第三章 王城へ

 
 荷造りにだいぶ時間がかかってしまい、しばらくクロードを部屋の外で待たせる羽目になった。
 荷物持ちではないので時間などかかるはずもなかったのだが、大部屋の女優見習いたちに質問攻めにされてしまったのである。
「あの方、王城の魔道士だって本当なの?」
「え、ええ。そうなんですって」
 ルイーゼは作り笑いで答えた。
(普段私にはそっけない子たちなのに、こういうときには食いついてくるのね……)
 ルイーゼに、というよりは、外にいるクロードに興味があるようだ。
 
「そんな大物とどこで知り合ったのよ?」
「あら、あんた知らないの? ルイーゼはこう見えてやり手ですもの、きっとまた上手に誘惑したのよ」
「ねえ、紫のジレを着ているってことは相当位が高いんじゃないかしら。なんてったってこの国じゃ、紫は身分の高い人間のための色ですものね」
「いいなあ、あたしも玉の輿に乗りたいわぁ。見た? あの黒髪。すっごく神秘的よねぇ!」
 
 誘惑だの玉の輿だのと口にする見習いを見ていて、座長が一体何をどう説明したのか気になったが、ひとまず荷造りをしなければいけない。
 ぺちゃくちゃとおしゃべりをしている仲間たちにいらなくなった普段着や外出着を譲り、最低限いるだろうと思われるもの(クロードによれば『王宮ではすべての準備が整っております』とのことだったが)、思い出の品とマリアからもらった化粧道具などを急いで革の鞄に詰め込んで廊下に出る。
 
 クロードはルイーゼの姿を認めて穏やかに微笑んだ。腕をゆったりと組み、壁にもたれかかっている。
「……お支度は整いましたか、姫?」
「はい」と答えて彼に近寄ろうとしたとき。
 廊下の窓から降り注ぐ初春の日差しが、包み込むように二人を照らし出した。
 
 ――光の中、鮮やかに浮かび上がる漆黒の立ち姿に目を奪われる。
 強く視線が交わった。黄金の瞳に捕らわれ、なすすべもなくその顔を見つめる。
 刹那、唐突に「それ」は起こった。
「……!」
 
(……何、これ……)
 
 足ががくがくとけいれんする。
 目に見えない何かが、巻き戻る。
 胸にゆっくりとこみ上げてくるのは、喩えようのない熱さだった。
 
 白い額に影を落とす前髪。柔和な面立ち。どこか懐かしさを感じる瞳。
 全身が震えて、「何か」がまざまざと甦ってくる。鳥たちの歌とそよ風。自分を抱き締める腕の感触。しっかりと繋がれた手の、温かさ。
「彼」は――……。
 
(私……。この人と前にどこかで会ったことがある……?)
 
 ……妙な既視感のあと、一瞬時が止まったような気がした。まるで蜃気楼を見ているかのように、眼前が薄くぼやける。
 ルイーゼは苦しげに眉根を寄せた。
(確かに覚えているはずなのに、どうして……!? 思い出せない……!)
 そこでまた「何か」がちらついた。
 
 
 蒼穹の青。そよぐ新緑。
 膝に感じるのは、ぬくもりと重み。
「……貴女の声はとてもお優しい……。私の心の澱みも、闇も。すべてを洗い清めてくださるようです」
 落ち着きのある声音で「彼」が言う。陶然としたため息をつき、切なげに続ける。
「……愛しています、『  』。ずっと一緒にいてください。ずっと――……」
(嫌……、これ以上見てしまったら、いけない……)
 これはきっと、知ってはいけないものだ……。
 ルイーゼが本能的にそう思ったとき。
 
 
「――っ!!」
 突如、世界に音が戻ってきた。
 女優たちの騒ぐ声に、はたと我に返る。見れば、廊下には黒山の人だかりができていた。
(……何してるのかしら、私……。変な白昼夢を見たりして……)
 随分と待たせてしまったのだから、急がなくては。
 
 ルイーゼは気を取り直して歩を進めた。
 女優見習いや年上の女優たちがきゃあきゃあと騒ぎながら遠巻きに見ているのがわかって、ルイーゼは緊張した。まして、こんなに整った容姿の男性と話すとなればなおさらだ。
「お、お待たせしました、クロード様……!」
「いいえ、全く待っておりませんよ。この程度でしたら私は一向に気にいたしません。どうかお気遣いなく……」
「あ……、ありがとうございます……」
 ルイーゼはそう答えながらも先ほどのおかしな既視感について考えていた。
(さっきの変な感じ、一体何だったのかしら)
 あれは本当にただの白昼夢だったのだろうかと眉根を寄せる。
 ただの幻が、あんなに細かなところまで鮮明に見えるものだろうか。
 そして、こちらを見つめるクロードのまなざしがひどく強いものに感じられたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
 眼前に立つクロードが、ゆっくりとルイーゼの手元に視線を移した。
「お荷物はこれだけですか……?」
「ええ」
「では騎士に持たせましょう。彼らはまさに貴女のためにいるといっても過言ではないのですから。さあ……、こちらに」
 クロードは「あっ……」と小さく声を上げるルイーゼの手から鞄を取り上げると、傍らに控えていた背の高い騎士に手渡した。
「参りましょう、姫」
「は、はい」
 ルイーゼはクロードに付き添われて歩き出した。歩くたび軋む木の床の上を、背後から騎士たちがしずしずとついてくる。
(どうしよう……)
 ルイーゼは後方にちらと目をやった。
 屈強な騎士に鞄を持たせてしまっているというのが恥ずかしくていたたまれない。本来ならばその力は王や国のために活かすべきものであって、ルイーゼの荷物持ちをするためのものではけしてないのに。
 
「……姫、よそ見をしないで。つまずいてしまわれますよ」
「え? あ……!」
 剥がれた木の床に靴のつま先が食い込み、ルイーゼは前のめりになった。
(転んじゃう!)
 次の瞬間、ぽすっと音がした。ややあってから、自分が黒くなめらかな上着の胸に顔を埋めていることに気づく。
 ……抱き留められたのだと悟って頬にかっと熱が上った。
「……あ、あの、すみません」
「いいえ、お気になさらず……」
 高価そうなコロンの香りに包まれながら、ルイーゼはクロードの手を借りて体勢を立て直した。
 クロードはルイーゼの手首に素早く指先を滑らせる。繊細なルイーゼの身体はぴくりと震えた。
「貴女は羽根のように軽いのですね……。どこもかしこもひどく華奢で……。腕など、今にも折れてしまいそうですよ。もしや、きちんと食事をしていらっしゃらないのでは……?」
「そんなことは……」
 答えながらも、ルイーゼはクロードのコロンの香調がなぜか気にかかっていた。
(この香りは……何? 懐かしいのにどこか、胸が締め付けられるような……)
 男性用だろうとは思うが、どこか甘くてパウダリーな香りが混じっている。
(私、この香りをどこかで嗅いだことがある……)
 香りに気を取られていたルイーゼはとうとう気づかなかった。……クロードがその黄金の瞳をすっと険しく眇めたことに。
 
 
***
 
 
 貴族たちが乗るようなひどく立派な箱馬車に乗せられたルイーゼは、窓の外をぼんやりと見つめていた。
 自分の育ったアガスターシェという都を全く知らないわけではないのに、箱馬車クーペの窓を通して見る景色は明らかにいつもとは異なっていた。
 ……離れていく。身近にあった何もかもが。
 
「……いかがなさいましたか?」
「いえ。なんだか、不思議で。私はずっとこの狭い世界から抜け出したかったのに、いざ抜け出してみるとなんだか寂しくて」
 ルイーゼはそう言ってそっと顔をうつむけた。
 
 マリアやトマスたちと過ごした劇場はとっくに遠ざかり、もう見えなくなっていた。
 もし自分の身分が本当に姫だと証明されてしまったら、もう、あの劇場へは二度と戻れないかもしれない。……そう思いついて悲しくなった。
 
 ……街のどこかから、吟遊詩人が歌う声がしている。「黄金の都」――すなわち王都アガスターシェ――を褒めたたえる曲で、歌詞とは裏腹に少しだけ物悲しい旋律だった。
 ゆったりとしたその声を聴きながら、ルイーゼはため息をついた。
 
(……わからなくなってきたわ。今までの生活が夢だったのか、それとも今こうしていることが夢なのか)
 
 すべてを理解しろと言われても、あまりにも目まぐるしくて思考が追いつかない。王城に着けば嫌でも事実を知ることになるだろうが、なんだか憂鬱だった。
 
 クロードは組んでいた脚を組み変えると、手袋をはめた指先を自身の口元にもっていった。その唇からわずかにため息がこぼれる。
「貴女には、きちんとお話しておくべきことがもう一つ……。これだけはどうしてもお伝えしておかねばなりません」
「何ですか?」
「貴女がこれから飛び込もうとしている世界が、そう広いものではないのだということです」
 クロードは組んだ脚の上に手を載せると、ルイーゼを見た。
「姫は、『薔薇後宮』のお話をご存知ですか?」
「そうび、こうきゅう……?」
「……王族女性が暮らす宮殿の名称ですよ。後宮とはいえ、現在は名ばかりです。先の王の時代には后妃や大勢の愛妾たちが暮らしていたのですが、今では王族女性たちの居住空間として機能しているだけの、いわば鳥籠のような世界……」
「鳥籠……」
「ええ……。後宮といってもいわゆるハレムではなく、現在暮らしていらっしゃるのも年頃の姫君がた、王太后様、王妃様などといった王室の女性たちです。はるか昔から後宮制度は存在していますが、現在の後宮は未婚の姫たちを悪しきものの手から守るための場所なのです。実際、過去のスフェーンの姫君達は皆、輿入れが決まるまでは後宮で過ごしてきましたから」
「……そうなんですか?」
「ええ。姫君には教育が施され、政略結婚あるいは降嫁に備えて大切に育てられます」
 
 ルイーゼは瞳をぱちぱちさせた。やっぱり夢みたいだ。あるいは本当に、おとぎ話の世界にでも入り込んでしまったのかもしれない。
 しかも、政略結婚だなんて。自分は本当にそんな場所で生きていかなければならないのだろうか?
 
 クロードはその『薔薇後宮』という場所についてさらに詳しく教えてくれる。
「王妃様の御産みになられた王女様たちのほか、捕虜の身分に落とされた隣国の姫君も、薔薇後宮で立派な部屋をあてがわれて過不足なく生活なさっておられます。捕虜の命を握ることで残党を鎮圧する目的も無論ありますが、半分は恩情……なのですよ。エリザベス様の……」
「……隣国で、捕虜? ……もしや、アルマンディンの方ですか?」
 捕虜になっているとすれば、理由は故国が戦で負けたことなのだろうから、恐らくそれは南にあった大国の姫の話だろう。
 
 ルイーゼの言葉に、クロードはうなずく。
「エリザベス様はアルマンディンの王妃様と大変お親しかったのですよ。それで戦の最中に陛下に文を送られ、王妃様の命乞いをされたのです。貴女とアルマンディンの姫君とはきっと、実の姉妹のように仲良くなられるかと……」
 穏やかに微笑んでから、クロードはさらに続けた。
「……貴女は先ほど、今までいた場所を狭い世界だったとおっしゃられた。ですが、後宮はそれよりさらに狭く、窮屈で歪みきった世界です。伏魔殿と呼んでも差し支えないほどに」
 
 ルイーゼはつばを飲み込んだ。
(『伏魔殿』……。私がそんな場所に入ることになるなんて、思ってもみなかった……。ずっとアルバ座で、平凡な暮らしを続けていくんだとばかり……)
 
 それは、アルバ座にいた底意地の悪い少女たちなど比ではないくらい苛烈な世界なのではないだろうか。
「後宮」というからにはただの安穏とした場所などではないはずだ。
 女たちがひしめき、思惑を交錯させ合い、時に蹴落とし合う。
 恐らくはそんな世界だ。
 妃として後宮入りするわけではない分まだましだが、それでも女の情念渦巻く世界であることは間違いない。
 
『知るべき時が来たから仕方なく扉を開けただけ』
 
 なぜだかあの時の香緋の言葉が思い起こされた。
 そして今、ルイーゼも「扉」を開けようとしている。
「知るべき時」を迎え、次の場所へ新たな一歩を踏み出そうとしている。
 たったそれだけのことがこんなにも怖いことだったなんて、これまで知りもしなかった。
 
 そんなルイーゼの横顔をうかがいながら、クロードはなおも続けた。
「そのような場所で生活して頂くのは、私にはとても心苦しいことです。いやみや皮肉、中傷をぶつけられることもありましょう。ですが、私は信じています……。貴女が苦難を乗り越えられるだけの芯の強さを持った女性であると」
「クロード様……」
 彼はルイーゼの手を取ると、そっと口づける。押し当てられる柔らかな感触に鼓動が跳ねた。
「何かお困りのことがございましたら、いつでもこの私をお呼びになってくださいね、姫。私は普段はプランタン宮の執務室で仕事をしておりますが、薔薇後宮への出入りは特別に許可して頂いているのです……。お呼び出し頂ければ私はすぐに参ります……、貴女のためなら」
「わかりました。ありがとうございます、クロード様」
 生真面目にうなずくルイーゼに、クロードは微苦笑する。
「……どうか、クロードとお呼びになってください。私は貴女の臣下なのですよ」
「え? で、でも、あなたは王様の……、国王陛下の魔道士なのでは?」
「ええ……、ですから申し上げているのです。陛下の御息女に敬意を払うのは、臣下として当然の行いです」
「い、いきなり呼び捨てはできません!」
 クロードは漆黒の髪を揺らしてにこりと微笑む。
「それでは、そちらは追々ということに。……さあ、着いたようですよ、姫。王城――リシャール城に」
 
 箱馬車の紋章を確認してか、衛兵たちが急いで門を開けるのが見える。
 門扉は黄金で蔦のような優美な曲線を描いたもので、いたるところに立体的な薔薇の装飾が施されていた。きらきらとした眩しい輝きを放っている。
 開かれる城門の向こう、ちらりと見えた前庭の中央部には巨大な噴水があった。教会の聖堂に置かれるようなものとは比べ物にならないほど立派な女神像が置かれている。
 
「わあ、あんなに大きなヴァーテル様の像が……。お城ってとっても広いんですね」
「これはほんの序の口です。貴女のお入りになる後宮は贅を尽くしたとても麗しい場所ですよ」
「そうなんですか……。そういえば、今の国王陛下の名前もリシャール様、ですよね? お城の名前と同じ……」
 クロードは瞳を細めてうなずいた。
「ええ……。リシャール・リュカ・フォン・スフェーン様です。陛下のリシャールというお名前は先の国王陛下が名付けられたものだそうです。過去に名君と名高かった王の名前だと聞き及んでおります。また、ミドルネームの『リュカ』は御母君であらせられる王太后様が、聖人リュカの名を直々につけられたのだとか」
「聖人リュカ……」
「ええ。ヴァーテル教会に認められた聖人の一人で、聖遺物が王宮大聖堂に安置してございます。陛下はとても立派な御方です。私は優しく寛大な陛下にお仕え出来ることを何よりの幸福と感じておりますよ……」
 
 ルイーゼは、クロードとリシャール王との間に確かな信頼関係が築かれているのを、その微笑から見てとった。こんなに真面目な近臣に支えられる国王は、きっとよい人物に違いない。そう思い、少しだけ安堵する。
 
 箱馬車は城門を潜り抜け、前庭に造られた楕円形の馬車道に入っていった。
 ルイーゼはどきどきしながら初めて王城を見た。
 正面の建物は輝かんばかりの白亜でできており、作りは左右対称だ。外壁には豪華かつ大胆なレリーフを施してある。
 左右の小塔には薔薇窓の嵌まった小部屋が確認できた。緞帳の引かれた部屋もあり、時折うっすらとした人影が見える。
 馬車は大勢の騎士や官僚らしき男性たちが行き交う歩道の脇を通り過ぎ、しばらく進んだあと、ゆっくり停止する。御者が手綱を引いたのだろう、馬のいななきが聞こえてきた。
 
「では、そろそろ降りますよ。準備はよろしいですか、姫?」
「は、はい、今……」
 
(……え?)
 
 何の気なしに外を見たルイーゼは瞳を見開いた。
 素晴らしい城の造りも、立ち並ぶ衛兵の姿も目に入らなくなる。
 
 ――視界に映るのは、鮮烈な紅。
 
「香緋……っ!?」
 
 ……箱馬車の窓の向こうに、今朝会ったばかりの紅い髪の少女がたたずんでいた。

 

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