「……どうかなさいまして、シャヴァンヌ様?」
クロードは貴婦人のデコルテを愛撫していた指先をぴたりと止めた。
……深更のサロン。招待を受け、気乗りしないながらも顔を出したのだが、やはり来るべきではなかったと後悔した。
周囲には賭け事と恋愛遊戯に耽る男女たち。強い酒の香りと動物性の香水の芳香が混じりあい、得も言われぬ臭気を醸し出している。
堕落しきったスフェーン宮廷の様子をそっくりそのまま具現化したかのような、ひどく退廃的な光景だった。
クロードはその日、彼にしては珍しく酒を飲んでいた。半ば自棄になっていたこともあり、勧められた蒸留酒を少しだけ口にしたのだ。
したたかに酔ってよろめいた彼を、サロンの美女たちは放っておかなかった。
『まあ、お可哀想に。こちらへいらして?』
『わたくしたちが介抱して差し上げるわ』
そうしてクロードは彼女たちに代わる代わる世話をされた。
淑やかなバイオレッタとは異なり、彼女たちはけばけばしく着飾っていた。
爪紅を施した指先でクロードに触れ、時折誘うように笑ってキスをねだる。そこにあったのは強烈な違和感だった。
彼女たちはバイオレッタとは違う。彼女たちの美貌は、あの控えめな美しさとはかけ離れている。野に咲くすみれのような初々しさや気高さなど、そこにはかけらもない。
(……なんという下品さだ。場末の娼婦でもあるまいに)
そう思いつつも、クロードは微熱の余韻に任せてそのうちの一人をいざなった。
いつものようにソファーに押し倒し、愛の言葉をささやきながらドレスの紐を緩める。貴婦人の方もまんざらでもない様子でクロードの衣類を脱がせ始めた。
……ここまでは普段通りだった。あとはこのまま情事に持ち込めばいい。そう思っていた。
しかし、そこから先は微塵もうまくいかなかった。
脳裏をかすめる少女の幻影にどうしても心揺さぶられてしまい、手が全く動かなくなってしまったのだ。
もともとクロードは、組み敷いている貴婦人を愛するつもりなど全くなかった。
ついでに言えば、彼女の事情や、家柄や、夫の有無。そんなことにも興味はなかった。クロードの心にあったのは、ただ目的のために動くことだけだったからだ。
むろん、このような戯れでは一時しのぎにもならない。だが、得たい少女がいつまで経っても手中に収まらないという事実は、クロードの心をあっけなく駆り立てた。
そう、半ばバイオレッタへの当てつけのつもりで興じただけなのだ。自分の下でだらしなく微笑んでいるこの女になど、端から興味はなかった。
しかも、事を進めようとすればするほどバイオレッタの姿が鮮明に浮かび上がってきて、クロードは息をついた。
(……なんと哀れな男なのだ、私は)
ふっと笑うと、彼は上半身を退かして貴婦人を解放した。
「今夜はここまででやめにいたしませんか、マダム」
「……まあ。ここまでなさっておいて、今さらおやめになるというの? わたくしを散々その気にさせておいて……酷いわ」
「申し訳ございません。貴女とはまたいずれ……」
美しい貴婦人は首筋にクロードの口づけの痕を飾ったままソファーから起き上がり、意味深な笑みを浮かべて去っていった。
……やはり代わりにはならない、あのような女では。
この燃えるような狂おしさを鎮める慰めには到底ならないのだ。
興醒めしたクロードは、乱れた衣服を慣れた手つきで元に戻した。貴婦人の手によって大きくはだけられたシャツを直し、クラヴァットを結んでタイピンで固定する。上からジレとコートを羽織り、襟と袖の微細な乱れを手で直す。
最後に、ほどけていた長い黒髪を紫紺のリボンでまとめる。緩やかに首を振ると、漆黒の髪はさらさらと音を立てて背を滑り落ちていった。
緩慢な動きで立ち上がると、壁に飾られた巨大な掛け鏡の前まで歩いていき、その鏡面に己の姿を映す。純白の手袋をした手で、そっと鏡の表面を撫でる。
醜く歪んだ自分の顔つきに、思わずため息がこぼれた。
クロードは、女性たちの目に自分がどのように映るのかを常に熟知している。
どのように振る舞えばいいのか。どのような愛の言葉をささやけば、自分の望みどおりに事を運ぶことができるのか。
視線一つ、キス一つで女たちが恥じらって頬を染める……、その理由すらもあまさず理解していた。
なのに、愛しい少女は――あの姫は、クロードの思い通りにはなってくれない。
否、自分は彼女を巧みに導いているはずだ。彼女がこれまで知らなかった、恋の悦びという新たな世界へと。
そして彼女のほうもその感覚に酔い痴れていることは明らかだ。あの瞳を見ればわかる。あれはクロードに陶酔しきっている目だ。
だが、足りない。クロードの求めるものは、もっと深いところにあるのだ。
(貴女が、私の一部になってしまえばいいのに……。私にすべて融けてしまえばいいのに……)
他の男にいいようにされている姿を見たくない。
できることなら彼女をさらって、その身も心も堪能してみたい。ドレスの下に隠されたあの柔肌に思うさま触れてみたい。……全部、自分のものにしてしまいたい。
バイオレッタを自分に陶酔させたいと願いながらも、クロードは自分がいつの間にか彼女に耽溺していることに気づいた。
今のクロードはまぎれもなく溺れきっている。バイオレッタが欲しくてたまらなくなっている。
罠を仕掛けたつもりが、自分の方が絡めとられてしまっている。
……皮肉なことこの上なかった。
誰にでも優しく微笑むバイオレッタを見ているだけで、心が音を立てて軋む。何も知らない無垢な姿を、乱してやりたくなる。
強い独占欲と嫉妬心に、クロードは心身ともに引きちぎられる思いだった。
人は恋を純粋で清らかなものだと――聖なるものだと言う。だが、こんなふうに思ってしまっている以上、もはやこの恋慕の情は穢れてしまっているといえるだろう。
クロードは鏡面に添えた手を固く握りしめた。
「一体どうすれば、貴女は私だけの貴女になってくださるのです……! 愛しいお方……、バイオレッタ……!」
少しの口惜しさとともにこみ上げてくる、手に負えないほどの熱情。それはクロードの心を容赦なく灼いた。
もはやこの滾るような想いは抑えきれない。……ならば、いっそ。
呻いてから、クロードは鏡の中に映った己の双眸を睨み据えた。
***
朝、いつものように私室に届いた薄紫の封筒に、バイオレッタはつい浮かれてしまった。
紙面にはクロードの綺麗に整った字が並んでいる。
『今日の午後、一緒に庭園を散策いたしませんか?』
嬉しくなったバイオレッタは、金の文箱を取り出して早速返事を書く。
『喜んでご一緒させて頂きます』
そうしたためて侍女に託し、サラに見繕ってもらって薄いポンパドールピンクのドレスを用意させる。
クロードがピンクも似合うと言って褒めてくれるので、バイオレッタは苦手だったピンクが段々好きになっていた。
可愛らしい色のドレスやローブも悪くない、などと思ってしまう自分がいて、そんな発見すら新鮮だ。
化粧室から出てきたサラは女主人に声をかけた。
「バイオレッタ様、楽しそうですわね」
「ええ。とっても楽しいわ。散策のお誘いももちろん嬉しいのだけれど、クロード様は毎朝お手紙やお花を届けてくださるもの……」
うっとりとつぶやき、バイオレッタは化粧台の片隅に活けた紅薔薇を見つめた。
「……クロード様のお邸で咲いた薔薇なのですって」
私邸に招待された時はどうしようもなく幸せだった。
庭師を雇って薔薇園の管理をさせている話、朝早くに箱馬車で王城までやって来ているという話なども聞かせてくれ、さらに打ち解けられたようでたまらなく嬉しかった。
そのクロードの邸の薔薇が今自分の部屋に飾られていると思うと、バイオレッタはつい笑み崩れてしまう。
化粧台に肘をつくと、バイオレッタはビロードを思わせる花びらにそっと触れた。
「綺麗よね。クロード様はやっぱり素敵な方……」
「仲がよろしくていらっしゃいますのね。お幸せそうで羨ましいですわ」
にっこりと笑ったサラに、バイオレッタは複雑な表情で言う。
「……そんなことは、ないのよ」
「バイオレッタ様?」
(……誰にも話すことのできない恋が、こんなにも辛くて苦しいものだなんて思いもしなかった)
これは周囲には絶対に秘密にしておかなければならない恋だった。
彼は特に重用されている魔導士ではあるが、ただの臣下にすぎない。互いの行動ひとつでバランスが崩れてしまう可能性は十分にある。
事情をよく知っている菫青棟の侍女たちやクララは例外だとしても、王妃や王太后に知られれば何を言われるかわからない。
もちろん父王についても同じだ。
いつかの夜、散策中の父王に見つかったときは心臓が止まりそうになった。
あんなことがまた起これば終わりだ。絶対に関係を引き裂かれてしまうに決まっている。
そして、もう一つ。
(ピヴォワンヌ……。ごめんなさい)
ピヴォワンヌには絶対に話せない、と思う。彼女はクロードを嫌っている。これ以上二人の関係を悪化させるようなことはしたくないのだ。
だが、一番仲のいい彼女を欺いていることもまた事実で、バイオレッタは折につけとても苦しくなってしまう。
もちろん、自分が彼女とクロードの仲を取り持てれば一番いいのだが、二人の間の溝は深い。国王の命があったとはいえ、クロードがピヴォワンヌの心を傷つけたのは確かなのだ。
何より、あの二人は考え方やものの見方がまるで真逆なように思える。
ピヴォワンヌは、怒りたければ怒るし、悲しければ泣くという、いたって正直な少女だ。思いをさらけ出すことをそこまで恥ずかしがらず、誰に対してもストレートな物言いをすることを好む。思ったことをわりと素直に口に出してしまうのだ。
そんな彼女と違って、クロードの方は秘密主義だ。たとえ腹が立つようなことをされたとしても、彼は感情をすぐに表に出したりはしない。宮廷人たちの前では特にそうだ。事を荒立てぬよう、感情を徹底的に殺している節がある。
そういう意味でも、あの二人は理解し合うのが困難なのだろう。光と影のように、その気質はまるで正反対なのである。
バイオレッタは化粧台の上に飾った薔薇を見つめる。
(クロード様……)
……彼が自分を欲してくれているのは嬉しいし、それに応えられるものなら応えたい。
けれど、自分が王女であるという事実がいつもバイオレッタの枷になっている。
いっそもう帰れなくなるくらい遠くへ、クロードが連れ去ってくれたなら。
王女という身分も、王位継承者という称号も。すべてを棄て去ってしまえるくらい遠い所へ……。
(……考えても、仕方がないわね)
ため息をつくと、バイオレッタは物憂げな顔で化粧台に頬杖をついた。
***
午後、迎えに来てくれたクロードと二人で菫青棟を出た。
『はあ!? またそいつと出かけるの!?』
通りかかったピヴォワンヌはそう言ってかんかんに怒っていたが、なんとか彼女の制止を振り切ってきた。
(ごめんね、ピヴォワンヌ……!)
心の中で手を合わせていると、クロードが顔を覗き込んでくる。
「暑くはございませんか」
「ええ、日傘もありますから大丈夫です」
さりげなく日傘を取り上げて、クロードはバイオレッタに差しかけてくれた。日陰になる方へとバイオレッタを導き、穏やかに微笑む。
「今日は日差しが強いですので、どうぞこちらへ……」
「まあ、ありがとうございます」
「日焼けをなさっては大変です。せっかくの美しいお肌が赤くなってしまわれますよ」
細やかな気遣いが本当に嬉しくて、バイオレッタはおずおずとその腕をとった。
「……姫?」
「……腕を組んでも、いいですか」
「ああ……、そのような遠慮などなさらないで下さい。私の腕などでよろしければ、いつでも……」
差し出されたたくましい腕にそっと自らの両腕を巻き付け、バイオレッタははにかんだ。
「ずっとあなたとこんな風に歩いてみたかったのです」
ただの一時の恋物語だ。それはわかっている。いつか自分はきっと、この国を出ることになるから。
けれど、だからこそ今この瞬間を大事にしたかった。
きっと、いつか壊れるかもしれない関係だからこそ相手を大事にできるのだ。これがなんの不満も障害もない関係だったら、きっと自分はここまでクロードを大切に思えなかっただろう。だからきっと、これでいい――。
(隣にあなたがいてくれたこと。あなたの腕の温かさ。この夏の眩い日差しも。全部、忘れない……)
一旦後宮の中庭に出た二人は、中央にある時計塔をくぐり抜け、北に広がる人工池の方へと向かう。
しばらく遊歩道を進み、小さな入口から森の小径へと入る。
道は歩きやすいようにタイルでならしてあり、靴の踵の高さを気にする必要は全くなかった。周囲には背の低い木々が生い茂っていて、ルビーを思わせる赤い果実がたわわに実っている。夏に実をつけるベリーの樹だろう。
(きれい……!)
歩くたびにタイルが小気味よい音を立てるのもまた楽しく、バイオレッタはうきうきと歩を進める。
「こちらです」
木立を抜け、瀟洒な橋を渡り、明るく開けた場所に出る。
そこは密やかな庭園になっていた。
……丁寧に刈り込まれた糸杉の生垣。花壇ではケイトウとダリアが咲き競っている。
辺りには人工的に作られた小さな水路が張り巡らされ、その周囲には四季をモチーフにした天使像が行儀よく並んでいる。彼らは春夏秋冬の農作物を手に、つんと澄ました表情で庭を彩っていた。
と、そこでクロードは遠方にたたずむ四阿を差して言った。
「今日は暑いですね。あちらで少しやすみましょう」
クロードの提案に、バイオレッタはこくりとうなずいた。
彼はバイオレッタの手を引き、四阿の方へといざなう。
庭園の中央では巨大な噴水が水しぶきを上げている。噴き上げられた水は心地よい音を立てて水路の方へとなだれ落ちてゆく。その水音を聴いているだけで、うだるような夏の暑さが吹き飛んでしまうような気がした。
二人は水路の上にかけられた小さな石橋を渡り、さらに奥へと進んだ。
綺麗に整えられた庭園の中、涼しげな乳白色の建物があった。数本の円柱で囲まれ、周囲には冴え冴えとした緑の植物が絡んでいる。四阿というよりはドームといった方が正しいかもしれない。
中央には内側に水流を仕込んだ大理石のピアノが置かれており、終始さらさらと心地よいせせらぎの音が響き渡っていた。
四阿を見上げながら、クロードが丁寧に解説してくれる。
「第三十七代目の王妃マルグリット様が建てさせたものです。スフェーン宮廷ではこのような建物をパビリオンやガゼボと呼んでいます。雪花石膏を削り出して作られていることから、こちらは“白亜の四阿”と呼ばれることもあるのですよ」
「まあ、綺麗な建造物だわ……。リュミエール宮の純白の色使いとよく似ていますわね。まるで建物自体が輝いているよう……」
「別名を『愛の神殿』といいます。古代神話になぞらえて設計されました」
愛は遥か太古から変わらず神聖視され続けているものだ。人々はみな愛を神秘とし、「生命の起源」として崇め讃える。
(わたくしは今、そんな美しい感情に触れている。人の生命の素となる感情に身を焦がしている……)
そんな想いを味わわせてもらえるなんて、自分はなんて幸せなのだろう……。そう思いついてバイオレッタは瞳を潤ませた。
「姫。足元に気をつけてください」
四阿のわずかな段差にもクロードは注意を払い、バイオレッタを支えてくれる。
バイオレッタは微笑んだ。
「大丈夫ですわ、このくらい。甘やかさないでください」
「姫を甘やかすのは私の愉しみなのです。どうかお許しを」
彼らしい台詞に、バイオレッタはつい笑ってしまう。
(クロード様ったら……)
四阿の中に入るなり、バイオレッタは感嘆のため息を漏らした。
「まあ! 本当に中まで真っ白……。それに、雪花石膏って滑らかですのね。色も白く澄みわたっていて、とても優美な感じがします」
「彫刻も見事なのですよ」
言われて円柱の表面を見ると、本当に細かな彫刻がなされていて驚く。
「これは……」
「百合の花を抱える女神ヴァーテルだそうです」
「まあ。とっても精緻な彫刻だわ……」
クロードはそこで額の汗をぬぐい、バイオレッタに提案した。
「さて……。まずは一息入れましょうか。こちらの四阿は植物によって影が作られるためとても涼しいのです。どうぞお座りになって下さい」
「あ……、はい」
バイオレッタが四阿のチェアに浅く腰かけると、クロードは当然のように隣に腰を下ろした。
そうすることがまるで当たり前であるかのような気安さだったので、バイオレッタはうろたえる。
(クロード様は何かとこうしてくっつきたがるのだけれど……。わたくしはまだどうしても慣れないのよね……)
少しだけ距離を取ってもじもじと縮こまっていると、隣のクロードがため息をついた。
「……私とこうしているのはそんなにお嫌ですか? 思わず顔を背けたくなるほど?」
心底傷ついたような声でクロードは問いかける。
「……えっ」
悲痛な声色に思わず彼の顔を振り仰ぐと、頬に手を添えられた。
瞬く間にぐいと抱き寄せられ、強引にその腕の中に収められる。
「!」
「……またそのようなお可愛らしいお顔をなさって。ふふ……。わかりやすい姫……」
またしてもからかわれたのだと悟り、バイオレッタは声を張り上げた。
「も、もう! あんな声を出して気を引くなんて、クロード様ったら卑怯です!」
本当に落ち込んでしまったかと気をもんでしまったではないか。
「貴女は反応が新鮮で楽しいものですから、つい」
悪びれずに言うクロードに、バイオレッタはむっとする。
「つい、じゃありませんわ! わたくしが臆病なせいで、また何か傷つけてしまったかと心配してしまったではありませんか!」
「慣れていないなら慣らして差し上げますよ。ですから、もっと私に貴女の心を見せてください。私のことがお嫌いでないのなら」
「別に、クロード様御自身が嫌いというわけでは……。ただ、本当にまだ慣れないだけで」
「なるほど……、それなら安心いたしました。どうか私を拒絶なさらないでくださいね……? こう見えて、私は意外と繊細なのです」
バイオレッタがこくりとうなずくと、クロードはやっと彼女の身体を解放した。
「……わかっていますわ、クロード様。わたくしがいけないのです。本当はあなたのお気持ちにお応えしたいのに、勇気がなくて……」
バイオレッタはなんとか声を振り絞る。
「わたくしは、あなたを拒むつもりはありません。ただ、まだ少し恥ずかしくて。ごめんなさい……」
「よいのですよ。貴女のそんな初々しいお姿を拝見するのもまた一興です」
アルバ座での出会い。初めて目にした闇の魔術。
まるで秘め事のようなダンスに、庭園での口づけ、月光の下で語り合った夜のことも……。
バイオレッタにとってはどれも忘れられない思い出になっている。
「わたくし……、たとえ異国へ嫁いでもクロード様との思い出を大事にしますわ」
クロードはこちらに視線を向けたまま黙り込んだ。
「……あ、ごめんなさい。あの、こんな話題はお嫌ですわね」
「……貴女が女王におなりになるのなら、私は貴女をずっとそばでお支えし続けたい……。たとえ滑稽な男だと言われようが、かまいません。愛しい女性にずっとお仕えできるなら、私は迷わずその道を選ぶでしょう」
バイオレッタは途端に泣きそうになった。
女王になれずに異国へ嫁がされることが決まってしまえばクロードともお別れだ。
(……そんなの、いや)
想いを自覚した途端、不覚にも瞳に涙が滲む。
「姫。泣かないで下さい……」
目元に伸びてきた手に、バイオレッタは無理やり笑顔を作った。
……昏睡したオルタンシアをそのままに、試験は何事もなかったかのように再開された。
彼女が脱落した今、後に残っているのはミュゲ、バイオレッタ、ピヴォワンヌの三人だ。
その中でもミュゲは強敵といえた。官僚たちからの支持が圧倒的に多いのだ。
しかも、領地を治める能力も他の二人にけして引けを取っていない。王族としての意識が強い分、ミュエット領の統治は的確そのものだ。
「不義の子」などという蔑称もものともせず、彼女はよりよい結果が出せるように努力していた。
もうすぐ一度目の審議があるが、バイオレッタは絶対に不利になってしまうだろうと思われた。
(あんな風に宣戦布告されてしまったけれど……わたくしでは無理だわ。あんなに努力家な王女様になんて絶対に勝てない……)
もともとの信奉者も多いようで、宴のたびに彼女をダンスに誘おうとする青年は多かった。それだけ宮廷での支持率が高いのだろう。
シュザンヌ譲りの艶めいた美貌は、宮廷の男性たちの関心を惹きつけるにはじゅうぶんだった。
翡翠色の髪と瞳、白く透き通るような肌色に、折れそうに細く華奢な体つき。宮廷で立ち回るには、これだけでもかなり有利だろう。
それだけではない。彼女には常に余裕があって、宮廷人に言い寄られてもうまくあしらうことができるのだ。
扇の影で困ったように微笑し、それとなく相手の男を遠ざけるというのは、彼女が最も得意とする方法のようだった。
快楽に弱い貴婦人などは男性たちに誘われるとすぐにふらふらとついていってしまうようなところがあるが、ミュゲは違う。
けして波風を立てず、相手の機嫌も損ねずに、彼女はひどく巧妙に男性をあしらうのだった。
だが、バイオレッタは夜会の度に凍てついたような表情をしているミュゲのことが少しばかり気にかかってもいた。
宴のたび、広間の隅でひっそりと気配を殺している彼女を見ると、まるで昔の自分を見ているような妙な既視感を覚える。
おしゃべりもダンスもそこそこに、彼女はけだるげな顔つきでいつも何事か考え込んでいる。ソファーから踊る宮廷人たちを冷ややかに眺めたり、あるいは壁際にぽつりと立ちすくんでいたりする。
浮かれる宮廷人たちと一線を引き、自分には何も関わりがないとでも言いたげな顔をしているのだ。
ダンスに誘われても、彼女はあまり熱心に踊ろうとはしない。バイオレッタがふとその姿を探すと、いつの間にか広間から姿を消していたりもする。
しばらくすると何事もなかったかのように戻ってくるのだが、その顔がどこか蒼褪めているのが気がかりだった。
そんな彼女に対して、貴族の娘たちは狡猾だった。
「寝室に男を引っ張り込んでいる」「恋人に色目を使われた」などと噂をし、好き放題にミュゲを罵倒する。意中の青年貴族がみなミュゲの方に行ってしまうからだ。
その光景に、バイオレッタはいてもたってもいられなくなる。
(だって、ミュゲ様がそんな方なわけないもの)
一度真っ向から頬を張られたこともあるというのに、バイオレッタはどうしても彼女を嫌えなかった。
ミュゲはどこか自分と近いものを持っている。
いや、もしかしたら自分と同じような弱さだって抱えているのかもしれない。
なぜかそんな風に思ってしまうのだ。
(……それにしても、わたくしは本当にどうしようもない姫だわ)
女王選抜試験で競われるのは、『武力』、『美貌』、『信頼』の三要素だ。
『武力』では武芸の優劣や体力の有無を、『美貌』では美しさや身づくろいの完成度、品格や教養が身についているかどうかを競う。
一国を背負えるだけの健やかさがあって、なおかつ美貌と気品の身についている王女が女王には適任というわけだ。
この二項目だけは実技試験があり、日頃の鍛錬や学習の成果が試される場でもある。その場でほとんど能力の良しあしが決定されてしまうから、心してかからねばならない。
そして最後の『信頼』とは、すなわち臣下や領民からの支持率のことだ。審議までの期間に官僚や領地の代表者などに票を入れてもらうことで獲得できる要素である。
要するに少しでも彼らに期待されるような働きができれば有利ということだ。バイオレッタにしてみれば前述の二項目よりもこちらの方がまだ望みがあるといえた。
だが、この中でもバイオレッタは何一つとして誇れるものがない。剣術はいくら指南を受けても身につかないし、美貌だって普通だ。票だってもうさほどの数が入るとは思えない。
大昔にはその美しさで隣国の王を次々と虜にしていった女傑というのもいたようだが、そんなものはバイオレッタとは縁遠い話である。
今のバイオレッタは木偶も同然だった。
女王になれるような資質を持たず、何をさせても中途半端で、ただ日々をぼんやりと生きているだけだ。
だが、このままでいいのだろうか。
誇れるものが一つもない女王候補なんて、女王候補とは呼べないのではないだろうか……。
不安げな表情になっていたのか、クロードがぐいと肩を抱き寄せてくる。
「貴女に憂い顔は似合いませんよ、私の姫……。私といる時くらいは、普段通りの貴女でいて下さい。私は飾らない貴女が一番好きなのです」
「そう、ですわね……。ありがとうございます。わたくし……、どうしたらいいのか、もっと考えますわ。クロード様とずっと一緒にいられるように、少しでも努力します」
その言葉にクロードは口を閉ざす。そして何かを堪えるような顔つきでうつむいてしまった。
「今日のお召し物もお美しいですね」
そうクロードに褒められ、バイオレッタはそっとスカートの生地をつまむ。
「あ……、ええ。今日はポンパドールピンクにしてみましたの」
「……よくお似合いです」
クロードはそう言って瞳を細めた。
私邸に招待されて以来、バイオレッタは頻繁にピンクのドレスを着るようになった。
……甘すぎて、自分にはけして似合わないと思っていたピンク。しかし、クロードは初々しいと言って大袈裟なくらい褒めてくれるのだった。
初めてピンクのドレス姿を彼に見せたときのことを、バイオレッタは今でもはっきりと記憶していた。
『こ、子供っぽくありませんか?』
恥じらう彼女に、クロードはまるで社交辞令とは思えないほど大真面目な顔で言ったのだ。
『いいえ。大変お可愛らしいですよ、姫。まるで咲き初めの薔薇のようです。振る舞いの可憐な貴女にはとてもふさわしい色といえるでしょう』
クロードの言葉にたちまち舞い上がってしまい、それ以来ドレスの色をピンクにすることが多くなった。
公の場でも、私的な空間であっても。バイオレッタは迷わずピンクのドレスを選んで身につけた。
(……知らなかったわ。好きな男の人に褒められただけで、苦手だった色がたちまち好きになってしまうなんて)
クロードはいつもバイオレッタの魅力を引き出してくれる。
内気な性格は「奥ゆかしい」といい、自分の意見をきちんと言えないところなどは「相手の気持ちを慮っている」というように、すべて長所に置き換えてしまうのである。
巧みな褒め言葉に、バイオレッタは照れつつも嬉しくなってしまう。そんな風に褒めてもらうたび、自分のいいところにもっと磨きをかけようと思ってしまうのだ。
まるで砂糖菓子のように可憐なバイオレッタの装いを、クロードは心底喜び、愉しんでいるようだった。
そうやって誉めそやされるたび、バイオレッタは自分が彼のための愛玩人形にでもなってしまったような気がした。その腕に抱かれて愛おしげに髪を撫でられると、庇護されているような鑑賞されているような、不思議な気持ちになるからだ。
あるいは本当にお菓子になってしまったのかもしれない。クロードの目と舌を同時に悦ばせるデセールにでも作り変えられてしまったのかもしれない。
バイオレッタが彼からのキスを受けるたびに、クロードは満足げに吐息を漏らす。そして身体に回した腕の力をさらに強めるのだった。
バイオレッタは四阿のピアノを弾き、クロードと思うさまじゃれあいながら和やかな午後のひとときを満喫した。
水力仕掛けのピアノは音の響きがなんとも涼やかだった。指で鍵盤を押すたび、ひどく清らかな音色を周囲に響かせる。そしてその楽の音はこだまとなって四阿の天井に反響するのだった。
バイオレッタはしばしその音色に酔いしれた。
やがて背後からやってきたクロードがその手を取り、どこか拗ねたように悪戯をする。
鍵盤の上を滑るバイオレッタの手を追い、素早く絡めとる。
思わず動きの止まったその手のひらに自身の手を重ね、指先を挿し込んでぎゅっと握りしめる。その弾みでピアノが儚げな音を立てて鳴った。
肩口に顎を載せられ、甘えるように背後から頬ずりをされて、バイオレッタは幸福な笑い声を立てながら身をよじる。
「いや、いや……、もう……!」
「ふふ……、可愛い……。私の姫……」
クロードはそのまま彼女の顔を上向かせ、その薄紅色の唇にこの上なく優しい口づけを落とした。しっかりと腰を抱きながら、何度も何度も唇をついばむ。
繰り返される口づけに半ばぐったりしつつも、バイオレッタは彼にそっと微笑みかける。
「クロード様……」
どこか艶っぽいその呼びかけに、クロードがまたキスの雨を降らせる。
無邪気な接吻は二人が疲れ果てるまで際限なく続いた。