉しかったわ」
あのまま独りぼっちだったら、きっと今頃悪夢の余韻に打ちのめされていただろう。
バイオレッタの温かさが、今夜はひどく心に沁みた。
「おやすみなさい、ピヴォワンヌ」
「ええ。おやすみ、バイオレッタ」
小さな優しいささやきを交わし合い、二人はまぶたを閉じる。
「ピヴォワンヌ」
「ん……?」
「いつか、連れて行ってね。貴女の育った国へ……」
もごもごと口だけを動かし、バイオレッタはそんなことを言う。
そして今度こそ深い眠りの淵へ落ちていった。