第三十章 月夜のキス

 
 ――その日、バイオレッタはクララに呼ばれて彼女の私室を訪れていた。
 
「いかがですか、バイオレッタ様」
 彼女がうっとりと開いてみせた刺繍の教本に、バイオレッタの目は釘付けになった。なんでも、プリュンヌからもらったお古なのだそうだ。
「すごいわ。難しそうだけれど、どの図案も細やかね」
 次いで、クララが見事な布地を広げて見せてくれる。
 細やかに施された薔薇刺繍。花びらはふっくらと、枝葉の部分はとても瑞々しく刺されていた。
「まあ、精緻で美しいわ。プリュンヌ様ってこんなに綺麗な刺繍をなさるの?」
「驚いてしまいますでしょう? 数年前のものだそうですわ。やっぱりわたくしたちより年下だとは到底思えない腕前ですわよね。こちらの教本に刺し方が載っているのですけれど、わたくしはまだここまでできる気がいたしませんわ」
 上品に笑ってから、クララはバイオレッタに教本を手渡した。
「よろしければしばらくお貸しいたしますわ。どうぞお使いになってください。退屈なのも困りものでしょう?」
「そうね……、じゃあお言葉に甘えるわね、クララ」
 
 二人はターコイズブルーの扉を抜けて青玉サファイア棟の外に出た。
「プリュンヌ様って本当にすごい方ですわよね。わたくし、手仕事をさせたらあの方の右に出るものはいないのではと思いますわ」
「そうね、わたくしもまたぜひプリュンヌ様に教えていただきた――」
 と、バイオレッタはそこで、渡り廊下から聞こえてきたひそひそ声に立ち止まった。
「ねえ、貴女聞いた? ……シャヴァンヌ様の新しいお相手の噂」
「ええ、聞いたわ。意外よね」
 
(え……。シャヴァンヌって――)
 
 スフェーン宮廷でその姓を名乗る人間は一人しかいない。
 聞き耳を立てていると、こちらに気づいていない様子で侍女たちは忍び笑いを漏らした。
 
「今度はまさか王女様だなんて。驚いてしまったわ。美男は手が早いというけど、あの方はまさにそういう感じよね」
「ベルタ様がいつもお怒りになっていらっしゃるものね。あなたのせいで女官たちが迷惑していますって」
「でも、お相手があのバイオレッタ様じゃあね。シャヴァンヌ様はもう少し年上の方がお好みだったのではない?」
「ああ、わかるわ。経験のない女はお嫌なのかしらとずっと思っていたけれど」
「第三王女様じゃ体つきも貧相だし、とても経験豊富には見えないけれど……。ああ、もしかして宗旨変えなさったのかしら」
「それにしてもあの方じゃ色気がなさすぎてお話にならないわよ。顔も身体もまるで子供みたいじゃない」
 
 廊下がどっと湧く。
 甲高い笑い声を耳障りに思いつつ、バイオレッタは顔を背ける。次いで、そっとため息をついた。
 噂話が広まるのは早いというが、一体どこから漏れたのだろう……。
 
「バイオレッタ様……」
 肩に触れるクララの手のぬくもりに少しだけほっとする。
 クララはバイオレッタの今の状況を知っている。彼女だけは、バイオレッタがクロードと恋愛関係にあるということを早々に見抜いていた。
『わたくしはバイオレッタ様に背中を押していただきました。次はわたくしがお返しする番です』 
 アスターとの関係を応援してもらっているからと、クララは折につけバイオレッタを励ましてくれる。きっとうまくいくと言ってくれる。
 それだけに、今こんな姿を見られてしまっていることがなんだか情けなかった。
 
 無理やり笑顔を作ると、バイオレッタは言った。
「大丈夫、こういうことには慣れているもの。舞い上がっていたわたくしが馬鹿だったのよ」
「こんなことに慣れている人間などいませんわ」
「いいえ……。劇場でもしょっちゅういやみや当てこすりを言われていたもの、今さら驚いたりは……」
 
 見習い仲間に悪口や陰口を言われることは日常茶飯事で、花形女優の一人には自分の客に色目を使ったとぶたれたこともある。
 だから、慣れている。もうそれくらいのことで痛みなど感じない。
 
 それよりもクロードの恋の話の方がよほど気がかりに思えて、鼓動が滑稽なくらい速まってゆく。
 バイオレッタは侍女の悪口よりもクロードの恋愛遍歴の話に傷ついていたのだった。
 
(クロード様……。やっぱりその手のことに関して華やかな方なのね……)
 
 汚らわしいとは思わない。優しげなおもてに騙されがちだが、クロードだって立派な男性だ、女性を求めることくらいあるだろう。
 それなのに、話を聞いてちくりと胸が痛んだ。
 経験豊富だと彼女たちは噂していた。
 バイオレッタも同じように遊ばれるのかもしれない。飽きられたら捨てられるのかもしれない。
 きちんと愛を告白し合ったにもかかわらず、そんな疑念がふっと生じた。
 
 思えば出会ったばかりの頃から、彼はすり寄ってくる貴婦人たちに対して妙に冷ややかだった。
 それはつまるところ、相手が女性だからといって特別な執着心を抱いたりはしないということなのではないか。
 
(わたくし相手でも、あの方は不要になれば切り捨てるのかもしれない)
 
 自分にとっての愛は情欲と喪失感を満たすためのものでしかないと、クロードは言った。
 それはきっと、色恋の相手に対して見切りをつけるのが早いということだ。自分が満たされれば、きっと彼は次の婦人の相手をするのだ。
 ついそんなことまで考えてしまい、バイオレッタはうなだれる。
 
(……そんな。もしかしてわたくし、最初からそのつもりで言い寄られたの?)
 
 信じたくない、とバイオレッタは唇を噛む。
 これまでずっと、物分かりはいい方だと思っていた。なのにこの感情は暴れ出す一方で、まるで聞き分けてくれない。
 
(わたくしだけ見てほしいって思っていたわ。でも、どうしたらいいの? クロード様とのこれからに、全然自信が持てない……!)
 
 
「バイオレッタ様……?」
 クララが身をかがめて顔を覗き込んでくる。
 バイオレッタはぽろぽろと転がり落ちていく涙を必死で拭った。
「わたくし、色事については本当に疎くて。本当に、どうかしていたわ……」
 クララは温かくバイオレッタの肩を抱き寄せた。
「そんなことはありませんわ。人を好きになるということに関してだけは、過去は些末事です。……そうは思いませんこと?」
「……クララ」
「人間のそういった感情は、特に抑制がきかないものです。そして恋は始めるものではなくおちるものだといいます。バイオレッタ様の恋も、気づいたときには始まっていた、そうなのではありませんか?」
「ええ……」
 
 ……そうだ。「始めた」のではない。クララの言う通り、「おちた」のだ。
 最初からクロードの心を得ようと目論んで行動していたわけではない。
 なのに、いつの間にか彼に惹かれていた。彼が欲しくなってしまった。ただそれだけのことだ。
 
 バイオレッタはしゃくり上げながらぽつりとつぶやいた。
「人を好きになるのって、苦しいのね。いつでも一緒にいられるわけではないし、相手を全部自分のものにしてしまえるわけでもない。おまけに相手がわたくしに何か一つでも隠し事をすると、それだけで嫌な気持ちが芽生えてしまう……」
 しかも、大っぴらに公表できる恋というわけでもない。
 たとえ誰かに打ち明けたとして、無邪気に祝福などされるはずもない。
 そんな茨の道に、バイオレッタはいつしか踏み込んでしまっていたのだ。
「わたくし、今きっととても醜い顔をしているわ。だって、心がぐしゃぐしゃなんだもの……!」
 嗚咽を漏らすバイオレッタに、クララはそっと問いかける。
「バイオレッタ様は、シャヴァンヌ様の現在と過去、どちらに興味がおありなのですか?」
「……今だと思うわ」
 肩を震わせながらバイオレッタは答えた。
 どんなにあがいても過去には戻れないのだから、出会う時期が遅すぎたのだと割り切るしかない。今のクロードを大事にするしかない。
 クララはうなずいた。
「今のシャヴァンヌ様がバイオレッタ様を見つめているのは変えようのない事実なのですから、今現在のあの方のお気持ちを大切にして差し上げて。シャヴァンヌ様はシャヴァンヌ様なりに、貴女を愛おしんでいらっしゃると思いますわ……」
「そう、そうね……。ありがとう、クララ……」
 口ではそう言いながらも、バイオレッタの胸には確実に何かがわだかまっていた。
 
 
***
 
 
 その日、クロードから言伝があったというサラに、バイオレッタはすげなく「お断りしてちょうだい」と返した。
「今はどうしてもそんな気分になれないからと」
「かしこまりました」
 
 あれからバイオレッタは、その都度もっともらしい理由をつけてクロードの誘いを断り続けていた。
 今はなんだか彼に会いたくないと思ってしまうのだ。
 なのに、何度断ってもめげずに誘いを寄越すクロードに、バイオレッタは複雑な気持ちになっていた。
 今はどうしても楽しい気分で会えそうにない。なのに良心が咎めて苦しくなる。
 
 そこで差し向かいのピヴォワンヌが瞳をぱちぱちさせた。
「あれ? またあの魔導士からの誘い、断っちゃうわけ?」
「……ええ」
「あたしが知る限りでは最近断ってばっかりよね? 珍しいじゃない」
「……」
 パステルミントのドラジェを噛み砕きながら、ピヴォワンヌが怪訝そうな顔をする。
「……何かあったの?」
「……」
 バイオレッタは思わず黙り込んだ。
 
 それを聞かれるのが一番辛い。
 ピヴォワンヌに話したら、きっとクロードを目の敵にするはずだ。
 彼女はクロードのそういっただらしないところに関しては敏感だ。
 いたずらにバイオレッタを傷つけないでくれ、そんなことをしたら許さないと、彼女は何かにつけてクロードを牽制しているほどなのである。
 
 だが、これはバイオレッタ自身の問題だ。ピヴォワンヌに吐露したところで、彼女と共有できるような類のものでは決してなかった。
 バイオレッタはクロードを愛している。
 そして、彼に対して強い執着心のようなものを抱いてしまっていることは間違いない。
 それはピヴォワンヌに対して抱くものとは全く異なる熱量のものであり、種別も違っている。
 
 もちろん、ピヴォワンヌに対しても、触れたい、抱きしめたいと思うことはある。
 綺麗な人形を可愛がるように、愛玩するように。そして己の分身にするようなつもりで、甲斐甲斐しく面倒を見てやりたくなる。
 
 しかし、クロードに対するそれは根本的な部分でもっと違っていた。
 魂の部分が求めているとでもいえばいいのだろうか。ひとたび口づけられ、抱きしめられると、さらに深い触れ合いを望みたくなってしまうのだ。
 
 これはバイオレッタにとっても不可思議なことだった。劇場で酔客に絡まれたとき、こんな気持ちにはならなかった。早く離れてほしい。どこかへ行ってほしい。そう強く願ったほどだ。
 
(なのに)
 
 クロードだけなのだ……、バイオレッタにそんな感情を抱かせるのは。
 しかも、触れ合いが苦痛でないばかりか、今のバイオレッタは確実に彼に悋気を起こしてしまっている。
 彼にとっての特別な女性というわけでもないのに、彼を独占したい、どこへも行かせたくないという感情で支配されている。
 
(もう嫌……!! こんなの、苦しいし浅ましい……!! だってわたくし、あの方と何かを約束したわけではないのだもの)
 
 クロードは確かにバイオレッタを愛してはいるのだろう。だが、それだけだ。
 愛しているからといってバイオレッタ一人に時間を割かなくてはいけないわけではないし、他の女性たちと会話をしてはいけないということにもならない。互いに未来を約束した仲というわけでもないのだから。
 それを思えば、確かなものなんて何もないのだ。クロードの言葉通り、愛とはただのまやかしなのかもしれない。その場限りの夢物語にすぎないのかもしれない。
 
(だけど……そんなのって……!)
 
 そんな風に思うのは、悲しい。
 愛があったからこそ、自分は今ここにいる。このいのちを謳歌している。
 愛に破れたからといって、この世にそうしたものが存在しないなどとはどうしても思いたくなかった。
 たとえそれがバイオレッタに与えられるものではないとしても、そんな卑屈な思いに浸りたくはなかった。
 
「……バイオレッタ? あんた、本当に変よ。どうしたの?」
「何でもないの。ただちょっと、考えたいことが増えてしまっただけよ」
「ふーん」
 雰囲気を読んでくれているのか、ピヴォワンヌはそれ以上深入りしてこなかった。
 
 バイオレッタは軽く唇を噛みしめると、白銀の髪をくしゃっとかきやった。
 実は、バイオレッタにはもうひとつ気がかりなことがあった。ミュゲのことだ。
 
(わたくしはどうしてあの時叩かれたのかしら)
 
 あの日頬に走った痛みに、ミュゲの内面を一瞬だけ垣間見たような気がした。苛烈さや冷酷さといった、彼女の鋭利な感情を。
 彼女が自分たちに向けて放った「わたくしにものに手を出すからよ」という一言も、どこか不穏な感じがした。
 
(……理由がわからないからなんだか怖いわ。わたくしもピヴォワンヌも、ミュゲ様のものに手を出した覚えなんてないはずなのに……)
 
 もしや自分は、知らず知らずのうちに何かに巻き込まれてしまっているのだろうか?
 もし本当にそうだとしたら恐ろしいと感じた。バイオレッタはただ日々を平穏に生きていきたいだけなのだ。
 ……少しでも気を抜いたら泣き出してしまいそうだと、バイオレッタは思わずごしごし目元を擦った。
 
(何なの……? 何が起こっているの……?)
 
 バイオレッタが泣きそうに顔を歪めると、ピヴォワンヌが案じてくる。
「バイオレッタ……?」
「ごめんね、ピヴォワンヌ……。今日はもう、一人になりたい」
 その言葉に、彼女は訝しげに、けれども心得たようにうなずいた。
「……あんまり無理するんじゃないわよ。あんたは自分で思ってる以上に頑張りすぎてるんだから」
「ええ……。本当にごめんなさい。嫌じゃなかったらまた遊びに来て」
「何言ってんのよ。来るに決まってるじゃない。それより、ちゃんとやすんでよね。顔色悪いわよ」
「……ええ。ちょっとだけ横になるわ」
 うなずき、バイオレッタは何とかピヴォワンヌを見送った。
 
***
 
 
 クロードはプランタン宮を出ると、北区へ抜ける裏門へ急いだ。
 執務のあとはここから箱馬車に乗って私邸へ帰る。
 ふと頭上を見上げると、先ほどまで明々としていた夏の夕空はしだいに宵闇に支配されつつあった。
 馬車に乗り込み、いつもの癖でクラヴァットを緩める。
「邸へ」
 御者にそう言いつけると、箱馬車は小気味よい音を立てて走り出した。
 クロードは窓から夏の夜空を見上げる。紺青の空には無数の星々が瞬いていた。
 ひときわ明るい銀色に輝く星を見つけ、反射的にバイオレッタの姿が脳裏に浮かぶ。
 白銀しろがねの柔らかな髪、すみれ色のあどけない瞳を持った、ひときわ可憐な王女の姿が。
 
(なぜ……)
 
 ずっと感情を戒めてきた。これはただの遊戯ゲームに過ぎないと。
 ある目的のために、クロードは彼女を懐柔するつもりでいる。彼女を騙し、利用しようとしている。
 だが、クロードの心は今、明らかに変わりつつあった。
 白絹の手袋をした手で、彼は口元を覆った。
 
(ありえない。なぜあの少女なのだ。あの姫は駄目だ。けして惹かれてはならない存在……)
 
 苦悩し、クロードはまぶたを閉ざす。
 甦ってくるのはある夜の光景だ。記憶の奥底に封じ込めたはずの一場面が色鮮やかに浮かび上がってくる。
 爆ぜる炎。切りつけられた左腕。滴る鮮血。紅蓮の中から現れたのは――……。
 
 ……あの夜、クロードは確かに道をたがえたのだ。
 
(あの日あんな選択をしなければ、私はバイオレッタ様をもっと素直に愛することができたのだろうか)
 
 しかしながら、あの日の選択がなければクロードは今ここにはいなかったはずだ。恐らく屍となって独り朽ちていたはずである。それを思えば、今は恵まれているといえるのだろう。
 
 今のクロードには温かな想いを向けてくれる相手がいる。それも、手を伸ばせば触れられる距離に。
 バイオレッタ。クロードが愛おしく思う、ただ一人の少女。
 この胸にこみ上げてくる想いはまぎれもなく「恋情」と呼べるものだ。
 甘やかな痛みも、狂おしいほどの情熱も、身を焼くほどの嫉妬心も。すべてがバイオレッタによって生み出された感情なのだ。
 
(けれど……)
 
 どうしても認めたくないと、クロードは唇を噛む。否、認めるわけにはいかないのだ。この「因縁」がある限り。
 クロードは顔を歪める。
 
(けれど、この因縁がなければ、私とバイオレッタ様は出会うことさえなかったのだ……)
 
 この「因縁」だけが、二人を繋ぎ、壊す。
 そして、想えば想うほど、クロードは彼女を傷つけざるを得なくなる。
 かつての伴侶であった「彼女」を選ぼうとすれば、必然的にバイオレッタは傷つけられる。そう頭では理解していても、どうしても己を抑えることができない。
 そう。ゆくゆくは、今の平穏も崩れ去るのだ。否、クロードが自らの手で破壊するのだ――。
 
 クロードは嘆息した。次いで、自嘲するように笑う。
「私の手は、何かを壊すことしかできない手だ。思えば、昔からずっとそうだった……」
 
 やっと手に入れた愛は、ある時あっけなく終わりを迎えた。
 すべての発端が自分にあったと知ったとき、彼は自身を強く責めた。「彼女」を殺したのは自分だと。自分は決して許されないことをしたのだと。
 時の狭間に独り取り残された彼は、かつての幸福の再構築を試みた。壊れたものを再び作り直そうとした。
 どんな犠牲を払ってでも、あの幸せだった日々を取り戻したかった。「彼女」の笑顔がもう一度見たかった。
 そしてようやくたどり着いたのだ……、バイオレッタという少女に。
 
 いずれ消えゆく存在と知りながら、クロードは彼女を深く愛してしまった。
 どうせ壊すことしかできない手だとわかっていても、あの温かさを独占したいと望んだ。また、「罪」が始まった。
 
「……姫」
 
 この頃、自分が出した誘いはすべて断られていた。不審に思って私室を訪ねてみても、侍女に追い払われるばかり。手紙を出してみても返事すらもらえない。
 しかし、断られれば断られるほど彼女が欲しくなる。
 ここまで深く愛執に身を浸したのだ、もはや後には退けない。
 もはや今のクロードには感情のままに彼女を求めることしかできないのだ。
 
 あの笑顔も、過去も。できることなら未来さえ欲しい。
 会いたい。こんなに胸が軋む夜だからこそ、彼女に会いたいと思った。
 
 クロードは御者に言い放つ。
「――城へ、引き返してください」
 
 
***
 
 バイオレッタは、寝室の窓から夜空を見上げていた。
 夜着の上に羽織った繊細なレースのカーディガンを手繰り寄せ、ひとつ息をつく。
 アルバ座の大部屋と違い、菫青アイオラ棟のバイオレッタの私室はどこもかしこも快適だ。ここへ来てから飢えや寒さを感じたことはない。
 夏用の薄い夜着はほどよく風を通すから涼しくて爽やかだし、レース編みのカーディガンはあくまでも上品に肌を彩ってくれる。
 恵まれている。それは間違いない。
 けれど、バイオレッタの心は空虚だった。
「本当に、わたくしって贅沢ね……」
 
 
 ……昼過ぎからしばらく、この部屋にこもって泣いていた。
 サラが心配してくれて申し訳ない気持ちになったが、とても顔を出せる状況ではなかった。
 運んでもらった夕食に申し訳程度に手をつけ、バイオレッタは彼女を早々に下がらせていた。今日だけは弱り切った姿を他人に見せたくなかったのだ。
 
 バイオレッタももう子供ではないから、クロードの過去だって受け入れられないことはない。
 彼に艶めいた噂が絶えないということも、もともと愛を尊重するような性分ではないということも、理解しようと思えば理解できる。
 だが、浮かれていた自分がみっともなく思えてきて涙が止まらなかったのだ。
 過去に恋の相手が大勢いたのなら、きっと飽きられるのも早いだろう。侍女たちの言葉通り、バイオレッタは幼い。行動力がないうえ、いつも誰かに頼ってばかりで、時々自分でも嫌になるほどだ。
 これ以上傷つく前に、クロードとは距離を置くべきだ。そう考え、バイオレッタは早々に初恋に見切りをつけようとしていた。
 侍女たちはクロードのことを「手が早い」と言っていた。過去の恋人と比べられて捨てられるのは怖かった。
 クロードの「最愛」になれるような自信など端から持ち合わせてはいないのだ。これ以上はどうしても進めない。
 
 そしてもう一つ思うことがあった。それは、いずれ自分が異国へ嫁がねばならなくなるかもしれないということだ。
 最初から行く末の決まっている恋など無謀だ。きっと心にしこりが残る。クロードのことも傷つけてしまうかもしれない――。
 そう思うのに、一度傾き出した心がどうしても止められず、ベッドに横たわってバイオレッタはただ泣いた。
 
(馬鹿……。どうしてこんなにわがままなの……!)
 
 距離を置かなければいけない。
 それは至極簡単なことで、これからは異性としてではなく臣下として彼を見ればいいだけの話だ。わかっているのに。
 
「……っ、でも……! そんなの、できない……!」
 
 バイオレッタは敷布を握りしめた。
 忘れるには思い出がありすぎるのだ。
 それは塞がりかけた傷口を無理やり掻きこわすのと同じだ。無理にすべてを忘れようとすれば、変に意識してしまって余計に辛くなる。今は時が癒してくれるのを待つしかない。
 だが、それは一体いつの話になるのだろうか。クロードのことを完全に忘れるまでの間にも、彼とは王宮で顔を合わせなくてはならない。
 そんな日々に、自分は耐えられるだろうか。いや、きっと耐えられない……。
 勝手に恋におちて、勝手に傷ついている。そんな自分が嫌でたまらなかった。
 
 
 そうしてひとしきり泣いたら、月がのぼっていた。
 月明かりにいざなわれて、バイオレッタは寝台から身を起こした。
 月光の穏やかさはクロードを思わせる。いつも遠くから静かに見守っていてくれる彼を。
 少しだけ冷静になったバイオレッタは胸の裡でつぶやいた。
 
(クロード様がいらっしゃらなかったら、きっとわたくしは探し出されることもなかった……)
 
 リシャールの命であったとはいえ、クロードはずっとバイオレッタたちを探し続けてくれていた。彼女を迎えに、アルバ座まで来てくれた。
 一緒に過ごした時間だって全部宝物だ。守ってくれたこと、隣で支えてくれたこと、喜びを分かち合ったこと……。彼が弱い部分をさらけ出してくれたことも、みんな。
 
 そこでバイオレッタは微笑む。それだけでじゅうぶんだ、と思った。
(そうね。この思い出だけあればいい。これ以上を求めることはしないわ。もうこの想いは、眠らせてしまいましょう……)
 
 
 
 そして、今。
 バイオレッタは硝子越しに月を見上げていた。硝子の表面にそっと手を滑らせ、月に向けて伸ばしてみる。
「……こうやって手を伸ばせば届いたのかしら」
 ぽつりとつぶやき、バイオレッタは硝子の扉をそっと開いた。
 菫青棟の一階にはテラスが設えられている。侍女たちが柵の部分につる薔薇を這わせてくれており、バイオレッタのお気に入りの場所でもある。
 少しだけ夜風に当たりたいと、バイオレッタはテラスへ出てみた。
 ほどいた銀の髪が、生ぬるい風に煽られてさらさらと散る。見上げる月は、わずかに赤の染料を落としたような不思議な橙色だった。
「……やっぱり似ているわ」
 クロードの瞳にそっくりだ、と思いついて、バイオレッタはまた気持ちが沈み込むのを感じた。
 
(クロード様……)
 
 気持ちを封印したと思っても、まだ未練はある。だから余計、どうしていいかわからなくなるのだ。
 本当は、まだ想い続けていたい。彼の好意に応えたいし、向き合いたい。たとえ手に入らないのだとしても、クロードの心が欲しい。
 月を見上げるたびにクロードのことを思い出して切なくなるのは、耐えられない――。
 
 バイオレッタはごしごしと目を擦った。また涙があふれてきそうになって、慌てて顔を覆う。
「本当に、贅沢な悩みだわ……」
 
 と。
 ひらひらと、視界で何かが輝いた。
 
(……え?)
 
 思わず顔を上げる。夜の花園を行き交う「何か」が見えた。それが身を翻すたび、妖しいほどの輝きを纏った翅が躍る。
 ……色とりどりの蝶だった。金銀の光の粒子を振りまきながら、それらはバイオレッタを勇気づけるように辺りを飛び回った。
 
「この蝶、どこかで……」
 
 そうだ、クロードの蝶だ。彼が闇の魔術で生み出す、幻の蝶。
 だが、一体どうしてこんなところに――?
 
「……姫」
 気遣わしげな低い声が聞こえた。この声はまぎれもなく彼のものだ。
「……クロード様!?」
 菫青棟の庭にたたずんでいるクロードの姿に、バイオレッタは息を詰めた。
 クロードの周囲を、薄闇に溶け込みながら錦の蝶が羽ばたいている。
 彼は困ったように微笑んだ。
「……このような時分に申し訳ございません」
「クロード様……、どうして」
「本当に、言い訳のしようもなく……。邸への道すがら、急に貴女にお会いしたくなってしまい……。急ぎ王城へ引き返してきたのです」
 バイオレッタはくしゃりと顔を歪めた。
「……どうして。わたくし、あなたを何度も拒んだのに……!」
「姫……?」
 落ち着いた声音に、浅ましくも鼓動が高鳴る。
 ……どうしてこんなに自分を想ってくれている人を一瞬でも疑ったりしたのだろう。彼の好意は今、まぎれもなく自分に向けられているではないか。
 
(……クララ。貴女の言ったとおりだったわ)
 過去など些末事だ。「現在」のクロードを思えば大したことではない。
 
「泣いていらしたのですか」
「クロード様……、わたくし……!」
 バイオレッタは両手で顔を覆った。
「ごめんなさい……! わたくし、信じられなくて……!」
 クロードはテラスに近づいてくると、静かに訊いた。
「……どうなさったのです? 何が貴女をそのように泣かせているのですか」
「……、あなたを、信じたいのに……、っく……!」
 しゃくり上げるとますます涙がこぼれてくる。
 どう名状してよいかわからず、テラスの柵に巻き付いたクロードの手に、バイオレッタは自身の指先を絡めた。
「姫……」
「ごめんなさい……。わたくし、聞いてしまいましたの……。昔のあなたの、恋のお話……。とても華やかな恋を繰り返していらっしゃったって、侍女たちが噂をしていて……。それで、だんだん自信がなくなってきたのです。わたくしでは、クロード様に釣り合わないんじゃないかって。いつか、飽きられてしまうんじゃないかって……」
「そう、ですか……」
 クロードの声が明らかに沈んだ。やはりこの話をするべきではなかっただろうかと身を縮こまらせていると、ふいに静かな問いかけが降る。
「……姫。貴女は侍女たちの話を信じたいのですか? 今目の前にいる私の言葉よりも?」
「……それ、は」
 彼を信じたい。だが、恐ろしいのだ。
 
 バイオレッタの胸に、様々な想いが飛来する。
 純粋にクロードを慕う気持ち。自分の心を守りたいと思う気持ち。
 このままクロードを愛し続けていいのか迷う気持ち。
 クロードへの疑念や、胸にわだかまる少しばかりの苛立ちも。
 すべての感情がないまぜになって思考を支配する。
 このまま前に進みたい。けれど、傷つくのが恐ろしくて素直にそうすることができない。
 
 なおもうつむくバイオレッタに、クロードは静かに言った。
「顔を見せて、私の姫。私を見つめて……」
 涙をぬぐい、バイオレッタはそろそろとクロードを見た。
 クロードの手が伸びてきて、濡れた頬に手を添えられ、上向かされる。
「ほら……。貴女の瞳に映る私は、どんな表情をしていますか」
「わ、わからな……」
「ちゃんと見てください。怯えないで、今貴女に触れている男の姿をよくご覧になって下さい」
 いささか強い調子で繰り返され、バイオレッタはのろのろとクロードのおもてを見つめる。
「いかがですか? 私は今、どんな顔をしていますか……?」
「……クロード様、とても温かいお顔をしています。まるで何かを、慈しむような……」
 テラスから見下ろすクロードの黄金の瞳は濡れたようにきらきらしていて、とてもバイオレッタを傷つけたがっているようには見えなかった。
 ……泣いているバイオレッタの心を奥底まで見通そうと、懸命に視線を注いでいる。そんな目だ。
「貴女が今ご覧になっている私は、貴女を傷つけようとしていますか?」
「……いいえ。どうしてかしら。初めてお会いした頃より、ずっと優しげに見えます。もしかして、わたくしを案じてくださっているの……?」
 クロードはほのかに笑った。
「先ほどお見かけした時、一体誰が貴女を泣かせたのかと腹立たしくなったほどです。まさか、それが私だったとは思いもよりませんでしたが……」
 何も言えずに縮こまるバイオレッタの頬を、クロードはなだめるように指の背で撫でる。
「貴女の御心に触れて、貴女という女性を理解して……私は変わりつつあるのです。根雪が春の光に解かされるように、ゆっくりと。本音を言えば、私とて貴女の心に触れるのは恐ろしい。他者の心に触れるとき、人はそれまでとは違った自分を自らの中に見出す。それを思えば、私もすでに貴女と同じ苦しみを抱えている……。貴女に、変えられてしまっている」
 バイオレッタははっと瞳を見開いた。すみれ色の双眸が月明に潤む。
「私の心にここまで入り込んできたのは、姫、貴女が初めてです。貴女は決して興味本位で近づいてきたりなどなさらなかったでしょう。そして何より、私の本質を見てくださっている。私のすべてを受け入れてくださり、あまつさえそのままでいいと言ってくれる。見せかけの私だけではなく、脆く弱い本来の私の姿まで認めてくださる……。このような関係は初めてでした」
 クロードはしなやかな指先を胸にあてがって懇願する。
「貴女になら、私はすべてを捧げてもかまわない。この肌も、愛も、血の一滴に至るまで、何もかも捧げる覚悟はできています。お願いです、姫。どうぞ私を愛して……。愛し続けて。貴女がお嫌でないというのなら」
 バイオレッタは頑是ない子供のように何度も首を打ち振った。
「嫌じゃありません……、そうじゃないの……! ただ、わたくしでは駄目なんじゃないかと思っただけですわ。怖いのです……、クロード様がいつかわたくしのところからいなくなってしまうんじゃないかって。わたくしを、捨ててしまわれるんじゃないかって」
 そこでバイオレッタは力なく自嘲した。
 一体何を言っているのだろう。これでは子供のわがままだ。婉曲かつ幼稚な要求をして、クロードを縛りつけようとしている。
 案の定、クロードは驚いたようにつぶやいた。
「……姫」
 バイオレッタは何度も「ごめんなさい」と繰り返した。みっともなさから、涙が次々にあふれてきて止まらない。
 そのしずくを、クロードが優しくすくいとる。
「今の私にとっては、貴女だけが真実です。姫、貴女は私に新しい感情を与えてくださいました。他人を気遣う心、何かを守ろうとする心。貴女がその身をもって私に教えたのです。今の私にはもう、貴女だけが生きる理由だ。愚かしい男だとお思いになるかもしれませんが、信じてください」
「愚かしいだなんて……!」
 クロードはバイオレッタの手を取り、指先を絡ませた。触れ合わせた箇所から、じんわりと熱が伝わってくる。
「そのお気持ちを、どうか棄てておしまいにならないで下さい。こうして私を好きだと言ってくださる貴女が、私には愛おしい……。私はずっと貴女を探していたのです。もう貴女を、放したくありません……」
「わたくしも……、この気持ちを棄てたくない……! クロード様とずっと一緒にいたい……。一緒に話をして、笑いあって……、時には涙して……。そんな風に、生きていきたいのです……!」
「ならば、何も問題などないではありませんか。私たちの想いは通じ合っていて、こんなにも清らかで。空を吹き渡る風のように、どこまでも自由なのですから」
 白い頬に唇をつけられ、バイオレッタは泣くのをやめた。ためらう間もなくクロードの腕が伸びてくる。
「――おいでなさい、私の姫。夜の美しさを教えて差し上げます」
 
 
***
 
 
 幼子のようにテラスから抱き上げられたバイオレッタは、菫青棟の庭園をクロードとともに歩いた。
 月明かりがおぼろげに照らし出す庭園は、まるで別世界だった。見慣れているはずの風景。なのに、隣を恋人が歩いているというだけで、透明な膜が張られたようにすべてが霞んでゆく。
 咲き乱れる花々も、装飾が彫り込まれた石柱も……すべてが見慣れないもののように映る。この居住棟の主は自分だというのに、まるで知らない宮殿に迷い込んでしまったかのようだ。
 その上、瞳に映る景色はどこまでも美しくて、バイオレッタをさらに混乱させるのだった。
 
(……本当に美しい夜。この中にずっと揺蕩っていたい……)
 
 ひとしきり散策を愉しむと、クロードは庭園の中でも初夏の花々がとりわけよく見える場所へバイオレッタをいざなう。
 二人は揃って月を見上げ、花の香りを吸い込み、「今」という一瞬を謳歌した。
 
「……美しい光景でしょう」
「ええ……。不思議だわ。クロード様と眺めると、いつもと同じ風景も夢みたいに綺麗……」
 
 しっとりと月光に濡れる白亜のベンチの上、バイオレッタは夜着姿のままクロードの胸に抱かれていた。
 彼の胸は温かく、時折とくとくと小さな音が聞こえてくる。それは彼もまた生きているからだと思いつき、バイオレッタはふと泣きたくなった。
 
 ぎゅっとしがみつく。薄着で抱きつくのは恥ずかしかったけれど、それ以上にこの熱をクロードに伝えたかった。
 普段言いたくても言えないわがままも、夜が訪れるたびに胸をよぎる不安感も。ふいに襲い掛かる寂しさも――。
 全部を、伝えたかった。
 火照った赤い顔を悟られないように、バイオレッタはその胸に顔を埋めた。
 
「クロード様……。わたくしだけが好きだと……、言ってくださいませんか」
「……姫」
「わたくしは不安でしょうがないのです。クロード様がいつか、どこかへ行ってしまうんじゃないかって。わたくしの手なんて届かないくらい遠い所へ……」
「私はどこにも参りません。こうして貴女の隣にいます。私がいつかどこかへ行くとしたら、それは貴女を伴ってでしょう。恋の高みか、はたまた欲望という名の奈落か……。ですが私は、仮にそうなったとしても一向にかまわないのです。貴女が一緒なら、私はどんな責め苦にも耐えられます」
 
 ……恋の高み、欲望という名の奈落。
 言葉こそ違うものの、それはどちらも同じ場所にあるもののような気がした。
 クロードを知れば知るほど、バイオレッタの心は深みに嵌まっていく。
 それは「恋」でもあり「欲望」でもあった。
 そしてその複雑な想いは、「楽園」でもあり「地獄」でもあるのだった。
 
「私の姫……。お願い事はそれだけですか……?」
 背に流れた長い銀の髪を梳かれる。細い指先が髪をかき分けるたびに、頬が熱くなった。
「……他の女の人に優しくしては、いやです」
 耳元でクロードがついたため息に、また心が重くなる。
「姫……」
「だって……! わたくしがいないときだって、きっとクロード様は女性に優しくしていらっしゃるのでしょう? わたくしは薔薇後宮からは簡単には出られない……。あなたがどこで何をしていらっしゃるか、知るすべすら持たないのに……」
「……今のままでは不公平だとおっしゃりたいのですか?」
 バイオレッタは赤い頬のまま、こくりとうなずいた。
「晩餐会でも、舞踏会でも。いつもクロード様は魅力的な御婦人方とばかり……。本当はわかっています……、あれはただの社交の一環だということ。ですが、わたくしがあなたの一番大事な存在だなんて、すぐには信じられません。そんなこと、一体どうして信じられるでしょう」
「貴女を不安にさせ、そのようなお顔にさせたのは、すべて私……なのですね」
 バイオレッタの沈黙に、クロードは嘆息する。
 そして、彼女の髪を撫でながらその耳元でささやいた。
「では、これからは貴女だけを愛すると誓いましょう。貴女だけに繋がれ、貴女だけに従う虜(とりこ)になると。それならいかがですか」
 思わずバイオレッタは泣き笑いの顔になる。
「そんな……。そんなことは、誰にもできませんわ。人の心は移ろいやすいもの。誰か一人がずっとその心を独占し続けるのは不可能で――」
 
 そこでクロードはつと身を放した。バイオレッタの顔を覗き込み、これまでとは異なった真摯な口調でたたみかける。
「姫。私はそのような理屈が聞きたいわけではないのです。ただ貴女の許しを請い、貴女の本当のお気持ちをお聞きしているだけ……。いかがでしょう、姫。貴女は私を……、愛していらっしゃいますか」
 理屈を一切交えるなというなら、心は決まっていた。
 
(わたくしの、気持ちは……)
 
 バイオレッタは再びクロードに寄りかかると、その胸に頬をすり寄せる。
「……ええ。愛していますわ。クロード様を……、クロード様だけを」
「ならば私は、貴女のものになりましょう。永遠に貴女だけを愛する男に」
 顔を上げると視線が絡み合った。バイオレッタはためらうことなくその頬に唇を寄せ、口づける。
「クロード様がわたくしのものになって下さるなんて、夢みたい……」
 細い顎に指をかけられ、上向かされる。深く口づけると、クロードはささやいた。
「姫の方こそ、お忘れなきよう。これで貴女は、私のものだ……」
 
 
 ……見えない鎖が、また引かれた気がした。
 それは今まさにバイオレッタの四肢に巻き付いているものだ。
 鎖の先はクロードが握っていて、拘束されたバイオレッタはただ彼のいいように引きずられるしかない。この想いはまさしくそういった類のものだった。
 この夜のキスで、バイオレッタはそれをさらに強く自覚するしかなくなった。
 
(わたくしはもう、逃げられない――)
 
 

 

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