第三十二章 遠き幻、重なる夢

 
 ……ヴァイオリンの弓が軽やかにひと触れし、舞曲が始まる。
 弾んだ音色がそっくりそのままこの胸の高鳴りを表しているかのようで、バイオレッタは半ば酔ったような心地で踊り始めた。
 
 クロードにいざなわれ、蝶のようにくるくると広間を舞う。
 しめやかな衣擦れの音とクロードの手の温かさが、バイオレッタの鼓動をさらに速くしてゆく。
 クロードとは前にも一度相手をしてもらっているが、前回と決定的に異なっているのは、二人の間におかしな遠慮がないことだ。
 互いの舞踏の癖をよく心得ている二人は、相手の弱点を補い合うようにステップを踏んだ。
 
「いいですよ……姫。大変お上手です。もっと私についてこられますか」
「ええ、このまま続けて大丈夫ですわ」
 瞳だけで微笑し、クロードはさらに勢いをつけてバイオレッタをリードした。
 
 ……ステップを踏むたび、クロードの脚がバイオレッタの脚に絡む。
 互いを追いかけるように、誘うように。二人の脚は音色に合わせて小気味よく踏み出された。
 バイオレッタはクロードの腕に手を添えたまま恍惚となった。
 本当にさっきと同じ舞踏なのだろうか。信じられない……。
 
(どうして……? 苦にならないどころか、すごく楽しい……!)
 
 ユリウスと密着したときにひしひしと感じた違和感も今は鳴りを潜め、ただただ胸が高揚していた。
 触れ合わせた手のひらから伝わるぬくもりが、この上ない安堵をもたらす。
 こうして身体を添わせていることが当たり前であるかのような、妙な錯覚を覚えた。
 
 周囲で舞踏を愉しんでいた宮廷人たちは、ほうっと感嘆のため息を漏らしながら踊る二人を見つめている。
 やがて、羨望と称賛の入り混じる声が細く聞こえてきた。
「前々からダンスがお上手な方だと思っていたけれど、あのように軽快なステップを踏まれると、バイオレッタ姫はまるで妖精のようだわ」
「本当。スフェーンの妖精姫ね。いいえ……、蝶の化身かしら。シャヴァンヌ様もなんだかとてもお優しそうなお顔をされて……」
「姫のあの薔薇色の頬を見てごらんよ。白い頬にぽっと赤味が差して、まるで天使のような気高さだ」
 
 クロードに支えられてターンを繰り返すうち、まるで世界ごとぐるぐる回っているかのような錯覚に陥る。
 視界一杯にきらめくシャンデリアの灯り。遠巻きに踊る二人を見つめる宮廷人たち。≪舞踏の間≫のあちこちに咲き乱れる、色彩豊かなドレスやコート。
 そして、間近には端麗なクロードのおもてがある……。
 バイオレッタはうっすらと唇を開いて彼を見上げた。
 
(クロード様。あなたが連れ出したのよ……、わたくしを。色褪せて代わり映えのしなかった世界から、こんなに美しい、夢のような場所へと……)
 さざめきに充ち満ちた広間の中、バイオレッタは彼の腕の中で深い陶酔に溺れきった。
 
 
***
 
 
 舞曲が終わると、バイオレッタは感謝の意を込めてクロードにお辞儀をした。
 彼もまた荒れた息をなだめながら手の甲に口づけてくる。
「クロード様って、ワルツの名手みたい……。さっきはあんなに疲れてしまったのに、不思議……、どこも強張っていないわ」
「それは私が、貴女という女性そのものをよく理解しているからでしょう」
 クロードはしれっとそんなことを言ってバイオレッタをうろたえさせた。
 バイオレッタはかああ、と両頬を真っ赤にして縮こまる。相変わらず気障な青年だ……。
 そんな彼女が未だ息を切らしていることに気づいたクロードは、その背に手を添えながら提案した。
「姫。バルコニーにお誘いしたらついてきてくださいますか? 貴女と夜風に当たりながら話がしたいのです」
 クロードの言葉にはまぎれもなく親愛の念がこもっていて、バイオレッタは嬉しくなった。
 その態度にはバイオレッタの意思を尊重しようという謙虚さが滲み出ている。
 クロードはいつだって穏やかな雰囲気になるよう配慮してくれ、こちらの気持ちにできるだけ添おうとしてくれる。
 バイオレッタのペースをけして乱さぬよう、細やかな気配りをしてくれる。時には自身が腰を低くしてバイオレッタに合わせてくれることもあるほどだ。
 それは表面ばかり取り繕ったような公子の言葉などよりも、よほど心を浮き立たせた。
「ええ。連れて行って、クロード様……」
 
 
 エスコートされ、≪舞踏の間≫のバルコニーへと出る。
 空にはアラザンのような無数の星がきらきらと輝いていた。それらは真珠の粒のようにも、上質な模造宝石ビジューのようにも見える。
「綺麗……」
「ええ。星屑を宝石のかけらのようだとはよく表現したものです。一つ一つが何物にも代えがたい輝きを放っていますね」
 広間ではすでにビュフェと称して酒や軽食がふるまわれ始めていたが、二人は見向きもせずに語らい続けた。
 夜空に散らばる星々を眺め、遠方に見える城下の灯りを見つめて、楽しげに顔を見合わせる。
 いきいきと星を指さして星座をこしらえるバイオレッタに、ふいにクロードがささやきかけた。
「……王配候補たちのお相手は疲れたでしょう。いえ……、貴女なら『とても楽しかった』と言って笑うのでしょうか」
「え?」
 クロードは手すりの上で両手を組み合わせたまま、低い声で言った。
「姫。男と踊る貴女を眺めるのはまるで苦行のようでした。そのようなお姿で、どこの馬の骨とも知れない男に身を任せて。ああ……、なんと罪作りな女性かたなのでしょう……」
 バイオレッタは固まる。
 以前から芝居がかった口調が多いとは思っていたが、こうも熱っぽく感情を語られてはうろたえてしまう。
「クロード様、そんな。親睦を深めるためにダンスをしていただけです。あなたがそこまで気になさるようなことでは――」
「いいえ」
 やけにきっぱりと否定し、クロードはやおらバイオレッタの柳腰を抱いた。
「きゃっ……!?」
 腰から抱き寄せられ、ぴたりと密着させられる。震える手首さえ捕らえて、クロードはバイオレッタの瞳を覗き込んだ。
「……この瞳で、一体何人の男を見つめましたか。一体、何人の男をこの美しい瞳で惑わしたのです」
「ま、惑わす? そんな。わたくし、そんなつもりは」
「いいえ。こんなに淫らな格好をしていたのでは、彼らがその気になるのも無理はない。貴女と視線が合うたび、貴女に微笑まれるたびに、恋の予感に胸を高鳴らせていた男は多かったはずです」
「わ、わたくし、本当にそんなつもりじゃ……!」
 バイオレッタはクロードの腕の中で完全に恐慌状態に陥った。
 真剣な口調と目つきに、心臓がどうにかなってしまいそうだ。
 じっと見つめられるのが恐ろしくて、逃げ場をなくしたバイオレッタは思わずふいと顔を背ける。
「やめてください、こんなところで……!」
 煮え切らない態度に焦れたのか、クロードはさらに強引な行動に出た。
「まだおわかりにならないのですか。初心にもほどがありますよ、姫」
「なんのお話を……、あ、やっ!?」
 つっ……とデコルテを滑るクロードの指。
 その感触に、バイオレッタは声を上げる。
「ま、待って……、やめてください……!」
「こんなに肩をお出しになって、デコルテも露わにして……。いけない姫だ。私の気も知らないで……」
 バイオレッタは腰を抱かれたまま顔を紅くした。
 そもそも夜会用のドレスというのは大胆なデザインのものが多い。今夜のドレスもそうで、上半身のほとんどが露出している状態だった。
 ドレスからさらけ出された、丸みのある肩、くっきりと浮き出た鎖骨。その下にあるふくらみは最新流行のコルセットによって強調され、乙女らしく魅力的に盛り上がっている。
 そんな姿を淫らなどと言われて、バイオレッタは一気に恥ずかしくなった。
 
(いや……、そんな、そんなことを言われると、わたくし……)
 
 しかし、ドレスから垣間見える靴や手袋なども、男性にはじゅうぶん性的な対象になり得ると聞いたことがある。男性というのはたったそれだけで不埒なことを想像してしまえる生き物なのだ。
 ということは、今のこの姿はすでにじゅうぶんクロードを煽っているのかもしれない……。
 羽根が触れるように、骨ばったクロードの指先が白い肌に触れる。
 彼は露わになっている首筋を指ですっと撫で上げた。
 もの言いたげにこちらを見つめていたかと思うと、彼はやおらバイオレッタの耳殻に唇を寄せる。
「姫……」
 肌に吹きつけられたすみれのコロンの芳香を吸い込み、後れ毛を指に絡めながら、クロードは白い耳朶を柔く噛む。
「ひゃ……っ!?」
 あまりの仕打ちに、バイオレッタはそこで勢いよく彼の手を引きはがした。
「やっ、やめてください……!!」
 手を突っぱね、信じられないといった表情で訴える。
「酷いです……! こんな悪戯をなさるなんて!」
「……悪戯? まさか。この私がわけもなくそんなことをするはずがないでしょう」
「じゃあ、どうしてそんなに怒っていらっしゃるの……? わたくし、わからない……!」
「……」
 もどかしげに、クロードは肉厚の唇を引き結んだ。
 答えあぐねる様子でついと身を放し、バイオレッタに背を向ける。
「……クロード様?」
「わからないのでしたら仕方ありませんが、そうやって恋人わたしを苦しめるのはおやめになってください。いつでも私が助けて差し上げられるわけではないのですから」
 そこでようやくバイオレッタは、クロードが密かに嫉妬していたのだと理解した。
 彼はユリウスのように堂々とバイオレッタに声をかけることができない。臣下である彼には、男性と戯れるバイオレッタをただ遠巻きに見守ることくらいしか許されていないのだから。
「同じ男である私には、広間の男性たちが何を考えていたかが手に取るようにわかるのですよ。貴女が私を恋人として扱ってくださっているというなら、お願いですから私の忠告はきちんと聞いてください」
「はい……、気を付けます」
 
 
 クロードの背中が、なんだかとても寂しげに見えて仕方ない。
 彼の背は、ずっと何かに耐えてきた背中だ。
 重荷か、宿命か。はたまた悲しみか……。何かがクロードの生にのしかかっていることは間違いない。
 
「……姫は、運命というものを信じていらっしゃいますか」
「えっ……?」
 独り言のようにぽつりとこぼされ、バイオレッタは思わず聞き間違いではないかと顔を上げる。
 
(……「運命」?)
 
 バイオレッタが首を傾げていると、クロードは一言一言に熱を籠めながら続けた。
「貴女と最初にお会いした時、私はようやく孤独から解放されたような気持ちになりました。独りきりの世界に、ふいに強い光が射したような気がしたのです。この世にたった一人自分を待っていてくれる女性がいるとしたら、それは貴女なのかもしれない。貴女が私を孤独の淵からすくい上げてくれるのかもしれないと……。ばかげているとお思いでしょうが、最初に貴女を拝見した時、そうした運命のようなものを感じたのです」
「いいえ。ばかげているなんて思いません。少し照れてしまいますけれど……運命を信じられるって、とても素敵なことだと思いますわ」
 クロードの背にそっと手を添え、バイオレッタは励ますように言った。
 クロードはもしかしたら自分以上の夢想家なのかもしれないと、バイオレッタは少しだけ親しみを覚える。
 
 バイオレッタも幼い頃からそうした夢に浸るのが大好きだった。
 この世界にたった一人、自分を探し続けている男性がいる。いつかそんな相手に巡り合うため、自分は今を生きている。
 劇場の下働きで疲れた時には、いつもそんなことを考えて気を紛らわせていた。
 クロードもそうなのかもしれない。そんなささやかな願望を糧に、日々を生きているのかもしれない。
 そして今、彼は自分をそうした対象として見てくれている……。
 そう思ったらこの上なく嬉しかった。
 
「姫には少々つまらないお話でしたね」
「いえ……、そんな」
「いいえ。よいのです。私といる時までもののわかる貴婦人のまねごとをなさる必要はありません。貴女はまだお若い……。花で喩えるならばさしずめつぼみといったところでしょう」
 思わず黙り込む。
 つぼみなどに喩えられて、バイオレッタは複雑だった。
 魅力がない、自分の相手をするには若すぎると暗にほのめかされたような気がしたのだ。
 
 
 クロードほどの年恰好にもなれば、恋の相手に不足することはない。年上だろうが年下だろうが、誰にはばかることなく気軽に恋愛遊戯を愉しめる年齢だ。
 だが、バイオレッタは違う。社交界でもようやくお披露目となるかどうかという年齢だ。
 バイオレッタとしても、この無知さとたどたどしさだけが男性たちにもてはやされているのだという自覚があった。
 要するに、男性の相手ができるだけのものをまだ何も持っていない年恰好だということだ。若さの他には、何も。
 
(……わたくしは、クロード様のお相手ができるほど大人じゃない。それが時々なんだか辛いわ……)
 
 だが、それはどうしても仕方のないことで、二人がいくら頑張っても越えられない類のものだった。
 齢十七の娘でしかないバイオレッタは、姫とはいえまだ未熟な乙女。
 老獪なところのあるクロードを前にすると気後れしてしまうことも多かった。
 美しい女性に成長する可能性があるといえば聞こえはいいが、バイオレッタの中には焦りもあった。
 バイオレッタは今すぐクロードの関心を引きたいというのに、成長してから、大人になってからでは遅すぎる。バイオレッタは今振り向いてほしいのだから。
 
 一年後には女王選抜試験の勝敗も決まる。もしかしたら、クロードとはもう二度と会えなくなっているかもしれない。
 もし本当にそうなってしまったらおしまいだ。二度と彼に触れられなくなるばかりか、こんな風に同じ時間を過ごすこともなくなる。逢いたくても逢えなくなってしまう。
 
 バイオレッタはそうなる前にクロードとより深い仲になりたいと望んでいた。彼との思い出を、少しでも多くこの心に刻み付けておきたかったのだ。
 徒花あだばなになるとわかりきっている恋だ。だが、一度虜になった心が止められない。日ごと夜ごと、気持ちはクロードに傾くばかりだ。
 技巧に長けた貴婦人のまねごとをすれば彼が喜んでくれるというならいくらでもしてしまうだろう。
 
(クロード様……)
 
 クロードの背中はいつも、近いのに遠い。
 手を伸ばせば触れられそうなのに、気軽にそうすることができない。
 今だって、確かに触れているのに遠い。本当に触れているのかどうかさえ疑わしくなる。
 バイオレッタはそろそろとクロードの背から手を放した。
 
(やっとちゃんと恋人同士になれたのに……)
 
 クロードはまだ、バイオレッタにその心の奥底までのぞかせてはくれない。彼はいつだって秘密主義なのだ。
 
 バイオレッタの知らないところで、彼は何かに苦しんでいる。それは確かだ。過去の傷か、それとも執務や宮廷での立ち回り方で悩んでいるのか、それはわからない。
 だが、彼がその何かのために自らの感情を押し殺していることは間違いなかった。
 どうしたらいいのだろう。どうしたら自分は、少しでも彼の力になれるだろう……。
 バイオレッタはついそんなことを考えた。
 思わず強く両目をつぶって、大きく息を吸う。
 身体全体に大きな揺れを感じた刹那、バイオレッタの意識は突如として彼方へ飛んだ。
 
 
 
 視界が、強い光に囚われる。
 ここはどこなのだろう。
 なんとか確認できたのは白亜のバルコニーだった。
 ……庭園を彩る、豊かな緑。抜けるような空は気持ちがいいくらいに青い。
 バルコニーの向こうには見たこともないような街が広がっており、バイオレッタは思わず息をのむ。
 
(ここは……)
 
 じっと目を凝らすと、眼前には一人の青年がバルコニーの手すりを背に音もなくたたずんでいた。
 陽光を弾いて燦然と輝く、美しい金の髪。まるで太陽神の化身のようだと、バイオレッタはしばし見とれてしまう。
 
(この男性かたは……もしかして、いつも夢に出てくるあの人?)
 
 白貂の毛皮アーミンをあしらった、純白の上着。腰に佩びているのは金銀で装飾された立派な宝剣。
 たなびく白いコートをはためかせ、彼はこちらに背を向けた。
 その動作のせいで、彼のおもてはしっかりと確認することができない。わずかに見える横顔さえ、長い金髪がいたずらに覆い隠してしまう。
 まただ……。また彼の顔が見えない。
 なんとか顔を見ようと身を乗り出すバイオレッタをよそに、彼は寂しげにつぶやいた。
『よいのです。私はもう、他人に理解されようとは思っていません。みな、私を好きなように呼べばいい……。残虐帝、冷徹帝……、なんと呼ばれようがかまいません。たった一人理解してくれる女性がいれば……』
 バイオレッタはきょとんとする。
 残虐帝、冷徹帝。
 なんとも物騒な響きだ。この柔和な青年に与えられるにはあまり似つかわしくない名称のような気がする。
 顔こそはっきりとは見えないものの、彼はとても優しい空気を身に纏っている。
 声音にも刺々しさはまるでなく、風に撫でられるその姿は今にも消えてしまいそうなほど儚く見える。
 そこでバイオレッタは悟った。
 彼は「理解されなくてもいい」とは思っていない。「理解されたくない」のだろう。
 きっと、これまで彼は何度も絶望してきたのだ。
 彼はもう、誰かを信じようなどとは思っていないのだろう。他人を信じて裏切られるのはもうごめんだと、そう思っているのだ。
 
(だけど、そんなのって……)
 
 ……その時、穏やかでありながらどこか凛とした女性の声が響いた。
『――そのようなことをおっしゃってはいけません。あなたはただ周囲と一線を引いて、誰とも交わらないようにしているだけ。そして、あなたを真の意味で理解できるのは、何もわたくしだけではありませんわ』
 その声はなんと自身の唇から流れ出てくる。少しの澱みも迷いもなく、バイオレッタは勝手に彼を慰めるようなことを口走っている。
 次の瞬間、バイオレッタはぎょっとした。自分の手がいきなりするりと動いたからだ。
 何のためらいもなく、バイオレッタの右手はなめらかな動きで青年の背中に添えられる。いたわるようにその背をさすることさえする。
 さらに驚いたことに、バイオレッタは自身の頬を彼の背中にすり寄せようとしていた。
 
(えっ!? う、嘘……、そんな――)
 
 本人の意思とは裏腹に、彼女の身体はぴったりと隙間なく青年の背に重なった。
 そこで、唇が勝手に言の葉を紡ぎ出す。
『周りをよくご覧になって。あなたはもう、あの時泣いていらしたあなたではないのです。みな、一生懸命なあなたを愛しているわ』
『そのようなことは……』
『いいえ、こうして立派に一国を治め、よりよい発展のために日夜尽力しておられる。そのようにご自分を卑下するのはもうおやめください』
「ですが」、と声を上げかけた青年を、バイオレッタ自身が制した。
 背後から腕を回して彼に抱きつくと、自分でもびっくりするくらいの温かい声で告げる。
『わたくしは、いつでもあなたのそばにいます。あなたを、お支えします……』
 重なる体温、そして自らの唇からするすると紡がれてゆく言葉に、バイオレッタはうろたえる。
 羞恥から身を引きたくなるのに、何故だか嫌ではない。
 それもまた恐ろしくて、思わずぎゅっと瞳をつぶる。
 
 ――愛しています、愛しい人。貴女だけがいればいい。貴女だけが欲しい。いっそ、貴女と一つに融け合ってしまえたら……。
 ――ともに手を取り合って生きていきましょう。いつか終焉を迎える、その日まで。
 耳の奥へ落ちていったその約束は、一体誰のためのものだったのか――……。
 
 
 
「――え……っ!?」
 バイオレッタははっと顔を上げた。
 ……目の前に、あの不思議な青年の姿はなかった。
 背後からは依然として舞曲が流れてくるし、わいわいと上機嫌で騒ぎ立てる声も聞こえてくる。
 だが、今のこの場にはクロードとバイオレッタ以外、誰もいない。
 
(何だったの……、どうなっているの……?)
 
 眼前には先ほどと同じようにクロードがたたずんでいる。
 こちらに背を向け、手すりに肘をついて濃密な夜気を味わっている。
 
(クロード様)
 
 生ぬるい夜風に身をゆだねているクロードを、つぶさに見つめる。
 どこか哀愁の漂う、侵しがたくてまっすぐな後ろ姿を。
 周囲に理解されない苦しみに耐え、それでも必死で生き抜いてきたクロード。
 心の拠り所として唯一の女性理解者を求め、探し続ける青年。
 ……そこで強い衝動がぐらりと心を突き動かした。
 
「……クロード様」
 呼びかけに、クロードはゆるゆると振り向いた。
 視線が交わったのをいいことに、バイオレッタは言葉を紡ぐ。
「あなたを、抱きしめたい……。抱きしめても、いいですか」
「姫、何を……、……!」
 強く抱きついてくるバイオレッタに、クロードがうろたえる。
 彼が頭上で息をのむ気配がした。
「……姫、何をなさって……!」
「わからないの……! だけど、わたくし、今どうしてもあなたをこうやって抱きしめたくて……!」
 それは子供じみた背伸びなどではなく、純粋な好意の表れだった。
 あの奇妙な夢に触発されたのだろうか。周りに影響されやすい性格のせいで、勝手にあの光景に同調してしまっているのかもしれない。
 けれど、胸を揺り動かすのはまぎれもなく恋情と呼べるものだった。
 
 首筋に両腕を回してしがみつくと、クロードが耳元でくすっと笑った。
「いかがなさったのですか、突然このような……」
「……理由がなかったら、こういうことをしてはいけないのですか」
「ええ。いけません。貴女は臣下などに気安く抱擁を許してよい立場の方ではございません。貴女にこうして抱きしめられたと知られれば、私は皆様のご不興を買ってしまうでしょう」
 そう言いながらも彼は楽しそうだ。
 まるで罰せられることなど恐怖ではないとでもいうように、バイオレッタの髪や背を丁寧に撫でる。
「臣下の男ごときに貴女がここまでなさる必要はありません。先ほどの話はただの願望です。このようなことまでしてくださらなくてもよろしいのですよ」
「……クロード様だって、無理に抱きしめ返してくださらなくてもいいのですよ。わたくしは自分が好きでしているだけなのですもの」
 二人はしばし笑い合う。
 クロードはバイオレッタの耳元に唇を寄せるとからかうように言った。
「陛下に見つかったら、私はただでは済まないかもしれませんね。大事な王女をふしだらな女にしたとお咎めを受けるのは必至でしょう」
 ……まるで、そうやって堕落してしまえといわんばかりの口調だった。
 けれど。
 
(それは、だめ……)
 
 王女とはそもそも臣民のために存在するものだ。
 婚姻することによって国同士の結びつきを強め、王の血を繋ぎ、両国の繁栄のために生きる。それが一国の王女に課せられた宿命さだめである。
 おまけに女王ともなれば、冷静さを欠いて「ただの女」になることは許されないのだ。恋のために好き勝手に生きるなどとんでもないといえるだろう。
 それを思えば、クロードの言うことも至極もっともだった。
 途端に罪悪感が重く胸の奥へと満ちていったが、バイオレッタは抱擁をやめなかった。
「……女性の腕とは、柔らかいものですね」
 バイオレッタにひしとしがみつかれながら、クロードはそんなことをつぶやいた。
「まるで荒んだ私の心を包み込むためにあるかのようだ……」
「……では、きっとクロード様の腕はわたくしを守るためにあるのでしょう。殿方の腕は力強くて頼もしいですもの」
 そこでクロードはほのかに笑う。
「ええ……」
 バイオレッタは、自らの両腕が彼をくるみこむ羽根にでもなったような気がした。
 こうしてくっついていると、酩酊したような不思議な心地がする。彼から離れたくないと思ってしまう。
 
(どうして? ただ抱きしめ合っているだけなのに、自分が今確かに生きていると感じる……)
 
 上着越しに感じるぬくもりは、まぎれもなく人間の男のそれである。どう考えても冷酷な魔物のものなどではなかった。
 クロードの身体はバイオレッタの体温などより遥かに熱く、触れ合っていると溶けてしまうのではないかと恐ろしくなった。
 漏れ聞こえる吐息と響く心音が、彼が今生きていることを如実に伝えてくる。それだけで、バイオレッタにはなぜだか無性に嬉しかった。
 もちろん、男性とこんなことをしているなんてと恥ずかしく思う気持ちもある。
 けれど、この抱擁は陳腐な恋物語などよりもよほど心を震わせた。
 
 バイオレッタはそこでふと泣きそうになった。
 荒んだ心ならいくらでも癒す。泣いていたら涙だってぬぐう。
 だから、もう――。
 
「姫?」
「いいえ……」
 
 ふるふるとかぶりを振って、バイオレッタは心の裡だけでそっとつぶやく。
 
(たとえあなたが何度道に迷っても、何度高みから落下しても……こうしてわたくしが抱き留める……。だから、いつでもこうしてわたくしのところに還ってきて……)
 
 瞳を閉ざしているバイオレッタの頬に、ふわりとクロードの唇が落ちる。
 視線を合わせた二人は、どちらからともなくいたわるような口づけを交わし合った。
「……貴女は将来、素晴らしい花におなりでしょうね。鮮やかな大輪の白薔薇か、はたまた薫り高く凄艶な白百合か……。開花する貴女を、私はずっとおそばで見守り続けたい」
 白銀の髪になぞらえてか、クロードは白い花の名を挙げてほんの少し未来のバイオレッタを誉めそやす。
 バイオレッタは小さく笑った。
「じゃあ、ずっとそうしていてほしいです。わたくしがこの国にいられるうちは、ずっと」
 クロードはそこでつと黙り込んでしまったが、ますます強くバイオレッタを抱きしめ返してくる。
 
「永遠」などというものはこの世のどこにもないというのに、二人はそんな甘いささやきを交わし、つがいの小鳥のように身を寄せ合った。
 
 

 

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