第二十九章 逢瀬

 

 数日降り続いた初夏の雨が止んだある朝。

 私室の前で侍女の一人が受け取ったといって、サラが薄紫の封筒を手渡してきた。
(……え? どなたからなの?)
 バイオレッタは机上の銀のペーパーナイフを探り当てると、封筒にそっと挿し込む。
 封蝋を外すと、ほのかに柔らかい香りが漂う便箋をゆっくりと広げた。
「お慕いする私の姫……。今日の午後、一緒に散策などいかがでしょうか」
 手紙にはそう書かれていた。
 文末には美しい字で「クロード・シャヴァンヌ」とある。
(……クロード様からだわ!)
 バイオレッタは急いで筆頭侍女であるサラに言いつける。
「サ、サラ、文箱を持ってきてちょうだい!」
「はい、かしこまりました」
 レース模様をかたどった金色の文箱を開け、ペールブルーの便箋と封筒、そして鵞ペンを用意する。
 ペン先を濃いすみれ色のインクに浸すと、バイオレッタはさらさらと音をさせて文字を綴り始めた。
 下町育ちだったので、まだ文字の書き方には自信がない。
 だが、返事は必ず出したいと思い、バイオレッタは必死で鵞ペンを動かした。
 ……淡い水色の便箋の上に、彼女の想いが次々としたためられてゆく。
 よくインクを乾かし、仕上げに愛用のトワレをひと吹きすると、バイオレッタはサラに手紙を託した。
***
「クロード様!」
 いくつも連なった襞飾りフラウンスを軽く持ち上げ、バイオレッタは庭園にたたずむ彼に走り寄った。
 と、あっと思ったのもつかの間、スカートを踏みつけて大きく身体が傾ぐ。
「あ……!」
「……大丈夫ですか」
 いつかのように広い胸に抱き留められて、せわしなく鳴る耳飾りと共に鼓動がうるさく騒ぎ出した。
「……ごめんなさい、わたくし……」
「姫、いけませんよ。そのお姿で走ってしまわれては」
 苦笑しつつも、クロードは全く嫌がらずに体勢を直すのを手伝ってくれる。
「ありがとうございます」
「できることなら、いつもこうやって貴女をお支えしたい……」
 普段なら赤面してしまう台詞だが、今日は素直に受け止めることができた。クロードの素顔を知ることができたせいかもしれない。
 小さな笑い声を立てると、バイオレッタはその腕に身を預けた。
「御手紙、嬉しかったですわ。クロード様は字がお綺麗ですのね」
「姫の方こそ、整った字を書かれますね。それに手紙からは貴女の香りがして……。少しだけ切なくなってしまいました」
「切なくなる……? どうしてですか?」
「……遠い御方なのだと、気づかされるからです。執務机に置いた手紙からは、まるで貴女がそこにいるような香りがする。なのに、貴女ご自身には触れられない……。もどかしいとはまさにこのことでしょうね」
「……そういう考え方もあるのですね。お嫌なら、もうしませんわ」
「いいえ……。けしてそのようなつもりでは。ただ、私は――」
 クロードは困ったように眉根を寄せる。
「もうよいのです。このお話はもうやめて、参りましょうか、姫」
 ドレスの袖丈に合わせて露わにしている手のひらを、クロードが包み込んだ。
 いつものようにエスコートされ、バイオレッタはしずしずと歩き出した。
 手を引かれて、庭園のチェアに腰を下ろす。
 心地よい静けさに満ちた庭園は広く、晴天の空の下、涼しげな色合いの花々が艶やかに咲き乱れていた。時折鳥のさえずりも聞こえてくる。
 長い黒髪を風に遊ばせながら、クロードはそっとバイオレッタに微笑みかけた。
「……よい風ですね。そういえば、もう夏が近いのですね」
「ええ。爽やかで気持ちがいいです。最近は雨ばかりでしたものね」
 バイオレッタがにっこりすると、クロードは漆黒のまつげを伏せて秘めやかに笑んだ。
「雨の音もしみじみとして大変よいものですが、そうした日が続くと少々気が滅入ってしまい……。貴女とこうして陽光に当たれて嬉しいですよ。もっとも、私にとっての光は、太陽でも月でもなく貴女そのものですが……」
 バイオレッタがきょとんとすると、クロードは素早くその手を取る。そしてそのまま愛おしげに口づけた。
 きらめく双眸の奥に一瞬だけ男の獣性が垣間見えた気がして、バイオレッタは声を上げた。
「……あの!」
「ふふ……。また真っ赤になってしまわれましたね。そのようなお顔をなさっては、私を煽るばかりですよ」
(もう……。すぐそうやって……)
 弱気な様子を見せたかと思えばいきなり強引に迫ってきたりするから、本当にクロードは質が悪い。
 バイオレッタは口をつぐんだが、ふとまだ件の茶葉のお礼を言っていなかったことを思い出した。
「あの……。先日はありがとうございました。お茶をいただいて嬉しかったです」
「お気に召していただけたなら何よりですよ」
「クロード様に教えていただいた通りにミルクと蜂蜜を入れていただいたら、本当においしくて……」
 城下の商人たちが中庭に露店を出した日。バイオレッタはクロードにカモミールのハーブティーを買ってもらったのだ。
 焼けた王都の再建を目標に掲げた国王夫妻は、その一環として城下の商人たちに王宮で商いをさせるという手段を講じた。
 そうした場所の一つに、姫たちの過ごす薔薇後宮の中庭が選ばれたのだ。
 王女をはじめ、女官や侍女たちの中にはそうした娯楽に飢えている者も多い。そしてモードや流行を広めていくのはいつの世も女性である。それを思えば妥当な判断だろうと思われた。
 そうした露店の一つでクロードが買ってくれたのが、優しい林檎の香りのするカモミールティーだった。何かと緊張する日が続いて疲労が溜まっているバイオレッタに、よく眠れるようにとプレゼントしてくれたのである。
 助言してもらったとおりにミルクと蜂蜜を入れて毎晩飲んでいるが、確かにおいしい。そして彼の言葉通り、不思議とよく眠れるのだ。
「寝つきが悪いとおっしゃっておいででしたのでカモミールをお勧めさせていただいたのです。ですが、同じ働きをするハーブでも、ラベンダーはかえって目が冴えて眠れないという方もいらっしゃいますね」
「そうなのですか?」
「少し独特の芳香がいたしますので、そのせいかもしれません。ラベンダーを混ぜたポプリなど、私はとても好きなのですが」
「ポプリ」という単語に、バイオレッタは瞳を瞬いた。やはりクロードは優雅な趣味の持ち主だ。
「クロード様がお好きなら、わたくしも興味があります」
「嬉しいですね。愛らしい貴女にそのようにおっしゃっていただけるとは。玻璃と銀でできた器に入れて部屋に置いておくと、とてもよい香りがするのですよ。興味がおありなら、今度お部屋にお持ちしますが」
「え……、あの、よろしいのですか?」
「ええ。私は貴女のしもべも同然……。好きに使っていただいてかまわないのですよ」
 その言葉を聞いて、急に気分が沈んだ。やはり、クロードとの間には越えられない境界線があるのだとわかってしまった。
 それが気持ちの問題なのか、身分の問題なのか。クロードが語らない以上ははっきりしないのだが。
「しもべ」という言葉に、二人の身分差を改めて突きつけられたような気がした。
 先日の一件で少しだけ距離が縮まった気がしていたのにと、バイオレッタは苦笑する。
(わたくし、期待なんてして馬鹿みたいね……)
 どうしたって自分たちは「王女」と「臣下」でしかないというのに。クロードに思うさま自分を求めてもらうことなど、どう考えても不可能なのに――。
 息をつくと、バイオレッタは庭園を見渡した。
 スイカズラ、クチナシにデルフィニウム。足元にはレースを思わせる純白の花が咲き乱れている。
「綺麗な庭園ですね」
「ええ。四季の移ろいとはよいものです。姫と過ごしていると、時の流れがことさらゆっくり感じられます」
「え……? ……ええと、わたくし会話の速度が遅いでしょうか。もう少し速くお話した方がいいですか?」
 慌てて訊ねたバイオレッタに、クロードは微苦笑した。
「……そのような。……失礼、言葉が足りませんでしたね。私は、貴女と一緒にいるときの時間の流れ方がとても好きなのですよ」
 そんな表現をされたことがなかったバイオレッタは目を見張った。クロードはそれにかまわず静かに続ける。
「姫の纏う空気はとても優しい……。私を、包み込んでくださるよう……。そのせいか、沈黙すら苦になりません。貴女が上手に私の言葉を待ってくださるのも一因かと思いますが、急かされるようなせわしさがないので心地よいのです」
「……初めてですわ。そんな褒められ方」
 そこでふと、クロードはすっと双眸を眇めた。
「――アルバ座には、貴女を褒めてくださる方というのはいらっしゃらなかったのですか?」
「あ、ええ。お姉さんたちにはいつも叱られてばかりでしたし、下働きとしても本当に使えなくて……。トマスはたまに褒めてくれたのですけれど……、あ、初めてお会いした日に一緒にいた役者ですわ。花形で人気があって、なのにいつもかばってくれて……。かっこよくて自慢の幼馴染だったんです」
「……そう、ですか。確かに、貴女とは仲がよさそうな様子でしたね」
 短くつぶやくなりクロードが黙り込んでしまったので、バイオレッタは焦った。
(……あ……、もしかして、怒っていらっしゃるの……?)
 アベルと触れ合っていたときもひどく嫉妬されたので、もしかしたらトマスの話題はよくなかったのかもしれない。
 それにクロードにとっては赤の他人も同然なのだから、少し無遠慮だっただろうか。
「あの、ごめんなさい……、わたくし……」
 狼狽して膝の上でみっともなく動く手を、いきなりクロードが掴んだ。
「あの……」
「姫……」
 執拗にバイオレッタを見つめて、クロードは問いかける。
「姫。貴女のお好みはどのような男なのですか?」
「えっ……!?」
 バイオレッタは恐ろしいほど真剣な目つきに逃げ腰になった。
 そんな彼女の様子を察してか、クロードはすぐにふいと瞳を逸らす。
「……申し訳ございません。他意はないのです。ただ、少々気になりまして」
 バイオレッタはうつむいた。まさか「あなたです」、とは言えずに押し黙る。
 これまで懸命に好意を伝えてきたはずが、まさかこんな質問をされるとは予想外だった。
 バイオレッタとしては芽生え始めた想いを実らせるべく必死で行動してきたというのに、彼には微塵も伝わっていなかったのだ……。
(キスも抱擁も、クロード様だから許したのに……)
 本当にしてもいいと思ったから、バイオレッタは彼にそうした親密な触れ合いを許した。彼の愛の言葉に素直に喜んでみせることさえした。
 なのに、その彼に男性の好みを訊かれるなんて、あまりにも空しすぎる。
 もちろん、スフェーン宮廷では恋愛遊戯は一種のたしなみだ。色事の相手は多ければ多いほどよいとされているし、みなそうした遍歴を隠そうともしない。
 むしろ、その手の話題を軽々しく振るのは普通のことだ。
(でも、クロード様にこんなことを聞かれるなんて)
 これまでそういったあけすけな問いかけをしてくることはなかっただけに驚きだった。
 強引に口づけや抱擁に及んでおいて、これは一体どういうつもりなのだろう。都合よく弄ばれたとはどうしても思いたくないのだが……。
 その真意を測りかねて、バイオレッタは唇を噛みしめる。
 そうこうしている間にもクロードがますます強く手を握ってくるので、逃げ出したくなった。
「……こういったお話はお嫌ですか」
「いえ……。ただ、クロード様がこういうお話をなさるのが……少し意外で」
 バイオレッタは微笑でごまかしながらそう言ったが、もちろん真っ赤な嘘だった。
「意外」などという言葉を用いたのは、単に動揺していたからだ。
 嬉しいけれど、恐ろしかった。
 ……色恋の対象として見てもらえているのか、そうでないのか。それをはっきりさせられそうで。
(わたくし……クロード様にとって一体どんな存在なのかしら)
 そんなことを考えて平常心を失ってしまうくらい、今のバイオレッタはクロードに夢中になっていた。
 彼と出会ってから自分が浮かれてばかりいるのはもちろんよく理解している。分別がなくなりかけているということも。
 だが、これまでこんなに親身になってくれる異性がいなかったせいか、感情の抑えがきかなかった。
 優しくされれば乙女らしい甘い感情を味わえたし、愛おしげに触れられれば特別扱いされているようで嬉しくなった。
 悪戯っぽく揶揄されることにさえ、今ではさほどの嫌悪を覚えない。互いの距離が縮まったから、彼もだんだん好きなように振舞い始めているのだろうと捉えていた。
 バイオレッタの心はそれほどまでにクロードに馴染み始めていた。
 いつしか『恩人』という枠を超え、『恋の対象』として彼を見つめるようになっていたのだ。
 ……最初は、ただ優しいだけの青年だと思っていた。
 だんだん、少し意地悪な面もあるのだと気づいたが、その頃にはもうどうしようもないほどに彼に惹かれていた。
 最初に抱きしめられたときには男性らしい力強さや体格の違い、そしてわずかばかりの欲望を感じて胸が高鳴った。
 誰かに必要とされて求められるのは、本当はバイオレッタがそれまで一番望んでいたことだったからだ。
 なのに、クロードは曖昧な態度ばかり取る。恋人になってほしいと求められたこともなければ、バイオレッタだけを愛していると断言してもらったこともない。
 彼にとっての特別な相手であるかどうかすら疑わしく、こうして逢瀬を重ねているという事実だけが、バイオレッタのとってのたった一つのよすがだった。
(……どうしてわたくしばっかり、こんな)
 バイオレッタはもう、身動きも取れないほどクロードに惹かれている。
 前に進めばいいのか、後戻りをすればいいのか。それすらもよくわからないくらい、彼に惑わされてしまっている。
 こんなに好きになってしまっているというのに、ここで拒絶されたら。本当は貴女のことなどなんとも思っていなかったのだなどと告げられてしまったら。
 もしそうなったら、自分は一体どうすればいいというのだろう?
「……貴女は嘘をつくのが下手でいらっしゃるようだ」
 独りごちるように言い、クロードはバイオレッタの手に自身の指先を絡める。
「そんな……、嘘なんて」
「いいえ。瞳が揺れていらっしゃる。混乱していらっしゃるのだとすぐにわかってしまいました」
「混乱なんか、していませんわ……。手を、放してください……」
「指先も先ほどからせわしなく動いていますね。動揺していらっしゃるのですか? ふふ……」
「……!」
 ……見透かされている。なのに、その言葉はこれまで言い寄ってきたどの男性の甘言よりも蠱惑的だった。
「いい加減貴女の御心を教えてくださってもいいでしょう? 私が知りたいのは、貴女が今どの男に惹かれているのかということです。夜会のたび、私がどんな目で貴女を見ているかなど全くご存知ないのでしょう?」
「どんな目……って」
 思わず彼を見上げると、視線がかち合った。
 ふいと顔を背けると、喉の奥だけでくつりと嗤われる。
「なぜ目を逸らすのです、姫。そのようなことをなさっては、私にすべて暴かれてしまいますよ」
「あ、暴く……? そんなこと、できるわけが――」
「では、私の本心を教えて差し上げましょうか? 私は貴女を手に入れるためだけに生きてきたのですよ、姫」
「……な、何をおっしゃるのです。あなたとわたくしは出会ったばかりでしょう? どうしていきなりそんなことを……」
 それには答えず、クロードは絡めとったバイオレッタの指先に口づける。
 口づけの音がやたらと耳に響く。赤らんだ指先に、柔らかく熱い唇が触れる。
 途端にいたたまれなくなって、バイオレッタは身を縮こまらせた。
(……や……!)
 頭上からじっとりと注がれる視線に耐えかね、思わずぎゅっと目を閉じる。
「やめて……ください……」
「怯えないで……。私が恐ろしいのですか?」
「……!」
 指先に熱さを感じて目をやると、形のいい唇からわずかに舌がのぞいていた。それは淡紅の爪を撫で上げ、物欲しげに指を伝う。
「やっ……!」
 何かをねだるようなまなざしで、クロードは指先を丹念に舐り続ける。
 震えの走るような感触に、知らず知らずのうちに涙が滲んでいた。
 バイオレッタはうつむくと、瞳を閉ざした。頬をしずくが伝う。
「ひどい……。どうしてこんなことをなさるのですか……。いつもみたいにからかっていらっしゃるだけならもうやめてください……!」
「まだおわかりにならないのですか? 私はこれまで貴女にずっとお伝えしてきたはずです……、私の想いを」
「わかりませんわ、殿方の気持ちなんて。生まれてこの方、恋とは無縁でしたもの……!」
 バイオレッタは涙をぬぐう暇も与えられないままそう口にしたが、次の瞬間思いがけない言葉が降ってきた。
「――でははっきり申し上げます。どうか私を、貴女の恋のお相手に選んでくださいませんか?」
「え……」
 クロードはそこでやっと彼女の手を解放した。目元に手が伸びてくる。
 バイオレッタはたじろいで後ずさったが、クロードはその柳腰を抱き寄せ、目尻のしずくをすくいとった。
「貴女といると、私はそれだけで幸福で……。私のような人間にまで優しく微笑んでくださる貴女が、愛おしくて……。ただそれだけで、胸の中が温かく満たされるような心地になるのです……。おかしいでしょう? 熱情などとうに忘れ去った身であるはずの私が……」
「え……?」
 急に胸の鼓動が騒がしくなってきた。
「貴女が愛おしい」と、今クロードは口にした。「恋の相手として選んでほしい」とも。
 それならば、この想いは一方的でないばかりか、すでに成就していたことになる。
「そんな、嘘……、でしょう?」
「いいえ……。私はそのような意味のない嘘などはつきません。貴女が遠ざかってゆかれるような嘘などは、けして」
「クロード……様……」
 バイオレッタのすみれ色の瞳から、瞬く間に大粒のしずくがあふれだした。
「……っ……。ずっと、わたくし……、わたくしは……!」
 なだめるように髪を撫でられて、バイオレッタはそのぬくもりに打ち震えた。
 この温かさがずっと欲しかった。アルバ座で出会った日から、ずっと。
 けして手には入らないものだと思っていた。彼とはいつも近くにいたけれど、その「心」はバイオレッタのそれとは遠いところにある気がしていたから。
 優しいのも、父王の臣下だからだと思っていた。リシャールの娘だから敬意を払ってくれるのだと。親切にしてくれるのだと。
 抱擁やキスをするのは、ただからかっているか、もしくは家族や妹などと同じように考えているからだと思ってきた。
 けれどもしそれが間違いで、ずっとクロードが自分だけを見ていてくれたのだとしたら――。
「……、……わたくしも、好き……!」
 しゃくり上げながらなんとか言うと、クロードが華奢な身体を腕で包んできた。
「……やっと素直になって下さいましたね、私の姫」
「クロード様……!! っ……」
 バイオレッタは彼の胸に身を預けてただ涙を流した。
 どこか懐かしいとさえ感じるクロードの体温は、けしてバイオレッタを怖気づかせなかった。
 それどころか、バイオレッタを温め、心底ほっとさせてくれる。
 同時に、心の裡が激しく震えてやまなかった。
(クロード様……)
 本当は、認めるのが怖かった。この腕がこんなにも優しいということを。
 想いを認めてしまえばもう後には退けなくなると、バイオレッタは本能の部分で察していた。
 また、クロードの本心がわからない以上、下手に想いを告げることもできなかった。
 危うすぎる二人の関係は、そうした行動で一瞬にして崩れ去る。
 想いを通わせ合ってしまえば、「王女」と「寵臣」という役割をうまく演じ続けられなくなってしまうのだ。
 だからこそ、あやふやな態度を取り続けるしかなかった。クロードがそうしているように、バイオレッタもまた曖昧な言動ではぐらかすしかないと思ったのだ。
「わたくし、夢を見ているのかしら……。まさか、クロード様の口からそんな言葉が聞けるなんて思ってもみなくて……。すごく嬉しくて、どうしたらいいかわからない……!」
 あまりのことにろくに言葉も発せなくなる。
 クロードはしきりに背を撫でさすり、「夢などではありません」とささやいた。
「貴女をどうしたら振り向かせられるか。いつもそんなことばかり考えていました。ですが、貴女は今日この想いに応えてくださった。これ以上の幸福は、望みません」
「わたくしだって……、あなたを……! あなたが会いに来てくださる度に、なんだか落ち着かなくなって……、そのくせ、もっとお話をお聞きしたくて……。自分でも持て余していましたの、この気持ちを……」
「お互い、もっと早く素直になるべきでしたね。私も、本当はもっと早く打ち明けたかった。貴女を、私だけの貴女にしたかった……。ずっと、とても苦しかったのです……」
 ため息とともに落ちたささやきに、バイオレッタは恍惚となった。
 恋は甘美だ。甘美すぎて、めまいがする。
 こんな想いが、人の生命いのちのそもそもの始まりだとするなら――。
(それは、素敵なことだわ……)
 バイオレッタはクロードの背にゆっくりと手を回した。控えめにしがみつく。
「クロード様と、ずっと一緒にいたい……」
「ならば、一緒にいましょう……? 貴女が私と同じ気持ちであるなら、何の問題もないはずだ」
「ええ……」
 ――クロードとずっと一緒に。
 それはバイオレッタの本音だった。
 国や民を裏切ることになるとわかっていても、バイオレッタは彼に惹かれてしまっていた。
 クロードによって感情を甘く揺り動かされるうち、いつしか彼を心から求めるようになっていた。
 クロードが曖昧な態度ばかり取るので、これまでは恐ろしくて認められずにいただけだ。
 けれど……。
「……好きです、クロード様」
 今度こそしっかりと告げ、バイオレッタはますます強くクロードに抱きついた。
「姫……」
 上着越しに伝わってくるぬくもりに、バイオレッタは瞳を細める。
(この方は、温かい……)
 与えられるぬくもりに身をゆだねていると、不意にクロードが身を放した。
 軽くおとがいをつかまれて、バイオレッタはぴくりと震えた。
 どこか苦しそうにクロードが言う。
「姫……。私にどうか、“証”を与えて……。愛しい貴女の口づけが、何よりも私を縛るのですから」
「え……」
 弱気な口調とは裏腹に、クロードの片手はバイオレッタの細い腰にしっかりと回されている。
「……あの」
「お願いです……。貴女なしでは生きていけなくなるように、今すぐこの心を……繋いでください」
 荒い呼気で乞われると、自然と胸が高鳴った。
 バイオレッタはその頬におずおずと手を添えた。
「あなたが、本当にわたくしとずっと一緒にいてくださるなら……」
「神が赦す限り……、私の心は貴女のものです。バイオレッタ……」
 やっと名前を呼んでもらえた嬉しさで、バイオレッタはうっとりと瞳を潤ませる。
 熱に浮かされたまま、クロードの肩に手を置く。そして少し背伸びをして、クロードのすべらかな頬にそっと口づけを落とした。
 と。
「ん……っ!?」
 近づけた顔をいきなり引き寄せられたと思ったら、バイオレッタの唇には熱いものが重なっていた。
 それがクロードの唇だと理解するまでにしばしの時間を要した。
「こうするのですよ、姫……」
「あっ……!」
 身じろぐバイオレッタを強く抱き寄せると、クロードは再び唇を重ねた。
 優しくもどこか荒っぽい口づけに、バイオレッタの瞳から大粒のしずくがあふれだす。
 しかしその一方で、クロードのキスはバイオレッタの心に不思議な高揚感をもたらした。
 角度を変え、強さを変え、クロードの唇が何度もバイオレッタのそれに押し当てられる。
 両頬を挟む手のひらと、バイオレッタの様子をうかがいながらキスを繰り返す彼の様子に、しだいにバイオレッタの中で緊張がほどけていった。
 最初は軽くついばまれるだけだった唇は、やがて舌先で器用にこじ開けられる。
 驚きに目を見張る間もなく、舌同士を触れ合わせる大胆な口づけへといざなわれた。
「んん……!」
 息苦しさに指先がわななき、小さな爪がクロードの肩を柔く掻く。
 熱い想いを証明するかのように、バイオレッタの唇はしばらくの間たっぷりと味わわれた。
 逃げ惑う舌を追いかけられ、巧みに引き出されて強く吸われる。
「……!」
 バイオレッタはその奇妙な感覚に身じろいだ。
 あまりに濃厚すぎる戯れに、すぐさま息も絶え絶えになる。呼吸をすることさえままならず、苦しさに胸が上下する。
 それでもクロードは口腔を貪るのをやめなかった。
 長いキスが終わり、やっと唇が解放されたとき、バイオレッタは息を乱したままでクロードにしなだれかかっていた。
 ずるずるとへたり込みそうになる身体を叱咤し、彼女はぼんやりとその瞳を見つめる。
「……クロード、様……」
「これで私の鎖は貴女の手の中ですよ、姫」
 余裕のある様を憎らしく思いながらも、バイオレッタはクロードにしがみつく。
「……約束を守ってくださらなければ、いやです」
「破るはずがありません。貴女の御心が、ずっと欲しくてたまらなかったのですから……」
 そうささやくと、クロードは静かに笑った。
***
 翌日。
 身支度を済ませたバイオレッタは、ピヴォワンヌとともに書庫に向かっていた。
「あーもう。暇つぶしとはいえ、書庫ってなーんか埃っぽいのよね。からっとしてないっていうか」
「……」
「……バイオレッタ?」
「あ、なんでもないわ。ちょっと、考え事」
 バイオレッタは赤い顔のままもじもじと横を向く。
 ピヴォワンヌには言えなかった。クロードとキスをした話など。
 バイオレッタはもともと、それほど噂話は好きではない。大事な出来事をむやみに吹聴してまわるようなことはしたくなかった。
 それに、ピヴォワンヌに聞かせたら彼女はきっと怒る。クロードとは最初から険悪な間柄だったのだ、きっとそんな話は聞きたくないはずだ。何より、ピヴォワンヌとこれ以上気まずくなりたくない。
「何の本読む? バイオレッタ」
「そうねえ……」
 考え込みながら歩を進めていると、
「――ごきげんよう、バイオレッタ姫」
 艶のある声が前方から聞こえてきた。
 見れば、第二王女のミュゲが渡り廊下の向こうから歩いてくるところだった。
 美しいおもてに優美な笑みを載せ、彼女はこちらに歩み寄ってくる。
「あ……、ミュゲ姫様。こんにちは。どちらに行かれるのですか?」
「……」
 ミュゲはバイオレッタの問いかけを無視し、静かに彼女に近づいた。
 ――刹那、その美貌が思いきり歪んだ。
 やおら腕を振り上げたかと思うと、ミュゲはバイオレッタの頬を強く打った。
 肌を打擲する乾いた音が響き渡り、バイオレッタの身体がぐらりと大きく傾いだ。
「――バイオレッタ!!」
 慌てたピヴォワンヌが身体を支えてくれたが、バイオレッタは何が起こったのか理解できないまま呆然としていた。
 ミュゲは今にも泣きそうな顔で吐き捨てる。
「……この、女狐めぎつね……!!」
「……!」
 バイオレッタはじんじんと痛む頬を左手で押さえながら眼前の美姫を見つめた。
(ミュゲ、様……?)
 ミュゲは肩で息をしながらバイオレッタを睨み据えている。
 晩餐の席や舞踏会などで見るミュゲの姿とは、明らかに何かが異なっていた。今の彼女は、もっと烈しくて深い感情を露わにしている。
 傍らのピヴォワンヌが、キッと彼女を睨み返した。
「あんた、いきなり何するのよ! いくらあたしたちが気に入らないからって――」
「わたくしのものに手を出すからよ」
 きっぱりと言い、ミュゲは二人の脇を通り過ぎる。
「ちょっと!! 待ちなさいよ!! バイオレッタが一体何をしたっていうの!?」
 ピヴォワンヌの制止の声も聞かず、ミュゲは侍女を連れて去っていった。
 バイオレッタは頬を張られた理由もわからず、ただその場に立ち尽くしていた。

***

 

 ミュゲは涙をこらえながら翡翠ジェダイト棟の私室へ戻った。
 やっとの思いで部屋にたどり着くと、彼女は寝室に閉じこもって扉に鍵をかけた。
「……っ!!」
 ずるずるとその場にへたり込んでミュゲは泣いた。とめどなくこぼれるしずくに、ひどくやるせない気分になる。
「どうして……」
 浅ましい。浅ましくて、涙が止まらない。
「クロード……!」
 昨日、ミュゲは例の庭園にいた。
 クロードとバイオレッタの仲睦まじい後ろ姿を見かけて胸騒ぎがしたのである。
 こっそり二人を追いかけたミュゲが見てしまったもの。
 それは、バイオレッタを抱きすくめるクロードの姿だった。
 彼は心底大切そうにバイオレッタを抱きしめていた。ミュゲにするような他人行儀な抱擁ではなかった。
 その上、彼は胸に抱いたバイオレッタに優しくも激しい口づけをした。……まるで好き合った恋人同士がするような口づけを。
 すぐにミュゲは、それがただの気まぐれな触れ合いなどではないことを悟った。
 クロードがバイオレッタにしていたのは、いつも彼が貴婦人たちに与えるような戯れのキスではなかったからだ。
 その証拠に、クロードは必死だった。覆いかぶさるようにしてバイオレッタにキスをする彼は、どこからどう見ても焦っていた。
 バイオレッタを怯えさせぬよう、そしていとわれて逃げられぬように、慎重にキスを繰り返していた。
 それは普段の彼なら絶対にしない行為だった。
 クロードはそもそもそこまで誰かに必死になることがない。
 したたかに酔った貴婦人たちにキスをねだられることがあっても、顔色一つ変えずに淡々とこなす。
 好きも嫌いも関係なく、まるで義務を果たすかのように女と戯れている。そんな男なのだ。
(初めて見た。クロードのあんな、余裕のなさそうな顔……)
 クロードの目は、すぐに替えの利く女を見る目ではなかった。やっと手に入った宝物ほうもつを愛でるような目だった。
 ミュゲにはそれだけでもう、わかってしまったのだ。
 クロードが本当に愛しているのは、自分ではなく――。
「どうしてなの……。お前、わたくしを愛しているって言ったじゃない……!」
 子鹿色フォーンの絨毯の上にいくつも涙の染みができる。
 これだから男の言葉なんて信じられない。
 なのに、心はもうずっとクロードに傾いたままだ。
「わたくし……、どうしたら……!」
 自分が道をたがえたとは思いたくなくて、ミュゲはただしゃくり上げ続けた。

 

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