その晩、使者の邸でやすんでいたバイオレッタは勢いよく瞳を開けた。
邸の外、男たちの咆哮と怒号が飛び交っている。
(――賊!?)
風に乗って剣戟が鳴り響き、ただならぬ事態であることを知らせる。遠くから聞こえてくる男たちの唸り声と、女子供の悲鳴。略奪が始まったのだとすぐに理解した。
「姫様!」
ギードが部屋に駆け込んできた。彼はすぐさま寝台のそばまで走ってくる。
「御無事で何よりです。ならず者が領地に侵入しました。数はざっと数十名といったところですが、手練れが数名紛れ込んでおります。部下に掃討を命じましたが、ひとまず一刻も早く安全なところへ参りましょう」
「そ、そんな……! い、一体どうすれば――!」
動揺のあまり、ろれつが回らない。
外で行われているのはまぎれもなく「殺し合い」だ。物品の略奪を口実に、いたずらに相手の命を奪う行為である。見つかれば自分やギードもただでは済むまい――。
ギードは未だ震えているバイオレッタの顔を覗きこみ、その頬を両手で挟みながら言った。
「大丈夫です。貴女がここにいるということは、領民でさえ知り及ばぬことです。今は逃げ切りさえすれば問題ありません」
そして強張った彼女の手をつかむと、半ば強引に引っ張って立ち上がらせる。有無を言わさぬ態度が、逆に恐怖を煽った。
「行きましょう、姫様」
「行くってどこへ!? 相手は賊なのでしょう!? 逃げられるわけが――!!」
「しっかりしてください、姫様!」
ぴしゃりと叱咤され、バイオレッタの体が打たれたように硬直した。
「貴女が今なさるべきことは、冷静さを欠くことではない。……どこかにお隠れになっていて下さい。御身に何かあれば、私も民たちもただでは済みません」
「だ、黙って見ていろと言うの!?」
「そうではない! ただ、貴女の御身が傷つけられることだけは避けなくては」
バイオレッタはギードによって寂れた教会の中に隠された。教会の周囲をギードの部下が数人で固めている。
この厳重な守りの意味は明白で、バイオレッタがこの国の後嗣だからだ。
「私は領民の様子と戦況を確かめてきます。絶対にここを動かないでください。貴女さえ御無事ならそれでいいのですから」
バイオレッタがなんとかうなずくと、ギードは教会から出て行く。
バイオレッタは祭壇の奥で縮こまりながら、震える体を何度もさすった。
(本当に、このままでいるしかないの……?)
大人しくギードに従ったはいいが、バイオレッタはただただ申し訳なさでいっぱいだった。
略奪と殺し合いの場にいるときでさえ、自分はなんの力もない。守られているしかないのだ。他者を守れるような決定的な力を持たない以上、王女など名ばかりである。
同時に、一抹の悔しさが胸をよぎる。こうしてレベイユにいながら、自分の領民が殺されるのをただ指をくわえて見ていることしかできないなんて。
(なんで……! 一体どうしたらいいの!? ここにいても誰かの足手まといになるだけだなんて、そんなのはいや!)
……そのとき、窓の外をのろのろと動く何かがかすめた。
バイオレッタは思わず「あっ」と声を上げた。
小路の奥からまろび出てきた老婆が、せり出した岩に蹴躓いて盛大に転んだのである。
「お、お婆さん……!!」
バイオレッタは急いで教会を飛び出すと、急いで老婆に手を貸した。
「大丈夫ですか!?」
「あんたっ、何してんだい! あたしのことなんかいいから、早く逃げ……、ううっ……!!」
「足が痛いの!?」
バイオレッタは思わず、彼女に手を貸して教会の中へ導こうとした。せめて安全なところにいさせてやりたかったのだ。
そこで、ギードの言葉がこだまする。
――御身に何かあれば、私も民たちもただでは済みません。
バイオレッタはそこでふるふるとかぶりを振った。
ここにいるのは、父王の民ではない。今ここにいるのは……。
(……わたくしの民なんだわ。わたくしが愛し、守ってゆくべき人たち……)
スフェーンの民は父王の民であると同時に王女たちのものでもある。みな等しく慈しむべき存在だ。
たとえ女王になれなかったとしてもそれは変わらない。玉座が与えられないからといって放り出していいものではない。決して。
考えるが早いか、バイオレッタは動き出していた。
「――わ、私に掴まって! そのままじゃ逃げきれないわ!」
バイオレッタは老婆をゆっくりと立たせた。肩を貸し、腰に手を回して、急いで教会の入口へ誘導する。
「くっ……!」
老婆は呻いてくずおれ、道の途中で足を押さえて丸まった。
「大丈夫ですか!?」
「あんた……! 何もこんな婆さんを助けなくたっていいじゃないか! あんた一人なら助かるんだよ、早くお逃げ!」
「いや、です……っ! 置いていけない……!」
バイオレッタはもう一度老婆を支えて立ち上がらせようとした。
……刹那、くずおれている老婆の背後に、輝く何かが迫る。バイオレッタは振り仰いでみて息をのんだ。
(……!!)
賊らしき男が、三日月の形に光る湾刃を突きつけている。こんなものに斬られたら、きっとただでは済むまいと思うような立派な刀だった。
「……ひっ……」
男はにやりと笑い、刀の柄を握り直して距離を詰める。興奮しているのか、何事かを高らかに叫んだのち、彼はおもむろに湾刀を振り上げた。
……まさに今、簒奪者の刃が二人の背を斬りつけようとしていた。
(――!!)
最初に感じたのは、ぎぃん、という硬質な音だ。次いで、異国の言葉で男が強く呻く。
(な、に……。何が起こったの……!?)
見れば、ギードが盗賊の男と対峙している。
「――お怪我はありませんか!」
「ギード!!」
「お怪我は!?」
繰り返され、バイオレッタは気圧されたように「ないわ」と答える。
ギードは無言でうなずき、荒れた息を整える。急いで駆けつけてくれたのだと悟り、胸がいっぱいになった。
「……お前たち、賊を一人残らず捕らえろ。第三王女殿下の領地を荒らした罰はきっちり受けてもらわねばな」
鋭い一喝に、配下の騎士たちが心得たとばかりに走り出す。当のギードはといえば、眼前に立つ湾刀の男に狙いを定めていた。
「……私の主人を煩わせた罪、お前の命でしっかりと贖ってもらおうか!」
不敵に笑み、ギードは賊に斬りかかる。闇の中、彼の持つバスタードソードが一閃した。
一旦は湾刀で受け止めたものの、野太い咆哮と実力に気圧され、賊は血相を変える。刀身で圧をかけられて、彼の浅黒いおもては忌々しげに歪んだ。
受け止めきれずにとうとうよろめいたところを、ギードは見逃さなかった。強く薙ぎ払い、隙ができた一瞬に深々と斬り込む。
賊が斬りつけられた上腕部に気を取られているところを、ギードは力技に持ち込んで拘束した。
「縄を貸せ」
「はっ」
相手は大の男だったが力の差は歴然で、ギードが賊を完全に捕縛するまでさほどの時間はかからなかった。
ギードは賊の手足をきつく縛って転がすと、配下の騎士に言いつける。
「見せしめに領地に晒しておけ。水一滴与えるな。恐らく砂漠を根城にしている輩だろうが、第三王女殿下の領地を荒らした咎で、都へ帰還する際に連行する」
「はっ!」
バイオレッタはうろたえてギードに取りすがった。
「ギ、ギード! 助けてくれたのは感謝しているわ。でも、そこまでしなくたって……!」
「いいえ。聞けません。私は今少々怒っています。ならず者の中に大した実力者がいなかったからよかったものの、まかり間違えば貴女は死んでいましたよ」
「それ、は……」
「もっと御命を大事になさって下さい。貴女はこの国にとっては絶対に失うことのできない御方なのです」
「はい……」
まるで教師に説教をされる生徒のようだと、バイオレッタは赤面した。
学院になど通ったことがないが、ああしたところの教師というのはきっとこうした指導をするに違いない。後宮を訪れる家庭教師など目ではないくらい、ギードの口調は真剣そのものだった。
しかも、バイオレッタとはたっぷり十は離れているから、そもそもものの見方や価値観などが違うのだ。大人の男性らしく正論で説き伏せてくる。
「……ううっ……!」
呻き声にはっとして、身をすくめている足元の老婆を見る。
「おばあさん! 大変、足が痛むのね! ……ギード、早く領民たちを集めてちょうだい! 安全なところに誘導して、怪我の手当てができるようにしてほしいの!」
バイオレッタの懇願に、ギードはしっかりとうなずいた。
「御意」
ギードの指示で彼の配下の騎士たちが動いてくれ、残っていた民に集会所を目指すよう呼び掛けてくれた。
村人たちを誘導しながら集会所にたどり着いたバイオレッタは、よいしょ、と老婆を支え直した。
ギードに扉を開けてもらい、中に入る。
すると、顔をのぞかせたアリサが声を張り上げた。
「おばあちゃんっ!!」
「アリサ!! ああ……、無事だったんだねぇ!! よかった……!!」
「うう、本当に怖かったよぉ……、おばあちゃあん……!」
老婆はどうやらアリサの祖母だったらしい。力いっぱい孫を抱擁していたが、彼女は力尽きたようにそろそろと藁の上に倒れ込んだ。
「痛い……、痛い……!!」
うわごとのように繰り返し、老婆は膝を押さえて丸くなった。よほど痛むらしく、額には脂汗がにじんでいる。
「退いてくれ。私が見よう」
ギードは手早く老婆の処置を始める。
幸い骨折などはなかったようで、足を捻挫しただけだという。
が、年恰好からしても耐えきれない痛みだったのだろう。
略奪の恐怖が痛みを増長させた可能性もあるだろうと、バイオレッタはいたわしそうに目を細める。
「……ひとまず無事でよかったけれど、可哀想に」
つぶやくと、傍らのアリサが苦笑いする。
「略奪はもう日常茶飯事だけど、この怖さにはどうしても慣れないよ。仲間や頼りにしてた人がいなくなることだってあったもん……」
「……そうね。レベイユは今のままでは駄目だわ。誰かが変えていかなければ変わらない。そして、今まさにその時を迎えているのだわ」
レベイユの過酷さを身をもって経験したバイオレッタは、すっとおもてを上げて言い切った。
「――わたくしが領主になったからには、もう好き勝手はさせない。絶対にここをいい土地に変えてみせるわ」
その言葉に、アリサがのけぞる。
「え……えええええっ!? 嘘、おねえさんが新しい領主様だったの!?」
アリサの一声に、集会所がどよめいた。
そこでアリサの母親がずいと歩み出て、バイオレッタを値踏みするように眺めまわす。
「新領主就任の話は聞いてたけど、まさかこんな小娘だったとはね。まあ、アリサと話をしているときから様子がおかしいと思っちゃいたが……」
「こ、小娘ですみません」
彼女はふん、と鼻を鳴らすと、不愉快そうにそっぽを向いた。
「……女王選抜試験とやらの一環なんだろ? 自分が女王になったらどうせレベイユのことも見捨てるんだ。そうに決まってるさ」
「レイカ、おやめよ。あんたの言い分はあたしらにだってわかるけど――」
「外野は引っ込んでな!! あたしゃ村長の嫁として黙っちゃいられないんだよ!!」
見かねたレベイユの女たちがぼそぼそとバイオレッタに言う。
「お嬢ちゃん、勘弁してやって。レイカはモルフェからここの村長のとこに嫁いできたんだけど、その旦那が落盤事故で亡くなっちまってね。勘違いしないどくれよ、レイカだって別にあんたを責めようっていうんじゃないんだよ」
村長の妻。
……では、彼女がカルマン村の現在の代表者だったのか。
レイカは唇を噛みしめて小刻みに震えている。
「……どいつもこいつも馬鹿にしてさ。民草の命をなんだと思ってんだ」
バイオレッタは思いもよらない事情にうつむくしかない。ただ立っているだけで、レイカの悲憤が伝わってくる……。
そこで小さな影がぱっと二人の間に割って入った。アリサだ。
「おかあさん!!」
「なんだよ……!」
アリサにじろりと睨まれ、レイカは目に見えてひるむ。
「このおねえさんはそんな人じゃないよ! どうしていっつもそういう言い方しかできないのっ!? そういうの、いい大人なのにみっともないよ!」
「なっ……!?」
周りの領民たちがこらえきれないといった様子でくすくす笑い出す。
「おやおや。レイカもアリサの前では形無しだねえ」
「自分の子どもに叱られちまってはなぁ」
「案外アリサの方が大物になるかもしれないよ」
そんな野次が集会所を行き交う。レイカは舌打ちした。
「ちっ。参ったよ、全く……」
波打つ黒髪をくしゃくしゃとかきやって、レイカはぽってりした唇を歪めた。
「どうでもいいけど、あんた、どうやってここを治めていくかもう決めたのかい」
「え、いえ……、まだです」
レイカはバイオレッタに近づいてくると、勢いよくその肩を叩いた。
「じゃあさっさと案を出しな。あたしゃお姫様だからって特別扱いはしないよ。亭主に代わってこのあたしがしごいてやるからそのつもりでいな」
バイオレッタはぱあっと笑顔になった。
「はい! 早速考えます!」
***
数日後。
バイオレッタは集会所の机に古びた地図を勢いよく広げた。スフェーンから見て南西の箇所を指しながら唇を開く。
「ここモルフェには、過去にオアシスとして栄えた歴史があります。つまり、あの地には何らかの水を供給する手段があるということです。それも、レベイユ領よりもかなり豊富に水を貯め込んでいるわ。同じシエロ砂漠に面する国でありながら、モルフェでは水路が枯れたという報告はない。レイカさん、そうですよね?」
領民たちが顔を突き合わせる中、バイオレッタはレイカに問うた。
彼女はうなずく。
「確かに、あたしがあっちに住んでた頃にはそんなことを心配する奴はいなかったよ。モルフェは砂漠の国にしては水がたくさんあるほうでね」
「ええ。地下には広大な水脈が眠っているとの情報もありますわね」
「最終的にはその辺りで手を打ってもいいかもしれないが……ま、先にあんたの話を聞こうじゃないか」
バイオレッタはうなずき返すと、地図の上――ある山脈地帯の上で指を動かした。
「……ここを見ていただくと、モルフェの北にあるこの山脈がわかると思うのですが……、調査によれば、この山脈にはかなりの量の雪が降るそうなのです。それも、ジプサムとは比べ物にならないくらい」
「ああ……、ギベオン山脈かい? つまり、そこから地下水路を引いてくると?」
「距離としては、実は東の山脈であるジプサムから引くよりも少しだけ近いようなのです。これは決して不可能な距離ではありません。ジプサムから新しく引いてくるよりも遥かに手っ取り早く効率的です」
「確かに、ギベオンの方がジプサムよりもはるかに近いだろうね。けど、地下水路を作るのに何年かかることか……」
バイオレッタはめげずに続ける。
「ですが、何もせずにいるよりはすぐにでも開発を始めたほうがいいかと思います。砂漠では水源を確保するのが何より大切だといいますよね。掘り進めることでオアシスが見つかる可能性もありますから、まず水の出どころを探してみるというのは悪いことではないと思うのです。うまくいけば、ここでも作物を育てられるようになるかもしれませんし」
領民たちがうなずいたのをいいことに、バイオレッタは地図に視線を落とす。
「……だけど、それよりもっと重要なことがあるの」
赤いインクで印をつけておいた場所を、順繰りに指さす。
「レベイユの周辺には、いくつかジンの魔力が強くなる箇所があるようです。ここを押さえましょう」
「押さえるってどうやってだい?」
「魔導士たちの魔力をもって、この五か所に点在する火の力を弱めるのです」
魔導士たちに課せられる任務の一つとして、国の防護壁を強化するというものがある。この防護壁には他国からの思いがけない侵攻を防ぐほか、魔に属する者たちが国民に危害を加えることを回避する働きがあるのだ。
シエロ砂漠に面している南側の領土にも、この防護壁が張り巡らされている。砂漠には毒を持つ魔物やジンの魔力で狂暴化した異形のものなどが生息しており、時たま彼らがスフェーンの土地を荒らすことがあるからだ。
「この五か所の地域に、王城の魔導士を遣わしましょう」
バイオレッタは事前に調査しておいた五つの地点を指し示した。
同行していた魔導士によれば、その場所は異様なほど火の力が高まっているのだという。
そこでバイオレッタは、この箇所に配下の魔導士たちを遣わそうと考えた。
「城に仕える魔導士を数名だけ自由に使ってもよい」というのが今回の女王選抜試験でのルールだ。
つまりは王女たちに与えられた最大の切り札である。彼らは強大な魔力こそ持たないものの、領地内の強化にはじゅうぶん使える術者ばかりだ。
土地がジンの魔力に晒されているというのは、じゅうぶんに魔導士を使う理由になり得る。
邪神の力を弱めるということ自体がレベイユの土地そのものの強化に繋がるから、防護壁を張るのと全く同じ意味を持つのだ。
「決定打は与えられないかもしれないけれど、土地の力を強化すれば熱風や砂塵は防げるようになるでしょう。ギベオンから水路を引いてきても、すぐに枯れてしまうようではいけませんから。枯れてしまった水路に関しても、わたくしと部下たちでもう一度しっかりと見直しをしてみますが……もしかしたら、火の力が強すぎてこの村に流れ着くまでに枯渇してしまっているのかもしれません。やってみる価値はじゅうぶんにあるかと」
レイカが感心した風にうなずく。
「なるほどね。ジンの魔力が妨害しているかもしれないから、まずは魔導士に強化させるってのかい。あたしゃ魔術なんざさっぱりだけど、あんたのそれはなかなかいい読みかもしれないね。水さえ出てくればあとはこっちのもんだ」
「姫様。まだ鉱山での採掘は続けなきゃならねぇのかい?」
労働者らしき壮年の男がおずおずと問うた。
バイオレッタは集会所をざっと見回しながら、言う。
「そうね。採掘を続けた方が、今のレベイユにとっては有益ですから」
集会所のあちこちから、諦めとも落胆ともつかぬため息が漏れ聞こえる。
バイオレッタは強い口調でたたみかけた。
「けれど、今度はわたくしにすべての利益を独占させていてはだめ。採掘した鉱石はあなたたちが高値で売りつけなさい」
「それは、つまり……」
「原石を欲しがる商人たちに自分たちで交渉してかまいません。聞けば、今のスフェーンにおいて最上質のフェマール原石が採れるのはレベイユだけなのですってね。それを活かしなさい。他国の人間たちにとっては喉から手が出るほど欲しいはずだわ」
フェマールとは、シエロ砂漠で時たま採ることができる鉱石だ。
見かけは黄銅鉱に似ているが、研磨次第で煉瓦に加工でき、さらに特殊な研磨をすることで透き通った真紅の貴石となる代物だ。
アガスターシェでは町の装飾や煉瓦などに用いられるほか、研磨した貴石は王侯貴族たちの婚礼の折、宝飾品に使われることがある。ジンに連なる魔のもの――通説によれば忌み子も含まれるそうだが――の悪しき力を退けるといわれており、退魔の守り石として定評があった。
教会ではこの石で作った聖杯や錫杖が祭儀に使用されることもあるくらいだ。
そもそもスフェーンの南というのは異国人が多く入ってくる地域である。土地そのものがシエロ砂漠に面しているからだ。
そしてレベイユ自体が鉱山を有している土地だから、目利きの商人や宝石職人が目をつけている可能性はじゅうぶんに高いと思われた。
彼ら相手に商談を持ちかける方が、近隣の村人相手に物々交換を願い出るより遥かに効率がいい。鉱物の質にもよるが、大々的に売却をすることで生活費くらいは容易に賄えるだろう。うまくいけば「鉱物都市」として栄える可能性も出てくる。
「ただし、採掘した鉱石の八割ほどは、これまで通り領主……つまりわたくしに納めてほしいの。そしてその時には特にいい鉱石だけを選別しておいてもらえるかしら」
不思議そうな顔をする民たちに、バイオレッタは説明した。
「この『八割』というのは暫定でしかないのだけれど……過去には素晴らしい鉱石に対して二倍の支払いをした王というのもいたそうなの。もしこれはと思う原石があれば、次に視察に来たときにわたくしに教えてちょうだい。わたくしが宮廷に持ち帰ってお父様に献上してみます。お父様は信心深い方だし、歴代国王同様美しいものに目がない人よ。質のよい鉱石にはそれ相応のお支払いをしてくださると思うわ」
そうした美しいもの好きな王というのが、スフェーンでも過去に何人かいたそうだ。理由は明白で、希少性の高い宝玉を身に着けていればそれだけでこの上ない権力の象徴となるからである。
彼らは高品質な原石をすべて宮廷に持ってくるよう御触れを出し、本当に気に入れば研磨やカットをさせ、宝石職人によって加工までさせたのだという。
もちろん採掘者にはかなりの額が支払われた。時には二、三倍もの報酬が与えられた。
つまり、レベイユの民たちに収益を出させるには、バイオレッタが石を王都に持ち帰って父王に献上すればいいのだ。
そうすればリシャールの采配によって採掘者に報酬が届けられる。
前領主の失敗とはすなわちそこにあった。民たちの意向を全く汲もうとせず、自らの都合だけで勝手に売却してしまった。
だから領民たちは怒っているのだ。
「わたくしは月に数回こちらに来ます。その時にいくつか石を見せてくれるとありがたいわ」
「じゃあ、あんたが王都に届けてくれるってことか」
「もちろんあなたたちが運んできてもいいわ。ただし、まずは村の環境を整えてからよ。王都まではかなりの距離がある。鉱石を運べるだけの準備を整えてからでも遅くないと思うの」
ゆくゆくは馬や幌馬車なども揃えなくてはならないだろう。
だが、これで領民たちの士気は俄然上がるはずだ。
領主によって鉱石の売却を認められたばかりか、よい石を国王に献上した者には多額の報酬が支払われるというのである。採掘も今まで以上にはりきって行うに違いない。
最後にバイオレッタは、村の若手の顔を順繰りに見つめた。
「鉱石の盗難と賊の襲撃についてですけれど、これは自警団を設けた方がいいでしょう。戦える若い男性たちには協力をお願いしたいわ」
……辺境付近を警護する自警団。
これはレベイユには絶対に必要だろうとバイオレッタは考えていた。
レベイユの南に広がるシエロ砂漠そのものが、もはやならず者のアジトのようになっている。
となれば、自警団の設立は領民の命を守るためにも急がねばならない。
「自警団の設立にあたっては、王女権限でこちらの土地に資金を回させて頂きます。武器や防具などもできる限り配給しますが、必要なものがあれば言ってください」
前領主は本当に金の亡者だったようで、こうしたところに資金や男手を回そうとしなかったのだとすぐにわかる。
(鉱夫にするのも大事だけど、辺境の地なのだから戦える男性というのもいた方がいいはずだわ)
領民とは領主の命令に従うものだ。逆に言えば、領民たちは上の身分の者に逆らうすべを持たないということである。
バイオレッタには新しい領主として正しい方向へ彼らを導くという使命があった。
となれば、領民たちの意見もできる限り取り入れ、彼らが本当に望んでいることをしてやりたい。
「環境が劣悪なだけに心苦しいのですけれど……。わたくしもギードと一緒に、できるだけ様子を見に来るようにいたしますから」
そこでバイオレッタは、領民たちをざっと見渡して言う。
「ここレベイユはもっともっと豊潤な土地にできるはずよ。まずはジンの魔力の抑制、次に水路の開発、掘り出した鉱石の輸出と、順を追って開拓をしてみましょう。皆で協力して頑張りましょうね!」
レイカがバイオレッタの背をばしんと叩く。
「ふん。領主様だかなんだか知らないけどさ、せいぜいちゃんとやっとくれ。まあでも、頼りないとこはあるけど、前のあの品のないおやじよか全然ましだねぇ」
「違ぇねえ!! この子はぽーっとしてるとこはあるけど、ヤツみたいにごたごた指輪も嵌めてねぇしよ!!」
「ありゃあいやみな男だったね。自分ばっかりいいもの食べて、採れた石の指輪つけてめかしこんでさ。薄汚れたぼろ着てる自分の領民をよく見ろってんだ」
レイカの皮肉に、がはははは、と男たちが豪快に笑った。
「はあ、緊張したわ。……ギード、わたくしはあなたに及第点、もらえるかしら?」
集会所から領民たちがいなくなってしばらくのち、バイオレッタはずっとそばに控えてくれていたギードに訊いてみる。
彼は珍しくにっこりと笑って言った。
「ええ、なかなかのお手並みでした」
「よかった……! あなたにそう言ってもらえて、また一つ自信がついたわ」
「……やはり姫様はお強い方ですね。あのようなことがあったあとでさえ、そうやって折れることなく咲き続けていられるとは……。私は本当に、貴女の今後が楽しみでならない……」
ギードはそう言って一瞬だけどこか眩しそうな微笑を浮かべたが、すぐさま厳しく言い放つ。
「――ですが姫様、お忘れなきよう。これは最初の一歩にすぎません。何事も継続が一番大切です。今後もこの調子で……いえ、今以上に気を引き締めてかかってください」
「は、はいっ……!」
居住まいを正し、バイオレッタは微笑んでギードを見上げた。
***
「ごきげんよう、私の姫」
「クロード様」
その日、菫青棟の前でつる薔薇を眺めていたバイオレッタは、聴き慣れた声に顔を上げた。
クロードが、小ぶりの包みを手にしてこちらに歩み寄ってくる。
「ご健闘ぶりをお聞きしましたよ。大変だったようですね」
「あ、ええ……、ちょっとだけ。ギードが守ってくれたので大事には至りませんでしたけれど」
クロードは「こちらは陣中見舞いです」と微笑み、包みをバイオレッタに差し出した。
「まあ、これは一体……?」
「私の邸で育てた薔薇です。よろしければ菫青棟で愉しんでいただければと……」
「薔薇なんて育てたことがありませんけれど、なんだか難しそう……」
「わからないことがあれば、どうぞなんでもお聞きくださいね。相談にもお乗りいたしますから」
クロードが教えてくれるなら大丈夫だろうと、ひとまずバイオレッタは包みを受け取る。
そばで仕事をしていた侍女を手招き、一旦預かってもらうことにした。
「薔薇を育てるって、一体どうすればよろしいのですか?」
「日に当てて、水はとにかく切らさずに。葉が落ちてしまいますので……。そして花がらはできるだけすぐに切ってください。新しい花の成長を妨げますので」
実際に聞いてみても何が何だかやっぱりよくわからなかったが、せっかくクロードにもらったのだからと、バイオレッタは意気込んだ。これもある意味領地の開拓と同じかもしれない。
「それでしたらテラスで育ててみますわね。あちらは日当たりがいいから」
「ええ。薔薇は意外とたくましいので臆さずお愉しみください」
「では、わたくしからはこちらを」
バイオレッタはポシュから小ぶりの砂漠のバラを取り出すと、クロードの手のひらにぽとりと落とした。
「……おや。これは美しい薔薇だ。貴女の旅の思い出というわけですね」
「ええ。可愛いでしょう?」
「こうして互いに薔薇を贈り合うとは、なんたる偶然でしょう。これは嬉しいですね……」
ふふ、と軽やかに笑って、クロードは砂漠のバラに口づけを落とした。
そよそよと初夏の風が吹き渡り、二人の髪を心地よくさらう。
バイオレッタが身をかがめてつる薔薇の香りを楽しんでいると。
「それで? いかがでしたか、ギード・アンセルムとやらは。貴女をしっかりと守ってくれましたか」
ころころと鉱石を手のひらで転がしながら、クロードが問うた。
バイオレッタは少しだけ呆れてしまう。
「クロード様……、そこは普通、レベイユではどうだったかを聞く場面ではないでしょうか……?」
「……ですが、私は面白くないのです。騎士であるというだけで貴女と片時も離れずにいられるというなら、私も今すぐ騎士になりたい。そのためなら栄えある魔導士の称号を陛下にお返ししてもかまわないと思っているほどです」
「ふっ……!」
バイオレッタは思わず噴き出した。
騎士になったクロードというのがどうしても想像できないのだ。
本人が日ごろから「たくましくないのが悩みだ」と言っているせいなのか、それとも立ち居振る舞いが優雅すぎるせいなのか。
とにかく騎士の姿で勇猛果敢に戦うクロードというのはどうしてもイメージできなかった。
「そ、そんな……、ふふ、ふふふふ……!」
そんな彼女を横目で見て、つまらなさそうにクロードが言う。
「全く……、妬けますね。騎士の分際で私の姫の心をかすめ取ろうとは」
「もう、ギードはそんなことをするような殿方ではありませんわ」
むしろ堅物で融通が利かないのだと、バイオレッタは主張する。
だが、クロードは意味深に笑うばかりだ。
「ふふ。堅物とはいえ彼も男性でしょう。貴女を守れるだけの武力に、甲冑の下に息づく男らしい体躯……。私にはまるで勝ち目がないではありませんか」
「そんな意地悪をおっしゃらないでください。わたくし、本当は王宮に無事に戻ってこられるか心配だったのですから」
「では姫……、遠い砂漠の地でも、私のことをお考えになった……? 恋しいと、私の顔が見たいと、少しでも感じてくださったでしょうか」
バイオレッタは逡巡ののちこくりとうなずく。
略奪の夜にはそんな余裕はなかったが、落ち着いてくると次第にピヴォワンヌやクララのことを考えるようになった。そして、その中にクロードの顔があったのもまぎれもない事実だ。
「……本音を言えばもうお城になんて帰れないかもしれないと思っていたから、クロード様にこうしてお会いできて嬉しいです。お顔を見たらちょっとだけほっとしました」
クロードは自身を見上げるバイオレッタの髪に手を滑らせる。
大きく熱い手が愛おしげに白銀の髪を撫でるのを、バイオレッタはただただうっとりと受け入れた。
「私とて同じです。大切な貴女に二度とお会いできないかと思うと、すぐにでもレベイユに駆け付けたくなりました。ですが、貴女はこうして帰ってきてくださいました。私のところに。私の手の届く場所に……」
クロードが身をかがめて頬をすり寄せてくる。バイオレッタの白磁の頬の上を、クロードのそれがするりと滑った。
「……」
無言でバイオレッタの瞳に見入っていた彼は、彼女の頬を両手で挟むと、わずかに顔を傾ける。
……漆黒のまつげが密やかに伏せられ、吐息と吐息が重なり合う。気づけば間近に端整なクロードの顔があった。
甘い香水の香りに頭がくらくらして、何をされているのかさえよくわからなくなる。
クロードの唇が、まるで悪戯をするようにバイオレッタのそれに押し当てられる。
弾みで開きかけた桜桃の唇に、羽根が触れるような柔らかな感触がもたらされた。
「……っ」
むずむずとしたくすぐったさに身をよじった刹那、唇は名残惜しげに離れていった。
「クロード、さま……?」
酩酊したように蕩けたバイオレッタの瞳を覗き込みながら、クロードが笑う。
「姫。レベイユの統治、ぜひとも頑張ってください。貴女のお手並み、臣下としてこれからも興味深く拝見させていただきます」
クロードはそう言い残して颯爽とその場を後にする。結った黒髪がさらさらと揺れるさまが眼裏に焼き付いた。
(え……、今の、なんだった、の……?)
バイオレッタはふわふわと鼻腔をくすぐる薔薇の香りの中、初めての口づけの感触にただ立ち尽くしていた。