……早朝の菫青棟。
寝室の掛け鏡を覗き込んで、バイオレッタは一つため息をついた。
(消えちゃった……)
指で首筋をなぞる。そこには数日前まで確かにクロードの所有の印があった。
あの時、少し驚いたけれどとても嬉しかった。クロードの中の情熱を、一瞬だけ垣間見た気がしたのだ。
(もっと見せてくださってもかまわないのに)
と、そこまで考えてから、バイオレッタは大胆なことを考えてしまう自分を恥じた。
一体何を考えているのだろうと、鏡の中の真っ赤になった顔から目を逸らす。こんな締まりのない顔、ちっとも自分らしくない。
(でも……、素敵な夜だったわ……)
クロードはあの夜、特に香りのよい薔薇について詳しく教えてくれた。薔薇の系統の話や品種の話、香りの大まかな種類などについて聞かせてくれ、その後は一緒に月を見上げて他愛のない話をした。
「こちらを」と着せかけられた大きな上着からはふわりと香水の匂いが漂ってきて、バイオレッタをさらにくらくらさせた。
いやみにならない程度の纏い方がクロードの好みらしく、普段も彼のかなり近くに寄らないと感じられない芳香である。それだけに余計嬉しかったのだ。
クロードに出逢うまでは、正直、「香水を纏う男性」というものには軽薄な印象しか持てなかった。動物性の香料の誘うような匂いというのは、バイオレッタはどうも好きになれなかったからだ。
けれど、クロードの香水の香りは心地いい。女性を誘惑するような挑発的なものでもなければ、特に目立つようなものでもない。花の香料がふわりと匂い立つ優しい匂いで、つけているのがクロードでなければつい忘れてしまいそうなほどの儚さがある。
そして何より、あの香りは彼自身に馴染んでいる。白粉のように柔らかくて落ち着きのある匂いだと、バイオレッタはいつも思っていた。
(……絶対に忘れたくない夜、とでもいうのかしら。夜が過ぎ去って朝が来てしまうのが惜しかったくらい……)
夢のような時間とは、まさにああいう時間のことをいうのだろう。
首筋に仕掛けられた激しい口づけも、そのあとで頬へ贈られた優しい口づけも。……どちらもバイオレッタは忘れられなかった。
≪舞踏の間≫に戻る途中で父王に見つかってしまい、咎められるだろうかと不安になったが、クロードの機転のおかげで事なきを得た。リシャールはクロードの忠誠心に心底満足したようで、すぐさま去っていった。
(ただ……、≪舞踏の間≫に着くまでずっと無口でいらっしゃったのよね……)
まさか何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
“生の理を外れた魔物”と自称する通り、彼は年齢にそぐわない落ち着きのある青年だ。どういった言動が怒りの引き金になってしまうかということも全くわからない。
もしかしたら、バイオレッタも思いがけないところで彼を怒らせてしまっているのかもしれない。
「クロード様……」
穏やかな双眸のためか一見優しいように見えるけれど、本来のクロードはとても冷めた男のような気がしてならない。
普段は如才なく笑み、すべての矜持を棄てて国王やその姫君たちにかしずいているクロード。立ち居振る舞いも華やかで、今の生活にもきっと不満はないのだろうと思わせる。バイオレッタといるときも余裕たっぷりで、慌てた様子を見せることは全くない。
――けれど。
どうして彼はあんなに寂しそうなのだろう。どうして、あの瞳はあんなに冷たく輝いているのだろう。
バイオレッタはクロードの顔を思い浮かべると、そっと胸の裡で問いかける。
(わたくしでも触れられますか……? あなたの瞳の奥に眠った情熱に)
凍り付いているのなら、溶かしたい。
(あなたが根雪を解かす光を、待っているのなら――)
***
後宮書庫へ向かう道すがら、回廊の途中に見慣れた後ろ姿を見つけて、バイオレッタはおずおずと声をかけた。
「クロード様……?」
「……姫」
クロードは彼らしくもなく驚いた様子で振り返った。
「……お会いしたかったですわ」
「あ……、ええ……。舞踏会の夜以来ですね。お元気そうで何よりです」
「あの時はありがとうございました。エテ宮の中庭の薔薇が見られてよかったです」
「いいえ……。私などでお役に立てるのでしたら、なんなりと……」
うつむいて、バイオレッタは唇を噛む。
他人行儀な言葉遣いと狼狽したような顔つきに悲しくなってしまう。
(もしかしてわたくし、嫌われてしまったの……?)
思わずそう疑ったが、顔には出さないように努めた。
「……お引き留めしてしまってごめんなさい。ちょっとお話したかっただけなのです。……では」
精いっぱいの笑顔を浮かべたつもりだったが、弱々しいものになってしまった気がする。
(やっぱりわたくしじゃ無理なのかもしれない)
クロードの心に寄り添うことなど、未熟な自分にはきっと不可能なのだ。少し親密になっただけでなんという思い上がりだったのだろう。
弱気な表情を見られたくなくて、クロードの脇を通り過ぎて、足早に書庫へと急ぐ。
次の瞬間、後ろから強い力で手を掴まれた。
(え)
「姫……!」
思わず振り向くと、月光を宿したような双眸に射貫かれた。瞳に宿る色は焦りのようにも思える。
「……クロード、様」
「お待ちください。私は貴女に、まだ何も伝えられていない……!」
「え……」
クロードは狼狽しきった様子で視線をさまよわせる。
「お許しを……! 私は、貴女を……!」
言葉の続きを想像するだけで、頬がふわっと熱を帯びた。
あの夜の出来事。この手の熱さと、自分を強く求める言葉と視線。
そのすべてが嘘ではないのだとしたら、どんなに嬉しいことだろう。彼もまた、この心を欲してくれているのだとしたら。
自ら歩み寄ると、バイオレッタは手を伸ばしてクロードの髪に触れる。その手首を、クロードは愛おしそうに取った。場所を変え、何度も何度も口づける。
バイオレッタはそこで、怯えと同時に湧き上がってくる熱い感情に呼吸を乱した。
こんな風に口づけられると、手袋越しに触れられるのがなんだかもどかしく思えてくる。
薄い布地越しに重なり合った手は、触れ合った箇所からふんわりと温もってゆく。
指先にどこかほっとするクロードの体温が広がり、バイオレッタは知らず知らずのうちに瞳を潤ませていた。
(なんて温かい手……。いいえ、いっそ熱すぎるくらい……)
クロードは再度、バイオレッタの手の甲にキスを落とした。
バイオレッタは息を詰まらせる。
視線、吐息、ぬくもり。
そのすべてでもって、彼はバイオレッタに自身の想いを告げようとしている。
全身でバイオレッタを求めてくれている。
「……姫。叶うのなら、私は貴女に……」
言いよどみ、クロードは切なげに眉宇をひそめる。その腕に手を添え、バイオレッタは微笑んだ。
「ええ。お話を……お聞きしますわ」
クロードもちょうど書庫へ向かおうとしていたというので、≪叡智の間≫へ行くことになった。後宮書庫にある喫茶室で、蔵書を持ち込まなければ飲食も自由だ。
だが、差し向かいに腰かけるなり、クロードは眉根を寄せてうつむいてしまった。
「……」
両手を組むと、彼は険しい表情で黙り込んでしまう。時々重苦しいため息をついたりして、気軽に声をかけるのははばかられる雰囲気だ。
どうすればいいのだろうと、バイオレッタは心配になった。
(もしかして……この前のこと、まだ悪いと思っていらっしゃるのかしら……)
だが、まさか自分から気にしていないなどとは言えない。
例の口づけの痕が消えて残念だったことや、本当は大して不快ではなかったことなど、彼に伝えたいことは色々とある。
しかしながら、そんなはしたないことは口が裂けても言えそうになかった。
バイオレッタはひとまずお茶を淹れることにした。席を立つと、≪叡智の間≫の隅にあるティースペースに向かう。
そしてティーキャディーを取り出し、スピリット・ケトルを据えて湯を沸かし始めた。
……沈黙の下りた≪叡智の間≫は、痛いくらい静かだった。今日に限っては、互いに無言でいるのがなんだか苦痛だ。
バイオレッタはそれが恐ろしくてひたすら湯が沸くのを待っていたが、ふいに絡みつくような視線を感じた気がして思わず振り返る。
だが、案の定何もなかった。クロードは相変わらず両手を組んでうつむいたままだし、今のこの場所には自分たち以外に誰もいない。恐らく気のせいだったのだろう。
バイオレッタは気を取り直してお茶の支度を始めた。
バーナーの火を止めてケトルを持ち上げようとしたとき、思いがけず指がその表面に触れた。
「熱っ……!!」
「姫!」
クロードが駆け寄ってくる。
「……大丈夫ですか」
「あ、はい……」
単なるやけどです、と答え、バイオレッタは手をひらひら動かしてみせる。
クロードはその手を引き寄せて眉根を寄せた。
「ああ、こんなに赤くなって……可哀想に」
「平気ですわ。やけどなんて昔は日常茶飯事で……、……!」
バイオレッタはぎょっとした。
クロードが腫れて赤くなった指先を自身の口元に持っていったからだ。
今にも口腔に引き込まれそうになり、慌てて手を引っ込めて流水でじゃぶじゃぶ洗う。
「だ、大丈夫です! こうして冷やせば、すぐ……」
「おいたわしい。私ごときのためにそのような怪我をなさるとは……」
その言葉に、バイオレッタは首をゆるゆると横に振る。
「そんな。わたくしだって喉が渇いていますし、一緒にお茶を飲むくらいいいでしょう?」
「……ですが」
クロードは何事か言いかけて口を閉ざす。
会話はそこでぷつりと途切れてしまった。
銀製のトレーに二人分の紅茶を載せ、バイオレッタはボンボニエールを添えてテーブルに運んだ。
花の文様が刻まれたシルバーウェアはぴかぴかに磨き抜かれており、ティーセットといいカトラリーといい、うっとりするほどきらびやかで美しい。
カップとソーサーは花模様をベースに金彩装飾がなされたもので、繊細かつ華やかな意匠だ。
「どうぞ、クロード様」
クロードにお茶を差し出すと、バイオレッタは真向かいに腰を下ろした。
可愛らしい黄金のボンボニエールを開け、糖衣のかかったボンボンをつまんで口に運ぶ。合間に紅茶を嚥下して、双方の奏でるマリアージュを愉しんだ。
バイオレッタの飾らない様子につられたのか、クロードもおもむろにカップを取って傾ける。
彼はほうっと息をついた。
「……美味です」
「よかった。紅茶って、実は自分ではまだあんまり淹れたことがないものですから」
彼を安心させたくて、バイオレッタは柔らかく微笑んだ。
「あの、クロード様。先日はありがとうございました」
「いいえ、そのような……。私は何も」
「とてもよい夜でしたわ。薔薇も月も綺麗で、隣のあなたは優しくて……」
バイオレッタとしては本心だったのだが、クロードは瞳をきつく閉ざした。
「……貴女は私をさもいい人間であるかのようにおっしゃる。けれど、私はそのような人間ではないのです」
「そうでしょうか。ですが、わたくしは信じていますわ、あなたを……」
「恋い慕う女性に信じていますなどと言われて、その期待を裏切らずにいられる男が果たして何人いるでしょうか。少なくとも私は、貴女のご要望にはお応えできません」
「どうしてですか?」
返答に窮したのか、クロードは黙り込んだ。
ややあってからゆっくりと唇を開く。
「……私は、清廉潔白な男ではないからです。姫が思っているような存在ではありません。……決して」
「わたくしにとっては、あなたほど好ましく思える殿方は他にいませんわ。もちろん、うわべだけを見て言っているわけではありません。あなたの本来の顔も、わたくしは好きなのです」
舞踏会の夜の激しい口づけを思い出す。一瞬で思考を奪った噛みつくようなキスを。
(本当は、この方は愛情に対してひどく貪欲な人だわ……)
満たされているふりをしながら、本心では愛を欲している。……冷めきった情熱を再び燃え上がらせるような愛を。
そんな悲痛な色が瞳や顔つきに時折表れているのだということを、クロード本人は知らないらしかった。
「もっとわたくしにあなたの色々なお考えを聞かせてください、クロード様。非力なわたくしですが、あなたの支えになりたいのです。そう思ってはいけませんか?」
「姫……」
静かに席を立つと、クロードはしなやかな所作でバイオレッタのそばまでやってくる。
バイオレッタがその顔を見上げると、クロードは彼女の細い顎を捕らえて仰向かせた。
その手がわずかに震えているのを感じて、バイオレッタは息を詰めた。
「私には信じられない。好意も、愛情も……。そんなものは一時のまやかしにすぎないのでは? 情欲や喪失感を満たすための……」
情欲、喪失感といった言葉の羅列に、バイオレッタは彼が人生において愛というものをさほど重要視していないことを悟る。
(そう。あなたは本当はそう考えていらっしゃるのですね……)
その冷ややかな言葉が一体どこまで本心なのかはわからない。だが、バイオレッタは自身と同じ感情の色をクロードに見出し始めている。
すなわち、本当は情熱的に誰かを愛してみたい、同じように誰かに激しく求められてみたいと願う心を。
クロードはただ相手を試すために思わせぶりな言動を仕掛けているだけなのかもしれない。
心の奥底まで到達させるに値する人間かどうか、無意識にふるいにかけているのかもしれない……。
そしてその読みが当たっているとしたら、彼は己のうわべに惑わされて近づいてくるような女性は本気で相手にしないということだ。それこそ一時の愛情の代わりに利用して見切りをつけるのだろう。
バイオレッタはこくりと喉を鳴らし、鈍く輝く黄金の双眸をじっと見つめ返した。
「何がクロード様をそうさせたのかはわかりません。あなたから打ち明けてくださるまでは、知る必要もないことだと思います。……ですが」
バイオレッタはクロードの手首をそっと掴む。
「……そんな風に考えるのは、とても寂しいことです。愛がまやかしで、そういった感情を満たすためだけのものだなんて、わたくしは思いません。だって……、あなたは教えて下さったでしょう? 愛を知らなかったわたくしに、愛情を」
目を見張り、クロードは思わずと言った様子で手を放す。
「……何を……!」
「……わたくしは、あなたの姿を見られるだけでとても嬉しくなるのです。薔薇後宮に顔を見せに来て下さるたびに、何か温かい感情が胸の中に生まれるような気がします。言葉を交わすだけでも、本当は泣きそうになるくらい嬉しくて……。ふふ、おかしいですわよね。ですが、好きな殿方と会えただけでこんなにも幸福な気持ちになれるなんて、今までわたくしは知らなかった。この感情はすべて、あなたから与えられたものですわ」
バイオレッタは立ち上がり、立ちすくむクロードの頬に触れた。……温かい。切なくなるほどに。
「気づいてください、クロード様。本当はあなたにもまだあるのです。誰かを求める心が」
「姫……! 私は……!」
うろたえて後ずさるクロードをそっと抱きしめる。
「……大丈夫ですわ。わたくしはいつでもここにいます」
「バイオレッタ……!」
感極まったようにつぶやき、クロードはバイオレッタの身体をかき抱いた。
「私は、貴女が愛おしい……。このような穢れた私を、いつも赦して受け入れてくださる貴女が……! ですが、怖いのです。私にとっての愛とは、手のひらをすり抜けていく幻のようなもの。汚れきった私の手の中になど、決して収まらないものだからです……!」
力強い抱擁に苦しくなったが、バイオレッタはなだめるように彼の黒髪に手を滑らせた。
「クロード様、わたくしのことを愛おしいと思ってくださっているの……?」
「ええ。私はいつもあなたのお姿を目で追いかけています。姫のお姿をお見掛けするたびに、私は貴女のことが心配になってしまう。何か困ってはいないか、危険なことに巻き込まれているのではないかと」
だからこそ彼は、あの夜バイオレッタを助けずにはいられなかったのだろう。
彼の過去に一体何があったのかはわからない。
だが、バイオレッタには一つだけ断言できることがあった。
「……クロード様。それだって愛なのですよ」
バイオレッタは彼の背や肩をゆっくりと撫でながら続けた。
「さっき、クロード様はわたくしのやけどを見て心配してくださいましたよね。それだって立派な愛情ではないかとわたくしは思うのです。本当の愛って、そうしたものを少しずつ積み重ねたもののことではないかしら。誰かを心配する気持ち、力になりたいと思う気持ち。……それだって一つの愛の形ではないでしょうか」
愛とは突如舞い降りるものであるかのような表現をされがちだが、実際は違うのではないかとバイオレッタは考えている。
日々の暮らしの中に見出されることもあれば、それまで蓄積してきた親愛の情が大きな愛に変わっていくこともある。彼女はそう考えていた。
マリアやトマスと過ごした日々というのは、まさにそうした類のものだった。
何気ない生活の中、バイオレッタは彼らとの間に信頼や連帯感といったものを築き上げていった。
彼らの痛みは、自分の痛み。困っていれば助けたい。背負いこんだ荷物を分け持ってやりたい。いつしかそんなことまで願うようになっていたのだ。
そして今、バイオレッタはクロードに対してそういった想いを募らせ始めている。彼に対して恋慕の情を膨らませている。彼に触れたい、彼を守りたいと願ってしまっている。
クロードから「愛おしい」という言葉を聞けたことも、バイオレッタの背を押してくれた。
バイオレッタだけが一方的に想いをぶつけているのではないのだとわかり、ますます嬉しさがこみ上げる。
手を伸ばせば触れられる場所に彼がいて、彼もまた自分を憎からず思ってくれている。この事実はバイオレッタの心を柔らかくほぐした。
「……わたくしは、クロード様をお慕いしています。愛というのは確かに幻なのかもしれません。実体もなければ、確かにこの世に存在するという確固たる証拠もないのですから。ですが、最初からそんな風にあるはずがないと決めつけてしまうのは、わたくしはいやです」
「姫……!」
その声音には驚嘆の響きがあった。
まるで、そんなことは初めて言われたとでもいうように、クロードはバイオレッタを見つめる。穏やかに絡み合う視線に胸が熱くなった。
「わたくしはあなたが大切です。たとえあなたに情欲や喪失感を満たすために利用されたとしても、わたくしはかまいません。……だって、わたくしのこの想いはほかでもないあなたに教えられたものだから」
バイオレッタにとって、クロードというのはそういった意味でも大切な相手だった。
人を好きになることの素晴らしさを、バイオレッタは彼との日々で確かに学んだ。
優しく気遣われると嬉しくなること。困っている時に助けてもらえると心強いということ。男性と身を寄せ合って踊るのはわくわくする行為だということ。
想い人が訪ねてくるだけで心が浮き立つということ。どうということはない触れ合いでこの上なく幸福な気持ちになれるということ……。
そうした人間らしい温かな想いを教えてもらった。
たとえこの恋が叶わないものだとしても、クロードが特別な相手だということはこの先もずっと変わらないだろう。
クロードは彼にしては珍しく、端整な顔を歪める。
「……貴女だって、私を置いていくのでしょう? 私の本性を知れば、貴女はきっと怖気づいてしまわれる。どうにかして私から逃げようとなさるはずです」
そこでバイオレッタはくすりと笑った。
本性などと、一体何を言っているのだろう。クロードが自分に酷い行いをしたことなんて、これまでただの一度もないのに。
「言ったでしょう……? わたくしは逃げません。幻だと思うのなら、わたくしにもっと触れて下さい。……あなたが信じられるまで」
「……!」
クロードははっと息をのんだ。きつく腕を回してバイオレッタを抱きすくめる。
「姫……! 私の、私だけの……!」
荒々しい吐息としがみつく両腕が、なぜだか涙腺を刺激した。
涙をこぼしながら、バイオレッタはただ無言でクロードを抱きしめる。
(これはきっと、あなたの涙……。本当は不器用で弱いあなたの……)
クロードの涙が涸れ果てたというなら、それでもいい。彼の代わりに何度でも泣こうと思った。
……その心が真に癒える日が訪れるまで。
どのくらいそうしていたのかわからない。
ゆっくりと体を放し、バイオレッタは手で涙をぬぐった。
……と、あの夜のようにハンカチーフが差し出される。恐縮した様子でクロードは切り出した。
「……わかっています、姫。貴女が私のために泣いてくださったということ……」
その言葉にまた涙があふれそうになって、バイオレッタは慌てた。ためらいながらも受け取って目元に当てる。
「貴女は本当にお優しい方なのですね。顔立ちやたたずまいばかりでなく心根までもが、透き通っていて、清らかで。私は、そんな貴女が本当に……」
バイオレッタの手からハンカチーフを取り、クロードは慎重な手つきで彼女の目元を拭いた。
バイオレッタが感極まって思わず吐息を漏らすと、彼は困ったように微笑んだ。
「……ありがとうございます、姫。貴女がいてくださるから、私は私でいられるのです。優しくて温かい、春風のような貴女がいてくださるから……」
「いいえ。お優しいのはあなたのほうです。いつもそう思いますわ」
微笑みかけると、クロードはくしゃりと相好を崩す。自然な笑みに、バイオレッタは思わず目を奪われた。
「わあっ……、クロード様のそういう笑顔、初めて見ました……!」
「……!」
勢いよく顔を背け、クロードは片手で口元を覆った。怒っているのだろうかと不安になったが、そうではないらしい。
(え……、嘘、もしかして照れていらっしゃる……!?)
間近で見ようとしてバイオレッタが思わず距離を詰めると、クロードは困ったように眉根を寄せる。
「ご覧にならないでください……」
「そんな……」
「姫には敵いません……。私を何度もそうやって……」
「え、でも……。いつもの澄ましたお顔よりよほど魅力的ですのに……」
「そのような」
「いいえ、断言できますわ。いつもそうやって笑っていてください、クロード様」
「……まだ、難しいのです、私には。このような笑顔など。……ですが」
クロードは顔を近づけるとバイオレッタのこめかみに静かに口づけた。
「……貴女の前でなら、お見せします。貴女がそうやって望んでくださるなら」
背伸びをして彼の顔を引き寄せると、バイオレッタはおずおずとその頬にキスを返す。
「望みますわ。わたくし、もっと見たいです。クロード様のそういうお顔が」
黄金の双眸が一瞬見開かれたのがわかったけれど、熱い抱擁に何もかもがぼやけてしまった。
抱きしめ返しながら、バイオレッタは思う。
……守りたい。繊細で弱いクロードを。
(この方が好き。どうしたら、クロード様を過去の傷から救って差し上げられるの……?)
***
「バイオレッター、遊びに来ちゃった!」
「ピヴォワンヌ、いらっしゃい」
ピヴォワンヌの来訪に、バイオレッタはぱっと笑顔になった。
彼女は勝手知ったる様子でドローイングルームに上がり込んでくる。おかしな遠慮がない今の関係を、バイオレッタは心地よく感じていた。
ソファーに置きっぱなしにしていた手仕事の道具を、バイオレッタは素早く退けた。
読みかけの恋愛詩集やファッションプレートなども、積み重ねてテーブルの一つにどさりと載せてしまう。
「サラ。プティフールをお願いできる?」
筆頭侍女であるサラを呼び寄せて、西棟中央部に位置する厨房から茶菓を運んできてくれるように頼む。
王女たちの居住棟とは渡り廊下で繋がっているから、お茶の支度をするのは造作もないのだ。
場合によってはバイオレッタが菫青棟のティースペースでお茶を淹れ、焼いておいた日持ちのする菓子を添えて出すこともある。サブレやマドレーヌ、フロランタンなどだ。
「紅茶はいかがなさいますか?」
「ふふ。今日はわたくしが淹れてみるわ。この前、クロード様が教えてくださったから」
サラは一瞬だけ仰天し、次いで気に入らないというように唇を捻じ曲げる。
「またそのお話なのですか? 確かに手際はよかったですけれど……でもまさか殿方が給仕をするなんて」
侍女としては面白くないのか、むすっと拗ねてそっぽを向いてしまう。クロードに出し抜かれたと思ってしまうらしく、この話をすると彼女はたちまち不機嫌になるのだ。
「だって……わたくしだってお茶の淹れ方くらい覚えたいのだもの」
「それくらいこのわたくしが教えて差し上げますのに、バイオレッタ様の馬鹿っ!!」
「え? 何か言った、サラ?」
「……あ、いえ。厨房へ行ってまいります」
ごほごほ咳払いをし、サラは急いで厨房へ向かった。
紅茶を淹れ、サラの運んできた茶菓子を添えて供すると、ピヴォワンヌは目を丸くした。
「へえ。あんた、いつの間に紅茶の淹れ方なんて覚えたの? しかもちゃんとおいしいじゃない」
「あのね、実はクロード様に教えていただいているの。近頃このお部屋によく遊びに来てくださるのよ。紅茶の淹れ方とかマナー、紅茶に合うお菓子の種類まで、色々教えてくださって楽しいの。お借りした本で勉強したり、後宮書庫で直接教えていただいたりもするのよ」
そこでピヴォワンヌは固まった。
カップを持つ手を止め、紅い瞳をわずかに見開いて体を強張らせる。
「……へえ」
乾いた声でピヴォワンヌは言い、かちゃりと音をさせてカップをソーサーに置いた。
「いつの間にか、クロード様がすぐそばにいてくださるのが当たり前みたいになってしまって、自分でもびっくりしているわ」
クロードという青年の存在は、ごく自然にバイオレッタの日々に馴染み始めていた。
会えば時間を忘れて会話をし、都合が合えば書庫で勉強会をする。
一緒に中庭や東棟に出向いて花を眺めることもあるし、彼の知っている色々な話を聞かせてもらうこともある。
「この前は≪叡智の間≫でお茶を淹れていただいたの。あそこはお湯が沸かせるでしょう? 茶葉とか香辛料も一通り用意してあるし……。そうしたら、あの方が手ずから紅茶をふるまってくださって」
王妃のサロンでは率先して給仕役を引き受けているというだけあり、彼の手つきは丁寧そのものだった。
湯を沸かし、茶葉を蒸らし、ティーストレーナーを用いてカップに注ぐ。
そんな一連の動作にさえ気品が感じられ、バイオレッタは彼の指先に目が釘付けになった。
クロードの手は男らしく骨ばってはいるが、繊細で器用そうな形をしている。それまで目を凝らしてじっくり観察したことはなかったが、美しい手だ、と思った。
この指先でいつも触れられているのだと思ったら、バイオレッタはなんだか落ち着かなかった。
苦し紛れに次々話題を振って彼を驚かせてしまったほどだ。
「あの時のクロード様、うろたえてておかしかった……。わたくしの勢いにまるでついていけないっていうお顔だったの」
「……ふうん」
ピヴォワンヌは気のない返事で聞き流す。
クロードの話になど興味がないのだろう、ほっそりとした指でマカロンをつまみ上げ、無言で齧り始める。
「……」
「ご、ごめんなさい。……あんまり興味がなかった?」
「別に」
こういう時のピヴォワンヌは何かを押し殺すような顔をしていて、少しだけ気を遣ってしまう。
強気な態度をとることが多いものの、ピヴォワンヌだってまだ十六の少女でしかないのだ。また何か思いつめているのだろうかと、バイオレッタとしては心配になってしまう。
「……何かあったら、わたくしにも話してね?」
「ええ」
そっけなく言い、彼女はまた目の前のプティフールに手を伸ばす。
ふっくらと焼き上がったマドレーヌを手に取り、齧りつく。
そうしてしばらく物憂げな表情で茶菓子を咀嚼していたが。
「……ご馳走様。今日はもう帰るわ」
そう言って、ピヴォワンヌは立ち上がった。
バイオレッタは声を上げる。
「えっ? そんな、まだ来たばかりじゃない。どうして……」
ピヴォワンヌは小さく息をつくと、芍薬色の長い髪をさらりとかきやった。
どこか残念そうな顔で言う。
「別に。……わからないならいいわよ」
そしてダフネを伴い、すたすたと居住棟の外まで歩いて行ってしまう。
「ま、待って! わたくし……何かいけないことをしてしまった?」
「だから、あんたのせいじゃないってば。そんなにむきになって心配しないでよ」
こちらに背を向けたまま、ピヴォワンヌは嘆息する。
そしてそのまま紅玉棟へ帰って行ってしまった。
一体どうしてしまったのだろう。まだ来たばかりだというのに。
バイオレッタは物憂げな面持ちで茶菓を片付け始める。
控えていたサラが慌てて駆け寄ってきた。
「あ、そのようなことはわたくしが……、……バイオレッタ様?」
「ううん、なんでもない……」
一人取り残されたバイオレッタは、未だ色彩豊かなプティフールの咲くテーブルを見やってため息をついた。