tardamente 暗闇に射す光

 
「お美しいミュゲ姫様……、恋しい御方。お慕いしています。どうか、私の気持ちに応えていただけませんか」
 白蝶貝の扇の陰で、ミュゲは密やかに笑った。
「……恋しいって、あなたがわたくしを? ご冗談でしょう」
 ミュゲはくるりと青年に背を向けた。広げた扇で風を起こしながら、青年をちらと一瞥する。
「あなたがわたくしにふさわしい殿方であれば、話は別でしょうけれどね。……残念ですわ」
 はあ、とため息をつくと、何を勘違いしたのか、青年は腕を強く掴んできた。
「貴女を絶対に本気にさせてみせますから、どうか私にも貴女の御心を与えてください! ある舞踏会で貴女を御見掛けして……、それ以来、私は貴女の虜になってしまったのです……!」
 ……荒い呼気。腕を掴んでくる力は骨が砕けそうなほど強い。
「ああ、ミュゲ姫様……!」
 青年はずいと身を乗り出し、顔を近づけてきた。ミュゲの白いおもてに青年の影が落ちる。
 キスされる――。
 そう思った刹那、ミュゲの身体は動いていた。
「……いやっ!!」
 渾身の力で青年を振り払うと、ミュゲは整った美貌に強い怒りの色を滲ませた。
「――わたくしに想いを寄せるのはあなたの勝手ですわ。けれど覚えておいて……、わたくしはそう易々と誰かに心を与えたりはしないわ。宮廷の殿方はもちろん、あなたにだって与えない。あなたがわたくしを非力な女だと思って小ばかにしているうちは、けして」
 白蝶貝の扇を取り落としたのにも気づけないままで、ミュゲは夜の列柱回廊を駆けた。
 
 
 
(何なのよ……! わたくしの一体どこに隙があったっていうの!?)
 列柱回廊を走りながら、ミュゲは青年が触れた箇所を今すぐ拭き清めたい衝動に駆られていた。
 ……男なんて虫唾が走る。
 彼らはすぐにつけあがる。女が少しいい顔をしてみせるだけで、あの女は自分に気があるなどといって居丈高になる。
 彼らの品定めも、まるで女を値踏みするような内緒話もみんな嫌いだ――。
 
「……っ!!」
 
 ずきん、と胸に激痛が走った。次いで、息苦しさに襲われる。
 柱の一つにもたれかかり、ミュゲは必死で呼吸をなだめた。
「カサンドル……」
 医術の心得のある筆頭侍女の名を呼んだが、当然この場になどいるはずがないことを思い出す。舞踏会の途中で青年に列柱回廊に連れ出された時、すでに彼女とは行動を別にしていたのだ。
 
 ミュゲは薄く笑った。
「……馬鹿みたい」
 吐き捨てると、ミュゲは翡翠の瞳をすっと眇めた。
(……そう。殿方の言葉ほど虚しいものはないわ)
 宴の席で言い寄ってくる青年貴族たちはみな軽薄だ。……思わず嫌悪したくなるほどに。
 滑稽なくらいに飾り立て、つたない言葉で武装し、そのくせ一時の快楽のことしか頭にないのだから笑えてくる。
 そして、ミュゲのことを口々に美しいと誉めそやす彼らが真に見ているのは、ミュゲ自身ではない。ミュゲの大嫌いな母妃シュザンヌなのだ……。
 
 ミュゲは宵闇に身を沈めた。濃密なまでの夜気に心をゆだねる。
 ――闇の濃い夜は「彼」を思わせる。三年前に自分の心を救ってくれた「彼」を。
 ……ミュゲの脳裏に、鮮烈なまでの漆黒の立ち姿が浮かび上がる。
(クロード……)
 
***
 
 三年前の夏。鈴蘭が咲き乱れる庭園で、ミュゲはクロードと出会った。
 やはりあの時もそばにカサンドルがおらず、おまけに発作はどんどん酷くなるばかりで、ミュゲは絶望的な気分に陥っていた。
 苦しい。息ができない。もう駄目だ――。
 
 ……そんな時に偶然居合わせたのがクロードだった。
 黒衣こくえの青年が父王の傍らにいつも控えているのは知っていた。けれど、二人きりで話をするのは初めてだった。
 最初はあの黄金の瞳が、まるで獣に射すくめられているようで恐ろしかった。
 けれどいざ言葉を交わしてみると、クロードは温厚で優しかった。
 どこが悪いのか、どうすれば治まるのかを懸命に訊ね、ミュゲの背をさすって落ち着かせてくれた。
 次の瞬間、ミュゲは自分の瞳が涙に濡れていることに気づいた。苦しかったせいもあるが、何より自分をいたわる彼の言葉が嬉しかったのだろうと思う。
 彼はミュゲを抱き上げると、宮廷医のところまで運んでくれた。
 男性に下心なしでここまで優しくしてもらったことはなかった。胸の中を掻き乱す感情に、ミュゲは我知らず狼狽していた。
「……ありがとう。お前確か、お父様のお気に入りの魔導士よね?」
「はい。クロードと申します、ミュゲ姫様」
「またこうして会える?」
「貴女がお望みでしたら」
 他の青年貴族たちとは異なる控えめな態度を、ミュゲはかえって好ましく思った。そして、これまで気づかずにきたクロードの魅力に、一気に惹きこまれてしまったのだった。
 
 彼に救われてからというもの、ミュゲの瞳はクロードばかりを追いかけるようになっていった。
 彼の目に留まるにはどうすればいいか、彼を喜ばせるにはどう振る舞えばいいのか。浅ましくもそんなことばかりを考え始めるようになった。
 やがて、クロードには宮廷内に敵が多いということに気づいた。
 父王をいいように操っているとか、長年容姿が変わらない化け物だなどと言ってクロードを貶める宮廷人は多く、ミュゲにとってはそういった噂話を聞くのが苦痛になってきていた。
 だが同時に、「自分と似ている」とも感じたのだ。
 
 ある日、ミュゲは回廊で彼を引き留めた。「この間はありがとう」、と前置きしてから、振り返ったクロードにミュゲは訊ねた。
「……どうして宮廷人たちに何も言い返さないの? 失礼なことを言われても、あなたは腹が立たないの?」
 それはずっと訊ねてみたかったことだった。
 会話のきっかけが欲しかったということもあるが、クロードには一度訊いてみたかったのだ……、一体どうしてそんなに動じずにいられるのかと。
 クロードはうっすらと笑った。
「……好きに言わせておけばよいのですよ、あのような方々には。それに、私などが反論すればかえってご不興を買ってしまいます」
「でも、嫌じゃないの? あなた、馬鹿にされているのよ?」
 ぽつりと訊ねると、クロードはやはりおかしそうに言った。
「私は与えられた恥辱と屈辱は必ず倍にして返します。言葉ではなく、実力で。ただ吠えるだけなら駄犬にだってできるでしょう。彼らは〈犬〉だ」
「犬だって油断をしていれば噛みついてくるわ。怖くないの?」
「足元をすくわれる前に飼い馴らすのです。貴女にだってすぐにお出来になりますよ、ミュゲ姫様」
 そう言って傲然と笑ったクロードに、ミュゲは見透かされている、と感じた。
 クロードはさらに心を暴くような問いかけをした。
「一体何がそんなに恐ろしいのです、ミュゲ姫様? 貴女ほどの姫君が臣下からの侮蔑の言葉などに傷ついておられるとは。……解せませんね」
「だって怖いもの……。ヴァーテル様の教えが浸透しているこの大陸では、不義密通は重罪なのよ。お母様は平然としていらっしゃるけれど、わたくしは気が気じゃないわ。場合によっては王宮を追われる可能性だってあるのよ」
 国外追放。あるいは火刑――。
 ヴァーテル教会から派遣された修道士がそうリシャールに進言していると聞くたび、ミュゲはいてもたってもいられなくなる。
 ……日々の安寧と心の平穏。ただそれだけを望んで生きてきた。
 なのに、シュザンヌは不祥事ばかり起こす。そしてその代償を支払わされるのは彼女ではなく、彼女の娘であるミュゲ達だ。
 シュザンヌは、ミュゲのささやかな暮らしをいつも台無しにする。だから嫌いなのだ。
「貴女は相当思いつめていらっしゃるようだ。鈴蘭園でお見かけした時も感じたことですが、今の貴女のお顔には翳りのようなものが見受けられます。もしや、何かから逃げ出したいと願っておいでなのですか?」
 クロードの問いに、ミュゲははっと息を詰めた。
「……どうしてわかったの?」
 クロードはそこで、「私と貴女がそっくりだからですよ」とだけ言った。
 そして、うつむいてきつく唇を引き結ぶミュゲに、彼は続けた。
「……私などでよろしければ、貴女のお話を伺いましょうか、ミュゲ姫様?」
 ミュゲは不思議とその言葉に嫌悪を感じなかった。
 やっと自分と同種の人間が現れた。やっとこの胸の裡を吐露できる。無意識にそう思ったのだ。
「ええ……。じゃあ、わたくしが呼んだら必ず来てちょうだい。わたくしたちが初めて会った場所を覚えているわね? あの場所で待っているから」
 
 
 それから奇妙な逢瀬が始まった。
「会いたい」と思ったとき、ミュゲは一筆箋に鈴蘭の香りを染み込ませて彼の部屋へ送る。
 逢瀬の場所は例の鈴蘭園で、二人にとっての思い出の場所といってよかった。
 クロードは多忙な男だが、ミュゲが一筆箋を送ると必ず会いに来てくれる。それが単純に嬉しかった。
 ある時、いつまで経っても姓を授かれないクロードに、ミュゲは哀れになった。
「あの人はあんなにお父様に尽くしているのに、まだ“ただのクロード”だなんて。そんなのおかしいわ。国のため、お父様のため、あの人はあんなに頑張っているのに」
 憤ったミュゲはすぐさま父王に進言した。
「お父様。クロードはアルマンディン侵攻では先陣を切って戦ったとうかがっております。危険を顧みず一国のために尽くすことができる……、このような寵臣は近年非常に稀有な存在です。もっと大切に扱うべきではないでしょうか? 加えて、お父様を補佐する能力においても、クロードの右に出るものはおりません。どうか彼にまっとうな姓をお与えください。この宮廷において、彼が出自や立場を恥じることのないように」
 リシャールは一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐにうなずいた。
「ふむ……。そなたがそこまで言うとは珍しいな。だが……一理ある。僕の方でも検討してみるとしよう」
 そうして彼は「クロード・シャヴァンヌ」となった。念願の姓を賜り、宮廷での絶対の地位を手に入れたのだ。
 ミュゲはそうやって彼の役に立てるのが嬉しかった。王女の権限を利用してでも、ミュゲは彼を大成させてやりたかったのだ。
 なぜなら彼は、ミュゲの“救世主”だったから――。
 
 
 なのに。
 そんな矢先、「彼女」が現れた。
 第三王女バイオレッタ。白銀の髪とすみれ色の瞳を持つ姫。
 十四年もの間城下で育った彼女は、王宮で暮らし始めてからもちっとも垢抜けなかった。
 終始おどおどした振舞いをし、女官や侍女に敬語を使い、手遊てすさびに料理をする。
 言動に気高さなどかけらもないし、何をさせてもぱっとしない。オルタンシアに皮肉られてもすぐには気づけず、しばらく経ってからようやく気づく始末だ。
 呆れた王女だと、ミュゲはいつも彼女を軽蔑していた。ミュゲと同じように父王に育ててもらっているくせに、なんとも頭の悪い、冴えない少女だと。
 これでは庶民の娘が付け焼き刃で王女のふりをしているのと大差ないではないかと。
 
 しかし、バイオレッタはクロードの心を見事に捕らえてしまった。
 彼女が復権してからというもの、クロードは彼女の私室にばかり入り浸るようになり、もうミュゲには見向きもしなくなっている。
 そして先日、ミュゲはとうとう見てしまった。庭園で彼女と口づけを交わすクロードの姿を――。
(どうしてなの? クロード……。わたくしが、不義の子だから? 本当はこんなわたくしの相手なんて嫌だったの?)
 ミュゲが確かにリシャールの血を引いていて、不義の子ではなかったら。
 そうしたら、クロードはミュゲを愛してくれたのだろうか? バイオレッタのようにれっきとした王の子であれば、最愛の女性として選んでもらえていたのだろうか?
 そう考えると、また何かが澱のように心に沈んでいった。
 
***
 
「クロード……っ!」
 苦しげにつぶやき、ミュゲは胸を押さえた。
 どくどくと脈を打つ胸、そしてしだいに荒くなってくる息に、目の前が真っ暗になる。
 大好きなクロードも、まっとうな身分も。
 手に入らないのだ。何も――。
 ……いっそこのまま楽になれたら。
(もう、いい……。どうせ何も得られないなら全部諦めるわ。このまま死ねるなら本望よ。わたくしはもう、疲れた――)
 
 その時。
 ずるずるとへたり込んで瞳を閉じるミュゲの耳に、闇を打ち破るような声が響いた。
「――ミュゲ様!」
 宵闇の中浮かび上がった、まばゆいまでの輝き。
 ……ああ、光だ。
 光が、ミュゲめがけて飛び込んでくる――。
「ったく……! 何やってるんだよ! こんなところで!」
 若干の苛立ちを含んだ声音に、ミュゲはぱちぱちと瞳を瞬いた。
 ……クララ姫の宦官アベルだ。とっさに光だと思ったのは彼の純白の宮廷服だったようだ。だが、こんな荒っぽい言葉遣いをする青年だっただろうか。
 白銀の髪を乱したまま、彼はへたり込むミュゲに駆け寄ってくる。すっとかがみこむと、黒絹の手袋をはめた手を差し出した。
「……立てますか?」
「あ、ええ……」
 言いながらも、ミュゲは息苦しさに上下する身体をそれ以上奮い立たせることができなかった。
 アベルはミュゲを支えて立ち上がらせると、その肩を抱く。
「……すぐに治りますから、大丈夫ですよ。ひとまず宮廷医に診てもらいましょう」
「ごめんなさい……」
「またまたぁ。そんな風に恐縮なさらないで下さいよー。僕だって恋しい女性の心配くらいしますし、本当は頼りにしてもらいたいんですから」
 恋しい女性という言葉に、ミュゲはぴくりと反応した。
(……冗談、よね。これも)
 そう思うのに、なぜか軽口にも社交辞令にも聞こえない気がして、ミュゲは喘鳴を漏らしながらも頬を染めた。
 普段より距離が近いから、こんな変な気持ちになるのかもしれない。
 この宦官とは顔を合わせる機会こそ多いものの、いつも本気で相手にしていなかった。何かにつけて悪ふざけや冗談ばかり口にするからだ。
 だが、こんな風に――まるで恋人にするように――肩を抱かれていると勘違いしそうになる。大切にされているのだと錯覚してしまいそうになる。
「さ、行きましょう。エテ宮にもちゃんと医務室はありますから、怖がらなくても大丈夫です」
「そうね……」
 アベルに背を押して促され、ミュゲは列柱回廊を歩き出した。
 
 
 
 ……数十分後。
 二人はエテ宮の中庭に佇んでいた。
 対応してくれた宮廷医に薬を処方してもらい、なんとか発作は治まった。宮廷医に温かい香草茶を出され、しばらくゆっくりと体を休めることができた。
 こんな症状を診せたにも関わらず持病を見破られずに済んだのは、まさに不幸中の幸いだ。
 合流したカサンドルに一言断ってから、アベルはミュゲを中庭に連れ出した。
 甘い花の香りが鼻腔をかすめ、ミュゲはほんの少しだけ緊張を解いた。
 花の芳香がのんびり愉しめる程度には体調が回復したということだ。よかった、これでひとまず安心できる……。
「具合、どうです? よくなりました?」
 そう言って傍らのアベルが心配そうに顔を覗き込んできたので、ミュゲはうろたえた。
「だ、大丈夫よ。慣れているから……」
 呆けた顔を見られまいと、急いで表情を引き締める。
「こういう時くらい、誰かに助けを求めてもいいんですよ。貴女は何でもかんでも一人で背負い込みすぎです」
 アベルはからりと笑ってそう言ったが、ミュゲはそっと唇を引き結んだ。
(……だって、この病の話は誰にも相談できないんだもの)
 母妃シュザンヌの怠慢のせいで、ミュゲの体には病魔が巣食っている。幼少期に罹患した疫病のせいで、胸に疾患が残ってしまったのだ。
 
 当時、シュザンヌはミュゲの看病などしてくれなかった。
 彼女は寝台に横たわる娘に見向きもしなかった。
 いつだってそうだ。シュザンヌにとって大切なのは、相手が自分の手駒として動くかどうかということだけなのだ。その結果がこれなのだから笑えてくる。
 だから今でも、ミュゲに剣は振るえないし、馬にも乗れない。そんなことをすれば身体に障る。先ほどのように呼吸が苦しくなって動けなくなるのだ。
 これまで、この後遺症の話は筆頭侍女であるカサンドルとクロードを除いては誰にも聞かせたことがなかった。母妃であるシュザンヌはもちろん、一番仲の良い姉のオルタンシアでさえ知らないことだ。
 世継ぎの姫として、ミュゲは常に完璧でなければならない。そのためには身体に不都合があることなど、絶対に知られてはならないのだ。
 
 ……このスフェーン大国を継承する権利を持つ“女王候補”は、全部で四人だ。
 その中でも、武術に秀でる異父姉オルタンシアはミュゲにとっての最大の敵といえた。
「武」をもって他国を制するか、「美」を究めて他国と渡り合うか。そんな議論が大臣たちの間で交わされていると聞き、余計に焦りが生じている。つまり、姉妹二人の接戦になっているのである。
 しかし、自分から彼女に宣戦布告したにもかかわらず、ミュゲはどんどん自らが追い詰められてゆくのを感じていた。
 もともとミュゲは昔からオルタンシアに勝てたためしがない。
 健康、知性、美貌……母妃の愛情も。すべてを独占していたのは彼女だった。ミュゲが持ちえないすべてのものを、最初から彼女は持っていた。
 オルタンシアはどこにも欠けたところのない、完璧な姫だ。
 ミュゲのように身体に欠点もなければ、変に卑屈なところもない。父王に認められるために精一杯頑張っているという自覚があるから、いつだって正々堂々と相手と向き合う。
 だが、そのあまりの能天気さが時折苛立たしくなる。
 異父妹と争わねばならない立場でありながら、彼女はミュゲを貶めるようなことをしない。
 ライバルとしてきちんと対等に接してくれるし、試験においても変に手加減したりはしない。
 その強さが――自信が、ミュゲには単純に妬ましかった。
 
(その上、クロードまでわたくしのもとを去ろうとしているなんて)
 
 足掻けば足掻くほどうまくいかない。恋も、王女としての務めも。何もかもが思い通りに進まない。
 精一杯自分の人生を生きようとしているだけなのに、なぜなのだろう。一体なぜ、自分はこんなに悩まなくてはいけないのだろう。
 ミュゲにしてみれば、オルタンシアもバイオレッタもとても順風満帆に見える。
 自分のやりたいことをして、生きたいように生きているように見える。大らかに――ミュゲに言わせれば、能天気に。
 そして、そんな少女たちにミュゲはいつも負けてしまう。彼女たちはいつだって堂々と前に出ていくが、ミュゲにはどうしてもそれができないのだ。
 
 ミュゲにできることといえば、鬱屈した感情をただ呑み込むことくらいである。
 生まれかけた言葉を呑み込み、心の奥底にしまい、丁重に鍵をかける。そうやってすべて「なかったこと」にする。
 それは長年の宮廷暮らしでミュゲが身に着けた技巧の一つだ。言いたいことをすべて言わない代わりに、ミュゲは心に秘める。そうして暴れ出す感情をなだめるのである。
 クロードだって言っていたではないか……、言葉で返したって仕方がないと。実力で返すべきなのだと。
 それに感銘を受けたミュゲは、彼の言葉をただひたすらに自らの指針としていた。
 
 だが、あのような秘め事の現場に立ち会ってしまったあとではそれも心もとなく思えてくる。
 一体誰の言葉を信じればいいのか、ミュゲには早くもわからなくなり始めていた。
 ただ一つわかるのは、オルタンシアとバイオレッタは自分にとっての障害だということだ。
 あの二人はミュゲとは正反対の気質を持っている。欲しいものを欲しいと言い、好きなものを好きだと言える……そんな気質を。
(わたくしはいつもそう。きちんと主張のできる人間たちに負けてしまう……)
 あんな風に変われたらいいのに、という気持ちを、ミュゲはあえて押し殺す。
 そんなものはないものねだりだ。ミュゲがあの二人のようになれるわけがない。
 あんな風になるには、ミュゲは人間に失望しすぎている。自分に素直に生きることなど、もはやできるわけがないのだ……。
 
 
 と、そこでアベルが訝しげに声をかけてきた。
「……ミュゲ様?」
 ミュゲはそこで我に返った。
 そうだった。この宦官の存在をずっと忘れていた……。
「あ……なんでもないわ」
 一つ息をつき、ミュゲは改めてアベルに向き合った。
「……今日はありがとう。あなたがいてくれて助かったわ」
 ぼそぼそ礼を言うと、アベルはまた屈託なく笑った。
「体調が悪い時は無理なんかしちゃいけません。そばにいる誰かに声をかけてくださいね」
「ええ……」
「まあ、それが僕であれば一番嬉しいですけどね! 貴女みたいな美人に頼りにされる機会なんてそうそうないですし!」
 そうのたまうアベルに、ミュゲは呆れた。……何なのだ、この軽薄さは。せっかく見直しかけていたのにこれだ。
「……あなたってなんだか、いつもそうよね。その発言は一体どこまで本気なの?」
 つんと澄まして言うと、アベルはまた馴れ馴れしく肩に手を回した。
「えー? 全部本心ですよ? その翡翠色の御髪も、意志が強そうな瞳も。僕は全部好みです。確かめてみます? 僕の心……」
 肩口を伝って腕をなぞってゆく手の感触に、ミュゲは思わずアベルの胸を押しやった。
「やめて……!!」
 先刻の回廊での一件がまざまざと甦ってくる。
 武骨でがっしりとした、大きな手。今にもミュゲを押し潰してしまいそうな長躯。
 自分の思い通りにならなければ、きっと力ずくで言うことを聞かせようとするに違いない……、そう思わせる高圧的な態度も――。
(わたくしは……。殿方が「嫌い」なんじゃない……)
 ……「恐ろしい」のだ。
 ミュゲがそう確信した刹那、その唇からは自然に本音が零れ落ちていた。
「怖いの……! もう、やめて……」
 華奢な肢体はかたかたと震え、うっすらと開いた瞳には透明な涙の花が咲く。
 アベルはその右手を静かに捕らえた。ミュゲがびくりとして顔を上げると、軽やかに笑ってみせる。
「……そうそう。それくらい言わないと、鈍感な男どもには伝わりませんよ、ミュゲ様」
 そして、黒絹の手袋に覆われたたなごころにミュゲの小さな手をすっぽりと包み込んだ。
 
 ……その温かさに、ふいにあの日の記憶が重なった。
 クロードもこんなふうにミュゲをいたわってくれた。まるで幼い子供にするように、触れ、抱き上げ、甘い言葉をかけてくれた。
 けれど、本当はわかっているのだ。彼が本当に見ているのは……。
 
「やめて……。触らないで」
「でも、それくらいしっかり言わないと男には伝わらないんですよ。嫌なら嫌、怖いなら怖いと、しっかり拒絶しないとダメです」
「あなたのことだって、怖いわ……。あなたは何かと理由をつけてわたくしに近づいてくるけど、どうせわたくしの心までは見ていないんでしょう? わたくしは、あなたが思っているほど綺麗な女じゃない……。いつも周りの目に怯えていて、すごく……、脆くて。人には言えないくらいずるいことだって考えているわ」
 いつものように笑われると思ったのに、アベルは笑わなかった。それどころか、どこか寂しそうな目で言う。
「……貴女だって、僕のことは見ていない。見る努力すらしていない。……だから、おあいこですね」
 確かに自分は見ていない。アベルのことなど。心を占めているのはクロードのことだけだ。
 なのに心が大きく揺らいで、ミュゲはうろたえた。
(な、何よ……、これじゃまるで――)
 アベルは静かに続けた。
「でも、僕が他の男と決定的に違う部分を持っているとしたら。……それはきっと、貴女の『心』を知りたいと思っているところじゃないでしょうか」
 包まれた手を極力見ないように努め、ミュゲはうつむいた。
「またそうやって冗談ばっかり言うのね」
「ええ。だから貴女は僕を見ようともしていないって言うんです。それは貴女が、誰かが自分の存在に気づいて、その本心を見てくれることばかりを考えているからでしょう。結局のところ、貴女はそうやって他人の心を試しているんですよ。自分だけを見てくれないなら、この心は与えない。そう思っているんだ。でも、貴女はどうですか? 誰かの心を知りたい、覗きたいと思ったことはありませんか?」
「そんな相手はいないわ。今までだって、これからも――」
 
 そこまで言いかけて、ミュゲはクロードの存在が頭から綺麗に抜け落ちていたことに気づいた。
(え……?)
 ミュゲは途端に不安になった。
 自分はもしかしたら、実はそこまでクロードに興味や関心を持ってはいないのだろうか?
(そういえばわたくしは、クロードの何を知っているのかしら。考えてみれば、わたくしはほとんど何も知らないんだわ、クロードのこと……)
 
 これまで懸命に彼を慕ってきたが、よくよく考えてみれば、ミュゲは彼と「ただ」楽しい話というのをしたことがない。
 相談事を聞いてもらい、彼の執務について訊ね、その仕事ぶりについて褒める。言ってしまえばそれだけで、心浮き立つような楽しい会話など、これまで一度もしたことがない。
 ……そう、互いの深い話など、一度たりともしたことがないのだ。
 身体の不調や苦痛に思っていること、執務におけるクロードの活躍ぶりや評判について、ただ淡々と話すだけだ。
 そして、そういった話をクロードが本当に愉しんでいたかどうかというのは、今にして思えば怪しいところだ。
 ただでさえ忙しい男を庭園に呼びつけ、自分さえ満たされればそれで満足とばかりに、ひたすらに会話を続けた。これは彼にしてみれば苦痛だったのではないか。
 顔にこそ出さなかったものの、本心では嫌だったかもしれない。相手は王女だからと、渋々付き合ってくれていたのかもしれない。
 
 ミュゲは途端にいたたまれなくなってきた。
 相手に興味や関心を持たずに、まるで義務でも果たすかのように対話し続ける。
 これはきっと、彼にしてみれば何ら執務と変わらない行為だろう。相手が王や廷臣から王女に変わっただけだ。
 二人で何かを一緒に楽しんだこともなく、彼を頼りにするようなそぶりを見せたこともない。これを果たして「慕っている」などと呼べるだろうか。
 
 また、ミュゲ自身も彼に私的な話をしたことはほとんどなかった。
 困っていることや悩んでいることは打ち明けるくせに、その心の奥まではいつまで経っても見せようとしなかった。
 ……いや、見せられなかったのだ。何せ当のクロードがそういう男だったのだから。
 
 もっと素直に感情を打ち明けて、わがままや願望を口にしてもよかったのかもしれない。
 普段何を考えているのか、もっと彼に伝えてもよかったのかもしれない……。
 ミュゲはふとそんなことを考えた。
 
 もしかすると、クロードがバイオレッタを好いている理由というのはそのあたりにあるのだろうか?
 人間らしく温かなやり取りができるから、彼はバイオレッタが好きなのかもしれない。
 己の弱いところや欠点まで共有できるから、いつでも一緒にいたいと思うのかもしれない……。
 
 そこでミュゲは、形のよい唇をぎゅっと噛んだ。
 ……認めたくない。なのに、これまで彼を都合よく利用していただけなのかと思うと、急に身体が冷たくなってくる。
 
 そんなミュゲを案じるように、アベルが眉根を寄せる。
「……ミュゲ様。僕は貴女のことが放っておけません。貴女のすべてを見ているわけでも、まして知っているわけでもない。でも、僕は貴女の姿に毎日とても勇気づけられているんです」
「何を……」
 アベルは繋いだ手に力を込めると、薄い水色の双眸でミュゲを捉えた。
「僕、本当は初めて貴女にお会いした時から、ずっと貴女が好きでした。あの頃の僕にとって、貴女の強さは眩しかった。だからいつか絶対、貴女の隣に立てるようになりたかったんです。恩を返すためというのもありましたが、それ以上に、僕は貴女を守りたかった」
「な、何を言っているの……? 忘れるとか、恩とか……。それに、守るって、どうしてわたくしを? だってあなたの主人はクララ姫じゃ……」
 アベルは苦笑して肩をすくめた。
「……無理ないですね。忘れるのも。でも、僕はずっとあの日のことを覚えていたいと思います。たとえ貴女に振り向いてもらえなくても。……だって僕は、忘れられないんですから」
「何を言っているのかわからないわ。それに、わたくしは強くなんかない。強くありたいと、勝手に叶わない夢を見ているだけの脆弱な人間よ」
「そこをそう解釈するのは惜しいですね。貴女は脆弱だと自分で理解しているからこそ、強くいられるんですよ。貴女のその前向きな姿勢は、きっと多くの人間にとって魅力的に映るはずです。それに、叶わないって本当にそうでしょうか。志を持った時点で、貴女はすでに強くなっているんじゃありませんか?」
「何を馬鹿なことを……。からかうのはやめて」
 手を振りほどこうと、ミュゲは身をよじる。思いのほか簡単に解放された手に、彼女はまた心が揺れるのを感じた。
(駄目よ、この心にはまだクロードがいる。優しくされたからって、簡単にこの男に靡くわけにはいかない……)
 心変わりをしたから、あちらの男の方が都合がよいから、などと言って次から次へと恋人を変える。それではまさに大嫌いな母シュザンヌそのものだ。
 いくら目の前にいるアベルが親切だとしても、まだ心を開くわけにはいかない。そんなことをすれば、ミュゲはシュザンヌと「同じ」になってしまう。色狂いの化け物になってしまう――。
 
 これ以上心をかき乱されまいと、ミュゲは必死で声を振り絞った。
「……わたくしは、別にあなたのことなんかなんとも思ってないんだから。勘違いしていい気にならないで」
 アベルはどこか残念そうに息をつくと、懐からすっと何かを差し出した。
「これ……、ミュゲ様のでしょう?」
「あ……、それ――」
 なめらかな白蝶貝でできた骨。繊細なエクリュのレース。間違いない、自分の扇だ。
「回廊の途中で落としてましたから、勝手ですけど拾わせてもらいました。貝の部分が欠けたら嫌でしょう?」
「ありがとう。……大事なものなの」
 ミュゲは白い頬を染めて扇を受け取った。しっかりと両手で握りしめる。
「ふふ、意味深ですねぇ。恋人からの贈り物とかですかー?」
「違うわよ!! そんな相手はいないもの」
 冷やかすアベルにそう切り返し、ミュゲは受け取った扇を見つめた。
 
 ……そう。これは父王リシャールに贈られた扇だ。
 少女の憧れをすべて集めたようなドレス、高価なカシミアのショール、目も眩むほどの宝飾品。
 父王に贈られたそのどれもをミュゲは大事にしている。何一つ取りこぼすことのないように。
 シュザンヌに手を焼きながらも嫌がらずに自分の面倒を見てくれているリシャールに、ミュゲは複雑な思いを抱いていた。
 誇らしいと思う気持ち、この人に認められたいという気持ち。
 そして、申し訳なさやほんの少しばかりの反抗心もあったが、実際のところ、常にミュゲは父王の愛情を欲していた。
 だからこそ嬉しかったのだ……、季節を追うたび、大人になるたびに増えてゆくそれらの存在が。
(……お父様……)
 扇のレースをそっと嗅ぐ。生成りのレースから、焚きしめた香料の香りが爽やかに立ち上った。
(頑張らないと、みんな失うことになるわ。異国へ嫁がされたらおしまいよ。クロードとは二度と会えない……)
 もっと努力しなければならない。もっとちゃんと現実と向き合わねばならない。
 そうしなければミュゲの欲しいものは決して手に入らないのだから――。
 
 物憂げにため息をつき、ミュゲはアベルに礼を言った。
「今日は助けられてばかりね。ありがとう」
「いーえ。これくらいいつでもさせて下さいよ。貴女に心を開いてもらうまでは、なんだってできます」
「男の常套句ね。あなたに心を開いた途端、わたくしは用なしになるんだわ」
「そうなんですか? 僕としてはそういうつもりじゃないんですけどね。なんだか貴女と僕は似ている気がするんですよ。それも、いい意味で」
「それも常套句よ。聞き飽きてるわ」
「そうですか……。じゃあ……」
 
「今に俺しか見えないって言わせてやるよ」
 
「――!?」
 耳元で低くささやかれた台詞に仰天する。普段のアベルからは想像もつかない荒っぽい口調にすり変わっていることにミュゲは驚いた。
(な……。お、『俺』!?)
 目を剥くミュゲに、アベルは妖しく笑う。
「やっぱり初心だな。まあ、箱入りなら仕方ないか」
 くすくす笑われ、ミュゲは真っ赤になった。
「なっ……、あなた!! からかわないでっ!! お、お父様に……っ!!」
「言いつけられるものなら言いつけてみろよ。おとなしかった宦官がいきなり豹変して迫ってきましたって。まあ、そんな荒唐無稽な話、誰も信じないと思うけど?」
 ぐいと手を引かれる。おろおろしているミュゲを、アベルは強引に抱き寄せた。
 腰にあてがわれた手とどんどん近づいていく身体に、ミュゲの羞恥が高まる。
「こ、この猫かぶり! やっ……、放してっ!」
 虚勢を張ってなんとかそう言ってやったものの、アベルは微塵も余裕ある態度を崩さない。むしろ楽しそうにアイスブルーの瞳を細める。
「そーそー。威勢のいい女は好きだよ。これくらいでないと対等に話もできなくてつまらないからな」
「いや……、やめて! 放してよ!」
 狼狽して暴れるミュゲの様子を、アベルはじっくりと観察しているようだった。
 この目は、ミュゲは一番嫌いな種類の目だ。
 どこかに一つでも欠点ほころびがないか、粗探しをしてやろうと企んでいる目つきだ――。
 一瞬の隙を衝いて、アベルはミュゲを深く抱き込んだ。
「や!?」
「……けどさ、猫かぶりってお前もじゃないの? 人のこと言える?」
 つつっ……と指で頬をなぞられる。
 鳥肌の立つような蠱惑的なささやきが、ミュゲの体をぴしりと硬直させた。
「やっ、やめ……!! あ、いやっ……!?」
 耳朶に唇を寄せられ、軽く食まれる。
「っ……!」
 ミュゲは瞳をつぶってそのぞわぞわした感覚に耐えた。
 密着する身体と熱、そして肌に走るくすぐったさに、どうしていいのかわからなくなる。
 こんな風に抱き込まれて好き放題されるのなんか絶対に嫌なのに、身体が固まってしまって言うことを聞かない。
 一抹の悔しさとともに、ミュゲは目をきつく閉じて解放されるのを待った。
 そこでアベルはまたくすりと笑った。
「そうそう。いつもそれくらい可愛げのある顔してればいいのにねぇ。素直じゃないよなぁ」
「……!!」
 その笑い声で完全に堪忍袋の緒が切れたミュゲは、思わずばしんとアベルの頬を打った。
 ……平手でではない、扇子でだ。
 アベルが頬を押さえて苦悶の声を上げる。
「いっ……!!」
「何してくれるのよ、この軟派男!! 人を馬鹿にするのもいい加減にしてっ!!」
 呆然としているアベルを置き去りに、ミュゲは急いで逃げ出した。
 
***

 

 

 
 アベルは頬をさすりながら、駆けてゆく美姫の後ろ姿を見つめていた。
「痛ぇ……。まさか扇子でくるとは思わなかった……」
 扇子で張り倒されるのは思いがけず痛かった。正直、弾力のある手のひらでぶたれるよりも効いた。
 恐らく今のアベルの頬にはくっきりと扇の跡がついているに違いない。
 だが、アベルは肩を揺らしてくくく、と笑った。
 ひとまず「宦官」から「男」へ昇格することができた。今夜はこの上なく満足だ。
「はは……俺、やっぱりあれくらい堂々としてるあいつの方が好きだな」
 普段のミュゲは確かに楚々としている。いかにも真面目で非の打ち所がない姫君ですといった体を装い、本心を巧妙に押し隠している。それがアベルには嫌なのだ。
 本来のミュゲは冷ややかで取り澄ました高嶺の花などではない。十七という年相応の、感情豊かで無邪気なところのある少女だ。
 大方、「スフェーン大国の姫君」などという大役を背負わされてしまったから、仕方なくそうした役柄を演じているだけなのだろう。「世継ぎの姫」というプレッシャーも、彼女に要らぬ緊張を強いているに違いなかった。
 だが、アベルはもっと彼女にいきいきとしていてほしかった。もっと笑わせたかったし、そんなに硬くなることなどないと教えてやりたかった。
(だってお前、初めて会った頃はそうじゃなかっただろ。そんな石像みたいな顔なんかしてなかった。俺相手でも普通に笑いかけてくれたし、手を貸すのを嫌がったりしなかった)
 アベルはそこで、胸の隠しを手でそっと押さえた。
 ……そこにはミュゲの名が刺繍されたミントグリーンのハンカチーフが収められている。
 これこそが、今のアベルとミュゲを繋ぐたった一つの品だった。
 
 
 七年前。魔導士になったばかりのアベルは、その日、同年代の魔導士たちから嫌がらせを受けていた。
『新入りのくせに生意気だ!』
『史上最年少で魔導士になったからって、いい気になるなよ、チビ!』
 そんな罵詈雑言を浴びせられ、十四のアベルは庭園の隅に連れていかれた。
 今にして思えば、みなアベルが気に入らなかったのだろう。
 アベルには自分が天才肌という自覚があったし、加えて見た目の方もなかなかによかった。
 あれくらいの年恰好の魔導士たちにしてみれば、秀才や美少年というのは総じていけ好かないものだ。自己顕示欲も強い年頃だから、自分より目立たれてはかなわないと思うのだろう。
 胸倉を掴まれて何度か頬を張られ、髪を引っ張られ、「女みたいななりをして」と悪罵され。
 そしてさらに酷い一手をお見舞いされようという時、偶然通りかかったのがミュゲだった。
『何をしているの、あなたたち!! こんなところで弱い者いじめなんて、恥を知りなさい!! それでもお父様に仕える魔導士なの!?』
 その一声を受け、魔導士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 
 呆然としているアベルを引っ張って立たせ、ミュゲはコートの埃を払ってくれた。
『まだ新しい上着でしょうに……可哀想』
 そう言って、ミュゲはろくに言葉を発せずにいるアベルの頬を、自らのハンカチーフで拭いてくれた。
 純白の上着というのが何を意味するか、ミュゲにわからないはずはない。
 アベルの纏う白のコートは、敵国や奴隷出身の魔導士たちが着る「下級魔導士」の証だ。高貴な姫が、そんな簡単なことに気づかなかったはずはない。
 だが、ミュゲはちっとも嫌がらずにアベルの手当てをしてくれた。
『嫌な奴らね。でも、あんな奴らに負けちゃだめよ』
 ……そう、このハンカチーフは、彼女がその時傷の手当てに使ったものだ。
 立派な魔導士になってほしいと言い残し、彼女は颯爽と立ち去った。
 ハンカチーフをアベルのもとに残したまま――。
 
 
 アベルははあ……と息をついた。
 一体何が彼女をここまで変えてしまったのだろうか。
 あの清らかさは当時から健在だが、今のミュゲは必要以上に策士になってしまっている気がする。
 自分にとって得となる行動だけを選び抜き、非合理的なことには見向きもしない。
 美貌で男たちを骨抜きにし、票を入れてくれと根回しをし、ライバルの姫たちのことも巧妙に蹴落とそうとする。
 確かにこのまま進めば女王となれる可能性も出てくるだろう。
 だが、こんな面白くもなんともない策を講じていて本当に満足なのだろうか? 本気で他人を利用することしか頭にないのだろうか?
「……いや、絶対に違う。昔のあいつはそんな性格じゃなかったんだから。そうでなければ俺なんか助けるはずない」
 では、やはり彼女をそんな風に変えてしまうほどの「何か」があったということだ。
 誰かに入れ知恵をされたか、あるいはあまりよくない人物から影響を受けているのか。
 真相はわからないが、ミュゲの心があまりよくない方向に傾きつつあるのは確かだった。
「それでも俺は……お前を助けたい。お前が俺の心を支えてくれたように、今度は俺もお前の力になりたい。お前が俺のことなんかなんとも思ってなくてもいい。こっちを向いてくれなんて言わない。だから……」
 アベルは夜闇の中、深いため息をつく。
 ……淡い言の葉は、夜風の中へ溶けるように消えていった。
 
 

 

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