バイオレッタは、意気揚々と≪星の間≫からの帰路を急いでいた。
……今日は女王選抜試験の結果を聞きに、単身リュミエール宮へ足を運んだ。正式な場ではないので、筆頭侍女であるサラは連れてきていない。
今日は四人の王女たちの支持率が明らかになる日だった。官僚や領民がいかにその王女を推しているかがわかる日であり、『信頼』の項目においての優劣がはっきりする瞬間でもあった。
≪星の間≫で重鎮たちから結果報告をされたバイオレッタは飛び上がりそうになった。
思いがけず多くの票が入っていたからである。
女王選抜試験に際して父王から賜った領地、レベイユ。
かの地を統治する能力が認められ、バイオレッタは審議で高得点を叩き出していたのだ。
新しく地下水路を引く話や鉱石を売り込む話なども評価してもらい、魔導士の使い方に関しても適切だとの意見をもらって、バイオレッタは浮かれずにはいられなかった。
総合的な審議の結果、『信頼』という項目では他の三人を追い抜くほどの票が入ったわけだが、これも、ギードや民たちの協力があったからこそだ。
「本当によかった……、事前の実技試験は全然駄目だっただけに嬉しいわ。これならなんとかやっていけそう……」
バイオレッタはそう言って胸をなでおろした。
教師やサラの努力を無駄にしてしまうようでいたたまれないのだが、事前に受けた『武力』と『美貌』の実技試験に関してはどちらも結果はさほどよくはなかった。
武芸や教養に関しては端から諦めているし、上には上がいるものだ。この二項目に関してはオルタンシアやミュゲの方がどう考えても優れているし有利だろう。それを今更バイオレッタが覆せるわけもない。
異母妹のピヴォワンヌは『美貌』という項目ではミュゲに負けたものの、剣技では最も高得点だった。それもそのはずだ、彼女はこれまで必死で研鑽を積んできた少女剣士。いかな教師相手であろうとも簡単に負けはしない。
それがバイオレッタにしてみれば誇らしかった。本当に、彼女はかっこよくて自慢の妹だ……。
「わたくしもピヴォワンヌみたいな性格だったらよかったのに。あの子が本当に羨ましいわ。言いたいことをきちんと言えて、堂々としていて……おまけに殿方相手にも全く怯んだところを見せたりしないのだもの。ああいう女の子っていいわよね……」
色々思うところはあるが、ひとまずよい結果が出たようで何よりだ。
(アリサ、ルイ、レイカさん。それにギード。今日もわたくし、なんとか頑張っているわ)
レベイユの領民たちの顔を順番に脳裏に思い浮かべ、バイオレッタはふふふ、と笑い声を立てた。
審議において票を入れられるのは官僚と直轄地の領民だけだが、年若い官僚たちがこぞってミュゲを推したのには驚かされた。
(ミュゲ様、人気がおありなのね)
長年王宮で暮らしている分、支持する人間も多いということなのだろう。
剣技の試験ではなぜだか顔色が悪かったものの、教師相手に健闘する姿が美しいと感じた。翡翠色の双眸は強い光を帯び、まるで最高級のエメラルドのように燦然と輝いていた。
試験の最中に何度かよろめいてはいたものの、立派に最後まで戦い抜こうとする姿勢は驚嘆に値した。
ミュゲは性格こそおとなしいが、実際は大変な努力家なのだ。彼女の様子を見ていればわかる。
彼女はただ王女という立場にうつつを抜かしているだけのやわな姫ではない。
……それにしても、気がかりなのはオルタンシアだ。
もう長いこと昏睡状態が続いているうえ、王位継承者としての身分もこのままでは危ぶまれるという状況なのである。
このまま女王になる資格を失ってしまうようなことになったら、オルタンシアは嫌だろうと思われた。何といっても、彼女はこれまで一番よく頑張ってきた。剣術の腕を磨き、並み居る男性官僚たちに負けぬよう知識や教養を深めてきたのだ。
ギードはあれは形ばかりの剣術だといってあまりいい顔をしないが、それでもバイオレッタにしてみればすごいと感じるし、単純に羨ましくもある。
女性が剣を振るう姿というのは王宮にやってきて初めて目の当たりにしたが、ピヴォワンヌやオルタンシアが剣を扱っているのを見るのは大好きだった。爽快な感じがして快いからだ。
いつだったか、後宮にある鍛錬場でオルタンシアの稽古を偶然見てしまったことがある。
その日、鍛錬場から威勢のいい声が聞こえてくることに気づいたバイオレッタは、気づけばのろのろと建物の中へと入り込んでいた。
そこにいたのがオルタンシアだった。
彼女は愛用のレイピアを手に、剣術の教師らしき女性と対峙していた。
(まあ……すごい)
バイオレッタはしばしうっとりと彼女の雄姿を眺めていた。
女性の教師相手に猛然と立ち向かってゆく姿は、剣術にさほど詳しくないバイオレッタが見ても凛々しくかっこいいものだった。
紫陽花色の巻き毛を靡かせ、華麗な剣さばきで教師に技を繰り出してゆく彼女は、まるで戦女神か救世の聖女のように麗しかった。
乙女の肌から飛び散る汗を美しいと感じたのは生まれて初めてだった。
それだけではない。教師に注意を受けても怯まない姿勢、凛としたまっすぐな立ち姿。相手を見据える真剣な眼差しまで。
彼女の立ち居振る舞いのすべてに堂々とした気迫があって、バイオレッタは眼が逸らせなくなってしまったのである。
(わたくしも、こんな風になれたら……)
そう思いつつ、バイオレッタは身を乗り出して二人の稽古を眺めていた。
その時。
『――貴女』
そう呼びかけられ、バイオレッタはぎくりとした。
オルタンシアが稽古の腕を止めてこちらを見ていたからだ。
『……あら、やっぱり貴女ね。そんなところにいらしたの? 覗き見なんて随分趣味がいいのね』
『すみません……! 覗くつもりじゃなかったのです。ただ、偶然通りかかってしまっただけで。……あの、シャルロット王妃の鍛錬場でオルタンシア様が毎朝稽古をなさっているというのは本当だったのですね』
第二十一代目の王妃シャルロットは剣の稽古が好きだったようで、後宮の中に専用の鍛錬場を建てさせている。これまでにも剣術の好きなスフェーン王女たちはみなこぞってこの場所で鍛錬を積んできたのだそうだ。
未婚の王女が身体に傷を作るのは好ましくないので、置いてあるのは練習用の剣だが、オルタンシアは抜身のレイピアを携えていた。あの凄みのある戦いぶりからして、本気で剣術を究めようと思っているのかもしれなかった。
バイオレッタの異母妹であるピヴォワンヌも時折ここを利用することがある。
剣術の稽古は基本的に教師とともに居住棟の敷地内で行うことが多いものの、剣の達人であるオルタンシアやピヴォワンヌはそれでは練習した気にならないのだろう。
だが、オルタンシアはそんなことくらいまるで当然だとでもいうような顔をした。
レイピアの剣先を軽く薙ぐと、彼女はその先端をぐっと床に押し付けた。
『シャルロット王妃はわたくしの憧れよ。王に随伴して戦を鎮圧するなど、並の女ができる芸当ではないわ』
バイオレッタはそこでしどろもどろになった。シャルロット王妃のそうした偉業については何も知らなかったからだ。
『……なあに? 貴女まさか、そんな史実もご存知ないの?』
『あっ、あの……ええと……!』
オルタンシアはレイピアを鞘にしまうと、ふんと鼻を鳴らした。
『やっぱりにわか仕込みはにわか仕込みね。……本当に羨ましいわ、貴女みたいに好きなように生きられる子が』
そうしてどこか切羽詰まった顔で、彼女はバイオレッタに背を向けた。
あの時の苦しそうな横顔は、一体何を意味していたのか……。
とはいえ、自分の審議の結果がすこぶるよかったことについては浮かれずにはいられない。
バイオレッタは軽快な足取りでうきうきと回廊を進んだ。
外に抜ける扉に手をかけて勢いよく開き、王城の外へ足を踏み出す。
……と。
「姫。楽しそうな足取りですね」
はっとして動きを止める。
「クロード様。いらしたのですね」
……遊歩道の片隅――プラタナスの木陰に、黒衣の魔導士の姿があった。
最近、こうやって偶然クロードと出くわすことが増えた。
城ばかりでなく後宮の一角でもばったり対面することがあるので、今まで以上に身づくろいや化粧に気を配らねばならず、バイオレッタはここのところ常にコンパクトと紅を持ち歩くようになっていた。
クロードはゆっくりと歩み寄ってくると、バイオレッタの様子をじっとうかがう。
そしてやおらにっこりと微笑んだ。
「そのお顔では首尾は上々といったところでしょうか。ふふ……、貴女の足元に跪ける日も目前というわけですね」
なんという大胆な発言をするのかと、バイオレッタはその口元を手で覆う。
「く、クロード様、このようなところでそんなことをおっしゃってはいけません。誰が聞いているかわからないのですよ!?」
だが、クロードは一向に意に介さない様子だ。バイオレッタの手をそっと退け、頬にかかる黒髪を払うと、困ったように微苦笑する。
「私が票を入れられないのが残念でなりませんよ。恋い慕う貴女をぜひとも勝たせて差し上げたいのですが、今回の試験では魔導士は票を入れられない決まりになっていますからね。無力な男で申し訳ございません」
そのままクロードは音もなく距離を詰めてくる。
穏やかに見つめ合っていると、彼はふいににやりと笑った。
バイオレッタの腕を掴むと、肌を覆う手袋をするすると脱がせてしまう。
「な、何をして……!」
そもそも手袋というのは女性の性的魅力を際立たせるもので、時には男性たちの欲望を刺激することさえある重要な代物だ。
宮廷においては女性の手というものがそもそも特別な意味を持っている。
貴婦人の白魚のような手というのは、労働せずとも食べていける階級であることを示し、身分卑しからぬ名家の出であることを表す。
そして、そのふっくらとした柔らかさと小ささをもって、男性たちの衝動を駆り立てるのだ。
手袋はそれを一旦は抑圧するが、ひとたび外されたときには多大な威力を発揮する。
普段は隠されている白い素肌が露わになる瞬間というのはどの男性にとっても耐えがたい一瞬なのだという。
本来秘められるべき箇所がふいに暴かれる瞬間というのは、やはり胸躍るものなのだろう。
だが、バイオレッタはクロードをそうして駆り立てるつもりなどない。
そんな小道具を用いて誘惑するなどもってのほかだと思っているし、何よりクロードとはもっと自然な形で親密になりたいのだ。
(そんな変な目で見られるのなんか絶対に嫌……!!)
バイオレッタは急いで手袋を取り返そうとした。
「や、やめてください! 返して!」
「なんと美しい手だ……。宮廷の男たちが貴女を恋しがって夢想に耽るのも無理はありませんね。こんなにきめ細やかで綺麗な肌をしているのだから……」
「クロード様……っ」
彼の前で手を露わにしたのは初めてではない。
が、今日のドレスはいかんせん肌の露出が多いもので、手袋を外されると腕の大部分が露わになってしまう。
袖のたっぷりとしたドレスならば抵抗もなかっただろうが、今日に限っては妙に恥ずかしくて落ち着かない。
が、クロードは半ば蕩けたような顔つきで滔々と語り続ける。
「細く優雅な指先に、この艶やかな桜色の爪……。ああ……、どこを見ても可愛らしい形をしている。手のひらなどもしっとりとみずみずしくて……。いつもこの手で私を愛でてくださっているのだと思うと……たまらない……」
「……!」
まるでクロードに素肌をじっくりと検分されているようで、バイオレッタはすみれ色の瞳を潤ませる。
「て、手袋を、返してください……。わたくし、こういうのは嫌です。恥ずかしいのですもの……」
「……返して差し上げてもよろしいですよ。ただし、こちらをお借りします」
「……!」
あっという間に絡ませられた指先に、バイオレッタは赤面する。
クロードは細い指先に音を立ててキスした。一本ずつ順番にキスを落とし、手の甲に熱い舌を這わせることさえする。
「ちょ、ちょっと……、クロード様! 駄目です……!」
戯れにもほどがあると、バイオレッタは手を振りほどこうともがいた。
……その時。
「おお、そなたら、ここにおったのか」
「!」
今しがたバイオレッタが潜り抜けてきた扉の向こう――王城の内側から、リシャールが顔をのぞかせていた。
彼もまた午後の散策の途中だったようで、手にはステッキを持ち、装いも普段より幾分くだけたものにしている。
バイオレッタは慌てて手袋を取り返すと、さっと腕に嵌めた。
「お、お父様におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」
「よい、そのままで」
バイオレッタを手で遮り、リシャールはまるで舐めるように二人を見る。
「ほう……。これはまた随分と親しげに身を寄せ合っておるではないか」
またしても目ざとく指摘されたことに、バイオレッタは凍り付く。
「いつだったかエテ宮の回廊でもそのように仲睦まじく語らっておったな。ああ……そういえば、舞踏に興じていた夜もあったのだったか。僕はてっきり、クロードにダンスの指南でも頼んだのかと思っていたが、どうやら見当違いだったようだ」
リシャールは悠々と言い、扉を抜けて二人の方へ歩み寄ってきた。
こつこつというステッキの音が緊張を煽り、バイオレッタは思わずごくりと喉を鳴らす。
「……そなたらはとても息が合うようだな」
父王の言葉に、バイオレッタは慄いた。
「そ、そのような――」
「ふむ……、確かにそなたらはなかなかに似合いかもしれぬ。まるでそうしているのが当たり前であるかのような自然さだな」
ゆったりと近づいてきたリシャールは、バイオレッタの手前でぴたりと立ち止まった。
「……だが、バイオレッタ。僕はそなたにはしかるべき血統の相手をと思っておる。やっと見つけ出した愛娘にはしっかりとした男をあてがってやりたい。むろん、そなたが次期女王となるならば話は別だ。せいぜい好きな男を選んで入り婿とすればよかろう。だが、もし女王にならぬというのであればそれ相応の覚悟をせよ」
「……はい」
「国同士の結びつきを強めるために他国の高貴な男に嫁すのも王女の務め。よいか、肝に銘じておけ」
これはつまり、クロードと親密になりすぎるなという警告にほかならない。
張り詰めた空気に怯え、バイオレッタは沈黙した。
リシャールは再び散策に戻ろうとしたかのように思えたが……。
「……クロード、やる。持ってゆけ」
「!」
彼はぞんざいに言って古い鍵束を放ってよこした。
それはかすかな金属音を伴ってクロードの手の中に落ちる。
「……こちらは」
「エリザベスが愛した薔薇園の鍵だ。今は禁園となって久しいが、バイオレッタにはあそこの薔薇を見る権利があるだろうと思ってな。今度、気晴らしに連れて行ってやれ」
「……御意」
父王はそのまま遊歩道の先へ歩いて行ってしまった。
この先には薔薇後宮があるばかりだが、遊歩道にある小径を抜けさえすれば庭園や大聖堂などへも行くことができる。
オランジュリーや植物園などもあるから、そういった場所を見てまわるつもりなのかもしれない。
バイオレッタはリシャールの背が完全に遠ざかったところでクロードに訊ねた。
「クロード様。どういうことなのです? 薔薇園って……?」
「エリザベス様のお気に入りだった薔薇園があるのですよ。あの方が手ずから薔薇をお植えになった庭園で、その種類は数百種類にも上ります」
「お母様がそんなにたくさんの薔薇を……!?」
クロードはうなずいた。
「ええ。ご存命の間、毎日お世話をしていらっしゃいましたよ。時には陛下と一緒に土いじりをなさることも……」
「お父様も薔薇を育てていらしたのですか?」
「ええ。陛下には自らすすんで何かを育てる経験が必要だとおっしゃられて」
「……」
その言葉には一理あるかもしれないと、バイオレッタは考え込んだ。
恐らくリシャールにはこれまで何かを育んだ経験というのがほとんどないのだろう。
一般的な王族男性がそうであるように、欲しいと言ったものはなんでもじゅうぶんに与えられたのだろうし、着るものや食べるもの、住まう場所などに困ったこともないはずだ。
そもそもあの王太后という女性がそうした愛し方をしてきたのだろうと思われた。
極端な言い方をすれば、息子をどろどろに甘やかして支配するような愛し方をしてきたのだ。
(そんな関係で、お父様がのびのびできたはずがないわ。野に生きる獣がそうであるように、人とはどこまでも自由であるべきもの……。たとえ傷つくことになったとしても、自ら考えることを放棄していいわけがない……)
きっと王太后ヴィルヘルミーネはリシャールの自立を喜ばなかったのだ。
彼がわがままなのも、突然与えられる衝撃に弱いのも、すべてそれが原因なのではないだろうか。
だからこそ、人の裏切りや侮蔑に耐えきれないのかもしれない。王太后の愛が模範となっているがゆえに、目の前の人間はみな自分に好意的であるべきだと信じ込んでいるのかもしれない。
そして、そのことについて彼を正す者というのはいなかったのだろう。
急逝した母妃エリザベスは、そうした意味ではリシャールの新たな道標になっていたのかもしれない。
彼女は恐らく、もっと自由に生きてよいのだとリシャールに教え、人間らしいあり方やぬくもりといったものを彼に与えたのだろう。それを思えば、二人の絆の強さは計り知れない。
バイオレッタは遊歩道の向こうに視線をやり、切なげに眉根を寄せた。
「なんだか……色々と考えてしまうわ。お父様のこれまでを思うと……」
「……姫」
「お可哀想なお父様。いいえ、わたくしなどにこんな風に同情されるのは、あの方はきっとお嫌なのでしょうけれど……。わたくしにはなんだかとても……痛ましくて……」
大慌てで目元をぬぐい、バイオレッタはクロードの顔を見上げる。
「ごめんなさい。ちょっとしんみりしてしまいました」
すると、彼は複雑そうにバイオレッタを見つめ返した。
「……姫。私は……」
何事か言いかけて、彼はきつく唇を閉ざした。
「いえ、なんでもありません」
夏の終わりの風を受けて、プラタナスの葉がざあざあと揺れる。
遠方の空には入道雲が立ち込め、遊歩道のプラタナスの緑と相まってなんともいえず情緒的な光景になっている。
……蒼穹の青、夏木立の緑。揺れる陽炎。
まるで一幅の絵画を見ているかのようで、バイオレッタは瞳を細めた。
「……そうだわ……、薔薇園のお話をしていたのでしたわね。そこはお父様たちがお世話をしていらっしゃったのですよね?」
「ええ。今は禁園となっていますが、姫にはきっとご満足いただけることと思いますよ。何せ陛下は、今も変わらず庭師を入れ、丁寧に薔薇たちの世話をさせているほどですから」
クロードはおもむろにバイオレッタの後ろに回ると、その両肩に手を添えて穏やかに提案した。
「よろしければ早速明日にでもお連れしましょうか。貴女は薔薇がお好きでしょう?」
バイオレッタはクロードの手に自らの手のひらを重ね、彼を振り仰いで笑う。
「はい! 素敵ですわよね。香りも色も……、花弁の連なりまで。薔薇はまるで神様が作りたもうた芸術品だわ。誰にもあの美しさは模倣できないと思います」
「ふふ……。本当に姫は美しいものがお好きですね」
「ええ。華やかなものや綺麗なものを見ていると、まるで心がどこか別のところへ飛んでいくみたいで……幸せなんです」
劇場にいた頃はそうやって自分を慰めるしかなかった。
覚えたての文字で書物を読み、出てくる人物や土地に想いを馳せ、つかの間の解放感を味わう。
舞台袖から美男美女の役者を眺め、あんな風になりたい、あんな風に恋がしてみたいと胸を焦がす。
そんな風に夢想するのはもはやバイオレッタの身体に沁みついた癖のようなものだ。
そういった意味でも美しいものとバイオレッタはもはや切っても切り離せない関係にあるのだった。
「貴女のそんなところが好きだ……。夢見がちで純粋で……けれども芯が強くてしっかりしているところが……」
耳元でささやかれ、バイオレッタははにかむ。
「……そんな」
「いいえ。ほとんど本気でそう思っているのです。普段城で見かける貴女は気高さや高貴ささえ感じさせるお姿をしているのに、私といる時だけはまだ初々しい乙女といった風情で……。今だって、ほら、白い頬がまるで牡丹のように赤く染まって……、ああ、たまりません……!」
「もう、わたくしはそんな女の子ではありませんわ。そんな、絵に描いたような素晴らしい女性などでは――」
そう言って首を振ると、背後からきつく抱きすくめられる。
クロードは背に流れる白銀の髪をすくいとりながら、バイオレッタの後頭部に自らの頬を擦りつけた。
「いいえ……。貴女こそが私の探し求めていた女性だ。ああ……、バイオレッタ……」
「……」
『愛の神殿』で語らった日から、クロードはずっとこんな調子だ。
あの日以来、彼は狂おしげにバイオレッタを見つめることが増えた。
以前のように優しく愛でるような目つきはしておらず、その必死な様子はバイオレッタを怖気づかせるのにじゅうぶんだった。
今のクロードはどこか湿度のある独特の目つきをする。長いまつげの下から、まるで探るようにバイオレッタを見るのだ。
そのたびに、バイオレッタは自分が咎められているような気がして胸苦しくなってしまう。いけないことをしたわけでもないのに、大人に叱られている子供のようになんだか後ろめたい気分になってしまうのだ。
その瞳に今までのような柔らかな愛情が籠っていないことが、バイオレッタには少しばかり悲しかった。
とはいえ、ふとした拍子にその激情が露わになる程度で、特に何か恐ろしいことをされたわけでもない。
嫉妬は今までにも増してひどくなったが、恐らくそれも彼なりの愛情表現のつもりなのだろう。
……だが、ただこうして触れ合うだけで、バイオレッタは震えそうになる。
触れ合わせた箇所から彼への怯えや猜疑心といったものが溶け出してしまうのではないかと恐ろしくなってしまう。
どこかひんやりとしたクロードの瞳は、些細な嘘も虚飾もすべて見抜いてしまうかのようで、バイオレッタはとても平静でなどいられなかった。
……クロードを信頼していないことが悟られれば終わりだ。
なぜかそんな風に感じてしまって、近寄られるたびに身体が萎縮する。
一刻も早く解放されたいと願ってしまう。
彼はまだリシャールに臣籍降嫁の話をしていない。あんなに熱心に婚姻を迫ってきたにもかかわらず、それを実行に移したがっているようには見えない。
皮肉にも、バイオレッタはそのことに安堵すらしていた。
クロードのことを知りたいとずっと思っていた。彼と近づきたい、彼に愛されたいと願ってきた。
なのに、知れば知るほど恐ろしくなるのだ。
彼の領域に踏み込むたび、彼が知らない一面をのぞかせるたびに、バイオレッタは得も言われぬ恐怖を感じてしまう。
その優しい顔の裏側に、何か狂暴な感情が潜んでいるような気がしてしまうのだ。
クロードがただの柔弱な男性でないということはとうに知っているし、二人きりの時には激しく情熱的な顔になるということもよく理解しているつもりだ。
だが、今バイオレッタが怯えを感じているのはそういった部分に対してではなかった。
……絶対に逃すものかとでもいうように、腰や肩、背中に回される、クロードの熱い手のひら。
どこか絡みつくような愛の言葉に、恐ろしいほど真摯な黄金の双眸……。
そのすべてが、バイオレッタを追いつめようとする。目に見えない鎖でバイオレッタを繋ぎとめようとする。
彼の感情は単なる思慕の念から固執に変わっているのではないか。
そう感じてつい逃げ出したくなるのだ。
(だけど……どうしてなの? こうやって真剣に愛をささやかれるのが嫌だなんて)
自分は一体どうしてしまったのだろう。
ずっと誰かに必要とされ、心身ともに求められることを渇望していた。
おとぎ話や戯曲に出てくる少女たちのように、華やかで幸せな恋をしてみたいと願ってきた。
なのに。
(わたくし、こんなにわがままだった……? だって、クロード様はこんなにもわたくしを愛してくださっているじゃない……。なのに、どうして……どうして今更逃げ出したいだなんて思うの?)
バイオレッタはその得体のしれない恐怖に怯えていた。
一体なぜこんなにもクロードのことを恐ろしいと思うのだろう。
彼には責められるべき部分など微塵もなく、むしろ恋人としてはこの上なく理想的な男性ではないか。
なのに、一体なぜこんなおかしな矛盾を抱えてしまうのだろう?
幾度も自らにそう詰問してきたが、この問いかけには終わりがなかった。
そしてこれは、一人で考え込んだところでどうしようもない問題なのだろうとバイオレッタは思った。
クロードの視線や言葉には、確かに彼の愛があり、執着があり、欲望がある。
だが、それはクロードの感情のほんの一部分にすぎない。クロードはまだそのすべてをバイオレッタにさらけ出したわけではないのだから。
そう……明確な答えなど、所詮クロードの中にしかないのだ。
髪に頬ずりをしたまま、クロードは肩や腰に執拗に手を這わせてくる。
「……私を見て、姫」
バイオレッタはそこで、彼が自分を振り向かせるために身体のあちこちに触れていたのだと悟る。
もともと彼は恋人とは常にくっついてじゃれ合うのを好むようで、これまでにもこうやって無理やりクロードの方を向かせられたことが何度かあった。
だが、バイオレッタの心は前に比べると遥かに浮き立たなくなっていた。
クロードに触れられると、愛しさよりも恐ろしさの方が勝ってしまう。本能のどこかがしきりに警鐘を鳴らすのだ……、この男は危険だと。
ぼうっとしているバイオレッタに焦れたのか、そこで彼は静かに問うた。
「……最近の貴女は心ここにあらずといったご様子ですね。それはなぜですか?」
「いえ……、なんでもありませんわ」
「私にだけは隠し事をなさらないでくださいね……? そんなことをされてはあまりにも辛い」
「ええ……」
バイオレッタは従順なそぶりでそう答えながらも、密かに葛藤していた。
この複雑な感情を、一体どう言えばいいというのか。
あなたが怖いのだと……あなたから離れたくてしょうがなくなる時があるのだと、そう白状しろとでも言うのだろうか。
そんなことができるなら苦労しない。
バイオレッタだって、自分が一途に愛する男を疑うような真似はしたくない。そんなどうしようもない戯言を吐いて彼を苦しめるつもりは毛頭ないのだ。
(そうよ……、だってまだ何をされたわけでもないのだもの。疑うなんて、そんな……)
たとえその振る舞いや目つきが常軌を逸したものだとしても、バイオレッタはもう彼を受け入れると決めたのだ。
今更彼を突き放し、一人だけ自由になるわけにはいかない。
なぜなら彼もまたこの恋情の囚われ人なのだから――。
バイオレッタはそう自分に言い聞かせると、のろのろとクロードに向き直った。
彼はバイオレッタの瞳をじっと見つめていたが、次の瞬間いつものように柔らかな笑みを浮かべる。
「では、明日の午後に菫青棟までお迎えに上がります。執務が長引くかもしれませんが、必ず伺いますので」
「ええ……では、明日」
そう淑やかに返答しつつも、バイオレッタは不可思議な焦燥に駆られていた。