スフェーン大国と呼ばれるとある王国に、クロード・シャヴァンヌという闇の魔導士がいた。
彼は国王リシャールに仕える、眉目秀麗、博学多才な宮廷魔導士である。
今日はそんな彼の華やかな一日を覗いてみたいと思う。
訥言敏行を旨とする彼の、その優雅な暮らしぶりとは――。
「旦那様、朝でございます」
クロードは未だ焦点の合わない瞳を何度か瞬かせた。
「……おはようございます、クレメンス」
顔を覗き込んでいるのはこの邸の家令であるクレメンスだ。
クロードはフリルのあしらわれた華やかな寝間着をからげて起き上がる。
体調がいい日であっても朝はなんとなく怠い。これも年のせいだろうか……。
さすがに長い間生きていると、身体も脆くなってくる。最近では朝陽を浴びると強い刺激でめまいがする。
まるで夜に生きる魔物のようだと、クロードは自らを嘲った。
「寝台の帳を開かせていただいてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
シャッ……というかすかな音とともに、クレメンスは寝台を覆うレースの帳を勢いよく開けた。
「!」
……眩しい。
ほんの少し陽光を感じただけでこのありさまだ。
「旦那様。日光には身体の働きを活性化させる作用がございます。もっと積極的に浴びてみてはいかがでしょうか」
淡々としすぎていていっそふてぶてしささえ感じるクレメンスの言葉に、クロードは苦笑いする。
「旦那様はあまりお身体に気を遣われませんので、私めは時々不安になります」
「いつも言っていますが、私は旦那様ではありませんよ。一般的に、妻がおらず子もいない当主のことは旦那様とは呼ばないのではありませんか?」
どこまでも理屈っぽい皮肉に、クレメンスが渋面になった。
「ですが、その御姿で『坊ちゃま』とお呼びするのも妙な気がいたします。その……私にしてみれば自分の子のようなお年でいらっしゃるのは確かですが、そうお呼びするのはなぜだか気が引けるのです」
その言葉に、クロードは納得せざるを得なかった。
(……確かに、『坊ちゃま』よりは『旦那様』の方がしっくりくるでしょうね。私はもう若くはない。クレメンスの言い分ももっともでしょう)
もちろん「邸の主人」という意味でなら「旦那様」でじゅうぶん通用するので彼を咎めるつもりは毛頭ない。
そういう意味では「坊ちゃま」などと呼ばれるよりはいくらかましだった。
と、そこでクレメンスがどこか必死な様子で身を乗り出す。
「旦那様。無礼を承知で申し上げます。この邸はあなた様おひとりで生活なさるには少々侘しすぎます。加えて侍女たちも、早く奥方様のお世話がしたいと望んでいます。ここは陛下にお願いして、しかるべき家柄のご息女を奥方としてお迎えになるべきでしょう」
またか、とクロードはたちまち不愉快になる。
クレメンスのこのお節介はもうすでに恒例行事となっている。何かにつけて、彼は「奥方様」を迎えるよう勧めたがるのである。
仕方ないので、クロードは適当にうなずいた。
「ええ、確かにそうでしょうね。陛下に頂戴したこの土地は、私一人で暮らすにはいささか広大すぎる。クレメンス、あなたの考えは至極まともだと思いますよ。ただ……、私がともに生活したいと思えるような女性は今のところいないのです」
「それはなにゆえでございますか? 聞けば王城ではとても華やかにお過ごしで、女性に不自由することはないと……!」
どこから漏れたのだろう、情報が伝わる速さに閉口する。
「……もしや旦那様、ソドミアンの気が――」
「! くどいですよ、クレメンス。そのような気など、この私にあるわけがないでしょう? 質の悪い冗談もたいがいにして下さい。朝も早いというのに、気分が沈んでしまいます」
スフェーンでは同性同士が愛を交わすのが一種の流行のようになっている。男たちばかりでなく貴婦人同士でもよく見られる光景だ。
彼らは必要以上に華美な装いをしているからすぐにそれとわかる。同類の人間ならば一瞬で見抜けるはずだ。
だが、クロードにしてみれば男は男だった。いくら美しかろうが、自分と同じ存在である彼らに性的な興味など持てるはずがない。
それに引き換え、最愛の姫のあの砂糖菓子のように甘い雰囲気はどうだ。そばに寄るたびに何とも言えないふわふわした空気を感じて癒される上、眠っていた庇護欲を大いに掻き立てられてしまう。
彼女に頼られれば必要とされているのだと嬉しく思えるし、卑怯な表現をすれば、それは自分が男であることを実感できる瞬間でもあった。
(それを思えば男など……)
一体何が悲しくて自分と同じむくつけき男どもに欲情せねばならないのかと、クロードはため息をついた。
クロードの怒りを察知してか、クレメンスが慌てて言う。
「も、申し訳ございません……」
「いえ。わかればよいのです」
クレメンスはまだ何か言いたげではあったが、ふと胸の隠しをごそごそやりだした。懐中時計を取り出してぱかりと開く。
「旦那様。お時間でございますので、そろそろお食事を運ばせていただきます」
「ああ……、お願いしますね」
クレメンスがポーカーフェイスを崩さぬままで訊ねる。
「お紅茶はいかがいたしましょうか」
「今朝はレモンをつけてください。砂糖はいりません」
「かしこまりました」
「ご主人様。朝のお食事でございます」
メイドたちがワゴンを押し、次々に料理の皿を運び入れてくるのを、クロードは寝ぼけ眼のままぼんやりと眺めた。
世話をするメイドは口やかましくない女だけを選んだ。
浮ついたところがなく、仕事を丁寧にしてくれる女。淡泊な仕事人間であるクロードにとってはそれだけが最重要項目である。
幸いなことに、私邸のメイドたちはみな大人しくて静かな女性ばかりなので、煩わされることがほとんどなかった。
王宮では突如手を握られたり抱きつかれたりと、女性の方から大胆な接触を図られることもあるが、私邸ではそうした暴挙は皆無だ。
クロードの方もメイドたちに妙な仲間意識のようなものを持っているので、仕事ぶりに感心することこそあれ、恋情を抱くようなことはまずない。
性別こそ違うが、彼女たちのことはある意味自分と同じ種類の人間だと思っていた。
メイドたちがテーブルの上に料理の皿を並べてゆく。まだ温かな湯気を上げているものばかりだ。
「ほう……。舌平目のムニエル、子羊のカツレツに冷製スープですか。これはまたおいしそうですね」
クロードは料理を見ながらそんな賛辞を述べた。
食事の席では料理に関する感想が少しでも言えた方が好ましいと思っている。
料理への称賛は料理人への称賛だ。作ってくれた人間に敬意の一つも評せないというのはあまり褒められたことではない。
第一、男であれ女であれ、自分が口にする料理について何も意見できないというのではどうしようもない。知性が微塵も感じられないし、何より人間としての奥深さに欠ける。
食事の席でいきなりぺちゃくちゃとおしゃべりを始めてしまう人間もいるが、クロードはそうした人種が嫌いだった。品がないとさえ思ってしまう。
まろやかな乳白色のヴィシソワーズに、卵と鶏肉の入った小ぶりのパイなど、料理は次々に運ばれてくる。
クロードは濡らした手巾で手を拭いつつその様子を眺めた。
……スフェーンでは「プティ・デジュネ」と呼ばれる、一日の始まりの食事。つまりは「朝食」だ。
ここでは軽食を摂るのが一般的だが、クロードの邸では工夫を凝らしたものがこれでもかと並べられる。大事な旦那様に滋養をつけてやろうというわけだ。
が、生憎彼は少食だった。虚弱とまではいかないものの、大した量は食べられない。
あまりに食事を摂りすぎてしまうとかえって頭が回らなくなることもあって、クロードはいつも朝食の量は控えめにしていた。
(王城で姫とデセールをいただくという楽しみも残しておかねばなりませんしね)
クロードはカトラリーを動かして、淡々と食事を口に運んだ。カツレツを小さく切り分けて口に運び、合間にパンを咀嚼する。
夏らしくすっきりと冷えたスープをすくって嚥下し、サラダやパイも順番に味わってゆく。
「ふむ……、相変わらずよい出来だ。文句のつけようもない」
「さようでございますか」
「ええ。今朝はパンの焼き具合が特に素晴らしいですね。香ばしく焼き上がっていて、このバターの風味がカツレツとよく合います」
メインディッシュの濃厚なソースも、パンの切れ端ですくいとる。隠し味に赤ワインを加えているであろうソースは、わずかに甘酸っぱくて上品な味がした。
どれも綺麗に食べ終えてしまうと、クロードはわずかに息をついた。
ナフキンでゆっくり口元を拭い、立ち上がる。
「支度を済ませたら城へ向かいます。馬車の手配を」
クロードの命令に、クレメンスが殊勝に頭を下げて応えた。
「はい、旦那様」
北区の私邸から王城まではさほど距離はない。
なだらかな丘陵地帯を抜け、王の狩場となっている一角を通り過ぎ、王城裏手の門を目指す。
箱馬車を颯爽と降り立ったクロードは、そこできゅっと白手袋を嵌めなおした。
「では、早速仕事をいたしましょうか」
クロードはステッキを突きながら歩き出した。
裏門を抜けて王城の敷地に入る。
そこでクロードは、女官たちがきゃあきゃあと騒ぎながらこちらを見つめていることに気づいた。
彼女たちは身を寄せ合ってクロードの姿を眺めている。時折こちらを指さしたり内緒話をしたりしながら、熱心に秋波を送ってくる。
(……やれやれ。私は珍獣か何かですか)
男でも女でも、品定めの好きな輩というのはいるものだ。
彼らは相手の気持ちなどおかまいなしに、不躾に視線を送ってくる。そして、誰に頼まれたわけでもないのに勝手に相手の「品評会」を始めてしまうのだ。
しかも、自分と相手が釣り合うかどうかといったことまでは一切考えない。クロードにしてみれば面倒くさくてばかげた輩といえた。
だが、百戦錬磨を自称するクロードは、そこで必要以上に小さくなったりはしなかった。
むしろ堂々と彼女たちの前に出ていく。
「……おはようございます、御婦人方」
どこか弱々しく、女の庇護欲を掻き立てるように微笑み、クロードは彼女たちに挨拶をした。
女官たちは黄色い声を上げて喜び、しだいに思い思いの反応を見せ始める。
すなわち、野心家の女はクロードの腕に取りすがり、奥手な娘は遠慮して数歩後ずさるといった具合に。
人間というのは面白いもので、こうしたところに個々の気質がよく現れるものだ。
自分の仕掛けた行動に相手がどう乗ってくるかというのは、クロードが常に興味深く観察している事柄の一つである。
(全く……。女性たちはみな可愛いが、毎回同じような反応をする方ばかりで飽きが来てしまった)
彼女たちの手管は決まっている。媚びを売るか、色仕掛けをするか、もじもじと遠巻きに眺めるかだ。
以前、大胆にも執務室に忍び込んできた女というのがいたが、あれは迷惑極まりなかった。執務机に乗って誘惑しようとする彼女を、クロードは侍従につまみ出させた。
信奉者を自称する輩は時々そうした突拍子もない行動に出る。放っておくとどんどん図に乗るので、どこかで歯止めをかけてやめさせなければならない。
部下のアベルに言わせれば、それは「贅沢な悩み」だという。並の男が味わえないような贅沢なのだと。
『だって、お得じゃないですか? 何もしなくても御婦人が寄ってくるんですよ? せっかくなんだし、もっと愉しんじゃえばいいのにー』
クロードはそこで薄く笑った。
(……愉しむ? 私が? 何を馬鹿なことを)
この心はもとよりただ一人に捧げられたものであり、それはどうあっても変わらない事実だ。
クロードはそもそも、器用に何人もの女と恋を愉しめるような性分ではない。目的のために利用することはあれど、基本的に相手は一人でいいと考えている。
(そう……。私には姫がいらっしゃればそれでいいのです。このような女性たちと恋愛遊戯を愉しむなど論外だ。あの方さえいらっしゃれば、他の御婦人などいりません)
未だ黄色い歓声を上げている女性たちを一瞥すると、クロードはステッキを鳴らして城に入った。
まず向かったのは国王執務室である。ここはリシャールの執務場所だ。寝室や応接間、書斎、浴室、遊戯部屋などから成っている。
リシャールは自由奔放な少年王で、その性格は猫のように勝手気ままだ。執務の最中でもいきなりふらりと散策に出てしまうこともある。
(今日は真面目に仕事をしてくださるとよいのですが……)
半ば戦慄しながら、クロードは扉を押し開いた。
そこには、夜着姿でぼんやりと椅子に腰かけるリシャールの姿があった。燦燦とした朝陽に照らされて、金髪がけぶるようにきらきらと輝いている。
純白の夜着はたっぷりと長く、生地は足元まで垂れている。
ところどころにあしらわれた最高級品のレースと、裾を留めるための貴石のブローチ。夜着の襟元に結ばれたシルクのリボン……。
きらびやかな装飾の数々が、あたかも彼の国王としての威厳を表しているかのようだった。
……が、クロードは知っていた。彼がそこまで大した国王ではないということを。
何せ十八年もの付き合いなのだ、彼の長所も短所も余すことなく把握している。
意外と面倒くさがりなこと、不利になるとなんでもかんでもクロードに押し付けようとすること、実は怠け癖があるということまで、全部だ。
今日こそおとなしく執務をしてもらいたいものだと、クロードはじとりとリシャールを睨む。
だがそれも一瞬のことで、彼は帽子を取ると、リシャールに向けて優雅なお辞儀をした。
「おはようございます、陛下」
「……ああ。おはよう」
言って、リシャールはけだるげに紅茶を啜る。
砂糖とミルクを多めにしたロイヤルミルクティーだ。彼は子供舌なのである。
クロードは彼のいるテーブルへと静かに歩を進めた。角砂糖の包みをつまみ上げて眉根を寄せる。
「僭越ながら、お砂糖はもう少しばかり少なめになさった方がよろしいかと存じます。砂糖の過剰摂取は短命のもとです」
「ふん……。お前だって茶会の度にデセールを山ほど食べておるではないか。そんな小さなことで僕に命令するでない、不愉快だ」
言ってくれる、と、クロードは口元を引きつらせて彼を見下ろした。
リシャールは子供のような見かけのわりに口が達者だ。それは臣下であるクロードにも遺憾なく発揮される。しかもその大半が幼稚な内容だから、クロードとしては閉口してしまう。
本来やるべき仕事を放り出してクロードを振り回し、頑是ない男児のように駄々をこねる。それがこの王の仕事のようなものだ。
だからもう、クロードはリシャールとのまともな対話を諦めていた。本気で相手をすればするだけ損だからだ。
「……執務は普段通り、一時間後から行います。よろしいですね?」
「ああ。お前はこの後、魔導士館での会議があるのだろう? 僕はその間に着替えておく。さっさと行ってくるのだな」
主君の命に、クロードは無言で頭を垂れた。
「御意……」
「……全く。何がさっさと行ってこい、ですか。あなたに言われずともそうしますよ、陛下」
クロードは小さく悪態をつきながら渡り廊下を進んだ。
会議に顔を出すのは彼の日課だ。最高位の魔導士として、彼には魔導士たちを統括する義務がある。したがって、リシャールなどに言われずとも魔導士館にはどうしても赴かねばならないのだ。
それにしても騒々しい場所だと、クロードはわずかに眉宇をひそめた。
王城の喧騒には何年経っても慣れることがない。
官僚たちは議論を交わしながら忙しげに回廊を行き交い、女官たちはつまらない恋愛談議に花を咲かせながら随所に寄り集まっている。
もう少し時間をゆったり使おうという気はないのだろうかと、クロードは呆れた。
宮廷人の活躍ぶりから色恋の行方まで、ここではなんでも筒抜けである。
端的に言えば、軽薄で品がないのだ。
おまけにどの人間も声がやたらと大きく、廊下にわんわんと響き渡るような声量で話すから興醒めしてしまう。
王宮に着くと私邸がいかに静かで居心地がよいか思い知らされる。
もう王城に出仕し出して十八年あまりが経過しているものの、このやかましさには毎回辟易する。疲労困憊している時などは、一刻も早く私邸に逃げ帰りたいとさえ思ってしまう。
「どの方ももう少しお声を抑えたほうがよろしいかと思うのですが……。まあ、私などが言っても聞かないでしょうから、ここは黙っていることにします」
つぶやくと、クロードは靴の踵を鳴らして先を急いだ。
一旦リュミエール宮を出たクロードは、四大元素の石像で囲まれた建物に足を踏み入れた。
……火、水、風、土。これら四つの元素を司る神のことを、イスキア大陸では「四大神」と呼ぶ。
これらの魔術は魔導士の世界では基礎魔術とも呼ばれるもので、魔導士たちが最低限習得しておかねばならない大切なものだ。
魔導士によってはさらに己を高めるために光や闇といった高位魔術を学ぶが、普通はこの四大属性の習得で手いっぱいになってしまう。
そのため、闇の魔術を専門とするクロードは稀有な存在ともいえた。
(もっとも、火と水の術者というのはごく限られた数しか存在しないのですがね)
火炎は火の邪神ジンの象徴。清流は聖なる女神ヴァーテルの象徴だ。
よって、火の術者というのはほとんどが異教徒だし、水の術者がいるのもヴァーテル教の総本山であるグロッシュラー宗教騎士団の中に限られる。
彼らと遭遇することはほとんどない。そういう意味ではめったにお目にかかれない術者たちなのだ。
クロードはそこでかすかに笑ったが、すぐに表情を引き締める。
彼は悠々と魔導士館のホールに入った。
……そこは天井の高い石造りの建物だった。
上階の研究室へ通ずる螺旋階段、天井近くまでびっしりと設えられた書棚。
天井には豪奢なシャンデリアが吊るされていたが、それよりも目を引くのは館のいたるところに見受けられる珍妙なオブジェの数々だろう。
天然石をカットしたペンデュラム、黄金の秤、巨大なフラスコなど、常人には理解できないような代物がいくつも置かれている。
これらはすべて魔導士たちの研究道具だった。
他にも天地創造の理を描いたメダイヨンや、物質を生成するための装置、大陸変動の歴史を記録した地図など、この館にはとにかく専門的な道具が多い。恐らく王子王女や官僚たちにはさっぱり訳が分からない代物だろう。
人によっては「やはり魔導士は変わっている」と苦笑するかもしれない。
クロードにこれらの使い方がすべて理解できるのは、彼もまた魔導士だからだ。長きにわたって研鑽を積んできたために、自然とそういった道具の用途や意味がわかるようになった。それだけのことだ。
魔導士館は数多ある宮殿の中でも群を抜いて背の高い建造物となっている。所属する魔導士が多いうえ、研究のための資料や観測道具なども保管しておかねばならないからだ。
一部の魔導士たちは上階にある研究室で天体を観、大地を観る。大陸の変動や新たな天災などについて調べ、王であるリシャールに報告するのである。
「おはようございまーす、クロード様っ!」
「……!」
背後から聞こえてきたいやに楽しげな声音に、クロードは思わず身構えた。……アベルだ。
彼は光の高位魔術を専門とする二十一歳の下級魔導士である。
人当たりがよくて陽気な性格だがいかんせん馴れ馴れしいところがあり、クロードは嫌厭していた。
「……おはようございます、アベル」
「うわっ、なんか朝からめちゃくちゃ暗いなぁ。何か嫌なことでもありましたー?」
そう言って笑いながら、彼は背後からがばりとクロードに抱きついた。
どうやら彼にとってスキンシップは欠かせないものらしく、相手が男であれ女であれ何かと過度な接触を図りたがる。
思わずクロードは「くっ……」と唸った。
「そのようにくっつかれると迷惑です! 早く離れなさい!」
鋭い声音でぴしゃりと言い放ち、クロードはアベルの腕を振り払った。
この馴れ馴れしい部下の男が、クロードは大嫌いだ。
おまけに、出がけのクレメンスの言葉を思い出し、ぞわりと鳥肌が立った。
……ソドミアン。つまり男の同性愛者のことだが、クレメンスはクロードにそうした気があるのではないかと懸念したのだ。
(ふざけるのも大概にしてください。誰がこんな軟派男と……!! 第一、私は男に欲情などしない……!! するはずがないでしょう、クレメンス!!)
クロードはそこで周囲を見渡した。
この中に密告者がいるのかもしれない。そう思ったら居並ぶ魔導士すべてが敵に思えてきて震えが止まらなくなった。
そこでアベルが、ぴんと人差し指を立ててにやりとした。
「そうそう、昨日バイオレッタ様にお相手をしていただいたんですけど、あの方って可愛いですよねえ。僕がキスをしたら真っ赤になっちゃって、ああもう、ホント初々しいなって」
うきうきと弾んだ声音でアベルが言う。
キスという単語に、クロードはぴくりと反応した。
「……ほう……?」
あの姫のことだ、そんなことをされればアベルを意識しだすに決まっている。
もちろん、彼女のことを信用していないわけではない。
だが、バイオレッタが絶対に興味を引かれないという確固たる証拠はない。
アベルは美青年だ。それに、宦官として自由に薔薇後宮を歩き回れるだけの権限も持っている。バイオレッタを口説くにはクロードよりも有利だ。
「……なるほど。姫とキスを……?」
「ほっぺたに軽く口づけただけでものすごい慌てちゃって。ふふ……、クロード様が溺愛するのもわかります」
クロードはそこでじろりとアベルをねめつけた。
キスした場所が頬だったのは救いだが、それにしても許せない、と彼は奥歯を噛みしめる。
彼はもともとアベルを警戒している。アベルのように信奉者の多い美青年なら、バイオレッタが心奪われても何ら不思議はない。
あまつさえアベルはクララ姫の従者をしている青年だ。クララを通じてバイオレッタと親しくなる機会などいくらでもある。
茶会に同席することもあれば、一緒に庭園を散策することだってあるだろう。それがクロードには嫌なのだ。
それを見越したように、アベルはふふっと笑った。
「そろそろクロード様にも飽きが来てるかもしれませんね。んー。次のお相手に僕なんかどうかなぁ。絶対に愉しませてあげられると思うんですけどねー」
クロードは思わず彼に詰め寄った。その肩をぐっと掴んでささやいてやる。
「は……、そんなに死にたいのなら、今すぐ息の根を止めて差し上げますが」
「いやーん、怖いですよクロード様ぁ! そんなことを言うと本当に魔物みたいですねー」
「ええ。今すぐあなたの命を刈り取って、冥界へ運んで差し上げましょう。すぐに終わらせて差し上げますよ、アベル……!」
二人がそうして睨み合っていると――。
「――君たち、やめたまえ。会議の時間だぞ」
代表者である魔導士館の長にたしなめられ、クロードは渋々伸ばした手を引っ込めた。
(……なぜ私まで怒られるのですか。納得がいきません、全く)
はあ、と重いため息をつき、彼は黙って着席した。
会議を終えて国王執務室へ足を運んだクロードは、その後も淡々と仕事をこなした。
「面倒くさい……」
「文句でしたらあとでお聞きします。先にこちらの間違った綴りを直してください」
「~~! 一体なぜこの新興国の言語はこんなにも難しいのだ……!」
執務机の後ろに回り、クロードはごねるリシャールの手を取った。彼の手を鵞ペンごと握って文字を綴る。
「……こちらは、こう。先ほどの単語はこうです」
そこでクロードの髪が揺れ、リシャールの肌に纏いついた。
さらりと靡いて頬に触れる黒髪の感触に、リシャールが声を上げる。
「よ、よい! そのように子ども扱いするでない! 僕とてこれくらいはわかる……!」
「ええ。頑張ってください、陛下」
にっこり微笑んでやると、リシャールは机に肘をついて髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
「不思議な男だな、お前は。色男のくせにやけにしっかりしていて、僕などよりよほどものがわかって。しかも、なんでもすぐには根を上げないときている。僕にはお前のような生き方をするのは絶対に無理だ……」
クロードは艶やかに笑う。
「おや、褒めてくださっているのですか?」
「……悔しいが、一応な」
「ありがとうございます。寛大な陛下にお褒めいただけて、恐悦至極に存じます」
クロードは自分がやると決めたことについては何が何でも最後までやり抜くことにしている。
しかも彼は、自分が一度興味を抱いた対象については貪欲だ。執務であれ人であれ、一度究めると決めたものはことごとく際限まで究めてしまうのだ。
興味を持つ対象が少ないぶん、愛着や執念といったものの熱量は凄まじい。クロードとはそういう男なのである。
(愛しい愛しい私の姫。今は貴女がその対象なのですよ……、ふふ……)
クロードがあり得ないほどの情熱を自分に傾けていると知ったら、最愛の姫はどんな顔をするのだろう。慌てふためくだろうか。それとも恥ずかしがるだろうか。
ああ、その日が待ち遠しい。待ち遠しくてならない……。
早く彼女をこの愛で絡めとってしまいたい。蜘蛛が美しい蝶を捕らえるように、どこまでも巧みに――。
「……おい」
「は……、いかがなさいましたか? 何かわからないところでも?」
そう問いかけると、リシャールは平然とのたまった。
「その気持ちの悪い顔をさっさと直せ。恐ろしく崩れた顔をしていたぞ」
崩れた顔と聞いて、クロードは眉根を寄せる。
愛しい女性の姿を思い描いていただけなのに、なんということだろう。しかも、まさかリシャールごときに批難されてしまうとは……。
「は、申し訳ございません。これでよろしいでしょうか」
できる限り凛とした表情を湛えてリシャールを見つめる。
すると彼はうるさそうに手を振った。
「もうよい。最近のお前はとにかく妙だからな。日常茶飯事と思って諦める」
「……」
そうこうしているうちに昼食の時間になった。
侍従の運んできた宮廷料理を、リシャールとともに味わう。
山海の珍味や香辛料、質のよいバターやオイルをこれでもかと使ったもので、どれを食べても豊かでうまみのある味がした。透き通った琥珀色のスープも絶品で、きちんと魚介でだしがとってある。
メインディッシュは牛ほほ肉の赤ワイン煮込みで、隣にはこくのあるバターライスが添えてあった。
他にもウズラのパイや鹿肉のロースト、真鯛のクリームソースがけなどが所狭しと並べられた。
時々リシャールに給仕をしてやりながら、クロードも黙々とカトラリーを動かす。
(昼食にしてはやや重い気もしますが……さすがは宮廷料理だ。味わいが大変素晴らしい)
リシャールはいちいち文句をつけながらも、きっちり最後まで味わい尽くした。
皿の隅に寄せられたピーマンとパセリを、クロードはあえて見て見ぬふりをする。
(相変わらず子供の味覚だ。野菜の苦みというのはそれはそれでよいものなのですが……)
そうしてようやく午後になり、クロードは一時の間解放された。
一通り片付いたので午睡をしたいと言い出すリシャールに、彼はうなずいた。
「それでは私はこれで」
「ああ。ご苦労だった」
さて、これでようやくバイオレッタに会いに行けそうだ。
半ば浮かれながら、クロードは薔薇後宮に向けて歩を進めた。