第二十七章 Love Illusion

 
 ――エテ宮、≪舞踏の間≫。
 その端にたたずんだクロードは眉根を寄せた。
 ……視線の先には、貴族の青年たちと語らっているバイオレッタの姿。華奢な手を口元に添えて、穏やかに微笑んでいる。
(姫……)
 一体、何がそんなに楽しいというのだろう。
 彼女の唇から時々こぼれる笑い声が、クロードをさらに苛々させた。
 
 
 今宵はエテ宮で舞踏会が催されている。
 クロードも出席するよう言いつけられ、もしかしたら最愛の姫君に会えるかもしれないと期待しながら参加したのだが、飛び込んできたのは彼女のとても楽しそうな姿だった。
 ぎり、と奥歯を噛みしめる。よもや貴族たちに先を越されようとは。
 今の彼女にとっては、貴族や廷臣たちの名を覚えるのが先なのだとわかってはいるのだが、納得がいかない。
 
(なぜそんなに楽しそうに……。私といるより彼らといる方がいいと……?)
 
 バイオレッタの居場所は自分の隣であるべきで、彼女を楽しませていいのも自分だけだ。少なくともクロードはそう思っている。
 今すぐにでもバイオレッタを自分のところへ連れ去りたくなったが、クロードの立場上、必要以上に彼女に近寄ることは許されない。
 本当はそばに行きたい。しかし、バイオレッタの評判をむやみに傷つけるような真似はできない。ただでさえ、彼女は慣れない王宮で頑張っているのだから。
 
 クロードは自分を見つめている女性たちの群れにちらと目をやった。
 彼女たちが先ほどから熱心にこちらを見ているのはとうに知っている。うっすらと微笑んでやると、彼女たちは色めき立った。
 気晴らしに貴婦人たちをいざなって舞踏に興じるというのもいいだろう。すでに主君リシャールの許しはもらっている。艶婦たちと踊れば少しはこの心も慰められるかもしれない。
 だが、白銀の髪の王女の麗姿は、嫌でもクロードの眼を惹きつけた。
 真珠のちりばめられた薄浅葱色のドレスを纏うバイオレッタの横顔を、クロードはそっと見つめた。
 寒色のほうが落ち着くといって、バイオレッタはやや地味な色のドレスやガウンを選ぶことが多い。天空を思わせる青や、瞳に合わせた薄紫などだ。
 けれど、柔らかい顔立ちのためか、冷ややかな印象は全くなかった。むしろすっきりとした清楚な仕上がりで、かえって好感が持てる。
 ドレスのいたるところに縫い留められた真珠の粒が、シャンデリアの灯りを反射してとろりと鈍く輝く。彼女の優しげな容貌を際立たせる、可憐な盛装姿だった。
 
 ……美しかった。ため息が出るほどに。渇望とはまさにこのことを言うのかもしれないと、クロードは彼女の後ろ姿を切なげに見つめる。
 今まではそれなりに愉しめていた舞踏会も、今ではあまり愉しめない。バイオレッタの姿をつい目で追いかけてしまって、気もそぞろなのだ。
 かといって他の男たちのように思うさま彼女を口説くことなどできない。立場が違いすぎている。
 だから、今は彼女の好きなようにさせておくしかないのだ。
 
(貴女に出逢うまで、こんな責め苦を味わったことはありませんでしたよ、姫……)
 
 なぜあんな年下の少女にこうも心乱されてしまうのか。
 近寄りたいのに近寄れないもどかしさに、深いため息をつく。
 早くこの夜が終わってしまえばいい。愉しめない舞踏会に舞踏会の意味などない。これではうつつを忘れるどころか、現実の厳しさを直視させられているようなものだ……。
 
 仕方なく壁にもたれて、天井の漆喰のレリーフを見つめていると。
 
「……王女様は本当にお美しくていらっしゃる」
「そういえば……劇場でお育ちになられたと伺いましたが」
「劇場」という単語に、クロードは険しい表情で視線を投げかけた。
「……え? あ、あの」
 青年の一人がバイオレッタの腕を強引に取った。酒に酔っているらしく、随分と馴れ馴れしい。
 たちまち彼女の顔が強張る。バイオレッタは男性が苦手なのだ。
「劇場育ちならば相当慣れておいでなのでしょうね。この玉の肌で一体何人の男を惑わしたのです?」
「王女様のお相手ができたとは、なんと羨ましいことだ。彼らも今頃光栄に思っていることでしょう」
「僕らにもぜひともそうした機会を与えていただきたいものですね、王女様」
 彼らはねっとりとした口調で口々にねだる。下心の滲むだらしない顔つきに、クロードはなんとも腹立たしい気分になった。
 バイオレッタがお前たちごときの言いなりになると思うのか、と、胸の裡で密かに吐き捨てる。
「……!」
 腕を掴み上げられたバイオレッタはかたかたと震えだした。遠目にもはっきりそれとわかるほど、彼女は怯えている。彼らの態度を恐怖と感じている。
 気を良くしたようで、青年たちはますます彼女に迫った。髪や肩に触れて、反応を愉しんでいる。
 声を上げたり騒いだりしないあたりがいかにもバイオレッタらしいが、クロードの方は正直それどころではなかった。
「全く……。だから貴女は愚鈍だというのですよ、姫」
 クロードは息をつくと、靴の踵を鳴らしながらつかつかと彼女に近寄った。
 バイオレッタはクロードの姿を認めて小さく声を上げた。
「あ……!」
 困惑とも期待ともつかぬ声音が、またクロードの心を軋ませる。
 だが、あくまでもにこやかに、彼は青年たちをたしなめた。
「……もうそのあたりでおやめになっては? バイオレッタ姫が怖がっておいでですよ」
「クロード様……!」
 思わずといった様子でバイオレッタが彼の名前を呼ぶと、青年たちがどよめいた。
「クロード!? まさか……」
 クロードは頬に落ちた黒髪を優雅に払って、艶然と微笑んでやる。
「おや、この私をご存知でない……?」
 
 クロード、あるいはシャヴァンヌといえば、大抵の宮廷人たちが恐れをなす存在だ。
 現在、王の信頼を誰よりも勝ち得ている宮廷魔導士なのだから当然だろう。
 ――王や王妃の覚えはめでたく、魔術の腕は数多いる魔導士たちの中でも随一のもの。
 クロードの采配一つで国が変化するとささやく宮廷人もいるほどだ。
 
 案の定、青年たちは青ざめた。バイオレッタの手を解放し、深々と頭を垂れる。
「存じ上げております、申し訳ございません!」
 常日頃から家柄を鼻にかけているであろう彼らが、一介の魔導士風情にひれ伏している。
 この上なく滑稽な眺めだった。
 小物だからこそこうしてすぐに頭を下げられるのだろう。本当に大成した男ならば最初から無謀な真似などしないし、易々と頭を下げるなどといった惨めな行いもしないはずだ。
 それだけこの青年たちは若くて愚かなのだろう。
 だが、つまるところそれだけだ。
 教養や苦労を伴わない若さなどばかげている。
 彼らは富裕層の出身というだけで甘い汁を吸い、誰に咎められることなく女を漁っていい思いをしてきたのだ。
 その上バイオレッタまで好きにしようとは、全くもって下劣な輩である。
 
 冷ややかに彼らをねめつけると、クロードはバイオレッタの手を掴んだ。
 そのまま歩き出す。怒りのあまり、傷ついた彼女を案じることも、歩幅を合わせてやることも忘れていた。
「ちょ、ちょっと、クロード様……!」
 バイオレッタはひどくうろたえていたが、かまわなかった。
(貴女は少し懲りるべきですよ、姫)
 心の裡で毒づき、クロードは彼女を≪舞踏の間≫から連れ出した。
 
 
 
「クロード様、待って! どこへ……」
 クロードは列柱回廊に彼女を連れ出し、石柱の一つにその細い背を押し付けた。
 バイオレッタの手のひらを捕らえ、指先を差し込んで縫い留める。
「……!」
 押さえつけた手のひらからかすかな慄きが伝わってきて、クロードは嘲るように嗤った。
「……あの……」
 きまり悪そうに顔を背けるバイオレッタに、苛立ちが募る。
「……貴女は無自覚でああいったことをなさっておいでなのですか?」
「何のことをおっしゃっているのですか? わたくし……」
「そのご様子では、あの男たちがどういった目で貴女を見つめていたか、きっとご存知ないのでしょうね」
「さ、先ほど助けていただいたこと、感謝していますわ……。ですが、もう戻らないと……」
 言って、視線をさまよわせる。
 ……恐ろしいというのか。この期に及んで。
「無事に戻れるとお思いなのですか? この私が何もせずに、ただ貴女を≪舞踏の間≫へ帰すとでも?」
「何を……」
 問い返してきたバイオレッタの肩を掴み、クロードはその瞳を覗き込んだ。
「――……あの男たちが貴女にしようとしていたことを、今私がして差し上げます」
 はっと息を詰めたバイオレッタの首筋に、クロードは唇を寄せた。
 愛情なのか、欲望なのか。……もうわからなかった。
 彼女のうなじに手を回し、激情のままに首筋に口づけてゆく。
「……!」
 柔らかい肌だ、とクロードはしばしバイオレッタの素肌を堪能する。男の肌など比ではないくらいしっとりとしている。唇を寄せるとまるで吸い付くようだった。心なしか花のような香りもする。
 ……闇に浮かび上がるその白さも、唇に伝わる蕩けるような柔らかさも。舌に広がる肌の甘さまで。
 今だけは、クロードただ一人のものだ。
「や、いや、です……、はなして……!」
 バイオレッタはそう言って、クロードの手から身をよじって逃れようとする。
 クロードはさらにしっかりと柳腰を押さえ込んだ。逃げられぬように手で固定し、隙間なくぴたりと身体を重ね合わせる。
 彼女はぎゅっと両目をつぶった。
「いや、こんな……っ!」
「もうお黙りなさい、姫。これは罰なのですから……」
 陶器めいて白い柔肌をきつく吸い上げると、バイオレッタは身体を強張らせ、苦痛をこらえるような吐息をこぼす。
「……んっ……!」
 ――その声が、さらにクロードを煽った。
 身をかがめて、白い肌にいくつもの花を咲かせていく。物慣れない彼女は瞬く間に息も絶え絶えになった。
 デコルテに痕を残そうとしたとき、やっと状況を理解したらしいバイオレッタが弱々しく暴れた。
「や、は……、放して下さい!」
「男たちに手荒な真似をされるのは我慢できても、私に愛されるのは嫌だというのですか?」
「だって、もし痕が残ったら……!」
「ああ……、最初からそのつもりでさせて頂いているのですよ。そうしなければ罰にならないでしょう? もっとも、もうこんなに紅くなってしまっているのですから、貴女がどれだけ抵抗なさったところで無意味でしょうが」
「やめ……!」
 皆まで言わせず、クロードは鎖骨の下の肌を強く吸った。
「んん……!」
 バイオレッタがまた悲鳴じみた声を上げる。
 広間から漏れ聞こえてくる激しく情緒的な舞曲の音色を聞きながら、クロードは彼女の纏う繻子のドレスを忌々しく見やった。
 
 出逢った当初から、バイオレッタがむやみやたらと襟ぐりの深いドレスを着ているのが気に食わなかった。軽薄で軟派な男たちがその姿を熱っぽく見つめているのにも虫唾が走る。
 こんなものは着られなくなってしまえばいいのだ。そうすれば、あられもない姿を他の男に見せる必要もなくなる。
 肌のほとんどを露わにしたような格好で、男たちをあんな風にいい気にさせて。
 バイオレッタは本当にわかっていない……、その姿と表情が、どれだけ男の妄想を掻き立てているのか。
 
(いいや……、そのような真似は許さない。貴女は私だけのものだ。この肌に溺れていいのは……私だけだ)
 
 ドレスの胸元を指でくつろげようとすると、バイオレッタは弱々しくクロードの肩を押した。
「いや……、やめて、クロード様……」
 泣きそうな声音だった。……いや、もうとっくに泣いているのかもしれない。
「……お願いですから、もう……」
 そんな顔をしてはますますこちらの劣情を煽るだけだと、どうしてわからないのだろうか。
「そんなに体裁が大事ですか? 私のことも目に入らなくなるほど?」
 卑屈に嗤うと、バイオレッタは声高に叫んだ。
「違います……! わたくしが大切なのはあなたですわ……!」
 クロードは息をのんだ。
「何を、おっしゃって――」
「わたくし……、嫌なのです……! クロード様とこうやって話したり会ったりできなくなるのが……」
 しゃくり上げながら言うバイオレッタに、クロードは激しく動揺した。
 思わず彼女の身体から手を放す。
「姫……、貴女は……」
「クロード様のことが大好きです……。でも、女官や侍女にこれを見られたら、噂になってしまいます。そしてもしわたくしたちのことが公になれば、きっとお父様は……!」
 泣きじゃくるバイオレッタに、クロードは冷水を浴びせられたような気分になった。
 ぽろぽろと涙をこぼすバイオレッタから距離を取り、手のひらをきつく握りしめる。
 
(そこまで考えていらっしゃるのですね、貴女は。本当に純粋で……、私などとは似ても似つかない女性かただ……)
 
 本音を言えば、バイオレッタといるのが苦痛に感じられる時がある。自分がひどく狭量な男に思えてくるからだ。
 彼女に会いに薔薇後宮へ行くたびに、クロードの胸は何とも言えない幸福な感情で満たされる。彼女の呼びかけとぬくもりは、冷めきったクロードの心をいつも温めてくれる。
 情熱などとうに忘れ去ったと思っていた。この心には誰かを想う心などもうないのだと。
 なのに。
 
 『クロード様』
 そんな風に呼ばれるたびに、切なくなる。彼女はまぎれもなく自分に「何か」を与えようとしていると、わかってしまったのだ。
 ただ一人の、愛おしい少女。彼女がもっと微笑んでくれたら。楽しそうに自分に語り掛けてくれたら。
 いつしかそんなことばかりを願うようになった。
 クロードにはないものを、バイオレッタは確かに持っている。どうしようもなく惹かれた。これまでの生で初めて知る感情だった。
 
 ……けれど彼女は、いともたやすくクロードを裏切る。
 今宵の舞踏会でもそうだ。素肌を晒す服を着て、男たちとさも楽しそうに談笑していた。
 あの時クロードの胸の内に沸き起こったのは、まぎれもない嫉妬だった。
 今まで自分にこんな思いをさせた女はいなかった。大抵「狭量」なのは女性たちの方で、クロードの方にはいつもじゅうぶんな余裕があったのだ。
 
 なのに、この姫といると調子が狂って仕方ない。すみれ色の澄んだ瞳で見つめられると、どうしようもなく心乱されてしまう。
 
 バイオレッタはその清らかさゆえに、世界の歪んだからくりや、自身を取り巻こうとする人々の悪意といった卑しいものから隔離されている少女だった。純粋であるがゆえに他人を疑うことを知らず、そういった対象が近づいてきて初めて気付くといった具合だ。
 だが、彼女は妙なところで敏感で、時にクロードの本質にまで触れてこようとする。
 今夜もそうだった。クロードの仕掛けた罠にかかるどころか、こんなことをしたってお互いのためにならないといって彼を拒絶した。
 
 クロードは嘆息した。
 これでは形勢逆転もいいところだ。
 
「申し訳ございませんでした。泣かないでください、姫……」
 謝ると、クロードは白絹の手袋をはめた指先を、自身の左胸に忍ばせた。
 胸の隠しからハンカチーフを取り出して目元をぬぐってやると、バイオレッタは感極まったようにますます泣く。
「ごめんなさい、クロード様……!」
 本当に、どうしていいのかわからなくなった。なぜ彼女が謝っているのだろう。つまらない嫉妬で一方的に迫ったのはこちらだというのに。
「困らせたのは私です。どうかお許しください」
「いいえ……、あなたはちゃんとわたくしを助けて下さいましたわ。わたくしが悪かったのです。ごめんなさい、クロード様……」
 彼女に名前を呼ばれると、何か得体のしれない感情が胸の内を満たす。クロードにとってはそれこそが本当に「理解できないもの」だった。
「……さっきの貴族たちについてですけれど……。わたくし、本当は好きでお相手をしていたわけではないのです」
 舞踏会が始まって間もない頃に廷臣たちに紹介され、渋々話し相手をしていただけだという。
「そうしたら思いがけず話が長引いてしまって、わたくし自身のお話まですることになってしまって……」
「私の勘違いというわけですか……。何かおかしいとは思っていたのですよ。貴女がいかにも苦手そうな部類の男たちばかりでしたので」
 バイオレッタがこくりとうなずいた。
「クロード様のおっしゃっていることの意味も、本当はわかっていたのです。育った場所の話を持ち出されたあたりから。でも、王女として時には耐えなければならないこともあるのだと……」
「貴女は愚かです……! 耐えるなどと!」
 クロードは吐き捨てるように言った。あれは身分を笠に着て実力行使に出ようとするあたり、本当に質が悪いものだというのに。
「……お願いです、姫。もうけしてあのような輩の相手はなさらないでください」
「でも、わたくしは王女で――」
「関係ありません。何をするにもまず、意思を大事になさって下さい。貴女の意思、それは王女であるからこそ尊重されるべきものですよ」
 バイオレッタはきょとんとしたが、やがて小さく微笑んだ。
「……はい」
 花がほころぶような笑顔に、ついクロードもつられてしまう。
「お分かりになったのでしたらよろしいのですよ」
「あ、あの……」
「どうかなさいましたか」
 訊ねるクロードの胸に、いきなりバイオレッタがしがみついてきた。
「……姫?」
「さっきの方たちが、本当に怖くて……。クロード様とこうしていると、なんだかほっとするのです。少しだけ、背中を撫でていてもらえませんか?」
「……かまいませんよ。私も貴女に触れてもよろしいですか?」
 わざわざ許しを請うたのは、むやみに怖がらせるのだけはもうやめようと思ったからだ。
 バイオレッタはうなずき、心底安堵したように身を寄せてきた。
 小さな背に腕を回して、ほっそりとした体をくるみ込む。クロードは彼女の腰を支えながら、うなじから肩、背中にかけて丹念に手を滑らせた。
 バイオレッタが息をつき、クロードの手の感触を確かめようとするかのように瞼を閉じる。
 撫でさするバイオレッタの背がまだわずかに震えているのに気づき、クロードの心は後悔と罪悪感でいっぱいになった。
「止めに入るのが遅れてしまい、申し訳ございませんでした。あれだけべたべたと触られれば、男性を恐ろしく感じている貴女にとっては恐怖しかなかったでしょうね。もっとも、今の私に対して同じような思いを抱かれてしまっているとしても、何ら不思議ではありませんが」
 バイオレッタはぱっと顔を上げてクロードを見た。
「そんなことは……!」
「ふふ……。否定してくださるのですか? お優しいのですね。ですが、私は彼ら以上に酷いことをいたしましたよ」
「だって、クロード様に触られても嫌な思いはしませんもの。その……びっくりはしましたけれど」
「……先ほども申し上げましたが、貴女はもっとご自分の意思を優先させるべきですよ、姫。私が怖い、あるいは嫌だと思うのなら、今のうちに逃げておしまいになった方が身のためです」
 彼女はぱちぱちと瞳を瞬かせたが、やがて小さく笑った。
 ぽつりと言う。
「……わたくしは今、わたくし自身の意思で動いていますわ」
 胸に添えられていた細い手がゆっくりと首筋に回されて、クロードは目を見張る。
 色事に慣れたクロードからしてみれば、それは本当につたない抱擁だった。
 しかし、今まで受けたどんな抱擁よりも温かく、不思議な充足感が心を満たしていく。
 同時に、心の中が何かに埋め尽くされるような心地になったが、やはりその正体は理解できないままだった。
「わたくしは逃げません。だから……、もう少しだけこのままでいさせてください、クロード様」
「……貴女は……。全く……」
 苦笑し、その背をそっと抱き締め返しつつも、クロードは心の中で彼女にこいねがっていた。
(これ以上、醜くて弱い私をご覧にならないでください、姫。私は貴女にだけはそんなところを見せたくはないのだから……)
 
***
 
 夜風が二人の髪を揺らす。
 二人はゆっくりと列柱回廊を進んでいた。二色使いのタイルの上を、深い夜気を愉しみながら歩く。
「やっぱりちょっと、恥ずかしいですね……」
 傍らのバイオレッタが肩にかかった漆黒のコートを引き寄せる。クロードが着せてやったものだ。
 背丈がだいぶ違うので彼女には大きいのだが、胸元や首筋を覆うように着せてやると口づけの痕はほとんど見えなくなった。
「……着ていてください。痕を見られたくないのでしたら」
「……ええ」
「今後はこのような真似はいたしません。貴女を男たちの好奇の視線に晒すような至らない真似も、もうけして……」
「ええ。また今日みたいに守ってくださったら嬉しいですわ」
 まるで美酒に酔い痴れているような声音だった。
 クロードはそこで、石柱の隙間から月を見上げる。いつかの舞踏会の夜と同じような、丸く満ちた月を。
「……美しい満月ですね」
「本当に。わたくしは、月を見るとあなたを思い出しますわ」
「そうなのですか?」
「月の色はクロード様の瞳のお色にそっくりですもの。琥珀みたいな温かみのある黄金こがね色。綺麗な色だわ」
「やはり姫は詩的な方だ。そのような喩え方をなさるとは。私の場合、貴女を喩えるなら薔薇と菫ですね」
「薔薇は確かに好きですわ。菫も。どちらも愛着があります。お花は大好きです。一生懸命生きている姿が可愛らしいから」
 穏やかに笑み、バイオレッタはクロードの腕を愛おしそうに取る。そしてぽつりとつぶやいた。
「……わたくしは、少し強引なあなたも本当は好きです」
「おや、意外と物好きですね。そういった趣味がおありだったとは」
 からかってやると、案の定慌てふためいた。
「なっ、ち、違います……! 別にそういう意味じゃありませんわ」
「では、どういう意味なのです?」
 ぽつぽつとバイオレッタは話し出す。
「……少しだけ、嬉しかったのです。あなたの素顔を垣間見られた気がして……。普段はあまりああいう面は見せてくださらないでしょう?」
 やはり気づいているのだ、この姫は。クロードの持つ、本来の顔に。
 すみれ色の双眸がまっすぐにクロードを射抜く。
「本当は、あなたはただ優しいだけの殿方ではないのでしょう? おとなしいだけ、穏やかなだけ。そんな方ではないように見えるのです。何か、激しいものを内に秘めているような……そんな気がします」
 最愛の姫は、月明かりに潤む青紫の瞳にクロードの姿を映していた。
 既視感に、心が大きく揺らぐ。
 そうだ、この瞳に自分は焦がれている。そして、捕らえられた。文字通り、永遠に――。
「……さあ、どうでしょうね。私自身、この心を持て余しているということは確かですが」
 バイオレッタは答えをはぐらかすクロードを責めることなく、たおやかに微笑んだ。
「そうやって笑うことで、クロード様はきっとご自分のお心を守っていらっしゃるのでしょうね」
「私は……」
 言いかけて、やめた。反論するには、バイオレッタの表情はあまりにも無邪気すぎた。
 しばらく何も話さずに、ただ廊下を歩く。なぜこの姫といると、沈黙さえも心地いいのだろうか。
 
 中庭に面した回廊に差し掛かった頃、バイオレッタはくいと腕を引っ張ってきた。
「クロード様、よろしかったら中庭を案内してくださいませんか。普段は後宮にばかりいるので、エテ宮には詳しくないのです」
 
 王宮は大まかに六つの宮殿に分かれている。
 本城である白亜の城、リュミエール宮。
 男性官僚が働く公的空間プランタン宮、晩餐会や舞踏会が開かれるエテ宮。
 王室の面々がくつろぐためのオトンヌ宮、歴代国王のための居城であるイヴェール宮。
 そして、中枢部分からやや離れたところに位置する薔薇後宮そうびこうきゅう
 この六つが、王城を構成する主な建物となっている。
 
 今二人がいるのはエテ宮の回廊だ。建物そのものが外交や社交のための場ということもあって、いたるところに目もあやな装飾がなされている。
 中でも、ここの庭園は見事だ。異国からやってきた貴婦人や王女を愉しませるために、随所に様々な趣向が凝らされているのだ。
 
 普段、王城の中でも特に奥まった場所……薔薇後宮にいるバイオレッタは、エテ宮どころかクロードのいるプランタン宮にすら出てこない。この宮殿の中庭が珍しく思えるのも納得がいく。
 
 クロードはうなずいた。
「かまいませんよ。ああ……、ちょうど夏の薔薇が盛りのようですね」
 腕をとり、きざはしを降りるバイオレッタを支えてやる。
 心の中はさざめいていたが、彼女を普段通りにエスコートすることで、クロードはなんとか平静を保っていた。
 
 
 薔薇を愉しんだ後、クロードはバイオレッタとともに≪舞踏の間≫へ戻ろうとしていた。
「案内してくださってありがとうございました。色々教えていただけてよかったですわ」
「いいえ。このようなことでしたら、いつでも……」
 ……本当は離れがたかった。≪舞踏の間≫へ戻ってしまったら、また普段通りの役柄を演じなければならない。すなわち、「王女」と「臣下」という役柄を。
 クロードは思わず石柱の影にバイオレッタをいざなった。
「……クロード様?」
「頬への口づけを、受けてくださいますか? もし貴女が私と別れることを惜しんでくださっているのなら……」
 眉を引き絞るクロードを安堵させるように、バイオレッタはうなずいた。
「……ええ」
 柳腰に手を回し、おとがいをわずかに上向かせると、クロードはなめらかな頬に唇を寄せた。
 バイオレッタは抗わなかった。恥じらうように、ミルク色の肌に白銀のまつげを伏せる。
 ほんのり紅潮した頬に口づけると、細い身体がわずかに震えた。薔薇色の唇から陶酔したような吐息がこぼれ出る。
(なんと穢れのない方だ……。たった一回のキスで、こんなに体を震わせて……)
 バイオレッタは清らかすぎる。駆け引きを繰り返して薄汚れたこの身には似つかわしくないほどに。
 しかし、だからこそ焦がれているのかもしれない。自分とは正反対のものにこそ、人間は惹かれるものだ。
「……姫」
 今、どうしても彼女の名を呼びたい。彼女の名前をこの唇で紡いで、その響きさえ一つの宝物のように愛してみたい。
 バイオレッタの名を呼ぶクロードの声は、上質な楽の音のようにことさら甘美に響くことだろう。
 けれど、それはできない。バイオレッタが今の身分やしがらみを棄てない限りは――。
 熱を持て余しながらも、クロードは黙って彼女から離れた。
 バイオレッタは、クロードを見上げておずおずと口を開く。
「クロード様。わたくし……」
 
 と。
 
「――そなたたち、ここで何をしておるのだ?」
 華奢な少年が、二人の前に立ちはだかった。
 陽光のようにきらきらと輝く金髪に、鋭く光る猫のような双眸。細い体つき。
 スフェーンの国王であるリシャールだった。
 少年のような容姿をしているものの、彼はバイオレッタの父王に当たる。さる呪いのせいで少年の姿をしているだけだ。
「……陛下」
 クロードはゆるりと頭を垂れた。
 
 今宵は≪舞踏の間≫で王侯貴族を集めた大規模な舞踏会が開かれている。
 しかし、最愛の妃を喪ってから、リシャールは舞踏を一切やらなくなっていた。『時知らずの奇術』がかけられた幼い身体ということもあり、誘いも毎回断っている。年を取らない体ということもあって気が引けるのだろう。
 舞踏会でもいつも最初の方しか顔を出さず、「あとはみなで楽しむがよい」などと言って、さっさと私室へ引き上げてしまう。それはもはや舞踏会の席でのお定まりとなっていた。
 
 リシャールの行動は予測不可能なところもあるが、いつもこの王の相手をしているクロードにとっては日常茶飯事である。
 今こうして二人の前に立っていることも、クロードにとってはさほど驚くようなことではなかった。
 だが、バイオレッタは違っていた。密会を咎められると思ったのか、怯えて数歩後ずさる。
 
「今宵は月が見事なので、ちょっとした散歩のつもりだったのだが……。……ふむ。面白いものを着ているな、バイオレッタ?」
 彼女の羽織ったクロードの上着を目ざとく見つけて、リシャールは首を傾げた。金の瞳を鋭くする。
「……こ、これは……」
 バイオレッタが慌てふためくと、彼は疑いのまなざしを二人に向ける。
「このような薄暗い場所で何をしていた? まさかそなたら、そういった関係にあるのか?」
 クロードは動じなかった。胸に手を添えると、堂々と言い切る。
「そのような。陛下の御息女に手を出すような真似は私にはできません。肌寒いとおっしゃっておいででしたので、私の上着をお貸ししたまで」
「……」
 バイオレッタが隣で顔をうつむけたのがわかった。
 
 彼女は王位継承者だ。このスフェーンの次代の王――すなわち女王となる可能性を持つ少女なのである。もともと国のために生きる身なのだ、勝手に相手を選ぶことなどできない。
 しかも、王位継承争いに敗れた姫は政略結婚に利用されることが決まっている。他国の王族男性の妻になるという未来が待ち受けている。
 女王になるにしても、他国に嫁ぐにしても。いずれにせよ、バイオレッタは臣民のために清らかな身であらねばならないのだ。
 
 バイオレッタを傷つけてしまったことは理解している。
 だが、いくらクロードが寵臣であるとはいえ、リシャールは二人の関係を容易に許すほど愚かではないだろう。下手をすれば二度と会えなくなる可能性もあった。
 
(貴女に惹かれているのは事実だ。むしろ、今の私は他の女性など目に入らないくらい貴女に溺れてしまっている。……ですが、今ここで陛下の信頼を失うわけにはいかないのです)
 
 クロードはバイオレッタから離れると、リシャールの足元に跪いた。そのたなびくコートの裾をそっと唇に押し当てる。
「私があなた様のご期待を裏切ったことがございましたか?」
「ふん。紛らわしい真似をする。……いらぬ心配だったか」
「……ええ。私の忠誠は、あなた様ただ御一人に捧げられたものです」
 リシャールが立ち去るまで、クロードはずっとそうしていた。
 ……痛いほどのバイオレッタの視線を、ただ背中に受け止めながら。
 
 
「……クロード様」
 呼びかけに立ち上がると、クロードは何事もなかったかのようにバイオレッタに言う。
「もう……戻りませんか。姫」
「わたくしは……」
 バイオレッタは何事か言いかけて、やめた。
 その傷ついたような表情に心打たれながらも、クロードは自分に言い聞かせる。
(……すべて、うたかたの夢だ。この姫も、この熱情さえも……)
 最初からこの感情の行く末など決まっているというのに。
 
所詮しょせん、まぼろし」――。
 そう言い聞かせていなければ、今度こそ本当に得難い何かを喪いそうだった。
 
 バイオレッタの手を取りながら、クロードは再び「仮面」を着ける。
 そして、心の中でそっと自分に言い聞かせた。
(……この遊戯ゲームを続けよう。すべてを無に帰すその日まで。幕が下りる、その時まで――……)
 
 冷めた色の満月だけが、揺れ動く二人を見下ろしていた。
 
 
 
 

 

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