箱馬車を降りたバイオレッタは、思わず声を上げた。
「わあ……!」
快晴の空の下、その邸はそびえ立っていた。
暗緑色と象牙色を基調とした外観はすっきりとしている。
上階のバルコニーを飾るのは黒いアイアンで、その装飾の細かさはもはや芸術の域だ。
(これは……、邸宅というよりはお城に近そうね……。おとぎ話の眠り姫が出てきそう)
入口外階段の両脇には薔薇の植え込みがあって、薔薇が美しく咲き誇っていた。
虫食いも病気もない、見るからに健やかそうな薔薇ばかりだ。つる性の薔薇が邸の壁面を這っているのを見たから「眠り姫の城のようだ」と感じたのかもしれない。
その中でもバイオレッタは、丸みを帯びたシルエットの白薔薇に特に目を奪われた。思わず近づいて眺める。
(白い薔薇なのに中の方だけピンクで可愛いわ)
出がけにクロードにもらったものによく似ていると思った。残念ながら香りはないが、花弁の連なりが美しい。
近寄ってきたクロードがふっと微笑した。
「おや……、その薔薇がお気に召したのですか? では、切って差し上げましょうか」
「え? いえ。そんなつもりでは……。それに今日はもう花束をいただきましたわ」
「どうか遠慮なさらないで、姫……。優しい貴女に摘んでいただけるなら、この薔薇たちも本望というものでしょう。ここでしばらくお待ちになっていて下さい」
クロードはそう断ってから玄関に入っていく。やがて、小ぶりの鋏を携えて戻ってきた。
「どちらをお切りいたしましょうか?」
「え……、そんな……」
特に催促したわけではないのだが。
「……あの、本当にいいのです。ねだったわけではなくて……」
「またそうやってつれないことをおっしゃる。……貴女がお決めになれないというなら、私の好みで選ばせて頂きますが」
「え?」
……次の瞬間、ぱちぱちと軽快な音が響いた。
「ティネケ、ヴィルゴ……。貴女の普段の印象からいくと、やはり白ですね。純粋で、穢れを知らない乙女の色……」
クロードは白い薔薇の花ばかり選んで、次々と切る。
「白い薔薇って、こんなにあるのですか?」
「ええ。出がけに姫に差し上げたもののように、内側だけがピンクのものもあります。ひとくちに白といっても様々です。クリームがかったもの、紫がかったもの。まっさらな純白のものまで、白薔薇の個性というのは多岐にわたります」
クロードはそこでつと隣の茂みに手を伸ばす。
「ですが……この紫のものや、薄紅の薔薇なども姫にぴったりです。優しげな色合いがいかにも貴女らしいでしょう? ああ、こちらのブラック・バッカラなども美しいのですよ。静かに燃え上がる激情の色……ですね」
わずかに落ちた色彩の紅薔薇を、クロードは掲げた。艶めいた笑顔に思わずどきりとする。
(確かにいただけるなら嬉しいわ。大好きなクロード様のお邸の薔薇だし……。でも……)
こんなに景気よく切ってしまっていいのだろうか。心配になったバイオレッタは彼を見上げて訊ねた。
「……いただいて、本当によろしいのですか?」
クロードはうなずいた。長い漆黒の髪がなびいて揺れる。
「もちろんです。私の邸の薔薇などでも、姫の心の慰めになるのでしたら……」
嬉しくなったバイオレッタはそっとその腕に手を添えた。
「ありがとうございます、クロード様。いただいた花束と一緒にお部屋に飾って大事にしますわ」
彼は朗らかに笑った。
「他に気になったものはございませんか?」
「実はあのコーラルピンクのものと、濃いマゼンタのものが可愛いなって……」
「確かに、愛らしいピンクでつい目を奪われますね」
クロードはバイオレッタが指したピンクの薔薇を切り始める。
「素敵な薔薇ですね」
「ええ。鮮やかなピンクですね。貴女の普段の装いにもとてもお似合いになりそうな色です」
「こんなに可愛い色は似合いませんわ。ピヴォワンヌじゃないのですから」
「そうでしょうか? では、今度ピンク色のドレスをお召しになることがあれば、真っ先に私に見せてくださいませんか? 普段のお色もとても可愛らしいですが……本当は、貴女のそういった可憐なお姿もぜひ拝見したいのです。できれば、他のどんな男よりも早く」
あまりに情熱的すぎる台詞に、バイオレッタはうろたえた。
「真っ先にクロード様に……ですか? でも」
「いけませんか?」
「え……」
どう答えればいいのだろうかと悩んだが、正直に言う。
「わたくしに甘い色は似合わないのです。なんというか、温かみのある色が映えるような見た目ではなくて」
ピンクや赤、黄色や橙といった暖色系を得意とするピヴォワンヌとは違って、バイオレッタは寒色の方が似合う容姿をしている。肌も髪も透き通るように白いせいだろう。
クロードがもしピンクが好きだというなら着てみせてもかまわないのだが、正直あまり似合うとは思えないのだ。
そこまで打ち明けると、クロードが難なく提案してくる。
「……では、マゼンタやローズ、フューシャピンクなどでしたらいかがでしょうか。あなたの容姿をさらに引き立てるお色なら?」
そう言って一歩も退かないクロードに、バイオレッタは慌てた。
「そ、そこまで食い下がるようなことでもありませんわ。本当に、ピンクはあんまり似合いませんから」
「そうでしょうか。その柔らかな白銀の御髪に、青みを加えた繊細なピンクやローズはとてもお似合いになると思いますよ。ポンパドールピンクや野ばらの花色など、いかにも女性的で可憐でしょう? そうですね……、珊瑚や赤では黄みが強いでしょうから、どこか青い色彩の入ったお色がよいでしょう。その御髪と肌の色に最高に映えるはずです」
バイオレッタはそこで、白銀の髪を一房つまんでみる。
王宮で暮らすうち、嫌いだったこの銀髪をだんだんと好きになりつつあった。周囲の褒め方がいいのだろうが、「白髪頭」などと呼ぶ人間がいなくなったのも一因だろうと思われた。
サラは毎朝うきうきと髪を整えてくれるし、王宮の婦人たちも時たま羨ましげに目を細めて見つめてくる。
そのうえ、今日こうしてクロードにまで褒めてもらえて、純粋にバイオレッタは嬉しかった。
「……では、少しだけ手持ちに加えてみようかしら」
「ええ、ぜひ。もしよろしければ選ぶところからお手伝いいたしますが。……ああ、何ならお身体の採寸からでも――」
「それはいりません!!」
「ふふっ……」
こうして私邸にバイオレッタを招くことができて嬉しいらしく、クロードはいつになく饒舌だ。
ずっとこんな顔を見せていればいいのにと、バイオレッタはつい思ってしまう。
そうすれば、宮廷人だってクロードを見直すに決まっている。そして、少し悔しいけれど、貴婦人たちの株も今以上に上がるだろう。
(宮廷で孤立しているのがもったいないくらい素敵な方。でも、それはクロード様にとって、一種の処世術なのかもしれないわ……)
そんな彼に親切にしてもらえているということは、少しはうぬぼれてもいいのだろうかと、バイオレッタははにかむ。
そんなことを考えていると。
「……姫」
「は、はいっ」
「またこのようにして貴女をこちらへお誘いしてもよろしいでしょうか。お見せしたい薔薇もたくさんありますし、絵画や彫像など、一緒に鑑賞したい美術品も数えきれないほどございます。もちろん一人で愉しむのもよいのですが、私としてはぜひとも貴女と堪能したいと思いまして」
「まあ……。そのようなものを見せていただけるのですか?」
「私は芸術に関しては全くの門外漢ですので、生憎作品を解説するのは不得手なのですが……。それでもよろしければ」
バイオレッタは身を乗り出した。
「楽しみです! わたくし、彫像はよくわからないけれど絵画は大好き……! 昨今の宮廷画家の活躍ぶりには目を見張るものがありますよね! クロード様さえよければ、またぜひ誘っていただけませんか? だって、クロード様とそんな時間が持てるなんて夢みたいなのですもの」
言ってしまってから、「こんなに勢いよく喋らなければよかった」とバイオレッタは後悔する。
これではさすがのクロードも口を挟む余裕など持てないだろう。しかも、ただ提案されただけで、まだきちんと決定した事柄というわけでもない。
だが、彼はいたく感動した様子で眉根を寄せた。
「ああ……、なんということでしょう。姫……、ありがとうございます。お誘いしても、かまわないのですね?」
「ええ。あ、でも、クロード様がそうしたいと思った時でいいのです。わ、わたくしももう少し、あなたと仲良くなりたいですし……」
「ああ……! 感謝いたします、私の姫。愛しています」
「いえ、そんなっ……!!」
手の甲に何度も口づけてくるクロードを見つめて、少々大げさだと思ったが、わりあい本気で喜んでいるようなのでバイオレッタも微笑んだ。
爽やかな風が吹き抜けて、バイオレッタの白銀の巻き髪を揺らす。
バイオレッタは風に撫でられる色とりどりの薔薇を見つめた。
「……本当に素敵な薔薇園ですわね。手入れがいいみたいで、どの薔薇もとっても元気ですし」
「貴女がお褒め下さったことを知れば、庭師たちも欣喜することでしょう」
「わたくしはクロード様のことがちょっとだけ羨ましいですわ。こんな美しい花たちに囲まれて生活できるのですもの」
「私にとっては貴女の方が大輪の花に見えますよ。そのような方とこうやってご一緒できるのですから、本当に私は果報者ですね。ふふ……」
驚いたバイオレッタはぱちぱちとまばたきをしたが、クロードの顔が本当に嬉しそうにほころんでいたのでもう何も言わなかった。
「……ああ、先ほどのピエール・ドゥ・ロンサールも切って差し上げましょう」
穏やかに笑み、クロードは白薔薇の茂みへと歩を進める。
ふっくらとした花びらが幾重にも重なった白薔薇。その枝を、クロードは器用に切った。
「これはピエール・ドゥ・ロンサールというのですか? きれい……」
「お気に召しましたか?」
「はい!」
手を伸ばそうとすると、クロードがやんわりとたしなめた。
「いけません、姫。棘が刺さってしまいます。邸の中に道具がありますので、入ったら棘を御取りいたしましょう。私がお持ちしますので今はまだ触ってはいけませんよ」
「はい」
クロードが手ずから薔薇を切ってくれたのが嬉しくて、バイオレッタは笑顔になった。
薔薇を切ってもらえたことも、「約束」してもらえたことも。……優しくしてもらえたことも。
(また、思い出が増えたわ)
***
庭を案内してもらったあと、バイオレッタはクロードの邸に足を踏み入れた。
邸の中は広く、静寂に満ちていた。使用人はいるが、みな落ち着きがあって余計な物音など一切立てない。
お仕着せを着込んだ初老の男性が恭しい所作で頭を下げる。
「いらっしゃいませ、第三王女殿下……」
「この方は陛下の御息女であらせられます。丁重におもてなしをなさい。さ、姫、こちらへ……」
言って、クロードが手を取る。
グレーのタイルと黒橡色の内装という組み合わせが洒落ている。いたるところに濃紫のタペストリーがかけられていて、バイオレッタはつい普段のクロードの服装を連想してしまった。
「足元にお気を付けください」
「大丈夫ですわ」
エスコートされながら二階へ上がる。廊下を進んだあと、クロードは黒銀の装飾の扉を開けた。
(わあ……)
まず目についたのは背の高い書棚だ。読書が好きだというクロードらしく、分厚い本が所狭しと並べられている。
ウォールナット製の飾り棚も目を引いた。精緻なレリーフと自然な艶が美しい。棚の部分には、宝石箱のようにも見える銀製の小物入れや磨り硝子の小瓶、英雄の彫像などがバランスよく飾られていた。
思わずきょろきょろと部屋を見渡す。
空間自体はとても広いが、家具の配置が考え抜かれているようであまり寂しさを感じさせない。
ほかにも、絵画が飾られていたり、真紅の薔薇を活けた花瓶が置いてあったりして優雅だった。花を贈るばかりでなく、こうしたところにまで薔薇を活けて迎えてくれるとは、なんとも気遣いの細やかな青年だ。
この薔薇はもしかしたら庭のものなのかもしれない、などとバイオレッタがこっそり考えていると。
「……私室ですので手狭ですが、どうかお許しを」
ため息まじりのささやきが落ちてびくりとする。
「えっ!?」
これで手狭と言い切るあたりにも驚かされるが、「私室」という単語に、出がけのサラの台詞を思い出してしまった。
『男女が外で二人きりで逢うといえば、デート以外にありませんでしょう』
(……そうだった、ここはクロード様のお部屋なんだわ。どうしよう、急に緊張してきちゃった……)
急に黙りこくるバイオレッタに、クロードが心配そうな顔をする。
「どうなさいました……? 何か問題でも……?」
首を傾げるクロードに「いいえ」と返しながらも、バイオレッタはなんだか落ち着かなかった。
使用人に「お茶を」、とささやくと、クロードはバイオレッタの手を引く。
「支度が整うまでこちらにいらっしゃい、姫……」
「あ、はい……」
勧められるまま、ソファーに腰を下ろす。
すると、当然のようにクロードが隣に座ったのでバイオレッタはうろたえた。
「……どうかなさいましたか、そのようなお顔をなさって……」
「あの、ちょっと、近いです……」
「何のことでしょう? 近いとは……。私は貴女との間には距離がありすぎると常々考えていますよ」
低く笑って肩を抱き寄せてきたのでぎょっとした。
見上げると、妖艶な色を帯びた黄金の瞳が悪戯っぽくこちらを見つめ返す。
「もしや、怯えていらっしゃるのですか? ふふ……」
「か、からかわないでくださいませ……。慣れていないので、困りますわ」
「それが貴女のご命令ならば、そのように」
そう言いながらも肩に回した腕を放そうとしないので、バイオレッタは少しだけ狼狽した。
(も……もう……。やっぱり意地悪な方……)
普段なら、ここでサラやピヴォワンヌといった周りの女性陣が割って入るところだ。
彼女たちに咎められるたび、二人は仕方なしに触れ合いを中断させるしかなかった。
侍女や親友に注意されるというのは、どうしても恥ずかしいし気まずい。それほどまでに恋に没頭しているのかと婉曲に責められているようで、そのままべたべたし続けるのがなんだかはばかられるのである。
バイオレッタとしては、いつもそうやってスキンシップを中断せざるを得なくなるのを少し残念に思っているほどだ。
しかし、いざこうして二人きりになってみると、思ったより平常心ではいられないということがわかった。
こんな風に密着していると心音まで全部聞かれてしまいそうだし、クロードに表情や視線の行方などを逐一確かめられているようで、なかなかに落ち着かない。
(こ、こういう時、わたくしはどうしたら……)
クロードに話を振ろうにも、胸がばくばくしてろくに言葉を紡げそうにない。
クロードはそんな彼女の様子を黙って見つめていたが、バイオレッタが嫌悪から萎縮しているのではないと悟ったようで、しだいにくつろいだ雰囲気になってくる。
「どうぞ、お楽になさってください、姫。すぐに茶菓がまいりますから」
そう言って肩のあたりを軽く叩かれ、バイオレッタは大きく息をついた。
「はい……。ごめんなさい……、ちょっとだけ緊張してしまっているみたい……」
「私相手に緊張などなさらなくて結構ですよ。どうぞ普段通りになさってください」
「ええ……」
ややあってから、クロードは肩に回していた手を引っ込めた。代わりにバイオレッタの小さな手を取り、絡めるようにして弄ぶ。
しばらく指先の触れ合う感触を愉しんでいたが、やがて静かに切り出した。
「……姫。ずっと貴女にお訊ねしたかったことがあるのですが」
先ほどとは打って変わって真剣な面持ちだ。
バイオレッタは彼と指を絡ませたまま、きょとんと首を傾げる。
「はい……?」
「貴女は……初めて私とお会いになったとき、どのような感想をお持ちになりましたか?」
思いがけない問いに、バイオレッタは目を見張る。が、はにかみながらゆっくりと答えた。
「……とても、美しい方だと思いましたわ」
今でもあの時のことを思い出すと胸が高鳴る。
背筋の伸びた、凛とした立ち姿。どこか物憂げにこちらを向く、艶めいたかんばせ。
黒曜石を溶かし込んだような長い黒髪に、野生の獣を思わせる黄金の瞳。
穏やかな、けれどもどこか鋭利な麗姿だと感じた。口調は温和そのものなのに、瞳には思いがけず強い光が宿っていて、その違いがまた魅力的だった。
「わたくし、クロード様みたいに綺麗な方にこれまでお会いしたことがありません。華やかで、なのに物腰は落ち着いていて……。素敵で……」
だが、クロードはゆるゆると首を振った。漆黒のまつげを伏せて、かすかに笑う。
「“美しい”、“綺麗”、ですか……」
「えっ、わたくし、何かいけないことを申しましたか……?」
「ふふ……、姫には正直に白状いたしましょうか。私は、自分の容貌があまり好きではないのです。特にたくましい体つきでもありませんし、顔は女性のもののようでしょう……? 本当に、男らしさなどかけらもない容貌だ」
バイオレッタは声を上げた。
「そんな!」
「おや、随分力強く否定してくださいますね」
「だって、わたくしはあなただから好きなのであって、あなたと他の殿方を比べたことなんて……!」
「……では貴女は、ありのままの私を受け入れてくださると?」
「う、受け入れるって……。わたくしはとっくに……あなたを……」
口ごもり、思わずぎゅっとクロードの手を握りしめてしまう。
この先の言葉は言えそうになくて、バイオレッタは押し黙った。
クロードはさもおかしそうに笑った。
「よろしいのですよ。初心な貴女にそこまで言わせるのは酷というものでしょう。私とて鬼ではありません」
「あの、あんまり子供扱いしないでください」
「子供……とまでは申しませんが、私から見れば貴女はまだとてもお若い。だからついからかいたくなってしまうのでしょうが」
(……もう。クロード様、煙に巻くような言い方ばかりなさって……)
落ち込みながらも、バイオレッタはそのシャツをそっと掴んだ。
「……からかわないでください。わ、わたくしはもう、大人です」
「……姫」
「少しくらい大人扱いしてくださってもいいのではありませんか?」
……刹那、二人の視線が交わった。
危険なほどのきらめきを放つ黄金の瞳が、慄く青紫の瞳を捉える。
まるで獣に追い詰められているような気分になって、バイオレッタは瞳を逸らそうとした。
ふいに、伸びてきたクロードの手が頬に添えられ、びくりとする。
「……!」
「……まさか貴女がそこまでおっしゃるとは。ならば、私からのキスを受けてくださいませんか」
「え……」
「貴女が、愛おしいのです……。私を恐れずに慕ってくださる貴女が、誰よりも。この想いは、これまでに何度もお伝えしてきたつもりでした。ねえ、姫……? そこまでおっしゃるなら、もう私の気持ちに応えてくださってもよろしいでしょう……?」
ささやくなり、クロードはバイオレッタの顎をくいと上向かせた。瞳を細め、彼女の唇に自身のそれを寄せる。
後ずさろうにも、いつの間にか腰を抱かれていて逃げ場がない。
(……!)
「それ」が、恐怖なのか羞恥なのか、それとも両方なのか。バイオレッタにはわからなかった。
ここで彼とキスできるのなら幸せだろうと思うのに、身体が震えて逃げ出すことばかり考えてしまう。
しだいに間近に迫ってくるクロードの顔に、バイオレッタは声を上げようとした。一言「待ってください」と伝えようとした。
けれど、一切の抵抗も拒絶も許さないクロードの雰囲気、そして思わず狼狽するほど真剣なその表情に圧倒され、声にならない。
そうしている間にも絶えず愛の言葉をささやかれ続けていたが、バイオレッタの頭は煮えたぎりそうに熱くなっており、それどころではなかった。
さらにきつく腰を抱かれ、クロードの方へと引き寄せられる。わずかにバイオレッタの顔を傾けさせると、彼は覆いかぶさるような形で唇を重ねようとした。
(や……、いや! こんな、だめ、恥ずかしい……!)
吐息が触れ合おうという時、とっさにバイオレッタはクロードを突き飛ばしていた。
「……!」
実際は胸を押しやった程度にすぎなかったのだが、クロードは驚いた表情で手を放した。
「姫」
「……あ……」
バイオレッタは瞳を潤ませた。
……せっかくクロードが自分を求めてくれたのに、応えられなかった。しかも、こんなに最悪な形で拒絶してしまうなんて。
バイオレッタの目尻にしずくが浮かぶ。
「ごめん、なさい……。わ、わたくしは……」
バイオレッタはしゃくり上げた。クロードがそっと身を放す。
「……お嫌だったのですね」
「い、いやではないのです。ただ……、驚いてしまって……」
弁明しながらも、頭の中は不安でいっぱいだった。
何しろ想い人からの口づけを突っぱねたのである。クロードが気分を害したのではないか、とうとう呆れられたのではないかと、嫌な想像が絶え間なく襲い掛かってくる。
(嫌われたらどうしよう……!)
彼が短気な男性であれば、ここで落胆を露わにし、バイオレッタを罵るかもしれない。当てが外れたといって心ない言葉を浴びせるのかもしれない……。
だが、うつむいたバイオレッタの耳朶に、思いがけず落ち着いた声が降ってきた。
「申し訳ございません。貴女のお気持ちも考えず、勝手な真似を……」
「え……」
思わずぱっと顔を上げてクロードをうかがうと、彼は本当にすまなそうな顔をしていた。
「みっともない姿をお見せしました。姫を怖がらせるつもりなど全くなかったというのに」
詫びるクロードを見上げて、バイオレッタは胸が締め付けられるのを感じた。
煽るようなことを言ってしまったのは自分なのに、クロードはそれを責めない。それどころか自分に非があったと言って謝ってくる。
「ちがうのです……、わたくしは……!」
情けないような申し訳ないような気持ちになって、ますます涙腺が緩んだ。
(やっぱり、お優しい方なんだわ)
肩を震わせて泣いていると、クロードがふいに身体を両腕で包んできた。
シャツを通して伝わるぬくもりに、涙がはたと止まる。
「……クロード様……」
「泣かないでください。貴女に泣かれるのは……耐えられません」
「……どうして、そこまで言ってくださるのですか? もう、嫌いになってしまったのではありませんか……? わたくしのこと……」
「そのようなことはございません。私の方こそ、性急すぎて貴女に嫌われたのではと……」
「だって、最初にあなたを急かすようなことを言ってしまったのはわたくしで」
「いいえ、いつも貴女を子供扱いしている私に非があるのですよ。貴女とて年頃の淑女でいらっしゃるというのに、私はそんな貴女の焦りや不安を増長させるようなことをしてしまいました。貴女は子供などではありませんし、もう立派な一人の女性だというのに」
二人はしばし、必死で謝罪し合った。
なんだかおかしくなって、バイオレッタは泣き笑いの表情を浮かべる。
「ご、ごめんなさい、笑ったりして。だけど、なんだか変な感じです……。クロード様とこうして謝り合っているなんて」
クロードもうっすらと微笑み、優しい手つきで髪を撫でてくる。
「貴女が男を怖いと感じていらっしゃることは、よくわかっているつもりでした。それなのに、私は……。貴女のお気持ちを察することもできずに……。どうかお許しください」
幾分恐縮した様子でクロードは続ける。
「姫のお言葉に、思いがけず驚いてしまったのです。大人として見てほしいとおっしゃられたでしょう?」
「ええ。だって、そうしてほしいのですもの……」
拗ねたように言うと、クロードはやおらバイオレッタの瞳を覗き込む。
「私は、とっくに貴女をそうした目で見ているつもりです。確かに貴女をからかって困らせることもありますが、それは貴女が子供だからではないのです」
「えっ?」
バイオレッタが訝しむと、クロードはそこで懸命に語りだした。
「姫は態度も作法もきちんとした方で、普段は誰に対しても姫君らしくしっかりしたところをお見せになっていることが多いでしょう? そんな貴女が、私の前でだけ困ったようなお顔になる。子供っぽく愛らしいふるまいをされ、あどけない少女のようなお顔をされる……。これは私にとってはたまらない一面なのです」
「ええ……!?」
たまらないなどと直截的に言われると赤面してしまうが、彼はかまわず続ける。
「私は子供の相手がしたいわけではない。淑女の相手がしたいのです。その点、姫、貴女は素晴らしい女性だ。ピヴォワンヌ姫の前では姉姫らしい頼もしさや几帳面さをお見せになるのに、私の前ではまるで違う。私の言うことにいちいち反応なさり、うろたえ、頬を染める。花が可愛らしい、景色が綺麗だといってはしゃいでみせる……。そのわずかなずれが、私の心をくすぐってやまないのですよ」
「要するに……クロード様の前でだけ面白いように反応してみせるから楽しい、ということですか?」
「……はっきり申し上げますと、そうなります。淑女でありながらもごく稀に子供のような一面をのぞかせる貴女が、私は好きなのです」
それを聞いて、なんだか複雑な気分になった。
(……わたくし、別に意識してそういう態度を取っているわけじゃないのだけれど)
バイオレッタは別に、自分がしっかりした王女だとは思っていない。ピヴォワンヌといる時くらい、ちゃんと姉らしい対応をしなければと思っているだけだ。
まさかそんなギャップに身悶えられているとは露ほども知らなかった。
だが、ひとまず女性として意識はされているようなので胸をなでおろす。
「とりあえず、よかったです……。あなたにちゃんと女性として見てもらえているようで」
「当然です。姫は大人の女性を名乗るにふさわしい才媛でいらっしゃいます」
そこで、バイオレッタはつと身を乗り出した。
「……本当に、わたくしのことをそう思ってくださる? あなたの相手ができるくらい大人だと、言ってくださる……?」
「何を馬鹿なことをおっしゃるのですか。私たちの間には、もともとそのような隔たりなどないはずです。たとえ貴女が王女で私が臣下であるとしても、こうして向き合っている間は対等であるべきでしょう」
それはつまり、彼に対してもっと意見していいということなのだろう。クロードにしてみれば、王女であるバイオレッタがあまりにも意見の主張をしないせいで、かえって気を遣ってしまうのかもしれない。
「いつぞやかの舞踏会の夜にも申しましたが、貴女はご自分の意思をもっと優先させるべきです。私に対しても、もっと様々なお考えをぶつけていただけたらと思います。それを私は反抗的だなどと批判したりはいたしません。私はありのままの姫が好きなのですから」
バイオレッタはくすっと笑う。
「……初めてです、殿方にそのようなことを言われたのは」
「私は貴女を苦しめた男たちとは違います。物を言わぬお人形のような貴女を愛しているわけではありません」
そこでバイオレッタは泣きそうになった。クロードがこうしてあるがままの自分の姿を認めてくれたというだけで、なぜだか無性に嬉しかった。
(変に背伸びや無理なんかしなくても、この方はわたくしを大切に思ってくださるのね……)
クロードは巻いた白銀の髪を指に絡めながら、バイオレッタの頭をゆっくりと何度も撫でる。それだけで安堵のため息が出た。
……温かい手だ。そういえば、彼は今日は手袋をしていないのだ。だから余計に熱が伝わってくるのだろうとバイオレッタは考えた。
「もしキスがお嫌なら、そうおっしゃっていただいてかまいませんよ。何もそればかりが触れ合うための手段というわけではありません。極力姫の負担にならないものにいたします」
生真面目に言うクロードに、バイオレッタは慌てて否定する。
「あ……いえ。あの、ごめんなさい、クロード様。わたくし、どうしてもああいったことにはまだ不慣れみたいです。なので、もう少しだけ待っていただけませんか? その……、わたくしが積極的にしたいと思えるまで」
クロードは柔らかくうなずいた。
「わかりました。貴女ともっと親密になりたいのは事実ですが、無理はさせたくありません。御心が決まるまで、いつまででもお待ちします」
またはらはらと涙がこぼれてきて、バイオレッタはクロードのシャツに顔を埋めた。
「まだ嫌わないでください、わたくしのこと……。次はもうちょっと頑張りますから」
「嫌いになどなれるはずがないでしょう。私にとって、貴女は誰よりも愛おしくてかけがえのない御方なのですから」
「……ありがとう、クロード様。嬉しい……」
しばらくの間、二人はそうして寄り添っていた。
クロードの体温は思わず安堵してしまうほどに温かく、その胸に抱かれていると触れ合った箇所から何かが溶けてしまいそうだった。
いつか、この想いをクロードが受け止めてくれたなら――。
バイオレッタはそんな願いを胸に秘めて瞳を閉ざした。
***
「今日はありがとうございました。お菓子もお茶も美味しかったですわ」
――夕暮れ時。
邸の門扉をくぐったところで、バイオレッタはにこやかにお礼を言った。
テーブルセッティングも美しかったが、クロードが手ずから茶菓を取り分けてくれたのには驚いた。
そんなに甘やかさなくてもいいと言ったのだが、クロードが譲らなかったのである。銀のナイフで手際よくケーキを切り分けてくれたクロードの姿が、今でも目に焼き付いている。
「エピドートのお菓子は本当に珍しいものが多いんですのね。紅茶によく合うものばかりでしたわ」
ケーキも焼き菓子も絶品で、バイオレッタはついお代わりを所望してしまった。
そんな様子に触発されたのか、クロードも少食というわりにはよく食べていて和んでしまった。彼もまた甘党だということがわかり、思いがけないところで話が弾んだほどだ。
時々ケーキを一切れずつ交換し合い、二人は和やかにティータイムを満喫した。
「スコーンにバノフィーパイ、バタフライケーキに、お砂糖でアイシングしたカップケーキ……。どれも可愛くて素敵でした」
「お気に召したのでしたらまた菓子職人に作らせましょう。ああ……、姫がお望みなら、王城でも出していただけるように取り計らいましょうか?」
それも寵臣であるクロードには簡単にできるのだろう。だが、バイオレッタは首を横に振った。
「いいえ。わたくし、クロード様がお嫌でなければ、またこのお邸に来たいと思います。その時また食べさせてくださいませ。とっても気に入りましたわ」
「姫……! それでは、またこちらに来てくださると……? 私としてはまったく嫌ではありませんし、むしろ来ていただきたいですが……」
「では、そういたしましょう。お誘い、お待ちしていますわ」
「ええ。また折を見てお誘いさせていただきます」
クロードの言葉を受けて、バイオレッタは朗らかに笑った。
同時に、一抹の寂しさに襲われる。
城へ向かう箱馬車に乗ってしまえば、あとはまっすぐ私室へ帰るばかりなのだ。それをとても残念に思いながら、バイオレッタはクロードを見上げる。
「……もう、楽しい時間もおしまいですのね」
「ええ……。ですが、私たちの関係はまだまだこれからですよ、姫」
クロードの穏やかな微笑みに、バイオレッタは目を奪われる。
「え……」
「申し上げたでしょう? 貴女を教え導く愉しみを残しておかねばならないと……」
「そ、それは……。実はわたくし、今日のことでクロード様に嫌がられていないといいなあって少しだけ思っていて……」
悔しさから挑発し、あまつさえせっかくのキスを拒んでしまった。
あれから不快に思われてはいないかと、バイオレッタは気をもんでいたのである。
だが――
「いいえ、ちっとも嫌ではありませんよ。嫌だと思ったら次も来てほしいなどとは言いません」
バイオレッタは思わず「あ……」と小さく声を上げ、ぱちぱち瞬きをする。
確かにそうかもしれない。
本気で嫌だと思うなら、最初から気を持たせるようなことは言わないだろう。
いくら社交辞令に長けた男性であるとはいえ、プライベートな空間に招こうというのだから、その辺りの線引きはしっかりしているはずだ。
「姫は……? 貴女は、私に嫌気がさしてはいらっしゃいませんか?」
問いかけられ、バイオレッタはふるふるとかぶりを振った。
「まさか! その……、クロード様ともう少しだけ仲良くなりたいなあとは思っているのです。ただ……勇気がなくて」
正直に告白すると、クロードはくすりと笑う。
「……それならば、私たちは私たちの速度で参りましょう、姫。一歩一歩でよいのです。そう……歩くような速さで」
「歩くような、速さで……?」
「ええ。無理をなさる必要はありません」
たちまち心が和んでしまい、バイオレッタは白いおもてをほころばせた。
「素敵だわ。本当にそんな風にだんだん距離を縮めていけたらいいですね……!」
瞳を細めたクロードはそっと身を屈めた。
「……ですから、今日はこちらを頂きたいと思います。お許しを」
「え……、あっ……」
熱い唇が額に押し付けられる。それはすぐに離れていったが、バイオレッタの心にはおかしな余韻が残った。
彼女は震える唇を開く。
「……クロード、さま」
「これくらい、許してくださってもよろしいでしょう? 普段はどうあっても貴女を独占することなどできないのですから……。それに、貴女が今日のことをすぐに忘れてしまうのも困ります」
バイオレッタは感激のあまり瞳を輝かせる。
クロードがここまで言ってくれているのが夢のようだった。
嫌われたかもしれないと不安になっていた。だが、恭しい口づけがそれらをすべて拭い去ってしまう。
バイオレッタはクロードの瞳を見つめ、微笑んで言った。
「ずっと忘れませんわ! 今日の思い出にします」
「ええ。忘れないで下さい、姫――」
二人はどちらからともなく指先を絡ませ合い、にっこりと笑い合った。